LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

12.3 土地の所有権と「三種の指導原理」

12.3 土地の所有権と「三種の指導原理」

(1)土地とは何か

 とくに日本で税制を考える時、何よりも先んじて考えておかねばならないものとして土地の所有権の問題がある。

 しかし、その所有権の問題を考える上でも、土地について、あらかじめ考え、また確認しておかねばならないことがあるように、私は思う。

それは、そもそも土地とは何か、ということだ。

 この国では、これまで、あるいは少なくとも戦後は特に、土地とは、畑や田んぼという農地や宅地や山林原野を含めて、単に「不動産」という見方をされたり、あるいは生産活動をする際の生産のための「手段」あるいは「資本」という見方をされるだけだったように私には思われる。

 しかし、今後も、本当にそうした見方をしているだけでいいのだろうか。

なぜならば、土地という言い方をされるそれは、人間の経済活動にとっての不動産あるいは生産手段とか資本と言う前に、地球上のあらゆる生命をその表面近傍において生かしてくれている生態系を構成している土壌そのものだからだ。そしてその土壌は、大気・水と共に自然環境を構成している要素そのものなのだからだ。

 ところが今、この国でもそうだが、多くの土壌としての土地は、近代文明が発達し、資本主義市場経済が世界化する中で、人間によって急速に、かつ広範囲に、汚染され、あるいは破壊されてきている。特にそれに拍車かけたのが、人間が地中から掘り起こした化石燃料である石炭であり、石油だ。

それも、それらが直接燃料として用いられる場合もそうであるが、特に第二次大戦後急速に発達した工学の一分野である化学が主に石油から生み出した化学農薬を含む化学薬品と、広義には化学合成製品が汚染と破壊の主たる要因となっている————レジ袋とかペットボトルといった類いのものばかりではない————。

 その結果、今日、世界の海も、それぞれの国の中の河川も、湖沼も、その多くが、大量に廃棄されたその化学合成製品によって汚れに汚れ、あるいは破壊されてしまっている。そのため、これまでは飲めた水も、そのままでは飲むに適さない水となってしまっているところも多いし、その範囲がますます拡大してもいる。

 このことは、水を摂取しなくては絶対に生きてはいけない人を含むあらゆる生命にとっては、生存そのものを脅かす事態なのだ。

 

 ところで近年、宇宙開発技術の発展がめざましい。宇宙ステーション作りとか火星探査などにその一例を見られる。

そしてそうした動きに対して、メディアは、それがいかにも夢を抱かせてくれる動きと見るのか、あるいは新たなフロンティアへの挑戦という意味で見るのか、しきりともてはやし、報道してみせる。

 そうした宇宙開発の真の動機や目的は私には不明だが、どうやらそこには、表向き、今世紀末期には地球人口が百億人に達するかもしれない、そうなっては地球はそれだけの人を養ってゆくことはできないだろう。だから今のうちに地球以外の天体に人が住める場所を確保しておこう、という目論見もあるようにも見える。言ってみれば、地球の外に現代風の「ノアの箱舟」を作ろうというのであろう。あるいは、宇宙開発の動機には、地球上にはない新たな資源を求めようというものもあるのかもしれない。というより、特に欧米と中国との間での宇宙空間での覇権争い、というのが、真の動機なのかもしれない。

 しかし、そこにどんな理由、どんな目的を設けようとも、人間が生きて暮らして行けるところは、結局は、この地球上の土地しかないのである。

 その根拠は、今後、どんなに科学技術が進歩しようとも変わりようはないし、また変えようもない次の真理に基づくのである。

 1つは、広大無辺とも言われるこの宇宙にどれほど多くの天体があろうが、平均してほぼ80年という人の一生の間に往復できる距離にある天体の中で、人が外でも裸で過ごせる天体はこの地球しかないこと。1つは、他生物を食い物として、それを摂らねば絶対に生きてはゆけない人間が安定して住める天体はこの地球しかないこと。1つは、同じく、生物として水を定常的に摂取しなくては絶対に生きてはゆけないヒトが住める天体は、やはりこの地球しかないこと。仮に地球外の天体で、ヒトが生きてゆくために必須の水や空気を最先端の科学技術力により作れたとしても、現在の地球人口のたとえ1%もそこでは住めないこと。しかし、その場合も、ヒトが生物として生きてゆくのに不可欠な栄養は作り出せないこと。少なくとも安定的には。1つは、ある数の人間を、莫大な量のロケット燃料を使ってピストン輸送することだけは可能かもしれないが、しかしそれをしたなら今度は地球だけではなく宇宙空間をも汚してしまい、ますます地球上の余計なエントロピーを宇宙空間に捨て難くさせてしまうこと。それは、地球上に残された人々をして、その人々が生きてゆくことを一層困難にさせてしまうことである。

 以上の4つが真理であることの根拠は、生物として生きてゆく上で絶対に必要な水が「当たり前」にあり、適温の大気が「当たり前」にあり、それを喰わねば絶対に生きてはゆけない、植物と動物を安定的に確保したりできるのは、時には土壌、時には大地と表現される土地が「当たり前」にあるこの奇跡の星とも水の惑星とも呼ばれるこの地球だけだからだ。

 そしてこうした条件の全てが満たされたのは、太陽と地球との間の距離が絶妙な関係にあることに因る。その距離が、今よりも少しでも遠くても、また近くても、適温の水と大気が存在し得ないとされているからである。そうなれば、地球上のこれまでのような大地・土壌も存在し得ないことになる。こうした事実は文字通り奇跡としか言いようがないのである。

 

 そしてこの、生物が飲める水と呼吸ができる大気と栄養となる食い物をもたらしてくれているのが、他でもないその水と大気と栄養そのものの地球上の自然界における循環なのだ。しかもその循環を担っているのが大地である土壌、すなわち土地なのだ。

だからその循環が止まったり止められたりしたら、水も大気も栄養ももたらされなくなる。ということは、あらゆる生命体は生きてはゆけなくなるということだ。

 つまり、土地と称される土壌からなる大地は、それが切れ切れに分断されていない限りは、「水と大気と栄養」をその隅々にまで循環させてくれるようになる。そうなれば、それ自体が多様な生命が共存できる豊かな生態系を形成するようになるだけではなく、河川や湖沼や海といったより大きな生態系と連結して、「生命の原理」が一段と躍動的に実現された場となってゆく。そうなればなるほどに、人間の諸活動、特に大規模な経済活動に伴って生じる「エントロピー」をよりスムーズに生態系の外の世界に、そして果ては宇宙へと捨て続けてくれて(第4章)、生命の存続をより確かなものとしてくれるのである。

「母なる大地」とは、そういう働きを持つ土地を讃美した言い方なのではないだろうか。

 

 そこで既述した、万有引力と同等の自然界の原理としての「エントロピー発生の原理」と結びつけて言えば(第4章)、土地とは、私たちが経済活動等を通じて地球表面上にて発生させたエントロピーを、大気と水と栄養を自然界に循環させることによって地球の外の宇宙に捨て続けられるようにしてくれている、人類と他生物をも地上に生かし続けてくれる上で決定的な役割を果たしている場である、となる。その意味で、土地は紛れもなく人類全体の価値であり人類全体の財産でもある。

 それだけに、このことを踏まえるなら、自然界に生かされている生物種の一種でしかない私たちヒトが、どのような目的や理由に基づいていようとも、そしてその面積がどれほどであろうとも、土地を私的に所有したり、私的利益を得るために売買したりするということは、それだけで、本来なら、自然法にも背くことであると同時に、人類全体の価値・財産を私物化することであり、人類の大義にも反することである、ということがわかる。

 なおこのことは、言うまでもないことであるが、外国資本が他所の国の土地を取得するという場合も、理由の如何を問わずに、まったく同様に言うことができる。

なぜなら、「所有する」ということは、それを独占的かつ排他的に我が物とするということだからだ。そして所有するということは、とかく土地の「分割」という行為が伴いがちだが、そうなると、土地の持つ既述した特性を失わせてしまいやすくなるのである。

「分割」という行為には、特定の範囲の土地とそれに隣接する土地との間に、水と大気と栄養の循環を遮断する壁を設けがちだからだ。

 

 以上の考察から結論として次のことが言い得る。

土地は資本主義市場経済社会で言う商品一般とは明らかに、そして決定的に違う、と。

一般の商品には、今、土地に関して述べてきたこうした特性は絶対に備わってはいないし、備わりようもない。

 この事実一つをとってみても、土地は一般の商品とは本質的に性質を異にするものである。一般の商品は数えることができ、運搬することができ、つくったり、捨てたり、また分解したり修理したりすることができるが、土地はそうはいかない———埋め立てや干拓は、ここで言う土地の持つ本質とは筋違いの話である———。

どんな科学や技術の力をもってしても「母なる大地」をヒトがヒトの手で創ることは絶対に不可能なのだ。

 それに、空気そして喰い物と同様に土地も、それなくしては、またその上でなくしては人は生きては行けないものであるだけに、ただ単に経済的損得勘定の観点だけから価値の計量ができるような質のものでもない本質的に価格など付けようもないものだからだ。そしてそれだけに、経済システム、それも今や、その実態はギャンブルのシステムでしかなくなってしまっている資本主義経済システムとか市場経済システムなどにも馴染むはずのものでもない。その表面上に見えない線引きをしては、商品流通ルートに乗せて切り売りできる質のものでもないからだ。

 このように土地は、最初から圧倒的に、そして不可避的に、「公」的どころか自然の一部を成しながら、多様な全生命を生かしてくれている、という価値を持っているものなのである。

 なお、以上考察し述べてきたことは、もし私たち人類が本当にこれまで地球上に生存してこれたと同じくらいの時間的長さを、子々孫々にわたって存続できることを願うなら、土地の定義、土地の所有権、土地税制等々、既存の土地に関するあらゆる法制度を根本から見直し、法改正する必要があると考えるのである。

特に、後述することになる、この国独特の「土地所有権の絶対性」なる概念は、時代遅れもはなはだしいものであるが、それ以上に、全く誤った考え方だと、私は考える。

「土地所有権の絶対性」とは、“俺の土地なのだから、他人から、どうしろこうしろ、あるいはどうすべきこうすべきなどと、とやかく言われる筋合いのものではない”という考え方を肯定するもので、極めて自分勝手で、独善的で、社会という共同体に挑戦する態度のことを言う。

 実際、土地に関するこの考え方が、この国の都市づくりや集落づくりの際に、その街並みや家並みを構成する上でどれほど協調性や調和を乱し乱雑をもたらしてきたことか。

そしてここでも、「和の精神」がいかに薄っぺらで御都合主義的にしか語られてこなかったかが判るのである。

 

12.2 環境時代の税制の原理と原則、そして租税の設定の理由

12.2 環境時代の税制の原理と原則、そして租税の設定の理由

 そもそも人が他人の所有する金であれ物であれ、その全部または一部を取り上げたり、他人の所有する肉体や精神を使役に駆り出したりするということは、それ自体が、合法か否かは別にして、権力を行使することである。なぜなら、権力とは、前にも述べたように、「他人を押さえつけ支配する力」のことだからである。そしてこの場合、その権力の行使は日本国憲法が明記する財産権(第29条)を侵していることである。

 そしてこのことに関連させて言うと、たとえ憲法のその次に続く第30条が、『国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う』と明記はしていようと、国家———この場合は「国」ではない———あるいは国家の代理者である中央政府自身ないしは地方公共団体の政府自身が、国民あるいは住民から、彼等の所有物を税として取り立てるということは、その前条の第29条にある財産権を侵すことであり、本質的に他者の所有物を奪っていることに変わりはない。

 したがってこの「徴税」という行為に関しては、日本国憲法自体が矛盾を犯しているのだ。

なぜなら、第29条では“財産権は、これを侵してはならない”と明記しながら、そのすぐ次の第30条では、前条との矛盾を犯すことについて国民をして納得させ得る説明をすることなく、『国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う』と言って、国民各自はその私有財産からその一部を提供しなくてはならないと言っているからだ。

実際、この第30条を根拠に、中央政府も地方政府も、国民の私有財産を剥奪する権力の行使を正当化している。

 私たち国民は、この現行憲法上の矛盾を見過ごしていていいのだろうか。異議を差し挟まなくていいのだろうか。見過ごしているから、あるいは異議を申し立てないから、中央政府(官僚)でも地方政府(役人)でも、当たり前のように、憲法30条のみを盾にして、国民に対して、本来公務員=公僕である彼らには憲法上与えられてはいない権力を行使してくるのではないのか、と私は考えるのである。

 それに、そもそも「財産権」という言葉遣いあるいは表現の仕方は私は相応しくない、あるは正しくはないと考える。

 「権利」という言葉は、たとえば「発言権」、「居住権」、「帰還権」がそうであるように、動詞あるいは行為を示す言葉の後に付されて、元々「・・・する権利」という意味を持つものだ。

ところが財産権はどうか。「財産」は動詞でもないし行為を示す言葉でもない普通名詞だ。そこに権利が付くというのでは意味が通じないのではないか、と思われるからだ。つまりここでは、財産という物そのものよりむしろ「財産を私的に所有する権利」ということに力点を置いて表現したいのであるからだ。

とすれば、やはり「財産権」ではなく、「財産を私的に所有する権利」という意味で「財産所有権」、あるいはそれを略して「所有権」とする方が正しい表現、誰にも理解しやすい表現となるのではないか、と私は考えるのである。

そしてその場合、現行憲法の第29条『財産権は、これを侵してはならない』は、『所有権は、これを侵してはならない』と言い換えられて、これを読む者には「財産を(私的に)所有する権利」は保障されている、と正しく理解されるとともに意味も明確になるのである。

 こうしておいて、次に、その『所有権には義務を伴う』とすれば、財産を私的に所有する者は義務として「納税」しなくてはならないとなって、論理はすっきりするのである。と同時に、先の第29条と第30条との間に見られた憲法条文相互の間での矛盾も解消されるのである。

 参考までに言えば、ドイツ憲法ドイツ連邦共和国基本法の第14条)は「所有権」という表現をしている。

 

 ところで、これまで、この国では、国民の納税に対する大方の心情はというと、ほとんど国民には、“私的財産を剥奪ないしは取り立てられる”あるいは“お金を取り立てられる”という気持ちの方が先に立っていたのではないだろうか。決して積極的に“納税しよう”などという気持ちからではなかったのではないか、と、私自身の思いをも振り返ってみて思う。

そうした思いにさせてしまう最大の理由は、納税しても、「それは自分たちの日々の暮らしに役立てられないで、大企業優遇策や不要不急の「公共」と銘打った大規模事業に使われてしまっているからだ」、という不満だったように思う————もちろんその背景には、政治家の官僚任せという無能・無責任・怠惰・自国民への不忠ゆえの、この国の国家としての政治の貧困と無策がある————。

しかし私は、多くの国民がそうした気持ちにさせられてしまうのには、実はもう1つ理由があるのではないか、と考える。

それは、既述した、日本国憲法自体が持っている論理矛盾である

 憲法とは、後述するように(16.3節)、本来、国民の一人ひとりが、自分自身の主人公として、自分で自分のことを、また母国の政府が国家としてとっている行動と進んでいる方向について、その条文を読むことによって、誰に判断を仰がなくても、自分で正しいか間違っているかを判断して自分の身の処し方を決めることができるようになるための規準ないしは原器なのである。平たく言えば、国民一人ひとりの生きる上での指針となるべきものである———そういう意味でも、憲法は、安倍晋三がいうような「国の理想を表わしたもの」では断じてない。同氏の憲法理解は、根本から間違っている。それはどの先進民主義国でも、国民は常に憲法に照らし合わせて現実の法律のあり方や暮らしを考えていることからも判る。安倍晋三憲法に込めた「理想」は、彼個人の時代錯誤の歴史観に基づくもので、国民一般のものではない。そんな安倍がこの国の現行憲法をしきりに変えたがっているのだ。国民にとって、こんな恐ろしいことはない!———。

 そうした観点に立つとき、国民が憲法に頼ろうと思っても、そこに矛盾を感じるようではとても判断の規準ないしは原器にはなり得ないのである。

 ところが、この国の現行憲法は、納税と徴税という、国民一人ひとりにとっても国家にとってもきわめて重要な、所有権を侵してでも税を取り立てる理由と税を納めなくてはならない理由との間には、既述のとおり、重大な矛盾、齟齬、飛躍を残している。

 しかしこれからの時代において、この国が真に持続可能な国へと自らを変革して歩んで行けるようになるためには、この国を動かす資金の確保に繋がる税の納税・徴税というこの問題は、これまでのような、上から押し付けられたルールのまましておくわけにはいかないし、このままでいいとも思わない、と私は考える。

それは自分たちの国は自分たちの手で造るという決意と、その国づくりのためのお金も自分たちで出すという決意がどうしても必要となる、と私は考えるからだ。つまり、もう「あなた任せ」にはしない、という主体性がどうしても必要なのだ。

 それと言うのもこの国には、目の前に、これまでの政治家たちが怠慢で、無責任で、先を読まない無能さのゆえに招いてしまった幾多の大問題としての、世界一のスピードで進む少子化と高齢化という難題、それに因る労働人口減少に因る国力の衰退という問題、その上さらに、これまで政治家たちが使命を逃れて、この国を真の国家としないまま、予算案づくりも各府省庁の官僚任せにして来た結果累積させて来てしまった、G7の中でもダントツの、途方もないほどの借金(政府債務残高)の問題が現実問題としてあるのだ。

そしてこれらの大問題は、すべて、ポスト近代の、環境時代という新時代を国として生き抜いて行こうとするとき、決定的な足かせになりかねないのである。

 したがって、こうした大問題を早急に解決させるためにも、国民が進んで納税しようという気持ちになる税制とする必要がある、と私は考える。

そしてこの内、超巨額借金問題に対する対処の仕方のついては、前節にて、一つの試案を示して来た。

 とにかく、新しい時代には新しい時代に相応しい税制を設けて出発しなくてはならない。そうしなくては前制度による矛盾をますます深め、人々の納税意欲をますます減退させてしまうからだ。

 ではそのような税制とするにはどうしたらいいか。どうしたらそのような税制になるか。

以下は、それを明らかにするための、これも私なりに考察してきた試案である。

 ここでもその考察に入るには、基本的な問いを発することから始める。

 そもそもなぜ税制度などという制度が必要なのであろうか、と。

なお、これを考える場合、国家というのは大きすぎるし広すぎるので、私の提案する新国家を構成する主体一つであり、最も身近な共同体となるはずの地域連合体について考える。

 そこで、私たちは一人ひとり、こう問うてみる必要があるのではないか。

“なぜ自分は今、こうして周囲のみんなと一緒に、この場所、この地で、集団で生活しているのか”

“なぜ自分は、一人で、みんなから離れて、すなわち孤立して生活していないのか”

“それは、一人では生活できないからなのか、それとも、自分の知らないうちからみんなと一緒に生活するようになっていたからなのか、それとも、誰かがここに住むことを自分に強制しているからなのか”、等々と。

 これらの問いを、一人ひとりが自らに投げかけ、それを深く考えて行くことによって、先ずは、自分が今、ここに、集団で暮らしていることの意味と理由を、今までよりずっと深く理解できるようになるのではないだろうか。

すなわち、一人では、どうやっても、生きることはもちろん生活してゆくこともできず、どうしても集団の中の一員として協力し合わなくてはならない。そしてその集団は、ただそこにみんなが集まっているだけという仕方でいる集団、つまり烏合の集団ではなく、そこに集まるすべての人々が、一人ひとり、意志を持って、その生命と自由と財産を安全に守られるようなしくみを持った集団でなくてはならない、ということをである。

 それは、より具体的に言うと、その集団とは、それを構成する一人ひとりは、少なくとも日々の食と住と衣をも確保し得て、その上、「人間」として生きられるために必要な諸制度と諸設備を整えた集団であり、それを構成員のみんなで維持し、また守って行くことを互いに合意した集団でなくてはならない、ということを、である。そういう意味でその集団とは共同体なのだ、と。

 そう認識し得たとき初めて、一人ひとりは、自分が生きている場所は共同体なのだと理解できるようになるだけではなく、その共同体への愛も生まれ、またそれだけではなく、自分が生き、自分を人間として生かしてくれるこの共同体のために自分は何をしたらいいのか、あるいは何をすべきなのか、一体何ができるのか、という参画意識も自然と湧き上がってくるようになるのではないか。

 そしてそのとき、最終的には、“自分たちの共同体は自分たちで責任を持って運営し維持するしかない”、“自分たちの共同体の運命は自分たちで決めるのだ”という自覚と覚悟も備わってくるのではないだろうか。

 私はこうした自覚と覚悟が備わった時、“この共同体のために自分は何をしたらいいのか、あるいは何をすべきなのか、一体何ができるのか”の意識は、ごく自然と“自分たちの共同体は自分たちで維持するのだ”、“そのために必要なら、自分の所有しているものを共同体のために提供しよう”という気持ちになり、行為に結びつくのではないか、と私は考えるのである。そこで言う「自分の所有しているもの」とは、必ずしもお金や物とは限らない。自分の能力であり体力をも含む。

そしてそのとき、私たち国民としての納税という行為や税制度という仕組みに対する捉え方や理解はこれまでとはまったく違ったものになってくるのではないか、と私は考える。

 しかし、だからと言って「進んで納税したくなる」というところまで行くには、未だ未だ隔たりがあるように思う。

 では、どうしたら国民は進んで納税をしようという気持ちになるのだろうか。何が満たされたならば、そんな気持ちになれるのだろうか。

 次のものが、私の考える、その問いに対する答えです。

それは、こうした条件がこうした優先順位の下に満たされればそれは可能であろうというものである。

 国民がそんな気持ちになりうる税制度であるための第1条件は、とくに国家の庇護がなくても自力で優雅な生活を送ることのできる富裕者や資産家、不労所得者がいるが、そんな彼らから政府が応分の徴税をすること。また、企業、とくに税率面で優遇されて来た大企業に対して、それへの法人税率をせめて一般国民並に上げて徴税すること。

 それは単に税の公平化のためという理由に留まらない。既述のように、資本主義が通用する時代は既に終わっているのだし、企業社会を徐々に終焉へと向わせ、新しい時代の準備をするためである。法人税率を高めると、その企業は外国に逃げ出すというのが法人税率を上げたがらない経済関係省庁の官僚の言い分のようだが、そのような言葉に惑わされることはない。逃げ出すなら逃げ出せばよい。逃げ出した先でも、早晩、「搾取」「格差」が問題となり、「労使間紛争」が起こり、「賃金」を上げざるを得なくなるだろうからだ。

 また宗教法人からも徴税する。

それは、既述のように(6.7節)、現行の宗教法人がたとえば同じ思想・信条の自由、信教の自由、集会・結社・表現の自由が保障された出版社や新聞社などと比べても、特別に大きな社会貢献しているとは見えない。むしろ、やっていることは全く形骸化してさえいる。外部からは密室に近く、とくに高僧と言われる人ほど、時折報道されるように、高潔そうに見えていて、実態は俗人以上に俗っぽい行動をしていることすらままあるのだ。

 したがって、宗教法人に対しても、その活動の種類の如何を問わず、収益に応じて、一般人と同様で同率の税が課せられるべきであろう。それは、いかなる宗教団体も国(家)から特権を受けてはならないとする憲法の立場(第20条第1項)からも当然のことだからだ。

 第2条件は、特に国家からの庇護や支援を必要としている大多数の国民にとっては、自分たちが納めた税金は、他でもない、自分たちの暮らしを良くすることを第一優先に使われていると実感できる税金の使われ方がされていることである。

言い換えれば、とにかく中央政府であれ地方政府であれ、自分たちから徴税した税金は、先ず自分たちの福祉のために使ってくれていると実感できる税制であることである。

そうでなくとも、憲法第29条に違反して他人の財産から徴税した者————政府あるいはその政府の長と役人————は、その税金を、徴税した者の福祉向上のために最大限有効に使わねばならない義務があるはずだし、議会も、そのための政策を立法化しなくてはならないはずなのだからだ。

 第3の条件は、働きたくても病のために、あるいは障害ゆえに働けずに困窮している人たちの生活をも支えていると納税している人たちが実感できるような使われ方をしていることである。

 なおここで、平等と公平とは違う概念であることを明確にしておく。

辞書では、たとえば平等とは、「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」と説明され、公平とは、「かたよらず、えこひいきのないこと」と説明されているが(広辞苑第六版)、しかしこれではその違いは判りづらい。そこでその違いを私なりに説明すると、こうなるように思う。

「平等」とは、たとえば「男女公平」とは言わずに「男女平等」という表現をすることからも判るように、社会ないしはその中の集団を構成しているすべての人々を対象として考えようとする場合に意味を持つ概念であり、そのすべての人々が置かれている条件や保障されている状態が同等であること。とくに「男女平等」とは、男性の場合はとか女性の場合はというのではなく、男性も女性も区別なく、社会またはその集団内で、単に人としてではなく人間として生きて行く上でどうしても欠かせない条件や状態が同等に保障されていることであり、保障された状態のことである。そしてそれは、ただ単に男性も女性も同じ扱いを受けたり、同じ格好をしたりすることではないし、また同じ状態にあることでもない。

 一方、「公平」とは、たとえば「税の平等」とは言わずに「税の公平」という表現をすることからも判るように、その社会を構成しているすべての人々に対してというのではなく、その中を社会的または経済的な各階層あるいは各部類に分けて考えようとする場合に意味を持つ概念であり、その各階層相互、各部類相互の間で、その中の人々が置かれている条件や保障されている状態が同等であること。

つまり「平等」の方が「公平」よりも対象とする人々の範囲が広く、また高次元の概念なのだ。

 そしてとくに「税の公平」とは、その各階層相互の間で、その各階層に属する人々に課せられている条件や負担の度合いが偏らないことであり、また偏らないことが保障された状態のことであろう、と考える。

 したがって税制が公平であるとは、すべての物品に課せられる税率が共通であるということとはもちろん違う。むしろそれは不公平と言うべきだ。

 なぜなら、そのような状態は一見したところ公平であるようには見えるが、それぞれの物品の持つ価値の大きさは、各人が固有に抱える条件や状態によって異なるからである。

具体的には、たとえば、生存に必要な物と、生活(暮らし)に必要な物と、あれば便利で快適でそれに超したことはない程度の物とでは、人が単に生物としてのヒトとして生きて行く上でだけではなく、人間として生きて行く上では、それぞれの物品の価値の大きさは明らかに異なるのである。ましてや、とくに富裕者あるいは超富裕者でなくては手に入れられない超高級物・超高額物・超希少物などは、生物としてのヒトとして生きて行く上でも、人間として生きて行く上でもほとんど無用なもので、それは奢侈の範囲の物でしかない。

 したがってこうした観点に立つとき、富める者に対しても困窮する者に対しても、すべての「物品」の売買に同率で課税する現行の「消費税」は、「不公平」どころか人間としての「生活権」、さらには生物のヒトとしての生存権そのものさえ否定しかねない不平等税制であることが明確になるのである。

したがってその「消費税」は、現行憲法に厳密に照らしたとき、生存権と生活権の区別さえ曖昧になって表現されている条文である第25条にさえ抵触して、違憲の税制ということになる、と私は考える。もちろん、その欠陥を補ようにして考え出されたものと推測される「軽減税率」などというものは、論理的根拠も曖昧で、付け焼き刃的で、姑息な手段で、ただ社会を混乱させるための有害無益な税制としか言いようのないものだ。

それの導入を決めたのは公明党であろうが、そしてそれをもって自分たちの存在意義を強調したかったのであろうが、いかに税制というものをいい加減に考えているか、が判ろうというものだ。

 第4の条件は、税制度全体が判りやすく、そして大多数の納税者にとって個々の課税項目が納得でき、その税率も妥当として受け入れられるものである、ということである。

ここで言う「判りやすい」ということは、先ずは、明確な理念が一本、税制度全体を矛盾なく貫いているということである。「納得できる」とは、税制度の内容全体に、無意味と感じられたり、時代遅れと感じられたり、理不尽と感じられたりする種類の税はなく、共同体を成り立たせる上で本当に必要な種類の税のみから成り立っているということである。

少なくとも現行のような「一読難解、二読誤解、三読不可解」という冗談すら生まれるほどに判りにくい制度(吉田和男「日本の国家予算」講談社p.13)であっては断じてならない。

 そして、第5の条件として、自分たちが納める税金が、どういうところにどのような優先順位の判断の下に使われようとしているのか、それが納税前に全納税者に明確にされていることである。

 最後に、第6の条件として、過去、あるいはせめて前年まで、税金を投じてなされて来た「公共」事業———税金が投入されてなされる事業は、と言うより、公共機関が行う事業はすべて国民・住民の福祉のための「公共」事業である————に関する当初目標の達成度と未達成部分の説明報告が、納税ないしは徴税の前に、国民に判りやすく説明されていること。

 以上が、「どうしたら国民は進んで納税をしようという気持ちになるのだろうか。何が満たされたならば、そんな気持ちになれるのだろうか」という問いに対する私の答えである。

 

 これまで、私は、新しい時代には新しい時代に相応しい税制を設けて出発しなくてはならない、そうでなくても私たちの国日本は「少子化」、「高齢化」、「超巨額政府債務残高」という近未来を縛る大問題を抱えていて、そんな中でも国民が進んで納税しようという気持ちになれる税制へと変革し、その大問題を一刻も早く解決させる必要があるとの理由の下で、私なりに最良と考えられる新税制度の基本的なあり方を明らかにして来た。

 しかし、これらは、税制度が基本的に、そして普遍的に満たさなくてはならない基本的なあり方であって、それは近代にあってもなくてもそのまま通用するものであって、何も環境時代特有の税制度というものではない、と私は考えるのである。

 

 ではこれらの6つの条件を満たしながら、なお環境時代に相応しい税制度とは、どのようなものとなるのであろうか。そしてその場合の税の設定の理由とはどのように説明されるのであろうか。それについて考える。

 それは、先の第4の条件とも関連するが、特に環境時代に相応しい明確な理念が一本、税制度全体を矛盾することなく、またブレルことなく貫いていることであろう。

 この場合の理念とは、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」に基づく「三種の指導原理」であり、「都市と集落の三原則」であろう、と私は考えるのである。

 そしてそのことを前提とした場合の税は次の5つの段階から成り、それぞれの税を設定する理由も次のように説明され得るのではないか、と私は考えるのである。

 第一段階として、まずは、人間がヒトという生物として生きて行く上で不可欠な物(生存不可欠品)は無税とする。

 第二段階として、社会に人間として生活して行く上で絶対的に不可欠な物(生活必需品)は最も軽い税率にする。

 第三段階として、生物としても人間として生きて行く上でもほとんど必要のないもので、単に便利さ快適さを満たすだけの物には幾分重い課税をする。

人間として生活して行く上で絶対的に不可欠な物でも、必要以上に多くの量を所有する過多所有に対しても同様とする。

 第四段階は、同じく人間として生きて行く上ではほとんど必要のないもので、あれば自慢できる、あればステータスを味わえるという、いわば奢侈品には、とくに重い税率の課する。

 なお不労所得(相続、投資、投機、賃貸)に対しても、それは働かずに得た利益ゆえに、奢侈品と同等の重い課税をする。

 以上は「所有」に関する税の考え方についてである。

次は、「行為」に関する税の考え方についてである。

 第五段階としては、誰もがそれによって生かされている自然を大規模に汚染したり壊したり、社会から勤勉誠実を消失させて行く可能性の高い物品や施設には、自然破壊あるいは反社会性の観点から、とくに重い税率を課す。

反対に、自然回復への貢献、社会の改善への貢献に対しては、その貢献度に応じて減税する。

 そしてここにさらに、いわゆる応能負担、応益負担、応因負担、応責負担という考え方をも採用する。

つまり能力に応じて負担する、得た利益の大きさに応じて負担する、生じさせた原因の大きさによって負担する、責任の大きさによって負担するといった考え方で、それらをも加味することで、環境時代の税制はより「公平」になるのである。

 いずれにしても、こうして分析し段階分けすれば判るように、現行の「消費税」は何を根拠にした税制なのか全く不明だし、合理性は全くない。

もちろん「軽減税率」など、あるべき税制度として、論外のものだ。

 

 以上が本節での私の提案の要点である。

しかし、今後こうした提案が提案のままで終わらずに、国民のみんながこの税制という国民にとって極めて重要な制度のあり方について関心を持ち、互いに議論を交わして、内容がより多くの国民の納得が得られるように普遍化された上で実際に実現され、法制度化されてゆくというのが本当は最も重要なことなのである。

 しかしそれには、すでに、幾度か強調してきたことであるが、この日本という国が、明治期以来これまでのような、実質的には官僚に支配された国のままとするのではなく、国民から選ばれた国民の代表である政治家によって統治され、官僚や役人はあくまでもそのためにこそ仕えるという形での本物の国家、それも正真正銘の民主主義の実現した国家となることが是が非でも必要なのである。そしてそうならなかったなら、ここで提案してきたような税制は絶対と言っていいほどに実現は無理なのである。否、こうした提言に限らず、誰による、どんな提言も、それが官僚たちの既得権を脅かすような提言であったり、官僚組織つまり府省庁の規模の縮小や消滅をもたらすような提言であったりしたなら、全て実現されないままとなる。彼らの組織を挙げた抵抗に遭うからだ。

 実際、2009年、選挙時の公約が国民の圧倒的な支持を受けて政権を執った民主党の初代首相鳩山由紀夫氏がその公約を実現しようとした時————それは文字通り、国の主権者の総意であるというのに————、当時の外務省と防衛省の官僚たちが鳩山氏に対してどういう態度をとったか、思い出してみるとよい(「『対米従属』という宿痾」鳩山由紀夫孫崎享植草一秀 飛鳥新社 p.82)。

 そこで、既述したことの重複になるが、この日本という国が、口先だけで先進国と言ったり国家という言い方をする前に、先ずは国民から選挙で選ばれた国民の代表である政治家によって統治され、官僚や役人はあくまでもそのためにこそ仕えるという形での本物の国家、それも正真正銘の民主主義の実現した国家となりうるためには、政治家という政治家はどうすべきかを箇条書き的に整理して、私はこの節を終えようと思う。

 とにかくこの国の現行の中央と地方の議会と政府の関係も、議会と政府がやっていることも、私は、近代西欧の政治思想家たちが確立した議会制民主主義とは似ても似つかない、全く自分勝手なやり方、すなわちデタラメに過ぎないと思っている。

 したがって、次のような政治形態に直すべきなのだ。

 国会は国権の最高機関であるとする理由をよく理解した上で、全ての政策や法律は、そして予算も、まずは国会が独自に————ということは執行府である政府提案を待つというのではなく、という意味————国会の政治家同士だけで、必要であれば関係分野の専門家の助言を仰ぎながら、民主的かつ公正に議論して議決し、制定する。

 執行府である政府は、あくまでも国会が制定して公式の政策・法律・予算となったそれを受けて、それの最良で最高効率の執行方法を首相と全閣僚とで検討する。閣議とはそのためにこそあるのであって、全府省庁の官僚のトップである事務次官たちが全員合意の上で出してきた官僚提案を追認するための場であることは金輪際、直ちにやめることである。

そしてその閣議で決定された方法に基づいて、各閣僚は各府省庁の大臣として、配下の全官僚に、その方法に従って最大限速やかに執行するように指示し、またその経過をコントロールする。

 そして首相は、行政上のあらゆる面で、この国の社会を構成する全ての個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持った存在となる。そしてその時、行政上必要な情報は細大漏らさずに速やかに首相に集まるようにすると同時に、首相が発した指示・命令は速やかに国内の全ての行政組織に速やかに伝達されるように統括する。

 その時もし情報を途中で握りつぶしたり、また閣僚を通して官僚に示された首相の指示・命令を官僚が抵抗したりサボタージュしたなら、その時には憲法に基づいて(第15条第1項)、国民を代表して、その者を直ちに罷免するのである。

 私はこうした議会と政府との関係が出来上がり、政府が議会が決めたこと————それは即ち国民の総意であり意思でもある————を各担当閣僚が大臣として配下の全官僚を統括しながら最大限速やかに執行しては、国民の意思を執行しうるようになった時、この日本という国は、これまでの官僚独裁国を廃して、初めて本物の国家となれた、ということになると考えるのである。

 そしてこの国がこうして本物の国家、それも、常に主権者である国民の意思が政治に反映される民主主義が実現された国家となれるためには、やはりこの国の政治家という政治家は、次のことを徹底的に守るべきだ。それも、選挙に立候補する前に、である。

 それは、まずは、近代西欧において、議会制民主主義を確立した政治思想家たちの著した書を徹底的に勉強すること。

そしてそうした著書を読破することを通して、民主政治を行う上で、政治家として絶対に知って、理解していなくてはならない政治的基本諸概念の意味を正しく理解する。

例えば、そもそも政治とは何か、民主主義とは何か、自由とは何か、議会とは、政府とは、何か。またその違いは何か。国と国家は同じか、違うとすればどう違うか。なぜ国会は国権の最高機関か、また最高機関とは、特に政府や裁判所との関係において、どういうことを意味するのか。選挙は何のためにするのか、その時、公約は何のために掲げるのか。政治家とは、役人とは、その両者の役割と使命の違いは何か。権力とは何か、権力を行使できる根拠は何か。国と中央政府、都と都庁、道と道庁、府と府庁、県と県庁、市と市役所、町と町役場、村と村役場とは、それぞれ何か、またその違いは何か、等々といったことについてである。

 とにかく私たち日本国民は、国際的に著名なジャーナリストであり政治学者の次の言葉には、耳を傾けるべきではないだろうか。

 「民主主義を標榜している先進工業国で、政府が使う金の額とその入手方法が、選挙で選ばれていない官僚たちに拠ってすべて決定されているような国は、日本以外どこにもない」(K.V.ウオルフレン「システム」p.238)。

 日本という国をどういう社会のどういう国にしたいのか、またその国、その社会を実現するための財源をどう捻出するのか、それを考えなくてはならないのはこの国の主権者である私たち国民の一人ひとりだ。誰かに任せておけばいい、という話では決してない。

 一方、この国を国民が望むような国として実現するにはどのような政策が必要なのか、それを決めるのが政治であり、誰からどのような基準に基づいて、どういう税をどれだけ徴収し、それを誰のためにどう使うのか、それを決めるのが政治の中心課題なのだ。

 歴史上、国というものが形成されるようになってから常にあったのが税なのである(三木義一「これからどうする」岩波書店編集部編 p.292)。

 

 

 

 

 

12.1 新税制を考える前に私たち国民の全てに求められる覚悟

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第12章 環境時代の税制のあり方としくみ

12.1 新税制を考える前に私たち国民の全てに求められる覚悟

 現在の市町村であれ、都道府県であれ、また国家−−−ただし、幾度も述べて来たように、この日本は国ではあっても、いまだに真の国家ではない———であれ、あるいは本書において新たに提案している新しい日本における地域連合体であれ、州であれ、連邦であれ、その規模や役割に違いはあっても、いずれも、自己の「生命・自由・財産」を安全に守ることを主たる目的として集まった人々の「共同体」であることに変わりはない。そしてその時、税制は、人々が各々、その目的を実現させるために、互いに合意してつくり上げてゆく相互に扶助するためのしくみである。そしてそのしくみを背負うことにおいては、個人であれ、企業であれ、あるいは他のいかなる集団であれ違いはなく、またそこでの一人当たりの負担の大きさは、互いに平等でなくてはならない。

 だから、税制のあり方を考えるということは、それがどのような内容から成るものであろうと、また共同体の規模がどのようなものであろうと、そして現在であれ将来であれ、つねにその共同体のあり方やその共同体のめざす姿と形を考えることと一体でなくてはならない。

 そこで本章では、このことを踏まえ、「近代」という時代は既述のとおり、私が推測する限りはすでに終わっているとの前提の下で、これからの環境時代における税制のあり方について考察して行こうと思う。

その場合のあり方とは、税制に求められる理念(理念の定義については4.1節を参照)と、その理念を実現させるための具体的な制度とから成る。

そこで言う求められる理念とは、本書におけるこれまでの論理の展開の仕方からも明らかなように、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」(4.3節)の理解に立った上での指導原理である《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を実現させられる税制であること、ということになる(3.1節、4.2節)。

この理念の上に、それを実現させるための具体的な制度を設けて行かねばならない。

 ただしその制度を設ける際、これまで生きて来て、また今を生きている私たちとしては、上記理念とともに、もう一つ、どうしても念頭に置いておかねばならないことがあると私は考える。それが本節の表題にも挙げている「覚悟」である。

それを考えておかねばならないとするのは、これまで生きて来て、また今を生きている私たちとしては、この国と国の社会を未来世代に託して行かねばならないからである。

それは、本質的に相互扶助制度であるこの税制は、既述したように、それぞれ規模の異なる共同体を永続的に成り立たせるためには、現在生きている私たちの社会の中だけで公平であればそれでいいというものではなく、また現在生きている私たち世代だけが良しとすればいいというものでもなく、まだ見ぬ世代に至るまで、すなわち時代を超えても公平でなくてはならないという倫理的、道義的責任に基づくものである。『自分が生きている今さえよければ、死んだ後はどうなったってかまいやしない、関係ない』、というものでは許されないからだ。

なぜなら、そのように公平であってこそ、その税制は、目先だけではなく、時代を超えて、その共同体に生きる人々をして納得しうる相互扶助制度たり得るし、時代を超えて「人間にとっての基本的諸価値の階層性」「生命主義」も維持されうるようになるからである。

 こうした理由から、私たち、これまで生きて来て、また今を生きている国民すべてには、そのような理念と共に時代を超えた公平性を保てる税制にしておかなくてはならないというところから来る覚悟が求められているのである。

 では、その覚悟とはどのようなものか。

そこに求められる最たるものは、この国が、今日まで、貯めに貯めて来た「負の遺産」の中の最も代表的な一つとも言うべき、超巨額の借金———正確には、中央政府と地方政府を合わせた合計としての政府債務残高———を清算しておくことに対する覚悟である。

なぜなら、この債務は、今日、行政としての対応を迫られている様々な事業の実施を不可能あるいは困難にしているだけではなく、この債務をこのままにして置いたり、ましてやその額を増やすようなことになっては、そのことに何の責任もない今の若者世代やこれから生まれてくる未来世代の人生に返済の負担を押し付け、彼らから彼らの人生に対する希望を奪うことになるからだ。そうでなくとも、その債務残高のほとんどは、とくに今はほとんど物故した先人たちと私たち年配者がつくって来たものなのだ。それも、今を生きる私たち年配世代の大多数が、主権者でありながら、政治に無関心なまま、自国の国家共同体運営とその監視に対する義務を果たさずに、そして各人が、生きて行く上で、あるいは生活をして行く上で、また遠く将来をも見据えて本当に必要な物だから要求するというのではなく、ほとんどは“現在の生活レベルを下げたくはないから”という動機の下、あるいは「あれば便利」、「あれば快適」、さらには「もっと便利がいい」、「もっと快適がいい」という程度の欲求の下で、つくってきた借金だ。

 直接的には、国民から選挙で選ばれ、国民から権力を負託された政治家たちが、その権力をもって官僚をコントロールするという最も重要な使命を全く果たさずに、むしろその権力をあろうことか、中央政府の官僚や地方政府の役人に丸投げして来たことをいいことに、本来は公僕たる彼らが、行政組織の「縦割り」を温存させたまま、自分たちの既得権益を維持あるいは拡大するために、それぞれの府省庁や部・課が国民の上記志向を狡猾に利用しては、狡猾にも「公共」事業と称してでっち上げては、借金状況など全く目もくれずに、国民のお金を使い込むことによって、雪だるま式に増やしてきた借金なのだ。

 つまるところ、その超巨額借金は、政治家たちが国民に代わって公僕たちに指示し、コントロールするという政治家としての最重要な役割の一つを果たさないままできた結果なのだ。

 具体的には、たとえば、国土交通省の官僚のやっている例を挙げれば、無用な道路づくりだ。それも生活道路ではなく、自然を大規模かつ長距離にわたって破壊しては生態系を分断する高速道路や車も通らない山間部に立派すぎるほどの道路を作ることだ。あるいは「縦割り」を維持したまま、つまり林野庁と連携するわけでもなく、上流域の森林を荒れ果てたまま放置しながら、一度豪雨が降れば瞬く間に土砂で埋まって用をなさなくなるダムや堰堤を作ることだ。あるいは、こんな狭い国土なのに、そしてたったの30分やそこら短縮するためだけに、もはや人口高齢化が世界一のスピードで進んで行き、アジア諸国と比較して相対的に経済も低迷して行くことがはっきりしているのに、かけがえのない自然を大規模に破壊して走らせようとするリニア新幹線づくりだ。

 生前、ドイツの良心を代表し、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)大統領だったR.F.ヴァイツゼッカーの言を借りるなら、こうなる。

若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、その後の歴史の中でそうした出来事から生じて来たことに対しては責任があります。われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。我々の義務は誠実さであります。心に刻み続けるということがきわめて重要ななのはなぜか、このことを若い人々が理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人々の助力をしたいと考えるのであります(同大統領演説「荒れ野の40年」岩波ブックレットNo.55 p.35)。”

 世界中、どこでも、借金したら借金した者が返すというのが常識である。

 ともかく、今この国の中央と地方の政府という政府が抱える借金は、合計で何とおよそ1300兆円にもなる(令和2年現在)。このうち、中央政府が1100兆円、地方政府(地方公共団体)がおよそ200兆円である。

この金額がどれだけ途方もない金額であるかを判断するのには、日本国民の内、生産に携わる年齢(通常、15歳〜65歳未満)の国民すべてが1年間生産活動に従事して生み出した財およびサービスの価値を金銭で表わした合計である国内総生産GDP)と比較するのが判りやすい。日本のGDPは近年およそ500兆円台を推移している。したがって1200兆円という借金はこのGDPの実におよそ260%、つまり2.6倍にもなる。

このことは、言い換えれば、この借金を日本国民が返済しようと思ったなら、国民すべてが、2.7年間、文字どおり飲まず喰わずで今まで通りに働き、働いて生み出したお金のすべてを中央政府と地方政府にそっくり納めねば返しきれない額の借金だということだ。

 参考までに言えば、G7、いわゆる先進7カ国の各国が抱える借金の対GDP比は、各国およそ次のようになる。

イタリア160%、アメリカ130%、フランス120%、カナダ115%、イギリス110%、ドイツ70%、日本260%(IMF“WORLD ECONOMIC OUTLOOK DATABASE”(2020年10月))                                                                                                       

 私たち日本国民は、狂気とも言えるこんな額の借金をつくってきてしまったのだ。こんな借金を抱えていながら、国民のほとんどが、日々、一見何事も起っていないかのように振る舞いながら、さらなる便利さ快適さの実現を要求しているのである。否、日本がこんな状況にあることなど、国民の大多数は知らないのであろうし、そして知ろうともしていないのだろう。

そしてこの日本の状況は、たとえば、かつて、グローバリゼーションと新自由主義が世界中に荒れ狂ったときに起ったロシア経済の崩壊とか、アジア金融危機、アルゼンチンの経済破綻でも、あるいはEU内の幾つかの国に起った金融危機とか財政破綻でも、その時抱えた借金の対GDP比は、日本ほどとんでもない値ではなかったのだ。

 具体的に言えば、今、財政破綻金融危機に陥って、EU全体を解体の危機に陥らせているとされるとくにイタリア、スペイン、ポルトガルアイルランドギリシャについて、それらの国々の政府債務残高の対GDP比を見てみるなら次のようになる。いずれもIMFによる2018年現在についての値である。

イタリアは、131.4%。スペインは96.7%。ポルトガルは121.2%。アイルランドは67.1%。ギリシャは191.3%(この数字は2018年9月14日に財務省に確認したもの)。 

 私は、日本のこの借金問題は、もはや、解決に向けて立ち向かうべきか否かという選択の問題ではなく、どうやって解決させるべきかという実行方法の問題になっていると考える。

それは、その問題自身がこの国の存続、将来世代の存続がかかっている問題だからだ。そういう意味では、重要度や緊急度の意味でも、地球温暖化問題や気候変動問題に優るとも劣らない問題なのだ。

そしてこの問題に取り組むことは、後先を考えずに便利さや快適さを追い求め続け、物的豊かさを満喫して来た今を生きる世代、とくに私たち年長者の、将来世代と未来世代に対する義務と責任の果たし方の問題であり、同時に、私たち自身の国家に対する義務の果たし方の問題でもある、と私は考えるのである。

 では、さしあたって私たち現在世代、それもとくにこれまで便利さや快適さを社会に要求し、物的豊かさを満喫して来た今を生きる私たち年長世代の国民は、どうしたらこれほどの巨額の借金を、早急に返済できるようになるのだろうか。

これを考えるに当たって、あるいは覚悟を決めるに当たって、予め知っておいた方がいいと思われることがある。それは、この国がかつて、バブル経済が崩壊(1991年)したとき、一瞬にして失った富の大きさがおよそ1400兆円だったという事実である。その結果この国は、政治家の無策・無責任と相変わらずの官僚依存の甘え体質によって長く低迷状態を続けて来てはいるが、それでも、社会の大混乱は起きず餓死者も出さずにやって来れた、という事実である。

 このことを考えれば、それこそ、関係する国民すべてがそれなりの覚悟を持てば、何とか返済しようとして出来ないことでもない、と判るのである。その上、私たちの愛する子孫の負担を減らしてやり、彼らには希望を持って生きて行ってもらおうと考えればなおさらであろう。

 そこで、では、国を挙げての超巨額借金の返済事業とは、どのような考え方に基づき、どのような手順と方法が考えられるのだろう。

 このようなときには、とくに、より多くの国民に受け入れられるような基本的な考え方を明確にすることが大切だ。それは、何よりも、物事の決め方と手続きに「透明性」と「公正性」が確保され、決められた内容が「公平」であること、あるいは圧倒的多数の人々が「公平感」を持てることだ。

ではその公平はどうやって実現するか。

たとえば次のようにすることであろうと私は考える。

 一つは、既述したように、「今の若者世代やこれから生まれてくる未来世代にはその債務に対する責任はないし、ましてや彼らにはそれを返済する義務もない」を先ず明確にすること。

 一つは、今日、日本国を滅ぼしかねないこの超巨額の借金をこしらえるについて、最も無責任であり、また国と国民に対して最も不忠実だった政治家、この場合はとくに国政レベルの政治家には、とくに国の巨額借金の返済義務を重く課すこと。

それは、そもそも彼ら国政レベルの政治家が、国民から選挙で選ばれ、公式に権力を負託された者として、その使命を国会と内閣NOそれぞれにおいてきちんと果たし、予算(このうちには一般会計と特別会計をも含む)も国権の最高機関としての国会が先ず国会議員の手で主導的に作成し、それを執行機関としての中央政府の閣僚が配下の官僚をきちんとコントロールしながら執行させていたなら、こんな借金がつくられてくるはずは決してなかったからだ。

それに、彼らは、既述して来たように(第2章)、「公約」の不履行を含めて、政治家としての本来の使命をまったくと言っていいほどに果して来ていないのにも拘らず、いわゆる「歳費」を含め、「特典・特権」をも含めて、一般国民の常識からは信じ難い、およそ2億円という額————共産党議員は、これよりもおよそ4500万円少ない————を税金から自動的に手にできる制度だけは国会で設けており、それは文字どおり、国会の権威を悪用した税金泥棒といえる存在だからだ。

 一つは、現在の社会でますます激化する貧富の差を考慮し、貧しい人からは巨額借金の返済の負担を求めないこと。

またその場合、富裕者の間でも所得の大きさによって複数の段階を設けること。

 一つは、資産の大小をも考慮する。その場合も、とくに経済が顕著に世界化(グローバリズム)し、世界中に新自由主義がはびこるようになって以降、急速に広がって来た株や為替、国債等といった金融資産の大小に見合う負担をしてもらうこと。

その理由は、それらはとくに不労所得であって、実際には自分自身は働かず、生産活動はせず、社会にも自然環境にもこれといって貢献せず、ただ日々の「株と為替の値動き」の中で得た所得に過ぎないからである。

そしてこのことは、明治期、大正期そして昭和期までにこしらえた資産については、さしあたって巨額返済義務の対象外とする、ということである。

 一つは、これまで中央政府(旧大蔵省、現財務省)によって税制上の優遇を受けて来たとくに大企業の利益、そのうちでもとくに内部留保をも巨額返済義務の対象とする。なぜなら、利益もそうであるが、それは、労働者を搾取することによって可能となったもので、本来は、労働者に適性に還元されるべきお金であったからだ。

 一つは、過去において、倒産しかけた企業が、「金融破綻を防ぐため」とか「大きすぎて潰せない」といった政府のつくった理由の下に、「公的資金」という名の国民のお金によって救済され、その後巨額の、あるいは史上空前の利益を上げた企業———もちろん銀行等の金融機関、日本航空(株)をも含む———の利益をも巨額返済義務の対象とすること。

なぜなら、その企業は、本来の資本主義の経済下ではあり得ない仕方で、国民のお金で救済されたのだからだ。それだけにその企業は国民に「借り」があるわけで、国難の際には、社会の一構成員として、進んで危機の救済に加わるべきなのだ。

 一つは、法人の所得にも、その大きさによって、巨額返済の対象とすること。

 一つは、政府省庁の官僚と呼ばれる者のうち、とくに「天下り」や「渡り鳥」をして来た、いわゆる「高級」官僚あるいはその歴任者にも、超巨額借金の返済義務を課すこと。

それは、官僚は、憲法でいう公僕でありながら、国民の利益そっちのけにして、自分たちの利益の実現のために、あるいは自分たちの第二の人生をより優雅に過ごすために特的産業界への便宜を図っては、民主主義を無視するだけではなく資本主義をも歪めながら、巨額の不労所得を懐に入れて来たからだ。

 

 以上が、国を挙げての超巨額借金の速やかな返済事業の実施にあたっての「透明性」と「公正性」と「公平性」を確保する基本的な考え方である。

これらの基本的な考え方に基づいて、現在の超巨額借金を、可能な限り、返済するのである。

 なお、以下では、上記の基本的な考え方のうち、国会議員と企業についてのみ、もう少し補足説明をしたいと思う。

 国会の政治家について。

 政治家という立場は、国民からの税金で公の活動ができ、私的生活も維持できているのである。

 そして彼らが受け取る議員報酬その他の特権と特典は、彼らが選挙公約の実現をも含めて、政治家としての使命と役割をきちんと果たしてくれるだろうと信じるがゆえに、国民は、彼らに国民の金を払うことを合意しているのである。

したがって、彼らがその役割・使命・約束を果たさないなら、国民は、たとえ彼らが政治家として当選したとしても、一銭たりとも彼らに払う必要はないし義務もない。もちろん、彼らは一銭たりとも受け取ることさえ許されないし、権利もない。にも拘らず受け取っているとなれば、あるいは受け取れる仕組みだけは設け続けているとなれば、それはもはや詐欺であり、何もしないのに国民の納めたお金を手に入れられるようにしているという観点からは税金泥棒でもある。

そのくらいの理屈は、彼らも百も判っているはずだ。

 この国の国会議員は衆参両院を合わせて定数が722名———ただし、令和元年の今年から参議院では6名増えるようにしたから、728名となる———。

その議員らに、現在、国民の税金から使われるお金の総額は、特典も金銭換算して、毎年、1人当たりおよそ2億円。したがって、総額1456億円となる(2.4節参照)。

そのお金のほとんどは、任期中の毎年、国の借金返済に充てられるべきだろう。

 そうでなくとも、聞くところによると、たとえばスエーデンの国会議員の場合は、一人当たりに支払われる議員報酬は一ヶ月およそ60万円であるという。年間の議員報酬は、一人当たり720万円となる————ただし、秘書を雇う費用は中央政府が出してくれるのだそうだ。ボーナスもあるかもしれないが、それだって日本の国会議員の手にする額555万円と比べたら、比較にもならない額であろう————。

それでスエーデンの国会議員はすべての政治活動をしているのだという。もちろん正確な会計報告も義務づけられている。

そのような報酬の中でも、実際、世界が知っているように、スエーデンは、とくに福祉政策と教育政策そして環境政策の面では世界の模範となる民主政治を実現しているのである。

 自分では自信を持って判断することも新しい制度を設けることもできず、とくに人権に関わる問題では常に本物の先進諸国の真似ばかりしている日本の政治と行政であるが、真似をするのであれば、むしろスエーデン国会議員のこういうところこそ真似るべきなのだ。

 その場合、政党助成金は、もちろん議員会館家賃も議員宿舎家賃も不要だ。というより、議員会館自体、議員宿舎自体が無用なのだ。公設秘書給与も不要だ。弔慰金の支給も不要。選挙地元での慶弔の挨拶とか行事に参列する必要はないからだ。そんなことは本来、政治家がすることではないからだ。公用車や送迎マイクロバスも不要。立法事務費も廃止する。政治家になるということは、すなわち立法することだからだ。

歳費も、年、一人当たり1000万円もあれば十分であろう。そうすれば、総勢728名では、年当たりの総額は72億8000万円で済む。

現在のおよそ20分の一で済み、およそ1400億円は、毎年、浮いてくる。それを借金返済に充てればいいのだ。元々、この借金は、彼らあるいは彼らの先輩たちが、官僚たちがそれぞれの府省庁の組織間の「縦割り」を温存させ続けていることを放置してはこの国を真の国家としないまま、国民から負託された権力を官僚たちに丸投げしては彼らに追随するという、民主主義と国民への裏切り行為を続けてきた結果なのだからだ。

 それに、議員数についても、日本の国土の25倍もあり、人口が3倍もあるアメリカ合衆国の国会議員(上下両院をあわせた連邦議員)の総数は535人で足りていることを考えれば、日本もその割合から行けば、どんなに多くても衆参両院合わせた議員総数は178名で充分ということになる。そういう意味では、小選挙区制度など、これも既述してきた理由によりやめるべきだ(第9章)。

とかく主権を売り渡してまでアメリカに追随し、アメリカの真似をしたがるこの国の国会議員だ。こんなときこそ、多いに真似をすべきではないか。

 そうなれば、72億8000万円が17億8000万円で足りることになる。国民が彼ら国会議員を支えるための負担も、これまでの負担の1.2%となり、実に現在の国民の負担は、99%も減らせることになった上に、1438億円も借金返済に当てられることになる。それによって、この国の最大の危機の一つがかなりの程度、毎年緩和されて行くことになるのだ。

 これまでの巨大な無責任の罪滅ぼしとして、この国の国政政治家としては、これくらいの貢献はしてもいいのではないか、と私は思うのだ。

 もちろんこの金額は、彼らが予算を官僚任せできたがゆえにつくった借金総額から見れば「焼け石に水」ではあるが、それでも、それはそれで、国政政治家としてのこれからこの国に生きて行く若者と子どもたちへの一つの責任の示し方にもなるし、また愛国心の表し方の一例ともなるし、真の意味での「身を切る改革」の実践にもなる、とも私は思う。

 

 次に企業に対してである。

この場合、2種類考えられる。

一つは、内部留保の提出についてである。

もう一つは、かつて「公的資金」という国民のお金によって経営を救済されて、その後、大きな収益を上げ得た場合についてである。

 内部留保というのは、「利益剰余金」と「資本剰余金」と「引当金等」の三つの合計額を言うが、本質的には、働く者(労働者)から搾取した結果可能となったお金である。あるいは政府(官僚)による金融緩和、法人税減税、公的資金という国民のお金が株式市場や金融市場への投入という、やはりどれも、その背後では国民生活が犠牲にされて来た結果可能となったお金である。

 実際、もし労働の対価が賃金として正当に支払われていたなら、日本の人口の圧倒的多数を占める労働者やサラリーマンの生活は真の意味でもっともっと豊かになっていたはずなのだ。家庭での家族関係の問題や教育の問題そして介護や看護の問題等、もっともっとましな状態になっていたはずなのだ。人口減少問題もこれほど深刻にはならなかったとも考えられる。

 だから、国の将来や国民の将来が危うくなっている今こそ、企業、とくに長いこと政府に至れり尽くせりで守られ、優先されて来た大企業は、その「内部留保」を国と将来国民のために差し出すべきなのだ。国会もそれを公式の政策とし、政府を通じて差し出させるべきなのだ。なぜなら、国会に集う政治家は、そもそも主権者である国民から選挙で選ばれた国民の利益代表なのだから。だからこそ国会はすべての権力機構の中で最高の権力を有するのだ。

その国会が企業、とくに大企業の内部留保を、国を救い将来国民の福祉のために差し出させるというのは、搾取の過去を幾分でも償って分配を公平に近づける、あるいは富の再分配を図るという観点からはもちろん、社会正義の観点からも人道上の観点からも、充分に理に叶っていることなのだ。

そもそも、国家の目的は、そしてその国家の代理者として行動する政府の目的は、国民の「生命と自由と財産」の安全を最優先に守ることにあるのだからである。

 そうでなくとも、今、日本も、その内部留保が、使い途のない余剰資金、いわば「死に金」と化しているのである。それは、内部留保を企業はたとえば設備投資に回そうとしないからだ。企業が利益を増やしても投資を増やさないのは、投資して設備を拡充させて商品を生産する力を高めても、その商品が売れる見通しが立たないからだ。

 当然であろう。労働者に労働に見合う正当な賃金が払われなかったなら消費者でもある労働者には購買力が増えるはずはない。購買力が高まらなければ、企業が生産した生産物である商品を買いたくても買えないのだから。

 しかし、企業の生産物が売れない理由はそれだけではない。

もはや人々は、生きて行く上で、あるいは暮らしを営む上で、本当に必要な物、なくてはならない物という物は、今やほとんどの人々は手に入れてしまっているからだ。

だからどうしても買わなくてはならないという物はもうほとんどない。

 そうした観点からも、あるいはそうでなくとも、既述して来たように(1.4節)、もはやどの角度から見ても物を売ってこそ成り立つ「資本主義経済」が通用する時代ではなくなっている。言い換えれば、その資本主義が支配的な経済システムとなって来た「近代」という時代は終わっているのだ。したがって「近代」を延命させることや「資本主義経済」を延命させることに執着すればする程、人類は、「便利で快適な生活」を満喫できるどころか、人類自身の存続の可能性すらますます狭めてしまうことになるのは明らかなのである。

そのことは、たとえば「地球温暖化」「気候変動」の激化による世界的的規模での異常気象の頻発による被害の激化状況を見ても明らかだ。生物の多様性が急速に失われている事実からも明らかだ。

 参考までに調べてみると、2018年度で、企業の内部留保は463兆円、しかもその後も、年々増えているのである。

 

 つぎに、「公的資金」という国民のお金によって経営を救済された企業についてである。

ここで言う企業には、かつてバブル経済が崩壊した際(1990年代初期)、大量の不良債権を抱え、経営が行き詰まり、あるいは破綻して、結局は公的資金という国民の納めたお金が投入されるという、本来の資本主義経済の本質と成り立ちからすればあるまじき理由付けと手段によって救済された企業のすべてが含まれる。また、バブル崩壊とは関係なく、自らの会社経営のずさんさにより経営破綻して「会社更生法」の適用を申請した後、“大きい企業だから、社会への影響が大きいから潰せない”という、これも資本主義の本質と成り立ちに反する理屈の下に、同じく「公的資金」の投入によって救済された企業も含まれる。

これらに含まれる企業の代表例としては、住専(住宅専門会社)があり———ただし、これは今や存在していない?!————、大手都市銀行があり、JAL日本航空)がある。

 「お金を借りたら借りた者が借りた額を返す」というのは世界共通の常識だしモラルである。ましてやその借りたお金で会社が蘇るだけではなく、その後、その企業が史上空前の利益を上げることができたとなれば、なおさらのこと、その利益を会社を蘇らせるに当たって協力してくれた国民に返還するというのは、道義的にも社会正義の観点からも当然の理でもあろう。

そうでなくても、その利益の大部分は労働者からの搾取によるところ大なのだからである。

 

 以上のことを、先ず政府は、該当する企業すべてを対象にして、母国の存続のために、「丁寧に」という情緒的な態度ではなく、「正確に」かつ「論理的に」説明し、該当する立場の人々の理解と協力を呼びかけると共に、これを法制度化するのである。

また、すべての政治家は、自己の選挙地元に帰って、すべての国民に、同じく「丁寧に」という情緒的な態度ではなく、包み隠さずに、幾度でも「正確に」かつ「論理的に」説明し、該当する立場の人々の理解と協力を呼びかけるのである。

 なおその際、政治家として自分を選んでくれた選挙民に対する態度として忘れてならないことは、これまでの自分の国と国民に対する怠慢と無責任に対し、心から国民に許しを乞う謙虚さと、祖国の窮状を救うために、今、何とか協力して貰いたいと心から訴えることのできる誠実さと熱意であろう、と私は考える。

そしてそのためには、自分たち政治家が先頭に立つから、国民も総力を挙げてこの国の財政の危機の克服のために立ち上がろうではないか、と訴えることであろう。

 それができるか否かで、政治家としての本物の愛国心の有無と、国民への忠誠心の有無が試されるのである。

 

 

11.7 地域通貨の導入と全国通貨

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11.7 地域通貨の導入と全国通貨

 共同体は、都市であれ、集落であれ、またそれが一体となった地域連合体であれ、それらはいずれも「都市と集落の三原則」を満たさなくてはならない。

 それは、小規模ながらも、というより小規模であるからこそできる、経済的にも、政治的にも自立した、そこの住民自らが自らを責任を持って治める正真正銘の「自治」体である。これまでのような名ばかりの自治体ではない。

 なぜそうした三原則を満たす共同体を目ざすか。

それは、社会であれ、国家であれ、それを構成する主体はつねに人間であるが、その「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」(シューマッハー p.97)からであり、またそのような共同体であってこそ、民主主義は直接民主主義に近づいてよりよく実現されるようになり、地球温暖化生物多様性の消滅の進行を含む環境問題という、今日、人類がその存続の可不可をかけて直面している最大の問題に対しても民主的な話し合いで解決策を見出し、それにみんなで対処してゆくという最も合理的な対処ができるようになり、したがってその地理的範囲では最も抑止に貢献できる人間集団の生き方になるからだ。

なお、その共同体内での経済とはどういうものとなるかということについては、本章の第5節(11.5節)にて具体的に詳述して来たとおりである。

またそこでの税制のあり方については、次章にて明らかにされるだろう。

 そこで本節では、その共同体が経済的に自立できるための条件とは何かということについて考える。言い換えれば、その共同体が経済的に自己完結を成し得ているためには、あるいは自己完結して行けるためには、理論的にも、どのような条件が備わっている必要があるか、ということについて考える。

 私は、その条件の1つが、通貨の自立、つまりその共同体内で用いられて流通する通貨はその共同体独自のものである必要がある、ということであろうと考えるのである。

 たしかに全国に通用する通貨でもよいが、それだと、どうしても共同体の経済的枠組みと外部との境界が曖昧となってしまうだけではなく、共同体内の人々の経済的自立への決意や気概は鈍り、人々のその共同体へのアイデンティティを明確には持ち得なくしてしまうことが予想されるからだ。

 ではその場合、その共同体独自の通貨、すなわち地域通貨とはいかなるものか。

私の考えるそれは、次の3つの条件を満たしたものである。

1つ目は、その地域共同体内でのみ意味を持ち、その共同体内でのみ流通しうる通貨であること。

2つ目は、普段、その地域共同体の全員が使う通貨であること。

3つ目は、地域共同体内の誰もが、いつでも、必要に応じて全国通貨「円」と交換できる通貨であること。

 では、その3条件はどうすれば可能となるだろうか。

私の考える方法は、次のものである。

 まずは、上記の2つ目からゆくと、共同体構成員全員の間で、共同体の外では決して使わないという取り決め(条例)を設けるのである。

 3つ目に対しては、基本的にその地域通貨なるものは、全国通過「円」をそのまま用いるということにするのであるが、ただその場合、その円に、紙幣でも硬貨でも、その地域共同体の全員が了承する「ある固有の印」を付けることによって地域通貨とするのである。

 もちろんその印とは、元々の円の価値や意味を損ねない程度の大きさのものであり形であることと、繰り返しの使用に耐えられるように設けられたものであることが必要となる。

たとえば、その印は点の集合で出来た模様でもいいし、小さな穿孔の集合による形作られたものでもいい。あるいは小さな独特の色の模様でもいい。とにかく住民が納得して、全国通過「円」と識別できるものであれば何でもいいのである。

それを「円」のどこか決まった場所に設けるのである。

 全国通と地域通貨の見た目による違いはそれだけである。その印の有無をもって共同内々の人々は両者を区別して用いるのである。

だから、地域通貨とは言っても、ある特別なものを作るわけではない。

 しかしその印を設定できる資格を与えられるのは、共同体内の、共同体全員の了解を得た特定の機関だけであるとする。

そして、各住民が、あるいは公的機関が必要に応じて地域通貨を全国通貨「円」に交換する場合も、どこでも、いつでも全国通貨の円と交換ができるわけではなく、交換できる場所も決めておくのである。

その場合、「通貨交換所」としてもっとも相応しいのは、その地域内で、その地域内の経済活動を支援するためにのみ営業している銀行であろう。そこで言う「その地域内の経済活動」とは、これまでの資本主義経済にあったような、そしてそれがあったがゆえに経済システムを複雑なものにしてしまったような、投機、すなわちギャンブル活動ではなく、実体経済のみを言う。

その銀行では、つねにある一定量の無印の円を、当該共同体から見れば「外貨」と同様の位置付けで確保しておくのである。

 ただしここで重要なことは、全国通貨円に固有の印のついた地域通貨には「利子」はつかないということである。

それは、利子があることによって豊かなものはより豊かに、貧しいものは生活がより苦しくなってしまうからだ。

 そして上記の1つ目に対しては、その共同体内のすべての人がそれを用いることによって、基本的に、その共同体内でのあらゆる暮らしや産業活動が可能となるように、共同体内でのあらゆる公的および私的な制度を整える、というものである。

 たとえば、住民の日々の暮らしのための物品を買うのに使えるようにする。労働の対価の支払いやサービスの売買に使えるようにする。その共同体内においてのみ意味を持つ「公共」料金、たとえば水道や電気やガスの支払い、そして納税に使えるようにする、等々である———ただし納税については、地方税国税があるために、そこでは、適宜、全国通貨と地域通貨とを使い分ける必要が生じる———。

 こうして、地域通貨には、「お金」本来の働きである物と物、物とサービスの交換手段である決済機能しか持たせないのである。

 なお、ここで言うサービスとは、「物質的生産過程以外で機能する労働」のことを言う(広辞苑第六版)。

 

 では、地域通貨制度を実際にその地域内でスタートさせる際にはどうするか。

そのときには、既にそのとき各住民が財産として所有あるいは保有している無印の円の内のある適当な額だけを、通貨交換所に持って行き、そこで価値としては同等の量の全国通貨である無印の円に交換してもらうのである。そしてそれをもってその後の地域共同体内でのすべての経済活動にて使用するようにするのである。

 こうして、地域共同体内の経済を、地域住民のみんなで主体的、自律的に成り立たせ、維持してゆくのである。

 以上のことから言えることは、どの地域の共同体内でも経済はすべて実体経済となるので、そこではもはや「バブル」は起こりえないということだ。そこではもはや、実体経済の規模をはるかに上回る数字上だけのカネ————いわゆるマネー————が飛び交うということはなくなるからである。だから極端の貧富の差も生じない。

とにかくそこでは、繰り返すが、もはやこれまでのような意味での「市場」「景気」「円安・円高」「株式・債券」「相場」「投資・投資家」「投機・投機家」「先物市場・ヘッジファンド」「金融商品デリバティブ」「タックスヘイブン」「株式の上場」等々の概念はもちろん、これまでのような意味での効率を意味する「経済的」という概念すらも、すべて無意味となり、消滅するのである。

 共同体内にて営業する銀行の業務内容は、上記の共同体内でのすべての経済行為であるところの、住民の労働の対価の支払い、ものの売買、サービスの売買、その共同体内においてのみ意味を持つ「公共」料金、たとえば水道や電気やガスの支払い、そして納税、活動資金の融通と貯蓄等々を支えるものとなる。

 したがって、共同体内では、どこも、これまであったような、本社・本店機能がその地域の外にあるような企業も、あるいはチェーン店も存在し得なくなるのである。

もちろんそこでは、自動販売機もコンビニエンス・ストアも消滅する。というより、それらが存在する意味すらなくなるのである。

 なお、観光客など外部からの来訪者は、その地域に入る際には、煩わしくとも、先ずはその地域内の通貨交換所(銀行)にて、その地域においてのみ使用可能な地域通貨に等価交換してもらってから入るようにする。また出るときには、再度、全国通貨に交換し直してもらう。

 

 では、小規模で分散して成り立つ都市や集落あるいはその連合体である地域連合体という共同体の内部の経済のしくみをこのように地域通貨をもって特徴づけながら内部だけで循環的に自己完結できるようにすることで、果たしてどんな効果が期待できるだろうか。

 思いつくものを挙げてみる。

1つ。

 そこに暮らす人々は、自分たちの協力と協働の成果が、また自分たちの努力の成果が、そのまま共同体内での住民の安定や暮らしやすさに反映されるため、人々はむしろ協力のしがい、努力のしがいを感じるようになり、その共同体は、もはや名ばかりの自治体ではなく、また「お上」依存の自治体ではなく、真の自治体として活気づき、住民相互の信頼感も増し、連帯意識も増し、孤独のまま放置されるような人もいなくなるであろう。

 その地域内で生まれた富あるいは地域の財産は、地域の外には出なくなる。だから、もはや「働いても働いても、我が暮らし楽にはならず」ということはなくなるだろう。むしろ、一人ひとりが、その個性や能力を発揮して働けば働くほど、そこで生まれた富は地域内に蓄積されて行き、豊かになって行くことを実感できるようになるだろう。

 ここでは、外部と交流の持てるのは、物やお金では無い。人と情報・心———手紙、葉書、その他の書簡を含む———と文化のみということになる。

1つ。

そしてそこに暮らす人々の生活は、外部に起る食糧事情、物価事情に左右されないものとなることから、安定し、安心できるものとなる。そしてエネルギー事情にもほとんど左右されないようになる。

1つ。

 各共同体は互いに原則的に自己完結するということだけではなく、そのそれぞれの規模も、言って見れば、健康な大人が、歩いて1日で往復できる規模となるために、物品やエネルギー資源の輸送・運搬の必要性は最小限度に縮小されるようになるために、CO2を含む温室効果ガスの輸送・運搬時に排出される量はこれまでと比べて、極度に減らせる。

 また、その運搬を可能とさせて来た高速道路や一般道路の建設の必要性も極度に減らせる。あるいは既存のそれらをもはや無用となったからということで廃止し撤去して、自然のたとえば森にも戻せるようにもなるだろう。

鉄道も、人と文化を運ぶためだけであったなら、既存のものも大幅に減らせる。

 それらの行為は、CO2の排出量そのものを減らせるし、さらにはそれを吸収しうる森を増やせることであって、そのことの世界人類存続の危機を減らすことへの貢献度には著しいものがあると推測される。とくに今後、世界人類全体にとって存続の危機が叫ばれている地球温暖化は、95%以上の確率をもって温室効果ガス排出に因るとされているからである(IPCCの2014年報告)。

 

 実際、私たち国民あるいは地球人類にとって、今、本当に、それも急いで実現されなくてはならない重要なことは、単なる「雇用」とか「仕事がある」ことではないし、単なる「経済が活性化する」ことでもない。「GDPやGNPの数値が上がる」ことでも決してない。一人でも多くの人々が、互いに信頼し合い、協力し合って、ウソ偽りなく誠実に働くことによって、安心して、安定的に暮らしが成り立つことなのである。つまり、今、本当に実現されなくてはならない重要なことは、誰もが等しく、人間的に生きられること、またそれが永遠に続けられること、なのである。

そのためには、本来の基幹産業である農業や林業を犠牲にしたままでの「貿易立国」「技術立国」などは到底あり得ない。というより、むしろそれは本末転倒した国の姿だ。

 実際、第二次大戦後からWTO世界貿易機関)を中心に世界中に広げられて来たグローバリズム自由貿易への流れはドーハ・ラウンドに来て止まったのである。

そのことは、「モノやサービスを自由に売り買いできる市場を世界に広げれば、経済が大きくなる恩恵で、みんなが豊かになれる」という自由貿易の理想がこのときをもって完全に崩れたことを意味する。

 実際、とくに1970年代以降、新自由主義の経済が世界中に広まる過程で、世界中の多くの国の多くの人々は、豊かになれるどころか、反対に、一握りの数の人々が残りの国民全部の合わせ持つ富に匹敵するほどの富を独占する傾向が強まり、そしてその傾向は激しくなるばかりだった。「トリクルダウン」説がでっち上げでしかなかったことも判明した。

 そして、次の事実も、今、私たちは明確に認識しておく必要がある。

FTA(物品関税の撤廃やサービス貿易の障壁を除く二国間・二地域間での自由貿易協定)、EPAFTAに人・モノ・カネの域内移動の自由化をも盛り込んだ二国間・二地域間自由貿易協定)、そしてTPP(環太平洋経済連携協定)等の、単に物の貿易を活発化させることを主たる目的とする他国間貿易協定も、すでに完全に崩壊してしまった自由貿易の理想を回復してくれるわけではない、つまりそれで人々は豊かになれるわけではないということである。むしろそれをすれば進めれば進める程、格差の拡大、自然環境の破壊、人類存続の可能性の縮小等々の矛盾を深めることにしかならないということを、である。

 むしろそうした「市場を世界に広げれば、みんなが豊かになれる」という発想は、資本主義が支配する社会では、最初から幻想でしかなかったのだ。

そもそもモノにはすべて値段・価格があるとしたこと、モノの質的区別をまったくしなかったこと、値段など付けようもないモノにも価格設定したこと、さらには、儲けることにはとくに道徳は不要としてとにかく利益を上げることを至上としたこと、これらを理念として誕生し、また発展してきた資本主義は、最初から間違っていたのだ。

それに、資源も、エネルギーも、自然も有限な中、「経済」だけが果てしなく、つまり無限に発展しうるなどということもあり得ないことは、少し考えれば、小学生でも判断のつくことだったのだ。

 

 

11.6 多様な職種と「真の」公共事業

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11.6 多様な職種と「真の」公共事業

 今、経済が低迷し、あるいは行き詰まっている多くの国々では、人々は「雇用の創出あるいは拡大」を求めている。そしてそのことだけが強調され、叫ばれているように私には見える。

 一般に、「働く」あるいは「仕事をする」という言い方で表現される「労働をする」とは、精神労働であれ肉体労働であれ、その区別とは関係なく、果たして人間にとってどんな意味を持っているのだろうか。そして人が「労働」するのは「お金をもらう」ためだけなのだろうか。もしそうだとしたなら、お金をもらって、そのお金を何に使い、何をしよう、あるいは何を満たそうというのだろう。

 今、仕事がなく、少しでも早く現金収入を求めている人にとっては、「とにかく、仕事があるだけでも助かる」という心境なのであろうが、「雇用の創出あるいは拡大」を求めるにしても、「仕事」を求めるにしても、「人が労働(仕事)をする意味とその労働(仕事)の役割」についてはもう少し考えられていいのではないだろうか。

 私は、日々、農作業をしながら、このことも考えさせられていた。

 以下は、E・F・シューマッハー著「スモール イズ ビューティフル」(講談社学術文庫)に拠る—————。

 富の基本的な源泉が人間の労働である、という点については、誰しも異論はないところであろう。

ところが、現代の多くの人々は、経済学者も含めて、「労働」や「仕事」を「必要悪」ぐらいにしか考えていない。

雇い主の観念からは、労働は所詮1つのコストにすぎず、これについては、例えばオートメーションを取り入れて、理想的にはゼロにしたいところである。

労働者の観点からは、労働は「非効用」である。つまり人の欲望を満たしうるものではない、とされる。むしろ働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。

したがって、雇い主の立場からすれば、理想は雇い人なしで生産することであるし、雇い人の立場からすれば、働かないで所得を得ることである(同上書p.70)。

 このような態度が理論と実践(生産現場あるいは労働の現場)に及ぼす影響は甚大である。

仕事についての理想が仕事を逃れることであるとすれば、「仕事を減らせる」ならどんな方法でもよいことになる。

 オートメーションは、人間の労働を最小限に減らせる例である。ここでの仕事を減らせる方法は分業である。それも、人類が大昔から行って来たような通常の分業ではなく、一つの完結した生産工程を分割して、完成品を高速度で生産できるようにする分業である。この分業では、個々の労働者は、そのための訓練もほとんど要らないし、しかもまったく無意味な、あるいは頭を使わない手足の動作だけを繰り返せばよいのである。

 しかし、雇い主が、仕事というものを、労働者にとって無意味で退屈で、イヤになるような、ないしは神経をすり減らすだけのものにすることは、犯罪すれすれのことをしていることなのだ。なぜなら、そうした状態を長く続かせることは、労働者その人の精神を病ませることになるし、また、労働者のそれを和らげられないままそこから抜け出せないような状態にしたら、その人を死へと突き落としかねず、そうなったら、遺された家族には計り知れない悲しみや苦しみを与える結果となりかねないからだ。

 同じように、労働者が、働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることだと考えることは、人生の基本的な真理を正しく理解していないことを示している。その真理とは、仕事と余暇とは互いに相補って、生という人間の誕生から死へと至る一つの過程をつくっているのであって、二つを切り離してしまうと仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまうということである(p.71。なお、これについては4.1節にて、私の提案する「調和」の定義をも参照されたい)。

 人間性は主に仕事を通じて培われる、とはよく言われる。

その意味はこういうことである。

———仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。仕事は人間の自由意志を正しい方向に向けさせ、人間の中に潜む野獣を手なずけて、よい道を歩ませる。仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上させる上で最良の舞台となる。

仕事というものの性質が正しく把握され、実行されるならば、仕事と人間の高尚な能力との関係は食物と身体との関係と同じになるだろう。

 人間は仕事がまったく見つからないと絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではない。いま述べたような、規律正しい仕事だけがもっている、人間を豊かにし、活力を与える要素が失われてしまうからである(p.72)。

希望を持てることは、人間が生きてゆく上で、是非とも必要なことなのである。

 以上がシューマッハーに拠る「人が労働(仕事)をする意味とその労働(仕事)の役割」についてであるが、「経済」の定義を確認した場合と同様に、やはりここでも、「お金」という物は、そこにはあらわな形ではどこにも現れて来てはいないということにはとくに注意する必要がある。

それは、人間が労働するということの深い意味は、そして労働の本来意味するところは、貨幣経済社会であろうとなかろうと、あるいは資本主義社会であろうと社会主義の社会であろうと関係ないことだということである。

 現代のほとんどの経済学者たちが、そして彼らに影響を受けた私たち一般社会の人々も、そして政治家たちも、雇用ということ、そしてひたすらそれのみに拘るということは、雇用されればお金がもらえる、そうすればそのお金で生活できるようになる、あるいはそのお金で欲望を満たすことができるようになる、ということが、そしてそのことだけが、各々に暗黙のうちに理解されているからなのであろう。そしてその場合、「生活できる」あるいは「欲望を満たせる」の意味は、実は「消費できる」ということと同じ意味なのである。

 実際、私たちが「生活水準」を測る場合、多く消費する人が、消費の少ない人よりは「豊かである」という前提に立っていることはそのことを物語る。しかし、よくよく考えれば判るように、その消費の仕方と豊かさの関係も、消費支出に占める食料費と住居費の割合が少ない人ほど「豊かである」と見直されるべきなのだ(暉峻淑子「豊かさとは何か」岩波新書p.96)。

ところが現代のさまざまな経済学も、依然として、消費が経済活動の唯一の目的であると考えているのである。

 そしてその消費を際限なく拡大できるように生産することが経済が発展することである、として来た。GDP国内総生産)、GNP(国民総生産)という概念はそれを測るために生まれたのである。そのGDPという数値を上げるために、陸・海・空を通じて資源を世界中からかき集め、生産力を果てしなく伸ばしながら商品を生産し、関税障壁という垣根の高さをできるだけ低くしながら、同じく陸・海・空を通じてその商品を世界中に流通させてきた。

 その結果生んでしまったのが地球の温暖化と気候変動の激化という現象であり、世界規模での貧富の格差とその拡大という現象であり、各地でのテロを含む紛争ないしは迫害の拡大という現象であった。そしてその結果生じたのが難民の急増という現象であり、その人々の受け入れをめぐって生じたのが受け入れ国側での国内と国家間での対立と分断と、それに因るポピュリズムの台頭という悪循環の現象なのである。

 経済の成長を促進し、豊かさを際限なく実現しようと追求して来た結果が、人類が生きて行くことさえできないこうした連鎖的事態を生むことになろうとは、何という皮肉、何という矛盾であろう!

 だから、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツGDPについて指摘するのである。

————GDPはそのように、環境汚染も資源の乱用も考慮には入れてないし、富の分配の仕方も社会の持続性ということも考慮してはいない、問題だらけの数値なのだ。したがってその数値をもって「経済の成長」を考えるのは間違いだ。経済における成長ということについては、もっと本質的なことを考えなくてはいけない、と。

 私は、しかし、人類が、歴史の中で、豊かさを望み、それを実現しようとしたこと自体には過ちはなかったと思う。そうではなく、求める豊かさにも、大きくは物質的豊かさと精神的豊かさの二種類があること、その両者をバランスさせながら実現させて行かないと真の豊かさを実現したことにはならないだけではなく、かえって解決困難な様々の難題を生むことになるということに気付かなかったそのことこそが人類の大きな過ちだった、と考える。

 そのことに気付こうとしなかった分岐点はデカルトにまで遡る。彼は「近代」というその後資本主義が支配的となる時代の思想や価値観を確立する上で、文字どおり決定的な役割を果たした。

彼はつねに世界を「個」としての自分を中心に捉えながら、ガリレオと同じような宗教裁判にかけられるのを避けるために、科学的認識方法を世に提唱する上で、感覚的なものや精神的なもの、あるいは命を議論の対象とすることは避け、物理的な実態のみを扱うと宣言したのだ(槌田敦エントロピー現代書館p.74)。自然を、あるいは物事を、その中での現象相互の関係を絶ち、「要素」に分解して分析的に解明すればそのものを理解できる、とする手法は彼の提案によるものだ。

 ではこうしたことを教訓とするときこれからの時代において求めるべき豊かさとは何か。

結論を先に述べれば、私は、多様性こそ豊かさに通じ、また安定性を保障してくれる、と考える。

たとえば「生物の多様性」がそうだ。それは、生態系としての耐性と安定性、自然としての耐性と安定性を保障してくれる原理だ(4.1節の定義参照)。人間社会においてもそうだ。様々な個性や様々な能力が積極的に育まれ保障される社会ほど豊かだし、その社会は内外からの様々な働きかけや撹乱に対して適応性があるし耐性があるから安定してもいる。

そしてそのことは労働や仕事のあり方についてもまったく同様に当てはまる。

 ところがこの国は、中央政府自身がそうした真理とはまったく逆行する教育行政、つまり同じようなものの考え方をし、同じような価値観を持ち、同じように振る舞う人間ばかりを大量生産し続けて来たし、今もそうしている(10.1節)————そしてその教育行政は、自らの政権には正統性のないことを知って、国民に恐怖を抱いた明治薩長政権からのものであり、それが組織の記憶として文部省そして文科省へと脈々と受け継がれて来ているのだ、と私は思う————。その結果、今やこの国は、国民の大多数が「この国が豊か」とは心からは感じられない国になっているし、むしろ、この国の豊かさの実態とは、ひとたび社会的弱者になるや、ただの幻になってしまう豊かさであり、だから、誰もがそうならないようにと強迫観念に囚われているのだ。

 労働あるいは仕事こそが、本来、人間生活を豊かにし、人間を幸せにするためにあり、その労働のあり方あるいは仕事の質こそが、生活のあり方を左右し、人間の生き方に大きな影響を与えるものなのだ(暉峻淑子「豊かさとは何か」岩波新書 p.109)。

そしてその場合、人は皆、個性も能力も本来多様であることを考えるなら、労働あるいは仕事の種類が多様であればあるほど、より多くの人は、より自分に合った労働あるいは仕事を選択できることになる。

 そこで言う労働のあり方あるいは仕事とは、少なくとも、機械に使われるだけの労働あるいは仕事ではない。全体工程の中のごく一部を、歯車のように、そして果てしなく同じ動作の繰り返しによる労働でもない。労働力を単なる商品と考えるようなシステムの中でこき使われ、効率を上げるために追い立てられ続ける労働でもない。自分が手がけた製品が社会に出回ったとき、それが誰が関わった製品なのか見向きもされないような関わり方をする労働でもない。作り手の思いも無用とし、使ってくれる人の状況を思いやることも無用とする労働でもない。製品化する過程で関わっておきながら、それが壊れたり故障したりしたとき、自分でも手も足も出ず、全取っ替えするか捨てるしかないつくり方に関わるような労働でもない。

 そうではなく、既述のように、その仕事に従事し労働することによって、その人の創造力を含むさまざまな能力を最大限に引き出すような仕事。活力を与え、やりがいを感じさせ、誇りを抱かせ、その人をして邪悪な道に走らせず、よい道を歩ませるような仕事。一つの仕事を他の人たちと共にすることを通じて、自己中心的な態度はよくないと気付かせるような仕事。そして、それに従事することによって、社会に、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すような仕事(シューマッハーp.71〜72)。

 こうした質の仕事あるいは労働は、現行の大量生産システムあるいは巨大システムの中の仕事あるいは労働とは対極を成すことは明らかであろう。

それだけにそれは、必然的に、これまでの大量生産システムや巨大システムを否定することになり、より多くの人間の手で生産するあり方を要求するようになる。

 こういうことを言うと、すぐに、次のような反論や反駁が、とくに現行経済システムの中で莫大な利益を上げている大企業や既得権を享受している階層から来るだろう。

“では、これまでの企業や産業はどうやって経営を成り立たせて行ったらいいのか”、と。

 でも、ここは、読者の皆さんにはよく考えてみていただきたい。そしてこのことは決して忘れないでいていただきたい。

それは、既述して来たような特性を本質として持つ資本主義経済を発展させて行くことだけ、そしてその中では化石資源を湯水のごとく消費しながら、たとえ雇用を拡大させても、労働者を全生産システムの中の単なる一歯車として安くこき使うあり方だけを続けて行ったなら、必然的にこの地球も人間自身も駄目にし、早晩、私たちは、そして私たちの子孫は、生活してゆくどころか生きてゆくことさえできなくなるということを、である。

 つまり、これからの仕事あるいは労働のあり方とは、ただとにかく誰にであろうと、作った「商品」を売りさばけばそれでよしとするものではなく、誰のためにそれをつくるのか、誰のためのサービスを用意するのかをつねに明確にしながら、それを適正規模で生産し、生産した物を最短距離で流通させ、互いに適正規模の消費をしながら、人間としての満足を極大化しうるようなあり方、ということになる。

 当然ながらそうした仕事あるいは労働のあり方は、生態系のあり方や自然の本来のあり方とも「調和」するだろうし、したがってエントロピーの発生を極小にし、「生命の原理」の実現に近づくものともなるはずである。すなわち指導原理を実現する仕事あるいは労働のあり方になる。そしてその仕事あるいは労働のあり方は、いま私たち人類が直面している最大の課題である地球温暖化あるいは気候変動と、生物多様性の消滅の進行という事態をゆっくりではあるが緩和させ、やがては近代の産業革命前の地球の状態へと回復させてくれるのではないか、と期待するのである。

 そこで、以上のことを考慮すると、地域連合体を想定したとき、そこでは、具体的に、次のような職種が考えられるのである。

 

表−11.1 例としての地域連合体社会で想定される職の種類

 

国内

での職

生活の支援・補助・助成

各種産物・手作り物品の運搬・分配

農産物、水産物、畜産物、農機具、中小機械類、工具・道具類、住民・観光客の南麓内部での移動時での輸送や運搬

エネルギー供給

電気・飲料水・ガス・湯の住民各戸への供給。資源の再利用のための分別と資源化

保育・教育

職業訓練

保育園、小学校、中学校、高校、大学、介護、看護等の各種学校。各種職業訓練校。自然環境(生態系)再生指導員養成。

各種店舗

・各種事務所

各種商店(八百屋、魚屋、金物屋、菓子屋、呉服屋・洋品店、飲食店、趣味・手芸・絵画・彫刻等の美術展、楽器店・民芸品店)。

預金、金融、税務、会計等の事務所

各種災害救助

と警備

地震・火災・暴風雨・水難・雪崩・山岳遭難救助。森林警備・自然保護と警備。環境警備(有害廃棄物不法投棄等)。

公務(議会、役所)

地域生態系の再生・復元の全体計画と実施(地元森林の再生をも含む)。温室効果ガス排出を抑える住民全体の新生活様式の立案と実施(自動車がなくても生活でき、自然エネルギーだけで住民の暮らしが成立する地域内自己完結小規模集落社会の実現に向けて)。子どもたちに“生きる力”を付ける地域教育の計画と実施。人口増を実現させる教育を含めた綜合計画の立案と実行。電気・水道・ガス・湯の地域内自給自足を実現する計画の立案と実施(家庭ゴミの焼却に因る発電とその熱で沸かした湯の各戸への配給。家畜の糞尿の醗酵によるメタンガス生成とその利用。地域の河川を利用した小水力発電の集合)。暮らしと農産物生産と生態系再生の一体化計画の立案と実施(生活排水と屎尿の有効活用。)。住民の保険・医療・介護の体制づくりとその実施、等々。

教養・娯楽

音楽・詩・絵画・書・工芸・陶芸・郷土芸能・演劇・芝居・等

物づくり

道具づくり

農機具・金物・刃物・工作機器・医療機器・大工道具、等々

生活必需品づくり

住まい。衣料品。家具。食器・灯り等の生活調度品。各種食品加工(味噌、醤油・豆腐・酒・ワイン・ビール・乳製品等)。紙。織物。染め物。塗り物。炭。薬。化粧品・革製品。ワラ縄等。

民家の移築。福祉機器。公共施設(文化施設を含む)。商店の木看板。工芸品・陶芸品等々

燃料施設、エネルギー施設づくり

風車(風力発電装置と施設)。水車(水力発電装置と施設)。バイオガス生成装置と施設。生活排水と屎尿の合併自家処理槽。植物からの油(食用油、灯油、燃料油)生成装置と施設。炭焼き窯。焼き物用の窯、等。

農業

米。野菜。小麦。大麦。大豆。ソバ。果物。綿花。桑。薬草等々。

林業

植林(とくに広葉樹)。混交林の育成。下草刈り。枝打ち。間伐。伐採。木材の搬出。木材の皮むき。木材の乾燥。製材。炭焼き。

水産業

渓流魚の養殖。清流魚の育成。回遊魚の養殖。鯉、ナマズ、ドジョウ、タニシ類の養殖。

畜産業

養鶏。養豚。酪農。養蚕。山羊、羊、兎の飼育等。

真の公共事業への参画

社会福祉事業への参画

住民の日常の健康管理。悩み事相談。保険・医療・介護。検査・治療・手術。高齢者・身障者・精神障害者・難病患者への対応。

移住者・移民・難民(政治的紛争からの難民、気候難民をも含む)への自立できるための対応。

人材育成事業、研究活動の参画

三種の指導原理を理解しながら、当地の自然・歴史・文化を教え、当地域社会と国と世界に貢献できる人材の育成。

温暖化防止と地元生態系(生物多様性)の再生事業への参画

森林:混交林とするための植林。間伐。下草刈り。枝打ち。伐採。搬出。法面でコンクリート被覆をはがし、植物による法面崩壊防止強化。大規模林道と森林地帯を通る高速道路の廃止と森林への復元(自然循環を回復するため)。

農地:土着菌と落葉と堆肥による土壌の肥沃化と土壌浄化。

耕作放棄地の再生と有効活用。

河川:コンクリートでできたダム・堰堤・砂防ダムの解体と撤去。コンクリート三面護岸の解体と撤去と自然護岸の構築。

河川の清掃。湖沼の浚渫、等。既存の道路の幅員縮小と透水性道路への改修。既存の橋の補強と補修。

対外的

な職

もてなし

観光業

民宿、旅館、ペンション、ホテル、特産品店、工芸品店等の観光客相手の商売では、 “人はなぜ旅をするのか”の理解の下に、土地の文化と人情と風景を心に焼き付けてもらえる “最高のおもてなしを!”

外国からの来訪者を迎える一般家庭でも(ホームステイ)、先ずは開いた心と人情で、日本の田舎の家庭料理とありのままの暮らしを知ってもらい体験してもらう。

 

 この表中の職の種類はほんの一例に過ぎないものである。

要するに、共同体の中の一人ひとりは、その個性、能力、特技等々に応じて、自由に職を選べるし、さらには自由に職を創り出し、それに就くことも出来る。あるいは、いくつかを組み合わせてそれを自分の職とすることも出来る。そこには「合理化」とか「リストラ」という発想もなければ、利益を上げなくてはならないといった強迫観念も圧力もない。人間関係から来るストレスもない。なぜならそこには、いずれも小規模であるからというよりは、他者を押しのけなくては自分が生き残れないという「競争」がないからだ。一人ひとりの能力・適性・個性に基づき、一人ひとりの自由な自己決定に基づいて職種が選択でき、労働と奉仕がなされて行く場だからだ。

 このように共同体内での職は多様である。生活様式も多様となる。そしてそれを、みんなが当たり前に、互いに認め合うのである。

 ところで、この表中にある「真の公共事業」の意味、そして「公共事業」の前に「真の」が冠せられている理由は以下のとおりである。

 これまで、とくに政府省庁の官僚が進めて来た「公共」が冠せられた事業は、国民のためというよりは、むしろ公僕であるはずの官僚ないしは役人が彼ら自身の利益と都合のために設けて来た事業である。自分たちの組織を可能な限り拡大させ、それを存続させ、既得権益を維持し、「天下り」先を拡大させ、確保するためのものでしかなかった。

そういう意味で、公共事業とは呼んでも、本質は決して本来の「公共」のための事業ではなかった(「公共」の定義は第4章を参照)。

 そしてその事業は、やればやるほど、自然を壊し、気候変動を加速化させて人類と他生物の存亡を脅かしながら、国民には便益をもたらすというよりは、それ以上に、中央政府と地方政府の債務残高を果てしなく増大させ、その結果として国民健康保険料を上げさせ、大学の授業料を上げさせ、消費税を上げざるを得ない状況を作るだけの事業でしかなかった。

つまり、これまでの公共事業とは国民の生存可能性を狭めるだけの事業でしかなかった。

 しかしここで言う公共事業はそれとは正反対の性格を持つ事業である。「新しい経済」という概念に基づく、三種の指導原理に導かれる事業だからだ。

 だから、実施すればするほど、自然は蘇り、すなわち生命の多様性・共生・循環は蘇り、同時に人々の暮らしにも本当の意味で持続的な安心感をもたらし、伝統文化をも蘇らせ、誰にも将来への希望と展望を抱かせる事業なのである。

 「真の」が付き、また真の「公共」の意味での「事業」とはそういう意味なのである。

 なお、こうした仕事あるいは労働のあり方が支配的となる社会では、これまでの経済社会がそうであったような、ただ単に自営業かサラリーマンとかいった単純な職業分類などほとんど意味を失う。

一次、二次、三次、あるいは六次産業という分類の仕方も全く意味を失ってしまう。

つまり、これまで流の言い方をすると、一次産業に従事しながら二次産業にも三次産業にも従事することが可能となるからだ。労働者階級とか資本家階級といった、あるいは支配階級といった階級的呼称もなくなるし、階級社会そのものが消滅する。

資本の論理とか、支配・被支配の関係によって社会が成り立つのではなくなり、人々の生き方や考え方は、根本的には、すべて「民主主義」、さらに発展させた「生命主義」に基づいて、実践されて行くようになる。

 ついでに言えば、この社会では、「特許」という考え方も言葉も消滅する。排他的に特定の技術を独占して、それでもって巨利を上げるという発想そのものが新しい経済の理念にそぐわないからである。「資格」という考え方も、もはや意味を失うのである。だから「検定」という言葉も意味を失う。だから「名刺」も無意味化する。

検定試験を受けて資格を取ってそれを肩書きにするということなどしなくとも、小規模の地域連合体内部では、人々の間に、真の信頼性や評価は、ごまかしようもなく、自動的に定着するからである。

 なお、これらの事業に参画できるのは、いずれもその共同体内の住民であり、国外からの難民を含む移民の個人である。国内の他地域あるいは他の共同体に籍を置く住民や、他地域や他州に本社・本部を置く企業や団体は、基本的に参画できない。

 それは、その事業そのものが、原則的に共同体内部の人々が自分たちのために自分たちで計画・企画したものであり、また、その事業に参画して支払われる報酬も、すべてその共同体内に暮らす人々の納める税金によってなる事業であるからだ。したがってその事業によって実現される富も、当然その共同体の全構成員のものとなるのである。

 なおその場合、次のことはとくに重要となる。

 それは、先の「真の公共事業」の内容を企画する主体はつねに住民あるいは「新しい市民」だということである。

したがってその場合、行政職員あるいは「公務」員は、今度こそ、文字通りの真の「全体の奉仕者」に徹する。もちろんそのように役人を民意に忠実にコントロールできる政治家をも、私たち住民・国民が新しい選挙制度を通じて、主権者の責任において育てて行くのである。

そこでは、役人自らが住民の要望に基づき、現場にて、住民とともに自ら体を動かし、公共事業の目的達成のための縁の下の力持ちとなる。

もちろんそこでは、かつて、中央府省庁から、都道府県庁へ、そして市町村役場へと縦につながって上層や中央の言いなりになって来た「タテ割り」という隷属関係もすべて無意味になるし、「官官接待」などといった人間関係を卑屈と傲慢で成り立たせる悪弊も、すべて、無意味となる。

 その際、中央政府は、首相と閣僚の無能と無責任と無知ゆえに、これまで官僚たちが手中に収めて来たさまざまな公式非公式の権力と権限は、そのほとんどが地方政府に委譲・移管され、文字通り国の全土ないしは全体に直接かかわる、真に国民益につながる事業だけを行う国家の代理機関となるため、小さな連邦政府になる(第8章)。もちろんそこでは、官僚の「天下り」など、言葉そのものも消滅する。

そうした政府を実現させる使命を担うのは、「新しい選挙制度」(第9章)によって誕生して来た、民主主義を体得し主権者に忠誠を誓った新しい政治家たちである。

 なお、各共同体内でのこうした多様な職種を成り立たせ、循環経済を稼働させるのに必要な財源を自主確保するための税制については後述する(第12章)。

11.5 地域経済のしくみ————————(その3)

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         (当農園のキューリとトマト(中玉))

11.5 地域経済のしくみ————————(その3)

3)生活必需品としての「住」の確保の仕方と分配の仕方について

 これは、基本的には「食」の確保の仕方と分配の仕方についてと同様にすればいいのである。

しかし具体的にはこうだ。

 連合体内で、その土地の気候に適していて、なお建築用材にもなる樹種を選定する。

その場合、もはや杉とか檜一色の林や森にするのは止めて、照葉広葉樹をも混ぜて混交林としての植林計画と森林管理計画を立てる。その際、植物学者や生態系学者の知識を借りる。それは林や森に、広義の「生命の多様性」を実現するためである。と同時に、先述の「水」の確保のときにも触れたが、人間の手による森林の適正な管理は、結局は人間社会に自然の恵みをもたらし、人間の暮らしを安定的に維持させてくれるからである。

 立てた植林計画に基づき地域連合体の住民が手分けして協働で植林をする。また森林管理計画に基づいて、同様にして地域連合体の住民が手分けして協働で森林の整備(下草刈り、間伐、枝打ち等)をも定期的に行う。

その際、後述するミネラルおよびバクテリア群とその代謝産物を、人の手で山林に運んでは山腹の土壌に散布する。

それは「エントロピーの原理」で言うところの、地球の作動物質である栄養の大循環を積極的に促進するためである。

 そうすることで、山林の土壌をいっそう活性化させ、山の生態系は豊かになり、山の動植物をよりよく生かし、そこで生み出されたさらに大量の養分は河川を下りながら途中の河川に生息する魚類を含むすべての水生生物一般とその周辺に生息する野生生物をもよりよく生かすようになる。こうして、山から浸み出し、流れ出た河川水は、流域の人間をも生かしながら、海に流れ下るのである。そして河口域での水質をも向上させながら海の生態系をも活性化させるのである。

 しかし、こうして育てた混交林の樹種が伐採適期を迎えるまでは、暫定的措置として、過去に植林して、いま伐採適期を迎えている杉や檜そして天然の松の林から計画的に伐採する。

伐採した木材を山から下ろして、集積所に運んで集積する。

 集積所は連合体内の公共の広場に設ける。同時に、製材所も、同じ敷地内に設ける。

 このとき、山から伐採木材を下ろす機械や車、集積所に運ぶ車等は、すべて共同体が用意する。なお、最初の頃は、従来のいわゆる「重機」とか「大型自動車」を用いて搬出せざるを得ないだろうが、これと並行して、馬の力を活用して搬出できるように、地域で協働で馬の飼育と訓練をも進めて行く。

 なおこの馬は、普段は連合体内での人々の交通の手段としても活用されて行く。

それは、「新しい経済」すなわち「環境時代の経済」が実行に移されるときには、すでにこの国は目的も理念もそして形をも明確にした本物の国家の建設を目指している時であり、その国家を州とともに構成している地域連合体は、「都市および集落の三原則」に依って、どこも小規模分散型の都市または集落から成り立っているため、そこでの人々の日常の暮らしは大抵は歩いて全ての用を足せるから自動車などは誰も不要になっているのである。それに、離れた地域連合体間での人と物の移動は電車による鉄道が完備されているから、やはり自動車はもはや不要なのである。

しかしそれでも、まとまった物の運搬やら農作業にゆく時にはそれなりの手段が必要となるが、それには、自動車に代わって馬車が行うのである。

 そのようにするのにはいくつかの目的が込められている。

1つは、何と言っても自動車は、それが世界どこの国でも当たり前の「便利」な乗り物になってきた反面、莫大な量の温室効果ガスや人体に有害なガス、例えば窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物SOx)を排出して、地球の温暖化と人体に大きな影響をもたらしてきたが、それももう終わらせること。1つは、自動車のための道路を建設することによって、自然を大規模かつ広範囲に破壊するだけではなく、野生生物の移動を妨げ、地下水の循環を含む自然循環をも遮断してきたが、それももう終わらせること。1つは、これまで自動車が発明されて以来、自動車事故によって亡くなった人が一体どれほどいたか不明であるが、そうした痛ましい事故もう終わらせること。1つは、自動車メーカーによるモデルチェンジが次々と行われ、その結果、未来世代に残さねばならない貴重な鉱物資源が莫大な量、浪費されてきたが、それももう終わらせること。そしてもう1つは、道路を造るために、それも全く無用と思われる道路をも造るために、人々のための福祉行政や教育行政が犠牲にされ、しかも政府の債務を増やしながら、これまでどれほど巨額の税金が使われてきたことか。しかしそうした税金の使われ方ももはや止めること、等々。

 こうして、自動車社会であることを止めたなら、これまで自動車交通がもたらしてきた、様々な問題、例えば、個々の人間を自己中心主義にさせるとか、地域の人間関係を疎遠にさせるとか、人間の心身を虚弱にさせる等々の問題を含むあらゆる問題は、ほとんど一挙に解消されることになる。

 集積された木材については、その皮は機械でむき、雨のあたらない日陰で、最低でも2年以上乾燥する。この皮むき機械も公共が用意する。

 新築でも増築でも、住宅を建築する希望者には、その建築主が携える設計者に拠る建築図書に基づいて、集積所から必要樹種の材木を必要本数、設計者により算出してもらって選び出し、それを買い、買ったそれらを格安で製材してもらう。

それを製材するのは共同体が雇用した共同体内の職人または住民である。

製材機も共同体が共同体の人口に比例して、複数台、用意する。

 こうして、住居建設は、すべて、連合体内で自給できるようになる。

 建築着工に際しての必要な職種の職人も共同体が共同体として募集する(基礎工事、木組み、建て方、左官、設備、屋根工事、建具、等)。

 なお、このようにして、住民が住まいを建設するに際しては、その建築資材等については、建築主には基本的に原価だけは負担してもらう。それは、「住」は人が人間として暮らして行く上で不可欠な物であり、それだけに共同体は共同体として、住民の生存権を具体的に保障するためである。

 ところで、今後は、住居を建てるに当たっては、これまでとは違って、とくに次のことに誰もが共通に留意する必要があると私は考える。それは、地震対策と同時に、台風対策そして竜巻対策だ。

 台風対策の必要性は2019年9月、とくに千葉県を集中的に襲った台風15号が証明した。

東京電力の巨大な送電鉄塔が複数倒され、倒木によって送電線が切断されたり、電柱が倒されたり、莫大な数の民家の屋根が吹き飛ばされるなど、前例のない大惨事が生じたのだ。

 今、地球は温暖化が進んでいる。その結果、太平洋を含む地球表面の四分の3を占める海の水が暖まっている。気温が1℃上昇すると海面からの水蒸気量は7%増加するとは気象庁が発表したデータだ(NHK総合TV 2015年10月24日)。より温まった海洋の表面から蒸発した水蒸気はより多くのエネルギーを持っているため、それを巻き込みながら発達して移動する台風(あるいはハリケーン、サイクロン)は当然ながら強大化する。

 強大化するとは、影響範囲が拡大することであり、風速、とくに瞬間最大風速も増大することだ。台風15号はそのことを如実に示した。

 つまり、今後は、住居を、新築の場合はもちろん、既存の住居も、台風や竜巻に対する住居の補強ないしは構造の強化が不可避になると私は考える。今回の被害はその必要をまざまざと示した。被害に遭ってからでは遅いのだ。その時の心痛、苦労、負担、等々は、言葉では言い表せないほどのものになってしまうのだから。

 既存住宅の場合には、構造までいじるのは難しいだろうから、私が考えるさしあたっての補強対策としては、屋根を瓦屋根ではなくし、耐候性のある金属板で屋根面を構成し、その屋根面のところどころをワイヤーでしっかりとくくり付け、その両端を地中に埋設したコンクリートブロックに緊結する、という方法である。しかし台風がさった後には、それを外すのである。

 

4)生活必需品としての「衣」の確保の仕方と分配の仕方について

 「衣」、つまり着る物とか身につける物については、これまで、この国では、「食」と「住」に比べて、各地域で作ることはほとんど無くなり、もっぱら国内のどこかでつくられた物か、海外の工場でつくられて輸入された物を買って使うという方法で満たして来た。

その際も、布や生地そのものをも同じ場所で織るとか、またそれを必要な色に染めるとかいうことは為されず、それはそれでまた別の国や地域で為される、というのが一般的だった。

だからもうこの国では、地域で、地域ごとに「衣」を自給するなどということは、今や誰も考えもしない。

 しかしこれからの「環境時代」では、とくに温暖化がもっと進んだ状態下では、好むと好まざるとに拘らずそうしなくてはならなくなる、と私は考える。

 では、「衣」の自給を実現するにはどうすればいいか。

 私は、そのためには、少なくとも、過去の日本の「衣」に関する技術をどの程度各地域で再現できるのかということをも含めて、予め次のことを人々みんなでしっかりと検討する必要があるように思う。

 各地域ごとに、これからは、どのような衣類を実現すればいいか、また実現できるのか。

 とくにこれからの環境時代に相応しい、しかももはや近代欧米文化をただ真似するというアイデンティティのない、あるいはコンプレックスを持った姿ではなく、日本の気候風土や伝統の文化の上に立つ衣類とはどんな形・色・質感のものが考えられるのか、そしてそれはどのようにして実現できるか。そのためにはどういう種類の職人を地域で育てて、どのように実現して行ったらいいのか。

 また、各地域では、布になる前の糸になる材料としてどんな種類の植物が確保できるのか。たとえば、木綿、羊毛、麻、絹、その他何がありうるか。

 今もなお絹糸は確保できるか。そのためには各地域で養蚕を復活させることは可能か。

 また地域で確保できる植物性染料にはどんな種類のものがあるか。

 紡織機械はどうやって、誰が、復活させられるか。復活させ、それをさらに発展させたものを、誰が、どこでつくるのか。それとも外から買うのか。

 縫製する機械は地域で確保できるか。また確保できたとして、それを扱えるか。そしてその機械は地域で作ることができるのか、それとも買うのか。またそれらはどこに設置するのか、等々。       

 いずれにしても、連合体内で衣類を自給できるようになるためには、最低でもこの程度の検討が必要となると思われる。

そしてその検討の結果、「行ける」となったなら、その後の実現方法は、基本的にこれまでのものと同じになる。

 

5)生活必需品としての「電力」については、どう確保し、どう供給するか。

 なお電力は本質的にエネルギーそのものであるが、ここでは、便宜上、燃料等のエネルギー資源とは分けて考察する。

 言うまでもないが、再生不能資源を用いた発電やヒューマン・スケール(身の丈)を超えた仕方に拠る発電は最初から考えない。つまり、壊れたり故障したりしたなら、その場で人の手で直せる機械や装置による発電方式でゆく。したがって、原子力発電はもちろん、LNGや石炭を用いた大型火力発電も、そして、いわゆるソーラー・パネルに拠る発電も考えない。

また、はるか離れた場所で発電された電力を送電してもらって電力を確保するという考え方も採らない。

 なお世界では、自然エネルギーによる発電方式としてはソーラー・パネルによる発電方式が最も一般的だが、日本ではそれによる発電は考えないとする主たる理由はこうだ。

1つ。ソーラー・パネルは、平地に、広く設置することで効果を発揮しうるが、日本は、その国土の大部分が山岳地帯または丘陵地といった傾斜地であるゆえ、そうした設置方法が採れないし、また馴染まない。1つ。その国土の大部分を占める山岳地帯または丘陵地は森林地帯でもある。その森林は、それ自体が大量にCO2という温室効果ガスを吸収してくれるし、多種類の生命を生かしてくれる最大の生態系だ。したがって、もしそうした森林を壊して、その斜面にソーラー・パネルを設置するということにしたら、それは温暖化防止という観点からも、またこれからは、これまでに破壊された生態系を蘇らせなくてはならないという観点からも、全く本末転倒になる。そしてもう1つの理由は、やはりそれはヒューマン・スケールによってできた工業製品ではないことによる。ソーラー・パネルはひとたび漏電等による故障ないしは飛来物等によって破損したなら、人の手では修理できず、全取っ替えせざるを得なくなるからだ。それは資源の浪費とゴミの増大を強いることである。

 ただし、ソーラー・パネルは用いないが、同じ太陽光を利用するにも、その光と熱でパイプ内の水を沸騰させ、その蒸気圧でタービンを回して発電させるという発電方式は十分に可能だ。身の丈の技術であるからである。

 要するに、これからは、電力も身の丈の技術によって自給自足してゆくのである。

 なおこの方針についても、たとえば、既述の台風15号に因って、とくに千葉県を中心として、電力供給面について、多くの人々が具体的にどういった被害に遭われたかを理性的に直視すれば、自ずと納得ゆくのではないだろうか。

その被害地域が頼っていた電力は遠く福島県の大型火力発電所が起こした電力だった。その電力が、途中、いたるところで電線が寸断されたのだ。その範囲があまりにも広いため、具体的にどことどこで断線しているか、東電はかなり長い間正確に把握できなかった。把握できていないのに東電は例によって被害住民には甘い見通しを立てて見せた。実際に電力供給が完全復旧するのには2週間もかかってしまった。

 今日の私たちの暮らしは、何から何まで電力への依存の上に成り立っているがゆえに、電力が途絶えると「水」さえもが止まってしまって、生活どころか生存さえ不可能になってしまう。

したがって電力に対する安全保障は水に対する安全保障と同程度に重視しなくてはならない。  

 ということは、もし、電力が途絶えたとなった場合、何が原因であるかが直ちに発見でき、人の手で直ちに復旧できるようになっていなくてはならない、ということだ。

そのためには、発電場所が遥か遠方であったり、しかもそれが複雑で巨大設備になっていたりするという状態は、決して安全の保障にはならないのだ。

 とにかく、日本が、あるいはその中の各地が自給自足的に電力を確保しようとするとき、何も世界の潮流に乗ることはない。それぞれの国はそれぞれの特殊事情や固有の事情を考慮した上で発電方式を選定すればいいのである。自立し、自律し得る独立国ならそれは当然であろう。

 日本も、またその中の各地も、それぞれが置かれた地形的かつ自然環境的な特殊事情や固有の事情を最大限活用して、その地に合った発電方式を採用すればいいのである。

そしてできる限り安定した電力を確保するために、それらを複合的に組み合わせればいいのである。

 ということで、日本列島の持つ特殊性を考えたこの国に相応しいと思われる発電方式にはおよそ次の種類のものが考えられるのではないか、と私には思われる。

① 水力、それも河川の水や農業用水路を流れる水を利用した小規模水力発電

② 森林から出る間伐材を燃焼させることに拠る発電

③ 太陽光を利用した既述のもう一つの方式に拠る発電

④ 人々の日常の暮らしから出るゴミを燃やすことに拠る発電

⑤ 風力を利用した発電

⑥ 地熱を利用した発電

⑦ 波力を利用した発電

 なお、ここまでは、各家庭あるいは各産業で用いる電力の確保の方法についてであったが、都市と都市との間での大量輸送手段としての電車を動かす電力については、関係諸都市の間での公共発電事業の中で生み出されるべきものと私は考えるのである。

 なお、以上7種類の発電方式のうち、熱の力で発電する方式については同様に当てはまることであるが、その時、せっかく得られた高温の熱は、最後まで、ということは、高温の熱から低温の熱になるまで最大限に有効に使い尽くすのが理にかなっている。

それには例えば次のようにする。

 その熱を先ずは発電に用いる。その時タービンから出るまだまだ十分に高温な熱はそのまま捨ててしまうのではなく、大量の水をお湯にするのに用いるようにするのである。

そうして得られた大量のお湯は、地域の各家庭にパイプを通じて配給し、たとえば、台所で、風呂で、床暖房で、と利用するのである。

 これは既にある「コ・ジェネレーション(熱電併給)」と呼ばれる考え方で、せっかくの高温として得られた熱を、発電するだけで捨ててしまうのは余りにももったいないから、その熱を周囲の環境(大気あるいは土壌)と同温になってもうこれ以上は利用できないという温度になるまで、“しゃぶり尽くそう”という発想に基づくものである。

 この「コ・ジェネレーション」というしくみについては、この国でもかつて、一時期、民間企業の間では脚光を浴びたが、いつの間にか廃れてしまった。これも、結局は、原子力発電を進めたかったこの国の電力独占会社と通産省(当時)の官僚のもくろみによって潰されてしまったのではないか、と私は推測するのである。

 

6)生活必需品としての「燃料」および「エネルギー資源」については、たとえば次のようにして確保し、供給する。

 先ず燃料等のエネルギー資源を用途別に分類すると次のようになる。

①煮炊きおよび暖房用に用いる薪、油、ガス

②自動車および重機を動かす油

 これらも、原則として、地域連合体内で自己完結的に自給するのである。

これらを、共同体の各家庭に対して、「環境時代の暮らし方として適切な水準」と共同体がみなす生活水準を維持するのに必要十分な量を、その家族構成(人数、年齢、障害の有無と程度)に応じて、原価で、供給あるいは分配する。

 もちろんその水準を上回る暮らしを維持するための燃料および電力の費用は、各自が負担する、とする。

そこで①の確保と供給の仕方について。

 薪については次のようにする。

「住」の確保の方法のところで述べて来た方法に準じて確保する。

 地域連合体内の森林を既述のように計画的に管理育成しながら、適宜間伐した木材を活用するのである。そしてそれを、次の要領で、一般家庭に「薪」として供給する。

 先ずは、連合体内で、薪を暖房用として用いている住戸のすべてが、晩秋から冬そして初春までの期間で必要とする総薪重量を計算する。

 その全量を賄える量の間伐材を、林業家の指導の下に、夏場、奉仕に参画してくれる住民が主体となり、それを公務員が補助する形で、山林にて確保する。

その間伐材を、山から麓に下ろし、定まった貯木場に集める。

住民の中から奉仕者を公募し、彼等の力で薪割りをし、それを天日乾燥させる。

そして乾燥させたそばから、雨の当たらない場所に貯蔵する。

寒さが来る頃、とくに暖を早急にも必要とする家庭を優先的に、定期的に配給して行く。

 その配給作業員も一般住民から公募する。

 油については、次のようにする。

既述した「食」を確保する方法について述べて来た方法に準じて確保する。

要するに、植物のタネから確保するのである。具体的には、小松菜・ベカ菜・辛し菜等の黄色い花の咲くいわゆる「菜の花」野菜のタネ、ひまわり、ゴマ、エゴマ、そしてオリーブが考えられる。それらを、適宜、一般家庭に、食用油と燃料油とに分けて、分配するのである。

 ガスについては、次のようにする。

それは、家畜と人の力を借りて確保するのである。

酪農で大量の家畜(牛、馬、豚、鶏等)を飼うことによって出る屎尿と、私たちが日常生活を送る中で排泄する人糞(屎尿)とを集めて、それらを醗酵させることにより、その醗酵過程で得られるメタンガスを活用するというものである。

 それには先ず、地域連合体として、次の手順で実現して行く。

 全住戸と地域の産業が使用する毎月の平均総ガス量を把握する(これは、連合体の役所が行う)。

 連合体内の酪農家の飼育する家畜が毎日出す排泄物の平均総量を把握する(これも、連合体の役所が行う)。その情報は、各酪農家から提供してもらう。

 連合体内の人々から提供される毎日あるいは毎月の屎尿の平均総量を把握する(同上)。

それらの総量から、季節ごとの平均気温を考慮しながら、醗酵して得られる一日当たりのメタンガスの量を算定する。

 そのメタンガス総量が連合体内の総需要の何%を満たせるかを試算する。つまり、メタンガスの自給可能率を算定する。

 満たせない分は、酪農として飼育すべき必要な牛や豚や馬の頭数または鶏の羽数を増やすか、あるいは、やむを得ない措置として、従来のボンベに詰めたLNG液化天然ガス)あるいは都市ガス(プロパンガス)を地域の外から取り込んで利用するかを、連合体の議会が、住民の意見を公正でかつ公平に聞き取りながら、議論して決め、その結果を役所に結果どおりに執行させる。

 連合体内の酪農家から回収した家畜の糞尿と、住民から毎日回収した人糞を貯めておくバイオガス・プラント(醗酵装置)としての貯蓄槽を、その容量に応じて、必要個数、連合体内に適宜配置して建設する。

その際、醗酵を早められるように、プラント周囲の土壌を保温し、また断熱もする処置を施しておく。

その際の電力は、後述する地域の自然エネルギーから得た電力に拠る。

 そのプラント建設要員と、糞尿や屎尿を回収してくれる要員とを、連合体への奉仕者として、住民の中から公募する(この公募も、連合体の役所が行う)。

 毎日、連合体内の住戸を巡回して屎尿を回収して回り、それをプラントに運んで注入する。

 一方、発生したメタンガスをボンベに加圧して詰める。

 詰めたボンベを貯蔵すると同時に、必要本数を、必要な住居に分配する。

なお各戸への分配の仕方としてはボンベによる分配の他にパイプラインによるという方法も考えられる。その場合には、そのパイプに併設する格好で電話線や電線をも一緒にすれば、集落や小都市の街や道の景観は格段にすっきりして美しくなる。

 またメタンガスが得られると同時に得られる液体は、野菜や米を確保する上で有効な、良質の有機肥料としての「液肥」にもなるので、希望農家には、それも分配する。

 なお、このシステムを稼働させれば、従来の公共下水道とか合併浄化槽という発想も設備も不要となる。それは、これまで定期的に行って来た「消毒」という管理も不要になり、薬物が含まれた毒水が河川に放流されることもなくなり、河川を取り巻く自然はそれだけ早く蘇って行くことにもなるのである。

 ②については、前述した方法で確保できるからそれを供給する。

 

 なお、ここで、さらに、これまで当たり前のように呼ばれて来た、頭に「公共」と冠された水道料金、電気料金そしてガス料金というものについても考えておく。

 結論から言えば、「新しい経済」ないしは「環境時代の経済」のシステムの中では、これらはすべて消滅する。

水道料金については地方公共団体が管理しているからともかく、とくに電気料金については、これまでも、明らかに「公共」料金などではなかった。「公共」料金などと呼ばれること自体、間違いだった。

なぜなら、電力会社は本質的に営利企業であって公的企業ではないからだ。そんな企業に支払う料金が「公共」料金などであるはずもない。

そうでなくとも、これまで、日本列島を9分割しながら電力の地域独占販売を許されるということ自体、「独占禁止法」に明らかに違反しているのである。

ところがこんなことがまかり通ってしまうのも、電力会社が国の中央政府の省庁(かつて通産省、いまの経済産業省)の官僚と結びついて、お互いに互恵の関係を保っているからだ。

 経産省の官僚は、電力会社の経営が実際には独占禁止法違反なのに、それについては目こぼしをしては電力会社に恩を売り、その代わりに破格の好条件で電力会社に「天下り」させてもらう、というものだ。しかしそれはそれで、天下りを受け入れた電力会社としては、その「元通産官僚」を通じて、彼の古巣の政府の当該省庁が今、そして今後どんな電力政策を考えているのかという情報をいち早く入手できて経営に活かせるからだ。

 

 なお、「経済」の概念の中には直接的には含まれない「教育」関係や「医療と看護と介護」の関係の仕事については、次節での「真の公共事業」の中で考察する。

ただし、この両者に関わる教育費と医療介護費については、この「新しい経済」の下にある地域連合体に住むすべての住民は無条件にすべて無料とされる(12.5節)。

 

 ところで、ここで、次の観点から、私たち人間が「消費」しているエネルギーについて考えてみる。

 生物としてのヒトが一人、その生命を維持するのに必要なカロリー数は、平均的な人間についてみれば、一日当たり2000カロリーとされている。

 ところが、自動車や電化製品や食品などを製造あるいは生産するに際して私たち一人当たりが一日に使って、二度と利用できないエネルギーにしてしまう(これを一般に“消費”と言う)エネルギーは、カロリー換算で約20万カロリー。

 つまり、今日の「文明人」は、一人当たり、毎日、生きるのに必要なエネルギーの100倍ものエネルギーを使って「豊かさ」を享受しているのである。しかもその過程で、同時にエントロピーという汚れを発生させ、また増大させてもいるのである。

 農業に関して言えば、今日の農法に拠ってつくり出される農業生産品の一つであるトウモロコシの缶詰を例に採ってみた場合、たった270カロリーのその缶詰一個を生産するのに、農夫がかけるエネルギーとしてのカロリー数は実に2790カロリーである。その大半は、農業機械を動かすのに必要なエネルギーと、合成化学肥料および農薬を生産し輸送し散布するのにかかるエネルギーとで占められている。

 つまり、消費エネルギー単位で見れば、農夫一人が馬または牛一頭と鋤一本で耕していた方がはるかに生産効率は高い、ということがはっきりするわけである(ジェレミー・リフキン「エントロピーの法則」祥伝社 p.167)。

 このことは何を意味し、これから何が判るか。

要するに、ここで考える地域経済のしくみの中で目ざす、「多人数による多品目の、できるだけ手作業による必要量生産」方式に要する消費エネルギーは、これまで、とくに近代の後半では当たり前となって来た、別名「オートメーション」システムと呼ばれる「少人数による少品目の、機械化による市場向け大量生産」方式による物品の生産時の消費エネルギーと比べたなら、圧倒的に少ない消費エネルギーで済むということを意味していて、それは、圧倒的に少ない消費エネルギーでより多くの人々を生かすことができる、ということを意味している。

 しかもそれは同時に、発生するエントロピーの量も格段に少なくて済むということをも意味する。

 今、人類は、その人類が大量にエネルギーを消費することで発生させてきた温室効果ガス(エントロピー)に因り、地球規模の温暖化という事態を招き、人類は自分自身を存続の危機に直面させている。そしてやっとCOP21(2015年暮れ)では「パリ協定」成立にこぎ着け、今世紀後半には温室効果ガスの排出量を実質的にゼロにするという国際的取り決めが発効した。

 しかしそれを実現させることは、今の経済システムの中では、非常に困難である。というより、資本主義経済とそのシステムを維持し続けている限り、不可能であろうと私は見る。

それにもはや、パリ協定の取り決め内容では1.5℃以内に押さえるという目標は不可能であることがはっきりして来ているのだ。

そんなとき、「多人数による多品目の、できるだけ手作業による必要量生産」方式を基本とする、ここに考察して来た地域化された経済のあり方は、「パリ協定」の実現の可能性を高める上で、というよりも、遥かその先を行って、人類の末永い存続をも可能とさせるきわめて有力な経済システムのあり方ということになるのではないか、と私には思われるのである。

 

 なお、既に明らかと思われるが、ここで提案して来た新しい経済の具体的な姿としての「地域の経済」のあり方は、これまでの社会ではいつの間にか「当たり前」とされてきたさまざまな資格制度や検定制度のすべてを無意味化ないしは不必要化する。

元々、そうした資格制度や検定制度は、中央政府の各府省庁の官僚が、その「天下り」先あるいは「渡り鳥」の先を確保するために、政治家のコントロールがないのをいいことにして、闇権力という、国民の見えないところで許されない権力を行使しては、一見もっともらしい理屈をそれぞれに付けては数えきれないほどの数の財団法人とか社団法人を作り、そこに運用を任せてきたものだ。たとえば、行政書士、宅地建物取引主任、英検、等々の全てがそうだ————民主主義議会政治の本来の姿からすれば、国会議員が、国民の声を聞き、またその時の社会の風潮を考慮して、国内にどのような資格制度や検定制度を設けるべきかを、国会で議論して、定め、それを政府の総理大臣をして執行させるべきだったのだ。だが、国会議員は、既述の通り、本来の使命である官僚をコントロールするなど一切せず、むしろ官僚に権力を丸投げして、放任してきたのだ————。

 地域連合体という狭い地域ではそのような資格や肩書きは必要なく、あくまでも人々の間での「眼の届く関係」としての「信用」がもっとも確かなものとなるからである。

それに、ここでの「地域の経済」のシステムの中では、これまで全国共通の制度あるいは世界的制度ともなってきた、利益を独占するために権利をも独占することを国家が認めた「特許」制度も、もはや、すべて無意味または不必要となるのである。もちろん「人工頭脳(AI)」などという技術についても同様である。これなど、ヒューマン・スケールをはるかに超えるだけではなく、人間によるコントロールさえも効かなくなる技術なのだ。

 

 とにかく、この「新しい経済」の中の「地域の経済」での物の生産方法とは、地域外から持ち込む資源は最小にして、エネルギーは地域で自給しながら、その地域内の多くの数の人が、自分で鍛え、磨き上げては所有している知力・体力・技に基づく得意分野において、一人当たりは少しずつではあるが、自分の頭と手足を動かしてその地域の人々が本当に必要としている物を作るのである。

その意味で、この「新しい経済」におけるものの生産方式はこれまで「近代」を支配して来た物の主要な生産方法であるいわゆる「オートメーション・システム」による生産方式とは正反対の「大衆による大衆のための生産方式」と言える。

 そこでは、作者一人ひとりは、作るその一つひとつに精魂を込め、使う人の身になって、使い勝手が良く、美しく、洗練されたものとして仕上げる。出来上がったそれは、どれも、文字通り世界にそれしかない物となる。他と比較のできない、掛け替えのない価値ある物となる。当然そのような物は、使い手に、作者の手のぬくもりと思いを伝え、使い手は、それを使い込めば使い込む程に手に馴染み、たとえ古くなっても、いえ、古くなればなるほどそのものへの愛着を深め、ずっと手元に置いておきたくなる逸品となる。

だからそこでは、すでにある物を少しだけ形か中身を変えては、コマーシャリズムを動員して、消費者に売りつけようとするオートメーションによる大量生産システムの下でのように、「モデルチェンジ」などといった発想は出てこないし、意味を失う。

それに、こうして作られた物は、どれも、それが壊れたり故障したりしても、作り手にかかれば、たちどころに直してしまう。ところが、これまでの大量生産方式によって出来た製品の場合には、技術者といえども修理もできない。畢竟、「全取っ替え」となる。

 つまり資本主義的なものの生産方式は、資源やエネルギーの大量浪費を強い、川や海を汚し、人を含む生命一般を生きられないようにしてしまう。

 一方、ここで述べてきた「新しい経済」の中での「地域の経済」での物の生産方法によれば、作られた物が、使い手一人ひとりについてだけでなく社会としても富としてむしろ蓄積されてゆくようになり、同時に生態系という環境も急速に蘇ってゆくのだ。

 

 ところで、この「大衆による大衆のための生産方式」は、生産過程に大量の人々を必要とすることから必然的に「大量の雇用を実現」しうることにもなる。ただしその場合雇用するのはあくまでも地域連合体という共同体である。だからその場合も、これまでの単なる「雇用」という概念とは大きく異なる性質のものとなる。それは、その仕事に就くことで、その人は自身を人間として成長させ開花させ得るようになるからである。

そしてこの「大衆による大衆のための生産方式」は、今、世界の資本主義経済国が最大の社会問題の一つとしている「失業」あるいは「格差の拡大」という難問をも自ずと解決して行ける方法でもあるということである。

もちろんこの経済では、仕事に従事する上では、男女の差別も、国籍の違いも、肌の色の違いも、信教の違いも問わない。

 

 概略的ではあるが、以上が私が考える「地域経済のしくみ」の具体的な内容となる。

 しかしここで補足的にではあるが、こうした経済のしくみを国内の各地域に実現する上では特に重要なことと私には思われることについて述べて、この章を閉じたいと思う。

それは、これまで述べてきたことすべてを思い返していただければすぐにもわかると思われるが、特にこの国では、こうした経済のしくみが国内の各地域において実現されるためには、次の三つの条件が叶えられることが必須である、ということである。

 1つは、主権者である地域住民一人ひとりが、自分はこうした社会に暮らしたいと主体的に切望し、また決意できること。

そのためには、これまでの生き方と、ここで述べてきた生き方とどちらが人間的な生き方となるか、どちらが生きるに値する生き方となるか、を、じっくりと比較してみることではないだろうか。

これまでの生き方とは、例えば、満員電車に長時間ゆられて通勤し、家庭を顧みることなく、夜遅くまで働く毎日。家庭では家族揃って夕食をとることもなく、家族関係がバラバラになってゆく生活。誰もが自由な時間もない。子供の受験や進学のための金を蓄えなくてはならない生活。子供たちは子供たちで、偏差値で選別される教育。老後の生活のための蓄えもしなくてはならない。いざっとなっても、政府はもちろん、誰からも助けてももらえない不安を抱えた毎日。そうなったら、人並みから排除されてしまうのではないかという不安。何事も効率を競い、競争を当たり前とする社会。他者への思いやりを忘れた社会。頼れるのは金だけだとして、とにかく「今」を切り詰め、誰もが万が一に備えなくてはならない社会。・・・・・。

 2つ目は、そうした住民の意思を、国民の代表である政治家が、他人任せ、特に官僚を含む役人に国民から負託された権力を丸投げしては依存し、任せるのではなく、国民の利益代表であるとの自身の役割と使命をもって真摯に汲み取り、それをどのような方法と手順で実現するか、国会にて、その際、必要に応じて関係分野の本物の知識人としての研究者や専門家の助言を仰ぎながら、役人は一切介入させずに、政治家同士で徹底的に民主的に議論し、日本国の公式の政策として議決すること。

 3つ目は、議会で決めた国策が、その通り執行されるために、国会と中央政府の全政治家が協力し合い、総力を挙げて、戦後ずっと当たり前とされてきた各省庁間の「縦割り」を廃止するとともに、総理大臣と閣僚が配下の全府省庁の官僚を人事権と罷免権を持ってコントロールするようにし————日本国憲法第15条の第1項に依る————、日本国を真の国家、統治の体制が整った国家として国民に実現して見せること。

 この三条件が揃わなければ、たとえ今後、温暖化が加速してゆき、前例のない大惨事が続出する中、様々な政治と行政の改革案が様々な人から提案されてくるだろうが、そのどれも、官僚とその組織の抵抗に遭い、実現できないままとなる、と私は確信する————2009年、民主党が政権を執り、鳩山政権が公約を実行した時、いかに官僚たちがそれを阻んで、鳩山氏自身を首相辞任に追い込んだか、思い出すべきだ————。

そうなれば、この国はいつまで経っても自立も自律もできない国、本物の先進国の真似をして付いて行くしか能のない、情けなく、みすぼらしい国、世界から見れば価値のない国で終わるしかないであろう。

 

11.5 地域経済のしくみ————————(その2)

 

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           (当農園のトマト(大玉))

11.5 地域経済のしくみ————————(その2)

 ところで、共同体としての地域連合体内で「新しい経済」を実現させ実施する際、その理念に照らし合わせてみたとき、生産物の「分配」の面においても、とくに大切にしなくてはならないことがある。

それは、「新・人類普遍の原理」を指導原理の一つとするということから必然的に言えることではあるが、共同体に対して協働して納税をするすべての家庭に生活の糧を供給する際、生存必需品の分配と生活必需品とでは、その対価に差を設ける必要がある、ということである。

 つまり、生物としてのヒトが生きて行く上で絶対に不可欠な「食」や「水」という生存必需品の分配と、生存必需品とまでは言えなくとも、人が人間として暮らして行く上で欠かせない生活必需品である「住」「衣」そしてその「住」「衣」を支える「燃料(とくに薪)」「エネルギー(電力とガス)」の分配とでは、その分配に支払う対価は当然区別され、両者の間には差を設けなくてはならないということである。

たとえば、前者の物品の分配に対しては無料またはほとんど無料にし、後者の物品の分配に対しては原価を負担するだけでよいとする、というように。

そこで言う原価とは、それらを「生産」し「製造」し、「分配」あるいは「供給」するのに実際に要した費用に基づく価格という意味である。

 繰り返すが、ここで考えている経済と経済システムの下では、資本主義経済あるいは市場経済とは違い、「利益」「収益」というものは考えないのである。

そしてこのことは、この国の与野党の政治家という政治家すべてがその意味を明確化するどころか、その条文を今や完全に空文化または死文化すらしているこの国の現行憲法第25条の言う「全ての国民は」「健康で文化的な」「最低限度の生活を営む権利」としての「生存権」を、ここでの「新しい経済」は、すべての国民である地域連合体住民に確実に保障することを意味する。

 

 さて、農業・林業・畜産業そして水産業と、工業・商業・サービス業の間での調和した経済システムの構築の仕方は以上の方法によるとして、ではそれによってできた経済システムの中で、上記の生存必需品と生活必需品の生産および分配はどのようにして実現されるのか。

 次にそれを考える。

確認するが、その場合、生存必需品と言えるものは、「水(飲料水)」「食」であり、生活必需品と言えるものは「住」「衣」であり、またその、その「食」と「住」「衣」とを支える「燃料(とくに薪)」「エネルギー(電力とガス)」である。

 そこでこれらを順番に考察して行く。

1)先ず生存必需品としての「水(飲料水)」の確保の仕方と分配の仕方について

 「水(飲料水)」については、「食」と同様に生物としてのヒトには絶対不可欠なものである。それと同時に水は、地球が熱化学機関として健全に機能し続けることができるための作動物質(3.2節)としても決定的に重要なものである。

 ところがその水についての状況は、日本だけではなく、世界でも、近年、すでに危機的な状況にある。それは、人間による河川や湖沼の汚染によるものであり、それがまた海にまで及んでしまっているというのがその一例だ。また気候変動に因ってかつてない大干ばつが地球上のいたるところで生じたり、またそれまでは水源となって来た氷河が、多くの場所で融けるだけではなく消滅してしまったりして、その結果、飲料用の淡水が圧倒的に不足してきていることに因る。そのため、生態系は劣化し、風景も一変してしまっているところも多い。

 幸い、私たちの国は未だこれほどの事態には至ってはいないが、しかし、私は、農業をしながら感じるのであるが、日本も、近年、干ばつと言える状況が発生し始めて来ているように思う。それは雨の降り方の変化からそう感じるのである。

 少なくとも私が農業に従事し始めた20年くらい前まではそんなことはなかったが、今では、雨が降らないときには、畑の野菜の根っこの附近まで土壌がカラカラになるほどに降らないという状態が続くことがある。その一方、一旦降るとなれば、まるで砂漠のスコールかというような様相を呈し、畑の土壌のうち栄養的にもっとも肥えた表土が押し流されてしまうほどに降るのである。

 こうした気象の激変により、野菜栽培も、そして聞くところによると果樹栽培も、これまで以上に栽培管理に手がかかるようになって来ている。

 ところでこの国は、国土の67%———今でもそうであるかどうかは疑わしい———が森林に覆われた傾斜地であるが、その森林が、実は今やいたるところ荒れ放題となっているのである。それは、既述したように、それなくしては国民は生きることさえ出来ないモノを供給してくれる産業の1つである林業が工業あるいは工業を中心にして設けられているシステムに否応なく従属させられ、つねにその犠牲にされて来た結果なのだ­­­­­————例えば、値段が安いからというだけで外在を輸入しては、国内の林業を成り立ち得ないようにしたというのがその一例だ————。

 例えば朝倉市で1時間に129.5ミリというとんでもない降雨があり、前代未聞の被害を出した「九州北部豪雨」であるが、それがあれほどの被害を出したのも、ただ単に豪雨のせいではないと私は思う。むしろ日本の森林がきちんと管理されていなかったということが最も大きな理由なのではないか、とさえ思う。実際、被害地をTVの映像で見る限り、流木はほとんどが直線材であることから樹種は杉か檜といった針葉樹と思われる。それも間伐もされていないらしく、ヒョロヒョロの木だ。それでは根の張り方も狭く、また浅い。

 豪雨などに強い森林にするには、宮脇昭氏が強調するように、針葉樹だけではなく、根を広く、また深く張る照葉広葉樹も混ぜた混交林とすべきなのだ。そして下草刈りも間伐も適宜やる。そうすれば、山肌の保水力も格段に上がる。それは豪雨に強くなることだ。

 ところが日本中の人工林ではそれが出来ていない。農林水産大臣はそうした状況を放置しっ放しだし、国土交通大臣は無関心なのだ。というより、大臣という大臣は、全て官僚任せにし、官僚のシナリオに乗っかるだけの操り人形なのだ。

 だから土壌の保水力の乏しくなったそこへ大雨が降れば、土中に浸透した雨は、そこに蓄えられることなく山肌の土壌と一緒になって流れ出してしまう。それが土砂崩れである。そこには当然大小様々な岩石も混ざる。

 その岩石の混ざった大量の土砂は、河川に流れ出れば、土石流となって一気に河川を下る。その時はかつて建設省が上流や中流のいたるところに設けてきたコンクリート堰堤や砂防ダムなどアッと言う間に土砂で埋め尽くしてしまう。水力発電所のダム湖の湖底もたちまち浅くして貯水能力を激減させてしまう。

 こうなるのも、森林を先ずきちんと管理して、山、とくに源流域や上流域の森林を強固にすることに目を向けず、国土交通省農林水産省林野庁)がバラバラに自然を「統治」して来た結果だ。そしてこれも、この国の政府の府省庁間の、“他の省庁の管轄に踏み込まない”ことを暗黙の了解事項とする「タテ割り制度」がもたらしたもので、結局はこの国が「合法的に最高な一個の強制的権威によって統合された社会」としての国家には未だなっていないからだ。

 こうした上中流域の森林の事情は、とくに夏場など、少しの間雨が降らなければ、すぐに川の水を枯らしてしまうか水量を激減させてしまうことを意味する。

 それは河川に棲む水生生物に対してはもちろん、中流下流域での水田での稲作にも深刻な影響をもたらすことになる。そして同時に、都市部の人々が生きるための水瓶であるダム湖の水量にもたちまち危機的状況をもたらすことにもなる。

 私たち国民は、この国の命の「水」は今こうした状況にある、ということを知っておく必要がある。

 そこで、ここでの主題である、「水」を巡って、今後想定される巨大台風や集中豪雨あるいは干ばつ等のいずれにも対処できるようにするにはどうしたらよいか、ということになる。

それはまた、「飲料水」はどのようにしたら安定的に確保できるか、地球が熱化学機関として健全に機能し続けることができるための作動物質(3.2節)としての水の自然循環は、どのようにして安定的に維持するか、ということでもある。

その際の基本的な考え方は、それぞれの河川の流域に暮らす人々が、祖国を愛する国民として、その河川の源流域での森林を、主体的に、協働で整備し管理することから始める、ということだと私は考える。それを「真の公共事業」(11.6節)として行うのだ。

それは、「森林は農林水産省の管轄域」、「河川は国土交通省の管轄域」などといった官僚の側の都合でつくりあげられてきた、何ら法的裏付けのあるものではなく、単なる慣例でしかない「タテ割り」という自然や社会をバラバラに分断統治する行政制度のあり方がもたらした現状をことごとく克服するための事業である。

 それを成功させるために、今度こそ政治家が住民の利益代表として、住民の先頭に立ち、具体的にそれをどう進めるか住民の声を公正かつ公平に聞き、それに基づく最善の政策ないしはシステムを議会で決めるのだ。そしてそのシステムの下で、地域連合体のみんなで協働して「水」を守り、また確保するのである。

その際、執行機関である役所の役人は、公僕として、主権者のその働きに奉仕する役に回るのだ。

2)生存必需品としての「食」すなわち「喰い物」の確保の仕方と分配の仕方について

 その際の基本的な手順は次のようになる。

手順の第1:地域連合体内で確保できる品目を可能なかぎり拾い出す。

手順の第2:得られると判った喰い物のうち、どの品目が生存必需品に属し、どの品目が生活必需品に属するかを選別し、整理する。

手順の第3:地域連合体の全住民の数と構成を考慮しながら、その人たち全員が少なくとも1年間を通じて、生きて、暮らして行けるための必要十分な各品目ごとの量または数を、質をも考慮しながら算出する。

手順の第4:それらの生産方法または確保方法を検討し、計画を立てる。

その際、他の地域や世界で行っている方法を単に真似をするのではなく、あくまでもその土地に固有な地理的、地形的、地質的、気候的、気象的、人口的、人口構成的、文化的、歴史的な諸条件や諸状況に着目し、その諸条件や諸状況を最大限生かすようにして生産する。

それでもどうしても実現することが不可能な場合、そのとき初めて他地域の方式を導入することを考える。

手順の第5:生産ないしは栽培の実施。

ここには、収穫までのすべての管理作業が含まれる。

手順の第6:生産物の収穫。

手順の第7:収穫物の住民各個人または各所帯への分配

その際、各個人または各所帯ごとに分配される生存必需品の種類と量、生活必需品の種類と量を、予め決められていたとおりに区分けする。

 

 以上が基本的な手順であるが、具体的には次のようになる。

手順の第1について

1.地域連合体の全人口の実態把握

 その地域連合体(以下、単に連合体と記す)に属する全人口とその年齢構成と一人ひとりの健康状態を調査する。

2.地域連合体内で必要とする品目、確保できる品目を可能なかぎりの拾い出す。

ただし、その場合、「三種の指導原理」からも明らかなように、農業と林業と畜産業と水産業のいずれであれ、化学的に合成された農薬あるいはそれに類する薬物は一切用いないで得られるものに限って拾い出す。

また、その場合、農業における栽培法においては、化石燃料を燃やして加温しながら栽培する、いわゆる「施設」の中での栽培という方法を採らず、あくまでも直接の太陽光の下で栽培する「露地」栽培を基本として、そこから確保できる品目だけに限定する。

また、まさかの時の補助的喰い物をも拾い出す。「まさかの時」とは、凶作時や干ばつや台風等の自然災害に因り予想外に確保できなかった時をさす。

 なお、ここでは「喰い物」の中には食用油をも含める。

 そこで農業分野から期待できる「喰い物」とはざっと次のようになると考えられる。

穀類、野菜、果実、キノコそして食用油の原料となる植物である。

穀類、野菜、果実についてその具体的な産物を挙げると次のようなものになる。

 米、麦(とくに小麦)、ソバ、ヒエ、アワといった穀類。

 小松菜、ほうれん草、ベカ菜、辛し菜、キャベツ、ブロッコリー、白菜、セロリ、シソ、モロヘイヤ等の葉物野菜。

 ジャガイモ、玉ねぎ、サツマイモ、大根(各種)、ニンジン、カブ、里芋、ヤーコン、レンコン、コンニャク等の根菜類。

 キューリ、ナス、トマト(各種)、ピーマン(各種)、カボチャ、苦瓜、白瓜等の果菜類

 さらには、リンゴ、柿、梅、ブドウ、スイカ、イチゴ、ナシ、サクランボ、キウイ、ブルーベリー、ミカン、プルーン等の果物類。

 食用油になる植物としては、小松菜、ベカ菜、辛し菜等の黄色い花の咲くいわゆる「菜の花」野菜のタネ、ひまわり、ゴマ、エゴマ、そしてオリーブ。

なお、食用油は同時に「燃料」にもなりうる。「燃料」とは、暖房に用いる際のもの、台所での調理に用いる際のもの、風呂を沸かす際のもの、その他農耕用や木材搬出用を含めた自動車用と重機用のもののことである。

 林業分野から期待できる「喰い物」とは、たとえば各種キノコ類、タケノコ、クリ、クルミ、山ブドウ、トチの実、アケビ、蜂蜜、蜂の子等々であろう。

 畜産業の分野から期待できるものは、家畜の肉、乳類、玉子類であろうか。

その際、飼育できる家畜の種類としては、豚、鶏、牛、馬、羊、山羊等となろう。

なお、これらの家畜の中には、皮革、羽毛といったものをもたらしてくれるものもあるし、馬のように、ゆくゆくは農耕に、あるいは連合体内での交通手段となってくれるものもある。

 水産業の分野からは、その地域が海辺であれば、魚介類等の海産物のすべてが、内陸部で、河川であれば、可能な限りの種類と量の淡水魚類とその他の水生生物全般ということになる。

ただしその場合、河川という河川は、地域の住民が「真の公共事業」の一環として総出で参加して、きちんと「整備」しては「浄化」し、また流域の家庭からの排水には合成洗剤や農薬等の化学合成物質、抗生物質、重金属などが一切混入しないよう規制する。そして河川では、可能な限り、流れをせき止める堰やダムの類いは撤去しながら、積極的に多様な淡水魚またはウナギ等の回遊魚を養殖する。

 また、その地域に湖沼があるならば、そこから水揚げされる可能な限りの種類と量の淡水魚やその他の水産物全般ということになる。

ただしその場合も、その湖沼は地域の住民が「真の公共事業」として総出で「整備」「浄化」するのである。

 その場合の「整備」とは、たとえば次のようなことをすることを意味する。

空き缶、ガラス瓶やその破片、ビニール袋類等を含むプラスティック類の撤去。物質循環を遮断する構造物の解体またはその構造物に通路を設けること。コンクリート護岸の自然護岸への改修、コンクリートでできた河口堰を含む堰や砂防ダムの解体または貫通路の設置。

 もちろんその河川や湖沼の特定範囲では、公的に許可を得た者以外は、魚釣りや水生生物の捕獲と採取は厳禁とするのである。

 またこうすることにより、回遊魚は海から河川の上流域または源流域まで遡れるようになり、山の大型動物(熊、狸、狐、鷲、鷹等)はそれだけを喰っても生きられるようになる。そうなれば、中流域での田畑での鳥獣被害をも減らせることが期待できるし、彼等をむやみに「駆除」しないで済む。

 このことは、林業分野でも同様で、現行のように針葉樹だけを植林するのではなく、そして放置するのではなく、照葉広葉樹との混交林にして山林を整備し管理する。具体的には下草刈り、間伐、枝打ち作業である。そうすれば、山は豊かになり、保水力は高まり、かなりの集中豪雨にも耐えられるようになり、餌が豊富になれば野生動物もそこだけで多様に棲息できるようになる。それは、人里での野生動物被害を最も自然な形で激減させられることを意味する。

 なお、その他、連合体のある地域内に田んぼがあって、そこに水を張ることで自然養殖が期待できる魚貝類があるならば、それらをも「地域の喰い物」の中に挙げる。

 こうした仕方で確保できると期待できるのは、ハヤ(ウグイ)、オイカワ、ドジョウ、ウナギ、ナマズ、鯉、沢蟹、ザザ虫、ミョウガ、であろうか。特にその地域が海に面していれば、これらの他に、現在、市場に出回っている沿岸魚介類のほとんどすべても含まれるであろう。

 そして次には、これらの農・林・畜産・水産業から得られる「食」のうち、どの季節にはどれが穫れるかを分類する。

 さらには、農・林・水産・畜産の4種の産業から得られる喰い物を基にして、連合体の位置する地域の気候風土の下でそれらを加工して得られると期待できる副産物についても、可能な限りたくさん拾い出す。

ただし、その場合、大規模な工場あるいは設備でなくても確保できるものであることが条件となる。

 具体的には、醗酵食品であり、醸造食品であり、薫製食品類等がある。

これらは、いずれも、保存可能食品となり得る。

たとえば、味噌、醤油、豆腐、納豆、酒、焼酎、どぶろく、ビール、ジャム、魚類の薫製、チーズ、バター等。

 こうして具体的に挙げてみると、いま私たちが日常食べている喰い物のほとんどすべてを、何とかそれぞれの地域連合体内で確保できそうであることが判ってくるのである。

手順の第2と第3については、基本のとおりである。

手順の第4について

 それら各品目の生産方法または確保方法を検討し、計画を立てる。

その計画を立てるのは、政治家のコントロール下で動く公務員(役人)である。

 具体的には、たとえば、次の手順で進める。

 ⅰ 各品目ごとに確保または収穫できる時期を明確にする。

 ⅱ その各品目ごとに、連合体の全住民が必要とする全量または全数を算定する。

 ⅲ その必要全量または全数を確保するために栽培ないしは確保を中心となって担当してくれる人々(農業者、林業者、水産業者、畜産業者)を公募する。

なお公募しても必要人数が集まらない場合には役所からお願いして生産担当者を決める。

 ⅳ 担当者は各自が担当する喰い物の種類の全量を生産または確保する準備をする。

 なおその喰い物が農産物のときには、それらの栽培ないしは生産に必要な農地の全面積を、担当してくれる人々に割り出してもらう。

その場合、できるだけ、耕作放棄地を活用する。

 ⅴ 連合体の政府は、喰い物の生産または確保を手伝ってくれる人々を公募する。

その中には、農業機械を扱える人、またそれを修理できる人、資材・道具・収穫物を運搬する車を扱える人をも含む。

 なお、そこで言う「喰い物の確保または生産に必要な資材・道具・機械類・タネ類・各種農業機械・農耕機械・運搬車」については、その必要量または必要数のすべてを、共同体の役所(の公務員)が議会の決定に基づく予算の下で用意し、生産を中心となって担当してくれる者に無料で貸与または供与する。

たとえば、種まき機、トラクター、田植機、草取り機、草刈り機、稲刈り用のコンバイン、麦刈り用のコンバイン、大豆の刈り取り用ハーベスター、米・麦の乾燥機ともみ摺り機と選別機、各種産物の搬送車、等々がそれである。

そしてこれらの機械の操作の仕方、運転の仕方、保全管理の仕方等々について、事前に講習を受けられるシステムを政府の側が整えておく。

また、生産または確保に携わってくれる人々やそれを手伝ってくれる人々には、然るべき指導者の下で、事前に、一定程度の実地講習を受けてもらっておく。これも役所の役割である。

 ただし、生産または確保の手伝いをしてくれる人々の数が多くなってくるにつれて、大型機械に拠る生産・確保から次第に小型機械に拠る生産・確保へと移行し、最終的には、ほとんど人手のみに拠る生産と確保へと、順次、移行して行く。

 つまり、大型機械による大量生産方式から、最終的には、燃料をほとんど使わなくて済む大量の人々の協働による計画的大量生産方式へと移行して行くのである。

これも、本質的に「三種の指導原理」と「都市と集落の三原則」と「人間にとっての基本的諸価値の階層性」とが一体不可分となった「環境時代」でのヒューマン・スケール化を重視した「新しい経済」を実現させるための必然的な過程と言える。

手順の第5について

計画に沿った生産ないしは栽培の実施の段階である。

 ここではそれぞれの喰い物の確保または生産の役割を中心となって担うことになった人の指示の下に、生産ないしは栽培を行って行く。

その際、収穫前までに行う作業としては、農業で言えば「草取り」「草刈り」「水やり」等である。あるいはこれからの気候の温暖化と紫外線の強化の中での農場での野菜の損失を防ぐための種々の管理作業である。

林業で言えば、「下草刈り」「間伐」「間伐材下ろし」「木を枯らす虫の駆除」「植林」といったものである。水産物そして畜産物の確保については、担当者の指示に従って作業をする。

手順の第6について

この段階ですることは、生産物を収穫または確保することである。

収穫物は一定の公共集積所(公共貯蔵庫)に運搬される。

その際、収穫または確保した生産物を直ちに食するものと、一時的に保存するものとに分ける。

 なお、食用油になる植物からは、収穫した植物ごとに異なった油として、精製後、確保し保存する。

手順の第7について

 公共集積所に集められたそれらを、予め定められていた種類と量ずつ、住民各個人または各所帯へ分配する。

 ただしその場合、各支所では、収穫物をただ配給すればいい家と、事情があってすぐに食べられるように料理した後に配給しなくてはならない家とに分ける。料理しなくてはならない家の分は料理する。

 これらの準備が出来たところから、各戸に配給する。

 

 以上が生存必需品の確保の仕方と分配の仕方についてであるが、生活必需品の確保の仕方と分配の仕方については、「地域経済のしくみ」の(その3)に続く。