LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その1」

 

 今回から、題名が「持続可能な未来、こう築く」の拙著のいよいよ第11章を公開してゆきます。それは、「《三種の指導原理》に基礎を置く環境時代の『経済』の具体的な姿」についてです。

 私は、ここに描いた「経済の具体的な姿」こそ、そこに至るまでには多くの紆余曲折があるでしょうけれども、私たち人類(サピエンス)が心底から、子々孫々に至るまで、というより人類がこれまで生きて来られたと同じくらいの長きにわたってこれからも生きて行けるようになることを望むのなら、その時、選択すべき経済の仕組みは多分これしかないのではないか、と自身の20余年間の農業生活を通じて予想するものです。

 第11章の最初の節は、3回に分けて述べてゆきます。

 

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11.1「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済——「その1」

 かつてBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)と称し、経済新興国と呼ばれた国々はもちろん、アジアやアフリカのいわゆる途上国と呼ばれた国々も、今は、アメリカのような豊かな国になることを目ざして目覚ましい発展の過程にある。

 しかしどの国も、急速に発展すればするほど、その国の中では矛盾もいっそう表面化し深刻化してもいる。その矛盾の代表的なものが経済格差、すなわち貧富の差の拡大であろう。

世界中があこがれをもって眺め、それと同じようになることを目ざして目標とされて来た、世界で最も豊かな国とされているアメリカでさえ、というよりそのアメリカこそ、国内には極端と言えるほどに、世界最大の格差を生んでいる。

 因に、アメリカ中間層の男性労働者について見てみると、1978年、平均的年収はおよそ4万8千ドルであり、それに対して上位1%の年収は39万ドルであったのに対して(その比は8.1倍)、2010年には、その平均的年収はどんどん下がって3万3千ドル、上位1%(およそ300万人か)の年収は逆に110万ドルドルと2倍以上に増大している(その比は33.3倍)。

そしてそのわずか一年後の2011年には、上位1%の最富裕層が下から90%を合わせたより多くの富を持つようになり(オリバー・ストーン「もう一つのアメリカ史」第10回)、その翌年の2012年には、上位1%どころか最富裕者400人の資産の合計は、底辺に位置する1億5000万人の資産総額を上回るまでになっている。つまりわずか400人の超富裕者が、人口の半分の人々の持つ富の合計よりも多くの富を握っていたのである(ロバート・ライシュ「世界のドキュメンタリー」2016年2月15日「みんなのための資本論」より)。

 以上はアメリカについての状況だが、こうした格差状況を世界について見たらこうなる。

 世界の人口を74.3億人とすると、世界でもっとも豊かなわずか8人が所有する富は約4,268億ドルと言われ、それは世界人口のおよそ半分に当たる36億人の資産の合計とほぼ同じだというのだ(出典はオックスファム・ジャパン(2016年度調べ)BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」)。また2017年には、上位1%の富裕者の持つ富の合計は、世界の富の82%を占めるまでになっているという(TBS TV 2019年1月6日)。

 こうした結果をもたらしたのは、直接的には、一言で言えば、1980年代、アメリカをはじめ各国の間で市場経済のあり方についてのルールの書き換えがなされたからだ。ますます不平等を生むようなルールに書き換えられたのである(BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」NHKBS1)。その結果生じたのがグローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)といった経済の世界的潮流であった。そこでは、今、本来決済の手段であった「お金」に対して、「記号商品化」されて「マネー」と呼ばれるものが共存しながら、世界の実体ある物の貿易額の数百倍の、実に5兆ドル(500兆円)もの数字上の「お金+マネー」が、パソコンを通じて、毎日、国境を越えて動くまでになっているのである(福田邦夫「グローバル経済が溶かすもの」東京新聞2014年9月13日)。

 国によっては金融危機や財政危機を生み、そして世界中に、既述のような極度の格差社会を生むことになったのである。貧しい者はますます貧しくなるだけではなく、そこへ絶対的貧困をも生み、金持ちはますます金持ちになっている。そこで言う絶対的貧困とは、喰う物もない、喰う物を買うお金もないという状況に置かれていることで、単に誰かが誰かに比べて生活が貧しいという意味での貧困ではない。

 

 こうした潮流を先導したのはアメリカであり、とくにウオール街である。そしてそこに協力したのは、アメリカが中心となって第二次世界大戦後設立して来たIMF国際通貨基金)であり、世界銀行(正式名:国際復興開発銀行)であり、FRBアメリ連邦準備銀行)であった。

そして、こうした傾向が、結果的には、地球温暖化に伴う気候変動に因る影響と共に、先進国のみならず途上国や新興国の間でのテロ(テロリズム)を頻発化させてもいるのである。

間接的には、幾多の国々の内部での反政府暴動、部族間闘争、宗派対立、民族対立等を含めた内戦や紛争の原因ともなっているのである。

 

 実はこうした現状をTVなどで見ていて、知れば知るほど、私には根本的な疑問が沸き起こって来たのである。人は一体、何のために、あるいは何を求めて働いているのだろう、と。

人は、多分、一人の例外もなく皆、豊かな生活を望み、幸せになることを望んで生きているはずなのに、なぜ今の世界では、その大多数の人々には、それとは反対に、こうした不幸な事態や現象が次々と生じてくるのか、そしてそうした状況は解消するどころか、反対に、なぜますます拡大するのか、その根本的な理由とは何なのか、と。

 私は、この問いの答えを見出すためには、どうしても近代という時代の世界の人々のものの考え方や生き方を支配してきた「近代の」資本主義という経済の体制とそのシステムについて真剣に考えてみる必要があると思ったのである。

 以下では、その資本主義について、いちいち「近代の」とは断らないで論をすすめる。

 資本主義、それは全てのもの———“人間の命は地球より重い”、などとは言われるが、実際にはその命までも含めた文字どおりすべてのもの———が「お金」あるいは「貨幣」によって支配される経済であり、そのお金を資本として際限なく投じては、お金というものの増殖を飽くなきまでに求めてゆくことを本質とするシステムのこと、とされてきた。そしてそこには、道徳や倫理は不要とされて来たのである。

 そのシステムは、現実の産業社会の中では、雇用する側と雇用される側とに二分される。

雇用する側から見れば、その会社を経営し発展させて行くために、株主あるいは投資家からのその会社への評価を高めることだけが最大の関心事となる。それだけに、雇用主は、いかにしてより多くの「収益」や「利益」を生み出すかということを最重点的に考える。そのためには、一方では、働いてもらう者への賃金は極力抑え、他方では、自社が生産した物(商品)は極力多く、そして少しでも早く売りさばくことである。雇用される側にとってみれば、その企業が「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかということだけでその人の企業内での「評価」が決まり、給料等の待遇も決まり、企業の中で「出世」ができるか否かも決まってしまうことを意味した。

 こうして、資本主義経済システムの中では、雇用する側もされる側も、共に、必然的に、厳しい競争環境の中に置かれることになる。

 そしてそのようなあり方が企業内では常識とされ、またそうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されているかのように人々に思われているこの現実の社会では、各企業が利益を上げるためには、たとえ人があるいは人々の共同体が生きて行く上で不可欠な水や空気や土壌といった一次財を台無しにしても、その行為は「近代」の経済と経済学から見る限り「経済」的と見なされて来たのである。むしろ反対に、一次財を守り環境を維持する行為にコストがかかるとなれば、結果的に企業の収益を下げることになるから、それは「不経済」だと見なされて来たのだ(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.57)

 つまり資本主義が支配する社会というのは、その中の個々の人間の人間としての多様な側面、例えば誠実である、正直である、他者に思いやりがある、あるいは芸術・芸能面やスポーツ面に優れている等々といったことは、直接的にはまったく評価されない社会なのだ。

ただ、今言った「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかという観点からのみ評価される。そしてその観点からのみ「出世」できるか否か、「待遇」が良くなるか否かが決まってしまう。そうして、一つの組織の中にあって、頂点に上り詰めた者がいわゆる「成功者」と評価される。

 それだけに、そうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されていると信じられてきている資本主義社会では、今言った意味での成功者や出世者だけが過大なまでに評価されてしまう。

 その結果、その社会の圧倒的多数者には、あたかも「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」だけが人生において最も価値あること、価値ある生き方、賞賛されるべき人間であるかのような価値観あるいは人生観を知らず知らずのうちに植え付けて行き、それを強迫観念にまでさせてしまうのである。

 あるいは、その結果として、昇進し、出世して、待遇が良くなればいい生活ができるようになるという意識が世の中の常識となって行くことによって、「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」にならねば人間としての価値を認めてもらえないのだ、という錯覚した強迫観念すら知らず知らずのうちに植え付けさせてしまう———ただし、とくに日本の公務員の世界では、民間企業のように、社長以下社員一人ひとりが汗水流して働いて、より多くの収益を上げ、その収益によって自分たちに給料が支払われたり、翌年の事業をどのように展開するかということが決まってしまったりする仕組みにはなっていないために、というより俸給の原資も事業の資金も全て、税金という形で毎年自動的に入ってくるために、公務員の頭には、民間企業のような競争原理や「経済」的とか「不経済」的といったコスト意識は働かない。そうではなく、公務員の世界では、既述したように(2.5節を参照)、組織に縛られた強迫観念が常に働いているのである———。

 しかし民間企業の世界であれ公務員の世界であれ、共通に働くその強迫観念とは、結局のところ、「お金」に縛られた利害関係であり人生観であり、「お金こそすべて」という価値観である。

 たとえば、公共放送と自任するNHKでも、毎日、それも日に何回となく「為替と株の値動き」を報道するが、こうしたことが公然とあるいは疑問の余地がないかのごとく、まるで当たり前のように報道されること自体、そしてそれを聞く側も当たり前のように受け取ってしまうこと自体、現代に生きる私たちが、道徳や倫理を抜きにして、また道理を忘れて、文字どおり「お金」に無意識・無自覚に支配されて来たことを裏付けるのである。

なぜなら、「為替と株の値動き」が報道され続けるということは、それを聞いて、為替や株を売買することでより多くの私的利益をお金という形で得ようとする人がいる、それもこの社会にはかなりの数の人がいるということを意味しているのだからである。

 しかしそこには、少なくとも次の問題意識が欠落している。

1つは、「為替と株の値動き」など個人の利益に関わることであり、果たしてそのようなことに、

「公共」放送と自任するNHKが関わるべきことなのか、という問題意識だ。

もう1つは、為替の変動にしろ、株の値動きにしろ、それは株や外国為替を持っている人にとっては自分に降りかかる損得を計る上で大きな関心事ではあろうが、たとえそうだからとしても、それらの値動きは、それらを所持している人自身の具体的な労働や社会的貢献によって変動するものではなく、むしろその人のまったく与り知らぬところで、与り知らぬ人々の努力と犠牲の上で変動するものであるゆえ、ましてや為替も株にも無関係、無関心な視聴者もいる社会で、そのようなものをいちいち報道する必要性があるのか、という問題意識である。

というより、そのようなものをいちいち報道するということは、国民の支持に拠って成り立っている放送局自身が企業の非人道的側面に目をつむり、持てる者と持たざる者との間の格差を公然と助長していることでもあるのでは無いか、という問題意識だ。

 それは次のような意味である。

社会には、株式も持たない(持てない)人々の方が多い。また、特に小泉政権時代以降、非正規雇用の人々も激増している。その人たちは、正規雇用の人たちと同じ仕事をしているのに賃金は安く抑えられている。性差別によって、同じ仕事しているのに、待遇が男性より差別されている女性も五万といる。残業代も出ないまま過重労働を強いられて居る人々も五万といる。つまり適正な賃金が支払われることはなく、搾取されているそうした人々の存在こそが企業収益をいっそう上げていて、その結果として企業評価が上がり、株価が上がるという面が強いのである。

 確かに、株主にしてみれば、株式を所有している企業の収益が上がって株価が上がってくれればそれで満足な訳で、そのとき、自分が投資家となっている企業の経営者がどのような手段と方法で収益を上げたかなどということには、通常、まったく無関心なのだ。

 そうした、ある意味で企業の非人道的な背景を持つ株の値動きなど、なぜNHKがいちいち報道する必要があろう、ということだ。

 また為替について見ても同様で、それは母国と外国との間で経済的ないしは政治的状況が刻々と変化することによって母国と相手国の通貨の間に相対的価値の変動が生じて為替のレートが変わるわけであって、その場合も為替を所持している人の努力とか貢献とは全く無関係で、むしろ一切与り知らぬ事情によるものだからだ。にも拘らず、為替を持つことで、莫大な私的利益を得る者がいるというのはおかしいではないか、ということである。

 ところが、こうした状況には目もくれずに、庶民の間だけではなく経済学者の間でも、経済低迷が続く中で、ますます“雇用を創出し、経済を刺激する政策が必要だ”という掛け声だけが叫ばれているのである。それはまるで、それしか経済を活性化させる道も、庶民の生活状態を改善する道もないかのようだ。

 こうした掛け声が叫ばれ、またそれが支持されるということは、仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうるという認識が、誰にとっても「常識」にさえなっているからであろう。

 

 しかし、私はここでも疑問に思う。

たしかに仕事あるいは働き口があることでお金を得ることはできるだろうが、ではそれで本当に人は心まで豊かになれるものだろうか。また、しみじみとした幸せを実感できるようになるものだろうか、と。

もちろん仕事のない人、働き口のない人にとっては、とにかくどんな仕事でもいいから仕事に就きたいとは切実に願うだろう。

しかし、人間にとって仕事に就く、あるいは職に就く、もっと広く言えば、肉体労働も頭脳労働も含めて、労働するということの目的は「お金」を得るためだけなのか、ということなのだ。そうではないはずだ、と私は思う。

 ではそもそも人間が労働をする、仕事に就くとはどういう意味を持つのか。

是が非でもここは明らかにされねばならない。

 直接的には、仕事に就いて労働するとは、自分の腕・脚・頭・手をそれ自身我が身に備わっている一つの「自然な手段」として運動させるということになるのであるが、実はこの運動によって、その人は自然に対し働きかけてそれを変化させると同時に、その過程を通じて自分自身の人間性をも変化させるのである。だからこそ、人が仕事に就いて労働することで、生産された物は商品であれ何であれ価値を持つのである。つまり生産物の持つ価値の源泉は人間の労働にあると言うことができるのである。そして正にこのことから、人間の労働こそが富を生み出す、とも言い換えることができるのである。

 実は仕事に就いて労働することにはもう一つ重要な意味がある、とされる。

それは、仕事は、その人の自由意志を正しい方向に向け、人間の中に潜む放縦とか野獣を手なずけて、よい道を歩ませるという面だ。それだけに仕事は、その人の人間性をただ変化させるだけではなく向上させ、活力を与え、最高の能力を引き出すように促すのである。

こうして、仕事と仕事の場は、その人間に価値観を明確にさせ、人格を向上させる上で最良の機会となり舞台となるのである。

 人間は、仕事が全く見つからないと絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではない。いま述べたような、規律正しい仕事だけが持っている、人間を豊かにし、活力を与える要素が失われてしまうからである(E.F.シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.72)。

 こうしたことから、その人の人間性は仕事を通しても培われる、とも言えるのである。

 なお、仕事の役割については、仏教経済学の観点からも同じようなことが言われていて、そこには少なくとも三つあるとされている。

1つは、人間にその能力を発揮させ向上させる場を与えること。1つは、仕事を他の人たちと共にすることを通じて、自己中心的な態度を捨てさせること。そして3つ目は、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すことである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.71)。

 だから、仕事がない、仕事に就けないということは、最初から、こうした機会を失わせてしまっていることを意味する。

と同時に、雇用する側が仕事というものを労働する者にとって無意味で退屈でいやになるような、ないしは神経をすり減らすだけのようなものにすることは、せっかく各人の人格を向上させうる機会と可能性を奪い、あるいは潰してしまうことを意味する。ましてや自殺ないしは過労死に追い込むなど論外だし、犯罪行為とさえ言えるのではないか、と私は思う。

 しかしそうなってしまいがちなのは、雇用する側が、人間よりもカネに執着するからであり、労働する者への人間的思いやりを欠くからである。

しかしそれも資本主義の本質がもたらすことなのである。

 実際、資本主義が支配してきた現実の社会では、仕事あるいは労働は、すでに「人間の人格を向上させる」という役割を持たされてはこなかったし、仕事場(職場)はそれができる舞台になってもこなかった。

むしろほとんどの人間は、全体システムの中の単なる一歯車となって動き回るだけで、職場で働くことを通じて、かえってその精神を病み、健康を害してさえいる。

とくに日本では、既述のカロウシ(過労死)という日本語が世界の公用語にまでなっている事実がそれを証明している。職場の重労働による自殺が増えているというのも同様だ。

 それだけではない。日本の場合、仕事や労働は家庭にまで悪影響をもたらしてきたし、今もいる。

家族関係を希薄にさせ、親子間の愛情を薄れさせ、愛情豊かな子育てを困難にさせ、人生の余暇を犠牲にせざるを得ないものとさせているからだ。

 また日本の労働あるいは仕事は、打ち込めば打ち込むほどに自然に対してはより大きな負荷を与え、それを汚し、あるいは破壊する性質のものとなりがちだった。

 以上の事情を考慮すると、「仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうる」という理由付けは、もはや過去のもので、ほとんど通用し得なくなっていることを知るのである。

 実際、今、日本における非正規雇用の労働者や派遣労働者そして請負労働者については、代わりはいくらでもいて、いつでも「使い捨て」のできる労働者ということで、企業収益を絶対とする資本主義市場経済の犠牲にされているのだ。

 過労死そして自殺という悲惨な死について私はいつも思う。もし、当人が、働くこと、働いている内容に意義を見出せ、心からの誇りをも感じられていたならば、よほどの過酷な労働環境の中でも、「生きがい」が精神も体をも支えてくれて、なんとか過労死や自殺にまで追い込まれることはなかったのではないか、と。

 こうした状況は、たとえば、世界の「幸福度ランキング」を見ても頷ける。

日本は世界の中で58位だ(2019年)。G7、主要7カ国の中で最下位、アジアの中でも、台湾、シンガポール、韓国よりも下回る。1位はフィンランド、2位はデンマーク、3位はノルウェー、4位はアイスランド、5位オランダと、北欧勢がずらりと並ぶ(10.2節をも参照)。

 ただし、その際の判定条件は、GDP健康寿命、腐敗のなさ、社会の自由度、他者への寛大さ、そして社会的支援の6項目である。

 こうして次のことが結論づけられるのである。

労働の意味については、哲学者の考えるそれも、仏教経済学の観点からも、人間を人格的に向上させるという点において共通しているのである。そのいずれからも、労働の意味と価値は単に「お金」を得るためだけではないことがはっきりした。

であれば、なおのことこれからの環境時代において雇用を考えるときには、ただ雇用の創出あるいは増大を考えるのではなく、まずは労働をもたらす仕事の質、またその仕事を仕事として成り立たせる経済とそのシステムをも同時に考えなくてはならない、となる。

 

 

10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

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10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

 本章のこれまでは、私は、この国の中央政府の中の、先の文部省そしてその看板を架け替えただけの現在の文科省による教育行政とそれに拠る教育の内容について考察してきた。

そしてその結果とは、批判を怖れずに敢えて一言で言えば、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づける。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だった、と。

それは、この国の子どもたちや若者たちの心身の健全な発達を促すどころか、一人ひとりの個性を殺し、しかも、持って生まれて来たであろう能力をも開花させるどころかそれをも殺してしまい、一人ひとりの内面には———それを外に爆発させるか否かにはその人なりの忍耐力とか精神力あるいは理性の程度等によって個人差があるとしても———、社会に対するはげしい怒り、憎しみ、不信感そして孤立感を植え付け、その人格を歪めて来てしまった、と言えるからである。

 そのことが現象として顕在化して来ているのが、そしてその顕在化度合いがますますひどくなっているのがたとえばイジメであり、虐待であり、また引きこもりであり、不登校なのであろう、と私は推測する。“誰でもいいから、人を殺したかった”、という若者が出てくるのも、その現れだと私は見る。

 逆に言えば、小学校の時から、いえ、保育園や幼稚園の頃から、その頃にはもう既に現れていたであろう一人ひとりの個性や能力を見逃さず、それらをその子一人ひとりの特性と見て、保育園や幼稚園、そして小学校以降も、画一教育などせずに、先生を含めた周囲のみんなでその個性や特性を認め合い、認め合うだけではなく互いにそれを励まし合い育て合っていたなら、各自は、自分の存在が周囲から認められているということを自分で確信できるようになるだけではなく自分の居場所にも確信が持てるようになって、生きることにも自信が持てるようになり、それがその後の学校生活においても、また社会に出て後も自身の支えとなり、他者をいじめようとか、虐待しようとかいうような気持ちなどほとんど生まれようはなかったのではないか、と私は思う。引きこもりについても同様だ。

誰でもいいから殺してみたかった、などという破れかぶれの気持ちなど誰が持とう。

 つまりは、彼らは皆、国民の代表であるはずの政治家が国民の意思を汲み取り、代弁する形で作ったのではなく、自分たちの利益だけしか考えない政府および財界の、過去の組織の記憶の中に生きる冷酷な官僚たちによって作られてきた政府の教育システムのまぎれもない犠牲者なのだ。その教育システムとは、明治期の国策である「殖産興業」「富国強兵」の延長としての「果てしなき工業生産力の発展」という暗黙の国策を実現するためのものだった。

 要するに、明治期と同様————明治期は「お国のために」であったが————、今度は「企業のために」、相変わらず国民を、その一人ひとりの尊厳や基本的権利などは度外視して、既存の秩序に従い、経営者に従順で、ひたすら馬車馬の如くに働く労働者として育て上げるためのシステムだったのだ。「モーレツ社員」とか「社畜」などという言葉は、そういう風潮の中で生まれた言葉だった。

 なお参考までに記せば、これまでのこの国の教育費や学費は、国民から選ばれた代表であるはずの政治家としての総理大臣も文科省大臣も配下の官僚をコントロールするどころか、共に官僚の操り人形となる中で、官僚の思惑どおりに教育費は決められて来たために、教育に対する公的支出の対GDP比は43カ国中40位という状態なのである。

 

 本来あるべき学校教育あるいは学校教育の究極の目的とはこういうものではなかろうかとして、私は私の考えるそれを提案して来た(10.3節と10.4節)。

 しかし、よくよく考えてみると、これからの教育行政のあり方としては、それだけでは到底不十分だと気付くのである。各地域によって生まれも育ちも違う児童生徒を一片の紙っぺらを通じての画一的で単一な能力評価法により評価するというシステムそのものが問題だと思うからであるし、それと、受益者負担という原則、それも最終的な受益者は誰かということを考えてみると、教育費あるいは学費を児童生徒あるいはその親族に負担させるというのは理に合わないと考えるからだ。

 そこで、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかということを根元に立ち返って考えてみようと思う。

 そのためには先ずは、なぜ教育がなされる必要があるのか、そもそも教育は誰のためになされるのか、ということを明らかにする必要がある。

 そこで、人一般を取り上げて、こう考える。

もしその人が自然の中で、ロビンソンクルーソーのように一人で生きているのなら、つまり集団で共同体(コミュニティー)というものを構成していなかったなら、その人は特に教育を受ける必要もないことは明らかだ。一人であったら何かと不自由ではあろうが、それでも、いつでもどこでも、誰に迷惑をかける訳ではないのだし、まったく自分の望むとおりに生きればいいのだからだ。だからそこでは教育とか教養などまったく無用となる。

 ところが、その人が社会ないしは国家という共同体に生きているとなれば別だ。

そこでは教育、またできれば教養も求められるようになるからだ。

 なお、ここで言う教育とは、すでに述べてきた究極の目的としての教育、あるいは真髄としてあるべき教育のことである(10.3節参照)。

 なぜなら、共同体を構成する一人ひとりがそのような教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ。

 できればさらにそこに、一人ひとりが教養をも身につけられるようになれば、その共同体を構成する一人ひとりの関係のあり方はより円滑になり、その共同体はより心地よい共同体になるからである。

 こうして、なぜ教育がなされる必要があるのか、の問いの答えは明らかになった。

 では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか。

 いずれにしても、教育を受ける主体は明らかである。

小中高校では児童生徒である。大学では学生である。

では、その教育は、主体とは異なる誰かが受けさせなくてはならないものなのか、それとも、受けさせる受けさせないに拘らず、主体の意思によって、受けるも受けないも決められることなのか。

 あるいはまた、たとえば、単に「義務教育」と言った場合、そこでの義務とは、誰の、何に対する義務なのか。具体的には、1.主体の教育を受ける義務のことか、2.主体の保護者または親権者の主体に教育を受けさせる義務のことか。3.主体でも保護者・親権者でもなく、社会または国という共同体としての、主体に教育を受けさせる義務のことか。

 私はつい先ほど、なぜ教育がなされる必要があるのかとの問いを発し、その答えとして、共同体を構成する一人ひとりがそのような真髄としての教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ、とした。

 もちろんその教育を受ける過程で、あるいはその教育を受けた結果として、教育を受けた一人ひとりは、その人固有の個性と能力を開花させ発展させ、その個性と能力をもって共同体である社会なり企業に貢献すれば、それ相応の対価を得られて、それはそれでその一人ひとりはその生命・自由・財産をより安全に守られる条件は得られるようにはなるだろう。

 しかし、それはあくまでも二義的な効果である。一義的な効果は、なんと言っても、社会あるいは国という共同体を集団で営なもうとしたその当初の目的がよりよく実現されてゆくことである。

しかもその「当初の目的がよりよく実現されてゆく」の中には、単に個々の構成員の生命・自由・財産が守られるようになるというだけではなく、個々人の人格も磨かれ、共同体としての社会や国は道徳的にも精神的にも次元を高めてゆき、結果として社会共同体ないしは国という共同体の総合力をも高められる、という効果も含まれる。

 こうして、これで、「では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか」の問いの答えも明らかになった。

 そして以上の二つの問いに対する答えから、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかという問いに対する答えをも確信を持って答えられるようになるのである。

 それは、社会あるいは国という共同体が共同体として教育費あるいは学費は負担すべきだ、それも、社会として、あるいは国としての真の力を高めようとするのであればなおのこと全面的に負担すべきである、と。

 とにかくこの国では、教育についてのこうした原則に立ち返った議論も、教育費あるいは学費は本来誰がどういう理由で負担すべきかという議論も、国家の重大事項だというのに、国権の最高機関である国会で議論されたことはついに一度もなかった。

政治家という政治家は、国民から選ばれることを望みながら、政治家になってしまえば、国民の利益代表であることを放棄し、官僚に一任し、依存しっぱなしで来たのだ。

 とにかく、教育こそ、そしてその中身が普遍的であればあるほど、より多様で、より多くの人材を生み、それは、社会や国を真の意味で豊かにするのである。いや豊かにするだけではない。耐性のある力強い社会や国にするのである。その意味で、教育のあり方こそ、その国の民の興亡を大きく左右することになるのだ。

 

 ところで、この国の学校教育は、明治期以来、文部省、そして現在はその看板を架け替えただけの文科省という中央政府の一省庁によって、全国を統一的かつ画一的に支配され、統治されてきた。

そしてその省庁による教育行政とそれに拠る教育の内容は、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づけてきた。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だったからだ、と。

 したがって、既述のような意味で教育の究極の目的あるいは教育の真髄というものを考えた時、既存の教育行政や教育システムそして教育内容は、学校教育のあり方を正しく導けるはずはない。

 では、その正しい学校教育のあり方とはどういうものなのだろうか。

私はそれを考える上でヒントになるのは、次の問いの答えを考えることなのではないか、と思うのである。

それは、“国があってこそ個人がある”という考え方が正しいのか、それとも、“個人があってこそ国が成り立つ”という考え方の方が正しいのか、というものである。

この国では、明治期以来、ずっと、一貫して前者の立場で個人をとらえ、学校教育を考えてきた。

 しかし、結論から言えば、その答えは、どちらでもないし、またどちらでもある、ということだ。

すなわちそれはちょうど「個と全体」の関係と同様に、その二つは互いに切り離して二者択一的に捉えられるべきことではなく、両者を「調和」の関係にあるものとして捉えるべきであろう、と私は考えるからだ(4.1節での「調和」の定義を参照のこと)。

なぜなら、周りを見渡してみても、生きているのがその人一人だけだったら、規則も必要なければ道徳も必要ない。でも、個人が集まり、その共同体としての社会が出来てゆく過程で、すでにその社会を成り立たせ、あるいは国を成り立たせ、またそれらを維持するためのさまざまな規則やしきたりが同時並行的に必要となって、できてゆくようになるからだ。またそれらができていかなくては社会も国も維持できなくなるからだ。

 つまり、“個人があってこそ国が成り立つ”し、また、“国があってこそ個人がある”のである。

 このように考えると、教育のあり方についても、教育を受ける主体はあくまでも児童生徒あるいは学生ではあっても、そのあり方というのは、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育でなくてはならないと同時に、共同体としての社会ないしは国のためにもなる教育でなくてはならない、ということになる。

 であれば、やはりこのことからも、明治期以来このかた、常に一貫して国の中央政府の省庁である文部省と文科省による、“国があってこそ個人がある”とした考え方に基づく全国を統一的、かつ画一的に支配してきたこの国の学校教育のあり方は間違いだったということが再確認できるのである。

 したがって今後は、これを教訓として、学校教育のあり方としては、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育も同時並行的になされるべきだとなる。それは個人の個性や能力を尊重し、それを積極的に伸ばす教育のことだ。

 なおここで、国はそれぞれの地域の集合体であるということを考えるならば、そのそれぞれの地域が自身でそれ固有の個性や特性を伸ばし得て活力を高めることができれば、結果的に国としても活力と耐性のある国になりうる訳であるからして、これからの学校教育のあり方については、次のように結論づけることができるのである。

 それは、これからの学校教育のあり方については、各地域に任せるべきだ、と。

言い換えれば、もはやこれからの教育のあり方と教育内容は、中央集権的に、国の中央政府が全国を画一内容で、画一的に統制するというのではなく、各地域に地域化のための自決権を与えて任せるべきなのだ。

またそうであってこそ、その地域が固有に抱える問題を自発的主体的により良く解決しうるようになるだろうし、地域の歴史や文化をより良く継承し発展させられるようにもなる、と期待できるのである。

 そうでなくても、各地方の事情も判らずに、中央の事情と判断だけで統治される、統一的かつ画一的な教育というのは、起こりうる多様な事態に対する対応力や適応力を持てなくする。つまり耐性が持てなくなるのは明らかなのだ。

 

 では、教育の地域化に伴う教育内容とはどのようなものとなるのだろうか、またどのような内容とすべきなのだろうか。

 以下は私が考えるものである。

 それは、次表に示すように、大きくは3種類の内容からなる。

1つは、いうまでもなく、地域や時代によって変わることのない、「教育の真髄」とも言える、既述の、学校教育の究極の目的である。

2つ目は、「各地域固有の自然や文化そして歴史に関わる内容」で、これも必須とするのである。

3つ目は、児童生徒がそれぞれ「自由に選択できる内容」である。

 

表 − 地域化されたこれからの時代の教育とその内容(私案)

教育の究極目的

地域教育の必須内容

自由に選択できる学習内容

10.3節に述べたとおりの内容

・郷土の自然史(郷土の気候風土と生態系)

・郷土の伝統文化とそれの人類史との関係

・母国語の標準語と地元方言の学習

(その中には、毛筆による習字も含む)

・郷土の宗教とその歴史

・郷土の伝統的農業、林業水産業

いずれかの体験

・日本の古典

・外国語

・「近代」科学

・数学または論理学

・諸外国の歴史または地理

古典力学と熱力学

 

 もちろん、ここでは憲法(第21条)が禁止している検閲であるところの教科書検定もまったく無用だし、「学習指導要領」も、少なくとも全国画一のそれはまったく無用となる。

というより、そもそも憲法違反の検定という「検閲」などはしてはならないことだし、ましてや官僚という公務員には国民から与えられてはいない権力をそのような形で行使するなど言語道断だとして、官僚をコントロールすべき立場の文部科学大臣は、憲法第15条第一項を即刻適用して、検定をした官僚は躊躇なく罷免すべきなのである。

 

10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

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10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

 前節では、私は、学校教育において、児童生徒に最も重点を置いて教えなくてはならないこと、すなわち学校教育の究極の目的とは何かについて考え、また述べて来た。そこでは、児童生徒一人ひとりが、「人間とは何か」から始まって、「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」ということについて、自身に向って問いを発することができるようになるとともに、その答えをも自ら見出しうるように教師が教え導くことであろうとして来た。

そしてその答えを一人ひとりが見出す上で役立つと思われる重要概念にはどのようなものがあるかと考え、さらにはそれらを互いに関連づけて児童生徒一人ひとりが真に深く理解できるようになるにはどうしたらいいかとも考え、その結果として、それらを「人間」と「社会」と「自然」という3つの大きな枠組みの中でのキーワードにして表現して来た。

それらを学年が上がるにつれて、具体的段階から抽象的段階へと思考を広げて理解できるよう配列したものが先の表である。

 そして児童生徒一人ひとりが、その3つの枠組みの中に含まれるキーワードで示される、人生を社会と自然の中でより良く、そして人間らしく生きる上での重要諸概念の意味を、互いに関連させながら統一的により正しく理解できるようになるためには、教科としての「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」は必修科目とされるべきであろう、として来た。そしてその私なりの理由も述べてきた。

 それに対して、数学・英語(あるいはその他の外国語)・理科(物理・化学・生物・地学)・社会(地理・公民)や技術家庭科・体育・音楽・美術・工芸・民芸・芸能等は選択科目の範疇に入れるべき、として来た。なぜならば、それらの教科は、児童生徒がこれからの人生を生きて行く上で、「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」の重要度に比べれば、はるかに軽くまた限定的と思われるからである。それらの選択科目は、児童生徒が、自分にとって必要、あるいは特に履修し習得してみたいと思ったならば、その時選択すればいいのである。またその方がはるかの効率は上がるのである。そしてその際、教育委員会をはじめ学校側も、その選択が自由に叶えられるような態勢を準備しておけばいいのである。

 とにかく、これからの学校教育のあり方については、もはや従来の文部省ないしは文科省の学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないと私は考えるからだ————と言うより、次節(10.5節)にて詳述するように、これからの教育は地域化され、各地域の自治に任されるべきだと私は考える。それは、各地域には各地域固有の歴史も文化もあるからだ。それを知らない中央政府(の官僚)が、自分たちの野心で全国を統括的に教育しようとするのはそれ自体無理がある。そんな無理を通そうとするから、必然的に画一教育とならざるを得なくなるのである————。

 そこで私が学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないとする理由は次の2つだ。

 1つは、歴史教科書がその典型であるように、文部省ないしは文科省が認可した教科書は、すべて、「表現の自由」を保障する日本国憲法第21条に違反する「検定」という名目の検閲をした教科書だからである。

 つまり、本来なら、文部省も文科省も、自国の児童生徒たちには自国の憲法を守るよう、政府として率先して維持し、保護し、擁護して見せねばならないのに、実際にはその反対に、憲法違反を常習化した上での教科書だからだ。

日本政府が戦後ずっと追随してきたアメリカ合衆国の大統領さえ、就任時には、「私は、合衆国大統領の職務を誠実に遂行し、全力を尽くして、合衆国憲法を維持し、保護し、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓しているのである。

 文科省の官僚自身が憲法違反をして教科書会社に作らせた教科書を、なぜ日本の児童生徒がそれを教科書として用いなくてはならないのであろう。

 もう1つは、実際、そうした学習指導要領と教科書と教育システムによって、既述したように(10.2節)、この国の児童生徒の個性や能力は却って大量に殺されてしまい、大なり小なり、人格も価値観も歪められてしまい、その結果、この国は世界に通用し得ない国にさせられてきてしまったのだからだ。

 そもそも児童生徒に押し付けてきた文部省・文科省のその教育とは、児童生徒一人ひとりを規格化し、国の経済発展に貢献できる安価で従順な労働力商品として大量生産するために、主として政府と財界の官僚たちによって作られてきたものなのだ。

 

 ところで、私は、本書では一貫して、近代という時代は既にとうに終り、私が名付けるところの環境時代に入っているとして来た。

その環境時代とはもはや人間中心の時代ではない。ということは、自然は人間の幸せ実現のためにあるとして来た時代でもないということである。人間中心の時代ではないのだから、人間の「自由」と「平等」と「民主主義」だけを普遍的価値とする時代でもない。「資本の論理」、「市場経済」を至上とするギャンブル経済の時代でもない。もちろん資本主義の最後の形態であるグローバリゼーションやネオ・リベラリズムの時代でもない。また化石資源や化石燃料がその経済を主力となって支える時代でもない。

 とにかくその経済は、人々に大量消費を煽り、貧富の格差を必然的に拡大し、分断をもいっそう進めるだけでしかないものだった。その結果、それ自体が生命であり、その表面上にあらゆる生物が生きるこの地球の生態系をも汚染し、また破壊するだけでしかない経済だった。

 新しい時代には新しい時代の思想の体系が要るのである。新しい経済のシステムが要るのである。またその新しい経済を支える新しいエネルギーのシステムが要る。

そうでなくては前時代の矛盾や行き詰まりを超えられないし、飛躍的な発展は望めないからだ。

 そしてそれら全てを根底から支える原理が要る。それを私は《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》である、としてきた。

 こうした原理の下で、新思想と新経済システムと新エネルギーシステムの3種が一式揃って初めて、人類と他生命が現在直面している存続の危機、絶滅の危機を根本から解決または回避することが可能となる道が開けるのではないか、と私は考えるのである。

温室効果ガス排出を削減ないしはゼロにするというだけでは、《エントロピー発生の原理》を満たしてはいないがために、そしてその原理が教えてくれる科学の限界、技術の限界をも指し示し得ないがために、温室効果ガス排出を削減することの効果によって人類にとっての全面危機の到来は幾分かは向こうに送られるかもしれないが、しかし早晩、全生命にとっての母なる地球の自然のメカニズムを駄目にしてしまうと私は考える。

 本節が主題とする「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」という発想はこうした考え方を背景に導かれるのである。

 先の文部省も今日の文科省も、その教育は、この国の児童生徒を、母国の歴史からだけではなく、ほぼ完全に母国の自然からも切り離して来た。

これでは、人は誰も過去の歴史を背負い、過去からの帰結に関わって生きているという真理を理解できないし、人は誰も、自然によって、それもその自然の中に生きる他生命を喰ってしか生きることはできないという厳然たる真理も理解できないままとなる。

 また歴史をつながりの中で正しく教えないのだから、自分が今、歴史の過程のどこにいるのかさえ理解もできない。であれば、自分はどうして今の自分になったのかも判らなければ、これから自分はどこへ向かおうとしているのか、どこへ向かうべきなのかも、当然ながら、皆目、判らない。

 そうなれば、“自分らしくありたい”、“自分の居場所を見つけたい”との願望は抱いても、アイデンティティすら持てるはずもなく、精神的には根無し草になって、漂流せざるを得なくなる。

 実は多くの人々をして精神的に根無し草として、漂流せざるを得ない状態にしてしまっている原因はそれだけではない、と私は考える。

それは次のような状況も手伝っているのだ。

 今日、日本を含めて世界の人々は、誰もが、到底消化しきれないほどの莫大な量の情報が高速で飛び交う高度情報化の中で暮らしている。しかもその情報のほとんどは、人が人間として生きて暮らして行く上では不必要な情報ばかりだ。本当は、人が人間として生きてゆく上で不可欠なもののほとんどは、すでに、大方の人には備わってさえいるのだからだ。

 それに、その飛び交う情報は、どれが真実でどれがウソなのか、またどれが作られた話なのか、誰も識別もできないものばかりだ。つまり、誰もが、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことか判別もつかない情報に振り回されながら生きているのである。

 これも結局は、人は、自分で自分の精神を根無し草にし、自身を漂流させてしまっているのである。

 

 しかし、これは少し考えてみれば誰もがすぐにも気づくように、国にとっても、また国民一人ひとりにとっても極めて危険な状態だと私は考える。

それでは、危機、それも本当に生き延びられるか否かという危機に遭遇した時に、うろたえるしかなく、全くの無力にならざるを得ない状況だからだ。

 IPCC気候変動に関する政府間パネル)も全世界に警告を発しているように、特に今後は、気候変動の激化や生物多様性の消滅等の現象、あるいはそれらが重なって生じるであろう現象によって、地球人類は、人類史上、かつてない大惨事に遭遇してゆくことが想定されるからである。

 つまり、目の前に、自分の生死を分けることになるかもしれない事態が生じたとき、普段から、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことかの判別もつかない情報に振り回される暮らしをしていたのなら、目の前の現実に対処できるわけはないからだ。

そのとき、スマホがあればいい、というわけにはいかない。SNSという手段があるからいい、などとは絶対に言ってはいられない。その人がどんなに最新のデジタル通信手段を使いこなせたところで、多分、その時には、ほとんど役には立たない。

それは「お金」とて同様だ。その時、どんなにたくさんお金を所持していても、そんなお金は自分の命を救うことにはほとんど役には立たない。

 むしろそのような時に本当に役に立つのは、自分はどうしたらいいか、どこに逃げたらいいか、どう対処したらいいかを瞬時に判断しうる力だ。

 ではその力はどうやったら身につけられるのか。

それは、可能な限り、それもできるだけ幼い頃から、自然の中で色々な体験をすることである。

それもできるだけ友達と一緒に、である。

例えば川遊びでもいい。林や森で遊ぶのもいい。山や丘で遊ぶのもいい。

そうして、そんな遊びの中で、自分たちが必要とするものを自分たちだけで、自分たちの手で、手元にある道具を使いこなして、作ってみることである。

 実は、こうした遊びこそ、教科書では決して学ぶことのできないこと、すなわち真の「生きる力」というべきものを学ばせてくれる。

 人間は誰も、頭で覚えたことは、どんなに記憶力の優れた者でも、いつかは忘れる。でも、体で覚えたことは違う。特に幼い頃のことであればなおさらだ。“三つ子の魂、百までも”とはそういうことである。そしてその体験は、必要に応じていつでも思い出せる。

 

 これからは、本当に、こうした「生きる力」を身につけることこそが求められる時代になってゆく、と私は確信するのである。そして、こうした身体で体験した遊びは、どんなにお金を叩いても買えない、価値ある財産をもたらしてくれる。

なぜなら、その体験こそ、その人を生涯にわたって、支え、守ってくれるからだ。

 そこで、これを学校で、たとえば自然体験制度(以下、単に体験制度と呼ぶ)と位置づけて、できるだけ早い時期から実践するのである。できれば、幼稚園・保育園の時からの方がいいだろう。なぜなら、幼い時ほど、何の抵抗もなく自然と交われるだろうからだ。と言うより、本来人間も自然の一部なのだからだ。

 ここで言う「自然体験制度」とは、都会に住んでいる子どもも田舎に住んでいる子ども、ある一定年齢に達した順に、自然豊かな環境、できれば山の中腹の森林や渓流のある地域内に設けられた寄宿舎での生活を共にしながら、自然経験豊富な指導者の下で、一定期間、自由に遊び、自由に暮らしてみるというものである。

 こうした制度を、文科省の全面的財政支援の下で、あるいは各各地方公共団体自治の下で、本物の知識人の助言の下に、柔軟に制度化するのである。

 ただし、この場合特に大切なことは、児童生徒の親、特に母親は、そうした遊び体験を“危険だから”と言って止めないことである。我が子の将来の安全無事を祈り、自分で自分を助ける力を身につけて、たくましくなって欲しいと願うなら、親自身が、ぐっと自分を抑え、子供達の自由な判断に任せることである。

 確かに、その時、子供は怪我をするかもしれない。重大な事故を起こすかもしれない。そんな時、子供は「痛い思い」や「辛い思い」を強いられるかもしれない。

でも、命を落とすことさえなければ、その体験こそが、児童生徒一人ひとりに、教科書では決して学べない、お金でも決して買えない、次に列挙するような絶大な教育効果をもたらしてくれると、私は信じるからである。

 1つは、児童生徒が、突然、まさかの事態に遭遇した時、その体験が蘇り、「こんな時には何をどうすればいいのか」、あるいは「こんな時、どうすれば危機から回避できるか、どうすれば危険に陥らないで済むか」を体が瞬時に教えてくれるようになるからだ。

 1つは、既述した、学校教育の究極の目的である「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」、そして「人間とは何か」の問いに対する答えを、自分で掴み取ることができる助けになるからだ。

 それは、子どもたちが、自然の中での生活を通じて、野生の動植物や鳥類・昆虫・菌類そして水生生物等々の生態をよく観察し、それらが互いにどう生きているかをも現地でありのままに観察し、気象の変化を体験し、星々を含む天体の動きを体を通じて観察することにより、自然とは何か、生命とは何か、またその生き方の真実とは何かを知ることで、上記の問いの答えのヒントを自分で見出せるようになると考えられるからだ。

 1つは、現実世界と仮想世界との確かな識別眼を養ってくれて、それは大人になっても仮想世界に惑わされることのないように導いてくれるという点である。

 1つは、自然の偉大さを理解できるという点である。

 自然界には、厳密な意味で、色と言い、形と言い、二つとして同じ物はない。一つのものでも、時間の経過とともに絶えず変化して行き、さっきの姿をとどめない。だから自然は見飽きるということがない。いま目の前に見えているその姿を見逃したなら二度と永遠に見られなくなるということ、あるいは、自然は全体の中のどこの部分について見ても、全体と寸分の隙間も狂いもなくつながり、果てしなく広がっている、・・・・、ということも含めて、自然は、注意深く見ようとしさえすれば、限りなく多様であることに気づかせてくれると同時に、人が人間として生きる上で大切ないろいろな知恵に気づかせてくれる。その意味で、自然はつねに無矛盾で完全無欠の体系を成していて、それだけに、あらゆる意味で最良で最高の教師であることを気づかせてくれる。

そしてそのことを通じて、自然に対して尊敬と謙遜を抱けるようになる。自然を傷つけてはならない、としみじみ思えるようになる。

 そしてもう1つは、この体験制度を通じて、児童生徒が自分たちの国日本はすばらしい自然によって成る美しい国であると実感できるようになる。そしてそれは、口で“母国を愛せよ”などと言葉で教えなくても、自然な形で、「愛国」の心が育まれるようにもなる。

 

 近年、日本の自動車業界でも家電業界でも、そこには大勢の「優秀な」技術者がいるはずなのに、自社製品について莫大な数の「リコール」がしょっちゅうニュースになる。

また、建築の分野でも、例えばかつての大工職人だったら当たり前にできた家の建て方の一部である、曲がった材を曲がったなりに組んでゆく木組みを今の大工はほとんどできなくなっている、ということもしょっちゅう耳にする。

 私は、こうした事態が起こるのも、突き詰めれば、彼らは、断片的な知識を数多く記憶することにおいては優秀でも、また、真実か否かもはっきりしない情報を素早く扱ったり、取り込んだりする能力においては優れていても、つまり知性において優秀でも、幼いときからの自然体験が極めて乏しく、自然がどうなっているか体で知り得てはいないし、全体を全体として見通して判断する力を養って来てはいないから、というのが最大の理由なのではないか、と私は推量するのである。

 しかし、そうなるのも、これまでの文部省と文科省の教育では無理はない。

 要するに、「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」は、某元首相の提案する「働き方改革」や「生産性革命」を云々する以前の、教育においては本質的な問題なのだ、と私は確信を持つ。

 とにかく、物事何であれ、無知であることほど危険を招くことはない。

10.3 学校教育の究極の目的------「その2」

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10.3 学校教育の究極の目的------「その2」

 そこで、本節の最後に、次のことを考え、その延長線上で、“求められる人間像”としての「小中学生」版を考えて終えようと思う。

これに関連しては既に6.1節と2節でも述べて来たが、そちらは「大人」版である。

 その場合先ず考えてみたいことは、この国では、学校を取り巻く環境の中で、何気なく、よく用いられる「あの子は頭がいい」という言い方についてである。

そもそもそこで言う「頭がいい」とは一般にどういうことを意味するのであろう。

私が推測するに、それは、せいぜい、学校で行われる一片の紙の上での画一試験の成績がいい、というぐらいの意味でしかないのではないか。

そしてそれは、これまで述べて来たこの国の学校教育の実態から直ちに判断できるように、教科書に書いてあることを、あるいは先生が授業中に教えたことを、それがたとえどんなに断片的な知識でしかなく、人生を生きる上でほとんど役に立たないことであろうとも、とにかく、ある限られた時間内で、他者よりもより多く正確に記憶することができるという程度の意味でしかないのではないか。しかもそこでは、その児童生徒の固有の能力、たとえば、音楽的才能、絵画的才能、文学的あるいは詩的才能、運動能力、手先の器用さ、精神的強靭さや粘り強さといった能力は一切考慮されない。

 つまり、「頭がいい」とは、ほとんどの場合、物事を「知識」として記憶する能力がすぐれていることのみを意味しているのである。それはいわば「知性」においてすぐれているということだ。そしてそこでは、判断する力も問題とされてはいない。

 しかし、人間である以上、誰でも、記憶したことは、いつか必ず忘れるのだ。その点、記憶すること、それも膨大な知識や情報を記憶することにおいては、どんな人もコンピュータには叶わない。しかもそのコンピュータ能力は、ITやAIが長足の進歩を遂げつつある今、飛躍的に高まっている。だから記憶はコンピュータに任せればいい、とも言える。

むしろこれからの人間の側に本当に求められてくるのは、やはり「考える葦」としての能力であろう。その「考える」の中には、考える、創造する、想像する、判断する、決断する、そして真善美を偽悪醜から見分けられる、そして人間というものを識る、自分というものを識る、社会とは何かを識る等々、のすべてが含まれる。そしてこれらは、どんなに高性能のコンピュータを搭載したAIにも出来ないはずだ。

 だから、これからの学校教育の中での「頭がいい」は、こうした「考える葦」たり得ているかどうかで判断されるべきではないか。

そしてこれからの“求められる人間像”あるいは“期待される人間像”としての子どもたちの姿とは、知性だけではなく理性でものを考えられ、判断できる子どもであるべきなのではないか。

 ここに、理性とは、全体を統一的に捉えて綜合する能力のことである。そういう意味で、理性とは知恵の力とも言い換えられる。

 一方の知性は、ものを客観視した上で、そのものの意味や価値の問題には関わろうとはせずに、ただ事実問題に関わるだけで、ひたすら分析をし、区別してみせる能力のことである。したがって知性には、どうしてもそれだけでは一面性、断片性、抽象性がつきまとい、「知能犯」という言葉があるように、また「知(性)的な人」という表現には漂うように、あるいは「知(原文は智)に働けば角が立つ」と言われるように、どうしてもある種の「冷たさ」を伴いやすいのである。

これに反して理性は、既述のとおりで、言い換えれば「精神」の力のこと。もっと言うなら、「理想」を立てる力、そしてこの理想へ向けて現実を整え導いて行く力、と言ってもいいのである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫p.13〜14)。

 そしてここでは、この知性と理性という二つの言葉とその区別は、とくに今後、きわめて重要な意味を持ってくるのではないか、と私は思うのである。

それは、近代という時代は、その時代が生んだ科学が象徴するように、「知性」が主流を占めた時代であるが、これからの時代は———それを環境時代と私は呼びたいのであるが———その知性を超えて理知、さらには理性が主流となるべき時代であろうと、私は考えるからである。

近代科学は、それが知性に支配されたものであったがゆえに、人類に物質的豊かさはもたらしたものの、精神的な発達は極度に遅らせた。そして思いやりや共感力を失わせ、経済格差を激増させ、分断を促進してきた。核兵器というそれを生み出した人類自身を滅亡に導きかねない兵器をも生んできた。また、それが創り出され、用いられたなら、地球と世界に対して、大混乱を招いてしまう生物を創り出す技術をも生んできた。コピー生物(クローン)、デノム編集のことである。

 そこで、これまでの説明だけでは知性と理性の違いが理解しにくいと思うので、ごく身近な一例を取り上げて、私なりに知性で問題を捉えるとはどういうことを言うのか、また理性で問題を捉えるとはどういうことを言うのか、その違いを少しでも明確にできるよう努めてみようと思う。

 取り上げるのは、最近よくメディアでも取り上げられるようになった「セクハラ」と「パワハラ」をめぐる問題である。

メディアも、あるいは日本政府自体も、こうした問題の取り上げ方は、もっぱらその問題が生じた時だけ、それも目の前に起っている事実としての現象のみに着目し、それに対処しようとするだけである。つまりセクハラ、パワハラという言葉を区別しながら、セクハラやパワハラが人間あるいはその尊厳にもたらす意味やその深刻度の問題には関わろうとはせず、さらにはなぜそうした問題が生じてくるのか文化的、歴史的な経緯にまでは立ち入ろうとはせずに、個々に状況・実態を分析し、その結果として個別に対応する方法を整備して終り、すなわちそうすれば事態に対処できるであろう、としているだけのように私には見える。

 実はこれこそが「知性」で問題を捉える場合の対処法だったのではないか。

 一方、理性による対処法はこれとは違う。

 セクハラやパワハラという現象は何も企業内で生じているだけではなく、日本中に見出される現象であることに先ず注目する。そして同時に、日本でのそれらの現象は今に始まったことではなく、もっとずっと以前からあったではないか、と歴史にも目を向けるのである。

 たとえば、日本の旧軍隊、とくに陸軍内では、上官がその地位を利用して、兵隊を、「鍛える」という名目の下、殴る・蹴るを常態として来たではないか、と。小中高校でも、教師が生徒を、「教育する」を理由にして、ビンタするなどという行為を頻繁に繰り返して来たではないか、と。多くの家庭でも、とくに父親が「躾」と称して子どもを殴るなど、どこの家庭でも普通に見かけられたではないか、と。そもそもそうしたことはなぜ起こりえたのか、と。そしてこれらもすべて、れっきとしたパワハラではないか、と判断するのである。

 また、通りすがりの見知らぬ女性に向って、男が、「姉ちゃん、綺麗じゃないか。オレと遊ばないか」との声を浴びせかけたり、かと思えば自分の気に入らない女性に向って、「このブス!」とばかり罵声を浴びせかけたりすることもれっきとしたパワハラもしくはセクハラなのではないか、と判断するのである。

 また、日本では、戦時中、軍当局も政府自体も集団レイプの後押しまでしていたのである(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.169)。これらもすべて、国を挙げてのセクハラであったのではないのか、と。

また、今もなお行われている、たとえば「ミス・○○○」と銘打った、いわゆる「美人コンテスト」なるものもセクハラに当たるのではないのか、と。

 つまり、今でこそ日本のメディアや政府はセクハラだ、パワハラだという言葉を流行語のように使っては社会現象を問題視するが、こんな言葉は知らなくとも、日本人は、少なくとも、明治期以来、軍隊でも企業でも家庭でも学校でも、当たり前のように、これらに当たる行為を平然と繰り返して来たのではなかったかとして、先ずは現象の一部だけを見るのではなく、出来る限りその真実の全貌や歴史の全体に迫ろうとするのである。その上で、なぜこれらの現象が日本中に見られたのか、とその理由と原因を追及するのである。

それに、このセクハラもパワハラという言葉も、日本人自身あるいは日本政府自身の発想やその政府の日本の歴史への反省と人権意識から生まれた言葉ではなく、ここでもまた外国の用語を適切な日本語に翻訳すること無く用いているだけでしかない、ということにも着目するのである。つまり、もうその時点で、セクハラやパワハラの本質に迫る態度をこの国のその方面の専門家は放棄しているではないか、と。

 さらには、理性を持って事態をじっと見ると、さらに次の問いをも発せざるを得なくなるのである。

セクハラだ、パワハラだとは言うが、ではこれらは日本でずっと続いて来ている「イジメ」とどこがどう違うのか、と。むしろ根本においては、他者の、それも、その人の人間としての権利、すなわち「人権」を、そしてその人の人間としての「尊厳」を無視し侵す行為であるという点ではどれも同じ問題なのではないか、と気付かせてくれるのである。

だからそれらは互いにバラバラに捉えて見るべきではなく統一的に捉えるべきで、そうすることで初めてそこに統一的な意味付けもでき、また評価や批判もできるようになる、とも気付かせてくれるのである。またその結果として、それを克服するための統一的で根本的な解決策をも見出せるようになるのではないか、とも気付かせてくれるのである。

 ともかくも、この国では、歴史を振り返って見ると、少なくとも明治期以降今日までずっと、文部省・文科省の官僚主導の教育行政は、全国の児童生徒に対して、彼ら一人ひとりの個人としての性格すなわち「個性」はもちろん「人権」や「尊厳」を尊重する教育は敢えて避け、自由や平等そして正義よりも秩序を、自分の意見を持ってそれを主張することよりも他者と協調することの大切さしか教えて来なかったのである。

だから前節(10.2節)でも述べたように、今日に至ってもなお、政府を構成し、民主主義政治を先に立って行わねばならない政治家でさえも、個人としての人権意識もまともに育っていなければ、共同体である社会の構成員の個人としての社会的「責任」感覚もまともに育っていないのも当然である。つまりそういう教育が、この国を世界に通用し得ない国にしてしまったのだ。しかしながら、それは歴史的にそのように仕立て上げられて来たものである、とも気付かされるのである。

 理性をもって問題を捉えようとするとは、たとえばこういうこと、こういう態度を言うのではないか、と私は考えるのである。

実際、私だったら、そう捉える。そしてそう捉えることによって、セクハラ・パワハラ・イジメ・虐待・引きこもりの相互間の問題だけではなく、他の社会的・政治的・経済的な諸問題をも、個々バラバラに、それも上辺だけでというのではなく、統一的かつ根本的に解決できる策が見出せるようになるのである。

 これまで述べて来たこれからの学校教育の究極の目的とは、別の言い方をすると、児童生徒一人ひとりをそうした理知を兼ね備えた子どもに育てることでもある、と私は考えるのである。

 そこで、次が私の考える、“求められる人間像”あるいは“期待される人間像”としての「小中学生」版である。

○周りにいる一人ひとりは、あるいは地球上の誰も、個性も能力もみな違い、自分を含めて、誰も、掛け替えのない命を持った人間なんだということを心と体で理解し、納得できる子ども

○どんなに自分と違った相手でも、いつでも、どこででも、人間として、その存在価値を認めることのできる子ども

 また、人以外の他生命に対しても、たとえ人間は知り得なくても、その存在価値・意義はきっとあると想像でき、その生命を尊重できる子ども

○自分が今しようとしていることが他生命をも含めた他者にどのような影響をもたらしうるかを自分で考えることのできる子ども

○自分と他者とを比べたり、他者の真似をしたりすることは無意味である、と自ら判断できる子ども

○他者の痛みを想像し感じ取り、手を差し伸べられる子ども

○人間であること、人間性、人間の基本的権利等々に旺盛な関心を持てる子ども

○社会の既存の価値観、社会の既存のしくみ、既存の習慣などを「当たり前」として片付けてしまうのではなく、あるいは無関心なままにしてしまうのではなく、いつでも、「それは本当に必要なこと?」「それは本当に正しいこと?」「なぜそれがなくてはならない?」等々と、自らに問いかけ、考えることのできる子ども

○「読む・書く・聞く・話す」ことが先ず正しくできるようになることを通して、物事を情緒的に見るだけではなく、必要に応じて、分類し、分析し、推論し、判断し、それをさらに綜合するという論理的思考を通して自分の考えを組み立て、それをきちんとした母国語で説明のできる子ども

 また、そのことを通して、自己のものの見方や考え方を鍛え、自分の思想を持てる子ども

○物事に無関心になるのではなく、目の前の問題を問題として受け止めることの出来る子ども

またその問題に対して、単に○か×か、あるいは「判らない」として済ませてしまうのではなく、正解があるかどうかも判らない問題でも、自ら考え、自らの判断に基づいて、自らの結論を下せる子ども。そして自ら下した結論とその言葉に対して責任を負える子ども

○目先のことよりも未来のことを、断片的な知識を覚えることよりも大きな流れを捉まえようとする子ども。つまり、些細なことよりもむしろ、全体を捉えようとする子ども

自然や社会や人間についても、それらをバラバラに捉えるのではなく、互いに関連づけ、全体を統一的・体系的に捉えられる子ども

○悪いことは悪い、正しいことは正しいと自ら判断でき、たとえ少数派になろうと、あるいは自分一人になろうとも、それを、批判されることを恐れずに、人前でも堂々と主張できる子ども

○問題が自分の目の前に生じたとき、それをうやむやにせず、また見て見ぬ振りをせず、その問題を解決・克服するために、互いに対立を恐れずに、馴れ合いや安易な妥協を排除し、互いの意見を出し合い、みんなで納得行くまで議論し、みんなで目標を定め、それぞれの能力や適性に応じた役割分担を決め、決めた方向にめいめいが責任をもって動き、みんなで定めた目標をみんなで協力し合って実現させて行く、という問題解決の仕方が出来る子ども。そういう意味で協調性のある子ども。またそのことに歓びや希望そして誇りを見出せる子ども

○自分の立っている今は過去のあらゆることの帰結であるとしっかりと理解でき、そのとき過去の非人間的行為についてもそこから眼をそむけることなく、そこから教訓を引き出し、その教訓を心に刻みながら、未来を見つめられる子ども

○「文化」ということの意味と役割を理解でき、自国の自分の地域の文化だけではなく、他地域の文化、他国の文化をも、共に同等に尊重しうる子ども

○パソコン内でのゲームだけで遊ぶのではなく、「現実」の自然、それも出来るだけありのままの自然に出来るだけ幼い頃から分け入り、そこで友と遊び、その中で、動物的直感を豊かに育てると同時に動物的反射動作がとれるようになるとともに、「現実」と「架空」の違いをきちんと識別できる子ども

○自分が窮地に陥ったとき、あるいは自分のしたことや関わったことに責任を問われたとき、他者に対してだけではなく自分にもいい訳をしない子ども

○自分の利益のために、知識の過った活用をしない子ども

10.3 学校教育の究極の目的 ——————「その1」 

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10.3 学校教育の究極の目的 ——————「その1」 

 

 以下は私の子どもが通っていた高等学校の校則のほんの一部である。

2012年時点でのものである。

 

1.服装・規則面での確認事項(    部を含めて、そのままを転記する。)

①スカート丈は膝です。基本的に膝の皿の中心にスカートの下端が来るように。あまり短くしている場合には厳しい指導があります。切って加工してしまった者は、全員買い換えてもらっています。

②頭髪は自然で清潔感のある状態にして下さい。頭髪違反(加工による茶髪)には、継続指導のチェックがされています。頭髪は一切手を加えないで下さい。もみあげは耳たぶの下のラインまで。横は耳をすべて隠さないこと。

 女子は髪留めは黒・紺・茶で目立たないもの(シュシュは禁止です)。髪の長いものは束ねるように。

 なお、天然の赤毛・天然パーマの場合は、登録することにより服装検査のたびに指摘されてイヤな思いをすることがなくなります。ただし、すでに加工してしまった人はたとえ天然でも登録はできません。完全に地毛に戻ってからの登録となります。

 服装違反者は再検査や定期的チェックを受け、良くならない場合やさらに加工した場合は、保護者の方にも来校していただき指導します。

③ピアスやネックレス、指輪など装飾品は付けない。化粧・マニキュア禁止。

 ピアスについても、継続指導のチェックがされています。

④ブレザーの袖まくりや、シャツを堕して歩く、ネクタイリボンを緩めて着用するなど、だらしない服装は当校生の品位に関わる問題です。シャツの色は白になっています。また、制服調整期間は6/1〜6/10です。この期間は夏服を原則としますが、冬服を着用することも可能です。

 男女とも夏服は、半袖開襟シャツで、リボン、ネクタイはつけません。(女子はベスト着用)。

 長袖ブラウス(ワイシャツ)の場合はリボン、ネクタイを必ず着用します。ネクタイを加工しないように、その場合は買い換えてもらいます。

 

 ここにあるのはあまりにも瑣末な校則だ。そしてこれは、教師が、あるいは学校が、どれほど“人間を育てる”ことを教育目的として掲げていようとも、生徒一人ひとりを結局は信頼してはいないとしか言いようのない校則だ。

 ところがこうした規律を乱せば厳しい罰則が待っている。そして校則はますます恣意的に厳しくなる。

 これから判るように、この国では、学校教育現場そのものが、頑固で、強情で、かつ冷笑的な態度を児童生徒という人間に植え付けている。そこで育つ生徒には、いつしかその内面に、本人も気付かないうちに、大なり小なり、社会や体制に対する憎しみや反抗心を育ててさえいる。それゆえに、非行を誘発しかねない状況をも生んでいる。そして一見もの静かで「普通の人」と思わせる当人の態度の裏側に、社会に対する、あるいは人間に対する激しい怒り、欲求不満、憎悪を隠し持つようにさせてしまう。(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.103,126)。

 

 私は、先の10.1節では、この国の政府の文部省・文科省は、自国民を信じず、また自国民が大挙して民主主義的に覚醒することを恐れて、自由や多様性の大切さを児童生徒に教えることを敢えて避けてきたということを、その根拠を示しながら述べた。教えてきたことは、そして今もなお教えていることは、そのほとんどが、誰にとっても、社会に出てどんな職に就いても、直接的にも間接的にも、全くと言っていいほど役立たない知識ばかりであった、ということも述べてきた。

つまりこの国の文部省そして文部科学省は、本来、どの国にとっても、最大で最良の人的資源であるはずの国民に対して、人間としての人格を最高度に育て、また生かすという教育行政をして来なかったのだ。本当は、とりわけ資源の乏しいこの国であればこそ、そうした政策が最も必要であったはずなのに、である。実際やって来たことは、人生の中で、人格の基礎を形成する最も大切な時期である彼らの幼少期と青春期に、「画一化」の中で「競争」を強いるという抑圧環境の中で、彼らをして頭脳の無駄遣いと時間の浪費をさせてきたのだ。結果として、その影響を外に表わすか表わさないかは個人差があるが、そうした教育行政による環境の中で育つことを余儀なくされて成人となったこの国の国民のほとんどには、その精神面で、大なり小なり、社会に対する敵意・不信感・憎しみ等々といった感情が植え付けられて来てしまっているのではないか、と私などは推測するのである。

 今日、この国では、他国、特に民主主義が実現した本物の先進国では見られない陰湿なイジメや独善的な虐待や引きこもりそして不登校という現象がますます増大しているが、それらの現象は、どれをとっても、根本のところでは、児童生徒一人ひとりをそれぞれ異なった人格と個性を持った人間として育てようとはしてこなかった文部省と文科省の教育がもたらしたものだと私は確信する。そしてとりわけ近年は、“誰でもよかった”、“誰でもいいから殺したい”などという動機に拠る殺人も目立つようになってきているが、その動機などは、正に、社会とか既成の秩序あるいは現体制に対する憎しみの発露以外の何物でもない。

 ところが、である。そうした悲しい事件が頻発しているというのに、この国の教育評論家や教育学者は、そういう状況が起こる根本的な原因までは決して踏み込もうとはしない。つまり知識人としての勇気や良心がないのだ(6.4節)。保身のためなのであろう、極めて上っ面なことで対処しようとしているだけだ。

つまり、そうした「専門家」たちは次の真理を無視している。

————人間は誰でも、いや、人間だけではない、どんな動物でも、自由が抑えられ、いつも精神的に圧迫されていたり、強迫観念にとらわれていたりしたなら、その人間あるいは動物は、精神的にあるいは性格的に正常には育たず、それはいつか、どこかで、必ず、なにがしかの歪んだ言動という形で表面に現れてくるという、心理学ではとっくに明らかにされている真理だ。

 10.2節では、今やこの国は、様々な面で世界には通用し得ない国、世界の常識では考えられない国となってしまったが、そうなってしまったのも、結局は、10.1節で述べてきたこの国の政府の文部省・文科省の学校教育と教育行政と教育システムそのものがもたらしてしまったのだと、これも根拠を示しながら結論づけてきた。

 そこで本節では、では本来、学校教育とはどうあるべきなのか、学校教育の究極の目的とは何かということについて、これも私なりに考えてみようと思う。

 

 結論的にいえば、それは、児童生徒一人ひとりが、たとえば、自ら人間として生きて行く上で次のような根源的な問いを自身に向けて発し、その答えを自ら見つけ出して行こうとし、また見つけ出せるように、教師が教え導くことであり、教え導ける内容のものであること、となるのではないかと私は考える。

————「自分とは何者なのか」、「その自分はどのようにして形成されて来たのか」、「自分は、他者と、社会と、自然と、どのように関わって生きているのか、また一個の人間として、どのように関わって生きて行けばいいのか」、そもそも「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」、等々である。

 こうした問いと答えを自ら見出せるようになることこそが、本来あるべき教育であろうし、学校教育における究極の目的と言えるのではないか、と私は考えるのである。それを自ら見出せるようになれば、たとえば、「なぜ、学校に行く必要があるのか。なぜ勉強する必要があるのか」という問いも自ら引き出せて、自ら答えられるようにもなるのではないか。そうなれば不登校を自然消滅させる。それだけではない。いじめること、虐待すること、引きこもることをも、自らそれを無意味と知り、自ら気づけるようになるのではないか。

 

 ところで、こうした問いを、自身で、自身に発し得て、教師の手助けを受けながら、自ら納得しうるその答えを導き出せるようになるには、一足飛びには無理であって、私は、せめて、私たち人間を生かしてくれている自然のことや、私たちが生かされている社会のこと、そして人間とは何かということをも、段階を踏んで理解を深められるようになっていることがどうしても必要なのではないか、と考える。そしてそれも学校教育の中で進められることが必要なのだ、と。

 そこで問題となるのは、それを、どのような考え方に依拠して、どのように進めるか、ということだ。

 そのとき、私たちが思い出さなくてはならないことは、既述したように(4.3節)、人間にとっての世界の諸価値は、どれをとっても、決して同じレベルの上にあるのではなく、あるいは同じ重みを持っているのではなく、階層性を成しているということである。

 ここで言う「世界」とは、いわゆる地球儀で見るような世界、国の集合体としての世界というものとは違い、自然も社会も人生も含めた、人間個人が生きて行く上で関わりを持つすべてのものという意味である。人間個人が関わりを持つ諸概念の全体のことである。

 階層性を成していると主張する根拠は、もし、反対に、世界の諸価値が、人間のそれぞれにとって、ただ漫然と無秩序にあるだけとするなら、あるいはそれらがすべて同一のレベル、同一の重みを持っているとするなら、私たちは、世界を、またその成り立ちを、正しく理解することはできないという真実に拠る。自然という対象の価値と社会という対象の価値の重みが人間にとって同じだったら、自然という対象の中にも、社会という対象の中にも、人間というものを位置づけることも定義づけることも不可能になる、という真実による。

 このことは卑近な例で言えば、たとえば次のような場合と似ている。

 太陽も見えず、周囲が見渡す限り真っ白い大雪原の中に我が身を置いていたなら、そのとき、自分には大地の起伏も識別できないし、自分が今どこにいるのかさえ判らなくなるのである。また、光が全く差し込まない真っ暗な空間に身を置いたなら、東西南北も判らなくなるだけではなく、直立し続けていることさえも難しくなるのである。

また、次々と生じるどんな物事・現象・事件についても、人間にとってそれらの間に重要度や緊急度において違いがなかったなら、人間は、適正に判断することも、適性に対処することも出来なくなってしまうのである。

 4.3節の階層図をもう一度ご覧いただきたいのである。

 

 では、世界の諸価値は人間にとって同一レベル上にあるのではなく、階層性を成しているということを理解する必要があると言ったとき、子どもたちあるいは若者たちは、何をどのような段階を踏んで行ったらそのことを理解できると考えられるのだろうか。

 たとえばということで、私の考えるそれを示してみる。

次表が、自然と社会が人間にとってどういう関係、どういう位置付けにあるかを理解する上で欠かすことの出来ないと私には思われる基本的に重要概念を、単語あるいは用語をもって階層的あるいは段階的に配列してみたそれである。

 

主題

具体→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→抽象

自然

「いのち(生命)」

「自然」とは

いのちの「多様性」「共生」「循環」とは

「部分」「全体」

とは

「一物全体」

とは

「理解する」「判る」とは

「分析」「綜合」とは

「論理」「科学」

「知性」「理性」

とは

「原理」「真理」

「法則」とは

社会

「異なる者どうしが共に生きる」

「社会」とは

言論の自由

表現の自由

自治」「権利」

「義務」「民主主義」「責任」「市民」

とは

「議会」「政府」

「権力」「国家」

とは

「近代」「法」

「法の支配」

「主権」とは

「言葉」「知識」

「知恵」「宗教」

とは

「自由」「平等」

「思いやり」「共感」

「私」「公」とは

「豊かさ」「幸せ」

「調和」とは

「真実」「事実」とは

人間

「生かされている自分」「掛け替えのない自分」とは

「愛」「尊厳」

「知性」「理性」

とは

「真・善・美」

「人間」とは

「生きる」

「死ぬ」

とは

「物を食べる」

「労働する」とは

「肉体」「心」

「魂」「精神」とは

「文化」「文明」

「伝統」とは

「価値」とは

 

小学校

中学校

高校

大学

 

 なお、上表に基づいて学習して行く際、次のことは常に念頭に置くようにする。 

それは、これらの諸価値諸概念を、先入観や常識に囚われず、しかもそれらを互いの間の関連性や類似性などに注意を払い、統一的綜合的に捉えてゆこうとすることである。

そうすれば、学んでゆくことすべてが有機的に結びつき、一体化して頭の中に整理されてゆくようになる。そしてそうなってこそ、その後の人生において、どんな場面に遭遇しても、学習したこれらを生かせるようになるのではないか、と私は想うのである。

 本来、知識というものは、どんなに多くを記憶したところで、それらが互いにバラバラでは何の役にも立たないのである。役立たないどころではない。そんなことに頭を使わせ、時間を浪費させること自体、罪悪だとさえ私は思う。その好例が、この国の文部省・文科省が戦後ずっと全国の学校に対して支配的に実施して来た学習指導要領に基づく教育内容であり教科内容だ。そしてその一結果が、10.2節に述べて来たことだと思う。

 

 しかしこれだけではいくら何でも児童生徒には、“一体これは何だ”ということになってしまいかねない。そこで、上記の表を構成する、単語で表わされる諸概念の意味をより正しく理解するために、いえ、正しく理解するだけではなく、これらを内的な関連性をもって統一的に理解できるようになるためには、やはり教師によってどうしてもきちんと教えられるべきものは何かとなると、教科としての「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」ということになるだろう。

そこでこれらを必修科目とするのである。

 それに対して、現行教育制度で言う数学・英語(あるいはその他の外国語)・理科(物理・化学・生物・地学)・社会(地理・公民)・技術家庭科・体育、そしてその他の実技的な音楽・美術・工芸・民芸・芸能等はすべて選択科目とするのである。

 これらの選択科目は、児童生徒が、先の根源的な問いに対する答えを自ら導き出し得るようになったそのとき———それはたとえ学校を卒業した後でもいいのである———自分の将来にはどうしてもそれを学習することが必要と感じたなら、そのとき自由に履修できるようにすればいいのである。そのような教育システムを構築すればいいのである。

学問でも技術でも芸能や芸術でも、自分が心からそれを学習したい、学習することが必要と感じたときにそれに取り組むのが最もよく吸収され、身に付くものだということは、私たちが体験的にも知っていることである。むしろ、現行学校教育制度のように、本人がその必要も興味も感じないのに、外から無理矢理教えようとするのは、かえって本人の内心の反発を招き、逆効果としかならないのだ。

 大事なことは、自ら必要と感じ、望んだ時に、学校も、社会も、いつでもそれを後押しし、実現可能となるような社会的経済的なシステムや制度が整っていることだろう。そしてそれを自分で納得行くまで学んだ後は、いつでも元の社会的立場に復帰できるようになっていることであろう。それを社会全体で受け入れられることが保障されていることであろう。

 

 ところで、ではなぜ「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」を必修科目とするか。

その理由は次のように説明できる。

 国語について。

 それは、日本国籍を持つ私たちが、日頃、ものを考え、推論し、判断し、あるいは自分の考えをまとめ、それを表現して人に伝えて行く上で不可欠な手段だからだ。そしてその国語は、その人が生まれた際に母親から耳元で愛情を持って語りかけられる瞬間から死の床に就くまで、文字どおり生涯を通じて片時も頭からも耳からも離れることなく、伝達手段や表現手段として用いられるものだからだ。

 そもそも人間は、頭の中でものを考えるときには、論理的にであれ、感情的にであれ、つねに言語をもって、言語を駆使して考えていると考えられる。

それだけに国語は、その人のものの考えのレベルを高め、深め、あるいは幅に広がりを持たせて行く上でも決定的な役割を為す。その際必要になるのは、まずは自分が言いたいこと表現したいことの輪郭あるいは概要を定めることであり、その後に、その定めた輪郭ないしは概要を聞く者読む者によりわかりやすく表現するために、より適切な言葉を駆使して筋道立てることであろう。すなわち論理的に組み立てる力である。その際必要となるのが語彙力である。

より豊かな語彙力があれば、それだけ、聞く者読む者にとってより正確に伝わるからだ。

 例えば雪は白いものだが、場合によっては、あるいは情景、あるいは見る位置、光の加減によっては、ただ白いというだけではなく、無数の姿を見せる可能性があるからだ。それを表現しなくてはならなくなる。

 このように、国語を学ぶとは、母国語を正しく使えるようになって、表現したいことを、多様な表現を通して、相手により的確に伝えることができるようになることなのだ。

そして言語を正しく使え、多様な表現ができるそうした語彙力豊かな人が増えれば増えるほど、この国の言語文化も豊かで多彩になり得るわけである。

 反対の言い方をすると、一人ひとりがその正しい意味も捉えずに、安易に外来語をカタカナ表現するだけであったり、流行語だけを追いかけていたりしたならば、もっと言うなら、自分の頭で考えることをせずに受け売りばかりをしていたなら、語彙がますます乏しくなり、言葉をますます正しく使えなくなり、言語感覚をますます衰えさせてしまう。そしてそのことは、その人をして、ますます思考力を低下させてしまうことにもなる。

つまり、語彙の豊かさや表現力の豊かさは、思考力の豊かさ、観察力の豊かさ、感性の豊かさと一体でもあるのだ。

 ちなみに昨今、メディアでも頻繁に聞かれる言葉とはこんなものだ。

なんでもかでも「やばい」。かと思えば「半端ない」。「めっちゃ、・・・・だ」、「すごく」ではなく、「すごい、・・・・・だ」、といったものだ。

そして、例えば、せっかく母国語には「尊敬する」という立派な表現があるのにリスペクトと言ったり、伝説をレジェンド、遺産をレガシー、復讐をリベンジ、意欲・やる気をモチベーション、共同作業をコラボレーションと言ったりと、母国語が全く粗末にされている。

かと思えば、道徳の崩壊をモラルハザード、警報をアラートと言ったりする。あるいは緊急時、避難する場所をお年寄りでも誰もがわかるように示さなくてはならない地図を、ハザードマップなどとも言わせる。

その他、エビデンス、ファクト、アーカイブトリアージ、フェイク、サプライズ、リスク、等々、挙げればきりがない。

 果たして、こういうカタカナ文字を連発する人は、先人が長い時間をかけて洗練させてきた母国語による言語文化を自ら貧困にしていることに気づいていないのだろうか。なんのつもりで、こうしたカタカナ語を使うのだろう。私は非常にその人の浅薄さを感じてしまうのである。そしてこの姿勢は、私は、祖国の伝統の文化や正しい歴史への無関心さと無関係ではないのではないか、とも思っている。

 以下に必須とする歴史でも哲学でも宗教でも、またその他の選択科目でも、それらの内容を自ら考え、それの理解を深め、幅を広めるときにも、頭の中でのその作業を手助けしてくれるのはやはり国語なのである。

 こう考えて行くと、私たちが国語力を高めることは、結局は、地域力を高め、国力を高めることになり、反対に、国語力を劣化させ、貧弱にすることは、地域力を弱め、国力を低下させて行くことになる、ということが理解できるのである。

 なおその際、せっかく身に付けた語彙力を、文章を書くときなどに、それを読む人に、より強く、より良い印象を与え得るようになるために、日本語の文字を、漢字をも含めて、より美しく書けるようになること、そのためには小中学校の時代から、国語を学ぶということだけではなく、同時に書をも必修科目として習う(習字)ということも、よき言語文化を後世に残してゆくという意味で、私はきわめて大切なことなのではないか、と考えるのである。

 歴史について。

 私たちが今をより良く生き、未来に向かってもより良く生きようとする時、そこには、普通、誰にも羅針盤はない。それだけに不安である。そんな時、その不安を少しでも解消してくれるだけでなく、むしろ指針なり行くべき方向を見出させてくれるもの、それこそが歴史だからだ。 私たち誰もがこれを学ぶ意義はそこにある。

 学校においても同じだ。むしろ学校においてこそ、若者たちが未来に展望を見出して生きるには歴史を学ぶことがどうしても必要なのだ。

 ただし、その時、間違った歴史、ウソの歴史、事実無根の作り話である神話などを聞かされると、若いだけに、脳裏に刻み込まれたその記憶は生涯消えることはないため、その影響はヘタをすると聞かされた本人にだけではなく、そうした歴史を学ばされた世代からなる社会にも、挙げ句の果ては国にも、悪い影響を与え、場合によっては個人や社会や国の行くべき道を誤らせてしまう可能性すらある。

 たとえば既述して来たこの国の「建国」にまつわる話がその好例の一つだ(2.2節)。このでっち上げた神話が、今もなお、日本国民に真のアイデンティティを持つことをどれだけ妨げ、また真の愛国心を持つことをどれだけ妨げていることか。

 このことから判るように、学ぶ歴史はつねに正しい歴史であることが絶対に必要なのだ。

だからといって、後ろ向きに、あるいは過去に向って生きるということではない。そうではなく、いつでも、正しい過去を知り、そこから教訓を引き出し———このことがとくに大事なことなのである———、それを糧にしてその延長線上にある今を力強く生きるのだ。またそれでしか、未来に向かっては、安心できる生き方はないのである。

 過去を忘れたり、うやむやにしたり、あったことをなかったことにしたり、今を過去を切り離したり、あるいは、今だけあるいは目先だけを見ているということではいけない。それを続けている限り、今自分は過去と現在と未来の時間軸の中のどの位置に立っているのかも判らなければ、そこに自分が立っていることの意味も、自分という存在が何なのかという自己認識についても、見い出せないままとなる。

そうなれば、自分の行くべき方向も道も、たとえば自分はどうあらねばならないか、何をすべきなのかということも見えてくるはずもない。

 このように、歴史は、とくに自身と自国についての真実の歴史を知れば知るほど、自身にきわめて有用な指針や示唆を、そして確信を与えてくれるようになるのである。

 実際、これから人類は、と同時に自分を含めた一人ひとりはどういう方向に生き方の舵を切ったらよいのかを見出そうとするときにも歴史はきわめて有効だ。「物的豊かさ」を求め続ける経済活動により自然環境を著しく劣化させあるいは破壊してしまい、その結果、他生物を巻き込む形で人類そのものの存続が危ぶまれて来ている人類のこれまでの生き方を過去とし、その延長線上に今を位置づけ、さらにその延長線上に未来を位置づけてみれば、明解な答えを指し示してくれるのである。

 哲学について。

 これを必修とするのは、哲学は人に、ヒトが人間になるとはどういうことか、人間は何のために生きるのか、どう生きるべきか等々について、その根本のところを教え導いてくれる学問だからだ。

周囲の人々の言動やメディアに軽々に乗せられることなく、物事の価値についての判断基準や世界観を自分の中に自分のものとして持てるようになるためには、とくに現実世界との間で利害関係を持たない時期に、可能な限り先入観なしに、あらゆる物事を、じっくりと、何が正しく、何が間違っているか、何が必要で何が不必要か、何が本物で何がそうでないか、また、何が美しく何が醜いか、何が真実で何が偽りか、何が善で何が悪か、等々といったことを考えてみることが、その人のその後の人生をより確信を持って生きられるようにするために、どうしても必要だと私は考えるからだ。

 既述して来たように、この国の文部省そして文科省の教育行政が劣化し続けているのも、あるいは政治家が劣化し続けているのも、結局は、その行政を司る官僚自身や国民の生命・自由・財産を守るべき政治家自身が哲学を学ぶことをしなくなって来ていることが大きな理由の一つになっている、と私などは考えるのである。そしてその悪影響は、今、この国の全体に顕著に蔓延しているのである。

 哲学は決して時代後れの学問ではないし、時代後れになるはずもない。その先鞭をつけたのは、古代ギリシャソクラテスである。

それだけに、いつの時代、どんな社会にあっても、と言うより、先行き不透明で、混沌とした社会になればなるほど、哲学は威力を発揮する。もしも自らを人間として自信を持って生きられるようにしたいと望むなら、哲学は絶対に必要な学問なのだ。

 宗教について。

 ここで私の言う宗教は、いわゆるご利益宗教とはもちろん違う。あるいは特殊な霊感や霊能力を持った特定の人間の下に信者が結集して成立する宗教とも違う。また、特定の何かを信じれば救われると説くような宗教とも違う。

 ここで言う宗教、それは、人間の能力や知力をはるかに超越して、この広大無辺の宇宙を含む悠久の自然界に貫徹されているであろうしくみの体系———それは無矛盾の秩序と言うこともできるし、法則と言うこともできるし、あるいは摂理と言うこともできるもの———の存在を認め、それに文句なく頭を垂れて従おうとするところに生まれる人間の心のありようのことであり、そうした理解の下での人間の営みのことである。

 その宗教は次のようにも説明できる。

 たとえば身近な例で言えば、人間とは何か、生命とは何か、死とは何か、から始まって、大きくは宇宙とは何か、そしてその中で成り立つ法則や原理までも含めて、そのようなものは一体どのようにして、あるいはなぜ成り立つのか、とにかく考え出せば果てしなく疑問は広がり、また深まるばかりであるが、その宗教とは、しかしそこには、人間の小賢しい知恵などものともせずに、それを超越する何かが厳然としてあるであろうことを認め、またそのことに確信を持つところに生まれる人間の心のありようと人間の営みのことである。

 別の言い方をすると、その宗教とは、私たち人間が生きる上で、それもより良く生きようとすればするほど切り離せなくなるこれらの根本問題は、いずれをとっても、またどんなに人間が科学を進歩させたところで、人間がその完全解を得ることなどは永久に不可能であり不可知である、つまり、最終的にその成り立ちや意味の全体が判ったと言えるところまで到達することなど絶対にあり得ないと認めるところに生まれる人間の心のありようと営みのことである。

 そしてそうした人間の心のありようと営みの中でこそ、人間は、自然界に対しても、社会に対しても、また人間としての自身に対しても、他者に対しても、自ずと謙虚にもやさしくもなれるのである。

「人間の小賢しい知恵などものともせずに、それを超越する何かが厳然としてある」とは、たとえば次の例からも理解していただけるのではないだろうか。

 犯罪とはそれを罰する実定法があり、それに照合してみて初めて言えることであるが、しかしたとえそのような実定法がなくても、人間共同体である社会で、あるいはその社会そのものを成り立たせている自然の中で、自分一人だけが得を得ようとして、他者を騙し、あるいは他者を傷つけ、場合によっては他者を殺めたりしたなら、その「しっぺ返し」は、いつかは必ずあるものだ。それがいつ、何がきっかけで、どのような形で現れるか、それは誰にも判らないが。肉体的なしっぺ返しという形で現れるかもしれない。あるいは精神的なしっぺ返しという形で現れるかもしれない。

それは、人間は、どんな人でも、100%の悪人と言える者などなく、また反対に100%の善人と言える者などもなく、程度の違いはあれ、必ず幾らかの良心が備わっているものだからだ、というのも一つの根拠になるだろう。

 しかし、こうした現象は、私はもっと広く一般的に捉えるなら、物理学で言うところの「作用と反作用の法則」の表れの結果なのではないかと考えるのである。つまり、生物一般について、あるいは動く物質全てに言えることであろうと思うが、人間に限って言えば、どんな人間のどんな行動も、それは社会に対する、また自然に対する「作用」と考えられる。したがってその作用は、程度の違いはともかく、その作用が及ぼされる直前までその社会や自然を成り立たせてきたあるしくみあるいは秩序から成る状態に働きかけ、撹乱をもたらすことになる。

 ところが社会や自然は、元々は多様な無数の構成要素から成っていて、それらの均衡の上にある平衡を保って来ているものである。とくに自然は無矛盾の秩序を保ちながら成り立って来ているものである。それゆえに、そこには法則が成り立ちうるのである。

 そんな状態にあるところに、人間による新たな撹乱という作用がもたらされたなら、その作用に対して、それまで無矛盾で成り立ってきた自然はもちろん、その自然の中で成り立ってきた社会も、その撹乱に対して反作用を及ぼし、元の均衡のとれた自然そして社会に戻そうとする。

 なおこれはちょうど、静まりかえった池に一石を投じた時に生じる現象に似ているのではないだろうか。

静まりかえった池に一石を投じる行為は、その静寂な————ということはそこではあらゆるものが均衡の取れた状態にあるということであるが————池に撹乱という作用を及ぼすことだ。そうなれば、その作用により表面の均衡状態は破られて波立ち、それは波紋となって周囲に同心円状に広がって行く。そしてその波紋は池の全体に及び、端にまで到達すると、今度はそこからさっきの波紋は跳ね返って最初一石を投じた地点に狭まり集まって来る。そしてそれは、一石を投じられたことによる撹乱を打ち消すように働くのである。

 そしてこの現象も一つのしっぺ返しだし、作用反作用の結果なのである。

 私は、これこそが、人間の行為に対する「しっぺ返し」の本質なのではないか、と見るのである。そこでは、自分だけのこと、自分だけの得を考えた行動であればあるほど、もっと一般的に言えば、人間の小賢しい知恵に基づいた行為であればあるほど、社会から、そして特に自然からは、なおさら大きなしっぺ返しが来ることは容易に想像できるのである。

 なお、私がここで言う宗教とは、アリフィン・ベイが定義してみせる「政治も経済も文化もすべてがその中でそれぞれの位置を占めているような包括的な世界観」としての宗教(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中公叢書 p.144)と結局は同じものなのかもしれない。

 私は、世界宗教と呼ばれるとくにキリスト教イスラム教、仏教については、それぞれの教典は聖書、コーラン、仏典と異ってはいても、また表現方法は異なってはいても、それぞれが究極的に目ざすところ、目ざす世界、目ざす人間のありようは、同じなのではないかと信じて疑わない。それらが訴えているところは、結局のところ、共通していて、人生には、人間がどう抗ってみたところでどうにもならないことがあり、秩序があること、そしてそれが厳然たる真理であるとして謙虚に認め、受け入れるよりないとしている点のように思えてならないのである。

 そこで、もし、これらの世界宗教が、宗教とは、既述の意味での自然界での摂理・法則を謙虚に受け入れようとするところに成り立つ人間の心のありようとそれに基づく人間の営みのことであるとすることを共通に受け入れられたならば、そこではもはやキリスト教とかイスラム教とか仏教とかいう区別もなくなり、それらは統一されながら一段と高い次元での宗教となり得るのではないか。そしてそれこそが、世界人類を共通に包むこれからの宗教ということになるのではないか、と私などは考えるのである。

 そうなれば、歴史上数えきれないほどあったイスラム教世界とキリスト教世界との対立も、キリスト教内部やイスラム教内部での宗派戦争も止揚されうるのではないか、またとくに最近多くなって来ている宗教的テロ活動も減って行くのではないか、と、期待もできる。

 それだけではない。もし、世界が既述の意味で宗教を宗教として理解し受け入れられたなら、ますます深刻化し、人類全体の存続さえ脅かすようになっている地球温暖化や気候変動、さらには生物多様性の消滅という広義の環境問題をも自ずと解決へと導いて行ってくれる導き手になるのではないか、とも考えるのである。

 なぜか。それは、今日の環境問題とは、その大本を辿れば、「自然は人間の豊かさ実現のためにあり、そのための手段である」としてきた自然に対する近代市民の無知と傲慢さから成る近代の価値観がもたらしたものだからである。

 とにかく、ここで学習が必須とされるべきと私が考える宗教とは上記のものである。

 こうした宗教の捉え方を含めて、これからの宗教のあり方までを児童生徒が学校で何の先入観も固定観念もなく考え、それらを本音で互いに議論できる教育のあり方を児童生徒に提示することは、きわめて大きな人類的意義があるのではないか、と私は考えるのである。

核戦争の脅威が米ソ冷戦時以上に高まりながらますます混迷を深めている現在の世界にあって(ぺりー)、若き彼らこそが、世界平和を呼びかける力強い使徒になってくれるのではないかと、私は信じるからだ。

 以上が、なぜ「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」を必修科目とすべきかとする私の考え方である。

 こうして、児童生徒一人ひとりが、教師の導きによって、世界を階層性を持った諸価値から成るものと見て、その中で、自身の立ち位置を歴史的にも文化的にも見極め得たならば、そのとき初めて、各人は、自分の人生には深い意味があることに気付き、生きる意義、生きる目的を自らはっきりと掴めるようになるのではないだろうか。そしてそこからさらに、自分には自分だけの意味深い生き方や目標のあることにも気付けるようになるのではないか。それは自らの潜在能力にも自ら気付き得るようになることでもある。

それに自ら気付けば、それを花開かせる道を自ら選び執ることもできるようになり、持って生まれた可能性の存在よりも高い「次元の存在」、高い「意味の段階」へとたどり着くことができるようにもなる。そうなることによって、彼らは、一人ひとり、それぞれの達成段階で、達成した歓びを自らしみじみと感じ味わい、人間として最も意味のある「幸せ」をも感じ取れるようにもなるのである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.123)。

 以上の文脈から、今や明確になったように、学校に行く主たる目的は、何もスポーツをするためではない。就職するためでもない。ましてや一流企業や大企業に就職するためではないし、条件のより良い職に就くためでもない。また人生を生きる上で何の役にも立たない断片的知識を頭に詰め込まされるために行くのでもない。画一的枠の中に押し込められて、理不尽さに対してものも言えない従順な人間に仕立て上げられるためにゆくのでももちろんない。嘘の歴史を真実であるかのように教え込まれては、愛国心を強要されるためでもない。

 学校に行く第一の目的は、どんな人間個人にとっても根源的な、既述のさまざまな問いを自らに向って発し、その答えについて自ら考え、自ら見出しうるようになることである。

その意味で、学校に行く大目的は、物事を疑問に思って「問うこと」あるいは「問うことを学び、問い方を学ぶ」ためである、と言うこともできる。文字どおり「学問」をするために学校に行くのである。私はそう考える。

————————————以下は、「その2」に続く。

10.2 日本政府の文部省・文科省の教育は日本を世界に通用し得ない国にしてしまった

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10.2 日本政府の文部省・文科省の教育は日本を世界に通用し得ない国にしてしまった

 私はTVではBS放送による海外放送局の番組をよく見る。もちろん日本の放送局のも見る。その場合、よく見るのはどちらの場合もニュース番組だ。

 そしてそれらを見る度に、ほとんどいつも次のことを感じてきた。海外各放送局が伝えるニュースの中での問題の捉え方と伝え方ないしは語り口は、たとえ日本がそれと同じものをピックアップして後追いで伝えるにしても、その日本の伝え方とは何かが違うな、と。

 どう違うかというと、海外の人たちは———たとえばアメリカであれ、イギリスであれ、ヨーロッパの国々であれ、日本を除くアジアの人々であれ、中東の人々であれ———、私の見るところ、その時キャスターに語らせる文章は表には現れない編集部の人が多分書くのであろうが、それにしても、ほとんどどこの国の放送局のどのキャスターも、キャスター自身がどの問題に対しても広く関心を持っているだけではなく自分なりの考えを明確に持っていて、それを、決まり文句によるのではなく、自分の言葉で語っているのではないかと思われる、という点においてである。市井の人がその時、世の中で話題になっている問題について語る場合も同じだ。よほど言論の自由が抑圧されている国、あるいはしゃべることでその人に国家からの圧力や拘束が及ぶ可能性がある場合にはともかく、そうでない場合には、誰かが言っていたような言い方によるのではなく、そして誰はばかることなく、自分の言葉で自分に正直に語っている。起っているその問題についてメディアから尋ねられたときも、少なくとも笑って済ませたり、曖昧な答え方で済ませたり、情緒的に語ったり、他人事にしたりする、ということはない。必ず自分なりの考えを持って、それを答えるのだ。

 政治的問題でも宗教的問題についても同じだ。それらについて自分の考えを語ることをタブー視したり、臆したりすることはない。むしろそれらを率直に語ることを当たり前とし、それは市民としての義務だと感じている風でさえある。そして自分の意見を言うその場合も、ほとんどつねにその問題の渦中にある人物の人権を思いやり、共感をも示す。しかし、批判すべきと自身が考える相手には、事実と推測の区別を明確にしながら、躊躇することなく批判する。

 そしてものを語るときには、つねに自由と民主主義を土台に置いている。というより、それこそを大切にして日々を生きているといった感じだ。そのため、議論し合ったり、批判し合ったり、あるいは反論し合ったりすることを避けない。むしろ本音でそうすることこそが本当の意味で相手に敬意を払うことであり、互いに相手を理解し合うことに繋がり、それが結局は相互の信頼や絆を深めることになることだと考えているようにさえ見える。つまり、誰もが一様に言論の自由表現の自由の権利を我が物にし、また相手も同様の権利を持っていると認め合っているのである。

 それだからこそ、彼らは、困った問題や自分に不都合な問題が発覚したときには、それがなかったことにしたり、問題をうやむやにしたり、解決を先送りしたり、あるいは無関心を装ったりしてしまうことはしない。むしろそうした問題に真正面から立ち向かう。それがなかったことにしたり、問題をうやむやにしたりして、秩序とか協調性ということに気遣うより、とにかく問題をオープンにすること、事実を明らかにすることの方をつねに大切にする。すなわち透明性と公正性を大事にしながら、秩序よりも正義そして真実を優先する。

 またそれだからこそ、そういう国では、首相も大統領も、まずは憲法を擁護し、法律を守り、そして「法の支配」を尊重する。日本の安倍晋三のように、自国の憲法を否定したり破壊したりはしない。「法の支配」、「民主主義」ということを口先だけにはしない。また国民は国民で、国の指導者が国民との約束を破ったなら、市民としてそれを決して許さない。自分たちの自由が侵されたり制限されたりし、人権が侵されたり、理不尽と感じることに対しては、敏感に反応し、直ちに行動へと出る。問題から目を背けたり、無関心を装ったりはしない。

そしてそのような時はほとんど決まって思いを共有する人々同士で連帯する。つまり共感を大切にする。またそうすることが、一人ひとり、社会共同体に対する自身の責任と義務でもあると感じている風でさえある。

 こうして一人ひとりは、いつも、どこにいても、互いに共同体の中に生きているという意識を共有している。

 だから、たとえば、誰かが理不尽な経緯で命を落としたときには、それを聞き知った者はすかさずその場にみんなで駆けつけ、その死を悼む。同時に、たとえば “私はあなたと共にある”と死者への連帯の意思を表示する。また、自分たちの親兄弟や祖父の関わった過去の忌まわしい歴史に対しても、それがたとえ100年経とうが、とくに欧州では、関係国どこも、その日を忘れずに、亡き犠牲者に黙祷を捧げ、歴史を記憶の中で引き継ごうとする。

 それだけに彼らは社会への貢献にもきわめて積極的である。つまり社会の問題や世界の出来事に関心を持ち、それらをつねに自分の問題として引き寄せて捉えようとする。無関心を装うことはしない。

 しかも、人々は、民族が違っても、人種が違っても、また社会的弱者であろうと社会的少数者であろうと、多様性こそが大事だとして認め合っている。誰もが、自由であることを何よりも大切にし、自分の生き方は、他者に流されずに自分で決めることが出来るとして、そのことを互いに大切にしている。決して干渉したりしないし、干渉されることも望まない。

 また他者がある事で立派な功績を上げたりすると、第三者の判断や専門家の判断を待たずに、自分の判断だけで率直に賞賛の声を上げ、評価する。

 自分の興味や関心の赴くところや方面にはたとえ一人であっても、また辺境の地であっても、異文化の世界であっても、躊躇なく飛び込んで行く。そしてそこでは自らの身体を通じて納得ゆくところまで試みようとする。そうした態度は科学の世界においても同様だ。一匹狼になることをまったく意に介さない。流行のテーマにはこだわらない。安全圏に身を置こうなどとも考えない。そして自分で納得行くまで挑戦する。

 彼らは、そうした行動を、生きる意義を見出すためであるとし、自分自身の存在証明のためでもあるとしている。そしてそうした行動を周囲の人々もほとんど例外なく理解を示し、積極的に支援もする。その支援の姿勢はたとえば寄付や献金という形などで表わす。

 それに彼らは歴史や文化をも大切にしている。自分たちの両親や祖先の生き方を評価し、尊敬してもいる。自分たちの育った街や村を誇りにし、またそれを心から愛してもいる。それゆえ、それを壊してしまう経済活動には大きな抵抗を示す。経済活動と、歴史や文化を大切にすることとは別だとしている。したがってたとえば、経済か環境か、という二者択一的態度はとらない。そして自分たちの周りの自然も大切にし、その中で自分たちの生活も大切にし、楽しんでもいる。つまり、自分たちの起源(ルーツ)を明確に捉え、アイデンティティを明確にし、その中で自分たちの文化を大切にし、またそれを育て、そこから物事を発想しては生きている。決して経済活動一辺倒の思考形態にはならない。

 私は、TVに映る人々のそうした姿を見ていると、それが彼らの「人間」として生きようとする当たり前の行動様式になっているような気がするのである。そして実際、私は、それが人間としてのあるべき本来の姿なのではないか、とも思うのである。

 

 では、ひるがえって、こうした彼らのあり方に対して、私たち日本人————ここで言う日本人とは、人種のことを言っているのではなく、あくまでも日本国籍を有する人、との意味である。それに、第一、もともと「日本人」などという人種は歴史的に存在しないのだ————の生き方や行動様式はどうであろう。

 私は先に、この日本人の「ものの考え方」と「生き方」について、その中でも特徴的というより特異であり、そのようなものの考え方をし生き方をしていたならかえって自ら危機を招き寄せることになると私には思われる「ものの考え方」と「生き方」について述べて来た(5.1節)。

 さらには、この日本人の「ものの考え方」と「生き方」という一般論的な見方に留まらず、もう少し限定して、いわば外に向って日本人を代表するような立場の人々の実態についても、私なりの見方を述べて来た。

たとえば、公的な場でものを言うことを仕事とする政治家(2.2〜2.4節)について。

広く人々に向ってものを書いたりすることを仕事とする知識人(6.4節)と政治ジャーナリスト(6.6節)について。そして公的な場で奉仕活動をすることを仕事とする官僚(2.5節)等々についてである。

 そこから概して共通に見えてきた彼らの多くの姿は、本物の民主主義国あるいは先進国と呼ばれる国々で同じ種類の仕事に就いている人々とTVを通じて見比べてみても、やはり際立って違うということだった。

 何が違うか。

 先ずは、人はみな多様なのだ、自由なのだという意識を含めての人権意識が極めて乏しいことだ。自分というものがなく、個(人)として確立していないことだ。物事の価値に対する自分なりの評価の物差しを持っていないことだ。自分の信じていることを正直に口にする勇気においても極めて乏しい。いつもどこかの誰かの判断に依存して判断し、評価に依存して評価しているだけなのだ。つまり他者に追随することに平気なのだ。主体的に物事に関わろうとはしない。だから必然的に、自分がしていることや関わっていることに対する責任感も極めて乏しくなる。そして共感力や連帯力、そしてそれに基づく行動力も実践力も乏しい。他者が動くとそれにつられて動く。つまり自分の行動基準は自分の中にあるのではなく他者にある。それでいて、他者の存在、他者の行為、他者の権利を認める寛容性、他者を受け入れようとする受容性にも極めて乏しい。

 そして日頃話題にすることと言えば、ほとんど決まって経済のこと・金のこと・損得のこと、あるいは人の噂話だったり、流行あるいは話題となっていることだったりする。何の目的で自分は生きているのかとか、人間としてどう生きるのか、とは考えない。自分のルーツとか、自分は今どこにいるのか、自分のアイデンティティーとは何か、ということにはほとんど関心を示さない。

 だから、自身の生き方に自信を持てないし誇りも持てない。愛国心も持てない。

 とにかくどれを取っても、こうした生き方や物の見方から見えてくる特徴と、それを特徴たらしめている動機は、ほとんどの場合、共通に、“みんながやっていることだから”というもの、あるいはその反対に、“あの人は変わっていると見られたくないから”であるように見える。だからどうしたって煽動されやすい。あるいは“他者に後ろ指を指されないように行動する”というものであるように私には見える。その人が自分で主体的に考え、判断し、決断し、その結果において行動しているわけではない。だから信念に基づいてやっている訳でもない。

 ということは、周囲の状況によってどのようにでも行動の仕方を変え、態度を変えるということだ。特に、他者が見ている場合と見ていない場合とでは、極端に変える可能性がある。

実は、日本人の場合、特にこの傾向は強いようだ。とにかく他人が見ていればそれを気にして、一応、ルールや秩序に従うが、見ていなければ、あるいは外部からのチェックや監視の眼が入らなければ、極めて衝動的かつ気まぐれ、あるいは無軌道に動く。そしてその傾向は、個人でも組織あるいは集団でも同じだが、特に組織あるいは集団となると、集団心理と日本人固有の他者に煽動されやすいという特質が加わるためであろう、その振る舞い方は一層タチが悪くなる。実はその最も象徴的で最悪なのがこの国の中央省庁の官僚組織だと私は見る。

彼らは、法律を運用する立場にいながら、法律の弱点を知り尽くしているからなのであろう、法律は愚か憲法でさえ、平気で無視するのである(2.5節)。一人ではとてもそんな大それた事をする勇気はないのに、組織となると、みんなで止めどなく堕落し腐敗して行く傾向が強いのだ。つまり、自浄作用も自主的ブレーキもまったく利かなくなる。

 とにかく、その辺を物の見事に言い表しているのがビートたけし氏の言葉だという“赤信号、みんなで渡れば怖くない”だ。

したがって、物事に向かう姿勢がこんな調子だから、自分のしていることに対して明確な責任感を持てるわけもない。だから、言い訳も巧みになる。

 

 実際、ではこの国は世界とどれほど違うか。

 世界では常識になっている民主主義を成り立たせている土台であるところの基本的人権の中での男女の平等の達成度を世界における男女平等の程度のランキングという観点で見てみよう。

2017年には、調査対象国144カ国中日本は114位だだった。

2019年には、総合では、153カ国中121位である。

それをもう少し細かく政治と経済の面で見ると、政治では144位。そのうち、国会議員の男女比では135位。閣僚の男女比では139位(「グローバル・ジェンダー・ギャップ指数」2019年版(世界経済フォーラム))という順位だ。日本の議会に占める女性議員の割合は10.1%で、世界順位は162位(出典はIPU列国議会同盟)。

経済では、115位。そのうち、勤労所得の男女比では108位。管理職の男女比では131位だ(出典は同上)。

 要するに “人間は生まれながらにして自由で平等”と謳ったフランス人権宣言(1789年)から、230年余経っても、日本はこんな状態なのだ。この国は、未だ「近代」という時代にも至ってはいないのだ、と私が主張する根拠の一つである(1.4節)。

 では子どもの人権についてはどうか。

子どもはどの国でも、その存在自体が「希望」なのである。それを受けて、国連が「子どもの人権条約」を定めたのは1989年。ところがこの国がそれを批准したのはその5年後の1994年である。その国際批准順位は、国連加盟国195カ国中、158番目である。

 実際、この国では、子どもへの「虐待」や「イジメ」そして「自殺」は減るどころか年々ますます増えている————なお、以下に述べる内容は、そのほとんどが、結局はこの国の中央政府の一省庁でアル嘗ての文部省、そして今の文部科学省の、子供たちの特に「自由」と「平等」という基本的人権を無視し、集団主義の中で瑣末な校則を押し付け、一人ひとりの個性や能力を育てようとはせずに、画一的な枠の中で育てようとしてきた学校教育システムが結果としてもたらしてきたことだ、と私は考えるのである。前節の10.1節を参照————。

そのことでも日本はしょっちゅう国連からもOECDからも注意勧告を受けていて、国連の「子どもの権利委員会」は、日本では虐待を罰する法律さえ設けていないことを懸念し、政府に対策を求める勧告を公表してさえいる(2019年2月7日)。それどころか、驚くなかれ、この国の民法では、いまだに、明治政府が決めた、親の子に対する「懲戒権」、すなわち親が子を懲らしめることのできる権利を認め続けてさえいる(第822条)のだ。

 国としてこんなに恥ずかしい状態であるのに、たとえば、小泉純一郎などは、首相当時、身の程も弁えず、国連の常任理事国になろうとさえしたのである。

 なお、これは世界のデータがないので国際比較はできないが———というよりこれは日本固有の現象なので、世界的データなどあるはずはない、と言えるのではないか———、「引きこもり」と「不登校」についても触れておく。

 今日、いわゆる「引きこもり」と呼ばれる人々の数も推計で100万人を超えると見られている。その内、15〜39歳までの引きこもりが54万1000人、40〜64歳の中高年が61万3000人とされていて、その7割以上が男性だ(2019年3月内閣府発表)。 

 一方、不登校の数は、「隠れ不登校」の生徒数も含めるとおよそ44万人に達しているとされるのである(2019年5月30日NHKスペシャル シリーズ 子どもの声なき声(2)「“不登校”44万人の衝撃」)。国の総人口に対してこれだけの割合で引きこもりや不登校がいるという国も、多分世界にはないのではないか。と言うより、そもそも引きこもりという現象自体、日本固有の現象なのではないか。

 そしてこうした事実は、日本は国連に加盟していながら、国連憲章が冒頭に掲げる「基本的人権と人間の尊厳および価値と男女および大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、・・・」という70余年も前に明らかにした、世界が共有している考え方や精神を未だに共有もできなければ満足に守れてもいないということを証明しているのである。

 当然ながら日本固有の、文科省による悪しき教育システムは、若者や子どもたちからは自由な思考とか創造性あるいは独創性を奪い、はつらつさを失わせている。決まりきった思考やみんなが考えそうなことしか考えなくさせている。それはこの国全体を硬直化させ、活力を失わせ、ますます世界から後れをとる国、世界には通用し得ない国にさせてしまうことだ。もちろんそれは同時に、この国の将来をますます危険に陥らせてしまうことでもある。

 それがはっきりと眼に見える形で現れているのがこの国の経済力の相対的落ち込みだ。

 一国の経済力を表わす指標とされて来たGDP(国内総生産)にはっきりそれが現れているのである。

1997年実績から2018年までの名目GDP (国際総生産)の世界の上位30カ国の成長の推移は30位だ。それもその他の29カ国すべての伸びの推移はどこの国も最低でも1997年比で61.2%なのに、日本だけは何と2.8%だ(IMFの2019年10月時点での統計。2019年11月17日号 [しんぶん赤旗日曜版]より)。

 考えてみれば、日本が、1980年代、「ジャパン アズ ナンバーワン」などと呼ばれ、アメリカに次ぐ世界第2位の「超経済大国」になり得たのも、それの真似をし、改良していさえすれば良かった先行モデルがあったからだ。日本人の、とくに政府の経済関係省庁の官僚の独創性や能力がもたらしたものでは断じてない。強いて言えば、大蔵省を中心として通産省建設省(共に当時)、その他の府省庁の官僚が国民の利益と福祉を二の次にして、本来の自由主義市場経済という資本主義経済の原則を守らず、自分たち府省庁を頂点とする「業界」と「系列」という仕組みを巧妙につくって来た結果なのだ。

 毎年、国連が発表している世界の「幸福度」ランキングにも日本はもはや世界に通用し得ない国になってしまったことがはっきりと現れている。

2019年度は、1位がフィンランド、2位がデンマーク、3位がノルウエー、4位アイスランド、5位オランダ、6位スイス、7位スエーデン、10位オーストリアと続く。そして日本は58位だった。それは主要7カ国(G7)中、最下位。

2013年には43位だったものが、ほぼ毎年順位を下げ、2019年はこの結果だ。

 なお、この幸福度を測る項目は6つあって、GDP健康寿命、腐敗のなさ、社会の自由度、他者への寛大さ、そして社会的支援の度合いについて、である。

 

 日本政府のこうした、世界が定めた約束事、あるいは世界で共有することにした価値を無視あるいは軽視する姿勢は、男女間や子どもの人権問題に限らない。

 たとえば、9月2日を日本が公式に無条件敗戦を認めた日だということを国民に向けて公式に認めようとはしないで、つまり9月2日を「敗戦記念日」とはせずに、相変わらず8月15日を「終戦記念日」と言っては国民を騙し続けている姿勢もその1つだ。

 当時の日本政府がポツダム宣言を無条件に受け入れたからこそ、終戦日が確定して、北海道がソ連の統治下に置かれるような事態にまでならなくて済んだのにも拘らず、その政府の今のトップ安倍晋三が、「ポツダム宣言はつまびらかに読んだことはない」とシャーシャーと言う姿勢もその1つだ。

 議長国として京都議定書をまとめておきながら、その対世界公約を自ら破った姿勢もそうだ。

 パリ協定を批准しておきながら、そこで決まった2050年には温室効果ガス排出を事実上ゼロにするというカナメになる国際的約束事に対しても、2030年にも依然として火力発電の全電源に占める割合を56%にするなどといった「エネルギー基本計画」を経済産業省の官僚が作ったそれをそのまま閣議決定する日本政府の姿勢もそれだ。

 さらに言えば、これは先ほど触れたことと関連することであるが、この国は表向きは資本主義で民主主義の国とされてはいるが、日本政府のやっていることの実態は、この国は本来の資本主義の国でもなければ民主主儀の国でもない、というのもそれだ(1.4節)。

 

 そして、文部省と文科省が、政府の一省庁でありながら、自国を世界に通用し得なくしてしまったもう一つの実際例も、どうしても挙げておかねばならない。

 日本が経済超大国にのし上がり、実際、そう呼ばれたのは1980年代の特に後半である。

1960年代からはすでにアジア諸国からは注目される経済発展を「所得倍増計画」の下で始めていた。

1991年、バブル崩壊によって、それ以後は経済「超」大国ではなくなったが、それでも一応は経済大国と呼ばれ、またこの国の政府もそれをもって任じてきた。

 経済大国、それは経済を通じて世界に大きな影響をもたらしている国、ということだ。

 では外交面で、それも特に人権外交の面で、経済大国と呼ばれるにふさわしい貢献を世界にして来たと言えるだろうか。

 私の答えは全くの「ノー!」だ。日本政府は、この場合も、一度としてそれができた試しはない。

むしろ、経済大国として日本は何かをしてくれるであろうと期待する当事国にとって、ここぞという時、そして同じ理由で日本に期待する世界は、むしろ失望させられてきた。そして世界には、“いったい日本は何を重視する国なのか、何をしたいとしている国なのか判らない”とさえ思わせて来てしまった。

 その失望感とは、日本について、日本国民を代表する日本政府の次のような姿を目撃した時だ。

 言うべき相手に、言うべきことは判っているはずなのに、“内政干渉になるから”という言い訳の下に、いつもどっちつかずの、あるいは相手に対して当たり障りのない言辞だけを並べて済ませてしまい、「ノー!」、即ち、“それはしてはならない、こうすべきだ”とは明確に言えなければ、要求も批判も明確にできない日本政府の不甲斐ない姿を見た時。同じことだが、総理大臣と閣僚の人権意識そのものが余りに低いために、迫害に遭っている当事国の市民に共感も示し得なければ、彼らの人権を擁護しようとする意識も余りに欠如している政府の姿を見た時。また、自国独自の理念や判断の物差しそして価値基準を持ち得ず、経済的軍事的超大国に追従するばかりで、主権国としての矜持も持ち得ない日本政府の姿を見た時。

 要するに、普段は“自由と民主主義は人類の普遍的価値だ”などと口にしながら————特に安倍晋三がそうだ————、そういう時になると、言うべき相手は判っているのに、言うべきことを毅然とした態度で言えない、勇気も人権意識も共感力もない日本政府の姿を見た時である。

 では、その“ここぞ”というのは例えばどんな時か。

一党独裁を強める鄧小平の中国共産党政権が天安門事件を起こし、何千人もの学生と市民を虐殺した時。カンボジアポルポト政権が何百万人もの自国民を大量虐殺した時。ロシアのプーチン政権が反対勢力のリーダーやジャーナリストを暗殺したり毒殺を謀ったりした時。習近平中国共産党政権が新疆ウイグル地区の民族を300万人以上、強制収容所に押し込めて自由を奪っては、漢民族(中華)思想と言語を押付けたりしては同化政策あるいは浄化政策を進めると共に、共産党への礼讃と支持を強要している今日この時。同じく習近平が、台湾の自治を無視して力で併合しようとしていたり、英国との「50年間」との約束を破り、「一国二制度」の原則を破って、香港市民の言論の自由を奪い、迫害している今日この時。同じく習近平中国共産党が、国際法を無視して、自国の都合・意思・要求をごり押し、力で領土拡大を図ろうとしている今日この時、である。

 なおこれは間接的外交とでもいうべきものであるが、「難民」に対する日本政府(法務省)の対応についても全く同様のことが言える。

生命の危険を避け、迫害から逃れて、外国に保護を求めて、国籍を持つ国の外に移り住もうとするいわゆる「難民」を、難民として認定する日本政府の基準が国連のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民認定指針よりはるかに高く設定されていることと、その上、認定手続きが公正かつ適性に行われているか否かを判断する基準も曖昧だし、それが実際には適正に行われているかどうかも怪しいという状態の中で、日本が難民と認定した人の数はこれまでに合計、たったの44人、認定率は実に0.4%という実態に対してである。

 参考までに記せば、ドイツは53,973人(25.9%)、米国は44,614人(29.6%)、フランスは30,051人(18.5%)、カナダは27,168人(55.7%)、英国は16,516人(46.2%)。

 カッコ内数字は認定率(出典はUNHCR Refugee Data Finder、法務省発表資料)。

 政治家と言われる者、法を運用する公僕とされる役人を含めて、私たち日本国民の大多数が、世界が「人類の普遍的価値」として共有する「自由と民主主義」を未だ血肉とし得ず、したがってその価値観に基づく言動も未だできずに、こうなるのも、つまる所、私は、文部省と文科省のこれまで述べてきた明治期以来の、その中身は近代にも至ってはいないと言える、国民の覚醒を怖れた学校教育がもたらしたものである、と確信するのである。

その学校教育とは、「自由」と「平等」を含む人権とその価値の尊さを教えない教育。言論や発言の自由、そして民主主義の価値を教えない教育。正義が行われることよりもむしろ、秩序を守らせ、校則を押し付けるばかりの抑圧的教育。和だとか協調性、あるいは道徳を強制するばかりで、個々人の個性や能力を育てることと、互いの異なる個性や能力を認め合うことの大切さを教えない教育、等々のことである。

 

 本節の最後として、日本人とノーベル賞ということについても、私なりに考えておこうと思う。少し長いが、日本の科学技術の世界的レベルの今後のありようを見通す上でも参考になるのではないか、と私は思うのである。

 最近、日本は、科学技術立国の危機ということに関連して、「日本人はもうノーベル賞を獲れない」ということがしきりと国内外のメディアでも取り上げられるようになった(週間ダイヤモンド 2018年 12月8日号、Newsweek2020年10月20日号)。ただしここで言うノーベル賞は、自然科学分野や医学分野でのものについてであって、平和賞や経済学賞は除いての話である。

 研究者自身の間でもそう見られ、そうささやかれるようになった主たる理由は、どうやら、この国の政府は、大学等の公的研究機関に対して、研究費、とくに基礎分野への研究費を大幅に削減しているからだというものだ。その結果として、研究者は雑務に追われて、本来の研究に集中する時間がなかなか獲れず、日本から発表される論文数が急速に減っているのだ、という。

確かに、本来高度の教育と同時に研究を果たす役割を負っている大学を、利益を上げることを至上とする企業内での経営法と同様に独立採算制の法人とすること自体、文科省の官僚およびその彼らにただ追随するしか能のない文科相の教育と研究の何たるかがさっぱり判ってはいない浅はかさと愚かさを証明する何ものでもないとは言える。それに、今日の研究は、紙と鉛筆だけでもかなりのところまではやれるというような時代ではなくなり、どの分野でも、実験装置にしても観測装置にしても巨額の費用を必要とするようになっているから、研究費が削られることは研究者・科学者にとっては研究遂行上、大きな痛手となっていることも事実ではあろう。

 しかし、私は、今日のこの国についてみるとき、「日本人はもうノーベル賞を獲れなくなる」理由としては、研究費が削られるという問題もさることながら、それ以上にもっと本質的な問題がそこにはあるように思う。それはノーベル賞を獲る獲らないの問題ではなく、広く科学技術に向き合う以前の問題がそこにはある、と思うからである。

 それはどういうことか。 

今の子どもたちはもちろん若者たちは、小さいとき、どれだけ自然の中で過ごし、どれだけ自然を相手に遊んで育って来ているだろうか、ということに関連している。

かつてノーベル賞を獲って来たような人たちは、その多くが、幼少期から自然の中で遊び、自然をよく見、その一方では、多くの文学や音楽等芸術あるいは芸能にも親しみ、知的裾野を広くして来た人たちのように見受けられる。実際、時代も、そういう風潮だった。たとえば湯川秀樹博士や朝永振一郎博士の著作を読むと、つくづくそう思うのである。

 そうした人たちは、必然的に、自然を含めて、ものを見る目は広く、また深くもなる。また一人そうした分野で自分なりの思索を続けてくると、想像力も広がるし、批判力もつくし、辛抱強くもなり、孤独にも強くなる。ノーベル賞を取るような人たちは、そうした視野を持ちながら、孤独な中にありながらもそれに耐えて、知的好奇心を持ち続けて研究に没頭して来た人たちなのではないか、と私は推測するのである。

 では、今の若者たち———そこには若い研究者たちも含む———は、そうした土台づくりをどれだけしているだろうか。また今の文科省による学校教育は、小学校の時から、児童生徒一人ひとりに、どれだけそうした広い視野が身につく教育を、人間として豊かになる教育をしてきたと言えるだろうか。既述のとおり、かつて一度でもして来たことがなかった。むしろ、画一と従順を求めるその教育は、個々人からますます精神の自由を奪い、各々がせっかく持って生まれていたであろう潜在的能力を芽生えさせるどころか、その前に殺してしまうようなカリキュラム内容であり教育システムだったのではないか。

 私は、実はこのことこそが、「日本人はもうノーベル賞を獲れなくなる」どころか、日本の科学技術力をどんどん押し下げ、科学技術で国を立てて行くことなどいよいよ困難にさせている根本的な理由なのではないか、と考えるのである。

 つまりこうした自然体験や文学芸術体験が乏しく、自由で伸び伸びとした精神の下での幅広い教養が身についていなかったなら————なおここで明確にしておかねばならないことは、教養と知識を身につけることとは違う、ということである————、あるいは確かな倫理観と人道の精神が身についていなかったなら、たとえどんなに知的好奇心が旺盛であっても、またどんなに潤沢な研究費があてがわれ、高価な研究装置や観測システムが備えられようとも、そしてその結果として、たとえ自分ではどれほど画期的な成果と思える結果が得られたとしても、それだけでは却って次のような事態を招いてしまうのではないか、とさえ私は危惧するのだ。

 それは、その時、名声を博することに囚われてしまったり、また功利的に走ってしまったりするばかりで、その成果が本当に人類の幸福と進歩に貢献しうるものかどうかとの理性的判断もできなくなり、却って人類の将来を危険に陥れてしまいやしないか、と。

 科学というより技術あるいは工学の歴史におけるその象徴的代表例が原爆開発でありゲノム編集ではないか、と私は考える。

 前者については、もう原爆は必要ではなくなったと判明しても開発し続けて開発し、しかも実験成功によってその威力はすでに十分に確かめられていたのに、あえて日本に投下して、アメリカの軍事力の絶対的優位性を世界に知らしめたのだ。でも、それもすぐにソ連に追いつかれた。そしてその原爆と水爆を持つことで米ソ冷戦が始まり、今、その核を持つ北朝鮮が世界の脅威となっている。

 後者については、自分自身が自然から生み出された生命であるにも拘らず、その自分とは何者か、どこからきたのかを知ろうとはせずに、自然界には存在しうることの決してない生命をその時の自身の知的好奇心だけに基づいて生み出しては、自然界の生命秩序を取り返しのつかないまでに撹乱してしまいかねない技術だからだ。

 

 そこで、私は、学校教育の内容と質こそが、ノーベル賞に限らず、個人の能力向上と国力等の向上のすべての面に決定的な影響をもたらすものであるということを明らかにするために、ノーベル賞受賞個数を例にとって、ここでも私なりに考察してみようと思う。

 そこで、予め、世界の主要国の1901年から2018年までのノーベル賞受賞総数を各国別に確認しておく。

ただし、ここでは物理学賞、化学賞、医学・生理学賞と経済学賞のみを対象とし、文学賞と平和賞は除く。またロシアについては、旧ソ連の時の受賞個数も含める。

 次表は各国別の2018年末までの実際の受賞総数である。

 

スエーデン

スイス

日本

ロシア

オランダ

イタリア

カナダ

デンマーク

オーストリア

イスラエル

316

88

70

34

19

16

22

15

16

7

11

9

9

7

 

ベルギー

ノルウエー

オーストラリア

南アフリカ

スペイン

アイルランド

アルゼンチン

インド

エジプト

ポーランド

中国

ハンガリー

フィンランド

その他

6

6

6

1

1

1

3

2

1

0

1

2

1

8

 

 ここで上表を次のような仮定の下に、換算する。もし、上記表中のどの受賞国も、人口がみな日本と同じであったとしたら、その場合、各国別受賞総数はどう変化するであろうか、と。

 そのようにして上記表を表現し直したものが次のものである。

ただし、その際採用した各国の人口は2018年時点でのものである。

また、個数を表す数字がゴシック体で表示されている国は、2018年現在、EUに加盟している国である。

 

スエーデン

スイス

日本

ロシア

オランダ

イタリア

カナダ

デンマーク

オーストリア

イスラエル

121

167

109

66

239

236

22

13

118

15

37

197

131

104

 

ベルギー

ノルウエー

オーストラリア

南アフリカ

スペイン

アイルランド

アルゼンチン

インド

エジプト

ポーランド

中国

ハンガリー

フィンランド

その他

66

140

30

2

3

26

8

0

1

0

0

26

23

 

 

 実際の受賞総数を示す元の表とこの換算表とを見比べたとき、果して私たち日本人にそれらは何を教えてくれているだろうか。

 まず直ちに言えることは、日本の「国としての」ノーベル賞受賞総数は、元の表ではすべての受賞国の中で上から五番目であったのに対して、換算後では、下から数えた方が早い順位の総数となる、ということだ。

そして、実際の受賞総数ではそれほど目立たなかった国々が、換算後は、そのほとんどが、受賞総数において日本を追い抜き、一躍際立つようになっている、ということだ。

そしてそうした国々のほとんどは北欧の国々でもあるということである。

たとえばドイツ、スエーデン、スイス、オランダ、デンマークオーストリア、ベルギー、ノルウエー、アイルランドハンガリーフィンランドだ。そしてイスラエルも顕著に増えている。

増えはするが同じ桁数の範囲に留まっているのは、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアといった国々だ。

 その反面、大国といわれて来たアメリカ、ロシア、中国そしてインドは、軒並みその数を減らしている。

 では、ここで一躍際立ってくる国々というのは、概してどういう国、どういう特徴を持っている国と言えるのだろうか。

 先ず、ほとんどがいわゆる「環境先進国」だ。

そして「福祉先進国」であることも知られている。それは既述した世界の「幸福度」ランキングに明らかだ。

 このことは、それらの国々は、「人間」あるいは「人権」を大切にしている国だということでもある。それはすなわち人間の多様性を尊重している国でもあるということだ。

 さらにこれらの国々は、概して、自分たちのアイデンティティをしっかりと持ち、しかもオープン・マインド、その上歴史と文化を大切にしながら、その時々の経済的風潮には流されず、個性に溢れ、景観や風景、そして伝統を大切にした都市づくりや農村づくりを主体的に進めて来ている人々の国でもある、ということだ。

それは、一度でもこうした国々のいずれかでも旅したことのある日本人だったら、そのことに気付き、感動させられた記憶があるのではないだろうか。

 そしてさらに注目したいのは、それらの多くの国々は、共に、過去の大戦からしっかりと教訓を引き出し、その教訓に基づき、経済統合を果たし、さらには政治統合をもめざすという世界史でも前例のない道を、これも世界に先駆けて挑戦している人々の国でもあるということである。

 つまり、それらの国々は、おしなべて、人間として生きて行く上で本当に大切にしなくてはならないものは、お金や損得勘定ではない何かを、人真似ではなく、つねに一人ひとりが自分の頭で考え行動して来たし、今も行動している人々の国なのではないか、ということである。

 そこで私は思う。換算表において、ノーベル賞受賞個数が際立って多くなっているというのは、決して偶然ではなく、こうした生き方をし、またそれができる人々だからなのではないか、と。

そしてその生き方をもたらしているものこそ、実はそれらの国々の教育のあり方なのではないか、と私は考えるのである。

 たとえばそれをOECD経済協力開発機構)が実施している世界的な子どもの学力テストPISA(生徒の学習到達度調査)で幾度も世界第1位を獲得しているフィンランドの教育法について見てみれば判る。

 以下は、小林朝夫著「フィンランド式教育法」青春出版社と、庄井良信・中嶋博著「フィンランドに学ぶ教育と学力」明石書店に拠る。

 まず気づくことは、フィンランドには日本で言ういわゆる「学習塾」はない。同じ年齢の日本の子どもと比較して、フィンランドの子どもは400時間も学習時間が少ない。

それだけ、フィンランドの子どもは、日本の子どもたちと比べて、400時間も多く、友達と一緒に外で遊んだり、親と過ごしたり、自然の中で過ごしている、ということである。

 教育法における大きな特徴は、とにかく、自分で、自分の頭で考えて、答えを見つけられる子どもになることに重点が置かれていることだ。そして子どもの自由な表現力や創造力を育むことに積極的である。そして早期に英語を教えるのではなく、母国語の力をまず身に付けさせることに力を注いでいることである。その際、徹底的に話をすること、論理的に考えることの大切さをも教えている。他方、どうやって論理と感情のバランスをとるかその方法も教えている。

その際も、積極的に思考することが心の豊かさに繋がることをも信じて教育している。

 幼児期から自己効力観を育てようとしている。そして、自然に感謝し、神に感謝し、人々に感謝することの大切さをも教え、自然と接することの大切さを教えながら、人は自然に生かされていることをもしっかりと教えているのである。

 一方の親は親で、子どもの夢を育て、才能を伸ばすために、つねに「努力すれば、何でもできるようになる」と教え、励ましながら、親自身も、高い教育観を持って、頑張る姿を子どもに見せている。また親自身も、ものを語るときに語彙量を豊かにするよう心がけているのである。

 では教師はと言えば、徹底的に多様性と個人の尊厳を尊重すると同時に、子ども一人ひとりが安心でき、共同で学ぶことを大切にすると同時に、教師自身、学び方そのものを真剣に学び続けてもいる。

 そして政府は、多文化社会の言語的人権を保障する教育にも力を注いでいるのである。

 

 他方、日本のこれまでの学校教育はどうであったか、それについては既述して来たとおりで、その内容は、北欧の教育に対する考え方、教育の内容、そしてそれの実現方法等とはほとんど対極に立ったものとなっている。

もはや繰り返す必要はないと思われるが、それは、一言で言えば、子どもたちの多様性や個性を本当の意味では認めようとはしない。つまり人間個人としての存在を互いに認め合おうとはさせない。徹底的に自由に考えさせ、自由に質問させることをしない教育だったし、今もそうだ。

そこにはつねに「競争」があり「管理」があり「統制」があり、「費用対効果」、「投資対効果」という「効率」を最も重視する国家的思惑が支配して来たし、今もそうだ。

 だからそこでは、各人の個性はもちろん、創造性や独創性が積極的に育まれることなどあり得なかったし、今後もあり得ない。むしろ「画一化」、「平準化」重視の中で、それらの能力を抑え込み、ひたすら無批判的あるいは従順にさせてしまう教育なのだ。

 もちろんそこでは、善悪の判断力も養われない。自己を確立もできない。孤独にも耐えられない。一人で敢然と事に挑む勇気も育たない。むしろあまりにも些末な校則を押し付けられ、ある一定の枠の中にはめ込まれ、その中での従順を強いられるために、一人ひとり自信が持てない中、内面では社会や体制への憎しみや不信感だけが増幅されて行ってしまう。

 教師は教師で、そういう政府教育行政の中にあって、多くはその教育行政のあり方に疑問を感じながらも序列と保身のためにモノも言えず、言う勇気もなく、自己規制してしまう。

そうなれば教師の方も、本当に自分として児童生徒にしたい授業もできない中、多くは、精神をも病んでしまう。それでも児童生徒たちへの愛情に支えられ、日々の管理に疲れ果てながらも、自らの日々の暮らしの維持のために教壇に立っている(朝日新聞教育チーム「いま、先生は」岩波書店)。

 こうしてこの国は今や、政治家や官僚はもちろん、知識人も、ジャーナリストも、教育者も、宗教者も、軒並みと言っていいほどに、人間として劣化している。それは、人によって範囲も程度も異なるが、総じて、判断力も正義感も勇気も誇りも使命感も倫理観も、そして愛国心も衰えさせてしまっていることを意味する。一般国民は国民で生気を失い、希望を失い、自己防衛の余り人間関係をも希薄化させ、一人ひとりは孤立化を深め、内面を空洞化させ、かつ浅薄化させている。

 こうした現象は一体何を意味するのか。

私は、それは、社会も国も、音を立てて崩壊し始めているということだ、と考える。

そしてそれを最も根本のところでもたらしているのが、皮肉にも、この国の中央省庁の一つ、文科省だと観るのである。

 そして日本がこうした惨憺たる状況になったのは、文部省、そして文科省がこれまで述べてきたような教育内容と教育システムを続けている限り、極く必然だったと私は確信する。

成るべくして成ったのだ。つまり、時間の問題だったのだ。

 

10.1 国民を信じずまた恐れて、「自由」と「多様性」を教えない政府文科 省の学校教育

 今回からいよいよ第10章の「教育」に移って、その内容を順次公開してゆきます。

昨年の8月3日に公開済みの、拙著「持続可能な未来、こう築く」の目次に沿ってゆきます。そちらを確認してみていただければ幸いです。

 

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10.1 国民を信じずまた恐れて、「自由」と「多様性」を教えない政府文科省の学校教育

 近代という時代の幕開けを告げる大事件の一つに市民革命が挙げられる。

そしてフランス市民大革命のみならずその他の市民革命の起ったどこの国においても、そのとき掲げられる宣言文の中にはほぼ決まって「自由」という言葉が見られる。たとえば、“人間は何人(なんぴと)も生まれながらにして自由である”というような言い方で。

 ここで大事なことは、「何人も」という点と「生まれながらにして」という点だと私は思う。

前者の「何人も」は、人一般について言っているのではない。「人間」について、それも一人ひとりの人間を「個人」として見た時について言っているのだ。後者の「生まれながらにして」とは、裸で生まれついたその瞬間からという意味であって、国家が国民一人ひとりに与えるとか、国家が国家としてそれを保障するとかいうものでもない。むしろ自然の恵みのように、義務の履行などとは無関係に与えられ、備わっているものである、ということである。

そしてその状態は、何人たりとも侵してはならないものだし、侵されてもならないものだ、としているのである。

 そう主張する根底には、個々人にとって、自由がなかったら、それは、「人間として生きる」ことを不可能にする、あるいは「人間として生きる」に値しない人生にしてしまうという認識がある。そしてそれこそが近代に入って、人々が掴み取った価値観なのだ。それだけに自由は、とくに人間として主体的に生きようとする者であればあるほど、その人にとっては、命と同等、時には命よりも価値あるものとなる。だから、自由が阻まれているときには、それは命がけで勝ち取るだけの価値あるものと見なされてきたのである。

フランス市民大革命は人類史において、その最も象徴的な出来事だった。それまでの封建社会の桎梏に喘いできた人々、特に都市(シティ)に住む人々———市民(シティズン)と呼ばれる———によって成し遂げられたのである。

 

 ところで、ここで言う自由とは、もちろん、「何でも自分の好き勝手にできる」という意味のものではない。それでは却って、自分が自分の欲望の奴隷になっているに過ぎない状態だからだ。そうではなく、自分の生き方や運命を、誰に阻まれることもなく、自らの判断を経由して、選びとることができることであると同時に、それを選びとったことに因る結果については、言い訳することなく、いつでも自身で責任を持って引き受ける覚悟をも持つこと、を指す。

言い方を換えれば、自由であるとは、先ずは、刻々と目の前に変化しつつ展開する現実の中で、“自分にはこれしかない”とか“これしか選びようがない”、“選択肢はない”と考えてしまうのではなく、先ずは無数の選択肢がそこにはあると考えられる心の柔軟さを持つことであり、また持てることである。そしてその時、その無数の選択肢の中から何を選ぶかについては、自分を利するだけではなく他者をも利する選択肢———そこに「調和」の考え方に基づく「博愛」「友愛」の精神が生まれる———を自らの判断を経由して選びとることができ、さらにその選択の結果、目の前に現れる状況については、自ら責任を持って引き受けることなのである。

その意味で、「自由」はつねに「責任」が伴う。

 これが真の、あるいは本来の自由の意味だ。

 それだけに、真の自由、本来の自由とは、それを欲する当人にとってみれば、つねに、きわめて厳しいものであり、また覚悟を要求されるものなのだ。

 なお、ここで付言するならば、本書では、後に、憲法改正あるいは新憲法の制定の必要性についても考察するが(第16章)、現行の日本国憲法が認める自由とは“この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなくてはならない”と明記していることから(第12条)、今述べて来た意味での自由と解せるのに対して、たとえば自民党安倍晋三政権が出した「第二次憲法改正草案」で言う自由は、ここで述べた本来の自由とは、まったく似て非なるものである、ということだけは述べておきたいと思う。つまり、安倍の自由についての理解と認識は、読む者が軽蔑したくなるほど底が浅いものだ、ということだ。

それはまた、彼の「道徳観」にも如実に表れているのである。

 では平等についてはどうであろう。

 それは、人間は、生まれながらにして、つまり裸で生まれて来たその状態において、国籍・肌の色・人種・民族・宗教・信教・性別の違いとは無関係に皆同じ権利が与えられているということである。あるいは一人ひとりの人間を「個人」として見た時、誰もが、生きる権利においてはもちろん存在意義においても、余人をもっては代え難い価値をもっているという点において同等であり、誰もが掛け替えのない尊厳を持っているということである(4.1節での自由、平等そして調和についての再定義を参照)。

 つまりこの平等も、単に「他者と外見や格好が同じであるべき」とか、「他者と同じことを同じようにすべきである」とかいうことでは断じてない。また「男だから、皆同じにしなくてはいけない」とか、「女だから皆同じにしなくてはいけない」ということでもない。それではむしろ、それぞれ個性も能力も異なる一人ひとりを、一つの規格あるいは枠に押し込めてしまうことになるからだ。それでは今度は明らかに「自由」に反してしまう。

 そうではない。平等とは、精神の自由を保ちながら、一人ひとりが人間の「個人」として、誰もが、生きる権利も存在意義も同等であり、なおかつ一人ひとりは、誰もが、掛け替えのない尊厳を持っているということを、各自が自分の頭で認識し理解し、それをいつでも、どこででも行動に表せることなのである。

 近代という時代はこの自由と平等を人間の侵すべからざる基本的な権利とし、近代国家では、それを個々人の権利としてあまねく実現されることを目ざして、政治的社会的なすべてのしくみを組み立てて来たのである。

 このように考えれば判るように、それだけに、自由と平等は地球上の誰にも共通に当てはまる普遍的な価値でもある、とされてきたのである。

 では翻って日本を見たとき、世界で最初の市民大革命となったフランス革命から230年余を経た今日ではあるが、この日本では、「自由」そして「平等」という概念が、私たち国民一般の間に既述してきたように理解されてきただろうか。それ以上に、社会構成員一人ひとりの「生命・自由・財産」を安全に守ることを本来の目的とする国家ではあるが、その代理行政機構であるはずの政府は、国民一人ひとりに対して、自由と平等が本来の意味のままに理解されるような学校教育をして来たと言えるだろうか。また、自由と平等が本来の意味のとおりに実現される経済的・政治的・社会的な仕組みや制度を整えてきたと言えるだろうか。

 私は、そのいずれの問いに対しても、明確に「ノー!」と答える。

少なくとも日本は、明治期以来、表向きは、あるいは公式には、近代西欧文明を移入したことになってはいる。しかしながら私たちの祖父母、あるいは父母の時代から今日に至るまで、つまり文部省のときも、今の文科省になってからも、学校という教育の場で、その自由と平等について、児童生徒が正しく本来の意味のとおりに理解できるよう教えてきたことは一度たりともなかったし、今もない。

 そう断言できる根拠は、たとえば次の2つの事例からも明らかである。

 その一つは、アジア・太平洋戦争第二次世界大戦)で日本が完敗し、日本に連合軍が占領軍として入って来た直後、当時の文部省(の官僚)自身が著して発行した教科書に現れている。

そしてもう一つは、今日、全国の小中学生の全員に配られている、文科省お手盛りの道徳の教科書「心のノート」にそれを見てとれるからである。

 先ず前者について見る。

そこには、この教科書の最大の主張点であり、またこれまでの教育の反省点として、こう記されているのである。原文どおりに転載する。

 「 これまでの日本の教育———それは明治憲法による教育を言う———には、政府の指図によって動かされるところが多かった。(中略)

 がんらい、その時々の政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。

政府は、教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。教育の目的は、真理と正義を愛し、自己の法的、社会的および政治的の任務を責任をもって実行していくような、りっぱな社会人を作るにある。(中略)教育の重要さは、まさにそこにある。

 ことに、政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような「縦の道徳」だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹き込まれてきた。そのために、日本人には、何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。

 公民道徳の根本は、人間がお互いに人間として信頼しあうことであり、自分自身が世の中の信頼に値するように人格をみがくことである。それは、自分の受け持っている立場から、いうべきことは堂々と主張すると同時に、自分のしなければならないことを、常に誠実に実行する心構えである。・・・・・・。」

 これを文部省が教科書として当時の児童生徒に向けて発行したのは、昭和23(1948)年10月から翌24(1949)年8月までのほんの束の間のことである。教科書の題名は実に「民主主義」。上記文章は、この教科書の292〜293ページからの引用である。

 この教科書はそれ以後用いられなくなった。その背景には、当時日本を占領統治していたアメリカの対日戦略に重大な変更があったためではないか、と私などは推測する。

 実際、連合軍最高司令官マッカーサー厚木基地に降り立った当初は、日本の軍国主義を完膚なきまでに叩き潰し、徹底的に民主化しようと考えていた(1945年8月30日)。

しかし、その後の経過を記せば、そのわずか7ヶ月後の1946年3月には米ソ冷戦が始まっている。

しかも、その2年後の1948年には、朝鮮半島には、8月に南に大韓民国(韓国)、9月には北に朝鮮民主主義人民共和国が成立することになる。さらにその2年後の1950年6月には、ソ連スターリンの指示と支援の下、金日成北朝鮮軍が韓国に突如攻撃してくるという格好で朝鮮戦争が始まったのである。

 そしてその時、日本国内では、敗戦による既成権力と既成勢力の崩壊、それに自由主義の国アメリカの影響もあって、自由主義と共に社会主義を歓迎する雰囲気が特に労働者の間に広まりつつあった。1947年1月には国内でゼネストが行われようとしていたのはその象徴的な表れと言える。

 こうした雲行きの中で、GHQマッカーサーは、日本国内においてもこれ以上社会主義が広まるのを抑えるためにゼネスト中止命令を発すると共に、対外的には、対ソ連、対中国、対北朝鮮を意識して、急遽、日本を対共産勢力に対する防波堤にする必要を感じたのである。

 私は、昭和23(1948)年10月に登場しながら、わずか10カ月足らずで文部省の官僚の手による、全国の学校に配られた題名が「民主主義」とされた教科書が消えてゆき、瞬く間に教育行政が反動化して行ったのには3つの理由があったのではないか、と推測する。

 1つは、日本国の内外での政治と軍事に関する情勢の急変に対するマッカーサーの占領統治政策の変更。

 もう1つは、マッカーサーは、日本を対共産主義勢力に対する防波堤とするために、そして東西冷戦の準備に有用な人物だと見なしたために、極東軍事裁判でA級の戦犯容疑者とされた岸信介児玉誉士夫笹川良一を含む19人を釈放したのであるが、実はそれに乗じて日本の戦前の軍国主義の官僚たちが甦り————岸信介はその典型————、彼らは政界へと復帰し、一旦は自由主義化・民主化へと歩み始めたこの国の政治を、教育行政をも含めて、反動化させ明治期に回帰させることを狙ったこと。

そして3つめの理由は、上記19人のA級の戦犯容疑者を釈放したGHQマッカーサーには日本の統治機構に対する大きな誤算があったことである。

それは、GHQマッカーサーも、日本の官僚組織は自分たちの母国アメリカと同様の成り立ちをしていると勘違いしていて、日本の官僚組織ないしは権力構造の実態には重大な問題と欠陥があることに気づいていなかったことである。したがってまた、その問題点を正確に掴もうとはしていなかったことである(K.V.ウオルフレン)。

 戦前から生き残っていた軍国主義官僚はその隙をついて甦って行ったのである。

 こうしてこの国の文部省による学校教育は、表面的にはどう繕おうとも、その本質においては、再び、戦前の欽定憲法下の教育に戻って行ったのだ。

そこでは、さすが天皇を頂点とする大家族国家とは唱えなかったものの、国家があって国民があるとし、国民一人ひとりの「個」や「個性」を無視し、あるいはそれらを認めず、自由も民主主義もその意味や価値は教えずに言葉だけにし、正義を教えずに秩序のみを教え、画一化という上辺だけの平等を叩き込む教育に戻って行ってしまったのである。

 では、後者の文科省お手盛りの道徳の教科書「心のノート」についてはどうであろう。

 文科省はその「心のノート」を通して、日本全国の児童生徒に、文科省の考える「日本人としての望ましい生き方」の根幹を道徳として教えようとしている———読者の皆さんには、ここで、前記文部省作成の教科書「民主主義」では、文部省の官僚直々に「政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである」とまで言い切っていた事実を思い出していただきたい———。

もちろんこの道徳の教科書「心のノート」は、文科省の官僚が自らつくったものであるから、「教科書検定」など無関係だし、不必要なものである。

 ではその中身とはどんなものか、実際に見てみよう。

中学校の「心のノート」の目次には23項目が挙げられている。そのすべてを列挙すると次のようになる。

「心も体も元気でいよう」、「目標に向かうくじけない心を大切にしよう」、「自分で考え判断してやってみる」、「理想を持って前向きに生きよう」、「比べてみようきのうの自分と」、「心を形にしていこう」、「温かい人間愛につつまれて」、「友という生涯のたからものを」、「異性を理解し尊重して」、「認め合い学び合う心を」、「自然のすばらしさに感動できる人でありたい」、「限りあるたった一つの生命だから」、「良心の声を聞こう」、「仲間がいてキラリと光る自分がいる」、「法やきまりを守る気持ちよい社会を」、「つながり合う社会は住みよい」、「不正を許さぬ社会をつくるために」、「私たちの力を社会の力に」、「大切な家族の一員だから」、「自分の学校・仲間に誇りをもって」、「郷土をもっと好きになろう」、「この国を愛しこの国に生きる」そして最後は「世界に思いをはせよう」———

 これらは一見したところ、どの項目も非の打ち所のないものばかりである。そして項目だけではなくその内容の説明も、とくに批判すべきところもないように私には見受けられる。

 しかし、その項目と内容の全体をもう少し注意深く眺めて行くと、そこには、既述の、人類が近代になって発見し、掴みとった普遍的な価値が見当たらないことに気付くのである。つまり、真の自由であり真の平等だ。

たとえば、それらについては、「心のノート」流の表現をすると、次のような表現でもあればいいのであるが、それがどこにも全く見当たらない。

「それぞれ顔が違うとおり、誰も、互いに異なった個性や能力を持っているのだよ。数学や理科の得意な子、国語や英語といった語学の得意な子、音楽や絵画といった芸術の得意な子、運動が得意な子、手先が器用で物を作るのが得意な子、誰をもやさしい気持ちにさせる能力にすぐれた子、というように。だから多様なんだ。そしてその誰も、人間として誰からもぞんざいに扱われてはならない尊厳があり、全く同等の生きる価値、存在する価値があるんだよ。だからどんな一人ひとりも、お互いに、人間として、相手を尊重し合わなくてはいけないんだ。」

「その一人ひとりは、誰も、みんな、何を思い、何を考え、何を信じ、何をどのように表現するかも自由なんだよ。」

「しかし、それらを実行するに当たっては、その結果については責任も伴うんだよ。」

 では、こうした人間個々人にとっての普遍的価値が「心のノート」に見られないという事実は一体何を物語っているのだろう。

 それは、作者である文科省の官僚がうっかり落としてしまったためなのだろうか。

私は決してそうではないと考える。むしろ、これは官僚が故意に、意図的に外したのだ、と断定さえ出来ることだと考えている。

 私は本節の冒頭で、人類の歴史とは、見方に拠れば、人間としての自由を戦い取るための歴史だった、との主旨のことを述べてきた。それは、とくに人間として主体的に生きようとする者であればあるほど、自由がなかったら、「人間として生きる」ことを不可能にする、あるいは「人間として生きる」に値しない人生にしてしまうという価値観に基づくものであり、それだけに自由は、誰にとっても、命と同等、時には命よりも価値あるものと見なされてきたからである。

したがって、いやしくも「道徳」を児童生徒に説こうとしている教科書だったなら、どんな人間にとってもそれほどに価値ある「自由」の概念を、“ついうっかり記載し忘れた”などということは断じてあり得ないのである。

 そこで、ここで少し、政府という行政機関に、実質的に国民を日々、統治している官僚の心の内をちょっと想像してみよう。本来ならば彼らは、総理大臣の指揮の下に動く各大臣の配下で、大臣にコントロールされながら国民を統治するというのが筋なのだが、この国では、既述のように、主権者である国民の利益代表であるはずのそうした政治家は、表向きはともかく、実質的には官僚やその組織の操り人形となっているだけなのだ。

その意味で、この国は、明治期以来、実質的に官僚独裁が行われているのである。

 そこで、その心のうちを想像する官僚は、何も文科省の官僚に拘らない。財務省でもいい。経済産業省でもいい。国土交通省でもいい。厚生労働省でも総務省でも、どこの府省庁の官僚でもいいのである。

 その場合、もし、日本国民一人ひとりが、「自分が何を考え、何を信じ、何をどう表現しようと、自由なんだ」などと考えるようになったなら、また国民一人ひとりが、「自分には決して踏みにじられてはならない人間としての尊厳があり、基本的権利がある。そしてそれは人類が見出して来た普遍的価値なのだ」などと考え、そして学校でも社会でもどこでもそのとおりに行動するようになったならどうであろう。つまり国民一人ひとりのものの考え方や生き方がそのように「多様」であったり「自由」であったりしたら、統治すべき立場の官僚の内心はどうなるであろう。

 それは、彼ら官僚にとっては、今様の言い方をすれば“やばい”となり、心穏やかではなくなるのではないか。なぜかといえば、国民の示すその多様性や自由に統治面で対応しなくてはならなくなるからだ。

 ところが、日本の官僚らは自由や多様性を身につけた国民を統治したことなど、明治期以来、一度もない。先輩から聞いてもいない。組織の記憶としてもない。それどころか、彼ら官僚自身が幼い時から祖父母や両親からは「和を大切にしろ」だとか「みんなに合わせろ」、「秩序を乱すな」、「協調性が大切なのだ」、「長い物には巻かれろ」といったことを口すっぱく言われて育ってきたのだ。そこでは、誰も、“誰もみんな、顔が違う通り、個性も能力も違うのだ、それを尊重しなくてはいけない”などとは教えられて来てはいない。

 それだけではない。同じく明治期以来、この国には、実際には琉球民族もい、アイヌ民族もい、ウイルタやニブヒと呼ばれる民族もいたのに(網野善彦「『日本』とは何か」講談社学術文庫p.321)、「単一民族の国だ」、「一言語で一文化の国だ」と教える文部省と文科省の教育行政の中で育ってもきたのだ。“この国は多様な民族から成り立っている”、などと教えられて来たことは一度としてないはずだ。

 だから、目の前に、多様性を大事にし、自由に振る舞う国民が大多数を占めるようになったなら、これまで先輩官僚がやってきたことをやってきた通りにするこが教育行政だと自らもお思い、また思わされてきた官僚にとっては、その国民をどのように統治したらいいのか、皆目判らなくなりパニックに陥ってしまうに違いない。

 したがってそんな事態は官僚らにとっては恐怖以外の何物でもなくなるだろう。

それゆえ、どんなことがあってもそんな事態だけは何としてでも避けなくてはならない、と考えるのではないか。

 ところがその反対に、もし、自分(たち)官僚が国民に向って何を発しても、発したそれが法的に裏付けのあることであろうとなかろうとそういうことには国民がことさら注意を払わず、また無関心であって、いつも国民みんなが足並みを揃えて従順に従ってくれたならどうであろう。

官僚にとってこれほど統治しやすく、思いどおりにさせてくれる国民は世界中どこにもいないと多分思えるようになるのではないか。そしてそれは、彼等にとってはこの上なく「愉快」であり「やりがい」を感じることにもなるはずだ。

 また、もし、自分たち官僚が、彼らには許されてはいない権力を行使して、自分たちの福祉や待遇や年金状況を、世の中の景気動向や政府の財政状況とは無関係に、そして民間とは段違いの高水準の状態を維持できるように仕組んでも、国民の利益代表である政治家がノーテンキであるためにそのことに気づかずに、国会ではほとんどそのままフリーパスとなったなら、どうであろう。

 官僚にとっては、この国は文字どおり「天国」となり、「我が世の春」を謳歌できるようになるのではないか。「公務員は全体の奉仕者だ」など糞喰らえ、という気分を常態化できるようになるのではないか。

 なお、補足的に言えば、実は今、官僚たちの間では次のことが仕組まれて、現実化してもいるのである(「週刊現代」平成28年5月28日発行)。

 民間よりも高い給料を確保できるようにしていること。休暇も取り放題に取れるようにしていること。国民一般よりもはるかに充実した福利厚生の制度をも維持できるようにしていること。国民一般の年金制度が近い将来実際に破綻しても、自分たちだけは高い退職金や年金を維持できるようにしていること。また公務上どんな失敗をしても、責任を問われないように、最悪でも辞めさせられるようなことはないようにしていること。さらには、これまで国民からさんざん非難されてきた「天下り」についても、それを自主的に止めるどころかむしろ慣例化させて、第二第三の人生を優雅に過ごせるようにしていること、等々である。

 こうなれば、官僚たちが、「オレはこの国の国民すべてをオレの手で動かしているんだ。オレは国民を自由に動かせるのだ」、「オレたちは国家を運営しているのだ」と思い上がるようになっても何の不思議もない。と言うより、政治家に政治など任せられるか、任せたならこの国はどうなるか判りはしないという考えを持ちながら、その政治家を選んだ国民を愚民視してさえいるのである(保阪正康「官僚亡国」朝日新聞出版p.19)。

 実際、近年、次々と明るみに出る政府各府省庁の官僚の様々な陰湿で狡猾な不正行為や不始末はこうした状況の積み重ねの結果であろう、と私は見る。

それはもう、眼に余るというより、“人間ここまで堕ちることができるのか”と思えるほどの堕落ぶり、人間劣化ぶりである。

 私は、「心のノート」に見るように、人間個人にとっての自由と平等の普遍的価値を正しく明確には教えないのも、また、日本の学校教育全体を通して、「人間は、誰も、生まれながらにして自由であり、かつ平等でもある」ということを明確に教えようとはしないのも、そうしたことを教えることは官僚にとっては不都合なことだし、それを教えたなら果たしてその結果がどうなるか、統治者として予測できないし恐怖だからだろうと推察する。そしてそれは既述の2.5節に述べて来た私が直接接触した官僚と役人の生態からも軌を一にするのである。

 官僚には、自分たちは特権的エリートであるという傲慢な意識と、その裏返しである愚民意識がある。つまり「公僕」などという意識など毛頭ない。ところがその反面では、強迫観念としての恐怖と不安を拭い去れないのだ。

 

 ところで、今、安倍政権の政府文科省は、教育委員会のあり方を見直そうとしている。

ますます深刻化している「イジメ」問題に対して、教育委員会が責任を持って対応し切れていない、責任を取る者がいない、ということが見直しの動機のようである。そのために、現行の教育長と教育委員長とを一体化させ、それを地方公共団体の長が任命できるようにする、というものだ。

 果たして安倍晋三は、こうすることで教育委員会はもっと真剣にイジメ問題に対応でき、イジメは減少させられる、解消させられるとでも本気で思っているのだろうか。

 もし本当にそのように思っているのだとすれば、やはり安倍晋三は、政治家一族の中で育った弊害として、人間というものを知らないのだ、と私は思う。と同時に、安倍はこの国のイジメ問題の本質と根本原因が判ってはいないのだ、と私は考える。

それに、もしそんなことでイジメを減らせられたり解消できたりするなら、もうとっくにイジメ問題はなくなっているのではないだろうか。

 私がそう考えるのは、日本のイジメ問題の本質と根本原因は、一言で言えば、日本の政府文部省と文科省が採ってきている教育内容と教育システムそのものにある、と私は考えるからだ。一言で言えば、文部省も文科省も、児童生徒を一個の自立した人間、それも個性も能力もそれぞれまったく異なる、尊厳を持った存在として教育しないからだ。それだけに、いじめ問題は決して教育委員会だけの問題ではない。

 元々日本の教育システムは「子どもたちに最良の環境を願う親たちの要求や知恵が結晶してできたものではない。それは、政府省庁の官僚たち、経団連・日経連などの組織にいる経済官僚たちの要求と利害を体して設計された、仕組まれた制度であり、高度に官僚主義化したビジネス社会に仕える従順な人間を生産するという役割」を担ったものでしかない(K.V.ウオルフレン「愛せないのか」p125)。

 だから文科省(の官僚)は、児童生徒一人ひとりを、人格を持った、能力も、個性も、価値観も、趣味も異なる多様な個あるいは個人としては見ていない。だからそれぞれの能力や個性を大切にしないし、それを育てようともしない。児童生徒同士の間でも、互いにそれを認め合い、それを互いに育て合うことが大切だとは教えない。むしろ、些末な知識、断片的な知識の詰め込み競争をさせては、それらをどれだけ正確にたくさん記憶できたかを確かめる試験を繰り返し行うことによって、その児童生徒の「能力」判定をし、その判定結果をもって児童生徒それぞれのその後の人生の選択肢さえも指定してしまう。すなわち、ここでも個人としての自由を尊重しなければ、その自由を励まして手助けする制度を設けようともしない。

 とにかく子どもたちは、いつでも、どこででも、校則は守らなくてはいけないと教え込まれる。それも、馬鹿げているとしかいいようのない些末な校則だ。ところがそれを破ると、ときには親が学校から呼び出されさえする。そしてその事実は、児童生徒本人の成績評価に影響し、進学にも影響することになる。

 つまりこの国の児童生徒は、その全員が、つねにある一定の枠組みの中に押し込まれ、精神の自由を抑圧され続けているのである。

それは必然的に、彼ら一人ひとりの深奥に名状しがたい敵意を生み、人によって程度の差こそあれ、他者や社会への憎悪や、反抗心、復讐心をも生む。その結果、本人も気付かないうちに、大なり小なりの人格障害を引き起こしてしまうのではないか。

 私は、こうしたことには、児童青少年の心理を研究している学者やカウンセラーだったら気づかないはずはないと思っている。しかし教育学者や教育評論家を含めて、彼らは、こうした致命的な欠陥を持つこの国の政府の教育行政の本質的欠陥を指摘しようとはせず、表面的でとりあえず的な対処を提案しているだけだ。政府を堂々と批判する勇気がないのだ。

 その意味で、彼らはこの国の児童生徒を裏切っているとも言える。しかしそれも結局は、真の愛国心がないからなのではないだろうか。

 今、この国には、不登校、引きこもり、虐待、自殺もどんどん増えているし、またこの頃の子どもや若者はすぐに「キレル」ともよく言われるが、こうした現象も全て、その根っこのところでは、集団主義とそれに従うことを強制し、児童生徒個人の自然な成長を抑圧するこの国の文科省によるこうした教育のあり方が最大の原因となっている、と私は確信する。

なぜなら、こんな教育行政の中で育った児童生徒たち一人ひとりに、 “今のままの自分でいいんだ”と、今の自分を自信と誇りを持って認めるところに育ついわゆる「自己肯定感」など持てるはずもないからだ。また「自己実現」を図ることもできないだろう。また、一人ひとりが、ありのままの姿を互いに認め合えないのだから、それぞれは自分の居場所を見出すこともできない。互いに寛容な心をも持ち得ないからだ。

 とにかくこうした状況は人間性と人格の形成期にある児童生徒本人にとってはもちろんのこと、この日本という国にとっても、極めて重大で深刻な事態だと私は思う。なぜなら、彼ら児童生徒ばかりではなく、今日、日本国籍を有する成人のほとんどは、かつて、大なり小なり、人間としての人格に障害を起こしてしまうこうした教育の下で育ってきているのだからだ。

 要するに官僚独裁によるこの国の政府は自国民を信頼してはいないのだ!

国民こそ、それも自由で多様な生き方をする国民こそ、国力の最大の源泉であり財産だ、という発想を持てないのだ。

そしてこの国の大臣は、そんな官僚たちに操られている、というわけだ。

 こうしてこの国は、真の国力をますます減退させてゆき、世界的に見て、日本は相対的にどんどん存在価値を失って行かざるを得なくなる。そしてそれは、日米安全保障条約を強化するとか、最新鋭の防衛力を装備し国力を高めるとか言うはるか以前の話だ。

 しかし、こうなるのも、文部省と文科省が、この国を背負って立ってゆかねばならない子供たちや若者たちに、明治期以来一貫して、人類の普遍的な価値である「自由」を、とりわけ精神の自由を与えずにむしろ抑圧し、多様性を保障してこなかったことの代償なのだ、と私は思う。

 となれば私は、主権者である国民の一人として、文科省は不要だと言うしかない。というより、特に文科省はもはや有害無益、存在しているだけで有害なのだ!