10.2 日本政府の文部省・文科省の教育は日本を世界に通用し得ない国にしてしまった
10.2 日本政府の文部省・文科省の教育は日本を世界に通用し得ない国にしてしまった
私はTVではBS放送による海外放送局の番組をよく見る。もちろん日本の放送局のも見る。その場合、よく見るのはどちらの場合もニュース番組だ。
そしてそれらを見る度に、ほとんどいつも次のことを感じてきた。海外各放送局が伝えるニュースの中での問題の捉え方と伝え方ないしは語り口は、たとえ日本がそれと同じものをピックアップして後追いで伝えるにしても、その日本の伝え方とは何かが違うな、と。
どう違うかというと、海外の人たちは———たとえばアメリカであれ、イギリスであれ、ヨーロッパの国々であれ、日本を除くアジアの人々であれ、中東の人々であれ———、私の見るところ、その時キャスターに語らせる文章は表には現れない編集部の人が多分書くのであろうが、それにしても、ほとんどどこの国の放送局のどのキャスターも、キャスター自身がどの問題に対しても広く関心を持っているだけではなく自分なりの考えを明確に持っていて、それを、決まり文句によるのではなく、自分の言葉で語っているのではないかと思われる、という点においてである。市井の人がその時、世の中で話題になっている問題について語る場合も同じだ。よほど言論の自由が抑圧されている国、あるいはしゃべることでその人に国家からの圧力や拘束が及ぶ可能性がある場合にはともかく、そうでない場合には、誰かが言っていたような言い方によるのではなく、そして誰はばかることなく、自分の言葉で自分に正直に語っている。起っているその問題についてメディアから尋ねられたときも、少なくとも笑って済ませたり、曖昧な答え方で済ませたり、情緒的に語ったり、他人事にしたりする、ということはない。必ず自分なりの考えを持って、それを答えるのだ。
政治的問題でも宗教的問題についても同じだ。それらについて自分の考えを語ることをタブー視したり、臆したりすることはない。むしろそれらを率直に語ることを当たり前とし、それは市民としての義務だと感じている風でさえある。そして自分の意見を言うその場合も、ほとんどつねにその問題の渦中にある人物の人権を思いやり、共感をも示す。しかし、批判すべきと自身が考える相手には、事実と推測の区別を明確にしながら、躊躇することなく批判する。
そしてものを語るときには、つねに自由と民主主義を土台に置いている。というより、それこそを大切にして日々を生きているといった感じだ。そのため、議論し合ったり、批判し合ったり、あるいは反論し合ったりすることを避けない。むしろ本音でそうすることこそが本当の意味で相手に敬意を払うことであり、互いに相手を理解し合うことに繋がり、それが結局は相互の信頼や絆を深めることになることだと考えているようにさえ見える。つまり、誰もが一様に言論の自由や表現の自由の権利を我が物にし、また相手も同様の権利を持っていると認め合っているのである。
それだからこそ、彼らは、困った問題や自分に不都合な問題が発覚したときには、それがなかったことにしたり、問題をうやむやにしたり、解決を先送りしたり、あるいは無関心を装ったりしてしまうことはしない。むしろそうした問題に真正面から立ち向かう。それがなかったことにしたり、問題をうやむやにしたりして、秩序とか協調性ということに気遣うより、とにかく問題をオープンにすること、事実を明らかにすることの方をつねに大切にする。すなわち透明性と公正性を大事にしながら、秩序よりも正義そして真実を優先する。
またそれだからこそ、そういう国では、首相も大統領も、まずは憲法を擁護し、法律を守り、そして「法の支配」を尊重する。日本の安倍晋三のように、自国の憲法を否定したり破壊したりはしない。「法の支配」、「民主主義」ということを口先だけにはしない。また国民は国民で、国の指導者が国民との約束を破ったなら、市民としてそれを決して許さない。自分たちの自由が侵されたり制限されたりし、人権が侵されたり、理不尽と感じることに対しては、敏感に反応し、直ちに行動へと出る。問題から目を背けたり、無関心を装ったりはしない。
そしてそのような時はほとんど決まって思いを共有する人々同士で連帯する。つまり共感を大切にする。またそうすることが、一人ひとり、社会共同体に対する自身の責任と義務でもあると感じている風でさえある。
こうして一人ひとりは、いつも、どこにいても、互いに共同体の中に生きているという意識を共有している。
だから、たとえば、誰かが理不尽な経緯で命を落としたときには、それを聞き知った者はすかさずその場にみんなで駆けつけ、その死を悼む。同時に、たとえば “私はあなたと共にある”と死者への連帯の意思を表示する。また、自分たちの親兄弟や祖父の関わった過去の忌まわしい歴史に対しても、それがたとえ100年経とうが、とくに欧州では、関係国どこも、その日を忘れずに、亡き犠牲者に黙祷を捧げ、歴史を記憶の中で引き継ごうとする。
それだけに彼らは社会への貢献にもきわめて積極的である。つまり社会の問題や世界の出来事に関心を持ち、それらをつねに自分の問題として引き寄せて捉えようとする。無関心を装うことはしない。
しかも、人々は、民族が違っても、人種が違っても、また社会的弱者であろうと社会的少数者であろうと、多様性こそが大事だとして認め合っている。誰もが、自由であることを何よりも大切にし、自分の生き方は、他者に流されずに自分で決めることが出来るとして、そのことを互いに大切にしている。決して干渉したりしないし、干渉されることも望まない。
また他者がある事で立派な功績を上げたりすると、第三者の判断や専門家の判断を待たずに、自分の判断だけで率直に賞賛の声を上げ、評価する。
自分の興味や関心の赴くところや方面にはたとえ一人であっても、また辺境の地であっても、異文化の世界であっても、躊躇なく飛び込んで行く。そしてそこでは自らの身体を通じて納得ゆくところまで試みようとする。そうした態度は科学の世界においても同様だ。一匹狼になることをまったく意に介さない。流行のテーマにはこだわらない。安全圏に身を置こうなどとも考えない。そして自分で納得行くまで挑戦する。
彼らは、そうした行動を、生きる意義を見出すためであるとし、自分自身の存在証明のためでもあるとしている。そしてそうした行動を周囲の人々もほとんど例外なく理解を示し、積極的に支援もする。その支援の姿勢はたとえば寄付や献金という形などで表わす。
それに彼らは歴史や文化をも大切にしている。自分たちの両親や祖先の生き方を評価し、尊敬してもいる。自分たちの育った街や村を誇りにし、またそれを心から愛してもいる。それゆえ、それを壊してしまう経済活動には大きな抵抗を示す。経済活動と、歴史や文化を大切にすることとは別だとしている。したがってたとえば、経済か環境か、という二者択一的態度はとらない。そして自分たちの周りの自然も大切にし、その中で自分たちの生活も大切にし、楽しんでもいる。つまり、自分たちの起源(ルーツ)を明確に捉え、アイデンティティを明確にし、その中で自分たちの文化を大切にし、またそれを育て、そこから物事を発想しては生きている。決して経済活動一辺倒の思考形態にはならない。
私は、TVに映る人々のそうした姿を見ていると、それが彼らの「人間」として生きようとする当たり前の行動様式になっているような気がするのである。そして実際、私は、それが人間としてのあるべき本来の姿なのではないか、とも思うのである。
では、ひるがえって、こうした彼らのあり方に対して、私たち日本人————ここで言う日本人とは、人種のことを言っているのではなく、あくまでも日本国籍を有する人、との意味である。それに、第一、もともと「日本人」などという人種は歴史的に存在しないのだ————の生き方や行動様式はどうであろう。
私は先に、この日本人の「ものの考え方」と「生き方」について、その中でも特徴的というより特異であり、そのようなものの考え方をし生き方をしていたならかえって自ら危機を招き寄せることになると私には思われる「ものの考え方」と「生き方」について述べて来た(5.1節)。
さらには、この日本人の「ものの考え方」と「生き方」という一般論的な見方に留まらず、もう少し限定して、いわば外に向って日本人を代表するような立場の人々の実態についても、私なりの見方を述べて来た。
たとえば、公的な場でものを言うことを仕事とする政治家(2.2〜2.4節)について。
広く人々に向ってものを書いたりすることを仕事とする知識人(6.4節)と政治ジャーナリスト(6.6節)について。そして公的な場で奉仕活動をすることを仕事とする官僚(2.5節)等々についてである。
そこから概して共通に見えてきた彼らの多くの姿は、本物の民主主義国あるいは先進国と呼ばれる国々で同じ種類の仕事に就いている人々とTVを通じて見比べてみても、やはり際立って違うということだった。
何が違うか。
先ずは、人はみな多様なのだ、自由なのだという意識を含めての人権意識が極めて乏しいことだ。自分というものがなく、個(人)として確立していないことだ。物事の価値に対する自分なりの評価の物差しを持っていないことだ。自分の信じていることを正直に口にする勇気においても極めて乏しい。いつもどこかの誰かの判断に依存して判断し、評価に依存して評価しているだけなのだ。つまり他者に追随することに平気なのだ。主体的に物事に関わろうとはしない。だから必然的に、自分がしていることや関わっていることに対する責任感も極めて乏しくなる。そして共感力や連帯力、そしてそれに基づく行動力も実践力も乏しい。他者が動くとそれにつられて動く。つまり自分の行動基準は自分の中にあるのではなく他者にある。それでいて、他者の存在、他者の行為、他者の権利を認める寛容性、他者を受け入れようとする受容性にも極めて乏しい。
そして日頃話題にすることと言えば、ほとんど決まって経済のこと・金のこと・損得のこと、あるいは人の噂話だったり、流行あるいは話題となっていることだったりする。何の目的で自分は生きているのかとか、人間としてどう生きるのか、とは考えない。自分のルーツとか、自分は今どこにいるのか、自分のアイデンティティーとは何か、ということにはほとんど関心を示さない。
だから、自身の生き方に自信を持てないし誇りも持てない。愛国心も持てない。
とにかくどれを取っても、こうした生き方や物の見方から見えてくる特徴と、それを特徴たらしめている動機は、ほとんどの場合、共通に、“みんながやっていることだから”というもの、あるいはその反対に、“あの人は変わっていると見られたくないから”であるように見える。だからどうしたって煽動されやすい。あるいは“他者に後ろ指を指されないように行動する”というものであるように私には見える。その人が自分で主体的に考え、判断し、決断し、その結果において行動しているわけではない。だから信念に基づいてやっている訳でもない。
ということは、周囲の状況によってどのようにでも行動の仕方を変え、態度を変えるということだ。特に、他者が見ている場合と見ていない場合とでは、極端に変える可能性がある。
実は、日本人の場合、特にこの傾向は強いようだ。とにかく他人が見ていればそれを気にして、一応、ルールや秩序に従うが、見ていなければ、あるいは外部からのチェックや監視の眼が入らなければ、極めて衝動的かつ気まぐれ、あるいは無軌道に動く。そしてその傾向は、個人でも組織あるいは集団でも同じだが、特に組織あるいは集団となると、集団心理と日本人固有の他者に煽動されやすいという特質が加わるためであろう、その振る舞い方は一層タチが悪くなる。実はその最も象徴的で最悪なのがこの国の中央省庁の官僚組織だと私は見る。
彼らは、法律を運用する立場にいながら、法律の弱点を知り尽くしているからなのであろう、法律は愚か憲法でさえ、平気で無視するのである(2.5節)。一人ではとてもそんな大それた事をする勇気はないのに、組織となると、みんなで止めどなく堕落し腐敗して行く傾向が強いのだ。つまり、自浄作用も自主的ブレーキもまったく利かなくなる。
とにかく、その辺を物の見事に言い表しているのがビートたけし氏の言葉だという“赤信号、みんなで渡れば怖くない”だ。
したがって、物事に向かう姿勢がこんな調子だから、自分のしていることに対して明確な責任感を持てるわけもない。だから、言い訳も巧みになる。
実際、ではこの国は世界とどれほど違うか。
世界では常識になっている民主主義を成り立たせている土台であるところの基本的人権の中での男女の平等の達成度を世界における男女平等の程度のランキングという観点で見てみよう。
2017年には、調査対象国144カ国中日本は114位だだった。
2019年には、総合では、153カ国中121位である。
それをもう少し細かく政治と経済の面で見ると、政治では144位。そのうち、国会議員の男女比では135位。閣僚の男女比では139位(「グローバル・ジェンダー・ギャップ指数」2019年版(世界経済フォーラム))という順位だ。日本の議会に占める女性議員の割合は10.1%で、世界順位は162位(出典はIPU列国議会同盟)。
経済では、115位。そのうち、勤労所得の男女比では108位。管理職の男女比では131位だ(出典は同上)。
要するに “人間は生まれながらにして自由で平等”と謳ったフランス人権宣言(1789年)から、230年余経っても、日本はこんな状態なのだ。この国は、未だ「近代」という時代にも至ってはいないのだ、と私が主張する根拠の一つである(1.4節)。
では子どもの人権についてはどうか。
子どもはどの国でも、その存在自体が「希望」なのである。それを受けて、国連が「子どもの人権条約」を定めたのは1989年。ところがこの国がそれを批准したのはその5年後の1994年である。その国際批准順位は、国連加盟国195カ国中、158番目である。
実際、この国では、子どもへの「虐待」や「イジメ」そして「自殺」は減るどころか年々ますます増えている————なお、以下に述べる内容は、そのほとんどが、結局はこの国の中央政府の一省庁でアル嘗ての文部省、そして今の文部科学省の、子供たちの特に「自由」と「平等」という基本的人権を無視し、集団主義の中で瑣末な校則を押し付け、一人ひとりの個性や能力を育てようとはせずに、画一的な枠の中で育てようとしてきた学校教育システムが結果としてもたらしてきたことだ、と私は考えるのである。前節の10.1節を参照————。
そのことでも日本はしょっちゅう国連からもOECDからも注意勧告を受けていて、国連の「子どもの権利委員会」は、日本では虐待を罰する法律さえ設けていないことを懸念し、政府に対策を求める勧告を公表してさえいる(2019年2月7日)。それどころか、驚くなかれ、この国の民法では、いまだに、明治政府が決めた、親の子に対する「懲戒権」、すなわち親が子を懲らしめることのできる権利を認め続けてさえいる(第822条)のだ。
国としてこんなに恥ずかしい状態であるのに、たとえば、小泉純一郎などは、首相当時、身の程も弁えず、国連の常任理事国になろうとさえしたのである。
なお、これは世界のデータがないので国際比較はできないが———というよりこれは日本固有の現象なので、世界的データなどあるはずはない、と言えるのではないか———、「引きこもり」と「不登校」についても触れておく。
今日、いわゆる「引きこもり」と呼ばれる人々の数も推計で100万人を超えると見られている。その内、15〜39歳までの引きこもりが54万1000人、40〜64歳の中高年が61万3000人とされていて、その7割以上が男性だ(2019年3月内閣府発表)。
一方、不登校の数は、「隠れ不登校」の生徒数も含めるとおよそ44万人に達しているとされるのである(2019年5月30日NHKスペシャル シリーズ 子どもの声なき声(2)「“不登校”44万人の衝撃」)。国の総人口に対してこれだけの割合で引きこもりや不登校がいるという国も、多分世界にはないのではないか。と言うより、そもそも引きこもりという現象自体、日本固有の現象なのではないか。
そしてこうした事実は、日本は国連に加盟していながら、国連憲章が冒頭に掲げる「基本的人権と人間の尊厳および価値と男女および大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、・・・」という70余年も前に明らかにした、世界が共有している考え方や精神を未だに共有もできなければ満足に守れてもいないということを証明しているのである。
当然ながら日本固有の、文科省による悪しき教育システムは、若者や子どもたちからは自由な思考とか創造性あるいは独創性を奪い、はつらつさを失わせている。決まりきった思考やみんなが考えそうなことしか考えなくさせている。それはこの国全体を硬直化させ、活力を失わせ、ますます世界から後れをとる国、世界には通用し得ない国にさせてしまうことだ。もちろんそれは同時に、この国の将来をますます危険に陥らせてしまうことでもある。
それがはっきりと眼に見える形で現れているのがこの国の経済力の相対的落ち込みだ。
一国の経済力を表わす指標とされて来たGDP(国内総生産)にはっきりそれが現れているのである。
1997年実績から2018年までの名目GDP (国際総生産)の世界の上位30カ国の成長の推移は30位だ。それもその他の29カ国すべての伸びの推移はどこの国も最低でも1997年比で61.2%なのに、日本だけは何と2.8%だ(IMFの2019年10月時点での統計。2019年11月17日号 [しんぶん赤旗日曜版]より)。
考えてみれば、日本が、1980年代、「ジャパン アズ ナンバーワン」などと呼ばれ、アメリカに次ぐ世界第2位の「超経済大国」になり得たのも、それの真似をし、改良していさえすれば良かった先行モデルがあったからだ。日本人の、とくに政府の経済関係省庁の官僚の独創性や能力がもたらしたものでは断じてない。強いて言えば、大蔵省を中心として通産省と建設省(共に当時)、その他の府省庁の官僚が国民の利益と福祉を二の次にして、本来の自由主義市場経済という資本主義経済の原則を守らず、自分たち府省庁を頂点とする「業界」と「系列」という仕組みを巧妙につくって来た結果なのだ。
毎年、国連が発表している世界の「幸福度」ランキングにも日本はもはや世界に通用し得ない国になってしまったことがはっきりと現れている。
2019年度は、1位がフィンランド、2位がデンマーク、3位がノルウエー、4位アイスランド、5位オランダ、6位スイス、7位スエーデン、10位オーストリアと続く。そして日本は58位だった。それは主要7カ国(G7)中、最下位。
2013年には43位だったものが、ほぼ毎年順位を下げ、2019年はこの結果だ。
なお、この幸福度を測る項目は6つあって、GDP、健康寿命、腐敗のなさ、社会の自由度、他者への寛大さ、そして社会的支援の度合いについて、である。
日本政府のこうした、世界が定めた約束事、あるいは世界で共有することにした価値を無視あるいは軽視する姿勢は、男女間や子どもの人権問題に限らない。
たとえば、9月2日を日本が公式に無条件敗戦を認めた日だということを国民に向けて公式に認めようとはしないで、つまり9月2日を「敗戦記念日」とはせずに、相変わらず8月15日を「終戦記念日」と言っては国民を騙し続けている姿勢もその1つだ。
当時の日本政府がポツダム宣言を無条件に受け入れたからこそ、終戦日が確定して、北海道がソ連の統治下に置かれるような事態にまでならなくて済んだのにも拘らず、その政府の今のトップ安倍晋三が、「ポツダム宣言はつまびらかに読んだことはない」とシャーシャーと言う姿勢もその1つだ。
議長国として京都議定書をまとめておきながら、その対世界公約を自ら破った姿勢もそうだ。
パリ協定を批准しておきながら、そこで決まった2050年には温室効果ガス排出を事実上ゼロにするというカナメになる国際的約束事に対しても、2030年にも依然として火力発電の全電源に占める割合を56%にするなどといった「エネルギー基本計画」を経済産業省の官僚が作ったそれをそのまま閣議決定する日本政府の姿勢もそれだ。
さらに言えば、これは先ほど触れたことと関連することであるが、この国は表向きは資本主義で民主主義の国とされてはいるが、日本政府のやっていることの実態は、この国は本来の資本主義の国でもなければ民主主儀の国でもない、というのもそれだ(1.4節)。
そして、文部省と文科省が、政府の一省庁でありながら、自国を世界に通用し得なくしてしまったもう一つの実際例も、どうしても挙げておかねばならない。
日本が経済超大国にのし上がり、実際、そう呼ばれたのは1980年代の特に後半である。
1960年代からはすでにアジア諸国からは注目される経済発展を「所得倍増計画」の下で始めていた。
1991年、バブル崩壊によって、それ以後は経済「超」大国ではなくなったが、それでも一応は経済大国と呼ばれ、またこの国の政府もそれをもって任じてきた。
経済大国、それは経済を通じて世界に大きな影響をもたらしている国、ということだ。
では外交面で、それも特に人権外交の面で、経済大国と呼ばれるにふさわしい貢献を世界にして来たと言えるだろうか。
私の答えは全くの「ノー!」だ。日本政府は、この場合も、一度としてそれができた試しはない。
むしろ、経済大国として日本は何かをしてくれるであろうと期待する当事国にとって、ここぞという時、そして同じ理由で日本に期待する世界は、むしろ失望させられてきた。そして世界には、“いったい日本は何を重視する国なのか、何をしたいとしている国なのか判らない”とさえ思わせて来てしまった。
その失望感とは、日本について、日本国民を代表する日本政府の次のような姿を目撃した時だ。
言うべき相手に、言うべきことは判っているはずなのに、“内政干渉になるから”という言い訳の下に、いつもどっちつかずの、あるいは相手に対して当たり障りのない言辞だけを並べて済ませてしまい、「ノー!」、即ち、“それはしてはならない、こうすべきだ”とは明確に言えなければ、要求も批判も明確にできない日本政府の不甲斐ない姿を見た時。同じことだが、総理大臣と閣僚の人権意識そのものが余りに低いために、迫害に遭っている当事国の市民に共感も示し得なければ、彼らの人権を擁護しようとする意識も余りに欠如している政府の姿を見た時。また、自国独自の理念や判断の物差しそして価値基準を持ち得ず、経済的軍事的超大国に追従するばかりで、主権国としての矜持も持ち得ない日本政府の姿を見た時。
要するに、普段は“自由と民主主義は人類の普遍的価値だ”などと口にしながら————特に安倍晋三がそうだ————、そういう時になると、言うべき相手は判っているのに、言うべきことを毅然とした態度で言えない、勇気も人権意識も共感力もない日本政府の姿を見た時である。
では、その“ここぞ”というのは例えばどんな時か。
一党独裁を強める鄧小平の中国共産党政権が天安門事件を起こし、何千人もの学生と市民を虐殺した時。カンボジアのポルポト政権が何百万人もの自国民を大量虐殺した時。ロシアのプーチン政権が反対勢力のリーダーやジャーナリストを暗殺したり毒殺を謀ったりした時。習近平中国共産党政権が新疆ウイグル地区の民族を300万人以上、強制収容所に押し込めて自由を奪っては、漢民族(中華)思想と言語を押付けたりしては同化政策あるいは浄化政策を進めると共に、共産党への礼讃と支持を強要している今日この時。同じく習近平が、台湾の自治を無視して力で併合しようとしていたり、英国との「50年間」との約束を破り、「一国二制度」の原則を破って、香港市民の言論の自由を奪い、迫害している今日この時。同じく習近平中国共産党が、国際法を無視して、自国の都合・意思・要求をごり押し、力で領土拡大を図ろうとしている今日この時、である。
なおこれは間接的外交とでもいうべきものであるが、「難民」に対する日本政府(法務省)の対応についても全く同様のことが言える。
生命の危険を避け、迫害から逃れて、外国に保護を求めて、国籍を持つ国の外に移り住もうとするいわゆる「難民」を、難民として認定する日本政府の基準が国連のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民認定指針よりはるかに高く設定されていることと、その上、認定手続きが公正かつ適性に行われているか否かを判断する基準も曖昧だし、それが実際には適正に行われているかどうかも怪しいという状態の中で、日本が難民と認定した人の数はこれまでに合計、たったの44人、認定率は実に0.4%という実態に対してである。
参考までに記せば、ドイツは53,973人(25.9%)、米国は44,614人(29.6%)、フランスは30,051人(18.5%)、カナダは27,168人(55.7%)、英国は16,516人(46.2%)。
カッコ内数字は認定率(出典はUNHCR Refugee Data Finder、法務省発表資料)。
政治家と言われる者、法を運用する公僕とされる役人を含めて、私たち日本国民の大多数が、世界が「人類の普遍的価値」として共有する「自由と民主主義」を未だ血肉とし得ず、したがってその価値観に基づく言動も未だできずに、こうなるのも、つまる所、私は、文部省と文科省のこれまで述べてきた明治期以来の、その中身は近代にも至ってはいないと言える、国民の覚醒を怖れた学校教育がもたらしたものである、と確信するのである。
その学校教育とは、「自由」と「平等」を含む人権とその価値の尊さを教えない教育。言論や発言の自由、そして民主主義の価値を教えない教育。正義が行われることよりもむしろ、秩序を守らせ、校則を押し付けるばかりの抑圧的教育。和だとか協調性、あるいは道徳を強制するばかりで、個々人の個性や能力を育てることと、互いの異なる個性や能力を認め合うことの大切さを教えない教育、等々のことである。
本節の最後として、日本人とノーベル賞ということについても、私なりに考えておこうと思う。少し長いが、日本の科学技術の世界的レベルの今後のありようを見通す上でも参考になるのではないか、と私は思うのである。
最近、日本は、科学技術立国の危機ということに関連して、「日本人はもうノーベル賞を獲れない」ということがしきりと国内外のメディアでも取り上げられるようになった(週間ダイヤモンド 2018年 12月8日号、Newsweek2020年10月20日号)。ただしここで言うノーベル賞は、自然科学分野や医学分野でのものについてであって、平和賞や経済学賞は除いての話である。
研究者自身の間でもそう見られ、そうささやかれるようになった主たる理由は、どうやら、この国の政府は、大学等の公的研究機関に対して、研究費、とくに基礎分野への研究費を大幅に削減しているからだというものだ。その結果として、研究者は雑務に追われて、本来の研究に集中する時間がなかなか獲れず、日本から発表される論文数が急速に減っているのだ、という。
確かに、本来高度の教育と同時に研究を果たす役割を負っている大学を、利益を上げることを至上とする企業内での経営法と同様に独立採算制の法人とすること自体、文科省の官僚およびその彼らにただ追随するしか能のない文科相の教育と研究の何たるかがさっぱり判ってはいない浅はかさと愚かさを証明する何ものでもないとは言える。それに、今日の研究は、紙と鉛筆だけでもかなりのところまではやれるというような時代ではなくなり、どの分野でも、実験装置にしても観測装置にしても巨額の費用を必要とするようになっているから、研究費が削られることは研究者・科学者にとっては研究遂行上、大きな痛手となっていることも事実ではあろう。
しかし、私は、今日のこの国についてみるとき、「日本人はもうノーベル賞を獲れなくなる」理由としては、研究費が削られるという問題もさることながら、それ以上にもっと本質的な問題がそこにはあるように思う。それはノーベル賞を獲る獲らないの問題ではなく、広く科学技術に向き合う以前の問題がそこにはある、と思うからである。
それはどういうことか。
今の子どもたちはもちろん若者たちは、小さいとき、どれだけ自然の中で過ごし、どれだけ自然を相手に遊んで育って来ているだろうか、ということに関連している。
かつてノーベル賞を獲って来たような人たちは、その多くが、幼少期から自然の中で遊び、自然をよく見、その一方では、多くの文学や音楽等芸術あるいは芸能にも親しみ、知的裾野を広くして来た人たちのように見受けられる。実際、時代も、そういう風潮だった。たとえば湯川秀樹博士や朝永振一郎博士の著作を読むと、つくづくそう思うのである。
そうした人たちは、必然的に、自然を含めて、ものを見る目は広く、また深くもなる。また一人そうした分野で自分なりの思索を続けてくると、想像力も広がるし、批判力もつくし、辛抱強くもなり、孤独にも強くなる。ノーベル賞を取るような人たちは、そうした視野を持ちながら、孤独な中にありながらもそれに耐えて、知的好奇心を持ち続けて研究に没頭して来た人たちなのではないか、と私は推測するのである。
では、今の若者たち———そこには若い研究者たちも含む———は、そうした土台づくりをどれだけしているだろうか。また今の文科省による学校教育は、小学校の時から、児童生徒一人ひとりに、どれだけそうした広い視野が身につく教育を、人間として豊かになる教育をしてきたと言えるだろうか。既述のとおり、かつて一度でもして来たことがなかった。むしろ、画一と従順を求めるその教育は、個々人からますます精神の自由を奪い、各々がせっかく持って生まれていたであろう潜在的能力を芽生えさせるどころか、その前に殺してしまうようなカリキュラム内容であり教育システムだったのではないか。
私は、実はこのことこそが、「日本人はもうノーベル賞を獲れなくなる」どころか、日本の科学技術力をどんどん押し下げ、科学技術で国を立てて行くことなどいよいよ困難にさせている根本的な理由なのではないか、と考えるのである。
つまりこうした自然体験や文学芸術体験が乏しく、自由で伸び伸びとした精神の下での幅広い教養が身についていなかったなら————なおここで明確にしておかねばならないことは、教養と知識を身につけることとは違う、ということである————、あるいは確かな倫理観と人道の精神が身についていなかったなら、たとえどんなに知的好奇心が旺盛であっても、またどんなに潤沢な研究費があてがわれ、高価な研究装置や観測システムが備えられようとも、そしてその結果として、たとえ自分ではどれほど画期的な成果と思える結果が得られたとしても、それだけでは却って次のような事態を招いてしまうのではないか、とさえ私は危惧するのだ。
それは、その時、名声を博することに囚われてしまったり、また功利的に走ってしまったりするばかりで、その成果が本当に人類の幸福と進歩に貢献しうるものかどうかとの理性的判断もできなくなり、却って人類の将来を危険に陥れてしまいやしないか、と。
科学というより技術あるいは工学の歴史におけるその象徴的代表例が原爆開発でありゲノム編集ではないか、と私は考える。
前者については、もう原爆は必要ではなくなったと判明しても開発し続けて開発し、しかも実験成功によってその威力はすでに十分に確かめられていたのに、あえて日本に投下して、アメリカの軍事力の絶対的優位性を世界に知らしめたのだ。でも、それもすぐにソ連に追いつかれた。そしてその原爆と水爆を持つことで米ソ冷戦が始まり、今、その核を持つ北朝鮮が世界の脅威となっている。
後者については、自分自身が自然から生み出された生命であるにも拘らず、その自分とは何者か、どこからきたのかを知ろうとはせずに、自然界には存在しうることの決してない生命をその時の自身の知的好奇心だけに基づいて生み出しては、自然界の生命秩序を取り返しのつかないまでに撹乱してしまいかねない技術だからだ。
そこで、私は、学校教育の内容と質こそが、ノーベル賞に限らず、個人の能力向上と国力等の向上のすべての面に決定的な影響をもたらすものであるということを明らかにするために、ノーベル賞受賞個数を例にとって、ここでも私なりに考察してみようと思う。
そこで、予め、世界の主要国の1901年から2018年までのノーベル賞受賞総数を各国別に確認しておく。
ただし、ここでは物理学賞、化学賞、医学・生理学賞と経済学賞のみを対象とし、文学賞と平和賞は除く。またロシアについては、旧ソ連の時の受賞個数も含める。
次表は各国別の2018年末までの実際の受賞総数である。
米 |
英 |
独 |
仏 |
スエーデン |
スイス |
日本 |
ロシア |
オランダ |
イタリア |
カナダ |
|||
316 |
88 |
70 |
34 |
19 |
16 |
22 |
15 |
16 |
7 |
11 |
9 |
9 |
7 |
ベルギー |
ノルウエー |
オーストラリア |
スペイン |
アルゼンチン |
インド |
エジプト |
中国 |
その他 |
|||||
6 |
6 |
6 |
1 |
1 |
1 |
3 |
2 |
1 |
0 |
1 |
2 |
1 |
8 |
ここで上表を次のような仮定の下に、換算する。もし、上記表中のどの受賞国も、人口がみな日本と同じであったとしたら、その場合、各国別受賞総数はどう変化するであろうか、と。
そのようにして上記表を表現し直したものが次のものである。
ただし、その際採用した各国の人口は2018年時点でのものである。
また、個数を表す数字がゴシック体で表示されている国は、2018年現在、EUに加盟している国である。
米 |
英 |
独 |
仏 |
スエーデン |
スイス |
日本 |
ロシア |
オランダ |
イタリア |
カナダ |
|||
121 |
167 |
109 |
66 |
239 |
236 |
22 |
13 |
118 |
15 |
37 |
197 |
131 |
104 |
ベルギー |
ノルウエー |
オーストラリア |
スペイン |
アルゼンチン |
インド |
エジプト |
中国 |
その他 |
|||||
66 |
140 |
30 |
2 |
3 |
26 |
8 |
0 |
1 |
0 |
0 |
26 |
23 |
|
実際の受賞総数を示す元の表とこの換算表とを見比べたとき、果して私たち日本人にそれらは何を教えてくれているだろうか。
まず直ちに言えることは、日本の「国としての」ノーベル賞受賞総数は、元の表ではすべての受賞国の中で上から五番目であったのに対して、換算後では、下から数えた方が早い順位の総数となる、ということだ。
そして、実際の受賞総数ではそれほど目立たなかった国々が、換算後は、そのほとんどが、受賞総数において日本を追い抜き、一躍際立つようになっている、ということだ。
そしてそうした国々のほとんどは北欧の国々でもあるということである。
たとえばドイツ、スエーデン、スイス、オランダ、デンマーク、オーストリア、ベルギー、ノルウエー、アイルランド、ハンガリー、フィンランドだ。そしてイスラエルも顕著に増えている。
増えはするが同じ桁数の範囲に留まっているのは、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアといった国々だ。
その反面、大国といわれて来たアメリカ、ロシア、中国そしてインドは、軒並みその数を減らしている。
では、ここで一躍際立ってくる国々というのは、概してどういう国、どういう特徴を持っている国と言えるのだろうか。
先ず、ほとんどがいわゆる「環境先進国」だ。
そして「福祉先進国」であることも知られている。それは既述した世界の「幸福度」ランキングに明らかだ。
このことは、それらの国々は、「人間」あるいは「人権」を大切にしている国だということでもある。それはすなわち人間の多様性を尊重している国でもあるということだ。
さらにこれらの国々は、概して、自分たちのアイデンティティをしっかりと持ち、しかもオープン・マインド、その上歴史と文化を大切にしながら、その時々の経済的風潮には流されず、個性に溢れ、景観や風景、そして伝統を大切にした都市づくりや農村づくりを主体的に進めて来ている人々の国でもある、ということだ。
それは、一度でもこうした国々のいずれかでも旅したことのある日本人だったら、そのことに気付き、感動させられた記憶があるのではないだろうか。
そしてさらに注目したいのは、それらの多くの国々は、共に、過去の大戦からしっかりと教訓を引き出し、その教訓に基づき、経済統合を果たし、さらには政治統合をもめざすという世界史でも前例のない道を、これも世界に先駆けて挑戦している人々の国でもあるということである。
つまり、それらの国々は、おしなべて、人間として生きて行く上で本当に大切にしなくてはならないものは、お金や損得勘定ではない何かを、人真似ではなく、つねに一人ひとりが自分の頭で考え行動して来たし、今も行動している人々の国なのではないか、ということである。
そこで私は思う。換算表において、ノーベル賞受賞個数が際立って多くなっているというのは、決して偶然ではなく、こうした生き方をし、またそれができる人々だからなのではないか、と。
そしてその生き方をもたらしているものこそ、実はそれらの国々の教育のあり方なのではないか、と私は考えるのである。
たとえばそれをOECD(経済協力開発機構)が実施している世界的な子どもの学力テストPISA(生徒の学習到達度調査)で幾度も世界第1位を獲得しているフィンランドの教育法について見てみれば判る。
以下は、小林朝夫著「フィンランド式教育法」青春出版社と、庄井良信・中嶋博著「フィンランドに学ぶ教育と学力」明石書店に拠る。
まず気づくことは、フィンランドには日本で言ういわゆる「学習塾」はない。同じ年齢の日本の子どもと比較して、フィンランドの子どもは400時間も学習時間が少ない。
それだけ、フィンランドの子どもは、日本の子どもたちと比べて、400時間も多く、友達と一緒に外で遊んだり、親と過ごしたり、自然の中で過ごしている、ということである。
教育法における大きな特徴は、とにかく、自分で、自分の頭で考えて、答えを見つけられる子どもになることに重点が置かれていることだ。そして子どもの自由な表現力や創造力を育むことに積極的である。そして早期に英語を教えるのではなく、母国語の力をまず身に付けさせることに力を注いでいることである。その際、徹底的に話をすること、論理的に考えることの大切さをも教えている。他方、どうやって論理と感情のバランスをとるかその方法も教えている。
その際も、積極的に思考することが心の豊かさに繋がることをも信じて教育している。
幼児期から自己効力観を育てようとしている。そして、自然に感謝し、神に感謝し、人々に感謝することの大切さをも教え、自然と接することの大切さを教えながら、人は自然に生かされていることをもしっかりと教えているのである。
一方の親は親で、子どもの夢を育て、才能を伸ばすために、つねに「努力すれば、何でもできるようになる」と教え、励ましながら、親自身も、高い教育観を持って、頑張る姿を子どもに見せている。また親自身も、ものを語るときに語彙量を豊かにするよう心がけているのである。
では教師はと言えば、徹底的に多様性と個人の尊厳を尊重すると同時に、子ども一人ひとりが安心でき、共同で学ぶことを大切にすると同時に、教師自身、学び方そのものを真剣に学び続けてもいる。
そして政府は、多文化社会の言語的人権を保障する教育にも力を注いでいるのである。
他方、日本のこれまでの学校教育はどうであったか、それについては既述して来たとおりで、その内容は、北欧の教育に対する考え方、教育の内容、そしてそれの実現方法等とはほとんど対極に立ったものとなっている。
もはや繰り返す必要はないと思われるが、それは、一言で言えば、子どもたちの多様性や個性を本当の意味では認めようとはしない。つまり人間個人としての存在を互いに認め合おうとはさせない。徹底的に自由に考えさせ、自由に質問させることをしない教育だったし、今もそうだ。
そこにはつねに「競争」があり「管理」があり「統制」があり、「費用対効果」、「投資対効果」という「効率」を最も重視する国家的思惑が支配して来たし、今もそうだ。
だからそこでは、各人の個性はもちろん、創造性や独創性が積極的に育まれることなどあり得なかったし、今後もあり得ない。むしろ「画一化」、「平準化」重視の中で、それらの能力を抑え込み、ひたすら無批判的あるいは従順にさせてしまう教育なのだ。
もちろんそこでは、善悪の判断力も養われない。自己を確立もできない。孤独にも耐えられない。一人で敢然と事に挑む勇気も育たない。むしろあまりにも些末な校則を押し付けられ、ある一定の枠の中にはめ込まれ、その中での従順を強いられるために、一人ひとり自信が持てない中、内面では社会や体制への憎しみや不信感だけが増幅されて行ってしまう。
教師は教師で、そういう政府教育行政の中にあって、多くはその教育行政のあり方に疑問を感じながらも序列と保身のためにモノも言えず、言う勇気もなく、自己規制してしまう。
そうなれば教師の方も、本当に自分として児童生徒にしたい授業もできない中、多くは、精神をも病んでしまう。それでも児童生徒たちへの愛情に支えられ、日々の管理に疲れ果てながらも、自らの日々の暮らしの維持のために教壇に立っている(朝日新聞教育チーム「いま、先生は」岩波書店)。
こうしてこの国は今や、政治家や官僚はもちろん、知識人も、ジャーナリストも、教育者も、宗教者も、軒並みと言っていいほどに、人間として劣化している。それは、人によって範囲も程度も異なるが、総じて、判断力も正義感も勇気も誇りも使命感も倫理観も、そして愛国心も衰えさせてしまっていることを意味する。一般国民は国民で生気を失い、希望を失い、自己防衛の余り人間関係をも希薄化させ、一人ひとりは孤立化を深め、内面を空洞化させ、かつ浅薄化させている。
こうした現象は一体何を意味するのか。
私は、それは、社会も国も、音を立てて崩壊し始めているということだ、と考える。
そしてそれを最も根本のところでもたらしているのが、皮肉にも、この国の中央省庁の一つ、文科省だと観るのである。
そして日本がこうした惨憺たる状況になったのは、文部省、そして文科省がこれまで述べてきたような教育内容と教育システムを続けている限り、極く必然だったと私は確信する。
成るべくして成ったのだ。つまり、時間の問題だったのだ。
10.1 国民を信じずまた恐れて、「自由」と「多様性」を教えない政府文科 省の学校教育
今回からいよいよ第10章の「教育」に移って、その内容を順次公開してゆきます。
昨年の8月3日に公開済みの、拙著「持続可能な未来、こう築く」の目次に沿ってゆきます。そちらを確認してみていただければ幸いです。
10.1 国民を信じずまた恐れて、「自由」と「多様性」を教えない政府文科省の学校教育
近代という時代の幕開けを告げる大事件の一つに市民革命が挙げられる。
そしてフランス市民大革命のみならずその他の市民革命の起ったどこの国においても、そのとき掲げられる宣言文の中にはほぼ決まって「自由」という言葉が見られる。たとえば、“人間は何人(なんぴと)も生まれながらにして自由である”というような言い方で。
ここで大事なことは、「何人も」という点と「生まれながらにして」という点だと私は思う。
前者の「何人も」は、人一般について言っているのではない。「人間」について、それも一人ひとりの人間を「個人」として見た時について言っているのだ。後者の「生まれながらにして」とは、裸で生まれついたその瞬間からという意味であって、国家が国民一人ひとりに与えるとか、国家が国家としてそれを保障するとかいうものでもない。むしろ自然の恵みのように、義務の履行などとは無関係に与えられ、備わっているものである、ということである。
そしてその状態は、何人たりとも侵してはならないものだし、侵されてもならないものだ、としているのである。
そう主張する根底には、個々人にとって、自由がなかったら、それは、「人間として生きる」ことを不可能にする、あるいは「人間として生きる」に値しない人生にしてしまうという認識がある。そしてそれこそが近代に入って、人々が掴み取った価値観なのだ。それだけに自由は、とくに人間として主体的に生きようとする者であればあるほど、その人にとっては、命と同等、時には命よりも価値あるものとなる。だから、自由が阻まれているときには、それは命がけで勝ち取るだけの価値あるものと見なされてきたのである。
フランス市民大革命は人類史において、その最も象徴的な出来事だった。それまでの封建社会の桎梏に喘いできた人々、特に都市(シティ)に住む人々———市民(シティズン)と呼ばれる———によって成し遂げられたのである。
ところで、ここで言う自由とは、もちろん、「何でも自分の好き勝手にできる」という意味のものではない。それでは却って、自分が自分の欲望の奴隷になっているに過ぎない状態だからだ。そうではなく、自分の生き方や運命を、誰に阻まれることもなく、自らの判断を経由して、選びとることができることであると同時に、それを選びとったことに因る結果については、言い訳することなく、いつでも自身で責任を持って引き受ける覚悟をも持つこと、を指す。
言い方を換えれば、自由であるとは、先ずは、刻々と目の前に変化しつつ展開する現実の中で、“自分にはこれしかない”とか“これしか選びようがない”、“選択肢はない”と考えてしまうのではなく、先ずは無数の選択肢がそこにはあると考えられる心の柔軟さを持つことであり、また持てることである。そしてその時、その無数の選択肢の中から何を選ぶかについては、自分を利するだけではなく他者をも利する選択肢———そこに「調和」の考え方に基づく「博愛」「友愛」の精神が生まれる———を自らの判断を経由して選びとることができ、さらにその選択の結果、目の前に現れる状況については、自ら責任を持って引き受けることなのである。
その意味で、「自由」はつねに「責任」が伴う。
これが真の、あるいは本来の自由の意味だ。
それだけに、真の自由、本来の自由とは、それを欲する当人にとってみれば、つねに、きわめて厳しいものであり、また覚悟を要求されるものなのだ。
なお、ここで付言するならば、本書では、後に、憲法改正あるいは新憲法の制定の必要性についても考察するが(第16章)、現行の日本国憲法が認める自由とは“この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなくてはならない”と明記していることから(第12条)、今述べて来た意味での自由と解せるのに対して、たとえば自民党安倍晋三政権が出した「第二次憲法改正草案」で言う自由は、ここで述べた本来の自由とは、まったく似て非なるものである、ということだけは述べておきたいと思う。つまり、安倍の自由についての理解と認識は、読む者が軽蔑したくなるほど底が浅いものだ、ということだ。
それはまた、彼の「道徳観」にも如実に表れているのである。
では平等についてはどうであろう。
それは、人間は、生まれながらにして、つまり裸で生まれて来たその状態において、国籍・肌の色・人種・民族・宗教・信教・性別の違いとは無関係に皆同じ権利が与えられているということである。あるいは一人ひとりの人間を「個人」として見た時、誰もが、生きる権利においてはもちろん存在意義においても、余人をもっては代え難い価値をもっているという点において同等であり、誰もが掛け替えのない尊厳を持っているということである(4.1節での自由、平等そして調和についての再定義を参照)。
つまりこの平等も、単に「他者と外見や格好が同じであるべき」とか、「他者と同じことを同じようにすべきである」とかいうことでは断じてない。また「男だから、皆同じにしなくてはいけない」とか、「女だから皆同じにしなくてはいけない」ということでもない。それではむしろ、それぞれ個性も能力も異なる一人ひとりを、一つの規格あるいは枠に押し込めてしまうことになるからだ。それでは今度は明らかに「自由」に反してしまう。
そうではない。平等とは、精神の自由を保ちながら、一人ひとりが人間の「個人」として、誰もが、生きる権利も存在意義も同等であり、なおかつ一人ひとりは、誰もが、掛け替えのない尊厳を持っているということを、各自が自分の頭で認識し理解し、それをいつでも、どこででも行動に表せることなのである。
近代という時代はこの自由と平等を人間の侵すべからざる基本的な権利とし、近代国家では、それを個々人の権利としてあまねく実現されることを目ざして、政治的社会的なすべてのしくみを組み立てて来たのである。
このように考えれば判るように、それだけに、自由と平等は地球上の誰にも共通に当てはまる普遍的な価値でもある、とされてきたのである。
では翻って日本を見たとき、世界で最初の市民大革命となったフランス革命から230年余を経た今日ではあるが、この日本では、「自由」そして「平等」という概念が、私たち国民一般の間に既述してきたように理解されてきただろうか。それ以上に、社会構成員一人ひとりの「生命・自由・財産」を安全に守ることを本来の目的とする国家ではあるが、その代理行政機構であるはずの政府は、国民一人ひとりに対して、自由と平等が本来の意味のままに理解されるような学校教育をして来たと言えるだろうか。また、自由と平等が本来の意味のとおりに実現される経済的・政治的・社会的な仕組みや制度を整えてきたと言えるだろうか。
私は、そのいずれの問いに対しても、明確に「ノー!」と答える。
少なくとも日本は、明治期以来、表向きは、あるいは公式には、近代西欧文明を移入したことになってはいる。しかしながら私たちの祖父母、あるいは父母の時代から今日に至るまで、つまり文部省のときも、今の文科省になってからも、学校という教育の場で、その自由と平等について、児童生徒が正しく本来の意味のとおりに理解できるよう教えてきたことは一度たりともなかったし、今もない。
そう断言できる根拠は、たとえば次の2つの事例からも明らかである。
その一つは、アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)で日本が完敗し、日本に連合軍が占領軍として入って来た直後、当時の文部省(の官僚)自身が著して発行した教科書に現れている。
そしてもう一つは、今日、全国の小中学生の全員に配られている、文科省お手盛りの道徳の教科書「心のノート」にそれを見てとれるからである。
先ず前者について見る。
そこには、この教科書の最大の主張点であり、またこれまでの教育の反省点として、こう記されているのである。原文どおりに転載する。
「 これまでの日本の教育———それは明治憲法による教育を言う———には、政府の指図によって動かされるところが多かった。(中略)
がんらい、その時々の政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。
政府は、教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。教育の目的は、真理と正義を愛し、自己の法的、社会的および政治的の任務を責任をもって実行していくような、りっぱな社会人を作るにある。(中略)教育の重要さは、まさにそこにある。
ことに、政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような「縦の道徳」だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹き込まれてきた。そのために、日本人には、何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。
公民道徳の根本は、人間がお互いに人間として信頼しあうことであり、自分自身が世の中の信頼に値するように人格をみがくことである。それは、自分の受け持っている立場から、いうべきことは堂々と主張すると同時に、自分のしなければならないことを、常に誠実に実行する心構えである。・・・・・・。」
これを文部省が教科書として当時の児童生徒に向けて発行したのは、昭和23(1948)年10月から翌24(1949)年8月までのほんの束の間のことである。教科書の題名は実に「民主主義」。上記文章は、この教科書の292〜293ページからの引用である。
この教科書はそれ以後用いられなくなった。その背景には、当時日本を占領統治していたアメリカの対日戦略に重大な変更があったためではないか、と私などは推測する。
実際、連合軍最高司令官マッカーサーは厚木基地に降り立った当初は、日本の軍国主義を完膚なきまでに叩き潰し、徹底的に民主化しようと考えていた(1945年8月30日)。
しかし、その後の経過を記せば、そのわずか7ヶ月後の1946年3月には米ソ冷戦が始まっている。
しかも、その2年後の1948年には、朝鮮半島には、8月に南に大韓民国(韓国)、9月には北に朝鮮民主主義人民共和国が成立することになる。さらにその2年後の1950年6月には、ソ連のスターリンの指示と支援の下、金日成の北朝鮮軍が韓国に突如攻撃してくるという格好で朝鮮戦争が始まったのである。
そしてその時、日本国内では、敗戦による既成権力と既成勢力の崩壊、それに自由主義の国アメリカの影響もあって、自由主義と共に社会主義を歓迎する雰囲気が特に労働者の間に広まりつつあった。1947年1月には国内でゼネストが行われようとしていたのはその象徴的な表れと言える。
こうした雲行きの中で、GHQのマッカーサーは、日本国内においてもこれ以上社会主義が広まるのを抑えるためにゼネスト中止命令を発すると共に、対外的には、対ソ連、対中国、対北朝鮮を意識して、急遽、日本を対共産勢力に対する防波堤にする必要を感じたのである。
私は、昭和23(1948)年10月に登場しながら、わずか10カ月足らずで文部省の官僚の手による、全国の学校に配られた題名が「民主主義」とされた教科書が消えてゆき、瞬く間に教育行政が反動化して行ったのには3つの理由があったのではないか、と推測する。
1つは、日本国の内外での政治と軍事に関する情勢の急変に対するマッカーサーの占領統治政策の変更。
もう1つは、マッカーサーは、日本を対共産主義勢力に対する防波堤とするために、そして東西冷戦の準備に有用な人物だと見なしたために、極東軍事裁判でA級の戦犯容疑者とされた岸信介、児玉誉士夫、笹川良一を含む19人を釈放したのであるが、実はそれに乗じて日本の戦前の軍国主義の官僚たちが甦り————岸信介はその典型————、彼らは政界へと復帰し、一旦は自由主義化・民主化へと歩み始めたこの国の政治を、教育行政をも含めて、反動化させ明治期に回帰させることを狙ったこと。
そして3つめの理由は、上記19人のA級の戦犯容疑者を釈放したGHQとマッカーサーには日本の統治機構に対する大きな誤算があったことである。
それは、GHQもマッカーサーも、日本の官僚組織は自分たちの母国アメリカと同様の成り立ちをしていると勘違いしていて、日本の官僚組織ないしは権力構造の実態には重大な問題と欠陥があることに気づいていなかったことである。したがってまた、その問題点を正確に掴もうとはしていなかったことである(K.V.ウオルフレン)。
戦前から生き残っていた軍国主義官僚はその隙をついて甦って行ったのである。
こうしてこの国の文部省による学校教育は、表面的にはどう繕おうとも、その本質においては、再び、戦前の欽定憲法下の教育に戻って行ったのだ。
そこでは、さすが天皇を頂点とする大家族国家とは唱えなかったものの、国家があって国民があるとし、国民一人ひとりの「個」や「個性」を無視し、あるいはそれらを認めず、自由も民主主義もその意味や価値は教えずに言葉だけにし、正義を教えずに秩序のみを教え、画一化という上辺だけの平等を叩き込む教育に戻って行ってしまったのである。
では、後者の文科省お手盛りの道徳の教科書「心のノート」についてはどうであろう。
文科省はその「心のノート」を通して、日本全国の児童生徒に、文科省の考える「日本人としての望ましい生き方」の根幹を道徳として教えようとしている———読者の皆さんには、ここで、前記文部省作成の教科書「民主主義」では、文部省の官僚直々に「政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである」とまで言い切っていた事実を思い出していただきたい———。
もちろんこの道徳の教科書「心のノート」は、文科省の官僚が自らつくったものであるから、「教科書検定」など無関係だし、不必要なものである。
ではその中身とはどんなものか、実際に見てみよう。
中学校の「心のノート」の目次には23項目が挙げられている。そのすべてを列挙すると次のようになる。
「心も体も元気でいよう」、「目標に向かうくじけない心を大切にしよう」、「自分で考え判断してやってみる」、「理想を持って前向きに生きよう」、「比べてみようきのうの自分と」、「心を形にしていこう」、「温かい人間愛につつまれて」、「友という生涯のたからものを」、「異性を理解し尊重して」、「認め合い学び合う心を」、「自然のすばらしさに感動できる人でありたい」、「限りあるたった一つの生命だから」、「良心の声を聞こう」、「仲間がいてキラリと光る自分がいる」、「法やきまりを守る気持ちよい社会を」、「つながり合う社会は住みよい」、「不正を許さぬ社会をつくるために」、「私たちの力を社会の力に」、「大切な家族の一員だから」、「自分の学校・仲間に誇りをもって」、「郷土をもっと好きになろう」、「この国を愛しこの国に生きる」そして最後は「世界に思いをはせよう」———
これらは一見したところ、どの項目も非の打ち所のないものばかりである。そして項目だけではなくその内容の説明も、とくに批判すべきところもないように私には見受けられる。
しかし、その項目と内容の全体をもう少し注意深く眺めて行くと、そこには、既述の、人類が近代になって発見し、掴みとった普遍的な価値が見当たらないことに気付くのである。つまり、真の自由であり真の平等だ。
たとえば、それらについては、「心のノート」流の表現をすると、次のような表現でもあればいいのであるが、それがどこにも全く見当たらない。
「それぞれ顔が違うとおり、誰も、互いに異なった個性や能力を持っているのだよ。数学や理科の得意な子、国語や英語といった語学の得意な子、音楽や絵画といった芸術の得意な子、運動が得意な子、手先が器用で物を作るのが得意な子、誰をもやさしい気持ちにさせる能力にすぐれた子、というように。だから多様なんだ。そしてその誰も、人間として誰からもぞんざいに扱われてはならない尊厳があり、全く同等の生きる価値、存在する価値があるんだよ。だからどんな一人ひとりも、お互いに、人間として、相手を尊重し合わなくてはいけないんだ。」
「その一人ひとりは、誰も、みんな、何を思い、何を考え、何を信じ、何をどのように表現するかも自由なんだよ。」
「しかし、それらを実行するに当たっては、その結果については責任も伴うんだよ。」
では、こうした人間個々人にとっての普遍的価値が「心のノート」に見られないという事実は一体何を物語っているのだろう。
それは、作者である文科省の官僚がうっかり落としてしまったためなのだろうか。
私は決してそうではないと考える。むしろ、これは官僚が故意に、意図的に外したのだ、と断定さえ出来ることだと考えている。
私は本節の冒頭で、人類の歴史とは、見方に拠れば、人間としての自由を戦い取るための歴史だった、との主旨のことを述べてきた。それは、とくに人間として主体的に生きようとする者であればあるほど、自由がなかったら、「人間として生きる」ことを不可能にする、あるいは「人間として生きる」に値しない人生にしてしまうという価値観に基づくものであり、それだけに自由は、誰にとっても、命と同等、時には命よりも価値あるものと見なされてきたからである。
したがって、いやしくも「道徳」を児童生徒に説こうとしている教科書だったなら、どんな人間にとってもそれほどに価値ある「自由」の概念を、“ついうっかり記載し忘れた”などということは断じてあり得ないのである。
そこで、ここで少し、政府という行政機関に、実質的に国民を日々、統治している官僚の心の内をちょっと想像してみよう。本来ならば彼らは、総理大臣の指揮の下に動く各大臣の配下で、大臣にコントロールされながら国民を統治するというのが筋なのだが、この国では、既述のように、主権者である国民の利益代表であるはずのそうした政治家は、表向きはともかく、実質的には官僚やその組織の操り人形となっているだけなのだ。
その意味で、この国は、明治期以来、実質的に官僚独裁が行われているのである。
そこで、その心のうちを想像する官僚は、何も文科省の官僚に拘らない。財務省でもいい。経済産業省でもいい。国土交通省でもいい。厚生労働省でも総務省でも、どこの府省庁の官僚でもいいのである。
その場合、もし、日本国民一人ひとりが、「自分が何を考え、何を信じ、何をどう表現しようと、自由なんだ」などと考えるようになったなら、また国民一人ひとりが、「自分には決して踏みにじられてはならない人間としての尊厳があり、基本的権利がある。そしてそれは人類が見出して来た普遍的価値なのだ」などと考え、そして学校でも社会でもどこでもそのとおりに行動するようになったならどうであろう。つまり国民一人ひとりのものの考え方や生き方がそのように「多様」であったり「自由」であったりしたら、統治すべき立場の官僚の内心はどうなるであろう。
それは、彼ら官僚にとっては、今様の言い方をすれば“やばい”となり、心穏やかではなくなるのではないか。なぜかといえば、国民の示すその多様性や自由に統治面で対応しなくてはならなくなるからだ。
ところが、日本の官僚らは自由や多様性を身につけた国民を統治したことなど、明治期以来、一度もない。先輩から聞いてもいない。組織の記憶としてもない。それどころか、彼ら官僚自身が幼い時から祖父母や両親からは「和を大切にしろ」だとか「みんなに合わせろ」、「秩序を乱すな」、「協調性が大切なのだ」、「長い物には巻かれろ」といったことを口すっぱく言われて育ってきたのだ。そこでは、誰も、“誰もみんな、顔が違う通り、個性も能力も違うのだ、それを尊重しなくてはいけない”などとは教えられて来てはいない。
それだけではない。同じく明治期以来、この国には、実際には琉球民族もい、アイヌ民族もい、ウイルタやニブヒと呼ばれる民族もいたのに(網野善彦「『日本』とは何か」講談社学術文庫p.321)、「単一民族の国だ」、「一言語で一文化の国だ」と教える文部省と文科省の教育行政の中で育ってもきたのだ。“この国は多様な民族から成り立っている”、などと教えられて来たことは一度としてないはずだ。
だから、目の前に、多様性を大事にし、自由に振る舞う国民が大多数を占めるようになったなら、これまで先輩官僚がやってきたことをやってきた通りにするこが教育行政だと自らもお思い、また思わされてきた官僚にとっては、その国民をどのように統治したらいいのか、皆目判らなくなりパニックに陥ってしまうに違いない。
したがってそんな事態は官僚らにとっては恐怖以外の何物でもなくなるだろう。
それゆえ、どんなことがあってもそんな事態だけは何としてでも避けなくてはならない、と考えるのではないか。
ところがその反対に、もし、自分(たち)官僚が国民に向って何を発しても、発したそれが法的に裏付けのあることであろうとなかろうとそういうことには国民がことさら注意を払わず、また無関心であって、いつも国民みんなが足並みを揃えて従順に従ってくれたならどうであろう。
官僚にとってこれほど統治しやすく、思いどおりにさせてくれる国民は世界中どこにもいないと多分思えるようになるのではないか。そしてそれは、彼等にとってはこの上なく「愉快」であり「やりがい」を感じることにもなるはずだ。
また、もし、自分たち官僚が、彼らには許されてはいない権力を行使して、自分たちの福祉や待遇や年金状況を、世の中の景気動向や政府の財政状況とは無関係に、そして民間とは段違いの高水準の状態を維持できるように仕組んでも、国民の利益代表である政治家がノーテンキであるためにそのことに気づかずに、国会ではほとんどそのままフリーパスとなったなら、どうであろう。
官僚にとっては、この国は文字どおり「天国」となり、「我が世の春」を謳歌できるようになるのではないか。「公務員は全体の奉仕者だ」など糞喰らえ、という気分を常態化できるようになるのではないか。
なお、補足的に言えば、実は今、官僚たちの間では次のことが仕組まれて、現実化してもいるのである(「週刊現代」平成28年5月28日発行)。
民間よりも高い給料を確保できるようにしていること。休暇も取り放題に取れるようにしていること。国民一般よりもはるかに充実した福利厚生の制度をも維持できるようにしていること。国民一般の年金制度が近い将来実際に破綻しても、自分たちだけは高い退職金や年金を維持できるようにしていること。また公務上どんな失敗をしても、責任を問われないように、最悪でも辞めさせられるようなことはないようにしていること。さらには、これまで国民からさんざん非難されてきた「天下り」についても、それを自主的に止めるどころかむしろ慣例化させて、第二第三の人生を優雅に過ごせるようにしていること、等々である。
こうなれば、官僚たちが、「オレはこの国の国民すべてをオレの手で動かしているんだ。オレは国民を自由に動かせるのだ」、「オレたちは国家を運営しているのだ」と思い上がるようになっても何の不思議もない。と言うより、政治家に政治など任せられるか、任せたならこの国はどうなるか判りはしないという考えを持ちながら、その政治家を選んだ国民を愚民視してさえいるのである(保阪正康「官僚亡国」朝日新聞出版p.19)。
実際、近年、次々と明るみに出る政府各府省庁の官僚の様々な陰湿で狡猾な不正行為や不始末はこうした状況の積み重ねの結果であろう、と私は見る。
それはもう、眼に余るというより、“人間ここまで堕ちることができるのか”と思えるほどの堕落ぶり、人間劣化ぶりである。
私は、「心のノート」に見るように、人間個人にとっての自由と平等の普遍的価値を正しく明確には教えないのも、また、日本の学校教育全体を通して、「人間は、誰も、生まれながらにして自由であり、かつ平等でもある」ということを明確に教えようとはしないのも、そうしたことを教えることは官僚にとっては不都合なことだし、それを教えたなら果たしてその結果がどうなるか、統治者として予測できないし恐怖だからだろうと推察する。そしてそれは既述の2.5節に述べて来た私が直接接触した官僚と役人の生態からも軌を一にするのである。
官僚には、自分たちは特権的エリートであるという傲慢な意識と、その裏返しである愚民意識がある。つまり「公僕」などという意識など毛頭ない。ところがその反面では、強迫観念としての恐怖と不安を拭い去れないのだ。
ところで、今、安倍政権の政府文科省は、教育委員会のあり方を見直そうとしている。
ますます深刻化している「イジメ」問題に対して、教育委員会が責任を持って対応し切れていない、責任を取る者がいない、ということが見直しの動機のようである。そのために、現行の教育長と教育委員長とを一体化させ、それを地方公共団体の長が任命できるようにする、というものだ。
果たして安倍晋三は、こうすることで教育委員会はもっと真剣にイジメ問題に対応でき、イジメは減少させられる、解消させられるとでも本気で思っているのだろうか。
もし本当にそのように思っているのだとすれば、やはり安倍晋三は、政治家一族の中で育った弊害として、人間というものを知らないのだ、と私は思う。と同時に、安倍はこの国のイジメ問題の本質と根本原因が判ってはいないのだ、と私は考える。
それに、もしそんなことでイジメを減らせられたり解消できたりするなら、もうとっくにイジメ問題はなくなっているのではないだろうか。
私がそう考えるのは、日本のイジメ問題の本質と根本原因は、一言で言えば、日本の政府文部省と文科省が採ってきている教育内容と教育システムそのものにある、と私は考えるからだ。一言で言えば、文部省も文科省も、児童生徒を一個の自立した人間、それも個性も能力もそれぞれまったく異なる、尊厳を持った存在として教育しないからだ。それだけに、いじめ問題は決して教育委員会だけの問題ではない。
元々日本の教育システムは「子どもたちに最良の環境を願う親たちの要求や知恵が結晶してできたものではない。それは、政府省庁の官僚たち、経団連・日経連などの組織にいる経済官僚たちの要求と利害を体して設計された、仕組まれた制度であり、高度に官僚主義化したビジネス社会に仕える従順な人間を生産するという役割」を担ったものでしかない(K.V.ウオルフレン「愛せないのか」p125)。
だから文科省(の官僚)は、児童生徒一人ひとりを、人格を持った、能力も、個性も、価値観も、趣味も異なる多様な個あるいは個人としては見ていない。だからそれぞれの能力や個性を大切にしないし、それを育てようともしない。児童生徒同士の間でも、互いにそれを認め合い、それを互いに育て合うことが大切だとは教えない。むしろ、些末な知識、断片的な知識の詰め込み競争をさせては、それらをどれだけ正確にたくさん記憶できたかを確かめる試験を繰り返し行うことによって、その児童生徒の「能力」判定をし、その判定結果をもって児童生徒それぞれのその後の人生の選択肢さえも指定してしまう。すなわち、ここでも個人としての自由を尊重しなければ、その自由を励まして手助けする制度を設けようともしない。
とにかく子どもたちは、いつでも、どこででも、校則は守らなくてはいけないと教え込まれる。それも、馬鹿げているとしかいいようのない些末な校則だ。ところがそれを破ると、ときには親が学校から呼び出されさえする。そしてその事実は、児童生徒本人の成績評価に影響し、進学にも影響することになる。
つまりこの国の児童生徒は、その全員が、つねにある一定の枠組みの中に押し込まれ、精神の自由を抑圧され続けているのである。
それは必然的に、彼ら一人ひとりの深奥に名状しがたい敵意を生み、人によって程度の差こそあれ、他者や社会への憎悪や、反抗心、復讐心をも生む。その結果、本人も気付かないうちに、大なり小なりの人格障害を引き起こしてしまうのではないか。
私は、こうしたことには、児童青少年の心理を研究している学者やカウンセラーだったら気づかないはずはないと思っている。しかし教育学者や教育評論家を含めて、彼らは、こうした致命的な欠陥を持つこの国の政府の教育行政の本質的欠陥を指摘しようとはせず、表面的でとりあえず的な対処を提案しているだけだ。政府を堂々と批判する勇気がないのだ。
その意味で、彼らはこの国の児童生徒を裏切っているとも言える。しかしそれも結局は、真の愛国心がないからなのではないだろうか。
今、この国には、不登校、引きこもり、虐待、自殺もどんどん増えているし、またこの頃の子どもや若者はすぐに「キレル」ともよく言われるが、こうした現象も全て、その根っこのところでは、集団主義とそれに従うことを強制し、児童生徒個人の自然な成長を抑圧するこの国の文科省によるこうした教育のあり方が最大の原因となっている、と私は確信する。
なぜなら、こんな教育行政の中で育った児童生徒たち一人ひとりに、 “今のままの自分でいいんだ”と、今の自分を自信と誇りを持って認めるところに育ついわゆる「自己肯定感」など持てるはずもないからだ。また「自己実現」を図ることもできないだろう。また、一人ひとりが、ありのままの姿を互いに認め合えないのだから、それぞれは自分の居場所を見出すこともできない。互いに寛容な心をも持ち得ないからだ。
とにかくこうした状況は人間性と人格の形成期にある児童生徒本人にとってはもちろんのこと、この日本という国にとっても、極めて重大で深刻な事態だと私は思う。なぜなら、彼ら児童生徒ばかりではなく、今日、日本国籍を有する成人のほとんどは、かつて、大なり小なり、人間としての人格に障害を起こしてしまうこうした教育の下で育ってきているのだからだ。
要するに官僚独裁によるこの国の政府は自国民を信頼してはいないのだ!
国民こそ、それも自由で多様な生き方をする国民こそ、国力の最大の源泉であり財産だ、という発想を持てないのだ。
そしてこの国の大臣は、そんな官僚たちに操られている、というわけだ。
こうしてこの国は、真の国力をますます減退させてゆき、世界的に見て、日本は相対的にどんどん存在価値を失って行かざるを得なくなる。そしてそれは、日米安全保障条約を強化するとか、最新鋭の防衛力を装備し国力を高めるとか言うはるか以前の話だ。
しかし、こうなるのも、文部省と文科省が、この国を背負って立ってゆかねばならない子供たちや若者たちに、明治期以来一貫して、人類の普遍的な価値である「自由」を、とりわけ精神の自由を与えずにむしろ抑圧し、多様性を保障してこなかったことの代償なのだ、と私は思う。
となれば私は、主権者である国民の一人として、文科省は不要だと言うしかない。というより、特に文科省はもはや有害無益、存在しているだけで有害なのだ!
2.4 この国の政治家はなぜ選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまうのか
今、この国では、政治家たちがますます自らの役割と使命を果たさなくなってきています。その結果、綱紀が緩み、あるいは乱れています。その政治家たちは、本来、国民のための「シモベ」であるはずの官僚を含む役人一般をコントロールしなくてはならないのにそれだけの能力も覇気も失い、そのため、役人は公務員法によって身分が守られているため、刑法に触れない限り辞めさせられる事はないことをいいことにして、本来彼らには、憲法上からも、与えられてもいない権力を闇で行使しては、自分たちの組織の既得権を守ることを優先させる行政をしています。
そのため、国民は政治家と役人への信頼をますます失い、“この状況をどうしたらいいのか”と、日常においても、将来に対しても、ますます絶望の淵に追いやられています。そうした状況は、特にこれからの時代を生きてゆかねばならない若者たちに対しては大きな不安材料となっています。そうでなくても今後の日本は、ますます大きな困難が前途に待ち受けているのは確実だからです。
私はこうした状態そのものが日本という国の危機だと考えます。あるいは危機に対する耐性を失わせていることだと考えます。
国際法を無視し、不法に領土の拡大を画策し、自国の支配を拡大しようとする習近平政権の中国だけが危機ではないのです。それに、これも既述してきたように(1.1節)、もはや、アメリカに頼っていればいい、という状況でもないのです。
そこで、私の予定では、このほど第6章を公開し終えたので、拙著の目次(2020年8月3日公開済み)の第10章の「教育」の公開に移ろうかと思ったのですが、今回はその予定を変えます。国内の綱紀粛正を図り、政治家と官僚たちには、国民の絶望感をこれ以上深めさせてはならないと思い、まだ公開していない2.4節を公開しようと思います。
2.4 この国の政治家はなぜ選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまうのか
この問いに対する私の答えについて、その要点をまず箇条書し、その後でその理由を詳述しようと思う。その要点は8つある。
①政治家であったなら、あるいは政治家になろうとする者だったら、これだけはまず是非とも知っておかねばならない政治的基本諸概念すら知ろうともせず、あるいは学ぼうともせずに、彼らの先人・先輩がやってきたことを、やってきた通りにただやっているだけだからだ。
つまり、人類の歴史の中で、自由や民主主義の概念がどのような動機の下で生まれてきたのか、それさえ知ろうとしないで「政治家」ぶっている者がどんどん増えてきているのである。
その知ろうとはしない政治的基本概念とは例えば次のようなものである。
これらはどれも、近代民主主義政治を行う上での必須概念だと私には思われるのだが。
国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義、憲法、法律、主権、独立(国)、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、閣僚、自治、公務員、独裁、法の支配、法治主義、等々。
近代民主主義政治を理論的に確立してきた知的先人たち、例えば、ジョン・ロック、モンテスキュー、ルソーの著書を読んだことがある日本の政治家など、多分皆無に近いのではないか。
だから、本来、国会を含めて、議会とは誰が何をするところかさえ知らない。「質問」するのを当たり前としていることからもそれが判る。
もっと言えば「政治」とはどういうことかさえ知らないだろう。
なぜ国会は国権の最高機関とならねばならないか、国権の最高機関とはどういうことか、それも知らないだろう。三権分立の意味も知らないだろう。それは、執行機関でしかない政府の内閣が国会しか決められないことを「閣議決定」をすること、それも国会に先駆けて「閣議決定」することに異議を唱える政治家が与野党政治家の中には誰もいないことからも判る。
さらに言えば、そこで閣議決定される内容も、政治家————その場合総理大臣と閣僚————が国民から信託された権力を正当かつ公正に行使して作った法案あるいは政策案ではなく、ほとんど全て公僕でしかない官僚にその移譲すべからざる権力を丸投げして作らせたものをただ追認するだけのものであることから、「権力」の意味も、その成立根拠すら知らないことも判る。
こうしたことから、この国の政治家は、政府の正しい意味やその役割や使命も知らないのだ。
とにかく、こうしてあげればきりがないが、この国の政治家は、本来の民主政治はどのように行われるべきかも知らずして、公式には民主憲法を取り入れて70余年経った今もなお、彼らの先人がやってきたことを、やってきた通りにただやっているだけなのだ。
であれば、選挙を繰り返すたびに、政治家としての質が低下するのは当たり前であろう。
というより、もはや彼らは政治家ぶってはいるが本来の政治家ではなくなっている。後述内容からそれが一層鮮明になると思われるが、彼らの実態は、その多くがむしろ「政治屋」であり「族議員」、「利権漁り屋」の域を出る者ではなくなっている。そして明らかに税金泥棒と化してもいる。
実際、現役の政治家の誰でもよい。国会議員であろうと、都道府県議会議員であろうと、また市町村議会議員であろうと、試みに、次のようなことを直接問うてみることを是非お勧めする。
「そもそも政治とは何か」、「選挙は何のためにするのか」、「公約は何のためのものか」、「政治家の役割と使命は何か」、「議会の役割とは何か」、「政府の役割とは何か」と。あるいは「権力とは何か、また権力の成立根拠は何か」、「法とは何か」、「民主主義とは何か」、「独裁とは何か」、「公僕の役割とは何か」、等々と。
まず、誰も、どの質問事項に対しても、ドギマギするだけで、まともに答えられもしないだろう。
もっと突き詰めれば、民主主義という政治制度を生んだ歴史的背景や、世界の人々が時には命がけで守ろうとしている自由という概念の意味とその価値についても、まともに答えられる人はいないだろう。
なお、既述したことであるが、ここでも、私が使っている「知らない」とは、次の意味であることをお断りしておく。
それは、現実の政治の場や日常の場において、いつでも、どこででも、その言葉や用語が意味していることを無意識にでも、実践的に活用できなかったなら、それを知っているということにはならない。
②どんな政党も、政党である以上、政権を奪取するという気迫を失ったなら、そして政権に対抗しうるオールターナティヴな(もう一つの)政策案や法案を立案して国民の前に提示し得なかったなら、政党を結成している意味がないということ、またそんな状態を常態化させたなら、権力を所持する者を必ず堕落させ腐敗させもするということを知らない者がどんどん増えてきているからだ。
政党政治が主流である以上、与党と野党とが存在する。
ではその野党の存在意義はどこにあるのか。
それは政府を作っている与党に対して、あるいは政府と一体となっている与党に対して、独自の政策案あるいは法案をもって対峙し、その様を常に国民の前に明らかにすることにある、と私は考える。
それは例えば、“自分たちだったら、現状を救うために、こうした政策を法律の裏付けと予算の裏付けを持って作り、このような方法で実行し、実現してみせる”ということを明らかにして。
ところが、この国の政治家、とりわけ野党には、その自覚も使命感もあるようにはとても見えない。既述した「質問」を通じて、与党のやっていることに対して批判したりケチをつけることだけだ。
しかしそんなことは誰だってできる。
国民が求めているのは、政策立案能力であり、法案作成能力だ。それも与党の政策の不十分さや欠陥を補うものだ。
ところがこの国では、国会議員だったら誰もが、毎年、一人当たり、「立法事務費」として780万円を受け取っているのに、議員立法している者など皆無に近い。ほとんどが政府提案の法案であり政策案だ。なのに、“私は議員立法はしませんでしたから、この立法事務費は受け取るわけにはゆきません。国庫にお返しします”と返納した者など誰一人いない。
とにかくこの国の野党には、いつ自分たちが政権を取っても、現政権よりもマシな政治を行えるという政策を常日頃から練っているようには到底見えない。
結局そうなるのは、国民生活を現場にて克明に見ていないからだろう。自分は国民から選ばれた国民の利益代表であるとの自覚がないのだ。それと、長年の他者への依存心————例えば、アメリカや官僚・役人への依存心だ。彼らがなんとかしてくれる、という————が身についてしまっている結果だと私は思う。国民から選ばれた国民の代表として、この国のゆくべき道、目指すべき目的地は自分たちが決めるのだ、という愛国への気概、独立への気概がなさすぎるのだ。
だから万年野党のままでも平気なのだろう。それ自体、国民を裏切っていることにも気づいていない。
③この国の政治家という政治家は、国会議員も都道府県議会議員も市町村議会議員も、誰も、議会はあくまでも法律や条例を制定する立法機関だということすら、今だに知らないことだ。
それは議会を既述した「質問」の場のままにしていることから判る。「代表質問」、「一般質問」と呼ばれるアレだ。
それも、事もあろうに、本来は自分たちが議会で法律や条例を作り、それをその通り執行するようコントロール、つまり統括して指示しなくてはならない相手である政府の側の者(総理大臣や閣僚、時には官僚)に向かってである。
つまりこの国の政治家という政治家は、「三権」の意味も区別も知らなければ、健全な民主政治を行う上ではそれらは常に互いに「分立」していなくてはならないという、近代西欧が議会政治の中で掴み取ってきた知恵であり教訓でもある原則も知らないのだ。
それでいて、政治家をやっているつもりになっている、ということである。
議会はあくまでも「議論」や「論戦」の場であり、「立法」の場である。その意味で「立法府」なのだ。決して「質問」の場なのではない。
ところが実態はこんな調子である。
“あれはどうなっているのか?”、“これはどうなっているのか?”。あるいは“総理のご見解を伺います”。
ところが、そうした議会のあり方に対して、“議会はこんなことをしている場ではない。立法する場ではないか”と異議を唱える政治家は誰もいない。むしろこんな質疑応答をすることが国会の役割であると錯覚している風であり、それが「当たり前」と思っている風でさえある。
しかも、そうした「質問」をすることを、議会の者は、議会の執行機関への「チェック機能を果たしていること」と錯覚してさえいる。
こうした場合の本来のチェック機能を果たすとは、自分たちが最高権としての議会で、立法機関としての役割を果たして定めた政策なり法律を、政府が執行機関としてちゃんと、その通り果たしているかどうか、果たしていないとすれば何が原因で果たしていないのか、なぜ果たさないのか、その辺の理由を、主権者である国民の前に、国民が納得ゆくよう、「丁寧に」といった情緒的にではなく、事実のみに基づいて論理的に説明させ、今後はその原因をどう取り除き、どう目的を果たすのか、その辺も国民が納得ゆくように論理を尽くして説明させることなのである。
この国の議会の政治家たちがやっていることは、国会であれ地方議会であれ、決して移譲してはならない国民から信託された権力を官僚・役人に丸投げし、彼らに作ってもらった法律(条例)や政策・予算について、思いついたまま突っついているだけなのだ。
④しかも、その議会での「質問」の仕方やあり方も、議会を「言論の府」とするどころか、「儀式場」化させるだけの仕方でしかない。
ところが、そうした状態に異議を唱える政治家も未だ誰もいないことである。
それに、日頃、政治のあり方を研究しているはずの政治学者も、権力の見張り番であるはずの政治ジャーナリストも、その異様さや異常さに気づかないのか、放置したままで、「常識」化させることに一役も二役も買っていることだ。
議会という場を儀式場化させているとは、次のような意味である。
質問する者の順番はあらかじめ決められている。質問時間も決められている。
質問内容はあらかじめ通告しておかねばならない。それは、政府側の答弁者が即座に、そしてスムーズに答弁できるような想定問答集を、関係する府省庁の担当官僚が質問当日の朝までにこしらえておけるようにするためだ。
質疑応答の過程で、答弁者は替わり得ても、第三者が質問することは許されない。
ところがその質問の内容たるや、その時、この国の国民にとって、またこの国の今と近未来にとって、政策面においても財政面においても法律面においても、今すぐにも解決の目処をつけておかなくては近い将来大変なことになることが予想されるという意味での重要度と緊急度が最も高い内容の質問などはまずない。というよりそうした類の質問は全てさけられてしまい、「先送り」されてしまう。質問される内容は、そのほとんどが、その時たまたま発覚したり浮上したりしてきた問題だ。つまり、国と国民にとっての優先順位ははるかに低いものだ。そういう意味で、どちらかといえば、「どうでもいい」内容の質問ばかりだ。
その上その時の質問者の質問の仕方も、どちらかといえば、その質問者の支持者向けの、“皆さんに支持されて、私は議会でこれだけ活躍しています”と見せるための演技、ポーズ、ゼスチャー、パフォーマンス、といった感じだ。
例えば次のような最重要な問題は、まず質問されない。
貯めに貯めてきた超巨額の政府債務残高について、将来世代や未来世代にツケ回しするのは道徳的ではない。それに彼らから希望を奪うことだ。そこで、借金を作ってきた現在世代の責任において大至急その額を減らすにはどうすべきか、といった質問。
あるいは少子高齢化を食い止めるためには、若者たちに将来への希望を見出せるようにすることだと考える。それを可能とする社会とはどのような社会であると考えられるか。またそれを実現するには、私たち政治家は、そして政府は、その役割と使命において、何をどうすべきと考えるか、といった質問。
では、立法府である議会の政治家はなぜこうした質問をしないのか。
それは、前者のような質問を議会で本気で取り上げたら、それは、結局は国民に新たに大きな負担を背負ってもらうことになることが想像できるからであり、そうなっては、これまでの自分への支持者の支持を失ってしまうと恐れるからであろう。それは言い換えれば、次期選挙では当選できないことだからだ。
一方後者の質問は、それを質問する自身のみならず政治家一般が、これまでのような怠慢ではいられなくなり、ものすごい勉強をしなくてはならなくなり、また今まで、政策提案など具体的にしたことのない彼らにとっては、若者たちが将来に希望を見出せるような社会のあり方など低減できる自信もないからだ、と私は推測する。強いられることが推測できるからだ。
要するに、どっちにしても愛国心がないからだ。あまりに無責任だし、あまりに自己に甘すぎるからだ。とにかく今までやってきた通りにやっている方が楽だからだ。
しかしだ。我が子を愛している親は、我が子に自分の代で作った借金の肩代わりを平然と期待するだろうか。
ともかく、そんな低レベルで低次元の質問内容についてのやりとりが事前のスケジュールに従って「粛々と」進められて行く。そして答弁する者は、その日の朝までに関係官僚が書いた想定問答集から適当な部分を拾い出し、それを棒読みするわけである。まさに茶番劇でしかない。
中には、その茶番劇を一層劇的に見せてくれる輩さえいる。その作文中に用いられている漢字すらまともに読めない者がいるのだ。それも何と、副首相兼財務大臣で、元宰相と呼ばれた者の孫だ。
こんな議場の状態を、例えば「公共放送」と自任するNHKは「論戦」などと表現する。NHKも、「議論の府」とは何か、論戦あるいは議論とは何をどうすることか、それさえ知らないのだ。
ところが、議場でのその茶番劇を、一層決定的にしてしまうのがいわゆる国会対策委員会という政党間の密室の談合である。「透明性」の確保とは正反対の、不公正で、無所属あるいは無派閥で、ごく少数あるいは個人で動く政治家を完全に無視し、「代表の原理」や「審議の原理」(山崎廣明編「もういちど読む山川政治経済」山川出版社P.12)も知らないことを露呈した行為だ。
本来、議論や論戦ともなれば、議論の発展の方向がどうなるか事前の予測がつかないものである。ところが、国会対策委員会は、その儀式の方向、結論の方向まで、そこに集まった各政党の国会対策委員なる人たちによって事前に決定してしまっているのである。
やはりこれも、議会とは何か、議論とは何か、この国の政治家は誰も知らないのだ、と言うしかない。
⑤政治家は、ある特定の目的実現のためという制限付きで国民から信託された権力を、したがってそれはその人本人だけが行使すべきものであって、絶対に他者に移譲してはならないものなのに、それを、国民のシモベである役人に丸投げしては、法案づくりや政策案づくりを依存するばかりだ。それだけではない。公僕の作ったそれらの法案や政策案に追随するばかりで、各自が選挙時以来掲げて来た公約を形にするための議員立法などは誰もしない。
ところがそれら一連の権力の丸投げ行為と政策の追随行為は彼らを信じて一票を投じた国民を裏切っている行為だと判断する力もなく、むしろそんな状態をも常態化させてきていることだ。
要するに、この国の政治家は、よく“政治は権力だ”などと、政治あるいは政治家にとって権力は切っても切れない関係にあるとは言うが、ではそもそもその「権力」とは何か、そしてその権力は、何に根拠を持つか、つまり権力が権力として成立する根拠は何かという、民主政治を実現させる上で絶対に欠かせてはならない基本中の基本すら知らないのだ。
そしてこの国の彼らは、それでも政治家をやっているつもりになっているのである。
だから、この国の政治家は、誰も、日本国憲法も官僚には権力は与えてはいないのに、官僚が、そんな権力を、どのように行使しているかということについても、全く無頓着なのだ。
そして、それゆえに苦しめられ、また惑わされるのが主権者である国民なのだ。
⑥とにかく、この国、特に国会議員の歳費を含む特典と特権の金額換算した総額としての議員報酬が法外と言えるほどに高すぎる。それは欧米を含めた世界のどこの民主主義国の国会議員と比べてもだ。
それゆえに、この国の国会議員のほとんどは、政治家となる主たる目的は、政治家としての本来の役割と使命を果たすためではなく、上記議員報酬を得ることとしている者が大多数だということである。それはこれまで述べてきたことからも裏付けられる、と私は考える。
しかも、これも既述したように、本来の役割と使命など全く果たさないのに、そして議会は制度を定められるところであるということだけは利用して、そんな法外な報酬を受け取り続けられる制度を温存していることだ。たとえどれほど多くの国民が大災害で悲惨な目にあっているときでも、また新型コロナウイルス禍にあって、どれほど多くの国民が経済的に窮地に陥り困窮していても、それとは無関係に、である。そしてその議員報酬の総額はおよそ2億円だ。
ただし、共産党議員だけは政党助成金4500万円は受け取っていないから、その分だけは少ない。
その2億円の内訳をみると次のようになる(平成24年9月10日発売の小学館「週刊ポスト」)。
表に現れてきて公式に知られている「歳費」と呼ばれる議員報酬は、一人およそ1556万円(衆参両院議長、内閣総理大臣はもっと多い)である。
これだけでも私たち一般国民からは大変な額なのに、それは政治家一人当たりが享受している総額から見ればわずか7.8%に過ぎない。
ただしそこで言う総額とは、政治家が受け取っている歳費を含めての特権や特典すべてを金銭換算した額、という意味である。
ではその他のものはどうなのか。
金額の大きい方から行くと、選挙経費4622万円————現役の国会議員は黙っていてもこの金額は受け取れるのだから、選挙でも、現役議員が圧倒的に有利となることがこれで判る————、政党の国会議員数に応じて受け取れるようにした政党助成金の分け前4500万円(ただし、日本共産党だけは、これを受け取っていない)。公設秘書給与(3人分)2586万円。議員会館家賃2377万円。文書通信交通滞在費1200万円。都心の一等地にただ同然で居住できる議員宿舎の年間家賃相当分、年840万円。議員立法など既述のとおり、自らはほとんどしないでほとんどは官僚に任せっ放しなのに、受け取っている議員立法事務費780万円。ボーナス555万円。公用車/国会と議員宿舎間の送迎公用マイクロバス226万円。議員会館での光熱費152万円。議員会館備品代113万円。無料航空券(クーポン)103万円。JR無料パス78万円。旅費55万円。支給される弔慰金・特別弔慰金8万円。議員会館通信費2万円、となる。
これらを合計すると、実に、1億8205万円という額に及ぶ。それは公になっている歳費の何と11.7倍に近い。
これに歳費を合わせると、およそ2億円(より正確には1億9761万円)という額になる。
こうした数字を彼らのやっていることの実態を思い浮かべながら知る時、そして予算編成ももっぱら役人任せできたがゆえに、この国の政府債務残高、いわゆる国の借金の額が天文学的な額となってしまっていて、対GDP比がダントツで世界最悪となってしまっていることを知る時、また「身を切る改革」などと言いながら参議院議員定数を6も増やしてしまっている実態を知る時、もはや彼ら国会議員をして、文字通り税金泥棒あるいは詐欺師あるいは偽善者と読んでも、決して不当ではないと私は思う。
ここで参考までに、海外での国会議員の報酬を見てみよう。
日本の国会に当たるフランスの国民議会の議員の歳費と秘書を雇う費用としての議員報酬は、一ヶ月当たり、一人、13,049ユーロ、日本円に換算して1,565,880円、およそ157万円である(2017年5月現在の為替レートにより、1ユーロ=120円とした場合)。
フランスの国会議員は、この報酬で、すべての政治家活動をしなくてはならないのである。
一方、スエーデンの国会議員の同じく一ヶ月当たりの全議員報酬は、およそ60万円(?)と聞いている。
これから見ると、日本の国会議員は、一ヶ月平均、フランス国会議員の10倍ものお金を国民の税金からふんだくっていることになる。なんだかんだと屁理屈を付けて。しかも、政治家としての役割や使命など全くと言っていいほどに果たしてはいないのに、である。
ちなみに、選挙区の支持者の冠婚葬祭に祝電や弔電を打ったり、あるいは花輪を送ったりすること、また地域の行事に顔を出したりすることは、本来政治家としてすることではない。
本来、議会の政治家の最大使命は国民との約束である公約を形あるものとして実現してみせること。一方、政府の政治家の最大使命は、議会が決めた国民の声を忠実に執行することである。それ以上に大きな使命はない。
両者は、そのことにおいて、全能力、全エネルギーを注ぎ込まねばならない。
また、自ら掲げる公約をより適切なものとするために、常に現地の国民の声に真摯に耳を傾け、それを速やかに汲み上げ、その声に応える政策なり法律という形にすることである。また議会では自分の公約を通すために、議場に居並ぶ他の政治家を論理で説得しうる弁論術、ディベートを学ぶことだ。そして政策や法案を作る能力を磨くことだ。
そうしたことができずに、議会で実績を示し得ないから、選挙時でもないのに、年がら年中、街や街路のいたるところに顔写真入りの、しかも訳のわからないスローガンを掲げたポスターを立てては、売名行為を続けなくては不安でいられなくなるのであろう。
そう考えれば、フランスやスエーデンの国会議員の議員報酬が妥当であることが、すぐにも判る。彼らはその報酬を持って本来の政治家の務めを果たしているのだ。どうして2億円も要るというのか。
もし、フランスやスエーデンのみならず、アメリカ、ドイツ、イギリス、カナダ、その他世界の全ての民主主義議会制度を取っている国家の国会議員が日本の国会議員のこの実態を知ったら、間違いなく、みな、驚愕して腰を抜かすであろう。
⑦現行の選挙制度そのものに欠陥がある。それも本質的な欠陥が、である。
まずは立候補を望む者にとって不公平であることだ。
そしてそれぞれの候補者が掲げる公約については、その中身の違いや価値が有権者に認識できるようにはなっていないこと。だから適当に書いても、誰もその相違は識別できない。
さらには有権者にとっては、とにかく立候補した者の中の誰かに投票するしかない制度になっていること。
こうしたことから、現行の選挙制度には、本当に民意を代表していると主権者である国民が思える立候補者は当選しづらいとか、反対に、民意を真の意味で代表しているとは思えない者が当選してしまう可能性が高いという本質的欠陥がある。
なお、ここで言う選挙制度とは必ずしも国政レベルで言う現行の小選挙区制や比例代表制に限った話ではないし、またその両者を併合させた制度に限った話でもない。今日この国が国政選挙でも地方政治選挙でも同様に採用している選挙制度のことである。
そこで、上記のことをもう少し具体的に述べるとこうなる。
その本質的欠陥の第一。
それは、お金がかかりすぎること、あるいはお金がある者しか立候補できないこと、そして特に国政選挙の場合には、現役の政治家であるというだけで選挙経費として4600万円ももらえる制度になっていて、不公平であることである。
国政レベルであれ、地方政治レベルであれ、政治家としての資質や能力などなくても、知名度が高く、金があり、あるいは強力な支持団体を後ろ盾に持ってさえいれば、あるいは親や祖父が政治家として残してくれた地盤・看板という財産さえあれば、さらにあるいは、そのときたまたま政治家であった父親が死んだとかで有権者の同情を集められたなら、それだけで、公約の内容などほとんど無関係に当選できてしまう可能性の高い性格を持っている、ということだ————尤も、当選してしまえば、その公約も簡単に反故にしてしまうのであるが————。
また、コロコロと政党を乗り換え、平気で相乗りするような政治的無節操な者でも、さらには、選挙に有利となれば有権者を裏切ってでも住む場所を変えてしまうような者でも、また、政治哲学もないまま、そのときの時流に合わせた思いつきの公約しか並べられないような者でも、さらには、本音は自分を支持する団体や人々のためしか働こうとは考えていないのに、いかにも国民一般の幸福の実現を考えているかのように、人前で声を大にしてもっともらしく饒舌にしゃべることしか能力のない者でも、特定政党の公認さえ得られれば、ほとんど当選できてしまい、見かけだけは政治家になれてしまうという性格を持っているということである。
これは裏返せば、現行の選挙制度は、無名であったり、知名度が低かったりしたなら、どんなにこの国や地域の現状を憂い、国民の幸せの実現を思って、明確で具体的な政策を掲げ、人格的にも優れていようとも、政治家にはなれない、という性格の選挙制度であるということだ。
こうした状況の中で登場して来るのが、行政組織からの官僚、財界組織からの官僚、大労働組合そして大宗教団体の支持を得た者たちであり、二世議員とか三世議員と呼ばれる者たちであり、著名なタレント、スポーツ選手等である。
実際、今やこの国の国会議員は、二世、三世議員と政府官僚のOB、財界官僚のOBと大労働組合幹部と宗教団体関係者、農業団体関係者を合わせると、国会議員定数(現在722名)の80%を超えると言われている。
当然、そのようにして「当選」した者には、一選挙区の、あるいは特定集団の代表としての意識だけで、国民全体の代表であるという意識などはないだろう。
だから彼等は、当選後、それらの支持団体から、本質的には賄賂でしかない「政治献金」を受けても平然としている。あるいは特定の府省庁や業界の利益を代弁する、いわゆる「族議員」となる。
では二世や三世議員の場合はどうか。
彼等は普通、自分の親や祖父の影響の下に幼少期を過ごして来ている。しかもその祖父は、多くが、明治憲法(欽定憲法)の下に政治家をして来た人々だ。親は、敗戦後、アメリカの統治下で政治家をやってきた人たちだ。いずれも、そのほとんどは真の民主主義や議会制民主主義も知らないで、それを「政治」だとして生きてきた人々だ。
そんな環境下で育った二世議員や三世議員は、「三つ子の魂、百までも」の通り、幼い頃から頭に叩き込まれた古い政治観はなかなか捨てきれないだろう。したがって、彼らは、政治家になっても、真の民主主義政治の実現に対しては抵抗勢力になりかねない。
またタレントやスポーツ選手だった者の場合はどうか。
彼らの大多数は民主主義や権力の意味一つ知らないで当選してしまう場合がほとんどであろうから、たとえ特定の既存政党の公認候補として当選できても、その党内では○○○チルドレンとなったりして、ただ数として存在しているだけで、古参の政治家に物も言えず、ただ操られるだけの存在になるしかないのである。
本質的欠陥の第二。
各候補者が掲げる公約の中身の違いが有権者に認識できるような選挙運動を義務付けるものとはなっていないことである。候補者同士が国民の前でそれぞれの公約について論戦し合うこともない。せいぜい単独で、明治期以来の「立ち合い演説会」をする程度だ。あとは、ただひたすら街宣車を連ねて、街の通りを走り回り、候補者の名を連呼して回るだけだからだ。
と同時に、有権者にとっては、“本当は今、この国、この地方にはこうした政策が必要なのだ”と切望しても、そうした内容を公約として掲げる候補者がいない場合には、とにかく、棄権しないためには、立候補した者の誰かに一票を投じるか、白紙で投じるかしなくてはならないという、選択肢の非常に狭い制度になっていることである。
本質的欠陥の第三。
では、選挙制度を小選挙区比例代表並立制に限ってみるならば、それは選挙制度として、次の本質的な欠陥を持っていることである。
それはたとえば、既存大政党に圧倒的に有利な制度でしかないという点だ。そして膨大な数の死票を生んでしまう制度だということだ。
実際、たとえば、得票率が比例代表で28%、小選挙区で43%という過半数をはるかに下回る得票率でも、全議席の8割の議席を獲得でき、その結果政権を執ってしまえるような制度なのだ。ということは、比例代表で72%、小選挙区で57%の票を投じた人々の意思が無視されたままでも政権が執れてしまう制度であるということである。
これでは、もしこのままで政権が取れてしまったとしても、つまり司法が憲法違反であるゆえ選挙結果は無効であるとしなかったとしても、その政府は断じて国民を代表した政府とは言えない、となる。
そしてこのことは、 “一票の重みが憲法違反の状態にある”ということを問題とする以前に、この選挙制度自体が、民主主義の実現を阻んでいる制度である、ということだ。
実際、この国の現行憲法は、選挙結果がそれだけの死票を出しても、また半数をはるかに下回る得票率でも政権を執れてしまう選挙を無効だともしていない。
これはこの国の現行憲法が、民主主義政治の実現のためには、大して役には立っていない、というより、欠陥憲法であることを示すものである。
そもそも小選挙区で落選した者が、比例選挙区で復活当選してしまうなどということ自体矛盾している。こんな単純明快な矛盾すら、現行政治家は判断できなくなっているだ。
欠陥の第四。
それは、この国の選挙制度は、国政選挙でも地方選挙でも、選挙は既述した目的のために行うのではなく、ただ決められた定数の中で、単により多く得票した者を当選者とする、という程度のものであることである。つまり立候補者の有権者への義務として最も大切な、各候補者が掲げる政策案である公約について、各候補者間で有権者の前で論戦し、相互の公約間の重要度の違いや中身の違いや実現性を明確にするということをせず、ただ街宣車を連ね、自分の名前を連呼するだけで、あるいは自分だけの選挙演説会を開くだけで、選挙期間を過ごしてしまう、という制度であることだ。
だから必然的に、候補者が訴える公約なるものは、かねてからの自分の政治的信念を形として表そうとする政策案ではなく、そして誰の公約も具体性など全くと言っていいほどになく、実現性や実現方法なども一切検討されないものとなる。
むしろ公約の中身は、そのときたまたま人々の関心をさらった話題とか争点となったものを拾い上げただけのものとなる。それは所詮は思いつき程度の域を出ない。
こうした本質的な欠陥を抱えているにも関わらず、現行の選挙制度については、国会議員は、例えば、定数について◯増□減などといった、憲法に抵触しないギリギリの範囲の変更をするだけで、本質的な変革は何一つせず、これまでの状態を常態化させてしまっていることだ。
要するに、この点でも、この国の政治家という政治家は、選挙とは何か、何のためにするのかを知らないということであり、したがって選挙制度はどうあるべきかということについても考える力がないということである。
それに、この後すぐにその理由を述べるが、各候補が掲げる公約については、誰も、最初からそれを議会で政策なり法律として実現しようなどという気持ちなどはなく、“選挙だから、仕方がない”ということで、間に合わせ程度に考えたものでしかない、と私は断定する。
そうなれば、それをただ聞かされる有権者は、公約間の相違など全く判別できない。それは、
有権者は誰に投票したらいいのか、見定められなくなってしまうことを意味する。
こうして、結局というか必然的に、「カッコいいから」、「知名度が高いから」、「知人友人から頼まれたから」等々といったことが投票基準となってしまう。したがってその選挙は、国の中央でも、地方でも、“今までやって来たことだからやる”、それも“今まで通りやる”という程度の域を出るものではなくなる。
今この国が、あるいはこの地方が根本から解決させておかねばならない政治的最重要課題を集中的に、しかもその解決方法までを具体的に表した公約を掲げている候補など皆無だ。
したがって、そうした公約も、当選してしまえばそれでお終い。後は知らぬ存ぜぬ、だ。
なお、各候補が掲げる公約については、誰も、最初からそれを議会で政策なり法律として実現しようなどという気持ちなどはなく、“選挙だから、仕方がない”ということで、間に合わせ程度に考えたものでしかない、と私が断定する根拠は次のものである。
それは、立候補者が掲げる公約を議会で政策なり法律として形にし、それを執行機関である政府に本当にその通りに執行させようとしたなら、それは、現在、この国の政府では、それをほとんど不可能とさせてしまう大きな障壁が厳然とある、ということを各候補者は多分誰も知っているだろう、ということに因る。
というのは、2.2節からも大凡推測はついたであろうし、またそのことは後述もするが(2.6節)、この日本という国は本物の国家ではないからである。そして民主主義は依然として実現などしておらず、実態は相変わらず官僚独裁の国だからである。
言い換えれば、この国の中央政府の首相もと地方政府の首長も国あるいは地方の舵取りなど実際にはしておらず、官僚または役人に行政のすべてを実質的に任せっ放しにし、官僚(役人)独裁を許しているからだ。したがって、議会で各政治家の公約を公式の政策なり法律としてたとえ議決しても、それらが執行機関に回って来たとき、官僚や役人そして彼らの組織にとって、その既得権益を妨害あるいは縮小するような性格のものと判ったなら、官僚や役人らはその組織を挙げてその政策や法律の執行についてはサボタージュし、執行の実現はほぼ絶対的に不可能となってしまうからだ————かつて民主党が政権を取った時、政権公約(マニフェスト)を実行しようとした鳩山初代首相が、官僚組織の抵抗とサボタージュに遭い、結局、辞意を表明せざるを得なくなった事実を思い出すべきだ————。
そういう事情があることについては、先輩諸氏にいろいろ見聞きして智慧をつけて来た立候補者が知らぬはずはない。
だから、畢竟、思いつきの公約となってしまうのだ、と私は推測する。
したがって、逆の言い方をすれば、立候補者には、この国のそうした民主主義の敵である官僚独裁を打破し、この国を本物の国家となし、民主主義政治を実現してやろうという意欲も覇気もないということなのである。やはり、愛国心もないということだ。
⑧有権者の側も、選挙を繰り返す度にこの国の政治家の質をますます低下させてしまう重大な原因を作っていることである。
現状では、自分に与えられた一票を自分がこれはと思う候補者に投じる「選挙権」を行使すればそれでお終いとしている人が大部分だ。むしろその瞬間からこそ「参政権」という政治に参画することのできる権利を「主権者」として行使してゆく義務と責任が自身と国家・社会に対して発生しているということを理解していない。
それは、自分が一票を投じた候補者が当選した後、彼が掲げていた公約を、自分が彼にだけ信託した権力を、議会においても、また政府に対しても、それを他者に移譲せずに公正かつ正当に行使しながら、約束通り果たしているかどうかをチェックする義務と責任が発生するからだ。そしてそれが、「国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利を所持する者」という意味の主権者の役割と使命でもあるのだから。
それに「選挙権」と言い、「参政権」と言い、それらの権利は黙っていて与えられたものではない。先人たちが「民主主義」の実現のために、命がけで獲得してきてくれた、かけがえのない、また他の誰にも譲ることのできない権利なのだ。
“選挙だから”、“親戚や知人に頼まれたから”、“あの人、格好いいから”、“みんなが行くのだから自分も行かなくては” というのは投票行動の判断基準にはならない。あくまでも候補者が掲げる公約の中身とその適時性・実現性そのもので判断しなくてはならないということを忘れている人が多すぎる。
以上私は、この国の政治家が選挙を繰り返す度に政治家としての質をますます低下させてしまう理由について私の考えるところを述べて来た。
しかし、これらの理由すべてを通して見たとき、日本の政治家についてこうした状況を生み出し続けているのは、結局のところ、この国の中央政府の先の文部省、そしてそれを名前だけ変えて中身をそっくり引き継いだ今の文科省の学校教育のあり方が持っている本質的欠陥なのではないか、と思っている。
すなわち、個々人の個性や能力、そして人間としての基本的権利を尊重する教育をしないことである。自由と民主主義の意義と価値をしっかりと理解できるまでに教えないことである。自分の考えを他者の前で論理的にしゃべる訓練をさせずに全く受け身の授業しかしないことだ。
またその教育が、今や世界に通用し得ない若者、あるいは世界に遅れをとる若者を次々と大量生産しているのではないか、とも推測するのである(第10章を参照)。
6.7 僧侶と神主に求められる使命と責任
6.7 僧侶と神主に求められる使命と責任
昨今、この国では、「終活」とか「人生の終い方」というような奇妙な言葉が世の中を飛び交っている。
その言葉の意図するところは、人間は、一人ひとり、いよいよ自身の人生が大詰めという段階を迎えたなら、自分で自分の最期をどうまとめるべきかということを考え、その時を迎えた方がよい、ということなのだろう。
しかし私は、それはまことに奇妙なことだ、と思う。
なぜならば、この国では、実社会ではもちろんのこと、とくに社会に出るための土台を築くべき学校時代でも、生きることの意味についても生きる目的についてもきちんと教えてきた試しはないからだ。またそれを考えさせる教育をしてきた試しもないからだ———勉強する本当の目的、究極の目的はそこにあるはずだと私は思うのだが————。
つまりこの国の政府文科省は、一貫してそうした学校教育をしてきたのである。むしろ、一人ひとりの個性や能力を生かしまた伸ばそうとするのではなく、人生を人間らしく生きる上では全く役にも立たない知識を、これもあれもと覚えさせるだけの画一教育をしてきただけなのだ。そして圧倒的多数の日本人は、そんな状態で現実の利害渦巻く社会に出て、生きてゆくのである。
人々にはそうした生き方をさせておいて、死を間近に控えたときになって、人生の終い方を準備せよ、最後のゴールをどう迎えるべきか心しておけ、と言うのはオカシなことだと私は思うからである。
もちろん自己の人生の終い方を考えておくことは重要なことではあろうが、それだったら、やはり人生のスタートに当たって、せめて人生の基礎を築く時期に、「人は何のために、誰のために生きるのか」を先ずしっかりと自分の頭で考え、判断することのできる教育を、国家として行うべきではないか。そうした教育がなされ、その教育を土台にして人生を生きたとき、その最後の段階で、「人生の終い方」を問うのであったなら、それはそれで意味も位置付けもはっきりするからだ。
いずれにしても、ここで私たち日本国民は、宗教家ももちろん、仏教という宗教も神道という宗教も、またキリスト教やその他の宗教についても、宗教とは本来何なのか、と根本から問い直してみる必要があるのではないか、と私は思う。
なぜなら、宗教は、どんな宗教であれ、つまるところ、人間としての生き方を教え導いてくれるものではないか、と私は思うからだ。
ある特別な能力のある人、難行苦行の修練を積んだ人でなくてはそれは判らないものだとするとしたら、それは本来の宗教のあり方としては間違っているし、それは宗教家の傲慢さだとさえ私は思う。
そしてその態度は、宗教そのものを社会一般から引き離し、私たち一般人の日常生活と切り離してしまうことを意味するのである。
それに、そもそも、子供が誕生した時には神社で、結婚式はキリスト教会で、葬式はお寺でという発想そのものが、すでに宗教を、その何かを考えずに、形骸化していることではないのか。そしてその態度こそ、本来あるべき宗教を汚しているのではないか。
最近、よく、「癒し」「ヒーリング」という言葉が聞かれるが、果たして宗教をその程度に見ていて、それで、人は、本当に心は癒され、また救われるものなのだろうか。
ところで、自分の親の葬儀を出した時もそうだったし、また自分の兄、親戚、友人、知人そしてお世話になった方々の葬儀に列席あるいは参列させていただいた時もそうだったが———ただしそうした葬儀は、すべて仏式で行われたものであるが———、そうした葬儀に臨む度に、私は、そこの葬儀場で疑問に思わされ、感じさせられて来たことがある。
それは、お坊さんたちが次々と種類を換えて唱えてくれるお経の文言そのものが、少なくとも私には難しすぎて、何を言っているのか、何を意味しているのか、さっぱり判らないと感じられたと同時に、なぜこのようなそれを聴く者にはさっぱり意味のわからない文言で読経をするのだろう、果してそのような読経をすることにどれだけ意義があるのだろう、ということである。
そしてさらにこうも思った。聞くところによると、それが正確かどうか自信はないが、葬儀でお坊さんが読経する目的は、故人の魂が、行くところなくさまよっていることなく、済度して、「この世」から「三途の川」を無事に超えて、「あの世」=「黄泉の国」=「冥土」へと心安らかに旅立てるように「引導」を渡すことだとのことであるが、それからすると、お坊さんが読経しているのは、故人のために、その故人に向って語りかけているということになる。
しかし仮にそうであったとしても、永遠の眠りについた故人はその読経を聞いてその意味がわかるとでもお坊さんたちは言うのであろうか。
そもそも、お坊さんを除いて、あの経文の意味が判っている人、理解できて聞いている人は、過去、葬儀に参列したことのある人のうち、何パーセントいるだろう。
確かにその読経に対して、“有り難い”と思って聞き入っている人も中にはいるかもしれない。
でもその場合も、その文言の意味は多分わかってはいないのではないか。
つまり、ほとんどの人はそのお経の文言の意味も判らないままに、厳粛なその場の雰囲気を乱さないようにと静かに聞き入っているだけなのではないか、と私は思ったのである。
このように考えてくると、結論として、そのような読経は、誰にとっても、ほとんど意味はないのではないか、と私には思えてくるのである。つまり、いかに葬儀は儀式であるとは言っても、まったく形式的なことをしているだけになってしまうのではないか、と。
もちろん、お坊さんにしてみれば、その読経あるいはその経本に書かれている文言には、在家である私などには窺い知ることなどできない深い意味があるのかもしれないが、それにしても難解だ。
そこで私は改めて思ったのである。
そもそも葬儀というのは、死者のために執り行われるものであると同時に、亡き人の死を悼んでそこに集う人々のためにも執り行なわれるものであるべきではないか、と。
そして、そこで唱えられるお経の文言については、死者がもしそれを聞いているとすればその死者にとっても、そしてそこに参列する人にとっても、言葉として、充分に理解できるものであることが必要なのではないか、と。
なぜなら、特に、どんな経本でも、そこに盛られている内容は、人間としての生き方を求めて、特別な修行を重ね、自己に厳しい生活を送る中で掴み取った人々による、生き方の極意あるいは智慧とでも言えるようなものであろうと想像するので、それだけに、そこで語られる文言は、いっそう、それを聞く者の誰もがわかる平易なものであることが望ましいのではないか、と私は思うからである。
ところが現在、この国で一般に行われている仏式の葬儀での読経は、あるいはその読経で表現されている文言はそうはなっていない。したがって参列者は、もちろん喪主を含めた故人のご親族の皆さんも、葬儀の間は、ただじっと坐って、あるいは腰掛けて聞いているしかないものとなっている———それはとりわけ病弱の人や足腰に故障を抱えて参列している人にとっては、大変な苦痛の伴うことであろう———。
それでは、せっかくその場に集い、亡き人を見送ろうとする人には、葬儀とは、故人と対面できる最後の機会となるということにしか意義を見出せなくなり、葬儀そのものはただ苦痛と忍の一字を強いられる場でしかない、ということにもなりかねないのである。
果たして日本の葬儀のあり方はそれでいいのだろうか。何のために人は葬儀を出すのか、またそれに参列するのか、その深い意味を一人ひとりが考えずに、またその深い意味を知らずに、ただ葬儀が行われるからということだけで参列しているのだとすれば、日本の伝統の宗教による大切な儀式を、心の通わない、文字どおり形だけのものにしてしまうことになりはしないか。
少なくとも、葬儀とは、故人と会える最後の機会としてそこに集う人々にとっては、ただ一時の時間を亡き人と共有するためだけのものではない、と私は思うのである。
そう思っている私は、長い読経が終った後、お坊さんから、ほんの少し、もはや故人からは聞くことの出来ない、故人の在りし日の姿や故人が生前大切にして来たことが説明されると、そこで初めて葬儀に参列してよかった、と感じるのである。
それを聞かせてもらうことにより、故人が生前どのように生きたか、自分の知らなかった面を改めて知ることができるからだ。そしてそれを聞き知ることで、故人と接した、あるいは過ごしたほんの一瞬かも知れないその時を思い浮かべ、改めて故人の存在の意味あるいは自分との関係における意味を再確認できるのである。と同時に、故人の生き方から、自分は少しでも学ぼう、という気持ちにもなるのである。
私は葬儀の主たる目的や意義とは、故人の魂が永久に安らかなれと祈るためであることはもちろんであるが、むしろ自分がその故人と人生のある時期、関わり得たことの意味と幸せを、故人と顔を合わせながら噛み締められる最後の機会、ということにこそあるのではないか、と思う。
以上のことから、私は、葬儀の行われ方、その場合もとくに読経の仕方、読経の意味、読経の文言、文言の意味とその伝え方等については、今や再考されていいのではないか、と考える。これまではあまりにも「形」だけの「儀式」でありすぎた、と考えるからである。と同時に、宗教を信じるとはどういうことか、なぜ人間が宗教を信じることが大切なのか、ということについても再考されていいのではないか、とも考える。
そしてそうしたことを考え直してみることは、日本の伝統の宗教の一つである仏教に帰依する人々の使命でもあり責任でもあるのではないか、とも私は考えるのである。
それは、今後、私たち地球人類は、温暖化・気候変動と生物多様性の崩壊等が主たる原因となって、かつて見たことも聞いたこともなかった出来事に頻繁に遭遇してゆくことになるのではないかと私などは推測し危惧するのであるが、そんな時、科学技術がどんなに進んだ世の中であっても、一人ひとりが正しい宗教心を持つことはどうしても必要になるのではないか、と私は考えるからでもある。
ところで、今日、この国の仏教は、明らかに衰退傾向にある。人々の仏教への関心も理解もどんどん失われている。私は、そのことは、仏教は日本の文化そのものを土台から支えて来た宗教であっただけに大変残念に思う。
しかしそうした事態となっていることについては、私は、ただ“時代がそうだから”といった説明だけでは済まされることではないと思っている。実際、仏教の国で、お坊さんが今もなお、市井の人々の尊敬を集めている国はあるのだから。
この国での仏教の衰退は、この国の仏教界そのものにその大部分の原因があるのではないのか。
既述した、葬儀におけるお坊さんたちのただ難解な読経だけで済ませてしまう姿もその1つだと思う。そしてますます人間らしく生きることが難しくなってきているこの世の中にあって、積極的に仏教の教えを巷に広めようとしていないこともその1つであるように思う。むしろ仏教を隔離した世界に閉じ込めているようにさえ私には感じられる。
確かに、坊さんになるには、誰も、大変厳しい修行を積んでおられるであろうことは、私も時折TVなどに映るその修行風景を見て承知し、また推察もしてはいる。
そしてそうした修行は、人間としての生き方やあり方を求める上で、ある人にとっては確かに必要で有意義なことかもしれない。しかし私は、そうした人間として生き方を求める修行は、必ずしも「お寺」とかいわゆる「修験場」と言われる場でなくとも、たとえば「娑婆」とも呼ばれる現実の社会でも十分にできるのではないか、と考えるのである。というより、むしろ娑婆での方が「生きた修行」ができるのではないか、とさえ思う。
「お寺」とか「修験場」は修行のためのいわば特殊な場、理想化された場であり、娑婆とは隔絶された空間であるのに対して、娑婆はそうではなく、様々な人間関係の中で、様々な利害渦巻く場でもあり、それだけにそこは苦しみや悩みが多く、様々な誘惑のある場でもある。修験場のように、修行一点に集中できる静寂な場ではない。
しかし私は、それだからこそ娑婆は、むしろ最適で理想的な修験道場でさえある、そんな風に考えるのである。
むしろ修験場は、いってみれば、私がかつて歩んできた科学や技術開発の分野における「実験の場」と同じに私には見える。
その実験は、ある定まった目的を達するためには無関係なこと、あるいはそれがあることでかえって求めようとする関係は撹乱されてしまうのではないかと推測される因子は予め可能な限り排除し、しかもほとんどの実験は、時間の影響のない中、つまり静的で、いわば時間が止まった状態の中でなされるのである。
確かにその結果、成功すれば、目的は達せられる。しかし、そこで得られたことは、もちろん条件付きでしか適用できない。汎用性を持たないのである。
私は、「お寺」とか「修験場」での修行を通じて掴みとられた成果としての「人間としての生き方・あり方」というのは、それと同じで、ある制約された状況の中でしか適用できない成果なのではないか、と思えて仕方がない。つまり、その修行の場であり空間の中でしか有効性を持たないものではないか、と。
実際、私は、仏教界で「高僧」と言われている坊さんが、寺を一歩出た現実社会では、娑婆の人々の生き方よりもはるかに俗物的な生き方をしていたという実例を多く耳にして来たし、私自身、実際にそういう人物を知ってもいる。
そういうことを考えると、むしろ、人間相互の利害関係の渦巻くこの娑婆という現実の社会において、そこでの矛盾や理不尽さから目を背けず、また逃避することもなく———もちろんそこには押し潰されてしまいそうな葛藤があるだろうが———その中で人間としての生き方・あり方を追い求める方が、どれほど生きた修行、応用力を身に付けられる修行になるかしれないのではないか、と私は考えるのである。そしてそこから得られた結果ほど、悩み迷う他者に対して説得力あるものはないのではないか、とも思う。
しかし私は、だからといって、理想の場での修行を否定したり、無意味としたりするものではない。それは、そうした中で掴みとった真理、あるいは古の師が難行苦行の末掴みとった真理は、それはそれで娑婆で掴みとった真理とはまた別の意味で意義あるものとなろうし、それだけにそれはそれで、積極的に市井に出て、庶民の悩みや苦しみを聞きながら、庶民にとって判りやすい言葉に変換して語りかけ、伝えてもらえれば、聞く者には、よりいっそう深遠なる真理や箴言に近づき得るようになるのではないか、と私は考えるからである。
そうすることで、私たち一般民衆は宗教の意味やその果たす役割をより正しく理解できるようになるだろうし、宗教家は宗教家で、現実から遊離しない形で、宗教の真髄をより深められるようになるのではないか、とも考えるのである。
少なくとも、人が死んだらとにかく葬儀はやらねばならないものだ、といった形だけのもの、形だけの発想はもう止めるべきだと私は考える。それでは、そこに関わる仏教は、葬式仏教、すなわち葬式という儀式をするためでしかない仏教、と言われるようになってしまっても仕方がないからだ。
なお、これまで述べてきたことは、この国のもう一つの伝統宗教である神道にとっても、ほとんど同じことが言えるのではないか、と私は思うのである。
6.6 政治ジャーナリストに求められる使命と責任
6.6 政治ジャーナリストに求められる使命と責任
本節では、次の順に問いを発しながら、それに対する私なりの理解に基づく考え方を述べるという形で論を進めようと思う。
⑴ 政治ジャーナリズムとは何か?
⑵ 政治ジャーナリズムの使命と責任とは何か?
⑶ 日本の政治ジャーナリズムはその使命と責任を果たして来たか、また果たしているか?
⑷日本の政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たしていないとすれば、それはなぜか?
⑸政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさなかった時、何が起こるか?
また実際、歴史上、何が起ったか?
⑹ 政治ジャーナリズムがその本来の使命と責任を果たせるようになるには、どうすればいいか? またそのためには、私たち読者や視聴者は、というより国民はどうすればいいか?
まず第1の問いについてである。政治ジャーナリズムとは何か?
ジャーナリズムとは、一般に、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどで時事的な問題の報道、解説、批評などを行う活動のこと。また、その事業・組織のことであるとされる(広辞苑第六版)。その範疇はきわめて広い。
具体的には、政治ジャーナリズム、経済ジャーナリズム、新聞ジャーナリズム、テレビジャーナリズム、放送ジャーナリズム、出版ジャーナリズム等々といったものがあるからである。かと思えば、分類の仕方により、生産者ジャーナリズム、消費者ジャーナリズムというものもあり、あるいは発表ジャーナリズム、結果ジャーナリズム、事件ジャーナリズム、原因追及ジャーナリズム等々というものもある。
そしてジャーナリストとは、「新聞・雑誌・放送などの編集者・記者・寄稿家などの総称」である(同上広辞苑)。要するにジャーナリズムの世界で働く人々のことである。
本節ではとくに、このうちの政治ジャーナリズムと政治ジャーナリストに焦点をあてて考えてみようと思う。
それは、先ずは、既述のとおり(2.1節)、政治というものが、どの国でも、国民にとって最も重要な社会的制度であるからということが根幹にあり、その政治の世界で起こっていることを、報道や解説あるいは批評を通じて、真実を伝えてくれる役割を担った分野であり、またそこで働く人々であるからだ。
政治ジャーナリズムの中には、その代表的なものとして新聞と放送がある。後者の中には、とくに自らをよく「公共放送」と呼ぶ日本放送協会、いわゆるNHKも当然含まれる。
なお、ここで明確にしておかねばならないことがある。それは、新聞社も放送局も、実際にはたとえば、政治部だけではなく、経済部、社会部、文化部等々といったいろいろな分野を手分けして担当する組織の集合体であろうとは思われるが、ここではその中のとくに政治部という組織を念頭においてゆく。
そこで、第2の問いである。
政治ジャーナリズムの使命と責任とは何か?
かつて、日本を代表するジャーナリストの一人と目されていた田勢氏は、その著書の中で、政治ジャーナリズムの真髄とはとしてこう述べていた。
「鋭い批判を通じて、権力をつねにチェックするところにある」(田勢康弘「政治ジャーナリズムの罪と罰」新潮社p.7)、と。
しかし、果たしてこの表現は、政治ジャーナリズムの真髄を本当に的確かつ過不足なく言い表し得ていると言えるだろうか。
この表現に現れる権力とは、書名からして当然ながら政治権力を指すのであろうが、ではその権力とは誰がどのように行使する、どのような種類の権力のことを言うのであろうか。また、権力をつねにチェックするとは言っても、それは誰のために、また何のためにチェックするのであろう。そもそもチェックするとは、どういうことを意味するのであろう。
しかし田勢氏はそこは明確にしていない。
実は既述してきたように(2.2節、2.5節)、私たちの国日本は、明治期以来、今日に至ってもなお、民主主義は未だ実現しておらず、実質的には官主主義、つまり官僚が政治を主導する、あるいは官僚があたかも主権者であるかのように振る舞う官僚独裁の国である。
しかもそれは、民主憲法下になっても、相変わらず、政治家たちによって野放しになったままだ。
官僚たちは所属する府省庁ごとにバラバラだ。公式には、本質的に公僕でしかない官僚あるいは役人をコントロールする役割と使命を負っているのは、主権者である国民から選ばれた国民の代表である政治家である。特にこの場合、執行機関である政府に関しては、その府省庁の大臣である。それは、いわば、国家における主人公である国民の代理と僕(シモベ)あるいは召使いとの関係にあるのだから、と言ってもいい。
しかし、そうした役割と使命を負っているはずの大臣たちは決してコントロールなどしていない。だいたいが「縦割り」制度それすらも止めさせられてもいないのだ。内閣のトップである総理大臣も、特に安倍晋三などは、自分ではよく「行政の長」などと嘯くが。
むしろ総理大臣も閣僚も、実質的には、官僚組織全体の「操り人形」になっている。それも、大臣は、いずれまたすぐに姿が消え、代わりの誰かが来るまでの「お客さん」でしかない。総理大臣も、官僚組織からみれば、一応いてもらわないと何かと格好がつかないという意味での「お飾り」扱いだ。
だから、政府とは言っても名ばかりの政府でしかない。ちなみに英語で考えてみればすぐにも判るように、政府も統治も共にgovernmentと表現される。つまり、政府も統治も同意語なのだ。したがって、名ばかりの政府ということは、統治もまともにできていないということである。それはそうだ。総理大臣も名ばかりの総理大臣なのだから。
ところが、この国のジャーナリズムは、こうした権力構造の実態、統治体制の実態については、私の見るところ、全くと言っていいほどに、報道も解説も批評もして見せない。
むしろ「派閥の力学」とか「永田町」いう言葉が頻繁に聞かれることからも判るように、派閥間の関係やら政界の噂話だ。
となれば、田勢氏が説く政治ジャーナリズムの真髄をより厳密に説明しようとする場合、「鋭い批判を通じて、権力をつねにチェックするところにある」をどのように修正したらいいのであろう。
それは、特に官僚独裁が政治家たちによって放置されたままの日本においてはこうだ。
政治ジャーナリズムの真髄とは、政治権力機構と統治機構の本質を分析し、すなわち真の政治分析を行い、官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発すること。
ここで言う真の政治分析とは、特定の政治体制の土台となっている不文律を疑問視し、その不文律から結果的に生じる権力関係の編み目を調査することなのである(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.143)。
しかし私は、日本の現状を見つめるとき、とくに日本のジャーナリズムには、もう1つの大きな使命もあるように思う。
それは、一言で言えば、「民主主義の擁護者」、あるいは「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官」になることであり、「日本の良心の守護者」になること、である。
具体的には、今日的諸問題ともいうべき問題———たとえば、イジメ、引きこもり、自殺、男女の平等、性差別、LGBT(性的弱者)、過労死、貧困、難民、移民、人口減少、自然破壊、温暖化、生物多様性の崩壊、農業の衰退、政府債務残高、日米地位協定、インフラの老朽化、憲法———をつねに幅広く取り上げ、それらの現象を分析し批判するだけではなく、より大きな視野の下で、より大きな関係枠の中での因果関係を徹底的に分析し、読者や視聴者に個々の問題相互の関係性と全体との関わりを示すと共に、いまの日本は全体としてどのような状況にあるかが誰もが理解できるように示すことであろう(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.8)。
第3の問いである。
日本のジャーナリズムはその使命と責任を果たして来たか、また果たしているか?
ごく一部のジャーナリスト個人を除いて、その答えは明らかに「ノー!」だ。
これまでの日本のジャーナリズム、とくに大新聞とNHKは————民放はもちろんのこと————既述の通り、国民の前に、政治権力構造の実態を解明してみせることも、「民主主義の擁護者」、「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官」、「日本の良心の守護者」になることもまったくなかったし、今もない。
むしろ官僚とともに、ひたすら現状維持や秩序維持を図っては、批判的な政治分析を邪魔立てしたり、社会の変革につながる新しい動きを敢えて黙殺したりして、民主主義の実現を阻んで来たのだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.301)。
そうした傾向が最も顕著なのが「公共」放送と自任するNHKである。公共という概念を人民・住民・国民あるいは市民と呼ばれる政治的主体からなる社会一般のことと定義するなら(第4章の再定義を参照)、NHKは決して「公共」放送ではない。むしろ実態は、政権のスポークスマンだ。
大新聞については、記者たちは、情報を得ようとする思いに余りにも固執するために、政治権力に近過ぎるほどに接近しては、政府、とくに内閣に忖度し、かえって政府のメッセンジャー役になっている。そして、国民の多様な声を実際に聞き集めようとはしないまま、自分たちで勝手に頭の中で「世論」や「民意」を創造しては、それをあたかも自分たちが代弁しているかのような論調で社説を書き、人々を誘導し、社会秩序の維持を図ろうとさえして来たし、今もそうしている。
その意味では、読売新聞や産經新聞はもとより、朝日新聞も毎日新聞も大同小異と言える。だからそれらは、ジャーナリズムと言うよりは単にメディア、すなわち媒体にすぎない。
そこでは、特定の政治家個人の醜聞を取り上げたり、派閥間の抗争の実態を暴こうとしたりすることが政治ジャーナリズムの役割と考えている風でさえある。
そうかと思うと海外情報、とくにアメリカと微妙な関係にある諸国、たとえばヨーロッパ、ロシア、中国、北朝鮮などとの関係の出来事については、ほとんどもっぱらアメリカから入ってくる、アメリカのフィルターを通したニュースを鵜呑みにして国民に伝えているだけのように見える。それを当該各国から入ってくる情報と照合したり、自社の記者を当該諸国に派遣しては彼らからの情報と照らし合わせたりして、自国民により正確で真実な情報を伝えるという努力をしている風にはとても見えない。
要するに、伝える相手である国民にとっての、真実に基づく価値の優先順位の判断に拠るのではなく、伝える自分たちの側の一方的な功利的かつ保身的な天秤に掛けた上での情報伝達媒体になっているだけに過ぎない。
結局のところ、真実への勇気、正義への勇気がないのだ。いや、共になさすぎる! それにジャーナリスト魂も余りにもか弱い。それだけじゃない。世界が普遍的価値としている自由も民主主義も、言葉として知っているだけで、その意味も価値も知らない、と私は断言する。だから当然ながら「言論の自由」についても、その意味も価値も知らない。
そんな状態だから、彼らは当然「民主主義の擁護者」ではないし、「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官」、「日本の良心の守護者」でもない。なれるわけはない。過去の悪しき差別意識や伝統や習慣を打ち砕こうとする覇気もない。
それは、例えば、日本の男女格差が150カ国中121位、政治分野での男女格差が同じく150カ国中144位、報道の自由度の世界ランキングは66位だ(2020年)という状態であっても、日本のジャーナリストには、それを本気で返上しようという意気込みすら見られないところに現れている。
第4の問いである。
日本の政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たしていないとすれば、それはなぜか?
考えられるその理由とは何か?
その最大の理由は、彼らの大多数が、その意識や価値観が相変わらず前近代のものだ、ということであろうと私は考える。
つまり、相変わらず、「長いものには巻かれろ」、「触らぬ神にタタリなし」、「波風を立てるな」、「和して同ぜよ」、「もっと大人になれ」の精神レベルを脱しきれていない、超え得てはいない、ということであろう、と私は考える(1.4節)。
その象徴的実例がいわゆる「記者クラブ」だ。100年経った今もなお、そんな制度を自己清算できていないことだ(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」双葉新書)。
記者クラブ、それはこう説明される。
「現在、省庁や国会、政党に始まり、警察、裁判所など、全国津々浦々の官公庁や役場、業界団体内に至るまで記者クラブが設置されており、加盟社は取材対象と非常に近い距離で日常的に取材を続けている。記者の連合体を『記者クラブ』と呼ぶと同時に、彼らが常駐する詰め所そのものが『記者クラブ』と呼ばれる。この詰め所には記者クラブ加盟社以外の記者は原則的に入ることはできず、当局から配られるプレスリリースなどは加盟社が独占する。記者クラブ主催の会見には、幹事社の許可が下りない限り外部の記者が参加することはできない。」(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」双葉新書p.52)
要するに、記者クラブとは、有り体に言うと、日本のとくに朝日、毎日、読売新聞といった大新聞や「公共放送」を自任するNHKを含めた、いわゆるメディアに働く人たちが、互いに「仲間」と認め合う者たちだけで群れを成して、決められた時刻にその場に集まってはそのみんなで揃って口をあんぐりと開けて待っていさえすれば、自分の足で苦労して探し歩かなくても、「メシのタネ=記事のネタ」を口の中にポンと放り込んでもらえる、旨味と便利さと快適さにおいては堪えられない巣窟のことであり、またその制度のことだ。
そしてそれは、本来、権力を気紛れに行使する者たちを鋭くチェックすべき者たちがそれをせず、むしろ情報提供者となるその気紛れ権力者と一定の距離を保てずに、擦り寄り、馴れ合いになりながら、その相手と「懇談」を繰り返しては、その一方で、「仲間」とは異質の外国人記者や彼らが異端者とみなす国内記者たちは特別な許可を得なくては同席させてももらえない、傍聴するだけで質問させてももらえない排他的馴れ合い集団だ。
それは、そんな記者クラブを成り立たせている各メディア会社はもちろん記者も、多分気づいてはいないだろうが、この国で長いこと深刻な社会問題となりながらも解決し得ないできた、というより近年ますますひどくなっている「イジメ」を生み出す社会構造と全く同じものだ。
同質の者だけで群れを成し、異質な者はみんなで排除しようとするアレだ。
この国のジャーナリストを任じている者たちは、自分たちの姿がまるで見えなくなっているのだ。一方では、平気で虐待やいじめ問題を扱っているからだ。
それは、もう、同質集団の中の一員であることに居心地の良さを覚え、そこに集えば労せずしてネタという飯のタネを与えてもらえる安易さに、ジャーナリズム精神を云々する以前に、人権という意識が麻痺してしまっているのだ。
そんな彼らが、権力(者)を見張る番犬になどなれるわけはない。むしろ情報提供者に忖度したり、ポチ化したりするのは必然であろう。
またそんな彼らだから、リリースされた情報が真実かどうか、さらにはそれが真実の全貌であるかどうか、何がしかの意図がそこに隠されていないか、本当に国民に伝えるに値する情報かどうかなど、真摯に検討したり、ウラを取ろうとする努力を払ったりするはずもない。
どの新聞も、どの放送局も、「ニュース」の扱い方や中身は同じになり、同様の論調になるのはそのためだ、と私は思う。
論説委員の書く社説も、広く世界の現状を自分の眼で見たものに拠るのではなく、頭の中で書いただけのものであろう。それはもちろん「公共」放送を名乗るNHKも同様だ。通り一遍のもので、深みがあって説得力ある報道など、できる訳はないのである。
第5の問いである。
政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさなかった時、何が起こるか。また実際、歴史上、何が起ったか?
それを考える上では、まず次のことを確認しておくことが極めて重要なことだし、また判りやすくなる、と私は思う。しかしそれらはいずれも、すでに明らかにしてきたことである。
3つある。
先ずその1つは、権力の意味あるいは定義の明確化であり、それは、他者を押さえつけて支配する力のこと、であること。
1つは、その権力が権力として成立する根拠についてであり、それは、①そうした性格を持つ権力を与えられる人というのは、つねに、選挙によって主権者によって選ばれた人であること、②そして、その人は、その権力を無制約に行使できるわけではなく、その人が権力を行使できるのは、その人が、選挙時、主権者の前に掲げた公約を実現しようとする場合のみであること。なぜなら、その人は、その公約を実現することを条件にして主権者から選ばれたのであるからだ。
なおこの権力行使の制限については、ジョン・ロックはその主著の中でこう言う。「ある目的を達成するために信託された一切の権力は、その目的によって制限されており、もしその目的が明らかに無視された場合には、いつでも、信任は必然的に剥奪されねばならず、この権力は再びこれを与えた者の手に戻され、その者は、これを新たに自己の安全無事のために最も適当と信ずる者に与えうるのである」、と(「市民政府論」岩波文庫p.151)。③それだけに、その権力という特別な力は、その権力を与えられた者がさらに他の者に譲り渡すことはできない、ということ。なぜなら、その力は、主権者から委任されたものに過ぎないからである(ジョン・ロック同上書p.145)。
そして最後の1つは、政治ジャーナリズムの最大の使命と責任についてであり、それは既述した通りのものである。
したがって、政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさないということは、この3つの要点が、国の内外の政治の世界で、きちんと行われているかどうかチェックもされずに、つねに曖昧なままにされてしまうということである。
そうなったらどうなるか。容易に想像はつく。
なぜなら、一旦権力を手にした者は味を占めて、その後は、勝手気ままに行使したがるものだからだ。一方、その者の取り巻きたちも、人間の性(サガ)として、その者に忖度し、また自己の利益のために隷従しようとしがちだからだ。
「権力は必ず腐敗する」という真理もここから生まれるのである。
またクーデターということも起こりうるようになり、その結果独裁政権が誕生する、ということにもなりかねないのである。もちろんその時には、政治からは透明性は失われ、次々と民主主義とはかけ離れた政治が行われるようになる。
1930年代から1940年代半ばまでの日本に起こった事態がまさにそれだった。
中国を含む東アジアに侵略する戦争を止められず、さらには、勝てないことが最初から判っていたアメリカとの戦争を軍部にさせてしまったことだ。
確かにその時代、「天皇制」の下で治安維持法が暴威を振っていた時代であったから、軍部を批判するのは命がけだった。天皇と政府の官僚と軍部の官僚との間の権力関係と統治関係の真実を掴み、それらの関係の本質を分析して、官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発することはもちろん、それらの三者の間の関係の真実を掴むことすら至難の技であったろう。
しかし、そんな時代でも、尾崎秀実や戸坂潤、三木清、石橋湛山、桐生悠々のような本物のジャーナリストがいたのだ。彼らこそ軍国主義やファシズムを憎み、国民の平和を心から願う本物の愛国者だった。本当に自国を愛していればこそ、理性を失った権力と命がけで闘ったのだ。
もしこの時、彼らのような本物のジャーナリストがもう少しいたなら、軍部の官僚も政府の官僚も、その意識は少しは変わり、戦争の開始の仕方も、戦争の進め方も、終結のさせ方ももう少し変わったのではないか。
実際、たとえば、この国がアジア・太平洋戦争に突入する前夜の出来事となったいわゆる満州事変勃発の際(1931年9月18日)、関東軍の破壊工作をうすうす感じ取っていた当時のジャーナリズムが、その真相をいち早く究明し、勇気を持って国民に報道していたならば、この国を含め、アジア各国民のその後の運命も大きく変わっていたに違いない、とさえ言われているのである(原寿雄「新しいジャーナリストたちへ」晩聲社p.54)。
しかし、実際は、朝日新聞も毎日新聞も読売新聞もNHKも、ウソばかりの「大本営発表」をそのまま国民に垂れ流しては、侵略戦争を側面から支持し、国民には戦争協力を煽ったのだ。
その結果が、無条件敗北による国の破滅だった。
ところがこうした経緯の真実を、敗戦後70余年経った今もなお、朝日新聞も毎日新聞も読売新聞もNHKも、公式に反省も悔恨も国民の前に示してはいない。
そればかりか、それらの大メディアは、世界も認めている、次のような決定的な真実すら認めようとはしない自民党・公明党からなる現政権を批判もできないでいる。
それは、あの戦争が侵略戦争であったこと。あの戦争では日本軍は、大陸で、「南京大虐殺」をはじめ数々の人道に反する残虐な殺戮行為をしたこと。そしてその戦争の結末が無条件敗北であったことだ。
では、今日のそれら朝日新聞、毎日新聞、読売新聞そしてNHKの実態はどうか。
それについては、今や日本の代表メディアとはされているが、実態は単なるメディアでしかなくなっている。時に、政権のスポークスマン、権力側のポチ、社会秩序維持の役割を果たしながら。
それは、1つに、文字通り「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に、同質の者の「みんなで」いまだに「記者クラブ」存続させていることから判る。1つは、選挙を通じて国民から信託された特別な力である権力を正当に行使して公約を立法化するという政治家としての最大使命は相変わらず全く果たさずに、その立法権力を官僚に丸投げしては官僚独裁を招いている実態には目もくれないでいる姿からも判る。そして1つは、政治権力機構と統治機構の本質を分析し、すなわち真の政治分析を行い、官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発することはおろか、権力者たちに近すぎるほど接近しては、彼らを忖度した記事ばかりを流している実態からも判る。
そんな状態でいて、朝日新聞も毎日新聞も読売新聞もNHKも、中国やロシアや香港の、あるいはサウジアラビアの、それこそ命がけで権力と闘う愛国者・人権派弁護士・若き政治的リーダー・真の政治ジャーナリストの姿は、己の臆病さを謙虚に振り返ることもなく、報道しているのである。あるいは、平和の尊さや人権の尊重、ジェンダーの平等、言論や表現の自由の大切さを説いて見せている。それも、それらを一応は報道しないと格好がつかないから、という風にさえ私には見える。
つまり、日本の政治ジャーナリストにとっては、彼の国の勇気ある人々の活動や、人間にとっての基本的価値は、どれも「他人事」なのだ。日本には、真実を報道しても、また政権批判をしても、暗殺されたり拘束されたりするというようなことはないことは知っているにもかかわらず、である。というより彼らには、この国には「集会・結社・表現の自由」を保障する憲法(第21条)があるということの深い意味すら理解できてはいないのだ。あるいはその憲法の精神を自ら実践しようという気力もないのだ。また、そんな風だから、憲法が「解釈改憲」されても特に気にもならないのであろう。
そんな臆病で、すぐに権力に迎合する政治ジャーナリストこそ、あのアジア・太平洋戦争の時と同様、今後も、この国がイザッ非常時というとき、いつでも権力者の言いなり報道をしては、国と国民を破滅へと導く勢力へとたちまち変節してしまうのは明らかだ。
そしてそんな彼らの存在こそ、この国を官僚独裁の国にさせ、民主主義を実現できない国にし、国民が依然として幸せになれない国にしている最大の原因となり続けているのだ。
では、第6の問いである、ジャーナリズムがその本来の使命と責任を果たせるようになるには、どうすればいいか? またそのためには、私たち読者や視聴者は、というより国民はどうすればいいのだろうか?
先ずは、私たち国民はどうすればいいのだろう?
その場合も、やはり次のことは明確に押さえておく必要がある、と私は思う。それは、私たちは、自国の憲法でも明記している主権者だということである。主権者であるとは、国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持している者である、ということだ。
「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持」とは大変重い責任の伴った権利なのである。
そこで問題となるのは、私たち国民は、その所持している「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利」をいつでも、どこでも行使するには、あるいは行使できるようになるためには、何がどうなったらいいのか、あるいは何が必要かということであろうと私は思う。
その時、まず第一に必要となってくるのが、誰が、どのような種類の権力を、どのように、また誰のために行使しているか、ということの実態をできるだけ具体的かつ正確に知ることではないか。
そうなると、その時にどうしても必要となるのが既述のような役割と使命を持っている政治ジャーナリズムなのである。
だから、私たち国民は、ジャーナリストを自任する彼らにこう伝える必要があるのではないか。
本来の政治ジャーナリズムの役割と責任を勇気を持って果たせ、と。
そのためには、まずさしあたっては記者クラブを廃止せよ、と。もし、朝日・読売・毎日の新聞そしてNHKの記者たちに真の愛国心とジャーナリストとしての矜持があるのなら、率先して記者クラブから抜け出よ、と。そして知識人としての勇気を持て、と(6.4節)。
排他的で、閉鎖的な「記者クラブ」を継続し、またそれに所属しつづけることは、ジャーナリストとしての自殺行為だからだ。記者クラブ活動を続けることは自由と民主主義の実現を望む購読者や視聴者を裏切っているだけではなく、ジャーナリストを職業として選択した自らの初志をあざむいていることにもなるのではないか、と。
それに、自分に何かと情報をくれて助けてくれる人々と、その人々にまつわる人脈関係を損なわないようにと自己検閲・自主検閲をして矛先を緩めることは、結局のところ、この国の政治を堕落させることにつながり、それは既述したように、結局は国の行くべき方向を誤らせることにもなるからだ。
政治汚職を「構造的なもの」と言いながら、それをもっぱら政治家のせいにして真の政治分析を怠り、さらにはそこに人物評価をも加えて、彼らを批判しつづけることは政治ジャーナリストであるあなた方のすることではない、と。
むしろ政治ジャーナリストの役割と使命は、私たち国民や市民の利益代表は官僚や役人ではなく政治家だけなのだということを国民ないしは読者に明確に伝えることだ、と。
その際も、自分の立場、自社の立場を明確にし、そして真実を伝えることには手を緩めないことだ、と(K.V.ウオルフレン「日本という国を、・・・」p.218)。
そして、少なくとも、一人ひとりは、自己検閲するのではなく、自らに次のような問いを発しながら、ジャーナリストとしての自身の姿勢を厳しくチェックしてみる必要があるのではないか、と。
———政治家たちは、自己の立候補時の選挙公約を実現するための政策を、法律を、条例を議会で成立させているか。政治家たちは、国民から納められたお金の使途をきちんと自分たちの責任で決めているか。この国は国連に加盟してはいるが、この国は主権国か、独立国と言えるのか。それ以前にこの国は国家と言えるのか。戦力も持たず、交戦権をも放棄して、この国は国家と言えるか。自衛隊は「戦力」ではないのか、軍隊ではないのか。総理大臣は本当に国の舵取りをしているか。国務大臣は配下の官僚をコントロールし得ているのか。とくに防衛大臣はシビリアン・コントロールを為し得ているのか。もしも自衛隊がかつての軍部のように暴走したとき、国会も政府も、その暴走を押さえられる二重三重の体制を考えて法整備をしようとしているのか。この国は民主主義の国と言えるのか。国会は本当に国権の最高機関としての役割を果たし得ているのか。そもそも国会は国権の最高機関とはどういう意味か。それを考えたとき、執行機関でしかない政府の内閣が「閣議決定」などと言っては政策や法案を議決できるのか。立法権に属する内容であっても、内閣は閣議決定できるのか。官僚は憲法や一般法をきちんと守って行政をしているか。衆議院の解散権は本当に総理大臣に所属しているのか。というより、そもそも衆議院に解散ということがありうるのか。またあったとしても、それを解散できるのが行政府の長であるというのは、議会制民主主義の観点からおかしいのではないか。なぜなら、行政府あるいはその長よりも、国会あるいは衆議院の方が権威が上なのだから。国会は国権の最高機関なのだからだ。官僚が発する「通達」や「行政指導」は法に基づかない権力行使ではないのか。各府省庁の官僚が「審議会」を立ち上げること自体、民主主義を装った非公式権力の行使ではないのか。審議会や各種委員会はその構成委員の顔ぶれで討議内容の方向がほぼ決まってしまうものであるが、それを取り仕切る官僚は、どのような客観的で公正なる基準に基づいてその委員となる「学識経験者」あるいは「専門家」を選任しているのか。そしてそうした選任方法を所管大臣はその都度きちんとチェックしているのか。政治家と役人(全体の奉仕者)のそれぞれの役割や使命は明確に区別されているか。この国は国家と政府を明確に区別しているか。政府は本当に国家の代理者となり得ているか。国家の目的とは何か。この国は、本当に三権分立が実現されているか。とくに司法権は本当に行政権から独立し得ているか。政府はすべての国民に対して法の下に平等の行政をしているか。それ以前に、この国には「法の支配」と「法治主義」が厳然と守られているのか。とくに法務省の官僚と検察は「政治資金規正法」をすべての政治家に対して公平に運用しているか。各省庁の官僚の人事評価は本来誰がすべきか。・・・・・。
もちろんその時、私たち国民一般も、自身が、権力をつねに疑い、己の権利のために闘い、政治的主体として自由と民主主義の実現のために行動できる本物の市民になることが求められている、と私は思う。
ところで、私は、本書の冒頭にて、「近代」という時代はすでに終わり、時代はもはや「環境時代」とでも呼ぶべき時代に入っているという認識の下でいる、と述べた。それは、「資本の論理」を最優先する時代ではなく、生命、それも可能な限り多様な生命が循環によって共生することが最優先される、「生命主義」が主流とされるべき時代であると。
その観点からすれば、今、政治ジャーナリズムがチェックしなくてはならない政治の領域は「近代」の「民主主義」の時代より格段に広がっている。
そこでは、これまでの人間あるいは「市民」だけではなく、可能な限り多様な生命が共存できる政治のあり方までが問われてくるからだ。
それは、人間社会での弱者———子ども、病人、老人、困窮者、国内の外国国籍の人々、あるいは日本国籍を取得した外国からの移住者等々———の権利だけではなく、地球上の生命一般の生存の権利とでも言うべき「生命権」までも、政治ジャーナリズムの対象となってくることを意味する。
こうしたことを考えなくてはならなくなっている背景には、今、人類全体が、気候変動の激化とそれに伴う異常気象の常態化とともに生物多様性の劣化と崩壊によりその存続の危機に直面している、という事実がある。
だから「環境時代」では、これまで述べて来た「近代」におけるジャーナリズムとジャーナリストの観点からだけではなく、たとえば、「たった一つの生物種の生存権と自然益」の視点にまで自らの視野を拡大し、役割と使命の枠を広げ、「そのたった一つの生物種の中の一個の個体の生存権を考えることこそ真の人類益」となる、との観点に立てるジャーナリストでもなくてはならないことを意味するのではないか。
したがってそこでは、単に権力とその行使のされ方を監視し批判するとか、また、よりよい民主主義の実現のためにとか、人権と国益という観点から権力機構・統治機構の真実を国民の前に明らかにするということだけではとても足りなくなる。
こうして、これからのジャーナリズムとジャーナリストに求められる使命と責任の最終的な姿とは、民主主義よりも質的にはるかに高いレベルの生命主義の実現を見据えながら、同時に、目先では、人間世界での権力構造の真実を国民の前に勇気を持って明らかにする護民官となり、日本の良心の守護者になることなのではないか、と私は思うのである。
私は、そうした姿勢を貫けるジャーナリズムとジャーナリストをこそ、「新しいジャーナリズム」、「新しいジャーナリスト」と呼びたいと思う。
そしてこれからの時代は、そんな姿勢を堅持するジャーナリズムとジャーナリストこそ、国民にとってはもちろん他生命の立場になって想像してみても———それはすなわち人類の将来にとっても———最大の「希望」の星となるのではないだろうか。
6.5 科学者および研究者に求められる使命と責任
6.5 科学者および研究者に求められる使命と責任
科学者および研究者として求められる使命と責任とは何であろうか。
それを考えるに当たっては、やはり、先ずは、もはや過ぎ去った「近代」において、「科学」とは、また「研究」とはどのようなこと、どうすることと理解されて来たのか、またその科学をする者としての科学者や、研究する者としての研究者にとくに求められてきたこととは何か、について振り返ってみる必要がある。
「科学」については、その代表的なものとしての自然科学に限定して見れば、それは、一般には次のように理解されて来たのではなかったろうか。
今から思えば、本来自然は、人間の眼で見えるものと見えないものとが調和的に統一した存在であるにもかかわらず、それを人間の側の都合により、一方的に見えないものを無視し、あるいは計測に引っかからないものをも無視し、見えるもの・計量できるもののみを対象にして来た。その場合も、自然の中にある、それがあってこそ自然として成り立っている多様な相互関係や相互作用を無視し、時間の経過を無視しては静的な中で捉え、質を無視して来た。その上、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮定の下に、予め全体を大まかに捉えるということもしないままに、対象である自然物をバラバラに切断し、一切の外乱が入らないように制御しては、事象を最も単純化させた上で捉えようとして来た。そしてそれを人間のもっとも知的な行為とみなしてきた。それが「科学」とされる人間の行為だった。
しかもその行為は、つねに、「資源は無限」、「空間も無限」という前提の下になされてきたのである。
そしてそうした幾多の仮定ないしは前提の下に行われた行為の結果については、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つに過ぎないものであるにもかかわらず、「客観的」で「中立」で「普遍的」で「唯一の正解」とされ、「信ずるに足る真理」とみなされて来た(4.1節の定義を参照)。
他方、後者の近代の「研究」あるいは「研究という行為」については、未だ誰にも判っていないことを誰にでも判るように示して見せる人間の行為、とされて来た。
ここで「判る」とは、それが成り立つ理由が、情緒的あるいは感覚的にではなく、客観的かつ論理的に、真実をもって、因果関係の中で説明されている、ということである。
以上のことから判るように、近代の科学そして研究とは、ある特定の人の、特定な分野への「知」的な「好奇心」あるいは「探究心」の上でのみ成り立って来たのである。
そしてその知的な好奇心や探究心の向う方向については、何の社会的な制約もなければ倫理的な制約もなかった。それだけに、その結果として得られた成果の取扱い方についても、さらには、その成果を人間に、あるいは社会に、あるいは自然に適用した結果についても、当事者としての科学者や研究者には責任はない、とされてきた。
そしてそうした科学あるいは研究を支えて来たのは、もっぱら知性であった。
以上が、自然科学に限定して見たときの、近代の科学と研究、あるいは科学者と研究者のあり方についての大凡の特徴であった。私はそう考えるのである。
ところで、そもそもそこで言及した知性には次のような特徴が見られるとは、既に述べて来た通りである。
「深みのない明晰さ」あるいは「統一のない広がり」があることである。ここに、「深みがない」とは思想がないということと同義であり、統一がないということは互いにバラバラだということである。そして知性とは、「事実の確定」と「客観的分析の能力のこと」である。
そもそも科学の「科」とは、「一定の標準を立てて区分けした一つ一つ」のことなのである(広辞苑第六版)。つまり科学とは、全体を区分けした一つひとつをバラバラに探求する学問なのだ。
だから知性は、ただ事柄そのものを事実として明らかにするだけで、その明らかにされた事柄の意味や価値については判断を控え、ただ冷静に、主観性を離れて物事のあり方を問うだけなのである(真下真一「君たちは人間だ」新日本出版社p.83)。
フランシス・ベーコンが言った「知は力なり」の「知」はいうまでもなくその知性の知のことであり、知識の知でもある。
その知は、その知をもたらす事柄の意味を問うことをしなければ、その事柄の価値の判断をもしないことを最初から前提としているために、その知には、悪用するための知も善用するための知も含まれる。「知性は淫売婦のようなもの、誰とでも寝る」とまで言われる所以でもある。「智に働けば角が立つ」(夏目漱石「草枕」)の智も、その意味するところは、智慧というよりはここで言う知に近いものなのではないか、と私は思う。本来の智慧が働いているところでは、人間関係に「角が立つ」ことは先ずあり得ないのではないか、と私などは思うからである。
そして、こうした特性を持つ知あるいは知性と結びついて人間の脳裏に捉えられ、蓄えられたものが知識であり、その知識の産物がこれまでの「近代」の技術だった、と言えるように思う。
なお、こうした知性とは反対の立場を取るのが理性である。それは「全体的な統一と綜合の能力」であり、言い換えれば「精神」の力のことであり、もっと言うならば、「理想」を立てる力のことである。また、この理想へ向けて現実を整え導いて行く力であり、物事の意味とか価値の判断にかかわる智慧と結びつくもので、智慧の力のことでもある。
それについては、既述したとおりである(真下真一著作集1「学問と人生」青木書店 p.96)。
つまり、今は過ぎ去りし近代においては、科学者とは、自分の興味のあることを興味の赴くままに研究していればそれでよかった。それが科学者の科学者たる所以とされて来たし、それなりの「成果」を出せれば、その成果の質は問われないままに、それだけで社会的に評価をされても来たのである。その場合も、とくにその成果が社会の生産力の発展に寄与しうるものであればあるほど評価も大きかった。
それだけに、科学者や研究者は、自分の研究成果が社会からどの程度大きな評価と反響をもって迎えられたかということには関心は持ちながらも、その成果が社会に対して、あるいは自然に対してどのような影響をもたらすか、あるいはもたらしたかということに関しては、責任を問われなかったために無関心でもいられた。だから科学者や研究者にとっては、自分なりに成果と思えるものを出し、それを世に発表すれば「お終い」という感覚でいられた。
以上の経緯からも判るように、科学者や研究者は、どうしても社会的問題や政治的問題には疎くなりがちだった。独善的で自己中心的にもならざるを得なかった。とにかく成果さえ出していれば————それも特に「論文」という形で————、科学者・研究者としていられたのである。
では、これからの時代の科学や研究のあり方、そして科学者や研究者のあり方とはどうあったらいいのだろうか。
私はそれは、先ずは重層的に、2つの観点から問われるべき、と考えるのである。
1つは、科学者や研究者個人において、これからの時代の科学や研究はどうあったらいいかということを問い続けること。そして自分は、一体誰のために、そして何のために科学を、あるいは研究をしているのかということをもつねに明確にしていること。そしてその際、単に知性ではなく理性をもって対象に向き合っているかということをも自己チェックしていることである、と私は考える。
もう1つは、科学者や研究者を見つめる社会あるいは私たち国民自身も、これからの時代の科学や研究はどうあったらいいかということを問い続けることではないか、と思う。
また彼らへの評価の仕方も、とにかく肩書きだけではなく、また提出している論文の数によるのではなく、彼は一体誰のために、そして何のためにそれをしているのかという観点から、冷静にチェックして見守り続けることではないか、と考える。
さらには、科学者や研究者が出した成果については、それをどう使うかは、道具と同じで、使う側の心がけというか考え一つでどっちにも転ぶものゆえに、その成果をただ歓迎するのではなく、その成果が適正に使われ、生かされているかということについても、絶えずチェックし続けることであろう、とも思う。
それは例えば、日本国憲法第12条の、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなくてはならない」と、「国民は、自由及び権利は濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」の精神と同じだ。
したがって、ここでの「適正に」とは、例えば、「世界の人々の平和に貢献しうるように」ということであろうし「地球の生態系を蘇生させ、人類の存続の可能性を高めることに貢献しうるように」ということであろう。
そして、これからの時代の科学や研究のあり方から得られる成果の取り扱い方に関しての究極の規準は、その成果は「人類にとって本当に必要なものか」、「人類の進歩に貢献しうるものか」であり、あるいはその成果の適用は、「倫理的に許されるものか」であろうと考える。
それを一言で言えば、「人類全体に対する忠誠」(故ネルー首相の言、孫崎享著の「日本再起動」徳間書店の中のp.87)なる態度を持って、「人類全体の価値」(K.V.ウオルフレン「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」徳間書店p.291)の実現に貢献しうるか、であろう。
私は科学者や研究者が自らつねに理性をもってこの態度を貫いている限り、また社会も科学者や研究者に対してこうした見方を堅持している限り、たとえば今後、ますます世界の平和を維持して行く上でも、また地球の生態系を維持しながら人類の存続を考える上でもますます重大性を増してくると推測されるAI(人工頭脳)の兵器への適用問題や、遺伝子工学の分野でのいわゆる「ゲノム編集」という問題も、かろうじて最悪の事態は回避できるようになるのではないか、と期待するのである。
とにかく、人類存続の危機にある今こそ、例えば今や「悪魔の兵器」と呼ばれる核兵器に関する次のような歴史の事実から教訓を引き出し、それを生かすべきだ。
それは、ナチス・ドイツはとうに開発を諦めていて、原子爆弾の開発は意味がなくなったと判っても、アメリカは開発を続行し、生み出してしまったこと。またその原子爆弾を使用しなくても、軍国主義の日本の降伏は時間の問題だと判っていても、それをアメリカは広島と長崎に使用してしまったこと。そしてその結果、原子爆弾の破壊力の凄まじさが世界に明白になったことによって、それ以後、世界の覇権を握ろうとする米ソ両陣営にとって、原爆や水爆が戦略兵器とされてしまったこと。その上、両陣営は、核を持つこと、それも敵よりもより多く持つことこそが相手からの先制核攻撃を防ぐことになるとの核抑止論を作り上げたが、しかしそれも、キューバ危機、またその10年後の1973年の核戦争の危機を体験することによって通用しないことがはっきりしたこと。そして今や、核兵器を所持する国が、世界を威嚇し、世界の平和と安定を乱すようになっているし、核兵器を持っていること自体が、複雑化した世界秩序の中で、偶発的な核戦争勃発の危険性をますます高めてさえいること、等々である。
なお、上記のこれからの時代の科学や研究のあり方を考える上で、もう1つ重要なことがあると私は考える。それはいわゆる科学の方法についてである。一言でいえば、これからの科学の方法は、もはや近代における科学の方法を止揚して、概略、次のような方法がとられるべきではないか、と私は考えるからだ。
第一は、研究対象を定める際、先ずは自然と社会と人間との相互関係とその全体を通覧するという作業をする。その上で、その全体を部分に分け、その中の特定部分に狙いを定めるにも、全体の中でのその部分の位置と全体との関係を確認するのである。
第二は、狙いを定めた部分を分析し、その部分を成り立たせている成分や要素や仕組みを明らかにしてゆく際にも、つねにその部分と全体との関係や、分析と綜合との調和を考慮しながら進め、また深めてゆく。しかもその際、静的にではなくつねに動的に、つまり時間的変化の中で生き生きとした姿のままに捉えてゆく。
第三は、捉えた結果としての知見については、それを最初捉えた「全体」の中に改めて組み込んでみては綜合して見る。その時、その科学研究の成果は、最終的に、「世界の人々の平和に貢献しうる」ものであるかどうか、「地球の生態系を維持し、人類の存続を可能とさせる」ものであるかどうかを、そして「人類にとって本当に必要なもの」か、「倫理的に許されるもの」かについても、今やその分野では世界中の誰よりも精通し得た立場になっている自分で、自らの責任において、最大限想像力を発揮し、また理性を働かせて、検証してみる。
その検証結果において、人間と社会と自然の全体にとって、不都合なことが推測される場合には、既述した真の知識人(6.4節)の立場で、勇気を持ってその成果を廃棄するのである。
もちろんその場合、社会も、その科学者の真の知識人としての姿勢を高く評価すべきだ。
以上のことから判るように、これからの時代の「科学」あるいは「研究」とは、そのあり方も、その成果の取り扱い方においても、近代のそれとはまったく異なったものとなるし、異なったものとならなくてはならない。言い換えれば、それは、もはやデカルトのいわゆる「要素主義」と呼ばれる科学的認識方法ないしは「近代合『理』主義」を止揚したものあると同時に、単なる好奇心や探究心に拠って成り立ったり、名声を得ようとする動機に拠って成り立ったり、研究予算獲得目的を動機として成り立ったりするというものでもない。
しかもその成果については、より普遍的な真理を掴み出すことを目的としながらも、同時に、人と社会と自然とのよりよい共存の実現と国際社会の平和維持に貢献しうるものでなくてはならない、とされるものとなろう。つまり、科学者・研究者自身も、社会的かつ倫理的責任を負うことをも義務づけられるようになる、ということである。
果してこう主張すると、“それでは、科学は進歩しない”と反論する向きもあろうが、それは、土台、「進歩」の意味の捉え方そのものがもはや旧時代のものなのである(4.1節の「進歩」の定義)。
とにかく、科学者も研究者も、そして国民の私たちも、得られた成果は、人間や社会や自然に対して良いことだけをもたらす訳では決してないということを心得ておかねばならない。と言うより、科学も技術もやはり「諸刃の剣」どころか、その成果が便利であると見なされるものであるほど、実際には、人間や社会や自然に対しては、良い面とかプラスと考えられる面よりもはるかに多くの悪い面、マイナス面をもたらしてしまうものなのだから(7.4節)。
6.4 知識人に求められる使命と責任
6.4 知識人に求められる使命と責任
ここで私が言う知識人とはどういう人のことを意味するか、それをまず明らかにし、その上で、その彼らに求められる使命と責任とは何かを考えてみようと思う。
先ず、知識人とは、真実あるいは真理の追究をこそ何よりも大切であると考えることができる人である。同時に、その追究で知り得た真実あるいは真理を、たとえそれが世間の通念、世の中での主流の見方や支配的な見解、あるいは学界の定説とは相容れないようなものであっても、それを怖れずに、どこまでも自己の学問的良心に忠実であって節を曲げない人のことである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫 p.171)。だからそれは、金銭を得ることや地位を守ることや名声を博すること、また、利害を共有する者同士で互いに擁護し合うような人々のことではない。
したがって知識人とは、真実と真理への勇気ある人々(同上書p.170)、と言い換えることも出来る。
別の言い方をすれば、知識人とは、自分にどんな結果が降り掛かろうとも、それを覚悟の上で、あくまでも筋を通して考えることを自らの責務としている人々のことである(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社 p.4)。さらには、国民や弱者の真の利益を第一に守ることを考えて、自分が発言したことについては、あるいはその発言の結果もたらされた事態に対しては、言い訳をせず、最後まで責任を負う覚悟を持っている人々のことである。それこそが本物の知識人と言えるのである。そしてそれができる人とは、独立不覊の思索家であり思想家でもある、ということだ。格好や肩書きだけの人ではない。
この国では、これまで、知識人と言った場合、一般的にはいろいろなことをよく知っている博識・博学の人とか、自分の頭を使って仕事をする人としての科学者や研究者を含めた専門家・学者・文筆家もしくはジャーナリスト、あるいは教育者や宗教家を含めた文化人とかを意味することが多かった。
たしかにこうした人々はみな、ある特定の分野については、普通の人々が持っている以上の知識を持っているし、その人たちはみな自分の頭を使って仕事をしている。
しかしこれらの人々は、とくにこの日本という国では、そのほとんどが、自分がそれまでに得て来ている知的な成果に対しても、そして自分自身に対しても、偽ることなく誠実であることよりも、いつも、あるいは最終的には、保身的観点から、損得あるいは打算で判断することを最優先する人々でありがちだった。そしてこういう人たちは、当然ながら、そのほとんどが例外なく、とくに政治的権力に対しては臆病な人たちであった。
私がここで言う知識人はそれとは明確に違う。というより、むしろそれとは対極に立つ人々のことだ。
ではなぜこうした知識人が必要とされるのか。
私は先に、私たち国民にとって「政治」というものがあらゆる社会制度の中で、人々の日常の暮らし全般とその将来に対して決定的な影響をもたらし、私たちの今と近未来の幸不幸を決定的に左右する最も重要な制度であると記して来た(2.1節)。実は、なぜこうした知識人が必要とされるかということについては、このことと関連している。
その政治において、権力というものの行使のされ方に関連する問題を、それぞれの知識人が、上記の意味での本物の知識人の観点から、知的誠実さと知的勇気をもって取り上げた見解ほど国民にとって価値あるものはないからだ。
その意味で、本物の知識人の存在は、それ自体が私たち国民一般にとっては、政治面における最大の希望であり、彼らの見解は、私たち国民一般が政治の有りようや権力行使の有りようを判断する上で最良の道標となるのである。
また、それだけに、本物の知識人が多方面に存在し、その数が多くなればなるほど、政治の有りようは国民にとって望ましいものになって行くのである。
ところがこの国では、こうした知識人、つまり、真実と真理への勇気ある人々、独立不覊の思索家であり思想家と言える人々は、今や、テレビや新聞、雑誌などを見ていても、まったくと言っていい程にいなくなっている。
中国やロシアという中央の権力者あるいは政権による言論統制の厳しい国でさえ、たとえば拘束されたり投獄されたりしても、あるいは暗殺されそうになってもなお、国民に真実を命がけで伝えようとしている人が絶えることなく現れて来ていることについては、読者の皆さんの多くもご存知だと思う。
しかしこの国日本では、今のところ、幸いにも彼の国ほど言論や表現の自由が厳しく統制されているわけではない。ところが、それにもかかわらず、国民が、とくに政治問題についての知識人の本当の声や見方を必要としているとき、政治権力に臆することなく自らの知的誠実さと知的勇気を持って発言してくれ、国民に確かな情報やものの見方、あるいははっきりとした判断の仕方を示してくれる者がいないのである。メディアで仕事をする人々についても、ほとんど同様だ———マーティン・ファクラー「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」双葉社————。
では、いったいその人々は何を怖れているのだろう。
その点、むしろかつての方が本物と言える知識人はいたのである。
たとえば幕末における中江兆民、福沢諭吉がそうだった。大正時代にあっては吉野作造。昭和に入っては、治安維持法下にありながらも、京大事件の時の滝川幸辰教授、天皇機関説を唱えた美濃部達吉博士などがどうしても思い浮かぶ。また第二次世界大戦前、戦争反対を唱えて獄死した戸坂潤、そして「小日本主義」を唱えて自由主義的論陣を張った石橋湛山、また軍部や戦争批判を続けた桐生悠々も。また比較的最近では丸山真男の存在も思い浮かぶ。
しかるに20世紀末から21世紀に入ってからは、日本での本物の知識人は絶無といった状態だ。
たとえば、阪神淡路大震災が生じたとき、またオウム真理教の一連の事件が生じたとき、湾岸戦争が起ったとき、3.11直後に東電福島第一原発がメルトダウンして水素大爆発を起したとき、あるいは、安倍晋三が憲法を無視して解釈改憲したとき、同じく安倍政権が違憲法律を強行可決させ憲法を破壊し、理論上この日本を無憲法で無法の状態にしてしまったとき、あるいは政府が、上記東電福島第一原発が大爆発を起した原因を公式に検証もしないまま既存の原発の再稼働を決めたとき、等々がそうだ。
つまり、国民が、「こんな時こそ、政治家あるいは議会や政府の事態への対応とはどうあるべきか」を知りたいと切実に思ったとき、普段、知識人あるいは専門家と目され、また自身もそれをもって任じていて、メディアにしょっちゅう姿を見せるような者の一体誰が、冒頭で述べた意味での本物の知識人としての姿を示してくれただろう。
あるいは、日本政府の主権なき対米追従外交について、従軍慰安婦問題について、北朝鮮による日本人拉致問題の政府の対応について、地球温暖化問題に対する政府の対応姿勢について、日本の主権を無視したトランプ外交に対して、またそれに迎合して自国の主権を主張し得ない安倍晋三首相に対して、メディアにしょっちゅう姿を見せる者の誰が、冒頭で述べた意味での本物の知識人としての姿を示してくれただろう。
とにかく、「森友学園」「架計学園」問題において、政府の首相と閣僚と官僚にあのような対応をさせ続け、国民の暮らしにとっても最も大切な政治を空転させたことこそが、「日本には知識人不在」の真実を、世界に向かって何よりも雄弁に証明して見せたのだ。
それは単に安倍晋三の首相としての資質の欠如、閣僚の怠慢・無責任・倫理観の欠如、官僚の思い上がりと遵法精神の欠如だけの問題ではない。
とにかく、人は、平時には、あるいは順風満帆の時には、何とでも言えるものだ。どんな立派なことも言える。
しかし、問題はイザッという時だ。その時こそが、その人の真価が問われる時だ。本来、社会的に言うべき立場の人が、言うべきことを、きちんと言えないようなならば、何の存在意義があろう。見せかけの知識人、似非知識人としか言いようがないではないか。
なぜ日本の「知識人」と目される人々のほとんどは、政治権力に対してかくも臆病になるのか。
それは、結局は、そうある方が我が身の安泰、地位の安泰、いわば我が身の安全保障になると考えるからであろう。そしてそちらを優先するということは、結局のところ、近代という時代が獲得したはずの「個」が依然として確立されておらず、「自由」、とりわけこの場合「言論の自由」さらには「表現の自由」も血肉となってはいないということなのだ、と私は思う。
言い換えれば、明治独裁政権以来、その政権の特に官僚らによって事あるごとに植え付けられて来た生き方から今なお本当の意味で抜け出ることができていない、ということなのであろう————そういう意味でも、やはりこの国は、総じて、未だ近代にも至ってはいないのだ!(1.4節)————。たとえば「長いものには巻かれろ」、「触らぬ神にタタリなし」、「波風を立てるな」、「和して同ぜよ」、「もっと大人になれ」等々といった生き方だ。あるいは、科学や大学は、本来、誰のためにあるのか、何のためにあるのか、ということが、関係者の間でも、曖昧にされたままできたためなのではないか、と私は思う。
とは言え、少なくともこの国では、仮にこうした過去の遺物的生き方からはみ出したところで、あるいはそれを無視したところで、法を犯したことになる訳ではないし、まして生命が危険に曝されたり、暗殺されたりする訳ではないのである。
となればなおさらのこと、この国の、今の知識人は、いったい何を怖れて、言うべきことも言えないのか、あるいは言わないのだろう。
私は、それは、相手の正体を知らないからであろう、と思わざるを得ない。
言い換えればそれは、幽霊を怖がるのと同じ心理、あるいは「得体が知れない」と思ってしまうところから生じる心理と同じで、そうした心理が無意識のうちに恐れを抱かせてしまうのではないか、という気がする。要するに、無知が恐怖をもたらすのだ(浜矩子「『幸せ』について考えよう」NHK 別冊100分de名著 p.67)。そしてその恐怖は、得てして、単に、漠然とした、あるいは曖昧模糊としたものから生じているだけではないか、と私は想像する。つまり「知らない」から恐怖するのだ————実は、幕末から明治期において、政府の官僚が国民を統治する上で用いた「(国民には)知らしむベからず、依らしむべし」という秘策も根本はこれと同じで、知らないことには人は恐怖する、という心理を巧みに応用したものなのだ————。
逆を言えば、その正体の何なのかを知ってしまえば、全く、“どうってことなかった”となるのではないか。
となれば、恐れを抱くその正体が何かを勇気を持って突き止めることこそが、不安や恐怖を解消する最良の方法となる、ということが判るのである。
以上のことから、これからの日本の知識人に特に求められる重い責任を伴った使命とは、次のように言えることが判る。少なくとも二つはある。
第1は、彼らに対してだけではなく、これまで国民一般にももたらして来た、政治権力がもたらす漠然とした、あるいは曖昧模糊とした恐怖の源を明らかにすることだ。
それは結局のところ、政治のシステムの実態、とくに権力構造そのもの、言い換えればどのような権力が、誰によって、どのように行使されているか、そしてその権力の行使は正当なものなのか否か、を明らかにすることなのだ。なぜなら権力とは、何回でも言うが、「他人を押さえつけ、支配する力」のことだからだ。そしてその場合、とくに重要となるのは、国民の代表であるはずの政治家と一方は公僕でしかない官僚(役人)との間の本来あるべき関係(2.3節)と、その両者の間の実際の関係との乖離についてである。
その場合、制約付きの権力を公式に負託された政治家が、その制約された範囲内での権力を正当に行使している限りは国民にとっては何ら問題はないし、また問題も起らない。官僚(役人)も、「法の支配」の下で、既存の定まった法律に基づき、あるいは政治家のコントロールの下で権力を行使している限りは、それは国民の了解のもとでの権力行使になるのだから、国民にとっては何ら問題はないし、また問題も起らない。
それは既述の、「権力の成立根拠は合意にある」との政治的原則に沿っていることに他ならないからだ。より正確に言えば、人々に対して、権限を得た人々————すなわち政治家————の意志に服従を強制する権力を与えるのは、権限を得た人々に支配される人々の同意である、と(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.9)。
考えてみればそれは当然のことである。同意もしていないような権力を私たち国民が政治家に負託するはずもなければ、そんな権力の行使に対して、どうして私たちは服従する義務などあろうか。行使を同意している権力とは、政治家が選挙の際に国民の前に掲げた公約を実現してみせるためにのみ行使するものなのである。
では政治家であれ、官僚(役人)であれ、どういう場合に、国民にとって問題が生じるのか。
それは、権力の行使の仕方やあり方が国民の合意に基づかないものであるときだ。
つまり私たち国民が服従することを同意もしていない種類の権力を、しかも同意もしていない仕方で行使するときである。
言い換えれば、法律に基づかない、法律にもないことを、あたかも法律に基づいているかのごとき振りをして、服従せよと強制して来るときなのである。すなわち非公式の権力を行使して来る時、ないしは闇の権力を行使する時なのである
したがってこんな時にも、そうした振る舞いを見せる政治権力に対して、国民に毅然とした対応が政治権力に対してできるように促すには、こんな時こそ、知識人は、臆病にならずに、そうした時の政治家ないしは官僚たちの非公式権力の行使の仕方やその時の非公式権力を行使しようとするもの同士の関係を国民の前に解明して見せることなのだ。
もちろんそうした行為は、非公式権力の行使者たちからは望ましくないことであり、不都合なことだ。解明され、暴かれたなら、恐怖への神通力あるいは魔法は効かなくなるからだ。隠されていてこそ、あることを目論む当事者らは本来は許されない権力を恣意的に行使できるのだからだ。
逆に言えば、だからこそ、その分析と解明行為は、知識人の知識人たる本領を発揮すべき分野でもあるのである。
そして知識人がそれをして見せることこそが、日本の社会が、国民の誰もが、誰を怖れることもなく、何を恐れることもなく、「法の支配」と「法の下での平等」という原則の下に、自分の言いたいことを、誰憚ることなく「本音」で言える社会になることなのである。
そしてそれでこそ、この国は「言論の自由」さらには「表現の自由」が真に実現された国ということになるのである。
またそうなれば、この自由は、政治システムに限らず、この国の経済システム、科学や教育のシステム、福祉のシステム、軍事のシステム、行政のシステム等々、すべてに波及してゆくようにもなるであろう。それこそが、この日本という国が、真の民主主義が実現した国に一歩近づくことなのだ。
これからの日本の知識人に特に求められる重い責任を伴った使命の第2は、この国に「言論の自由」や「表現の自由」という自国の憲法も保障する基本権————第19、20、21、23条————を社会的に実現させることに己の全存在をかけることであろう。そのためには、自らが、政治権力に臆することなく、いつでも、どこでも、堂々と「言論の自由」や「表現の自由」という基本権を行使して見せることである。
ではなぜそうすることが知識人にとって不可欠と言えるか。
それは、歴史を振り返れば判るように、言論の自由は民主主義の根幹を成す権利であり、言論の自由から民主主義に必要なものすべてが生まれるからである。
反対意見を言う権利、反対派を組織する権利も、である。いかなる政治的組織も、民主的な変革も、すべては言論の自由から始まるからなのだ(NHK BS1 2017年11月3日放送の「BS世界のドキュメンタリー選“自由をめぐる僕の旅”」の中でのハッカー ロップ・ゴングライプの言葉)。
ところで、「言論の自由」と「表現の自由」とは何が違うのだろうか。
前者の言論の自由は、文字通り、自分の主義や思想を自由に述べ、また発信することができるとする権利である。もちろん、その場合、相手がいることが前提となる。つまり陸の孤島で言論の自由を主張しても意味はない。
一方、表現の自由も、相手がいることが前提となる。
したがって、その意味では、「言論の自由」も「表現の自由」も共に、私たちがコミュニケーションを取り合う自由を形成している。そしてその場合重要なことは、私たち人間は、互いにコミュニケーションを取る能力を持っていることなのだ。
その場合も、両者の間で違うのは、前者はあくまでも言論という限定された行為を通じて互いにコミュニケーションを取り合う自由を言うのに対して、後者は言論だけではない、芝居であれ、演劇であれ、映画であれ、絵画であれ、また音楽であれ、表現方法の全てを含む点である。
しかし、いずれにしても、コミュニケーションの自由こそがあらゆる権利を可能にする基本的な権利なのである。
だから、もし私たちのコミュニケーションを取る権利である「言論の自由」ないしは「表現の自由」が抑圧されれば、それは自分の考えを表現する権利だけでなく、その他さまざまな権利も抑圧されることになる。
というより、権利という言葉そのものも、コミュニケーションの結果として存在しているわけである。
そういうわけで、言論の自由も大事だが、それ以上に表現の自由こそは、あらゆるもの、あらゆる社会構造、あらゆる考え、あらゆる他の権利、あらゆる法を下支えする基本的かつ根本的権利といえる。
すべてを支えるこの土台を崩したら、他のすべてをも崩すことになってしまう。
だからこそ表現の自由には、いかなる制限もあってはならないのである(同上番組の中でのウイキリークス創設者ジュリアン・アサンジの言葉)。
「個」の概念とともに「権利」の概念こそは、「近代」という時代が見出し、また獲得した最も重要な概念の一つなのである。そしてそれを土台から支えているのが、「言論の自由」であり「表現の自由」なのである。
私は、この国にそうした本物の知識人がアッチからもコッチからも輩出して来ることを願う。そしてそのことによってこの国に「言論の自由」はもちろん「表現の自由」も実現されれば、民主主義も実現し、そうなれば、現今の、この国に長いこと蔓延している精神の面での閉塞状態は瞬く間に克服され、人々の中に鬱屈している精神も解放されるだろう。さらには、この国が近い将来、特に直面することになるであろうあらゆる困難な事態をも、国民自らの力で乗り越えられる国と社会になるであろうと確信するのである。
とにかく、何事も、誰もが、本音で語れること、また他者が語るそれがどんなに自分の考えと異なろうとも、彼にはそれを語る権利があるとして認め合える社会であることが何より大切なのだ。
そしてこの国の社会がそうした社会となることは、とくにこの国の若者に、本来の若者らしい自由闊達さと溌剌としたエネルギーをもたらすことにもなるだろう。
知識人の、自身と国民に対する使命と責任は限りなく重いのである。