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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その1)

 今回も、これまで未公開のままで来た節を公開します。

 

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2.5 所属府省庁の権益拡大と自己の保身のためには憲法も民主主義も無視する官僚、そしてその官僚に隷従する地方の役人——————(その1)

 官僚を含む広義の役人とは本来、どのような役割と使命を担った社会的立場の人か、そして彼らは本来、特に政治家とどのような関係にあるべきものかということについては2.3節にて既に明らかにしてきた。

その彼らは、近代において、ジョン・ロックモンテスキューあるいはルソーらによって確立されてきた民主主義統治論や民主主義政治理論に基づいてつくられた社会制度や仕組みの中で生まれてきた社会的存在であったのだ。

 では、私たちの国日本での彼ら役人の実態は、そこで明らかにされたような社会的な役割や使命を本当に担って来たのであろう。また、政治家との関係においても、本来あるべきそうした関係を保ってきたのだろうか。

 本節では、それに対する答えをあくまでも私の実体験に基づく範囲内において明らかにする。

 なお、そこでいう広義の役人については、本節に限って、便宜上ではあるが、霞ヶ関中央政府の役人と都道府県庁や市町村役場の地方政府の役人とを区別して、前者を官僚、後者を役人と呼んでゆく。

中央政府の役人には、厳密にいうと、国家公務員Ⅰ種試験に合格して「キャリア組」という言い方で呼ばれる官僚と、そうではなくて、「ノンキャリア組」と呼ばれて、中央政府内では官僚とは呼ばれない者がいるとのことであるが、ここではその区別をせずに、中央政府の役人を全て共通に官僚と呼んでゆく。それは、私には、たとえ彼らと直接相対しても、誰が「キャリア組」で、誰が「ノンキャリア組」かは判別がつかないからである。

 なお本節では私が特に官僚と役人を区別するのは、現状での両者の関係を見る限りにおいてはその必要があると感じるからである。なぜなら、両者は、日本国憲法(第15条)にあるとおり、本来は区別されずに「公務員」とされているのであるが、両者の実際の関係のあり方を注意深く見ていると、そこには歴然とした上下の関係、指図するものと指図されるものという関係、支配する者と支配される者という関係がある(実例をもって後述する)。それも、互いに無意識に、そして当たり前のように、である。だから必然的に、そこには、公務員である前に人間として互いに対等であるという意識は見られない。相互信頼もない。互いに相手に敬意を払うという意識も見受けられない。だから、そういう人間観を持つ彼らが主権者である国民に対して、自分たちが職務上の「国民のシモベ」であるという自覚など持てるはずもなく、国民の福祉に奉仕しなくてはという使命感も持てるはずもない。むしろ官僚と役人は互いにそうした関係を維持しながら、両者が、自分たちこそ国を動かし、地域を動かしているのだという傲慢さすら垣間見えるのである。

 ではなぜそうなるか。なぜ中央政府の役人である官僚と、地方政府の役人たちをしてそうさせてしまうのか。詰まるところ、日本国憲法そのものが憲法として不備だからだ、と私は考える。

なぜなら、もし、中央政府と地方政府の間での、さらには地方政府の中でも都道府県庁と市町村役場との間での、それぞれの行政府間での管轄事項の範囲とそれに伴う権限と責任の範囲が憲法の中で明文化されていたなら、あるいは各行政府の長である首相の権限・責任と都道府県知事の権限・責任と市町村長の権限・責任の区分が憲法の中で明文化されていたなら、こうしたことは決して起こりえないだろうからである。実際、こうした権力区分の明確化は下位法である一般法に書き込めることではなく、国家のあり方を明文化する憲法の中にしか表現できないのである。

 そしてこの時さらに重大なことは、官僚と役人、あるいは役人と役人との間には、非公式にではあるが、こうした非人間的な関係、封建的な関係が厳然としてあることに対して、政治家という政治家は見て見ぬ振りをして、一向に本来あるべき関係に正そうとはせず、むしろその関係を放置したままでいることだ。それどころか政治家たちは、既述のように、本来自分たちの最大の使命である公約の立法化も果たさずに、したがってまた、官僚も役人も同じ公僕として使いこなさなくてはならないのにそれもせず、むしろその反対に、官僚たちや役人たちに法案作成、政策案作成、予算案作成等のほとんど全てを依存しては、その彼らに追随しているのだ。なお、ここで言う政治家とは、国会議員、都道県議会議員、市町村議会議員のほぼ全員を指す。

 そこで、本節の以下では、私が直接見聞きした範囲内で、この国の官僚と役人との関係のあり方と、彼らの一般市民に対する振る舞いの実態を明らかにする。

その振る舞い方の特徴とは私は5つあると思っている。

1.この国の首相は、国連や外交の場では特に、つまり外に向かってはよく、“自由と民主主義、「法の支配」は人類普遍の価値”と口にする。しかし、その首相の足元である国内では、首相や閣僚こそが、そして地方政府では首長こそが使いこなさなくてはならない官僚もまた役人も、それを理解しようともしないし、また理解させようともしないから、「法の支配」あるいは「法治主義」を日常的に破っている。

 ここに「法の支配」とは、恣意的な支配を排斥して、権力を法によって拘束することで、国民の権利、特に基本的人権を擁護しようとする民主主義国共通の掟であり、「法治主義」とは、行政権の行使には法律の根拠が必要であるとする、これも民主主義国共通の掟である。

両者は、恣意的な支配を排除するものである点では同じであるが、「法の支配」の方は、法の内容そのものが合理的なものでなくてはならないことをも要求する点で「法治主義」とは異なる(山崎広明編「もういちど読む政治経済」山川出版社 p.8)。

 つまり、近代西欧の先哲らが築き上げてくれた議会制民主政治理論上からも明らかなように、官僚であれ役人であれ、彼ら公務員は「公僕」と位置付けられているがゆえに、「他人を押さえつけ支配する力」(広辞苑)としての権力は主権者である国民から付託されてはいないのにも拘わらず、その権力を、法律にも基づかずに、しかも恣意的に、つまり気まぐれに日常的に行使しているのである(ジョン・ロック「市民政府論」鵜飼重信成訳 岩波文庫p.135、137、140、141、145)。ここに、「気まぐれに」とは、ある人には許認可を与えるが、ある人にはそれを与えずに、必要以上に行政権を行使しようとすることを言う。

 そうした権力行使の仕方の最大の実例は、官僚たちが国民すべてに対して等しくそして無条件に「他人を押さえつけ支配する力」を発揮する法律を実質的に作っていることであり、役人たちも同じく「他人を押さえつけ支配する力」を法律に準じて発揮する条例を実質的に作っていることである。あるいは政治家たちがそれをさせているのである。

 もちろんその場合、法律や条例に限らずに、政策を作ることや、予算を組むことも同様で、もともと公務員には付託されていない最大の権力の行使になるのである。

 ではなぜそれが「最大の権力行使」に当たるか。一旦それが公式のものとして成立してしまえば、それは国民の全てを無条件に「押さえつけ支配する」ことになるからである。

 しかもその場合、これも国と国民にとって最大級に重大なことは、彼らが作るそれらの法律や条例そして政策や予算は、国民の利益を最優先するというものでは常になく、むしろ、例えば自分たちの組織が縮小されたりして、自分たちの仕事を失わないようにするためであったり、あるいは自分たちの所属組織の既得権益を拡大してはそれを維持するためであったりするものである、ということだ。

そしてその場合、全府省庁の官僚たちが揃って利用する手口が、「審議会」やそれに連なる様々な会議体を立ち上げてはそれを自分たちの隠れ蓑として使う、というものだ。

その具体的なやり方とは次のようなものだ。

 例えば国土交通省の官僚たちがある大規模事業を国家的事業あるいは「公共」と銘打った事業として実現しようと組織内で決めたとき————もちろんそのような「政策を決める」などということは執行機関である政府ができることではないし、ましてや、閣僚の指揮のもとに動かなくてはならない「国民のシモベ」である彼らがそんなことはできることではない。でも彼らはその原則を無視して「実現しよう」と決めるその事業は、決して国民の利益や福祉を優先するものではない。国交省が所管する産業界、例えば土建業界にその事業を実現することにより利益をもたらし、その見返りとして、国交省の官僚たちが退職するとき、第二の人生を過ごす場としての「天下り」先をその産業に頼めるようにするためである————、いかにもそこで、事業実現についての「お墨付きが得られた」と自分たちのボスである国交大臣に言えるようにするための、専門家あるいは有識者を集めた会議体として立ち上げるのである。

 その場合、官僚たちが集めて任命するのは————その「集める」という行為も、「任命する」という行為も、「他人を押さえつけ、支配する力」としての権力を行使することであるゆえ、その行為自体「法の支配」と「法治主義」を無視した行為であって、許されない行為なのだが、彼らのボスである国交大臣は「法の支配」も「法治主義」も知らないからであろう、気付かずに、放置しているのである————公正中立な立場で学問的真実を語ってくれる専門家ではなく、官僚たちが望む事業に好都合な意見を言ってくれる専門家あるいは有識者なのである。というより、私の実体験上確信を持ったのは、「専門家」とか「有識者」というのは名ばかりで、そのほとんどは、畑違いのものであったり、一般人の誰でもが言える程度のことしか言えないレベルの者たちなのであるが(後述する「審議会等の運営に関する指針」を参照)。そうした専門家あるいは有識者たちをまとめてくれる座長は、事前に担当官僚の意図を知らされた上で座長役を引き受けるのである。そしてその審議会は、担当官僚が座長を通して終始、取り仕切るのである。

 審議会はこうしてスタートするのであるが、こうした経緯から判るように、審議会の構成委員の顔ぶれが決まり、座長が決まれば、もはやその時点で実質的には国交省の官僚たちの目論見は成就したも同然なのである。なぜなら、担当官僚の差配りにその審議会は進行してゆくのだからだ。

 しかし、だからと言って、担当官僚が座長をコントロールして審議会の答申をすぐに出させては国民に見透かされるから、座長には、いかにも専門家あるいは有識者たちの声をまんべんなくそして根気よく聞き入れてきたという振りをさせて、何回かの会議をあえて繰り返させ、一定程度の時間をわざわざ費やさせるのである。

 

2022/12/27のBS-TBS「報道1930 ▼岸田総理に直撃“日本の大転換”決断の瞬間▼安倍氏不在の舞台裏は」より。ここでは、岸田政権が従来の重要二大政策を大転換した「閣議決定」に至る、担当官僚主導で進められた各種会議の開催回数に注目。岸田首相は官僚たちのこうした会議体の進め方が「法治主義」「法の支配」を無視したものであることに気づいてはいない。

 

 だからそこから決定されてくることは、国民からすれば全く理解しがたい法律であったり、不本意な政策であったり、不要な公共事業であったりするのである。ところが、所管する閣僚も、そうした経緯をきちんと自分の目で見ていないし確認もしないで、ただ官僚の報告だけを聞いているから、それを「閣議」に諮っては「決定」してしまったりするのだ。

 こうなるのも、結局は、総理大臣や閣僚、あるいは首長という国民の代表でもある政府の政治家だけではなく、国会を含む議会の政治家という政治家たちも、政治家である以上当然知って理解していなくてはならない民主主義議会政治を成り立たせる上での基本的な諸原則や種々の概念についてきちんと勉強して自身のものとしていないためだ、と私は断定する。

 例えば次のような原則や概念についてである。

立法府は法を作る権力を他の者に譲渡することはできない。なぜならそれは人民から委任された権力に過ぎないのであるから。」、「立法府は法を作る権威を譲渡して他の者の手に与える力を持ち得ないのである。」、「立法権は、ある特定の目的のために行動する信託的権力に過ぎない。」、(ジョン・ロック同上書p.145、146、151)。

————国家、主権、国、政治、選挙の意味と目的、政治家の役割と使命、権力の意味とその成立の根拠、議会、立法権、最高権、政府、内閣、閣議、行政権または執行権、司法権三権分立、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、独立国、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、首長、閣僚、自治、役人(公僕)の役割と使命、法の支配、法治主義、独裁、等々である。

 実際私は幾人かの政治家には、せめてこれくらいの本は読んで勉強していただきたいと言ってジョン・ロックの「市民政府論」やモンテスキューの「法の精神」を差し出したことがあるが、後で聞いてみて、それらを少しでも読もうとした者は一人としていなかった。

 こういうことを見ると、安倍晋三氏も菅義偉氏もよく「法の支配」を口にしたし、岸田文雄氏もよく「法の支配」を口にするが、実際には彼らの誰も、少なくともきちんとは理解してはいなかったし、理解してはいないと私は思うのである。なぜなら彼らの足元で、官僚たちが「法の支配」をしょっちゅう破っているのを全く野放しだからだ。

 では彼らは、何を頼りに「政治」をやっているのか。あるいは「やっているつもり」になっているのか。私は、これも断定するが、先人がやってきたことを、やってきた通りに、ただやっているだけである。

 

2.本来官僚や役人には立法する権力は付託されていないと前述したが、その官僚や役人は、法律を作るにも、また条例を作るにも、あえて————と私は断じる————表現を判りにくくし、かつ中身をも曖昧なものにしてしまう。つまり法であり条例である以上、条文がいろいろに解釈できるようなものであっては国民にとっては使いづらいもの、使えないものとなってしまうのに、そこでは、ほとんどどれも、していいこととしてはならないこと、何が許されて何が許されないかが明らかになっていない。かと思えば、「・・・・、することができる」と、状況によっては法の運用者の恣意を介入させられるという表現を公然と挟ませる。

 ではなぜ彼らは法律や条例をそのように作るか。それは、彼らこそが役所において、法律や条例の運用者であることを考えてもらえば判るように、彼らがその法や条例を恣意的に解釈できる余地を残しておこうとするためだ、と考えられる。実際それができれば、自分たちが国民を恣意的に統治できるし、自分たちに都合のいいように社会秩序を保つことができて好都合だからだ————実はそれを禁じるために民主主義国の間で共通に確立された掟こそが安倍晋三菅義偉岸田文雄らが口にする「法の支配」であり「法治主義」なのだが————。実際、ジョン・ロックも言う。「人は、他人の恣意的権力に服従することはあり得ないのである」(同上書p.137)あるいは「人民も、彼らが選び勝つ法を作ることを授権した人々によって制定されたもの以外の法によっては拘束され得ない」(p.145)。

 実はこうした曖昧法の代表例の一つが私は「政治資金規制法」ではないか、と思う。その結果もたらされる事態が、厳密に精査すればほとんどの政治家がやっていることなのに、ある特定の政治家だけが「政治資金規制法違反」として摘発され、起訴され、その政治家が政治生命を絶たれてしまう、というものだ。それも既存の官僚機構にとって脅威と見られる人物が標的にされているようにさえ私には感じられるのである。その代表的犠牲者が小沢一郎氏であろうと私は思う。

 つまり、官僚や役人たちは、法律や条例を、自分たちには本来付託されてはいない権力を非公式に、あるいは闇で行使しては、自分たちに都合よく統治し得る手段に、あるいは自分たちの目的を都合よく実現しうる手段にさえしてしまっているのである————実際には日本国憲法でさえ、そうしている(K.V.ウオルフレン)。

 なおここに、非公式の権力とは法律の規制を受けない権力のことをいう。

 しかし、このことは、被統治者である国民の側からすれば、このような立法のされ方をするということは、その法律や条例そのものが、安心できるものとはなっていないということだ。なぜなら、法律や条例は、国民や住民の誰もが、いつでも平等に扱われるようなものであってこそ、その法律や条例は公平で公正な社会を作る上で役立つものとなるし、被統治者である国民は、誰もが納得できるのであるからだ。

 

3.また官僚や役人らは、自分たちの既得権の拡大や維持のためには、彼らの専管範囲内では、法律や条例の条文による規定の範囲の外で、物事を決めてはそれを執行し、そこでも「法の支配」や「法治主義」をほとんど日常的に破っている。

つまり官僚や役人らは、日常的に大掛かりなペテンをしているということだ。

 それの最も象徴的な実例の一つは、原子力基本法が定める三原則である「民主・自主・公開」を原子力推進を公式にではなく「暗黙」の国策として進めようとする先の通商産業省通産省)と今の経済産業省経産省)の官僚は決して守ろうとしないことだ。というより、それを守るべきだと訴える者に対しては、通産省あるいは経産省だけではなく検察までも動かして抹殺しようとさえ謀るのである。ところがそうした官僚たちを国民の利益代表としてコントロールしなくてはならない通産大臣や経産大臣は見て見ぬ振りをするのである。実際そうやって抹殺された代表的人物の一人が佐藤栄佐久福島県知事である————(「週刊金曜日」2011年4月22日発行844号)。

そしてこうした事実こそが、この日本という国を、政治構造上での事実上の本質部分も、またこの日本という国の巨大な経済システムの最も重要な側面をも、法律や条例の条文規定には全く基づかないものとしてしまっているのである(K.V.ウオルフレン「システム」毎日新聞社 p.101)。

 なぜそうするか。それは、自分たちの専管範囲の産業界に何かと便宜を図ることで、それらの産業界やそこに所属する企業に「利益」を与え、その見返りに、やがては自分たち官僚や役人も「利益」を得ようとするためだ。その利益とは自分たちの役所退職後の第二の人生を過ごせる場を提供してもらうことだ。それが、官僚あるいはその組織と彼らが専管範囲とする産業界との間での互恵的な関係としてずっと継続されてきているいわゆる「天下り」であり「渡り」なのである。

 そうしたことが行われる仕組みの要点はこうだと古賀茂明氏は証言する(古賀茂明「官僚の責任」PHP新書p.56)。ここでは、官僚世界について記す。①中央政府の各府省庁内では、課長までは官僚たちは毎年その数だけのポストは設けられていて同期横並びで昇進してゆくが、そこから上となると、審議官、部長、その上の局長と、上になればなるほど同期の中でもそのポストに就ける者の数は減る。事務次官ともなれば一つの府省庁でただ一人だ。ということは、そういうポストに就けなかった同期の者は、昇進した同期の者との関係で、「お互いに居心地が悪い」となり、その府省庁を去ろうとする。本来の資本主義の社会では、競争が前提であり、それを互いに承認した上でその社会に参画しているのだから、昇進競争に敗れたならばそこを去って終わりとなるところなのだが、この国の霞ヶ関の論理では、それで終わりとはしないのである。②彼がそれまで属していた府省庁は、競争に敗れて去る者にも、年次に応じた収入を保障してやらねばならないとなり、去る者の再就職先を世話するのである。その時、受け入れ先となるのが、その府省庁の子会社とも言うべき独立行政法人(独法)や財団法人とか社団法人と呼ばれるいわゆる「公益」法人、あるいはその府省庁の所管する産業界の民間企業である。この行為を俗に「天下り」と呼ぶのである。そこでは、彼の退職時と同等の給与が支給されるだけではなく、多くの場合、その後は複数の団体や企業に再再就職する。それが「渡り」と呼ばれる行為だ。

 実はここからは生駒の見解であるが、私は、それまで所属していた府省庁内での昇進競争に敗れてそこを去る者に対しても、彼の退職時と同等の給与が支給されるようにその府省庁が組織として保障する行為に出ることそのことこそが、この国の官僚と政治家、とりわけ彼らのボスである各府省庁の大臣との関係を不忠なものとしてしまう最大の根拠の一つとなっているのではないか、と見るのである。つまり、官僚一人ひとりをして、「何と言っても、終生、面倒を見てもらえるのは、やっぱり所属組織だ」という気持ちを強固に抱かせ、本来彼らが忠誠心を発揮しなくてはならない彼らのボスである府省庁の大臣に従うよりは、組織の方針に従ったほうが得だという気持ちを抱かせてしまうのではないか。古賀氏は言う。「国家公務員は一度ある省庁に入ると生涯、所属が変わらない」と(同上書p.167)。

であればなおのこと各官僚のその組織への帰属意識・従属意識・依存意識は高まる一方、その組織に問題を感じても、改革意識は影をひそめてしまうのは必然だ。

 実は私はこれこそがこの国を強固な官僚独裁の国にしている最大の理由の一つとなっているのではないか、と思うのである。そしてまた、このことこそが、私たち主権者である国民が「天下り」や「渡り」をどれほど中止させよと総理大臣や閣僚そして国会の政治家に要求しても、依然として辞めさせられないでいる理由でもあるのではないか、と。つまりここでもやはり政治家という政治家、特に総理大臣と閣僚たちがそういう官僚と官僚組織に依存しきっているからだ。それが証拠に、古賀氏は、「各省の(官僚のトップである)事務次官で構成される事務次官会議を(全員一致で)通過しない政策は閣議に諮られることはない」という(同上書p.166。カッコ内は生駒)。そしてその政策は、せいぜい20分かそこらで「閣議決定」されてしまうのだ(K.V.ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.109)。しかしこれは総理大臣と閣僚たちが国民と民主主義を裏切って、官僚にこの国そのものを、文字通り、乗っ取らせていることなのである。しかし、メディアはこのことをさっぱり報道しない。ジャーナリズムも無言のままだ。③こうして、官僚の独法や公益法人への天下りが、各府省庁の人事のローテーションにガッチリと組み込まれてしまっているのである。このため、毎年のように、そのポストを退職者にあてがえるよう、ポストの確保と維持が至上命題となるし、天下った者にもそれなりの仕事が必要ということで、無駄な仕事と予算がどんどん作られてゆく。その場合、受け皿が足りない場合には、適当な理屈をつけて、新たな団体を立ち上げるようになる。④また民間企業に天下る場合、その官僚が優秀な人材であればいいのだが、現実には必ずしもそうでないので、そのような企業にとっては不必要な人間を受け入れてもらうためには、それまでの官僚の所属組織は、それなりの見返りやメリットを用意してやらねばならない。そこで、その企業に対しては、いわば阿吽の呼吸で便宜を図るようになる。例えば、その所属組織が、何らかの補助金を出したり、規制を撤廃しようとした時、その企業から「この規制がなくなったら、わが社は大打撃を受ける」と言われるとやりづらくなったり、あるいはその企業に仕事を回すために、本来なら不必要な仕事をあえて作ったり、予算を消化したりとするのである。

 以上、①から④までのことから判るとおり、各府省庁の官僚たちがその組織ぐるみで「天下り」や「渡り」を続けるのは、ひたすら自分たち官僚一人ひとりの生活を守る、それも終生守り合うためであり、その上、無能な人たちにも終生高給を保障するためである。文字通り「公僕、糞食らえ!」の姿だ。そのために税金がますます使われて行くのである。

 

4.彼らがしょっちゅう「法の支配」や「法治主義」を無視して行使する権力は、それ自体が非公式な権力であると同時に、非公式な行使の仕方であるが故に、一人ではそれを行使する勇気はとても持てず、そのために、つねに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に組織ぐるみで行う。それも、特に官僚たちが大規模公共工事を企ててそれを実現しようと組織内で決めた場合には、「縦割の組織構成」という、地方の市町村役場内の関連部署にまで至る、彼らが自分たちの都合によって設けた、何ら法律で定められたものではない慣例的仕組みを最大限悪用した形で行い、しかもその非公式権力の行使の仕方あるいは手口は、官僚たちも役人たちも、極めて陰険で、狡猾で、嘘つきで、傲慢不遜であることだ。そこには自分たちが「国民のシモベ」であるとの自覚や認識のかけらもない。

 しかもその場合、「縦割り」で結ばれた組織間の官僚と役人、役人と役人の間には、指図する者とされる者、従わせる者と従わされる者、支配者と被支配者といった封建時代さながらの上下の関係がごく当たり前に見られることである。

 当然そこでは、官僚たちと役人たちとの間では、公務員である前に、互いに人間として、他者に敬意を払い、尊重するという態度も見られなければ、各々、公務をする者としての誇りも全く見られない。というより、彼ら官僚や役人の世界には、むしろ人間として最も醜く、軽蔑されるべき体質すら見受けられるのだ(5.2節)。

 そして、ここで、民主主義政治を根本から歪めてしまうほどに重大なことは、官僚と役人たちの、こうした両者結託しての、極めて陰険で、狡猾で、傲慢不遜な権力の行使とその仕方に対しては、それが非公式の権力の、非公式な行使の仕方であるだけに、国民や市民はそれに真正面から対抗したり、裁判に訴えたりする手段がないということだ。だからそういう場面や事態に直面した場合、関係住民は決まって不必要なまでに苦しめられ悩まされ続けることになる。なぜなら、裁判は、問題とされる官僚や役人の行為はすでに確定して公布された法律に違反しているか否かという判断に基づいて行われるものであるが、この場合、その判断基準となる既存の公布された法律や条例がないからだ。もちろんその場合、当然官僚や役人たちはそのことを十分に知り尽くした上で、非公式の権力を非公式に、あるいは世人の目に触れないところで行使しているのだ。

 そしてやはりここでも、議会の政治家も、政府の政治家(総理大臣、閣僚、首長)も、全く見て見ぬ振りをしている。

 

5.官僚も役人も、自分たちが属する組織内でどんな事業を推進するにも、彼らはつねにあらゆる機会をとらえて、自分たちの既得権益を維持し、また権益の拡大を図る。そのため、彼らは、事業を推進するグループと、その事業を推進する上での危険性や安全性を検討するグループとを並存させて自分たちの組織内に設ける。つまり、事業に対してアクセルを踏むグループと、それにブレーキをかけるグループという、本来、互いに正反対の性質と役割を担うグループだけに互いに切り離して独立性を持たせなくてはならないのに、それを無視して同一の組織内に併設するのである。

 例えば、原子力行政を推進しようとする通産省あるいは経産省の中に「原子力安全・保安院」を相変わらず設けている経産省の官僚の姿勢がそれだ。

 その結果、何かが起こった時に、アクセルペダルとブレーキペダルの両者を同時に踏み続けたら、事態はどうなるのか。小学生でも判断のできることである。

 こうした自明なことについても、国会の政治家も、内閣の総理大臣や閣僚も、見て見ぬ振りなのである。

 

 以上が、私が直接的に知り得た官僚と役人の関係の特徴と、官僚あるいは役人のそれぞれの行動特性である。

 これらからはっきりすることは、日本国憲法はその第15条の第2項において、公務員とは、「(国民)全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記しているが、官僚も役人もその役割を無視していることである。

 それどころか、官僚は、例えば「国民は愚かだ。その愚かな国民に選ばれる政治家も愚かだ。だから彼らの言うことなど聞く必要はない」という態度だ。あるいは、「自分たちこそが国を動かしているのだ。国民ではない。」という意識だ。(保阪正康「官僚亡国」朝日新聞出版 p.19)。そこにあるのは愚民意識そのもの。それも、組織の記憶としてのものである。そして、「国のトップである総理大臣よりも、生涯自分の面倒を見てくれる所属官庁の利益の方が優先されるのだ」という意識だ(同書p.28)。

 一方、役人の方も、その圧倒的多数は、公務員を規定している憲法の条項すら知らないし、したがって公務員とは何かということを問われても即答もできない状態だ。つまり彼らは、憲法も知らないし、したがって主権者とのあるべき関係も知らないで「公務」をこなしているつもりになっているのである。

 このような状態からはっきりしてくることは、この国の官僚も役人も、各々、いま自分がしていることについて、何のために、そして誰のためにしているのか、ほとんど判ってはいないということである。同時に、彼らのボスである閣僚も首長も、公務員はどこまでのことはしていいが、あるいはどこまでのことはさせてもいいが、どこから先はしてはならない、させてはならないということをきちんと理解していないから、自分たちが彼らとどのような関係を保つべきか、をも知らないということである。

 

 なおここで補足として、官僚たちが国民をごまかすためにとる常套手段について、具体的な手口を紹介しておく。

その際、私が参考にさせてもらったのは、元通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書)と、元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)そして元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)である。いずれも、その現場で実際に見聞きしてきた人たちの証言である。

 これらの著書から見えてくる官僚や役人たちの思惑とは、要するに、物事の真実は知らせないようにする、あるいは全貌は知らせないようにする、知らせるにも明確には知らせない、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまう、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、その過程をも判らなくさせてしまうというものだ。またそその一方で、いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟めるようにするというものだ。これは幕末から明治期にかけて為政者(お上)のとった庶民への統治策である「知らしむべからず、依らしむべし」そのものなのである。

 ではそれを公務遂行の際に取る具体的な手口とはどんなものか。いずれも、結局のところ、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」ということであり、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるもののようだ。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われるのだという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を悟られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 官僚が外に向けて書くあらゆる文書についても、そこに用いる用語については、それを読む国民には細心の注意が要るのだという。

 例えば官僚がよく使うテクニックの一つが「等」をつけることだという。その「等」を付けることによって内容をまるっきり変えてしまうのだ。だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と(古賀茂明「官僚の責任」PHP新書p.62)。

 また、国会において、各政党による「代表質問」や「一般質問」に対する閣僚の答弁書を官僚が代筆する場合にも、そこに官僚たちの本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにとの意図を込めて、例えば次のような用語表現にするのだそうだ(宮本政於「お役所の掟」講談社)。

本音はその気などさらさらないのに、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるときは「前向きに」を使う。明るい見通しはないが、自分の努力だけは何とか質問者に印象づけたいときには「鋭意」を使う。質問者に対して、時間をたっぷり稼ぎたいという時には「十分」を使い、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときには「努める」を使う。質問事項について机の上に積んでおくだけにするときには、「配慮する」を、実際には何もしない場合や、するつもりもないときには「検討する」を用いる。人にやらせて自分では何もするつもりもないときには「見守る」を、聞くだけにして、何もしない場合には「お聞きする」を、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに、しかし実際には何も行われないということを表わすときには「慎重に」を使うのだと。

 

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり、自分たちはその主権者に対する「全体の奉仕者」であることは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、つまり公文書とは言えない形で答える。その場合も既述のような官僚用語を駆使して答える。要するに、官僚や役人は自分たちに不都合なことは徹底して秘密主義を通す、ということなのである。

 これがこの国の官僚および役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているし、組織の記憶ともなっているようだ。

 そしてここでも国民から選挙で選ばれたはずの政治家は、こうした狡猾で傲慢な官僚と役人を国民に代わってコントロールすることさえできないのだ。

 

 以上述べてきた官僚の狡猾さを如実に示す一例が「審議会等の運営に関する指針」と題する次の文書である。

 この「指針」は、その名称からも判るように、政府のどの府省庁の審議会等の各種委員会にも適用されるものであり、平成11年4月27日に閣議決定され、今も生きているものである。

その際、既述したように、以下にその「審議会」が「法の支配」を破る官僚たちの隠れ蓑として活用されてきたを思い出しながら読んでいただきたいのである。と同時に、首相がよく口にする「閣議決定」とは、こんな「指針」でもそのまま通してしまうものからも判るように、官僚提出案を総理を含む全閣僚が追認しては、この国を官僚組織に乗っ取らせることを公式に認めることであるということをも読み取っていただきたいのである。

 

 

「審議会等の運営に関する指針」

 審議会の運営については、次の指針によるものとする。

 

1.委員構成

 委員の任命に当たっては、当該審議会の設置の趣旨・目的に照らし、委員により代表される意見、学識、経験等が公正かつ均衡のとれた構成になるよう留意するものとする

審議事項に利害関係を有する者を委員に任命する時は、原則として、一方の利害を代表する委員の定数が総委員の定数の半ばを超えないものとする。

2.委員の選任

(1)委員の選任

①府省出身者

 府省出身者の委員への任命は、厳に抑制する。

 特に審議会の所管府省出身者は、当該審議会等の不可欠の構成要素である場合、又は属人的な専門知識経験から必要な場合を除き、委員に選任しない。

②高齢者

 委員がその職責を十分果たしうるよう、高齢者については、原則として委員に選任しない。

③兼職

 委員がその職責を十分果たし得るよう、一の者が就任することができる審議会等の委員の総数は原則として最高3とし、特段の事情がある場合でも4を上限とする。

(2)任期

委員の任期については、原則として2年以内とする。

再任は妨げないが、一の審議会等の委員に10年を超える期間継続して任命しない。

(3)女性委員

委員に占める女性の比率を府省編成時からおよそ10年以内に30%に高めるよう努める。

3.議事

(1)規則の制定

 審議会等は、下部機関の設置、定足数、議決方法、議事の公開、その他会議の運営に関し必要な事項を規則の制定等により明定するものとする。

(2)基本的な政策の審議及び答申

 基本的な政策を審議する審議会等は、有識者等の高度かつ専門的な意見等を聞くために設置されるものであり、行政府としての最終的な政策決定は内閣又は国務大臣の責任で行うものであることを踏まえ、審議及び答申を行うに際しては、次の点に留意するものとする。

①諮問権者は諮問に当たっては、諮問事項に応じて、検討が必要な項目、問題点等をあわせ示すことにより、効率的な審議が行われるようにするとともに、諮問事項の内容により、必要に応じて、答申期限を設けることとし、審議会等はその期限内に答申を行うように努めるものとする。

②審議状況は適時諮問権者に報告することとし、必要に応じて、諮問権者は自らの意見を審議会等に述べることとする。

③審議を尽くした上でなお委員の問いにおいて見解の分かれる事項については、全委員の一致した結論をあえて得る必要はなく、たとえば複数の意見を並記するなど、審議の結果として委員の多様な意見が反映された答申とする。

(3)利害関係者の意見聴取等

①審議会等は、その調査審議に当たり、とくに必要があると認められるときは、当該調査審議事項と密接に関連する利益を有する個人または団体から意見を聴取する機会を設けるよう努めるものとする。

 この場合において、他の関係者の利益との公正な均衡の保持に留意するものとする。

 なお、公聴会の開催等、法令に別段の定めのあるときは、それによるものとする。

②審議会等に対して、①の意見聴取に係る申出または審議会等に関する苦情があったときは、各府省は、庶務担当当局としてこれらの整理等をした上で、その結果を適時に審議会等に報告するよう努めるものとする。

③審議会等の運営に当たっては、広範な分野にまたがる行政課題についての総合的、整合的な取組を推進するため、相互に密接な関連を有する審議会等の連携確保等を図ることとする。

(4)公開

①審議会等の委員の氏名等については、あらかじめまたは事後速やかに公表する。

②会議または議事録を速やかに公開することを原則とし議事内容の透明性を確保する。

 なお、特段の理由により、会議および議事録を非公開とする場合には、その理由を明示するとともに、議事要旨を公開するものとする。

 ただし、行政処分、不服審査、試験等に関する事務を行う審議会等で、会議、議事録または議事要旨を公開することにより当事者または第三者の権利、利益や公共の利益を害するおそれがある場合は、会議、議事録または議事要旨の全部または一部を非公開とすることができる。

③議事録または議事要旨の公開に当たっては、所管府省において一般の閲覧、複写が可能な一括窓口を設けるとともに、一般のアクセスが可能なデータベースやコンピュータ・ネットワークへの掲載に努めるものとする。

 

 一読してこの「審議会等の運営に関する指針」には次のような問題点があることにすぐさま気づくのである。

 ほとんどどの文章にも、主語がないことである。

したがって、行為の主体が全く不明だ。つまり、責任の所在が全く曖昧だということである。

 それに、全国には諮問事項に関する分野を専門とする学識者あるいは専門家は、普通、何千人、何万人といるはずである。なのに、委員に求められるべき条件や資格などは何一つ記されてはいない。ということは、官僚が「専門家」とみなしさえすれば誰でも選任できるようになっていることだ。

 また、審議会等の委員会では、誰が、どのような発言をしようと、その責任を問われることは一切ないこと、つまり憲法が保障している発言の自由が保障されていることについても一切記述はない。

 それに、とくに審議内容に利害関係のある民間人あるいは法人は、どのような理由があろうとも委員として含めてはならないという記述もない。つまり、この指針は、担当官僚には、状況によって、いくらでも恣意的に委員を選任できる指針となっていることだ。

 その一方で、府省出身者つまり官僚OBの委員への任命については、「厳に抑制する」としているだけで、「禁ずる」とは明言していない。

 「審議を尽くした上でなお委員の問いにおいて見解の分かれる事項については、全委員の一致した結論をあえて得る必要はなく、たとえば複数の意見を並記するなど、審議の結果として委員の多様な意見が反映された答申とする。」とあるが、ではそのように併記されて答申されたものを誰がどのような理由と根拠に基づき、責任を持って絞り込むのか、それは諮問権者である閣僚なのか、そこもまったく不明なままだ。

 議論は透明性をもって、完全にオープンにする、とも明記されていない。

「公開」についても、「会議、議事録または議事要旨を公開することにより当事者または第三者の権利、利益や公共の利益を害するおそれがある場合は、会議、議事録または議事要旨の全部または一部を非公開とすることができる」として所管官僚の恣意的判断を差し挟めるように表現しているだけで、たとえ非公開だったものもどれだけの期間が経過したならすべて公開されねばならないという、原則的には全ては公開されるという表記明記もない。

 報告書の本文はすべて委員の執筆に委ねる、という明文化もない。

 議事録の取り方と議事要旨についても、参加委員の全員が承認しうるものでなくてはならないとも一切言及していない。それ以上に、これらすべての会議体も国民の金を使って行われるものである以上、すべて公正で正確な記録として残されなくてはならない、との明記もどこにもない。

 

 実際、こうしてこの「指針」の下に、各府省庁の官僚たちによって作られてきた各府省庁の審議会の数は次のようになる。

 内閣府では22、金融庁では6、消費者庁では2、総務省では14、消防庁では1、法務省では6、外務省では2、財務省では3、文部科学省では7、スポーツ庁では1、文化庁では2、厚生労働省では23、農林水産省では6、林野庁では1、水産庁では1、経済産業省では9、資源エネルギー庁では2、特許庁では1、中小企業庁では1、国土交通省では12、環境省では5、原子炉規制委員会では4、防衛省では3、防衛装備庁では1、復興庁では1。

合計136もある(2022年4月1日現在)。

 

その中でもとくに有名な審議会が、例えば次のようなものだ。

 文科省では、中央教育審議会(いわゆる中教審)、

 厚生労働省では、この国の医療行政のあり方について厚生労働大臣に答申する厚生科学審議会、中央薬事審議会、中央医療審議会、社会保障審議会

 国土交通省では、高速道路やダムなどの社会資本建設の是非について国土交通大臣に答申する社会資本整備審議会

 法務省では、法制審議会

 総務省では、地方財政審議会

 財務省では、国立大学への運営費交付金などの額を財務大臣に答申し、結果として、国立大学の授業料とその変動にも決定的な影響を与える財政制度等審議会

 農林水産省では、農政審議会

 経済産業省では、産業構造審議会

 

 実際には、官僚たちが彼らには与えられてはいない権力を闇で行使しては立ち上げる会議体はこうした審議会だけではない。

例えば国土交通省についてだけを見ても、既述の社会資本整備審議会の下には、それに連結させて、たとえば次のような会議体をずらりと設けている。そしてそうした下部組織としての会議体設立には、中央省庁の国土交通省の各部局と「縦割り」で上下関係で結ばれている都道府県庁と市町村役場の部や課の役人が、官僚たちに隷従するかのようにして協力しているのである。

社会資本整備審議会→道路分科会→関東地方小委員会→ワーキンググループ

 

 もちろんこれらの一連の会議体のいずれにおいても、それぞれの会議体を構成する委員の担当役人による人選の仕方も、その会議の進め方も、官僚による最上位の審議会と全く同じだ。

 ではなぜこのように幾つもの会議体を官僚や役人は設けるのであろうか。

それは、閣議などに提出された最終答申が、どの段階の会議体で出されたのか、そうした経緯を後で誰も辿れないように、あるいは検証もできないようにして、とにかく自分たち「公僕」の責任をうやむやにしてしまいたいがためであろう、と私は彼らの言動を観察してきて推測するのである。実際、彼らは、国民に向かって、組織ぐるみで、ごまかす、言い換える、嘘をつく、あるいは公文書を改ざんする、それを破棄する、そして自分たちの過ちは絶対に認めない、などというのは日常茶飯事繰り返してきた。これすべて、保身のための責任逃れなのだ。

 つまり彼らは、そうしたあり方や生き方そのものが「国を乱す者」という意味での国賊であり、組織の人間である前に、人間として、自身の家族にもその姿も見せられないほど醜く、そして不道徳で、反社会的なものであるということも判断できないのである。

 私たちは、こうした官僚たちの狡猾さには、最新の注意を払う必要がある。もちろんそれは、メディア、特に新聞、テレビのジャーナリズムでは特にそれが要求される。しかし、特に昨今の日本のメディアやジャーナリズムは、残念ながら、そうした官僚たちの真実や実態を報道する勇気も使命感も失っているのである(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」、「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」双葉社)。

7.7 すべての国家的・公共的事業を興し進めるときの原則

 今回も、これまで未公開のままで来た節を公開します。

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7.7 すべての国家的・公共的事業を興し進めるときの原則

 これまで「国家」とは何かについては、重複を厭わずに、2.5節と7.2節において論じてきた。特に7.2節では、未だ本物の国家とはなり得ていない日本という国を本物の「国家」とするためには、私たち国民はどうすべきか、ということを論じてきた。

そして、両節において、国家というものを曖昧にではなく正確に理解することは、憲法とは何かを正確に理解することと同じくらいに、政治家にとってはもちろん、すべての国民にとっても重要だとも強調してきた。

なぜなら、一言で言えば、国家こそが、社会から、最終的に、私たち国民一人ひとりを守ってくれる唯一の装置だからだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.145)。

ただし、その際、その国家を思い浮かべる時には、いつでも、同時に次のことをも思い浮かべる必要があると私は考える。それは「国家の政府」と呼ばれるものについてである。
例えば、誰かが、国家権力とか国家戦略とか国家目的といったことに言及した場合も同じだ。その場合も、同時に、「国家の政府」というものを思い浮かべることが必要だと私は思う。

 それは次の理由に拠る。

国家そのものは人ではなく仕組みであり機構なのだから、自分で行動することはできない。国家は「国家の名において」、国家の代理者として行動する一団の人々の存在を、常に、そして必ず必要とする。その国家の代理者として最高強制権力を行使する一団の人々のことをこそ「国家の政府」と我々が呼ぶものだからである。このことから判るように、政府それ自体が最高強制権力なのではないし、政府それ自体が国家なのでもない。つまり、国家≠中央政府なのだ

政府は、ただ、国家の権力の諸目的を実現するために執行する行政の機構にすぎない。政府はあくまでも国家の代理者に過ぎないのだから。

 この区別は常に明確になされなくてはならない。それが政治学の基本定理の一つでもある(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書P.7)。

 

 この国における「国家」の名において為されるあらゆる事業、つまり「国家」的事業は————度々述べてきたように、この国は実際には国家などではなく、国家であるかのように見せているだけであるから、国家的などと言っても、実際には「無い国」のこと、架空の国の事業のことを言っているに過ぎないのであるが————、どれも、政治家たちが議会で自発的あるいは主体的に考え出し決定したものではない。つまり、彼ら政治家たちが選挙時から各自で掲げてきた公約を国会あるいは議会という場において、その約束を果たすために、その政治家同士で政党や会派を超えて互いに侃侃諤諤の議論の末に公式の事業として議決した類のものでは決してない。それどころか、議会の政治家は、国会議員から地方議員までを含めて、立法機関にいながら、自ら自発的かつ主体的に立法などしたことなど一度としてないのだ。

 むしろ、それらの事業は、中央政府で言えば、各府省庁の官僚たちにより、また地方政府で言えば各部や課の役人たちによって、彼らの既得権を拡大あるいは維持するために、前例をそのまま踏襲する形で、考え出された類のものでしかない。

 とりわけ中央政府では、各府省庁の官僚たちが、彼らにとって必要な数だけ勝手に「審議会」を立ち上げては、あるいはすでに立ち上げた「審議会」において、そこでいかにも民主主義的手続きに則って決められたものであるかのような体裁をとってでっち上げられた事業案が、各府省庁の官僚のトップである事務次官たちの合同会議で全員一致の合意を見た案だけが、政府の中枢である内閣の会議である閣議に諮られて、そこでは議論という議論などは全くなされずに、単に追認という形で「閣議決定」されただけのものだ。

 その後は、その案は形式的に「国権の最高機関」としての国会に諮られるが、そこでなされることもまるで儀式だ。「代表質問」あるいは「一般質問」というアレだ。しかもそれに答えるのは、議会側が三権分立の権力分散原則を破って議場に招き入れた政府側の総理大臣・閣僚と必要に応じての「高級」官僚だ。

 そして、結局は、「閣議決定」を経たそれは、公式の事業すなわち「国家」の事業として決まってしまう。

 

 なお、前述の審議会もそうだが、そうした事業案が国会を含む議会に諮られる前までの官僚や役人のそこまで持ってゆく際の手口についてはすでに明らかにしてきた通りである。国民を騙す、狡猾で卑劣そのものだ。ところが、悲しいかな、それに対しても、政治家は何もコントロールも指示もできないのである。ただ傍観しているだけだ(2.5節)。

 また、公式の事業となったそれの実施においても、中央政府の総理大臣も各府省庁の大臣も、また地方政府の首長も、官僚や役人をコントロールしながら主導するということもまったくしなければ、全てを官僚あるいは役人任せだ。

 だから、こうしたことからもわかるように、中央政府について言えば、各府省庁バラバラだ。地方政府について言えば、各部、各課、互いにバラバラだ。こうして、この国には「国家」目的も、「国家」戦略もあろうはずはないのである。

 したがって、この国を本物の国家とするには、もはやどうしても既存の政治家という政治家を、中央から地方まで、一旦は一掃しなくてはならないのであるが、そしてそれができるのは多分、唯一、選挙を通じてしかないと考えられるが、従来の「小選挙区比例代表並立制」では、後述するように、数合わせの儀式でしかなく、到底無理だ。

そこで、それに代わる選挙制度が、例えば第9章に示す、これまでとは全く異なる選挙制度である。
私は、その選挙制度こそが、私たち国民が「本物の市民」となって「本物の政治家」を生み、育てられる最も民主的な選挙制度の一つなのではないか、と思っている。

 

 そこで、ここでは、そうした本物の政治家を私たち国民が自身の手で育てられたとして、その上で、これからの時代————すなわち「環境時代」————においては、すべての国家的・公共的事業を進めるときの原則とは何か、を考える。

 その際、それを考える際の最終目的は次のようになる。

————「環境問題」(第4章の「環境問題」の定義を参照)を克服し、持続可能な社会、それも一人ひとりが人間として生きるに値する社会、将来世代や未来世代に託すに値する社会を築き上げること

 その時、土台となる原理あるいは原則とは、これまでの論理展開の経緯からも理解していただけるのではないかと思うが、次の4つになると私は考える。

第一には、「人間にとっての諸価値の階層性」の存在と承認

第二には、その上で、「環境時代」の主導原理とする《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》から成る「三種の指導原理」。

第三に、「都市と集落の三原則」。

 つまりこれらの原理と原則を実現することを通して、それぞれの社会の人々が人間としてとにかく生き続けて行ける自然的、社会的基盤を確かなものとするのである。

その際、すでに定義してきた「環境時代の科学」、「環境時代の技術」、「これからの開発」の概念(4.1節)を実践的に適用する。

また、これからの経済のあり方についても、産業革命以降ずっと続けてきた、価値の果てしなき増殖を最優先する従来の経済ではなく、「新しい経済」すなわち「環境時代の経済」あるいは「人間重視の経済」へと大転換する(11.2節)。

その新しい経済は、少なくとも近代における従来の経済の概念あるいは定義と比較した時、従来の経済の概念には含まれていなかった次のような特徴を持っている。

・経済活動を、とにかく人間の共同体を「存続」させるための行為であることを初めから明確に意識した概念とすること。

・これまでは財についても、その質の違いを問わずに単に一種類の財として扱って来たが、それを人の生存と共同体そのものの存続を可能とさせる一次財と、人間としての暮らしを可能とさせる二次財とに分けることを定義の中で明確にしたこと。

 具体的には、一次財に含まれるのは、人類が誕生する前からあったものとしての、例えば水、空気、土壌、あるいは石油や天然ガスシェールガス、ウラン、そして動物や植物、また微生物や菌類を含めた多様な多生命である。

一方、二次財とは、一次財を基に人間が作り出した財、あるいは作り出せる財のこと。

・その場合、旧定義では、「一次財の再生あるいは再生産」および「自然の再生・修復・復元」という行為と過程を単にコストとしてしか見ずに二次財の生産だけを主目的として来たが、ここでは二次財の生産を支える「一次財の再生あるいは再生産」および「自然の再生・修復・復元」そのものをも経済活動の一つであるとして明確に捉えていること。

・そして二次財については、その生産と分配と消費の行為・過程だけではなく、流通と廃棄あるいは再利用の行為・過程をも経済活動に含めることをも明確にしたこと。

・そして以上の行為・過程を通して初めて人間および社会は持続可能な存在として形成されるとしながらも、その人間も社会も、自身で独自に生きているのではなく、実は自然に対して一方的に従属せざるを得ない関係に拠って生かされている、という考え方をも明確にしたことである。

 

 なお、ここであえて強調するが、ここで述べる「新しい経済」すなわち「人間重視の経済」においてとくに重要なことは、もはや単に「雇用を創出されている」、「雇用が確保されている」、「仕事がある」、「働き口があって賃金がもらえる」といったことのためだけの経済でもなければ、それに基づくシステムでもないということだ。そうではなく、誰もが「生きて行けること」、それも、各自が属する共同体に積極的に、そして誠実に参加して協働することで、誰もが等しく安心して生きてゆくことができ、しかも一人ひとりが人間として、その能力も人格も高まって行けるようになることに主眼を置いたものである、ということである。

 だからその経済とシステムは、人々の多様性のみならず、他生物の多様性をも受け入れ、その生命一般の多様性との共存の上に、人々が、自分たちの文化、すなわち自分たちに固有の、共有し合った生活様式をも同じく大切にしながら、身の丈の技術をもって支え、成り立たせて行く経済でありシステムである。

 身の丈の技術とは、基本的に人間の手あるいは器用に動くその手の延長で用いられる道具に拠って成り立つ技術ないしは技のことである。

だからそこでは、オートメーション・システムといった人間を生産システムの中の単なる一歯車としてしか見ない画一的大量生産方式を助ける技術でもなければ、ITとかAIといった、人間の介在を必要としない、むしろ人間に疎外感しか与えない生産技術でもない。身の丈の技術とは、むしろそれらとは正反対で、労働する一人ひとりに、その人の得意な面を生かさせてそれを伸ばし、自身の社会における存在意義を確信させてくれ、人間としての働く歓びをもたらしてくれるものである。

 この「新しい経済」とは、第11章にて詳述するが、こうして、それをここで敢えて表現すれば、人類誕生の瞬間から今日までの間に、人類が経験的に学んで来たありとあらゆる智慧や教訓と、人類が科学を通じて手に入れてきたあらゆるプラスの意味での知識や知見とを総動員して、それを「知性」ではなく「理性」をもって綜合した経済でありしくみである、とも言えるのである。

 そこで、こうしたことすべてを前提とするとき、これからの国家的・公共的事業を進めるときの原則とは次のようになる、と私は考えるのである。

1つ。お金に拘らなくて済み、利益・競争・効率が重視されるのではなく、その社会に暮らす誰もが、とにかく生きられる社会とするために、人が人間として生きる上で不可欠なもの、生活する上で不可欠なものをまず生産でき、自給できる社会とするための事業とすること

 その時、その事業の中には、特に食糧とエネルギーの自給を達成することが含まれることは、言うまでもない。

 

1つ。誰か特定の者に利益・儲けをもたらすための労働ではなく、人々の生存と生活のために必要なものの生産を集中的に行い、それを公正・公平に分配できるような民主的な手続きと方法を人々自身が生み出せるようにすることで、これまでのような長時間労働を思いっきり短縮し、余暇を楽しみ、自己実現に費やせる時間を増やせる事業とすること

 

1つ。何のための労働なのか、何のための生産活動なのか、それを明確にしながら、一人ひとりは、これまでの資本主義的生産様式で主流だった生産過程での単なる歯車的立場ではなく、生産の全工程に携わることで、生産する歓び・誇りが生まれ、労働を通じて一人ひとりが、自身で、人間的にも人格的にも発展させて行けるような事業とすること

 

1つは、生産過程そのものを民主化した生産ができるような事業とすること

それは言い換えれば、普段から、住民の間での自治と相互扶助の能力を住民自身が住民自身の手で育てられるような事業とすることである。

 その際は、あくまでも主権者である国民の意向を主にして、その意向に沿って行われること。したがってその場合、官僚や役人はあくまでも公僕に徹する。

 そこで貫かれなくてはならないことは、徹底した「透明性」と「公正性」と「公平性」である。つまり、どんな状況にあっても、隠し事はしないこと。あるいは隠し事をしなくてはならなくなるような手続きや方法は最初から取らないこと。

 

1つは、社会を維持する上で不可欠な活動をする人々を特に大切にし得る事業とすること。

  とりわけ教育、福祉、医療等に従事する人々には社会からの尊敬と感謝が向けられる事業とすること

 

 なお、これらを事業として実現する上での手続きは、概略、次のようにする。

こうした事業を計画し設計し、国家としての公式の政策とするのは、あくまでも国権の最高機関としての国会とする。

国会が、政府の官僚に頼って決めるのではなく、国会が、超党派で、独自に科学者や技術者、そして専門家を招聘しては彼らの専門知識と力を借りて、国会の中の各委員会で行う。

三権分立という原則を厳守しながら。

そして国会が、最終的に議決し、公式に国家の政策となったものを次々と執行機関である「国家の政府」に回し、そこにて、内閣の閣議で、その公式政策の執行方法を議論して決め、それは各府省庁の大臣の統括の下で、配下の官僚たちが、閣議決定された方法に従って、最高の効率を上げて忠実に執行する。

また事業のその執行過程や結果あるいは効果のすべてを細大漏らさずに、公式文書として記録する。

 つまり、ここでは、いわゆる「小さい政府」を想定しているのである(第8章を参照)。

 

 

7.2 日本という国を本物の「国家」とするために

 

 

 

 

 

 今回も、これまで未公開のままできた節を公開します。

 

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7.2 日本という国を本物の「国家」とするために

 「日本という国を本物の『国家』とする」、これは拙著の副題としても掲げた重要主題である。

では、なぜ私たち日本国民はこのことを真剣に考えねばならないか。それも、今こそ。

それは、一言で言えば、この国を本物の国家と成し得なかったなら、来たるべき人類にとっての全般的危機に直面した時、特にこの日本という国と国民は、為す術もなく、惨めな末路を迎えざるを得なくなる、と私は危惧するからだ。

その意味を具体的に言えば、例えばある国が見せかけだけの国家であって本物の国家でなかったなら、その国の国民の全体あるいは一人ひとりにとって、その生命と自由と財産の安全が脅かされる重大事が発生した時、国民がどんなに政府に、今すぐにも助けに来て欲しいと声を上げても、それは叶えられないままで終わってしまうか、叶えられても対応が遅れに遅れて、無意味に多くの生命が失われてしまった後、ということになりかねないからだ。

逆に言えば、その国が本物の国家であったなら、そういう時も対応は素早く、犠牲は最小限に抑えられるようになるからだ。

 もちろん国が国家となるとはそれだけに限らない。物事や社会的諸制度、さらには法律法的制度がその運用において、曖昧さや恣意性が排除され、あらかじめ決められた手続に従って行われるようになり、その意味において、国家とは、すべての国民にとって日常においても非常時においても、最も頼りにできるものだからである。

 そうした理由により、国家こそ、人類が歴史において生み出した、国民の安全を保障する最高傑作としての装置とされるのである。

 そして日本という国を本物の国家とすることが是非とも必要なもう1つの理由は、この日本という国は、実際のところ、見かけは国家でも、今もって本物の国家となり得た試しもなければ、今もなお国家とはなり得ていないからである。

 このことについては、私たち国民がこれまで幾たびか経験してきた、その時点では、メディアが、「前代未聞」とか「前例のない」とか「1000年に一度」といった表現をしてきた国民的大災難・大惨事の際、この国の中央政府も地方政府も、被災者に対してどういう対応の仕方をしたか、また被災者が望むどういう対応をしなかったかを思い浮かべてみてもらえば明らかではないだろうか。メディアはこの国の統治体制の真実を直視しようとはせずに、その都度「初動態勢の遅れ」という言い方をしては、この国が国家ではないという真実をごまかしてきたのである。

 ところで、これは既述もしてきたが(2.6節)、ここでも改めて国と国家の違いを明確にしておかねばならない。それは、今なお、両者は混用されるからであり、また両者は本質的に異なるものだからだ。

 両者の違いはたとえば英語で表わせばはっきりする。

国とは「nation」と表現され、国家とは「state」と表現されるからだ。

具体的には、国とは、国民、国土、共通の文化、共通の言語、宗教、気候風土、芸術、民芸、工芸、社会に深く染み込んだ慣習であって、法律には縛られない諸要素から成り立っている。また時には“あなたのお国にはどちらですか”という言い方もあることから判るように、国とは郷里、故郷という意味をも含む。そしてこれらのいずれにも共通することは、「中枢」が存在しないということだ。他方、国家は、民主主義、権利、憲法、一般法、議会、政府、司法、政治家、役人、権力、統治、法の支配、法治主義等々、法律や法的な根拠を持つ制度によって出来ている、したがって中枢の存在する統治体である。

 そして国家とは、幾度でも引用してきたように、「社会の構成分子であるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」(H.J.ラスキ「国家」p.6)、あるいは「政府を公式に代表し得て、政治的説明責任の中枢が存在する国」(カレル・ヴァン・ウオルフレン「システム」p.79)として定義される。

なお、国家という概念を正確に理解するにはこれだけではとても足りない。

その国が国家であるためには、一人ひとりの市民に代わって、あるいは市民を代表する議会によってなされた決定を実行する中枢としての統治権力の存在が不可欠となる。そうでなかったなら、国のあらゆる政治機構は、たとえそれらがあったとしてもアイデンティティの中核を持たないことになるからであり、その場合には“その国は国家ではない”、となる。

また国の中枢としての統治権力は、国の権力システムの中核ともなり、それは、国家の頭脳として国内のあらゆる政治勢力の最終的な調停者となる。

 だからこそ国家は、国の構成員であり、政治的人間でもある私たち国民一人ひとりを社会から守ることのできる、唯一の中立的存在となるのである。

 またこうした事情からも判るように、国において、必要とあればすべての市民を代表して発言する能力を持つ人物もしくは集団が存在し、その人物または集団によって代表され得る場合にも、その場合に限ってその国は国家であると言うことができるのである。例えばリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーはドイツにおけるそうした人物だった(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.250〜251。また、拙著5.3節のヴァイツゼッカー大統領演説「荒れ野の40年」(岩波ブックレットNO.55)を参照)。

 こうして、私たち国民が安心して安定した暮らしを営んでゆきたいと思ったなら、国を国のままにしておかずに、必ず国家を実現しなくてはならないのである。

 ところがこの国では、メディアの人間は言うに及ばず、政治家や政治評論家、政治ジャーナリストそして政治学者という日々政治に携わる人々でさえ、見ているとしょっちゅう国と国家を混同し、また混用する。

というより、まるで気まぐれに両者を使っているようにも見える。

 このようなことでは、この国はいつまで経っても本物の国家となり得ないのも当然と言えば当然なのだ。

 

 では、どうして、この国は上記のように定義される国家を築けないのか。

 その最大の原因は政治家にある。政治家という政治家にある。

政治家が政治家としての役割を果たさずに、既述してきたとおりの体たらくそのものの状況だからだ(2.2節)。政治家が政治家として為さねばならない最大の役割と使命は全く果たさない。

 その意味は、国会を含む議会という議会の政治家も、中央と地方の政府という政府の政治家も、共通に一言でいえば、国家を運営する、ということをしていないことだ。

 これを具体的にいえば、議会においては、日本が国全体または地方として抱えている緊急に解決させなくてはならない数多くの最大の課題の解決からは目を背け————そうした課題を公約に掲げないことをも含む————、やらなくてもいいようなこと、あるいはやってはならないことばかりやっていることだ。

やらなくてもいいこととは、例えば、税金を使ってはしょっちゅう地元に帰り、地元の行事に参加したり、地元民の冠婚葬祭に祝電や弔電を打ったりして売名行為をしたり、あるいは地元民の要望に基づいて役所に口利きをしたりすることだ。やってはならないこととは、近代西欧が歴史の中で掴み取った三権分立という政治原則を議会という場において平気で破っては、議場に行政機関である政府側の者を招き入れては、その者たちを最前列の一段と高い位置に侍らせることをなんとも思わずに、その彼らに向かって立法ならぬ、全く儀式としての質問をしていることだ。

 他方、政府においては、民主主義社会においては最高の権力を持つ議会が決定したことを官僚(役人)たちをコントロールしながら執行して統治に当たるという役割を果たさないことだ。果たさないどころか、むしろ選挙で当選した時に主権者から付託された公約を実現するための権力を「国民のシモベ」でしかない官僚たちに丸投げしては、政策案を含む法案や予算案の作成を官僚たちに放任し、彼らに追随して操り人形と化していることだ。

 なぜ彼ら総理大臣や各府省の大臣が官僚たちの操り人形と断定的に言えるか。

その根拠は少なくとも3つはある。

1つは、メディアの前で、ということは国民の前で、何かを語るときには、決まってと言っていいほどに、目線を下に落として官僚の書いた文章を読んでいるだけで、自分の言葉では語れていないことだ。もう1つは、これは彼らの発言の仕方とその時の文言に注意して聞いていただければ判るとは思うのであるが、必ずと言っていいほどに、最後の締めくくり方を「・・・・・と思います」としていることだ。ここにあるのは「願望」だけで、それが実現されるかどうかは自分でも判断できないとする、自分の発言に責任を持とうともしない姿だ。

 ではなぜこういう言い方になるのか。それは、結局のところ、総理大臣も、各大臣も自分の役割や使命が本当は判っていないからだ。すなわち、本来、総理大臣も各府省庁の大臣も、主権者である国民から選挙で選ばれた国民の代表であり、一方、官僚は国民の代表ではなく、むしろ憲法第15条が明記するように、国民に仕えるべきとされる「国民のシモベ」なのであるから、その主従関係を考えれば、国家の運営にあたっては総理大臣も各府省庁の大臣も次のように動かなければならないということが本当は判ってはいないのだ。

それは、まず総理大臣が執行府の長として閣僚全員に対して、実現させるべき事柄と期限と目的を含む戦略を明示して指揮する。次に、総理大臣に任命され役割と使命を与えられた各府省庁の大臣は、その指示された戦略に基づいて、各府省庁の大臣は、互いの垣根を取り払って互いに連携しながら各府省庁として担うべき内容を戦術として互いに確認し合いながら、各大臣は自分の配下の全官僚に対して、例えば、こう指示あるいは命令を発するのだ。

“総理大臣はこういう方針を国民に示し、こう言っている。したがって、当府省庁としては、あなた方には、いつまでに、コレコレしかじかのことを、確実に実現あるいは達成してもらいたい。ただしその際、執行方法について建設的な意見や考え方がある者は、いつでも私に言ってもらいたい。それについては前向きに考慮する”と。ただしその場合、もちろん各大臣は、その後も、自分が指示命令を発した通りに官僚たちが動いているかをも、国民に代わって絶えずチェックし続けていかなくてはならないのである。そしてその過程で、国民が疑問に思ったり疑惑を感じたりした場合には、各大臣は配下の官僚たちには、国民に向かって、“自分たちが、今、これをしているのは、こういう理由により、こういう目的のためである。またあれをしないのは、こうした理由のためである”と、国民が納得するよう説明責任をも果たせ、とも指示しコントロールしなくてはならないのである。

 ところが、実際には、総理大臣も、閣僚も、官僚たちに対してこうした姿勢を政府内で貫き通す勇気も決意も、また政治的知識もない。

結局のところ、国民を裏切ってまでし、また民主主義をも裏切ってまでして、国民から負託された委譲することが許されない権力を官僚たちに丸投げし、彼らの言うことに従った方が楽だとして、決まって “・・・・・・・、と思います”といった無責任な言い方しかできないのだ、と私は推察する。

 そして3つ目は、ある一つのテーマについて、各府省庁の大臣の言うことが微妙に異なったり、全くバラバラであったりすることだ。そうなるのは、この国の政府の各府省庁の関係は「縦割り」となっていて、互いに横の連絡もなく全くバラバラだからだ。それぞれの府省庁に属する官僚たちは、専管範囲の産業界に対して権力拡大と「天下り」先の確保を含めた既得権益の維持にしか関心がない。そうなれば、官僚たちが表向きの大臣にメッセンジャーとして語らせる内容は必然的に他の府省庁の大臣の発言内容とは異なるのである。

 

 なお、政治家たちが予算案づくりを官僚に放任してしまうことについては、実際のところ、民主主義を標榜している先進工業国で、政府が使う金の額とその入手方法が、選挙で選ばれていない官僚たちによってすべて決定されているような国は、日本以外どこにもない。それ以外の国はどこでも、これらは選挙で選ばれた政治家によって、少なくとも大部分、決められているのだからだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「システム」p.238)。

それだけではない。国民から選ばれた主権者の代表としての政治家としては決してさせてはならないこととして、配下の官僚たちが本来彼らには与えられてはいない権力を闇で行使したり、法に基づかない権力を恣意的に行使したりしていることを、知って知らない振りをし、見て見ぬ振りをしていることだ。その結果、この日本という国を未だ民主主義の実現し得ない、官僚独裁の国にしていることだ。(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.280)。

 政治家という政治家がこんな体たらく状態なのだから、この国にはドイツにおけるヴァイツゼッカーのような人物ももちろんいるわけもない。そしてこれでは、この日本という国を統治体制の整った国家とすることなど夢のまた夢とならざるを得ないのである。

 

 ところで、ではなぜ政府の政治家は役人をコントロールすることが義務となるか。

 そのことは例えば、次のような比喩を考えれば判りやすいのではないだろうか。

大きく立派な館の主人に仕える「執事」とも呼ばれる「シモベ」は、常に主人の指示を受けながらそれを自分の務めとして果たすことで、大きな館の人々は、混乱もなく、安定した日々を送れるのである。もし、執事が自ら、為すべきことを自分で判断して動いたならどうなるか。たちまち館内での主従関係は崩れ、館内の秩序は乱れて、大混乱に陥ってしまう。

 政治家と役人との関係もこれと同じである。

政治家は、国家の主権者=主人公である国民から選挙によって選ばれた主権者の政治的代表あるいは政治的代理であり、それに対して役人は、国民から選ばれた国民の代表ではなく、官吏すなわち役人としての適性を試される試験(公務員試験)に合格した人々であり、それだけに、役人は、国家の主権者=主人公に仕える「シモベ」でしかないのであるからである。

ただし、間接民主制のもとでは、政治家が主権者の代理であるからして、役人は常に政治家の指示とコントロールの下で公務を行わなくてはならないのである。

もちろんその場合、シモベとは、身分や階級を意味するものではなくシモベとしての使命を使命として負った立場を意味するものでしかない。

 だが、国家においては、この関係は厳格に維持されねばならないのだ。

なぜなら、そうでなかったなら、民主制は崩れ、統治の体制は保てなくなり、国は国家として機能し得なくなるからである。そうなれば、特にイザッ大惨事という国難のとき、政府は国民を救済するどころか大混乱に陥って無政府状態、つまり統治の利かない状態となり、却って危機を一層深めてしまうからだ。

 

 では、私たち国民は、主権者として、どうしたら政治家に対して、これまでの官僚独裁を撤廃させて民主政治を実現し、またそれを維持するために、国民の代表として官僚(役人)に指示を与えてコントロールするという重要な使命を認識させ、果たさせることができるようになるのだろうか。

 これも結論的に言えば、民主主義の精神を骨肉とした本物の政治家の卵を、私たち国民があらゆる機会を通じて育て、その彼らを選挙という機会を通じて、私たち国民の政治的代表として公正かつ厳正に選んで議会に送り出すこと、それがそのための基本方針となるであろう、と私は考える。

 ではそのためには、私たち国民はどうしたらいいか。

以下も、私の考えるものである。

① そのためには、まず私たち国民一人ひとりが、主権者としての自覚を持ち、その上で、単なる言葉だけではない本物の「市民」となることではないか。

 ここで、主権者とは、繰り返すが、「国家の政治のあり方を最終的に決定しうる権利を所持する者」のこと(広辞苑第六版)。市民とは、例えば◯◯◯市の住民という意味でのものでは全くなく、「社会を自分たちの共同体として捉え、その上で、責任あるジャーナリズムの助けを借りて、自分たちの共同体の未来は誰に依存するわけでもなく自分たちで築き、その運命も自分たちが引き受けるとの決意の下、『法の支配』という政治原則に基づいて、権力保持者たちの権力行使の仕方を絶えず監視することを自らの義務と責任と自覚し得た政治的主体」のこと。

② 次には、国民一人ひとりがその本物の市民となって、現行の「小選挙区比例代表並立制」という選挙制度を一度完全に撤廃し、次の3つの理由に基づいて、冒頭に記した基本方針に合致する「本物の政治家」を生み育てられる選挙制度に根本的に改めることであろう(拙著の第9章を参照)。

1つは、現行の選挙制度は、その実態は単なる数合わせでしかなく、大量の死票を出してしまい、しかもほんの2割強程度の得票率でも政権が取れてしまうような、形だけで儀式でしかない選挙制度であること。1つは、しかもその現行制度は、本物の政治家を選ぶために一票を投じるというのではなく、候補者の印象や地元に中央からどれだけカネを持ってくるか、特定のグループや個人に「口利き」など、どれだけ便宜を図ってくれるかといったことが主たる投票行動の基準となってしまうような選挙制度であること。1つは、これは特に最も長く政権を執ってきた自民党の政治家に多く見られることであるが、たとえ当選しても、野党とは違って公約を実現しやすい立場にいながら、選挙時から掲げてきた自らの公約を議会にて立法して約束を果たすといったことなど一切せずに、むしろ週末のたびに税金をつかって地元に帰っては、地元の行事に顔を出したり、支持者の冠婚葬祭に祝電や弔電を送ったり、支持者の集まりに顔を出すといった次期選挙対策ばかりしていても次期選挙ではまた当選してしまうような、まるで税金泥棒としか言いようのない輩しか生まないような選挙制度であること。

③ 次には、直近の総選挙そして同じく直近の参議院選挙に向けて、国民一人ひとりが、市民となって、②で言う「本物の政治家」を生み育てられる選挙制度を実現してくれる候補者をあらゆる機会を捉えて育てることであろう。

④ そしてその総選挙あるいは参議院選挙の際には、私たち国民は、もはやかつて拘ったかもしれない自己エゴや地域エゴを捨てて、今度は市民となって、立候補者にこう尋ね、確かめるのである。

“あなたが政治家になった時、②で言う「本物の政治家」を生み育てられる新しい選挙制度の実現を含めて、議会においても政府においても、以下に列挙した、この国を真の民主主義の実現した本物の国家とするための行動をしてくれると約束してくれれば、あなたに一票を入れますよ!”

それは、例えば、

1つは、政治家になったなら、政治行政のあらゆる面で役人をコントロールすること

1つは、政治家になったなら、議会では、「三権分立」を厳守し、政府の者に質問することはせず、与野党間の政治家同士で議論して「立法」すること。

1つは、行政組織間の「縦割り」を撤廃させ、各府省庁間の横の連絡や風通しを良くすること

1つは、「法の支配」を無視し、民主主義的な意思決定手続き偽装をする「審議会制度」を撤廃すること

1つは、閣議の内容を、事務次官会議からの提案によるのではなく、あくまでも議会の議決内容についての執行方法を議論する場にさせること

1つは、そうした幾多の抜本的な改革に対して、官僚の組織的な抵抗が必ず予想されるが、それに対しては、憲法第15条の第1項を大胆に適用すること

⑤ 上記のいずれかを公約として掲げ、そしてそれが国民に支持されて当選した政治家に対しては、あるいはそれを公約(マニフェスト)として掲げて政権を執った政党に対しては、私たちは主権者として、またそうした政治家や政党を支持した者として、過去、この国の官僚たちが特定の政治家や特定の政党に対して実際にやった妨害事例を教訓として、公約を守ろうとする政治家ないしは政権は、何としても励まし支え、彼らの執行を助け通すことである。

 ここに言う官僚たちの妨害事例とは、例えば、「行政改革」が叫ばれたとき、既得権を失いたくないとして変革を嫌うのを本性とする官僚たちによってその行革が骨抜きにされたことであり、官僚主導を撤廃して政治主導を実現しようとする小沢一郎政治資金規正法違反疑惑を検察庁の官僚らにでっち上げられて逮捕されたこと、また「政治主導」や「沖縄の米軍基地をせめて県外へ移転する」をその一部とするマニフェストを掲げ、それが国民から圧倒的に支持されて政権をとった民主党が、そのマニフェストを約束どおり実行しようとした初代総理大臣鳩山由紀夫に対して、外務省官僚や防衛省官僚らが既存のエスタブリッシュメントやメディアをも動員して妨害し、そのため鳩山は辞任を余儀なくされてしまったこと、などを指す。

 また私たち国民は、官僚らがそうした動きに出てきたときには、まさに主権者であり市民となって、本来公務員すなわち「国民のシモベ」である官僚のその妨害行為は民主主義議会制度からは絶対に許されない行為であるし、国を乱す者という意味での「国賊」行為でもあり、さらには、もし然るべき法律があるのなら、それは「国家反逆罪」にも当たる行為だとして、公然と官僚らに抗議し、立ちはだかるべきなのだ。もちろん政治ジャーナリズムも一緒にである。

 そしてさらに、私たち国民は、やはり主権者として、政府の内閣あるいは総理大臣を含む閣僚全員に対して、次のことを明確に訴えるべきなのだ。

————サボタージュを含むそうした妨害行為に出る官僚に対しては、「公務員のストライキを禁止する法」を準用しつつ、主権者の代表として、日本国憲法第15条の第1項を躊躇なく適用して罷免するべきだ、と。

 私たち有権者は、“投票所に行って投票すれば終わり”では決してない。むしろ投票してからが、市民としての義務と責任が重くのしかかってくるのだ。

7.3 社会(≠国家)が「安定」しているとはどういうことか

 今回も、これまで、未公開のままできた節について、公開します。

 

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7.3 社会(≠国家)が「安定」しているとはどういうことか

 政治家、とくに安倍晋三などは“平和と安定”とか、“政治の安定”いう言葉を決まり文句のようによく使う。

しかし彼は、その「安定」とはどういうことを意味するのかということについては、一切説明したことはない。ただ抽象的に言っているだけだ。

それだけにそれを聞かされる私たち国民の側にはとってはその意味がはっきりせず、「なんとなく」といった程度にしか理解できない。具体的にはどういうことなのかよく判らない。そしてよく判らなければ、安倍晋三の言ったことが国民に正確に伝わったことにはならない。

 しかしこのことは何も安倍晋三と国民との関係に限ったことではない。全ての政治家と国民との関係において言えることだ。

 ただ、何れにしても、こうした言動から、安倍は、それ以上のことは考えていないことがよく判る。というより、彼はTVカメラの前でも、国会答弁でも、原稿を見てペラペラよくしゃべるが、それだけに、発せられるどの言葉も軽く、聞いていて心に残る言葉、心にしみいる言葉、尤もだと納得させられる言葉というものは全くといってない。つまり言葉というものをつねに最も大切にしなくてはならない政治家が、そういう言葉しか語れないというのは、人間そのものが軽いのだ、と言っていいように私は思う。

 ところで、ではその安定についてであるが、国家についてではなく、社会が安定しているとはどういうことであろう。

私たちは、とくにこれからは、おぼろげながらも、そうした社会を目ざす必要があると考えられるのであるが、ここでは、そのことの意味をはっきりと考えてみようと思う。

 振り返ってみると、私たちは「安心」とか「安全」とかいう言葉はよく使う。

たとえば、安心については、“安心できる食べ物が欲しい”、“地震が来ても倒れない家であれば安心だ”、“あの人がいると安心だ”、といった具合に。

安心とは、その言葉の中に「心」が含まれていることから、人間の心理状態や心情に関して言う言葉なのであろうが、果して人のどういう心の状態を言うのかとなると、辞書には「心配・不安がなく、心が安らぐこと」、とあるだけだ。

 また安全については、“食べ物は安全であって欲しい”。あるいは“交通規則が守られないと安全が確保されない”、あるいは“日米安全保障条約”、というように用いられる。

辞書的な意味としては、安全とは、「安らかで、危険のないこと。物事が損傷したり、危害を受けたりするおそれのないこと」、とある。

 しかし、言葉の意味を知ることだけが目的ならそれでもいいだろうが、現実の暮らしの中で、あるいは現実の社会において、人々が安心して日々の暮らしを維持できる社会を築くための制度や政策を設けようとするような場合にはそれでは不十分だ。安全についても同様だ。

なぜなら、その説明だけでは、では具体的にはそれを実現する制度や政策はどのように考えて設ければいいのか、としたときにはほとんど役には立たないからだ。

 そこで私は、「安心」という心の状態を、辞書的なレベルの説明を超えて、こう考えるのである。

「自分が何者で、その自分は、いつ、どこから、どのようにやって来て、今どこにいるのか、そしてこれから自分はどこに向おうとしているのか、あるいはどこに向えばいいのか、を自分で明確に認識でき、しかも、そうした自分をしっかりとつなぎ止めてくれるものがそこにあると確信できるときに、自分の中に生まれる心の有りようのこと」

 ここで言う「つなぎ止める」とは、ただ単に空間的にだけではなく、また時間的にだけでもなく、精神的にも、である。また、「どこから」「どのようにやって来て」についても、「今どこにいるのか」についても、空間的な位置だけではなく、時間的な流れ、つまり歴史の流れの中での位置をも含める。

 だから、上記のように説明される心の有り様を、社会を構成する人々が共通に持てるような社会が実現されたならば、その社会こそが、人々に「安心」をもたらす社会、人々が安心を感じられる社会、ということになるのではないだろうか。

 一方、「安全」については、辞書的なレベルの説明を超えて、私はこう考えたい。

「そこにはそれがあるべきと自分が思う物がそこにそのとおりに備えられていたり、あるいはそうあるべきと自分が思う状態がそこに備わっていることにより、自分の身体も心も傷つけられたり危害を受けたりすることはないと確信できる状態にあること」

 そしてこの場合も、上記のように説明される心の有り様を、社会を構成する人々が共通に持てるような社会が実現されたならば、その社会こそが、人々にとって「安全」と感じられる社会、ということになるのではないだろうか。

 しかし、安心をもたらす社会とは、人々が安全と感じられる社会とはどういう社会か、ということを問題とするだけならそれでいいが、本節で問題としているのは、「社会が安定している」とはどういうことか、なのである。

 

 ではそれはどう考えたらいいか。

この場合も、安定については、たとえば、“最近は気候が安定していない”、“物価が安定していてもらわないと困る”、等々と使う。

しかし、「安心」や「安全」の場合と同様に、この場合も、現実の暮らしの中で、あるいは現実の社会において、「安定」とはどういうことか、そして社会が具体的には何がどうあることなのかとなると、辞書的な意味だけではやはりとても足りないし、それでは大して役にも立たない。

 ともかく辞書的には、安定とは、「物事が落ち着いていて、激しい変化のないこと」、とくに物理的には、「物体の釣り合いや運動の状態が、わずかな乱れを(その物体の内外から)与えられた時に、元の状態に戻ろうとする性質を持つこと」と説明され、化学的には、「物質が分解・反応・壊変しにくいこと」と説明される(広辞苑第六版)。

 このことから判ることは、安定とは、これまでの安心や安全といった心の状態とは違って、物事や物体あるいは物質の状態・有り様について説明する語だということだ。

つまり、「安定」という概念は、そのモノの外部から、あるいは内部に、何らかの力や撹乱が働いた時に、そのモノ自身が内部に持っている性質に基づいて、あるいは周囲との関係において、元あった状態に戻ろうとする性質の有無について言うものらしい、ということが判る。

 では、社会が安定しているとは、もう少し具体的にいうと、どのような状態のことと考えられるか。

その場合、いつでも注意しなくてはならないことは、あるいはどんな場合もつねに言えることは、元あった状態に戻ろうとすることあるいはそうなろうとする性質をもって「安定」とは言っても、既述の《エントロピー発生の原理》が教えてくれているように(第4章)、一般には、そして厳密には、自然(現象)あるいは社会(現象)はつねに不可逆だということである。

だから、元あった状態に戻るのではなく、戻ろうとするだけのこと、あるいは元あった状態を維持しようとすることで、厳密にはこう言い換える必要がある。

どんな物事や物体あるいは物質の状態も、あるいはどんな自然や社会の状態も、その内外から作用が働けば、その作用の大小に無関係に、その物事や物体や物質、また自然や社会の状態も、厳密に言えばその内部での状態を必ず変え、性質をも変化させ、そしてその間にエントロピーは必ず発生するため、元の物質や状態に戻ろうとすることはあっても、完全に戻ることはなくなる、と。

 こう考えると、このことは、とくに政治家が「社会の安定」を口にするとき、つねに念頭におかねばならないことだと私は考える。

何故ならば、いつでも、いい意味で、あるいはいつでも、健全な意味で社会は進歩し発展して行くことを願う私たち国民としては、安定という言葉や概念は、本当は用いるに相応しくないものだとなるからだ。

 したがって、このような場合、用いるべき言葉は「社会の安定」ではなく、「社会の進歩」となるべきであろう。

 ところで、官僚、あるいは一般にテクノクラートと呼ばれる人々、さらには自民党政治家や政府の官僚、それに経団連や日経連などの主要経済団体の官僚といった権力保持者は、現状維持をつねに望むものだ。

そもそも官僚主義とは、全体の運営に関する重要な問いはもうすべて出揃っているという前提から出発し、現状を固守するために、既存の政策を細かくモニターし、調整することこそ、良き統治の要諦だと信じている人々のものの考え方であり生き方のことだ。

つまり、様々な事情や状況の変化を踏まえた分別ある判断に拠ってではなく、確立された公式———その中には「マニュアル」、「前例」等も含まれる———を適用することによって意思決定が行われ、手順がつくられて行く。

したがって、組織の官僚主義化が進むと、往々にして当初の目的が忘れられ、目的の本来の存在理由が見失われる。つまり官僚主義的な組織は、時間が経てば経つほど、走ること自体を目的に走るマシーンに似て来る(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.157)。

 このことから判るように、社会の安定は、官僚ないしはテクノクラートといった権力保持者にとってこそ願ってもない状態だし、「社会の安定」なる言葉は彼らにとって大歓迎の言葉なのだ。というより、「社会の不安定化」は彼等官僚にとっては恐怖だし、「安定」とか「秩序」が保たれることこそ彼らにとっては強迫観念なのだ。

 かつての悪名高き「治安維持法」も、そしてこのほど安倍晋三政権の下で強行可決成立させた憲法違反の「共謀罪」も、根っこは共通にこの強迫観念に拠ると見ていいのではないか、と私は思う。

 そういう意味で、もはや政治家は、少なくとも国民の利益を代表しているという自覚があるのなら、そしてこの国と国民の真の進歩と発展を図ろうとするなら、「安心」や「安全」はともかく、「安定」という用語は不用意に用いるべきではなく、むしろ「変化」や「変革」に力点を置いた「社会の進歩」なる表現を用いるべきなのではないか、と私は考える。

なぜなら、今言ったように、安定は進歩や発展を押さえ込んでしまう概念だからだ。

 

 これまで私の拙著では、私たち日本国民に限らず、人間にとっての最高の価値は「幸せ」であろうと前提しつつ(4.3節)、今私たち日本国民が暮らしているこの社会はその価値観を満たしうる社会となっているかという問題意識の下に、そのような社会の実現を目指して、私の考えられる限り、より根源的立場から、どうすればそうした社会の実現は可能となるかと、考察を進めてきた。

今、ここで「安心」や「安全」について考察してきたことも、上記問題意識の流れに基づくものである。

 しかし、残念ながら、私たちの国日本の社会は、いっときは「世界の経済超大国」とはなっても、国民がおしなべて「幸せ」を実感できる社会になり得たとは到底言い難い。「世界の経済超大国」となった時でさえも、である。

 それは、既に記してきたように、第1には、国民の代表であるはずの政治家という政治家が無責任・無能・無策・無知・怠惰であるがゆえにであり、第2に、本来だったらその政治家によって公務をコントロールされるべき「全体の奉仕者」=「公僕」たる官僚(役人)たちは、政治家たちのその自国民に対する不忠をいいことにして、明治期から受け継がれてきた狡猾・非情・冷酷という組織の記憶の下に、国民の「幸せ」などそっちのけにして、所属府省庁の既得権の維持と拡大のためのみに、恣意と専横と独善をほしいままにし続けているからだ、とほぼ断定できる。

 それだけではない。歴史的にも、私たち日本国民は、どこからどのような経路を経て今の「日本国」の地理的位置にやって来て、いつ、その「日本国」ができて「日本人」となったのかも政府からも知らされず、また学校でも教えられず、しかも今、「日本国」や「日本国民」は歴史の流れの中のどこにいるのかも知らされてもいないし、政治的にも経済的にも世界の中でどういう位置を占めているのか、そしてこれから「日本国」や「日本国民」はどこへ行こうとしているのか、それも教えられてはいないからだ。

 そこでは、私たち国民は、いつも官僚からはウソばかり教えられ、ウソの歴史観を身に付けさせられてきた。だから、国民のほとんどが、正しい歴史認識と自己認識を持てず、自身のアイデンティティも持てず、自分の原点、民族としての根源を見出せなくなっている。つまり自分を掴めないままただ漂流しているのである。

そして私たち国民自身も本音と建前を使い分け、嘘の説明をお互いがみんなで受け入れる社会を作って来てしまったために、信じられる確たるものを未だ見出せないままなのだ。

そこに、安心や、安全など、感じられるはずはない。

 

 安心も安全も感じられなくなっている理由はさらにある。

人間にとっての人格形成の最も重要な時期に、「何のために生きるのか」、あるいは「生きる意義と目的とは何か」をきちんと教えられることなく、「個性」も「能力」も「自由」も尊重されることなく、それらを「考える」余裕すらも与えられず、ひたすら「画一化」という土俵の上で「記憶した知識の量」を確かめるためだけの「競争」を強いられて教育されてきてしまったことだ。

 そこでは、とにかく、秩序の前にまず正義が大事とは教えられなかった。対立したり闘ったなら「自分が損だから」と教えられ、不条理と感じても自分の意見や思いを訴えることは「波風を立てて和を乱すことだ」と教えられてきた。真実を問い、本音で議論することを一人ひとりが避けては自己規制するようにも教えられて来た。

 その結果、互いに人間として深く理解し合うこともなく、常にうわべだけ。だから人間相互の深い信頼関係も築けずに、「社会の進歩」を目指してみんなで一致協力し合うこともできず、内外からの撹乱に耐えうる確固たる社会共同体も作れないままで来てしまっている。

 そこで言う本物の社会共同体とは、お互いが多様で自由であることを当然のごとくに認め合え、しかし誠実を尊び、互いに信頼し合え、助け合え、不条理に対してはいつでみんなで立ち向かうことができ、また周囲もそれに連帯して協力し理解し合え、困難や難問をみんなで解決して行ける社会のことだ。つまり思いやりや共感に包まれた社会のことだ。

 

 私たち日本国民の圧倒的多数は、今や、この国のこの社会に対して、次のような実感を持っているのではないか。

 ————ひとたび社会的弱者になれば、それまでの「豊かさ感」などは一瞬にして吹っ飛び、放置されたままになって落伍者にされてしまう社会。それに、税金を納める義務を果たしても、それは一向に報いられず、実質的にはほとんど全てを自分で対処して行かねばならない社会。そのために、言いたいことも我慢し、ひたすら万一に備えて今をきり詰めなくてはならない社会。

 私は、外からどのような揺さぶりを掛けられようとも、また外からどのような力や撹乱が降り掛かって来ようと、また内部ではどんなに多様な意見が出て来てそれらの間に対立が生じようとも、それで根幹や屋台骨が揺さぶられてしまって、全体が「安心」を失ったり「安全」を失ったりすることなど決してない社会のありようとは何か、を本書の中で具体的に模索し続けたいと思っている。

10.6 文部科学省を廃止する

 今回は、今まで公開してきた章のうちで、未公開のままにしてきた節のいくつかを発信してゆこうと思います。
それが拙著「持続可能な未来、こう築く」の中のどの部分に当たるかということについては、2020年8月3日に公開した同著の「目次」をご覧いただきたいと思います。

 

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10.6 文部科学省を廃止する

 なぜ文部科学省を廃止するのか。

その理由を一言で言えば、本章の各節で述べてきたことからも判っていただけるのではないかと思うのであるが、この省庁は、もはや存在すること自体、日本国と日本国民にとって、百害あって一益もないからである。

それに、この省庁でも、他省庁と同様に、官僚が閣僚を操って実質的に教育行政を主導しているのだろうが、その官僚自身、私が彼らの言動を長く観察した結果から推測するに、そもそも教育とは何か、子供たちに何をどう教えることなのかということが、口には出せないが、実際には皆目判らなくなっているのではないか、とさえ思う。それだけではない、国を成り立たせ、社会を成り立たせ、国民一人ひとりが自信と誇りを持って暮らせるようになるにも、全ては教育から始まるということも判ってはいないのではないか、とも思う。

それは、教育の根本や究極の目的は既述してきたように(10.3節)、科学技術は進歩し、社会は変化しても、人間そのものや人間の本性は例えばクレオパトラの時代からだってそう変わっていないのだから、100年前であろうと1000年前であろうと不変のはずなのに、この国の文部科学行政は朝令暮改そのもので、例えば小学校に英会話を導入してみたり、パソコンを導入してみたり、また大学共通試験の内容を変えてみたりと、その時の世の中の情勢に左右されてしまって、猫の目のようにクルクル変わることから判る。かつてはこの国でも「教育は、国家百年の計」などと言われたものだが、それも今は遠い昔のことだ————後述するイスラエルの教育の基本は、2000年以上にわたって今だに不変だという(M.トケイヤー著 箱崎総一訳「日本人は死んだ」日新報道出版部p.172)————。

その結果、この国では、学校は出ても、それがたとえ大学であっても、人間性はほとんど磨かれないし深められもしない。それどころか「同調圧力」とやらによって主体性を自ら押さえ込んでしまう。結果、「私」というものを持てないから、あるいは「個としての自分」を確立できないから一匹狼になることもできず、むしろ集団の中に埋没しないではいられなくなってしまう。こうしていつも、心のどこかで、誰かと繋がっていないではいられなくなってしまう。だから、孤立に耐えられるだけの強靭さは一向に育たない。

 もちろんそうしたところでは、独創など生まれることも育つこともないはずだ。

なぜなら、独創とは、「独」の文字が付く通り、誰も考えたことのないことを、誰も考えようともしていないことを、誰が見ているわけではない中で、たった一人、絶えず考え、思考を深めてゆく先に生まれるものだし、その中で育つものだからだ。

 この国の大学入学者のパーセンテージは世界も認めるように、非常に高いものがある。ところが、日本のノーベル賞受賞者のパーセンテージはとなると、受賞者が発表されるとそれこそ日本中が歓びに沸き返るが、実は、既述してきたように、人口あたりに換算すると非常に低い位置に留まっているのである(10.2節)。それも、これからの日本では、これまでの文科省教育とその行政の下では受賞者はいなくなるのでは、とさえ世界でささやかれている。

 しかし、2000年以上教育の根本方針を変えてはいないとされるユダヤ人は、10.2節での表はあくまでも国別なために現れていないが、民族としてみたならば、歴史上、ユダヤ民族の数に比してノーベル賞受賞者数は最も高いパーセンテージを占めているのである。それも、並みの天才ではない、ご存知、フロイトマルクスアインシュタインといった、世界中に影響をもたらし、世界を動かすほどの天才が次々と輩出している。

 翻って、日本はどうか。このような世界を動かすほどの受賞者はどれほどいたであろう。世界を動かすほどの独創はどれだけあったろう。

 こうなるもの至極必然なのだ。

 ともかく、イジメ、そしてそれによる自殺、不登校、引きこもり、そしてこれらの数の多さとそれが年々記録を作っているという事実、さらには“誰でもいいから殺したかった”とか、“人を巻き添えにして死にたかった”という事件も益々増えている日本。

栄養失調や伝染病で死んでゆく子供達は世界にたくさんいるが、子供や若者がこのような死に方をする国は世界の他にあるだろうか。異常すぎる。

こんな状態を続けるのも、根本を辿れば文部省及び文部科学省が原因を作ってきたのである。

 しかもこうした事件に対して、起こる度に、対処法は決まってその場限りのものだ。政府文科省の官僚も、官僚に引きずられる大臣も、またこの国の教育関係の専門家も、決して根本の原因を除去しようとはしない。

 したがって、この国がこのまま文部科学省の学校教育を続けていったなら、日本人および日本国は国力を低下させるどころか世界の中で衰亡してしまい、日本人はバラバラになってしまうのではないか、とさえ私は危惧する。

 なおここで言う「日本人」とは、歴史学者の言う「日本国籍所有者という意味以外では、日本人なんてものは、ない」(森巣博「無境界家族」集英社 p.212。なおこれは網野善彦「『日本』とは何か」講談社学術文庫p.320に拠る)という意味での日本人である。

 

 そこでその廃止論をより鮮明に根拠づけるために、今日の文科省の前身である文部省誕生以降の歴史的経緯について見てみる。

 以下の展開については、7.1節および2.5節とも対応させながら読み進めていただければより判りやすいと思います。

 文部省が設置されたのは、1871年(明治4年)である。初代文部大臣は薩摩藩士の森有礼だった———以下、文部省設置とその方向を定める上で関わった官僚は、すべて薩摩と長州の下級藩士からなる官僚とみなすことができる、と私は思う———。

 なお以下は、その大部分が、山住正己「文部省廃止論」———教育・文化の自立のため———(『世界』主要論文選の中の1論文。p.900 岩波書店)による。

 文部省の最初の大仕事は学校制度(学制)を整えることだったが、そこでは既に、政府(官僚)は、教育について強力な中央集権を目ざしていた。そして森有礼の下、当時高まりつつあった自由民権運動を抑圧し、富国強兵策を推進するためにも、統制を強め、教科書検定制を採用した。

 この時期に文部省の性格を形作ったのは、教育立法について勅令主義を登場させたことである———それをしたのは、既述して来たように、寡頭政治家たちの後を引き継いだ明治薩長政権の官僚たちである。彼らは自分たちの政権には正統性がないことを自覚していたのであるが、その事実を覆い隠すためと、自分たちが黒子となって天皇を裏で動かすことによって、自分たちの政権のしようとしていることを国民の前に正当化するためであった、と考えられる———。

 勅令とは、議会の「承認」ではなく協賛を経ずに天皇の大権によって発せられる命令のこと。この勅令によって、すべての学校のあり方を、文部省は、天皇の大権に拠って規定しようとしたのである。言い換えれば、当時の薩長政権の官僚がこの勅令主義を発案したことにより、自分たち政府(文部省)で教育全般を思いのままに左右できる道を開いたことを意味する。

 そしてそのとき見逃してならないことは、この勅令主義の根底には、薩長政権の官僚の、国民大衆への不信と蔑視があり、そうした見方から由来する国会軽視、すなわち民主主義軽視があったことだ。

 そしてもう1つ、文部省の中央集権の行政機構を成り立たせ、教育現場の隅々までを統制下に置こうとする野心を成立させて来たものに、形の上では文部大臣の諮問機関とされる審議会がある。たとえば、教科用図書検定調査審議会、教育刷新審議会、中央教育審議会がそれだ。

 文部省関係のこうした諮問委員会は、1896(明治29)年に設置された高等教育会議が最初である。しかしそこでの委員はいずれも文部大臣の任命に拠る者であった。

 こうした諮問委員会は敗戦に至るまで、ずっと何らかの諮問委員会が設けられ続けて来たが、それらはすべて、政府の、というより文部省の政策を先取りするものであり、教育の民主化を目ざすものではなかった———実際、大臣の諮問機関とされた委員会とは言っても、その委員は、先ずは文部省の担当官僚が委員候補を人選ないしは推薦するわけで、その推薦した者を大臣が形式的に任命するということであって、実質的には、官僚が任命したようなものであり、文部省として着手しようとする政策に賛同してくれて、それを答申してくれそうな官僚にとって好都合な人物だけが委員となれた、ということである————。

つまり、審議会とは、一見、有識者の意見を聞き、各界の代表者の声を聞いて、それをまとめて大臣に答申する、民主的な委員会のようには見せているが、実態は、文部省の官僚がしたい政策を、担当官僚が委員会を座長を通じて牛耳る中で、答申してくれるよう誘導するだけの、いわば文部官僚の「隠れ蓑」なのである————なお、審議会のそうした「隠れ蓑」的な特性は、文部省の審議会に限らず、その後政府内に作られる全ての審議会について共通である。そしてそれは、戦後から今日に至っても変わらない————。

 戦後、文部省は、文部省設置法に拠り、新たな出発をすることになった(1949年)。

その設置法第4条「文部省の任務」の一つにはこうあった。

「民主教育の体系を確立するための最低基準に関する法令案、その他教育の向上および普及に必要な法令案を作成すること」 

 ここでは「民主教育」という言葉さえ用いていることに注目したい。

しかしわずかその三年後の講和条約発効の年(1952年)、文部省設置法は大改訂が行われ、

「民主教育」の語を含んでいた条項は削除され、文部省の任務は簡潔に次のように規定されることとなった。

「文部省は、学校教育、社会教育、学術および文化の振興および普及を図ることを任務とし、これらの事項および宗教に関する国の行政事務を一体的に遂行する責任を負う機関とする。」

 なお、文部省の体質と能力———それはそのまま文部科学省に引き継がれることになるのでもあるが———についても一言触れると、既にこれまでの文脈からも明らかなように、また文部省が設置された当時の動機からしても明らかなように、文部省の官僚は、人間としての基本的権利、つまり基本的人権が絡んだ問題日本の真実の歴史に関する問題、そして秩序よりも正義が問われる問題には、自身で判断する能力はもちろん決断する能力もない、ということだ。その類いの問題に直面した際には、ただ問題を先送りし続けるか、世界のどこかを真似るしかなかった。その姿勢は今も変わってはいない。

 だからたとえば、基本的人権が絡んだ問題として、イジメや虐待の絡んだ問題、男女の平等権の絡んだ問題、そして今後ますます重大な問題となると予想される同性婚の問題、性的マイノリティの人権に関する問題、外国人をも含む労働者の人権問題———これは厚生労働省にも関わりを持つが、同省の対応能力も、同じ官僚が対応するのだから、文科省と大同小異だ———、そして移民や難民の受け入れと彼らへの人間的対応の仕方の問題等があるが、それらについては、文部省、そして今日の文科省の官僚は、自身で判断する能力も決断する能力もなく、その類の問題は先送りし続けるか、世界のどこかを真似て対処するしかないのである。

 また日本の真実の歴史に関する問題としては、例えば「日本国」建国の真実の時期の問題、日本人というのはそもそもあるのかという問題、日本人は単一民族とされてきたがそれは真実かという問題、あるいは従軍慰安婦の問題の真実とは、という問題、あるいは南京大虐殺の真実という問題、「北方四島」の領有権問題の真実とは、等といった問題が挙げられようが、それらについても、先の文部省の官僚同様に、今日の文科省の官僚も、自身で判断する能力もなければ決断する能力もなく、その類の問題は先送りし続けるしかないであろう。

 だから、これらの諸問題の真実を書いた小中高校の歴史教科書に対しては、文科省の官僚は、たぶん、すべて「検定不合格」としてしまうであろう。

もちろん検定は本質的に検閲であり、それは現行日本国憲法第11条の「国民の基本的人権の享有」、検閲を禁ずる第21条の「表現の自由」に明らかに違反する。つまり、官僚自ら、これから日本国を背負って立つ若者たちに祖国の真実の歴史を教えようとはせず、むしろ相変わらず明治期以来の官尊民卑の姿勢に拘っては、自分たちに不都合な真実は教えようとはせずに、日本国の民主主義政治体制、すなわち今様の「国体」に反逆しているのだ。

 もし日本の政治家が民主主義を、そして基本的人権を真に理解し得ていたなら、主権者である国民の代表として、官僚のこうした傲慢不遜で官尊民卑の時代錯誤の姿勢を鋭く糾弾し、現行憲法第15条の第1項に拠り、そうした官僚をことごとく排除するための実定法を定めるのだろうが、残念ながら既述して来たように(2.2節)、むしろ官僚に依存し、官僚の操り人形と化している現行の総理大臣を含む閣僚一般にそれを期待することはまず無理、と言うしかないであろう。

 

 ところで、再三記述してきたように、私たち国民はすべて、実はこうした文部省の体質をつくり上げて来た背後には、明治の元勲山県有朋がいたことを決して忘れてはならないのである。

山県有朋、彼は、とにかく性格的にもまったくよこしまな人間であり、政府というものは、天皇の権威を維持して行くためにのみ存在するものだとし、官僚を国民のシモベではなく「天皇のシモベ」とし、民主主義を徹底して忌み嫌い、その官僚の権力が、選挙で選ばれた国民の代表によって決して制限されない仕組み、あるいは選挙で選ばれた政治家が日本の官僚制を決して掌握できないように、一連の複雑なルールをつくった人物だ。また、近代日本の陸軍を創設し、軍部の大本営の中枢を成す参謀本部をも創設し、「徴兵制」を導入した人物でもある(K.V.ウオルフレン「システム」p.139、「日本という国をあなたのものにするために」角川書店 p.47)。

 以上を総合して、では先の問い、文部省の体質をそっくり受け継いだ現在の文科省については、私たち国民は主権者として、果して存続させることが妥当なのだろうか。

 答えは明瞭である。

もはや文科省は存在していること自体、有害無益なのだ、と。

むしろ存続すればするほど、この日本をますます世界に通用し得ない劣等国にしてしまうことは明らかだ。

 しかし、そうは言っても、その問題の文科省を廃止できるのは官僚ではない。私たちが選挙で選んだ国民の代表である政治家なのだ。政治家が、国民の声を聞く中で真の国益とはどうすることかを国会内で徹底的に議論し、決めることだ。

ただ、2.2節に既述して来たような政治家という政治家の体たらくな実態の中で、果してその際、国民から負託された公式の権力を最大限正当に行使し、官僚を憲法第15条に基づき、毅然としてコントロールし、文科省を廃省にすることができるだろうか。
残念ながら、それは無理と言うしかない。

 

 

13.14 官僚制と官僚組織      ————————(その2)

 

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13.14 官僚制と官僚組織      ————————(その2)

 

2.官僚は何故こうなったか————その歴史的経緯

 では、現行の官僚たちはなぜこうも国民に対して傲慢で狡猾非情で醜悪な人間となったのか。

私は、そのきっかけは何も今に始まったことではなく、明治維新にその出発点はある、と考えるのである。

私がそう考える根拠は次のとおりである。

 幕末、坂本龍馬の尽力により、将軍徳川慶喜の了解の下、天皇への大政奉還が正式に決まっていたのに、それまで幕府を転覆して徳川の権力を我が物にしようと倒幕運動を展開してきた特に薩摩と長州の下級武士らにとっては、大政奉還などされたら、これまで一体何のために苦労してきたのかとしてその決定を不都合と見た彼らが、自分たちの武力の方が幕府軍のそれを上回ると見た上で幕府軍に対してあえて「鳥羽伏見の戦い」を仕掛けてそれに勝利し、天皇に返還されるべきだったその政治権力を横取りして明治政権を打ち立てたことからこの話は始まる、と私は見るからである。

 だから、そのようにして政治権力を手にして成立させた明治薩長政権は、当然ながら最初から政府樹立の正統性はなかった。決められた約束を守らなかったという事実もあるが、それ以上に、その政府は国民の支持を得て成立した政府ではなかったし、国民の合意の下に得た権力ではなかったからだ。

 ところが、幸か不幸か薩長政権の当時の寡頭政治家たちはそのこと、すなわち自分たちの政権には近代民主主義政治で言うところの「正統性」がないことに気づいていた。

それは、彼らは、日本の国の新しい形を決めるのに、632日間という長期にわたって欧米列強を含む世界一周の文明視察の旅を通じてである。いわゆる岩倉具視視察団と言われる視察団がそれだ。彼らが見聞してきた国は全部で12カ国。その視察の旅を通じて、特に当時、世界に対して少なからぬ影響力のあったアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア等の国々の政府は、いずれも「市民」と呼ばれる自国民の支持の下に成立していた政府だったことを知り、そして民主主義、政府、議会、市民、権力というものがどういうものかについても、かなりのところまで理解していたからだ。

つまり、自分たちのやったことは、非合法的でかつ非常手段に訴えての支配層間での政権移動であり、クーデターに過ぎなかったということを知っていたのである。

だから明治政権の寡頭政治家たち————西郷隆盛大久保利通木戸孝允伊藤博文岩倉具視山県有朋ら————は、自国民を恐れたのだ。

自国国民も欧米諸国の市民と呼ばれる国民と同様に民主主義に覚醒し、明治政府には正統性がないことに気付き、反政府行動をとって立ち上がってくるのではないか、と。

彼らが自分たちの地位のあやふやさに怯えたのはそれだけではない。日本に開かれた広い世界にも怯えていた。日本を改造する野心そのものも、彼らを恐怖で身震いさせていた。“果たして国家を運営する権利が自分たちにあるのか”、と。

 私は、その自国民を猜疑心を持って恐怖したそのことこそが、その後寡頭政治家亡き後の政権は後述する山縣有朋らの企てによって政治家ではなく官僚に引き継がれて行くことになるのであるが、それが今日に至るまで————たとえ途中、戦後になって民主憲法に変わっても————この国の政治の実権は政党政治の政治家ではなく、依然として官僚であったことと相まって、その過程の中で、官僚たちは非情で狡猾で冷酷という性格を身につけるようになった、と見るのである。

すなわち、彼ら官僚からすれば、“自国民は信頼せず、むしろ今後は、経済力を高め国力を上げる政策を通じて、国民の活力を最大限に酷使しよう”と。

 先述したカレル・ヴァン・ウオルフレンは言う。

「人々に対するこの恐怖心と、その結果としての人々への悪しざまな扱いこそが、多分、今日の日本につながった深刻な筋立ての核心部分であろう。それが、日本の政治的欠陥の根幹にある」

(「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社p.337)。

 

 実際、その後、板垣退助らの自由民権運動が、特に関東地域と近畿地域を中心に起こってゆくことになったが、それに対しては、薩長政権は過酷なまでの弾圧を持って鎮圧して行ったのである。その運動で最も有名なものの一つに「秩父事件」がある(1884年)。それは、政府に対して貧民救済を訴えて起こした農民中心の武装蜂起事件である。

 そんな中、寡頭政治家の大部分の亡き後、その政権を継いだ官僚らは正統性のないことをごまかすためにある秘策を考えたのである。

それは、一言で言えば、自分たちのやっていることは全て天皇の御名において行われているものだから、そこに不正や間違いなどあるはずはないという筋書きを成立させることだった。

そのために彼ら官僚は、「天皇の意思」なる神話をでっち上げた。

まず天皇を、以前よりも目に見える形の公式の権力者として復帰させた。そして天皇に、“天皇の意思はこうあるべきだ”とそっと耳打ちしたのだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社p.336)。

 しかし国民の前で、こうした、表向きは絶対権力者で統帥権統治権を併せ持つとする天皇を立て、その裏では官僚が実質的権力を掌握してそれを行使するという二重権力構造をでっち上げた当時の官僚らのこのペテン行為は、史上最大の政治的不正の一つなのである(カレル・ヴァン・ウオルフレン 「なぜ日本人は日本を愛せないのか」p.240)。

 では日本の官僚はどうしてここから、非情で狡猾で冷酷になって行ったか。

実はそこには、明治維新政府の寡頭政治家の一人であり、特に明治後期の寡頭政治の中心的指導者の一人となり、大正期に入っても長生きして絶大な権力を振い、舞台裏から日本を動かした最後の大物元老としての山県有朋の存在があった(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.47)。

彼の残した遺産の多くは、どれも、その後の日本にとっては望ましからざるものばかりであるが、その中でも特に本節の主題との関わりの大きい遺産として、次のものはぜひとも挙げねばならない。

それは、彼は、政党政治政党政治家を徹底的に忌み嫌い、持てる自らの権力の全てを使って政党政治の発展を阻止しようとしたことだ。

 

そのためには山県は、官僚を「天皇の官僚」と位置づけ、その官僚たちの権力が、選挙で選ばれた国民の代表である政治家によっては決して制限されない仕組みを築き上げた。

 例えば、今に残るその仕組みの一つが、国会が、表向き、あるいは憲法上は「国権の最高機関」としながら、実はそこでは、政治家同士の間で「立法」など全くせず、つまり立法すればこそ国会は最高権となるのだがそれをしないから国会を名ばかりにして、その上、「三権分立」という権力分散原則を無視しては政府の人間(総理大臣、閣僚、そして官僚)招き入れては、その彼らに国民の代表が代表質問や一般質問という名の「質問」をし、一方の答弁する者は者で、もっぱら官僚の作文を棒読みするという形態を今尚残していることだと私は思う。

 またそれと関連して、国会という議場の形態も、本来そこは満場、国民から直接選ばれた代表だけが集い議論する場であるのに、その最前列には、国民の代表である政治家の着席位置よりも一段と高い位置に官僚あるいは政府関係者が鎮座するという形態を今尚残していることだ。

 哀しいかな、そうした形態に対しても、根本的疑義を感じている風な政治家は、私の見るところ皆無なのである。

 つまり、日本の歴代の総理大臣を含めて政治家の誰も、民主政治を妨害するために山県の残した遺産から脱却できていないのである。

 とにかくこうして官僚は、明治憲法下では、山県によって「天皇のシモベ」と位置付けられたのだ。

このことは、官僚は「お上」=天皇の「召使い」「下僕」ということを意味するが、それがいつしか官僚が「お上」の代行をしていると国民には見られ、官僚自体が「お上」と呼ばれるようになって行ったのではないか、と思う。そしてまた、そのことによって、官僚自身も、自分たちのやっていることは全て天皇の御名において行われているものだから、そこに不正や間違いなどあるはずはないし、変更の余地もない、という意識になり、それが後々、「組織の記憶」となって、延々と引き継がれてきたのではないか、と私は推測する。

しかも、今や憲法も欽定憲法から民主憲法に変わって官僚の身分は「天皇のシモベ」から「国民のシモベ」へと変わったわけだから、官僚たちは今度は、国民に仕える立場となったのだと意識転換を図るべきだったのだが、相変わらず続く政治家たちの民主主義議会政治への不勉強と他者依存根性ゆえに、官僚たちは今もなお「お上」気分を抜けきれないでいるのだ。今もなお「官尊民卑」の思想を持ち続けているのはその証拠であろう。

その思想を象徴的に表しているのが多分、官僚の誰かが名付けたのであろう「天下り」だ。

これは、“「お上」が下々のところへ下りてくる”というイメージを表現しているからだ。

 とにかく、官僚の間では当たり前になっているこの「天下り」をいつまで経っても止めさせられないのも、同じく官僚の間では当たり前となっているタテワリと一般に呼ばれている「縦割りの組織構成」をいつまで経っても撤廃できないのも、また中央政府の一般会計予算額が、余程の理由がない限り毎年、対GDP比で世界最悪の政府債務残高を更新しながら「過去最高」を記録するのも、これ全て、国民から選挙で選ばれた政治家が、本来彼ら政治家には国民=主権者=「一国の主人公」の代表・代理として「国民のシモベ」たる官僚をコントロールする義務と使命がありながらそれをしないというだけでなく、最大の権力行使である立法や、国民のお金の使途を決める予算づくりすらももっぱら官僚に依存して来た結果なのだ。

 さらに言えば、この国がいっとき、“ジャパン アズ ナンバーワン”と呼ばれて世界の経済超大国になった時でさえ、国民は相変わらず「豊かな国の貧しき国民」のままでしかなかったのも、国民の幸せそっちのけで、国民の持つエネルギーを馬車馬の如く発揮させては工業生産力を果てしなく発展させて、国力の増強を図ってきた結果だ。

ところがそんな官僚を、長いこと、この国の国民は、「この国の官僚は優秀だ」と思わされてきたのである。

 既述のように、この国が「役人だけが幸せな国」、あるいは「『老後』も『再雇用』も役人はこんなに優遇される国」になったのも、全て同じ理由に因るものだ、と私は断定する。

 つまり、この日本という国は、見かけはどうあろうと、実態は、国民にとって、決して自由な国でも民主主義の国でもない。

むしろこの国は、「一度ある省庁に入ると、生涯、所属が変わらない」という制度を自分たちで作っては(古賀茂明「官僚の責任」PHP新書p.167)、各府省庁に所属する官僚たちが、それぞれ国民のお金の使途を勝手に決めてはその政策のための法律をつくり、その法律を好きなように解釈して許認可を与えたり与えなかったり、あるいはそれとなく脅したりしては、まるで自分たちこそが主権者だと言わんばかりにして恣意的に権力を行使できるように政治家たちがしてしまった、官僚主導というよりも官僚独裁の国なのだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社p.83)。

 なお、参考までに言えば、山県有朋が残した負の遺産には、この他に、陸軍の創設、徴兵制の導入、軍人勅諭の制定、国体思想の形成発展への貢献等が挙げられるが、その中でも特に、その後の日本の進路に最も重要な意味を持つことになったものとして、陸軍の参謀本部を創設したことだ。

 このことがなぜ重要か。それは、これによって天皇統帥権が内閣から完全に切り離され、政治家が軍事に介入することは事実上不可能となったからだ。

統帥とは、陸海軍全てを指揮・統率することである(保阪正康「あの戦争は何だったのか」新潮新書p.25)。

その結果、その後、軍部は独走し、最終的には日本を破滅へと導いてしまったことは誰もが知っている。

 なお山県は、その後も長い政治生活を通じて、一貫して、政党政治家が真の政治権力を獲得することを恐れ続け、天皇制と軍部への文民の介入を完全に遮断しようとしたのである。

 そこで次は、公務員を採用するための採用方法についてである。

 

3.真に「公僕」と呼ぶにふさわしい公務員の採用基準

基本的には従来と変わらずに、試験による。

しかしその試験の際の試験問題は役人がお手盛りに作成するという従来の仕方によるのではなく、主権者である国民の代表、あるいは国民から委託された知識人が作る。

それは、とにかく、公僕=「国民のシモベ」となって国民に奉仕することを志す人たちには、次に挙げるような政治的基本概念については、概念の混用をしないようにして徹底的に理解しておいてもらわねばならないからだ。

実際、国家公務員試験をパスしてきたとされる官僚たちでも、そのほとんどは、私の知る限り、それらについて質問しても即答できなかった。

①あなた方は別名「公僕」とも呼ばれる公務員を目指しているが、では公務員とは何か?

②主権者とは何か?

主権者と公務員とのあるべき関係は何か?

③国家とは何か? 

国と国家との違いは何か?

④権力とは何か?

権力が権力として成立する条件は何か?

権力を行使するとはどういうことか?

例えば、自分たちが国民の代表である閣僚の指示命令も受けずに、勝手に自分たちに好都合な専門家を集めては審議会を立ち上げるということは権力行使になるか?

さらに、その審議会で、あらかじめ自分たち官僚同士で決めておいた方向に向けて審議会を仕切ることはどうか?

あるいは、同じく、自分たちが国民の代表である閣僚の指示命令も受けずに、勝手に地域住民を集めては、自分たちの実現したい事業についての説明会を開催したりするのはどうか?

 また、公僕に権力を行使することが許されているとすればどのような場合か、根拠を持って答えよ。

⑤「法の支配」とはどういうことか?

 「法治主義」とは何が違うか?

⑥政治家と公務員とのあるべき関係とは何か?

この国では「文民統制」と訳される「シビリアン・コントロール」とはどういうことか?

そしてそれが実現されていることは、誰にとって、なぜ重要なことか?

⑦法案を作成したり予算案を作成したりすることは権力を行使することとなるか?

そしてそれは政府のすることと考えるか?

民主主義議会政治の原則の観点から考えを述べよ。

⑧本来、自由とはどういうことと考えるか?

⑨民主主義とはどういうことと考えるか?

 専制主義、独裁主義とはどこがどう違うか?

⑩議会の役割と政府の役割の違いを述べよ。

そして、両者の関係はどうあるべきと考えるか?

民主主義議会政治の原則の観点から答えよ。

11なぜ国会は国権の最高機関とされるのか?

12憲法とは何か?

13国と中央政府の違い、都道府県や市町村と地方政府の違いを述べよ。

14いわゆる「縦割り制度」が国家にもたらす弊害を述べよ。

15 「国家」ないしは国の統治体制を盤石にするという観点から見たとき、「政令」や「省令」の存在は必要と考えるか否かについて、考えを述べよ。

16これまで度々国民の間から問題視されてきた官僚のいわゆる「天下り」や「渡り鳥」について、「法の下での平等」・「公正性」・「公平性」の観点から意見を述べよ。

 

4.この国を政治家が本物の国家とした上で、役人が「国民のシモベ」としての職責を果たせるようになるために

 上記の表題のことを実現することがこの国では本当に急がれていると私は考える。それは、この国が依然として本物の国家とはなり得ていないことが国民にとって極めて危険で恐ろしいことであるという理由の他に、すでに環境時代に突入してしまっているという私の認識において、その時代を持続可能な国として生き抜けるようになるためである。

それは、本節の冒頭に述べてきた通りである。

 

 そこで、本節のここからは役人ではなく政治家の役割である。その政治家とは、国会を含む全ての議会の政治家と、中央政府を含む全ての政府の長としての政治家を意味する。

 まずは国会の政治家たちが、名実ともに「国権の最高機関」として、この日本という国を統治の体制を完備した、近代諸国家が明確に定義した本物の国家としての仕組みを、「三権独立」の原則の下、内閣の関係者を一切介入させずに、議会の政治家同士だけで、必要に応じてその方面の専門家や知識人の力を借りて決定する。

 その際、特に重要なことは、「国権の最高機関」としての国会が、中央政府のみならず地方政府をも含めた「縦割りの組織構成」を、政府の各府省庁の大臣が、総理大臣の総指揮の下で、場合によっては大臣同士が協力しあって、何としても撤廃できるように、あらかじめ国家公務員と地方公務員についての公務員法を改正しておくことである。

すなわち、「縦割り」を撤廃することに抵抗したりサボタージュしたり、あるいはあくまでも自分たちに領分を守ろうとしたりする者は、憲法(第15条第1項)に依拠して、担当大臣がその者を「公僕としてあるまじき者」として、直ちに罷免できるようにしておくことだ。

もちろんこの立法は、国の基本法である憲法に依拠するものであるから、国家公務員法地方公務員法に優先することは言うまでもない。

 次に、本節のこれまでに述べてきた考え方に十分に沿うような様々な制度をも法的裏付けを持って定める。

 もちろんこれをするのも、政府関係者は一切含ませずに、国会そして地方議会の政治家同士だけでである。

つまり、議会の政治家という政治家はこの際、近代西欧が確立し、いま世界がそれに沿って行なっている民主主義議会政治制度とは何かを、例えばジョン・ロックモンテスキュー等の原典に立ち戻って、徹底的に勉強する必要があるのである。

 その上で、例えば、次のような法律を定める。

公務員採用試験制度とその中身と試験問題作成者を市民とすること。信賞必罰を考慮した担当大臣による配下の公務員の人事評価システム。配下の官僚に対するコントロールとチェックを担当大臣の義務とする法。配下の官僚に国民への説明責任を果たさせることを担当大臣の義務とする法。「法の支配」という原則を破った公務員、つまり法律に基づかないで権力を行使した者の処罰法。あらゆる会議での議事録、あらゆる事業での記録を正確に残すことの義務化。公文書を廃棄または改ざんした者への罰則規定。等々。

 なお、担当大臣による、上記の信賞必罰を考慮した配下の公務員の人事評価システムでは、己の出世のために、また「天下り」の世話になるために、自分が所属する省の利権拡大のために、あるいは個人益のためにばかり働いて、国民の要求に応えなかったり、国民の福祉実現のために働かなかったりした場合、あるいはその実態が根拠を持って国民から担当大臣に告発された場合には、そこに情実を含めずに、公正に判断される評価システムであることを特に重視する。そのような行為は明らかに「公僕」に反するからだ。

 

 次は政府の政治家(総理大臣・閣僚、首長)役割についてである。

その際、明確にしておかねばならないことは、政府はあくまでも執行機関であって、法律を作るところではないということである。法案や予算案という「案」についてもだ。

それは、閣議が法案を事実上公式の法律と決める場としてしまうような、国会の権威を傷つけるこれまでの行為は民主主義議会政治制度上、絶対に許されないからだ。

ましてやその閣議が、各省庁の官僚のトップである事務次官で構成される事務次官会議において全員合意の下で出してきた案件しか諮られることはない閣議とするなどは、言語道断だ。

それは、文字通り政治家が官僚独裁を容認することだからだ(古賀茂明「官僚の責任」PHP新書p.166)。

 なお、国会が決めた法律に基づき、それを政府として執行する際に、「政令」を設けることはやむを得ない場合はあっても、「省令」は縦割りを前提とするものである以上、廃止すべきだ。

 このことを前提に以下を述べる。

国会が決めたこうした諸法律を受けて、今度は、先ずは中央政府が、その内閣において、総理大臣の総指揮の下、各府省庁の大臣が、配下の官僚たちに指示あるいは命令し、コントロールしながら国会が決めたことを執行させる。その際、その執行過程を国民の代理としてきちんとチェックし、必要に応じて、官僚には国民に対して説明責任を果たさせる、ということを原則とする。

 次に地方政府においてはその長が、中央政府の対応から学びつつも、単に真似をするのではなく「自治体」としての個性を生かして、最良と考える役人対応を行う。

 なお、政府は、執行機関として、より良き公務員を育てるために、例えば次のような研修制度を設けることは、三権分立の観点からも違反しないと私は思う。

それは、官吏として採用された後の公務員について、定期的に————例えば5年おきに————民間企業に異動し在籍して、一定期間————例えば3ヶ月間位————民間企業人となって研修を受ける、というものだ。

 その制度を設ける理由ないしは目的は3つある。

1つは、「公僕」としてのコスト意識を高めるため

 民間企業では、どこも、どんな事業をするにも、全て、自分たちが働いて稼いだ利益を資金にして行われていること。また企業人一人ひとりの私的暮らしも、そうして上げた利益によって成り立っていることを理解すると同時に、役所では、自分たちは民間企業のように、自分たちが働いて得たお金で事業が成り立ち、自分たちの指摘暮らしが成り立っているわけではなく、国民・住民が納めてくれた税金によって全てが成り立っていることを理解し、その理解を通じて税金は一銭も無駄遣いはできないこと、そして公務による活動は全て、いつでも国民に説明できるよう会議でも常に正確な議事録を残し、事業についても、常に全て詳細記録を残すことが義務であることを認識させること。

1つは、民間企業では、経営者以下社員はどういうことで大変な思いをし、どういうことで悩んでいるかを知り、それを、公僕として、少しでも心の通った行政が国民・住民との間でできるよう活かすためでもある。いわば「公僕」として職に就いた時の初志と公僕としての使命と目的を忘れないようにするため。

 民間企業では、景気の動向いかんによって企業成績も社員の暮らし向きも左右されやすいのに対して、役所では、政治家が政治家としての使命を果たさずに役人に全てを依存し続けている限り景気動向にはほとんど影響は受けずに、また刑法に抵触するようなことをしなければ罷免されることもリストラされることもなく公務ができ、年功序列式に、基本的に毎年給与が上がり、昇格もして、私的暮らしもできることの「有り難み」を理解させること。

 そして自分たちは他者のお金を使って、誰のために、何のために働いているのか、その働いている目的をも忘れないようにするため。

1つは、効率的な業務のこなし方を学ぶため

 民間企業では、最大利潤を上げるために、絶えずコストを削り、無駄を省き、生産性を上げようとし、そのために仕事の効率化を絶えず図る。そして絶えず個人の企業利益への貢献度が問われ、それが評価へとつながる。

 一方、役所はどうか。

先に見てきたような体質を役人一人ひとりが本質的に身につけてしまっているこれまでの日本の役所では、そもそも重視されていることは民間企業とは決定的に違うことは容易に推測できる。

 

5.以上の制度改革で期待される効果

 以上のようにすれば、次のことが実現されることが期待されるのである。

とにかく本物の「公僕」としての自覚を持った本物の公務員の誕生。

そして閣僚のコントロールとチェックの下、公務を、法律に基づき、効率よくこなせるようになるため、公務員の数を大胆に減らせるようになる。

特に、第8章で明らかにしてきた「新国家」においては、中央政府、すなわち連邦政府は小さな政府になることから、連邦政府の行政事務職の人数は現行の50分の一から100分の一以下の、3000人から1500人もいれば多分十分となると推測されるのである。

 これは巨大な人件費削減になる。

 また、「縦割り制度」という悪しき慣習を廃止できることで、各省庁をそこに所属する官僚たちの「互助会」としてきた悪習を廃止でき、「天下り」「渡り鳥」をも同時になくせるようになる。

また予算案は政治家が国会で作ることになるために、税金の巨大な無駄遣いをなくせるようになると同時に、現在、天文学的な額に達している国の借金(政府債務残高)を、急速に減らして行けるようになる。

 とにかくこの国に、真の民主主義を実現し、真の国家となし、役人の不正を激減させられるようになる中で、この国を持続可能な国になり得る基礎ができることである。

 もちろんこれを実現する主役は私たち国民であり、その国民によって既述の新しい選挙制度(第9章)を通じて育てられた本物の政治家たちである。

 

 こうして、この日本を国民にとってやっと希望の持てる、主権在官ではなく、真の主権在民の国家に転換することが出来るのである。

13.14 官僚制と官僚組織      ————————(その1)

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13.14 官僚制と官僚組織  ————————(その1)

 官僚制とは一般に「専門化・ヒエラルヒー化された職務体系、明確な権限の委任、文書による事務処理、規則による職務の配分といった諸原則を特色とする組織・管理の体系」(広辞苑第六版)とされ、そしてその諸原則どおり職務を遂行することが官僚の役割とずっと固定的に理解されて来た。少なくとも「近代」の官僚制は。

そしてそれが余りにも無批判的に、しかも改良もされずに戦後ずっと維持されて来た結果、「官僚的」という言葉は形式的で独善的な集団の態度の代名詞にもなった。

またそれがために、一群の特権的な官僚が権力を握って行う官僚政治、一国の統治において官僚制が支配的な地位を占める官僚政治をも生む原因ともなって来た。

とくにこの私たちの国では、政治家は、無能・無責任・無策・無知・自己への甘えに因り、官僚をコントロールするどころか自らが彼等のロボットと化して、官僚独裁政治を生む直接の原因にすらなってきた。そしてそれこそが、すでに随所にて述べてきたように、この国の国民を不幸に陥れたままにしてきた真の原因ともなっているのである。

 そこで私は、すでに突入してしまっていると私自身は考える環境時代にこの国が対処しうるようになるためには、官僚があたかも国の主権者であるかのような振る舞いをしてきたこれまでの官主主義を早急に打破して、国民が本当の意味で主権者となる本物の民主主義をこの国に実現し、その民主主義に立ってこの国を統治体制の整った本物の国家として、先に明確にした二種類の指導原理を柱とする真に持続可能な国にすることが是非とも必要であると考えるので、ここでは、これらを実現するために、これまでの官僚制度と官僚組織のあり方を根本から変え、官僚が本当の意味で「国民のシモベ」として国と国民に奉仕できるようにするための私なりの基本的な考え方を提案する。

 そこで、上記の遠大な目的を達するために、まずは現在のこの国の官僚とその組織のあり方についての実態とその特性についてこれまで注意深く彼らを観察して来た私なりに明確にし、次に、官僚のその実態と特性はどのような歴史過程の中で身に付けてきたのかということについてもやはり私なりに明らかにした上で、では真に「公僕」と呼ぶにふさわしい公務員とはどのような基準を満たした者として採用したらいいのか、そして採用した後、彼らが初志を忘れないようにするにはどうしたらいいか、さらにはどういうことをしたなら「国民固有の権利」(日本国憲法第15条第1項)として罷免すべきか、ということまで踏み込んで、これも私なりに提案してみようと思う。

1.現行の官僚と官僚組織の実態と特性

 現行の官僚たちとその組織の実態と特性については、私はこれまで中央省庁の官僚と呼ばれる人や地方政府(県庁や市役所)の多くの役人と直接会って話をし、また彼らの言動を長いこと注意深く観察し、そして幾多の市販本などで調べてきたところによると、次のようなことが言えると思うのである。

 とにかく役人のものの考え方や生き方で共通しているのは現状維持に拘る、というものだ。現状を変えようとしたり、変革や改革あるいは改善しようとしたりすることや動きを極度に嫌う。それは、役人ほど自分たちの所属する府省庁や部や課としての既得権にこだわる者はいないということと関連して、変革や改革荒れたなら組織が縮小されたりして自分の居場所がなくなるのではないかと恐れるからであろう。

そして役人ほど、「集団主義」や「集団の論理」を重視し、「ムラ社会」を構成し、「みんなと違うことはいけない」、「他より目立ってはいけない」と、構成員一人ひとりが、お互いに他者に無言で強いる集団はない。

 それだけに、役人の組織ほど、自分たちの組織への「忠誠」を厳しく要求し、「滅私」や「悪平等」を暗黙に押し付け、「犠牲」や「忍従」を強いる組織もない。

 したがって、役所ほど、その内部で、「ねたみ」・「イジメ」・「差別」・「ハラスメント」がまかり通っている組織もない。そういう意味で、役所はイジメやねたみの巣窟なのだ。

こうして役所ほど「創造的能力」・「独創的能力」・「真の指導者的能力」等を不要としている組織はない。役所ほど「人物」、「人格」、「人間性」、「能力」ではなく、「役職」・「格」・「上下関係」・「序列」・「肩書き」を重視する組織はない。「個性」あるいは個人としての「自由」や「多様性」を認めようとはしない組織はない。また「抜きん出た才能」も不要とし、むしろそうした能力ある者をみんなで抑え込み潰そうとする。

 だから役所ほど「本音」と「建前」を使い分け、人間関係が「上辺だけ」、「形だけ」の組織はない。

それだけにまた、国民の利益ではなく「自分たちの組織の利益」をつねに最優先し、その組織の中の一人ひとりはとにかく保身に拘り、人から評価され、立身出世できる道に拘り、「自分が安泰」であればそれで良しとする組織もない。

実際私は、かつてサラリーマン時代、当時建設省だったある役人から面と向かってこういう話を聞かされて、言い得て妙なその表現に思わず笑い出してしまった記憶がある。

“生駒さんねー、役人を動かそうと思ったら花道をつくってあげることです。と同時に、逃げ道をも忘れずに用意してやることです。”

 こんなことだから、外に向っては“自分たちは法に従って仕事をしている”と言いながら、「公」と「私」を平気で混同させては、自分たちで決めた「内規」すら平気で破る。

そして、役所ほど「憲法」や「法律」を軽視し、むしろ「慣例」・「慣行」・「前例」を重視し、「根回し」・「不文律」・「馴れ合い」・「人脈」・「派閥」・「学閥」を重視し、論理や理性ではなく、また客観性でも知性でもなく、常に情実が絡んで動く組織はない。つまり全員が守るべき確定したルールや行動規準というものがないし、そうしたものを軽視する。全てが情緒的であり、恣意的なのだ。

 だから必然的に、役所ほど、「閉鎖的」で、外の世界の「常識」・「共通の価値」・「正義」・「大義」といった価値に無関心となる組織はないし、役所ほど、国民には平気で「ウソ」をついたり「ごまかし」たりし、また事実や真実を「隠し」ながら、いつでも自分たちのやっていることを「正当」らしく、あるいは「国民のためにやっている」と見せる欺瞞的組織はない。

 そして役人ほど、つねに言い逃れられる道、つまり「逃げ道」を用意しながら仕事をしている輩はいない。役人ほど、つまり「花道」に拘る輩はいない。

 また役人は、あるいは役人としての言動は、国民に対してであれ、外国人に対してであれ、とにかく自分たちの組織や集団の外の人間に対しては、極めて冷酷だ。

 とどのつまりは、役人ほど、主権者である「国民」を信頼せず、「民主主義」を軽視し、「人権」を軽視し、「官尊民卑」や「愚民思想」を暗黙のうちに当たり前とする組織はない。

 だから、彼らの身に付けたこうした体質から次のような行動が必然的に生まれてくる。

それは、彼ら役人は、一旦決めたことや始めたことについては、途中でどんなに客観的状況が変化しても、自分たちのメンツにこだわり、あるいは自分たちのやっていることには誤りは無いという態度をとり、中断することも再検討することもなく最後までやりきってしまう、という姿だ。そしてそのやり始めたことがたとえ失敗しても、決してそれを認めようとはしない。だから少しの反省もしないし、責任を負うこともしない。もちろん自分たちがやって来たことを検証するということもしないし、総括してそこから教訓を引き出すということもまったくしない。仮に国民からの批判が殺到して、どうしても検証や内部調査をしなくてはならないというような状況になっても、そこで見せる彼らの態度はあくまでも「とりあえず」程度であって、その調査を利害関係のない外部の第三者機関に依頼するのではなく、問題を起こした集団内部に設けようとする。だから公正で客観的な調査などできず、報告書の中身はすでに決まっている。

 それに彼らは、自分たちの活動は全て国民の収めた税金によって成り立っているのに、それをわきまえようともせずに、会議録にしても、事業報告にしても、正確な記録を公文書として残そうとすることもしない。むしろ自分たちのやってきたことにミスや失敗があったりうまく行かなかったりした場合にはとくに、それに関連する文書や資料を破棄するか隠そうとさえする。あるいは公文書を改ざんさえする。

そしてこうした行為は、全て、国民の目の届かないところでやる。あるいは国民から選挙で選ばれた国民の代表である政治家が役人をコントロールもチェックもしないことをいいことにして、秘密裏に、あるいはドサクサの中でやってしまう。

 つまり、この国の役人は、中央政府の官僚たちを筆頭にして、地方政府の役人も、いつの間にか、自分たち自身も多分気づいてはいないであろううちに、人間として実に汚く、醜く、冷酷な輩集団となっているのだ。それは到底「公僕」すなわち「国民のシモベ」などと呼べるような状態ではない。それは全くの名ばかりなのだ。

 

 ちなみに、官僚たちがその狡猾さを発揮する具体的な手口とはどういうものか、その手の内を明かしておこう。

参考にさせてもらったのは、元通産省の官僚古賀茂明氏の著(「官僚の責任」PHP新書p.60〜61)と、元厚生省の検疫課長宮本政於氏の著(「お役所の掟」講談社)そして元通産省の課長並木信義氏の著(「通産官僚の破綻」講談社+α文庫)である。

 これらの著書から見えてくる官僚や役人の公務遂行上の手口とは、「責任の所在を判らなくさせてしまおう」という動機から考え出されてくるものらしく、そうした中で、「いつでも自分たちの恣意的な判断や裁量を差し挟めるようにする」、というものだ。いずれも、結局のところ、「だれにも気付かれないよう、こっそりやってしまおう」という意図に基づくものだ。

 ではどうやってこっそりやるかと言えば、「意図的に内容をわかりにくくする」方法がもっともよく使われる手だという。

具体的には「いくつにも分ける」、「小出しにする」のだ、と。文書を出すにしても、一つの文書として一度にまとめた形で表に出してしまうと、多くの人にすぐに自分たちの意図を悟られてしまうので、「あえて内容をバラし」て、「バラした内容を複数の文書にちりばめ」、なおかつ「発表時期をずらす」のだ、と。

 だれにも気づかれないよう、こっそりやってしまう他の方法としては、「具体的に何をするかはその時点では明記しないで曖昧にしておく」、そしてさらに、「曖昧にしておいた目的をその後、さりげなくすり替えてゆく」のだそうだ。

 官僚が外に向けて書くあらゆる文書についても、そこに用いる用語については、それを読む国民には細心の注意が要る、とその先輩官僚らは注意を促す。

 たとえば憲法が「国権の最高機関」と明記する国民の代表が集う国会においてさえ、そこで各政党代表が閣僚に質問した際の官僚の代筆する答弁書の文章に使われる用語についても、本音は決して表に現れないようにして、かつ官僚のシナリオどおりに滞りなく議事が進行するようにと、次の意図が込められていると言う。

 例えば「前向きに」という用語が使われた場合には、遠い将来には何とかなるかもしれないという、やや明るい希望を相手に持たせるためだという。「鋭意」は、明るい見通しはないが、自分の努力だけは印象づけたいときに使う。「十分」は、時間をたっぷり稼ぎたいという時に使う。「努める」は、結果的には責任を取らない、取るつもりがないときに使う。「配慮する」は、机の上に積んでおくことを意味すると言う。「検討する」は、実際には何もしないこと。「見守る」は、人にやらせて自分では何もしないこと。「お聞きする」は、聞くだけにして、何もしないこと。そして「慎重に」は、ほぼどうしようもないが、断りきれないときに使う。だが実際には何も行われないということを表わすのだと言う。

 官僚が作る文章中に置く「等」という文字についても、こう注意を促す。

「・・・・等」をつけることによって、内容をまるっきり変えてしまうのだ、と。

だから、「等」を付けてあったなら、その前に書いてある内容以外に、もっと重要なことがある、あるいは、これまでの文章には書いてないけれど、こういう運用をします、と言っているんだ、と深読みしなくてはいけない、と忠告する。

 要するに、官僚たちの国民に対して用いる常套手段とは、物事の真実は知らせないようにする、あるいは全貌は知らせないようにする、知らせるにも明確には知らせない、あるいは、一義的には判断も解釈もできないようにしてしまう、というものだ。あるいは物事がいつの段階で、誰によって、どのようにして決まったのか、その過程をも判らなくさせてしまうというものだ。

 住民からの質問にも、住民は役人から見れば主権者であり、自分たちはその主権者に対する「全体の奉仕者」であることは言葉では知っていても、不都合な問いには一切答えない。もちろん住民からの文書による、回答を文書で求める質問にも、“そのような答え方をしたことは前例がない”として、文書では絶対に答えない。答えるにしても、本来の公文書としての体裁を整えない、例えば誰が発行したのか、いつ発行したのか、を敢えて不明にする。しかもその場合も既述のような官僚用語を駆使して表現する。

 これがこの国の官僚および役人の公務を行う時の常套手段であり、こうすることが組織内では暗黙の取り決めとなっているのである。

 ここから私たち日本国民は次のことを心に留め置き、官僚に相対するときには、常に教訓としなくてはならないのだ。

 それは、こういう考え方や生き方そして価値観や人間観を持つ官僚が事務次官連絡会議を経て次々と閣議に提出してくる法案・政策案・予算案は、彼ら官僚たちが二重人格あるいは多重人格ででもない限り、真の意味での国民の幸せや国民個々人の人間的成長や暮らしの安心、学校教育の向上を優先したものであることは決してないということだ。むしろそこには、彼ら官僚や官僚組織の既得権益を維持あるいは拡大を画策する意図が決まって隠されているのだ、と。それだけに主権者である私たち国民は、彼ら役人を、またその組織を、決して信用してはならないと。

 また、それだけに私たちから選挙で選ばれた私たちの利益代表である政治家にしても、彼らは政策案や法律案そして予算案の作成を決してそうした狡猾な官僚たちに任せてはならず、自分たちが選挙の時に国民に約束した公約に基づいて、その公約を果たすために、常に自分たちの秘書を動員し、あるいはそこに関係分野の専門家の助言をも仰いで作り、作ったそれを国会に上程しては国会にて議論し、自分たちの力で立法しなくてはならないのだ、と。

 そうやって法律の裏付けを持って公式の政策や予算となったそれらを、今度は執行機関である政府が、その内閣で、それらの執行方法について議論して閣議決定し、決定した方法に基づき、総理大臣の総指揮の下、各府省庁の大臣は配下の官僚を絶えずコントロールしながら国会が議決したことを執行させ、また彼らのやっていることを絶えずチェックもし、必要に応じて彼らには国民への説明責任を果たさせなくてはならないのだ、と。

 つまり、もはや官僚の秘密主義、独善主義、独裁主義、おごり等々は一切通用しない、ということを私たち国民が官僚に敢然と示すべきなのだ。彼らはあくまでも「国民のシモベ」でしかないのだと。

 

 私は先に、とは言ってもそれは拙著の目次上のことで、まだ本ブログでは公開はしていないが、その(2.5節)では、私たちが住むこの八ヶ岳南麓地域の自然を大規模に破壊しながら貫通する形で国土交通省の官僚たちが既述してきた狡猾な手口を駆使して実現を画策する「中部横断自動車道」問題、特にその「北部区間」の建設の是非を巡っての、私たち地域住民と国土交通省の官僚たちの組織を挙げての闘争について、詳述している。

 そこで見せた国土交通省の官僚たちがとった手口は次のようなものだった。

ただしその前に明確にしておかねばならない重大なことは、この事業については、担当の国交大臣には大臣としてその義務も使命もあったはずなのに、配下の官僚をコントロールもせず、官僚たちのやっていることの合法性や妥当性をチェックもせず、事態の成り行きの全てを官僚に放任したままであったことだ。

① その「中部横断自動車道」の中の、特に「北部区間」と呼ばれている区間の建設については、国会は事業の着手を未だ議決もしていないのに、あたかも「建設あり」を前提とした態度で、住民に臨んだこと。

国会が議決せず承認していないということは、言い換えれば国民全体がこの事業の着手を未だ合意していないということであって、したがって国民のお金である税金を使うことは許されないはずなのに、それを当たり前のように使って、ということである。その行為は税金の横領でしかないのである。他人のお金を使うことをなんとも思わないのである。

② しかも彼らには、行使することは許されていない権力、というよりは「公僕」という立場上、もともと彼らには与えられようもない権力を次々と乱用しては、それを自分たちの野心を貫徹するために行使してきたこと

そのうちの1つが、例えば全戸配布して「住民アンケート」をとるという権力の行使。

その1つが、関係住民を集めては「地元説明会」を開催し、そしてそれを仕切るという権力行使。

その1つが、あっちこっちに自分たちに好都合な意見をし、また答申をしてくれる専門家や地域住民を集めては様々な委員会を組織して立ち上げては、「中部横断自動車道」「北部区間」の事業については「建設あり」の雰囲気を醸成して行ったこと。

例えば「関東地方小委員会」がそれだし、「中部横断自動車道活用検討委員会」がそれだ。

しかも、それらの各種委員会の委員長あるいは座長には、あらかじめ自分たちの要求通りに動き、委員会をまとめてくれる者として、「権威」を装って、共に国立大学(東北大学山梨大学)の教授を選任していたこと

もう1つは、最初のアンケート結果で関係住民の7割から8割はその事業には反対だとの結果はすでに判明していたのに、それを全く無視して、幾度ものアンケートを取るという権力行使を続けたこと。

 私たち関係住民が総意として反対した理由は、八ヶ岳南麓の自然が大規模に破壊されることを心配したからであり、国道141号線という道路が官僚たちが実現を画策するその「北部区間」にほぼ沿って既にあるからだ。

そしてさらにもう1つが、いわゆる中央政府の府省庁から地方政府の関係部署へと、縦に組織構成されるいわゆる「縦割り制度」のフル活用だ。この縦割り制度には何の法的な裏付けがあるものではなく、全く慣行にすぎないものなのに、である

具体的には、国交省の本省→関東地方整備局山梨県への国交省出先機関である「甲府河川国道事務所」→山梨県庁の県土整備部の高速道路推進課→北杜市役所の建設部の道路河川課へと続く組織の縦割りのフル活用だ。その流れの中の役人を、国交省の官僚たちは思うように動かすという権力行使をしてきたのだ。

また動かされる役人たちも、「自治体」の職員としての矜持も感じられなければ、恥の感覚も微塵も見られないままに動くのである。かつて話題となった「官官接待」を彷彿とさせるのだ。

③ そもそも、公共事業における新しい試みとして官僚たちが設けたと彼らが言う「計画段階評価」であるが、それも、結局は自分たちの野心を貫徹するための住民をごまかす手段でしかなかったことだ。実際、その「計画段階評価」なるものは、当初私たちが説明を受けた趣旨とは全く異なるものだったからだ。次々と「言うこと」を変えていったのである。

 

 また、前回公開した13.13節の中で明らかにしてきた、「森友学園」事件において、赤木俊夫さんの奥さん雅子さんへの財務官僚たちの対応、また、名古屋入国管理局で理不尽な死に方をしたウイシュマさん事件で法務官僚たちがウイシュマさん遺族に対して見せた対応の冷酷さ、非情さも、上記「現行の官僚と官僚組織の実態と特性」を裏付けると言えないだろうか。

 カレル・ヴァン・ウオルフレンは官僚のこうした側面をこう指摘する(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社p.208)。

“自らの非人間性を理解できない官僚が最も邪悪な非人間的行為を犯し得る”と。

 かと思えば、自分たちの組織のトップである大臣(閣僚)が国民に成り代わってきちんとコントロールもチェックもしないことをいいことにして、役人だけが「幸せ」になれるよう、国民のお金を勝手に使えるようにしては自分たちの待遇改善だけを図っている実態も、それを裏付けている(週刊現代の「役人だけが幸せな国」平成28年5月28日号p.40〜54と、週刊ポストの「『老後』も『再雇用』も役人はこんなに優遇される〈「75歳まで働け」政策の正体〉」平成29年9月22日号p.28〜32)————もっとも、官僚たちが国民の納めたお金をこうした自分たちの待遇をよくすることだけに使うということがまかり通ってしまうのも、結局は、国政レベルの政治家(国会議員、中央政府の首相と閣僚)の誰も、国民から選ばれた国民の利益代表でありながら、「国民のシモベ」である官僚とその組織をコントロールもしなければ、官僚のやっていることを国民に代わってチェックもせず、全てを官僚に放任しては官僚たちが全員合意の上で提出してきた案件を、閣議で、首相以下閣僚たちがわずか15分かそこらの時間で、盲判を押しては「閣議決定」しているだけであることの何よりの証拠なのだ。つまり現行の政治家たちは、超巨額の議員報酬を手にしながら、ここでも国民には全く役に立ってはおらず、むしろ官僚独裁や「官尊民卑」を助長しては自国民の活力を奪っているのだ————。