LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

16.5 私案としての新憲法の「本文」—————————(その1)

16.5 私案としての新憲法「本文」————(その1)

 以下に示す私案としての新憲法草案は、第8章にて述べてきた国家に対応するものとして提案するものであり、その国家の基本法とするものである。

その国家の基本法とする憲法を、本章において述べて来たことのすべてを勘案し、具体的な形にして表わしてみる。

その際、私は特に現行のドイツ(ドイツ連邦共和国)の基本法と、ロシア連邦憲法をも参考にさせてもらった(高橋和之編「世界憲法集」岩波文庫)。

その理由は、日本の現行憲法に比べてはるかに詳細でかつ具体的であるからだ。特にドイツの基本法は人権を基本権として、多岐にわたってわかりやすく詳細に明らかにしており、また財政制度も極めて詳細に明文化している。それは特に日本の現状の最悪の財政状況にとっては大いに参考になると思う。また、ロシアのそれは、国の中央政府と地方政府の法的地位と権限そして管轄事項を明確化しているのである。

 明文化されている内容が詳細であるということは、それだけ憲法の条文における抽象性、曖昧性を排除しているということであるから、憲法を運用する者にとっては彼らの「恣意」を介入させにくくさせているということであり、また憲法を解釈してそれを日常的に使おうとする者にとっては各条文の解釈に確信を持てるようになるということであり、憲法への信頼性が高まると同時に憲法を使いやすくなるということを意味する。

 ということで、以下に提案する私案としての新憲法案が現在の日本国憲法とどこがどう違うのか、どういうことが明確になっているか、等々に着目しながら、批判的に各条文を見比べていただければ幸いである。

 

第一章 憲法体制の基本原則としての国家の義務と目的と理念、連邦と連邦の構成主体の権限

区分、地方自治憲法の役割、憲法の依拠する原理と役割、権力の根拠、権力の分散、連邦の憲法および法律の優越、憲法体制の基本原則の優越

第一条 共和制の下での連邦制法治国家

第1項 日本連邦は、共和制の統治形態をとる連邦制法治国家である。

第2項 日本連邦と日本という名称は同義である。

第二条 国家の目的・理念

第1項 国家として存立するその目的は、国民の生命と自由と財産を最優先に守りながら、三種の主導原理を満たす範囲で、国家の成員たる国民の望むところの最大の満足を得ることができるような条件を創り出すことにある。

第2項 国家の理念は、民主主義と立憲主義を土台としながらもなお生命主義の実現をも目ざし、もって世界の平和の維持と人権の擁護と環境の蘇生と保護に貢献することにある。

 ここに、生命主義とは次の三種の原理「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピー発生の原理」の総称である。

第三条 国民主権

第1項 日本連邦における政治権力の唯一の源は、多民族・多人種からなる日本の国民であり、そのすべての政治権力は法に由来するものであり、したがって国民の合意の下に成立する。

第2項 国民は主権者であり、その主権という権力は、直接に、かつ国家権力機関および地方自治機関を通じて行使する。

第3項 無記名に成る国民投票および自由選挙は、主権者たる国民の権力の最高の直接的表明である。

第4項 何人も日本連邦において国民の権力を収奪することはできない。権力の収奪または権限の横領、または権力の委譲は、連邦の法律に拠って訴追される。

第四条 日本連邦の主権

第1項 日本連邦の主権は、その全土に及ぶ。

第2項 日本連邦憲法は、日本連邦の全土において最高法規である。

第3項 日本連邦は、領土の保全と不可侵を保障する。

第五条 連邦制の基本原則

第1項 日本連邦には、その構成主体として州および地域連合体が存在する。

第2項 州は独自の憲法および立法権を有し、地域連合体は、独自の憲章および立法権を有する。

第3項 日本連邦の連邦制度は、日本連邦の国家的統一性、国家権力体系の単一性の下で、日本連邦の国家権力機関と日本連邦構成主体の権力機関との間の管轄事項および権限の区分ならびに日本連邦の諸民族・諸人種の同権および自決に立脚する。

第4項 すべての日本連邦構成主体は、連邦国家権力機関との相互関係において同権である。

第六条 日本連邦の国籍

第1項 日本連邦の国籍は、連邦の法律に従って取得され、かつ喪失される。

民族ないし人種の如何にかかわらず、日本連邦の国籍を有する者を日本国民ないしは日本人と称する。

日本連邦の国籍は単一であり、その取得事由にかかわらず平等である。

第2項 日本連邦の国民は、その領土内において日本連邦憲法で規定されたすべての権利と自由を有し、かつ平等な義務を負う。

第3項 日本連邦の国民は、国籍を剥奪されず、また国籍を変更する権利も剥奪されない。

第七条 土地・天然資源の所有権

第1項 土地および他の天然資源は、当該領土に居住する国民の生活および活動の基盤として、州の管轄下において利用され、かつ保護される。

第2項 土地および他の天然資源は、私的所有、国家所有、自治体所有およびその他の所有形態の下に置かれる。

第八条 権力の分立、権力の根拠、権力行使の制限

第1項 政治権力は人民から負託されたものであり、人民の同意と任命に根拠を持つ。

したがってその権力の行使はつねに法に裏付けられていなくてはならない(法の支配)。

そうでない場合はその権力の行使は無効であり、国民はその行使に従う義務はない。

第2項 日本連邦における国家権力は、立法権、執行権、および司法権の分立に基づいて行使される。立法権、執行権、および司法権の諸機関は互いに独立である。
その場合の独立には、人事も予算も含まれる。

第九条 国家権力体系の単一性、国民に対する統治権と説明責任

国家権力機関による国民に対する統治は、統治システムのどの一要素も、最終的には、合法的に最高な一個の強制的権威と権力を持ち、中央政府を公式に代表して国民に対して説明責任を負える大統領の支配下に置かれる。

第十条 連邦と連邦構成主体の権限区分

第1項 日本連邦は、連邦、州、地域連合体より成る。

第2項 日本連邦の国家権力は、日本連邦大統領、連邦議会(上院および下院)、日本連邦政府および日本連邦裁判所が行使する。

第3項 日本連邦と日本連邦構成主体の権力とその区分は、日本連邦と日本連邦構成主体によって組織された国家権力機関によって定められる。

第4項 日本連邦と日本連邦構成主体との間の管轄事項および権限の区分は、この憲法、管轄事項および権限の区分に関する連邦法律によって定められ、実施される。

第十条 地方自治権の保障

第1項 日本連邦では、地方自治が認められ、かつ保障される。地方自治は、その権限内で自立的である。地方自治機関は、国家権力機関の体系には入らない。

第2項 日本連邦における地方自治は、州および地域連合体の住民によるその地方固有の問題の自主財源の確保、法制度決定を含む自主的決定、並びに自治体の所有する財産の占有と利用と処分を国家として保障する(自治権の保障)。

第3項 地方自治は、住民投票、選挙、その他の直接の意思表明の方法を通じて、または選挙およびその他の方法によって形成された地方自治機関を通じて、市民によって公務員をコントロールすることにより行使される。

第4項 中央政府からの補助金地方交付税交付金等の用途については、当該自治体の市民の要求に基づく議会の自由裁量を国家が保障する。

第5項 連邦政府の執行権は地方政府としての州政府または地域連合体政府の執行権を妨げない。
したがって、政令および省令の類は廃止される。それは日本連邦の法体系を国民にとってわかりやすくするためでもある。

第十一条 連邦の憲法および法律の優越

第1項 日本連邦憲法は最高の法的効力と直接的効力を有し、日本連邦の全土で適用される。日本連邦で採択される法律およびその他の法令は、日本連邦憲法に違反してはならない。

第2項 国家権力機関、地方自治機関、政治家、公務員、市民および市民団体、その他の全ての法人は、日本連邦の憲法および法律を遵守しなければならない。

第3項 法律は公布されなくてはならない。公布されない法律は国民には適用されない。
なお、閣議は国権の最高機関である国会が議決した法についての最上で最適な執行方法を議論して決める場であって、法案を決議する場ではない。したがって閣議決定および決定されたその事項は「法の支配」の下に強制力を有する。

第4項 一般に承認された国際法の原則と規範および日本連邦の締結する国際条約は日本連邦の法体系を構成すると同時に法体系を拘束もする。

また、日本連邦の締結する国際条約が法律の規定とは別の定めをしている場合、国際条約の規定が優先される。

 第十二条 憲法の役割

憲法は、国家の構成員である国民一人ひとりが、自分自身の主人公として、自分で自分の行動を、その条文を読むことにより、誰に判断を仰がなくとも自分で判断して決めることができるようになることであり、同時に、国家が国家として採っている行動と進んでいる方向についても、それが主権者である国民すべてによって予め信任され合意された方向に一致しているか否かということを、国民一人ひとりが自身で判断できるようになることである。

また憲法は、政府の名を語る者に対しては権力の乱用を禁止し、行使の行き過ぎを制限すると同時に、国民に対しては、政府の権力行使が法に基づいているか否かについて不断に監視する義務を負わせる。

それは、憲法そのものが政府を縛り制限するという行動を起こすわけではないからである。憲法の精神を憲法の名において行動をもって示すのは人だからである。人、とくに政府を占める人は、往々にして権力行使の仕方とその限界において間違いないしは勘違いを犯し易いからである。

十三条 憲法体制の基本原則の優越

第1項 本憲法第一章の規定は、日本連邦の憲法体制の基本原則をなし、本憲法において定められた手続きによらなければ変更できない。

第2項 本憲法のいかなる条文も日本連邦の憲法体制の基本原則に違反することができない。

 

第二章 国民の基本権と義務

 第十四条 人間の尊厳、人権

第1項 人間の尊厳は不可侵であり、かつ不可譲である。これを尊重し、保護することは、国家のすべての権力機関の義務である。

第2項 日本国民は、この考え方に基づき、世界におけるあらゆる人間共同体に対して、その人権に対する理解と信念を、あらゆる機会を通じて表明する。

第3項 以下の基本権は、直接に適用される法として、立法権、行政権そして司法権を拘束する。

 第十五条 人格の自由な発展、生命と身体に瑕を負わされない権利

第1項 何人も、他人の権利を侵害せず、かつ、合憲的秩序または人倫原則に反しない限りにおいて、自己の人格を自由に発展させる権利を有する。

第2項 何人も生命を守られる権利、身体に瑕を負わされない権利を有し、かつ人身の自由は不可侵である。これらの権利に対する侵害が許されるのは、法律に根拠がある場合に限られる。

 第十六条 平等

第1項 すべて人間は、法律の下に平等である。

第2項 男性と女性は同等の権利を有する。

国家は、女性が男性と同権となることが現実に達成されるよう促進し、現に存在する不利益を除去すべく働きかけなくてはならない。

第3項 何人も、その性別、出自、人種、民族、言語、故郷および門地、信仰、宗教的または政治的な見解を理由として、不利または有利に取り扱われてはならない。

何人も、その障害を理由として、不利な取扱を受けてはならない。

 第十七条 信仰と良心の自由、宗教的活動の自由、良心的兵役拒否

第1項 信仰、良心および宗教上もしくは世界観上の告白の自由は、これを侵してはならない。

第2項 妨害されることのない宗教活動は、これを保障する。

第3項 何人も、その良心に反して、武器を伴う軍務を強制されてはならない。

 第十八条 表現の自由、出版の自由、報道および放送の自由、学問および芸術の自由

第1項 何人も、言語、文書、および図面によって、自己の意見を自由に表明し、流布させる権利、ならびに一般に接近可能な情報源から妨げられることなく知る権利を有する。

出版の自由、ならびに放送および映画による報道の自由は、これを保障する。

検閲や監視は許されない。

第2項 これらの権利は、一般的法律の規定、青少年保護のための法律上の規定、および人格的名誉を保つ権利によって制限を受ける。

第3項 芸術および学問の自由は、これを保障する。

研究および科学は、その結果が人類の福祉や世界の平和と安全にとって脅威となる可能性を予見できるものに限っては、その自由は制限を受ける。

 第十九条 婚姻と家族

第1項 婚姻および家族は、国家的秩序の観点から、特別の保護をける。

第2項 子どもの保護および教育は、親の自然の権利であり、第1に親に課せられる義務である。この義務については、国家共同体がこれを監視する。

第3項 子どもは、親権者に故障があるとき、または子どもがその他の理由から放置されるおそれがあるときには、法律の根拠に基づいてのみ、親権者の意志に反して、これを家族から引き離すことが許される。

第4項 すべての母親は、国家共同体の保護と扶助を請求することができる。

第5項 婚外子に対しては、立法によって肉体的および精神的発達について、並びに社会におけるその地位について、婚内子と同様の条件が与えられなければならない。

 第二十条 学校制度

第1項 すべての学校制度は各州の監督の下にある。

第2項 親権者は、子どもを宗教の授業に参加させることについて、決定する権利を有する。

第3項 宗教の授業は、非宗教学校を除く公立学校において、正規の授業である。

宗教の授業は、国家の監督権を害しない限りにおいて、宗教共同体の狭義に沿って行われるものとする。いかなる教員も、その意志に反して、宗教の授業を行うよう義務づけられてはならない。

第4項 私立学校を設立する権利は、これを保障する。

公立学校の代用としての私立学校は、国家の許可を要する。

この認可は、私立学校がその教育目標および施設ならびにその教職員の学問上の養成において公立学校に劣らず、かつ親の資産状況による生徒の特別扱いが助長されない場合に、これを与えるものとする。

この認可は、教職員の経済的および法的地位が充分に確保されない場合には、拒否されねばならない。

第5項 私立の国民学校は、教育行政官庁が特別の教育的利益を承認する場合にのみ、または、親権者の申し立てに基づき、それを宗派共同学校として、または、宗派学校もしくは世界観学校として設立することが求められ、かつ同種の公立の国民学校がッ市町村(地域連合体)内に存在しない場合にのみ、これを認めるものとする。

 第二十一条 集会の自由

第1項 すべての日本人は、届け出または許可なしに、平穏かつ武器を伴わずに、集会する権利を有する。

第2項 この権利は、屋外の集会については、法律に拠り、または法律の根拠に基づき、これを制限することができる。

 第二十二条 結社の自由

第1項 すべての日本人は、結社および団体を結成する権利を有する。

第2項 その目的もしくは活動が刑事法規に違反し、または、合憲的秩序もしくは国際協調主義に反する団体等は、禁止される。

第3項 労働条件および経済的条件を維持し促進するために団体等を結成する権利は、何人に対しても、かつすべての職業に対して、これを保障する。

この権利を制限し、または妨害することを企図する合意は無効であり、これを目的とする措置は、これを憲法は認めない。

 第二十三条 信書、郵便および電気通信の秘密

第1項 信書の秘密ならびに郵便および電気通信の秘密は、これを侵してはならない。

第2項 制限は、法律の根拠に基づいてのみ、これを命ずることができる。

その制限が、自由で民主的な基本秩序、または連邦の存立もしくは安全の保障に資するときは、これについて関係者に通知しない旨、および、裁判所への出訴に代えて、国民代表が選任した機関もしくは補助機関による事後審査に付する旨、法律でこれを指定することができる。

 第二十四条 職業選択の自由

第1項 全ての日本国民は、職業、職場、および養成所を自由に選択する権利を有する。

第2項 何人も、伝統的で一般的な、全ての人に平等に義務付けられる公的な勤務の枠内にある場合を除き、特定の労働を強制されない。

第3項 強制労働は、裁判によって命じられる自由の剥奪の場合にのみ、これを認めることができる。

 第二十五条 住居の不可侵

 第二十六条 所有権、相続権、公用収用

第1項 所有権および相続権は、これを保障する。その内容および限界は、法律でこれを規定する。

第2項 所有権には義務が伴う。その講師は、同時に公共の福祉に資するものでなくてはならない。

第3項 紅葉収容は、公共の福祉のためにのみ認められる。紅葉収容は、法律により、または補償の方法および程度を規定する法律の根拠に基づいてのみ、これを行うことが許される。その補償は、公共の利益および関係者の利益を正当に衡量して、決定されなくてはならない。保証につき争いがあるときには、通常裁判所に出訴することができる。 

 第二十七条 社会化

 第二十八条 国籍剥奪、引渡

第1項 日本国籍は、これを剥奪してはならない。国籍の喪失は、法律の根拠に基づいてのみ、かつ、当人の意思に反するときには、当人がそれによって無国籍にならない場合に限り、認められる。

第2項 日本人は、何人も、外国に引き渡されてはならない。国際裁判所への引き渡しについては、法治国原理が維持されている限りで、法律によりそれとは異なる定めを置くことができる。

 第二十九条 庇護権

   第1項 政治的に迫害された者は、庇護権を有する。

第2項 難民の庇護権については、連邦上院の同意を必要とする法律で、これを規定する。

 第三十条  請願権

 第三十一条 基本権の喪失

第1項 表現の自由、特に出版の自由、教授の自由、集会の自由、結社の自由、信書、郵便および電気通信の秘密、所有権または庇護権を、自由で民主的な基本秩序に敵対するために乱用するものは、これらの基本権を喪失する。それらの喪失およびその程度については、連邦憲法裁判所がこれを裁定し、宣告する。

 第三十二条 基本権の制限、法人の基本権、出訴権の保障

第1項 この憲法に従い、基本権が、法律によりまたは法律の根拠に基づいて制限されうる範囲内において、その法律は、一般的に適用されるものでなければならず、単に個別事案にのみ適用されるものであってはならない。加えてその法律は、条項を示して当該基本権を引照しなければならない。

第2項 基本権は、いかなる場合であっても、その本質的内容において侵害されてはならない。

第3項 基本権は、性質上、国内法人に適用可能な限り、これに対しても適用される。

第4項 何人も、公権力によって自己の権利を侵害された時には、出訴することができる。他に管轄が定められていない限りにおいて、通常裁判所に出訴することが可能である。

16.4 私案としての新憲法の「前文」

 

16.4 私案としての新憲法の「前文」

 私たち日本国民が自身の手で憲法をつくろうとするとき、予め確認し、また考慮しなくてはならないと私には思われる事柄については前節にて述べた。

 そこで次は、いよいよそのとき確認した事柄を簡潔明瞭に盛り込んだ自主憲法の草案をつくるのであるが、その本文としての条文の作成に入る前に、その憲法を読み、それを活用しようとする人のために、その憲法を制定するに当たって私たち国民はどんな思いと決意をもってこれを制定したか、そしてその憲法の全文を貫ぬいている理念とはどのようなものか、を簡潔に明らかにしておく必要がある。

 その文章がいわゆる憲法の前文と言われるものである。

 今、ここでは、私なりに考えるその前文の試案を提案してみようと思う。

その際、要点として少なくとも次の点については触れないわけにはいかないように思う。

 1つは、書き換える必要があると考えられるついこの間までの「日本国憲法」ができる前までの日本の状況についてである。とくに日本が「アジア・太平洋戦争」という侵略戦争を起し、結果、それに無条件に降伏して、GHQ憲法草案を与えられ、それを少し修正した形でこれまでの日本国憲法が成立したこと。

 1つは、そのようにして成立した日本国憲法だったが、それは、日本国民の多くの人が、自分たちの手で作ったものではなく「与えられたものである」と考えたこと。また、特に当時の文部省そしてその後継としての文科省による学校教育では、憲法というものの持つ役割をきちんと教えなかったために、国民の大多数はそれを日常生活に役立てようとはせずにきてしまったこと。さらにまた、歴代自民党政権が条文そのままを読んで適用するのではなく、自分たちに好都合な解釈を挟んでは、従来の解釈を変更するだけで改憲をしたことにしてしまったこともあること。こうした事実からも判るように、条文の表現が一義的に解釈出来ないもの、あるいは曖昧なものが多く、その結果、私たち日本国民は、いっそうのこと日本国憲法を頼ることもせず、そしてそれを日常生活における判断基準ないしは原器として充分に役立てようともしなかったこと。

 1つは、人類は既に二度までも愚かとしか言いようのない大戦を経験し、その第一次世界大戦では1000万人以上の人々が、第二次世界大戦では7000万人以上の人々が死に、日本について見るだけでもおよそ320万人もの人々が死んだ。そしてその後遺症は、今なお、様々な面に見られる。このことから判るように、戦争というものは、ひとたび起こせば、その悲惨さとその影響は、戦争中だけではなく、後々、実にさまざまなところに及んでしまうこと。

そしてもしこの次、米ロ間あるいは米中間を中心に偶発的にでも戦争になれば、それは互いに核兵器を大量に保有する大国同士の戦争なために間違いなく第三次世界大戦に発展してしまい、そうなれば地球の自然を壊滅させながら、これまで人類が築いてきた文明を消滅させるとともに人類自身をも滅ぼしてしまうこと。

1つは、今後、科学がどれほど進歩しようとも、そして宇宙がいかに広く、いかに無数の星々があろうとも、日本を含む世界の国々の人々が、裸で、のどかに生きることができるのは、奇跡の星、水の惑星であるこの地球しかないこと。

そしてもう1つは、ここで提案する新憲法は、もはや世界のこれまでの資本主義経済とそのシステムを支配的経済システムとしてきた「近代」という時代を止揚して、まったく新しい時代に突入しているという時代認識を前提としているものであること。

その時代認識とは、世界の誰もが裸で、のどかに生きることができる地球とその自然こそが人類全体の至上の価値であると認識しながら、近代市民・人間のためだけの「自由・平等・友愛」を超えて、生命一般の「多様性・共生・循環」を実現させ、またそれに基づく経済システムを実現させることこそが私たち人類を真に存続可能とさせるものである、そしてそう確信して生きることこそが人類共通の至上の大義にそう生き方であるというものである。

 そこで以上の諸認識に基づいて、日本国新憲法の「前文」は次のようになるのではないか、と私には思われるのである。—————————

『 日本は、その歴史の中で、大いなる恩恵を受けて来た中国や朝鮮をはじめ、台湾、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイ、ビルマ(現在のミャンマー)の国々に対しても、合計およそ2000万人以上の人々には、当時の軍国主義の日本の起こした資源確保・労働力確保・領土拡大のための戦略戦争によって、殺戮、虐殺、凌辱、拷問、迫害等、人間として耐え難い苦痛と屈辱を与え、またその尊厳を傷つけてきてしまった。

その総数は、この戦争で死んだ日本人のおよそ320万人、そして広島・長崎に投下された原爆によって亡くなった今日までの総数43万人(厚生労働省に2014.1.17に確認済みの数字)の比ではない。

 その結果日本は、アメリカによる原子爆弾投下とそれに続くソ連軍の侵攻により、無条件降伏を余儀なくされ、戦争は終った。

 これまでの近代という時代は、人類のおよそ500万年の歴史の中で、何もかもがとくに急激に変化した時代だった。その変化を可能としたのは、知性に拠る科学の力だった。

 その直接的きっかけは産業革命だった。

産業革命は、その後資本主義を高度に発達させた。そしてその資本主義経済は、恐慌やバブルを繰り返させた。その間、社会主義の誕生を促したが、それも今や消滅したかに見える。その結果資本主義は、グローバリゼーションとネオ・リベラリズムの拡大の中、一見、世界の支配的経済体制となったかには見えたが、結局それは、人類全体に三つの大きな課題を残した。

 1つは、地球規模の温暖化とその激化を招き、他生命の絶滅と生物多様性の消滅を招き、人類自身の存続の危機を招いてしまったこと。1つは、世界中で分断をもたらし、貧富の格差を拡大し、世界の至る所で国家間の対立、宗教対立、民族間対立、部族間対立を呼び起こし、テロリズムを蔓延させ、大量の政治難民経済難民さらには環境難民を生み出してしまったことである。

 3つ目は、さらにはそうした状況下、国家間の利害の対立の中で、核兵器の開発と拡散も押さえようもなく続いており、偶発的な核戦争の危機がキューバ危機、あるいは1973年時以上に高まっている。

 一方、近代の幕開けとなったのはフランス大革命に代表される市民革命であったが、そのスローガンは「自由・平等・友愛」として世界によく知られている。

 しかしその自由も、平等も、そしてそれらの権利に基づく民主主義自体も、これを超える政治体制はないだろうと言われて来ながらも、今、どの国でも揺らいでいる。

 こうした状況を念頭において人類史を改めて俯瞰してみるならば、もはや一つの国、一つの民族、一つの人種、一つの地域の価値や利益を主張したり、一つの宗教、一つの文化の価値を主張したりすることには既に意味がないことが明らかになる。「自国ファースト」に拘ることなど論外である。同様に、資源をより多く確保することに拘り、領土の新たな獲得に拘り、自らの経済圏の拡大に拘り、軍事同盟の拡大強化に拘ることにも、それによって生じる摩擦や対立を思えば、もはやほとんど意味がないことも明らかになる。

 と言うより、もはやそんなことに拘っていられる時間的余裕と環境的容量すらこの私たち人類にはないのだ。人類全体の価値であるはずの地球とその自然が壊れかけ、その地球は今、人が裸で、のどかに生きることができる状態ではなくなりつつあるからだ。

 そのため、今や、私たち日本国民は、もはや資本主義が支配的だった「近代」という時代は終わり、まったく新しい時代に突入しているという時代認識を持つ必要がある。

それは「資本の論理」を超え、市民中心の「民主主義」をも超えた「生命主義」という認識である。言い換えれば、それは、国の違いを超え、民族の違いを超え、人種の違いを超え、また宗教の違いをも超え、さらには地球上の限りある資源を分かち合い、多様な他生物との循環と共存を実現させなければならないとする時代認識である。

そう考えなくてはならないとするのは、もはや、従来型の競争と価値の実現に拘る経済の発展の先には、人の人間としての真の幸せも、人類が存続しうる未来もないと考えられるからである。

 今、私たち日本国民は、そうした時代認識に基づいた生き方こそが、「地球人類全体の意志」に沿う道、全人類に忠誠を誓う生き方である、と確信するのである。

 私たち人類が裸でのどかに生きることができるのは、宇宙がどんなに広いといえど、宇宙にはどんなに無数の星があろうといえども、水の惑星であり、奇跡の星であるとされるこの地球しかないのである。

 わが国は、核兵器が使われてその悲惨さと恐怖を実際に味わった唯一の国である。

 その教訓を生かしながら、また以上の論拠に基づき、私たち日本国民は、「人類共通の至上の価値」である地球の自然を最大限に大切にし、またそれによって生かされながら、「人類共通の至上の大義」に沿って生きてはそれを世界に先駆けて実践し、世界から真に信頼され尊敬される、思想と実践における真の先進国になりたいと思う。

16.3 ではどのような内容と骨格の新憲法にするべきか

 

16.3 ではどのような内容と骨格の新憲法にするべきか

 では、そもそも憲法とは何か。そしてそれは誰のために、何のためにあるものか。

これは憲法というものを考えるとき、基本的に大切な問いである。

その一般論としての答えはこうなる。

憲法とは、国民にとっても政府にとっても、国民の日常の生活と国家としての政治のあり方について、実際的にもまた究極的にも、いつでも、判断の指針・規準あるいは原器となってくれるもの

 これをもう少し噛み砕いて言えばこうなろう。

それは一国の法的な中核を代表して成すものであり、それだけに日本という国はどうあるべきか、どういう国を作ろうとしているかを示し、日本という国家の基本的な目的を明確にするもの。そして日本の政治システムの中では、本当はどこに責任があるかを明確にするものであると同時に社会から恣意性を追放してくれるもの————このことの重要性については、例えば、中国国内で逮捕される人の多くは、自分がどのような法律条文による罪で逮捕されたのかわからない、と訴えていることからも判る。こうなるのも、憲法においても法律においても、ほとんどは、それを解釈して運用する立場の者の恣意が入り込める条文となっているからだ————。そして憲法は、日常的に使って役に立つものである(カレル・ヴァン・ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」P.346、「日本という国をあなたのものにするために」p.230)。

 憲法とはこのようなものなのである。したがって、そうであるためには、憲法はそれにふさわしい内容を備えていなくてはならないし、またそれを読む人に憲法の訴えているところを正確に伝えうる表現がなされていなくてはならないのである

 以上のことだけからも明らかなように、憲法とは、安倍晋三が言うような、「憲法は国の理想を語るもの」ではないし、「国の理想の姿を描くもの」 でも断じてない。むしろ彼は、例えば憲法第9条に関して言えば、同じ憲法の中には改定手続きが明記されているのに(第96条)、それを全く無視して、あるいはその条文に従っていたなら自身の野心を遂げられないと見たのであろう、自党とそれに協調する国会議員数に物を言わせて、条文はそのままにして、解釈の仕方を従来のものとは変えて解釈し直すだけで改憲したことにしてしまった張本人であることからも判るように、あるいは憲法に違反する法律の成立を強行し、その結果憲法そのものを理論的には破壊してしまった事実からも判るように(16.1節)、彼は憲法を一見そのように国の理想を語る文章のように言うが、その実態やその本心は、憲法を虚仮にし、立憲主義を軽視しているのである。そしてそんな彼は、現在のこの国の国政政治家の中で最も改憲に執着している一人なのだ。

 

 ところで憲法とは何かについて、それは、国民の日常の生活にとっても政府にとっても、実際的にもまた究極的にも、判断の指針・規準あるいは原器である、としてきたが、その意味は大きく言って次の2つになる。

 1つは、国家———「国」ではない———の構成員である国民一人ひとりが、自分自身の主人公として、自分で自分の行動を、その条文を読むことにより、誰に判断を仰がなくとも自分で判断して決めることができるようになる、という意味での規準あるいは原器であるということ。

 1つは、国家が国家として採っている行動と進んでいる方向についても、それが主権者である国民すべてによって予め信任され合意された方向に一致しているか否かということを、国民一人ひとりが自身で判断できるようになる、という意味での規準あるいは原器であるということ。

 憲法は、国民と政府に対してこの2つの役割を果たすことによって、社会から「恣意性」あるいは「気紛れ」を追放してくれるものとなるのである(K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」P.346?!)。

 上記2つが意味することは、憲法とは、国民一人ひとりが、たとえば次のような重要な事柄でも、憲法条文を頼るだけで、自分だけで確信を持って判断できるようになる、ということなのである。

たとえば、自分たちの国では、国民一人ひとりの基本的人権がいつでも、きちんと守られているか否か。大惨事に遭遇した場合でも、国民一人ひとりの生命・自由・財産が安全に守られているか否か。国会にてつくられる法律はつねに憲法に合致しているか否か。国家はきちんと憲法や法律を守っているか。政府はきちんと行政手続き法に基づいて行政を行っているか。官僚あるいは一般に役人のやっていることやそのやり方は憲法が条文で規定する「全体の奉仕者」としての行為に合致しているか否か。国会は本当に国権の最高機関たり得ているか否か。そして三権は互いに独立し得ているか、とくに司法権は行政権から完全に独立し得ているか否か、等々についてである。

 

 さて、憲法は、国民にとっても政府にとっても、国民の日常の生活と国家としての政治のあり方について、実際的にもまた究極的にも、いつでも、判断の指針・規準あるいは原器となってくれるものであるためには、それにふさわしい内容と表現を備えていなくてはならないとしてきた。

 では、その場合、前者の「それにふさわしい内容」とはどういうものを指すのであろうか。

実際、現行の日本国憲法は、「それにふさわしい内容」を備えているだろうか。

以下に明らかにするように、体裁の上でも内容の上でも、決してそうはなっていないと私は思う。

 では、憲法が最低でも満たすべき要件とは何か。

そこで、以下ではそれについて考察しようと思うが、ただしその前に、特にこの国の憲法観をめぐる現状を見るとき、明らかにしておかねばならないことがあるように私は思う。

それは、とくに護憲派と呼ばれている人々の多くが言う、「法律は国家が国民を縛るあるいは制限するものだが、憲法は国民が国家の政府を縛るあるいは制限するものだ」、ということについてである(伊藤整 語りおろしDVD「憲法ってなあに?」)。

 辞書によれば、憲法の定義は、「国家存立の基本的条件を定めた根本法。国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通常他の法律・命令を以て変更することを許さない国の最高法規とされる」とある(広辞苑第六版)。

 果してこの憲法の定義から、上記の憲法観を導き出せるのであろうか。

私は無理だと考える。それに近代史上、たとえば、これまで植民地であった国が宗主国から独立するような場合、あるいは新国家を建設するような場合、先ず「憲法」を制定することを見ても、憲法は何も国民が政府を縛ったり制限したりするだけにあるものではないことは明らかなのである。

それに、何と言っても、憲法は、上記定義が明らかにするように、「国家存立の根本的条件を定めた根本法」であり「国の最高法規」なのだ。最高であるがゆえに、“憲法に違反する法律は無効”とされ、“他の法律・命令を以て変更することを許さない法規”なのだ。

 つまり憲法は、国民一般にとってはもちろん、政権を担う政治家を含む政治家一般にとっても、官僚を含む役人一般にとっても、また天皇にとっても、国民誰もが、等しく、最終的に頼りに出来る、一定の明文化された規準であり、国の唯一の基本法なのだ。

 したがって憲法は国民が国家の政府を縛るものであるとする見解は、憲法に対する一面的な見方に過ぎない、と言えるのである。

 なお、国家は、政治学的には文化や歴史・伝統そして道徳や宗教に対しては中立であるべきとされているのと同様に、その国家の屋台骨となる憲法もそれらについては中立でなくてはならない、というのは言うまでもないことだ。

具体的には、権力保持者の側が自分たちの思想、道徳観、宗教的信仰そして文化観に基づいて、国民に、それらを押し付けたり、それに従うよう指図したりするような内容は含んでいてはならない、ということである。

 

 そこで、前に戻って、憲法が、内容上、最低でも満たすべき要件とは何か、についてである。

その際のヒントはやはり憲法というものの定義にある、と私は考える。

つまり、その憲法は、本当に、国家存立の基本的条件を定めたものとなっているか、国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めたものとなっているか、ということである。そしてそれは、通常他の法律・命令を以て変更することを許さないし、憲法に違反する法律も命令も許さないということが明記されたものとなっているか、ということである。

 さらには、既述のごとく、どういう国を作ろうとしているか、国家として目指すもの・目的地を明らかにしているか、日本の政治システムの中では本当はどこに責任があるかを明確にし、社会から恣意性を追放してくれるものとなっているか、国民が日常的に使って役立つものとなっているか、等々ということなのである。

 そしてその内容とは、私は次のようなものとなるのではないか、と考えるのである。

 

 

 

 

○国家として目指す目的地としての国のあり方

○国家としての使命と目的と理念

○人および市民の人間個人としての基本権とその保障

主権の保持者、生存権、人格・人身の自由権、信仰・良心・宗教活動の自由権、表現・出版・放送・芸術・学問の自由権、集会・結社の自由権、営業の自由権、性別・出自・人種・言語・故郷・門地・信仰・宗教的または政治的見解の違いに拠らない法律の前の平等権、私有財産の所有権・相続権・公用収用権、

成年、母性・児童・家族の保護、健康を維持する権利、社会保障を受ける権利、信書・郵便・電気通信の秘密の保護、労働権・争議権、裁判を受ける権利、弁護を受ける権利、不利益な供述を強要されない権利、身体の無瑕性の権利、環境権、国家による人権庇護権、無罪推定、一事不再理、請願権、出訴権の保障、国家賠償を受ける権利、公務員の罷免権、先住少数民族の権利、移民と難民の受け入れと地位(基本的人権の保障)、政治的亡命者の保護、基本権の喪失、権利の制限、自由は尊重されねばならないが、しかしその自由権の行使には、常に責任が伴う、とする。

そして特にここでの人および市民の人間個人としての基本権とその保障として、国民の誰もが、仮に逮捕され、また起訴された場合、なぜ自分が逮捕され、起訴されたのかわからないような法律を作ってはいけないと憲法が明記すること。言い換えると、何が罪あるいは犯罪に当たるかは国家が決めるといった、法を運用する者が恣意を介在させうるような法、あるいは何が罪あるいは犯罪に当たるか曖昧なままの法を作ってはいけない、と憲法が明記すること。

つまりあらゆる法は恣意が介在できない法とすること、と憲法に明記する。

○国民の義務

すべての国民の憲法擁護の義務(国民の不断の権力監視義務と憲法を守る義務)。納税の義務。環境、とくに生態系と生物多様性を保護する義務。

○「元首」を誰にするか、その明確化。元首とは、一国を代表する資格を持った首長のことである。君主制の国では君主、共和国では大統領あるいは最高機関の長など(広辞苑第六版)。

連邦議会

連邦議会を上院(参議院)と下院(衆議院)の二院制とすることの明記。

下院(衆議院)と上院(参議院)の役割の明記。

議会の召集権と解散権は議長にあり、とする。

(現行憲法は、臨時議会の召集権のみを決めており、それは内閣にありとするが(憲法第53条)、しかしそれは臨時議会であろうと通常議会・定例議会であろうと、普通・平等・秘密選挙に基づく議会に最高の権限を与えようとする議会制民主主義の考え方からはおかしい。なぜなら権力順位が国会以下の政府の内閣が————たとえ政府の長である内閣総理大臣といえども————最高権を有する国会を招集する権限があるとすること自体、矛盾しているからだ。

 また、現行憲法は、解散権がどの機関の誰にあるかは何も述べてはいないが、慣例からすると憲法第7条と69条に基づくとされ、解散権は内閣総理大臣にあるとされてきているが、それも、臨時会の招集権は内閣にありとするのと同様に、理屈上おかしい。そもそも国会よも権力順位の低い政府に自分よりも権力が高い国会を解散させるなどといったことが理屈に合うはずがないからだ。

 そこで、それ以上に、議会に解散は有りとするのか無しとするのか、それを明確化する。

その場合、下院には解散は有りとしても、その下院の解散権は誰にあるかという、その所在も明確化する必要がある。

○連邦大統領と連邦政府

徴税者としての連邦・州・地域連合体の政府の義務

司法権

とくに行政権からの完全独立

憲法裁判所

○新国家建設構想立案国民会議

○選挙管理

普通選挙は秘密投票でおこなわれること。投票権と一票の平等性の保障。

○外国との条約を批准するに際して、条約締結権限を公式に与えられた者は誰であるとするのか。その答えは内閣であるとする現行憲法(第73条)は余りにも曖昧である。したがって、たとえば、それは内閣総理大臣である、と明確化されるべきだ。

○財政制度

憲法と一般法との関係

○連邦および連邦構成主体(州、地域連合体)の立法権、行政権、司法権とそれぞれの独立性

○連邦構成主体とその法的地位および権限(連邦、州、地域連合体。連邦政府と州政府と地域連合体政府との間での権力関係。地方自治の保障 (第8章参照)

 たとえば、国家的大惨事・大災害の時、連邦政府の役割と責任はどこからどこまでか、一方、州や連合自治体の役割と責任はどこまでか、どこまでお互いが独自の裁量で権限を行使できるのか、という境界の憲法的明確化。

 実際、たとえば、新型コロナウイルス対策でも、「緊急事態宣言」を発するのは中央政府であるが、国民各自の外出「自粛」の「要請」を発したり、またそれを「解除」したりするのは都道府県庁の首長である、などといった西村経済再生担当大臣のまったくご都合主義的で恣意的な説明があったが、そういうことが起るのも、中央政府と地方政府との間での法的地位・権限の内容の違い・相互の権力関係が、憲法の上で定まった形で明確になっていなかったからだ。

 とにかく公的な物事の指示や命令はつねに確定し公布されている、一定の明文化された規準に基づいてなされるべきなのだ。それは「法の支配」にも通じる。決して臨機の命令や指示あるいは不明瞭で曖昧な決定によるべきではない。臨機の命令や指示あるいは不明瞭で曖昧な決定による命令や指示は、国民を戸惑わせることになるだけだからだ。

そしてこのことは、今後ますます現実的に想定される台風や地震などによる大災害時には、一刻も早く被災者である国民の生命と財産と自由の安全を確保するためにも、とくに重要なことである。

 ところが、こうした国民にとって極めて重要なことが、現行日本国憲法ではひと言も言及されてはいないのである。

○連邦の管轄事項(第8章参照)

○連邦構成主体の管轄事項(第8章参照)

○連邦と連邦構成主体の共同管轄事項(第8章参照)

天皇の国王化(象徴としての天皇から、憲法に制御される「国王」、民主主義の育成に役立つ「国王」と明確に位置づける(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.240))

 その上で日本は今後も君主制の一種である天皇制、それも民主憲法下での天皇制を維持するのか、それとも共和制とするのかを明記する。

 なお、共和制とは、主権が国民にあり、国民が選んだ代表者たちが合議で政治を行う体制のこと。その場合、国民が直接・間接の選挙で国の元首を選ぶことを原則とする(広辞苑第六版)。

しかし、いずれの場合でも、そのときの天皇の地位としては、もはや「象徴」といった曖昧で国民にとっても判りにくい地位では済まないであろう。「象徴」では、実際のところ、何かの際、あるいは現実的な目的のためには、全く用をなさないからだ(同上書の同ページ)

 実際、現行日本国憲法は、天皇は日本国の象徴・日本国民統合の象徴とは明記するが、ではそれは一体、具体的にはどういうことを言うのかということについては、アジア・太平洋戦争敗戦後の昭和天皇ご自身も、そして平成天皇もずっと考えて来られたのだ。そして各々の天皇が考えられたそれを各々の天皇なりに形に表わされて来たのである。

つまり「象徴としての天皇」というのは主権者である国民と天皇との間で概念の共有化も出来ないままになっているし、天皇相互の間でさえ概念の共有化ができてはいない。これでは実質的に無意味な言葉でしかない。それに、「象徴」を明確に定義し得ないでいる今のままでは、たとえば、「天皇は本当に必要なのか? 必要だとすればなぜ必要か?」といった問いに対しても、誰もが納得できる合理的な答えを見出せるはずはない。

天皇の地位についての註:日本では、神話の中の天皇が初代天皇であるとしたり、「万世一系」などといった見方をしたりしてきたが、史実だけに基づいた天皇の系譜を見れば明らかなように、それはつくられた話(虚構・嘘)であることが判る。ましてや「現人神」などとすることにも土台無理があったことも判る。それに、「大嘗祭」を見れば判るように、宗教的な意味を残した天皇というのも政教分離という原則をとるならば、合わない。

 明治の時代は天皇制」を執って来たとは言っても、天皇が官僚による統治を正統化するためにいかに巧妙に利用されて来たかを振り返ってみるとき、またとくに昭和10年代から昭和45年まで、天皇現人神とされ、統帥権があるとされ、理論的には無限の権力を持つとされながらも、とくに陸軍(関東軍)などはその統帥権を無視して独断行動をとり、満州国という傀儡国家をでっち上げたことからも判るように、官僚たちは天皇を事実上は無力な存在としながら、利用してきたのである。

 とにかく、もはやこの国は、確定して定まった法律やルールに基づかないで曖昧な表現の下で物事を行ったり、そういうものだと理解しようとする習慣は止めるべきではないか。

 なおこの問題は、国旗とされている「日の丸」と、国歌とされている「君が代」を今後も存続させるべきか、変えるとすればどう変えるべきか、という問題と一体を成してもいる。)

○国王化された天皇の役割

国事行為を含めた役割と、権能の限界、天皇と大統領との関係、天皇の財産の授受

○政治家の使命と責任

○公務員の使命と役割

○国民の公務員に対する任免権と罷免権

○法人の基本権と独占の禁止

○非常事態時、緊急事態時の国家の対応の仕方(個人と法人の権利の制限)

文民による軍人に対する統制権(シビリアン・コントロール)の保障

○国旗、国章、国歌、首都

○通貨

 

 思えば私たち日本国民は、自分たち自身の手で“オレたちの憲法だ”と思えるものをつくった体験は一度もない。いま手にしている日本国憲法も、基本的にはGHQから手渡されたもので、それを、日本政府が相変わらず欽定憲法下の政府の体質を引きずりながら、国民の意見も聞かずに部分だけを修正して成った憲法である。そのためか、あるいは立憲体制に慣れていないということもあってか、私たち日本国民は、その圧倒的多数が、「憲法を日々の暮らしに生かす」という生活をしてこなかった。またその結果であろう、日本国民は、その日本国憲法に対して、施行以来実に70余年間、その憲法上の不備または欠陥に気付かずに来てしまい、国民一般からは憲法改正の必要の声が上がってくることはなかった。

 そんな中、現在の日本国憲法については「押し付けられた憲法だ」との主張が1950年代から改憲派によって延々と繰り返されて来ている。その動きの代表的論者が現首相安倍晋三の祖父で、極東軍事裁判A級戦犯容疑者とされた岸信介元首相だ。しかし安倍は在任中改憲を果たし得なかった祖父の志を受けてであろう、在任中での改憲を戦後の首相として初めて言明した。

その彼は、手始めに、歴代自民党がとって来た9条についての「同条文は個別的自衛権を容認しているだけで、集団的自衛権は容認してはいない」という解釈を勝手に翻した。それも、憲法改正手続きを明記した96条を無視する形で、条文を書き換えることなく単に「解釈」を変更するだけで「改憲した」としてしまった。これは明らかに憲法を蹂躙した態度だ。自国の基本法である憲法をこうした方法で変えてしまうのは、国連に加盟している国家群の中で、多分安倍晋三だけであろう。それだけにまた、安倍は、多分、世界のどこの立憲民主主義国のとくに首脳からも本当の意味で信頼されてはいないであろう。

 実は日本国政府自身が自国憲法を虚仮にしている態度はそれだけではない。

たとえば、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」と明記している第9条において、小学生から見ても軍隊という戦力であることは明らかな自衛隊を保持していることだ。それも世界で5番目の規模のものだ。しかもそれは、実力部隊すなわち軍隊ではないし戦力でもない、したがって違憲でもない、ともして来ている。

 これはもう黒を白と自国民を言いくるめる論理であるし態度だ。そしてそれは、かつて、撤退あるいは敗退を転戦と言いくるめ、全滅を玉砕と言いくるめ、戦車を特車と言いくるめた明治憲法下の政府の態度となんら変わらない。

 またその態度は、現行憲法には、衆議院の解散の有無や、その解散権が誰にあるかということについては明記した条文はないのに、というより国会の権力より低位の権力しか持たない内閣の長が、衆議院であれ、国権の最高機関と憲法が明記する国会そのものを解散させることができるなどということは民主主義政治学の観点からもあり得るはずもないのに、根拠にもならない条文(第7条と69条)を持ち出して、「衆議院には解散がある」とし、「その解散権は首相の専権事項だ」と言っては国民を誤摩化して来た態度とも変わらない。

 

 そこで、ここで原点に立ち帰ってみるのである。

私たち国民が私たちの憲法を自分たちで創って持つということは、自分たちが自分たちの意思に拠り国家共同体を結び、「自分たちで自分たちの進み行くその道を決意し、自分たちの国を自分たちで形づくることを決意する内容を明文化すること」(樋口陽一)なのである。

 だから、憲法を日々の暮らしに生かそうとしなかったり、憲法に無関心であったりするということは、結局は、社会の正義や秩序に対してだけではなく、自分の人生や生き方にも無関心あるいは無頓着であるということである。国家共同体の主権者として、国家と自身に対する義務と責任にも無頓着であるということになる。国家と自身に対する義務を放棄していることでもある。

 とはいえ、この国の場合にはとくに、憲法を考える、あるいは憲法を改定する、新憲法を制定するとは言っても、次の点はやはり忘れてはならない重要なことであると私は考える。

それは、過去(それも昭和10年代以降の)をきちんと清算することを阻み、歪めようとさえする者が今もいることだ。また、憲法改正を「かつて来た道」に引き戻すための手段にしようとたくらむ者もいることだ。

 そのために、とくにいま権力を手中に収めている人たち、これから権力を手に入れようとしている人たちが、これまで何をしてきたか、そして何をしてこなかったか、を私たちは明確に知っておくこと。またこれまで改憲の必要性を説いてきた人たちで、いま権力を手に入れている人たち、これから権力を手に入れようとしている人たちは、何をどうしたくて、あるいはどういう理由で改憲の主張をしてきたのか、しているのか、をも私たちは明確に知っておくこと(同じく樋口陽一)。このことがとくに重要になるのである。

 実際、現在、自民党から提案されている憲法草案およびその改定案は、内容はもちろん体裁もまったく憲法の体を成してはいないもので、道徳を汲み入れ、天皇を元首にしようとするなど、懐古調または復古調が色濃くにじみ出たものなのである。

 今この国に求められている、私たちが自らつくる私たちのための新しい憲法は、「国の理想の姿」を描いたり、古の国の姿を懐かしんで描いたりするものでは決してなく、むしろ今を生き、また未来に向かって生きようとする際の明確な指針となりうる憲法なのだ。もっと言えば、もはや、国民の知らぬ間に、あるいは知らされない間に、戦争へと突き進んでゆき、そこに国民が有無を言わさずに駆り出され、協力させられ、ウソだらけの戦況報告を知らされ続け、その挙げ句が、これも国民は何一つ知らされない形で突如「無条件降伏」を告げられるという終り方をした戦争は二度とさせないための憲法なのだ。と同時に、今後の日本の行くべき方向や目ざすべき国あり方を国民みんなで考え、私たち国民すべてがより安心して、持続的に暮らしてゆけるようになることを実現する憲法なのだ。

それも、文字が読めさえすれば、国民の誰にとっても、一読してその意味しているところが合理性をもって理解でき、日々に活用できる憲法なのである。

 

 次節以降では、以上のことを踏まえて、私の考える具体的な憲法草案の前文と本文を提案してみたいと思う。

 

16.2 現行日本国憲法に対する世界の見方

 

16.2 現行日本国憲法に対する世界の見方

 「主権」とは近代における国家を構成する三要素(領土・国民・主権)の一つであり、その意味していることは、国家自身の意思によるほか他国の支配に服さない統治権力のことである。そしてそれは、最高で、独立した、絶対の統治権としての権力のことでもある(広辞苑第六版)。

 私たちは、私たちの国日本が「独立国」でなくてはならない、独立国であるはずだ、と考えるのならば、この定義が意味していることを先ずしっかりと理解しなくてはならない。

 しかし、主権にはもう一つ、重要な意味がある。それは、国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利(同上の広辞苑)、というものである———この「最終的に決めることができる」としているところがとくに重要———。それは、世界のどこの立憲民主主義の国でも、それを所持しているのは国民である、とその国の憲法は定めているものである。

 そこで、主権に関するこの定義を踏まえるならば判断できるように、国家の基本法であり最上位法である憲法において、この主権のたとえ一部ではあってもそれを「放棄する」ということを明記するということは、その国は真の意味での、あるいは完全な意味での国家ではないし、同じ意味での独立国でもない、ということを意味する。言い換えれば、その国は、自分の国のことのすべては自分では決められない国である、と自国民に対してだけではなく世界に向って公言していることと同じことになる。

 ここで私が言う「一部放棄している主権」とは、現行日本国憲法についてみるならば交戦権のことである(第9条)。交戦権、それは国家が————国、ではない————自国民を守るために戦争をなし得る権利のことであり、また戦争の際に行使しうる権利のことである(同上の広辞苑)。したがってその交戦権を放棄することは、主権のうちでも、対外的には最大の権利を放棄することだ。

それは、現行日本国憲法にこう記されていることを言う。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。」

 しかし、ここで私たち日本国民は世界の歴史において明らかにされてきた次の真実を忘れてはならない。それは、戦争にも大きく分けて2種類あるという真実である。

たとえば、かつて日本が領土拡大と資源確保のために周辺アジア諸国に対して行った侵略戦争と、ベトナムの人々がアメリカを相手に戦った、もっぱら祖国を防衛するために戦った戦争の例が判りやすいのではないか、と私は思う。

 前者の日本が行なった他国への侵略のための戦争は決して世界が認める戦争ではないし、実際、国際法違反の戦争だった。アメリカがベトナムに対して行なった戦争も侵略戦争であるため、世界が認めるものではなかった。しかし、その同じ戦争も、見方を変えて、侵略される国と国民から見れば、これは祖国を守るために止むを得ず受けて立たざるを得ない戦争であり、それは正義を実現するための戦争、となる。

実際、私たち日本国民のみならず世界の人々は、アメリカと戦うベトナムの人たちに向って、交戦権を放棄すべきだった、放棄することが正しかった、などと言えるはずはなかった。

なぜなら、当時のベトナムの人々にとっては、防衛するための武力や軍事力の有無や高さとは無関係に、侵略者アメリカに抗して闘うことが民族としての誇りであり、愛国心の表し方だったのだからだ。

 あるいは、大規模な戦争とまではいかなくても闘うことそのこと自体についても、次のような比喩を考えてみれば、正義の意味を持つ闘いと、邪悪な意味を持つ闘いとがあることが判るのである。

 一人であれ複数であれ、強盗殺人を目的としたある賊が、あるいは感情的怨恨から殺害を目的としたある人物が何かしらの凶器や武器を所持してある家族の住む家に不法侵入して来たとする。

 そのとき、もし、その家の主が、賊に向って、「自分は正義と秩序を基調とする地域や家庭の平和を誠実に願うので、闘うことや武器を持ってあなた方を威嚇または武力を振るうことはあなたと殺し合うことになるかもしれず、それは悶着を解決する手段とはなり得ないから、あなた方と闘う権利は放棄する」と言って無抵抗にしていたなら事態はどうなるのだろうか、と。

それは、一見平和主義で博愛の態度に見えるかも知れないが、実際にはそれはむしろ自らの家族への愛に乏しい姿で、賊に対しては卑屈で臆病な態度とは言えないだろうか。そもそも家の主が家族一人ひとりを深く愛していればいるほど、不法侵入して来た賊に対して、そんな態度は取れないのではないか。そんな態度を取ったなら、そのとき、その家の妻や子どもの生命の安全はどうなるのだろう。その家の家族の自由はどうなるのだろう。その家の財産はどうなるのだろう。そしてその時いったい誰が家族を賊や賊の暴力から守ってくれるのだろう。

 この比喩は、領土と国民と主権をその三要素とする国家と国家の関係においてもそのまま当てはまるのである。

 国民が固有の領土を守りながら平和に暮らす国家に、どこの国の誰か判らぬ武装集団あるいは軍隊がいきなり国境を越えて侵入して来たとき、憲法に明記されているからと言って、日本の政府も国民も、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するため、「国権の発動たる戦争」も、「武力による威嚇又は武力の行使」も「国際紛争を解決する手段」とはなり得ないと考えるから「永久にこれを放棄する」と言うばかりで、抵抗することも、何らかの武器を持って戦うこともしなかったなら、国民の生命の安全は、国民の自由は、国民の財産は一体どうなってしまうのか。誰がいったい守ってくれるか。

ひょっとして、その時、国民は、あるいは政府は、その役は軍事超大国に任せればいい、そのために、日頃、卑屈なまでの、あるいはとても対等は言えない軍事同盟を結んでいるのだから、としてしまうのだろうか。

 仮にそんな態度を日本が軍事超大国に対して取ったなら、果たして、そんな大役を任された外国軍隊の面々は、日本国民と日本政府に対して、むしろこう思い、日本人を軽蔑してくるのではないのか。“自分で自分(の国)を守ろうとさえしない者に対して、どうしてオレたちが血を流してでも守ってやる必要と義務があるのか? オレたちだって、自分の国はまず自分の手で守ろうとしているのだから”、と。

 このように、上記2つの比喩の例からも明らかなように、現行日本国憲法は、実際にそうした場面に直面したなら、「平和憲法」などと言っていられるどころか、たちまち実行不能憲法であることを自国民に対しても露呈させてしまうことになる。

 あるいは、ひょっとして、交戦権を放棄することを明記した憲法を持つ私たち日本国民は、将来のいつか、もし当時のベトナムの人々と同じ立場に立たされることがあったとき、平和憲法を持ち出して、敵または賊に対して、無抵抗で不服従の道か、侵略者に隷従する道かのいずれでも受け入れる覚悟ができているとでも言うのであろうか。受け入れる覚悟を持った上で交戦権の放棄を支持しているのだろうか。

 私には、この国の大方の人々の自国憲法に対するこれまでの向き合い方を見ていて思うのであるが、そして私たち日本国民一般に見られるこれまでの「ものの考え方」と「生き方」を見て来て思うのであるが(5.1節)、そこまでの明確な覚悟などとても持ってはいない、というよりそこまで憲法を読み込んでもいなければ考えてもいないのではないか、と確信さえ持つ。

 いずれにしても、無抵抗であったなら、侵略される側から見れば、そこで虐殺されるかもしれないし、そうでないとしても、人間としての自由を奪われて、耐え難い屈辱と辱めを受けることになる。事実、同朋であるはずの周辺アジアの国々を侵略した昭和10年代当時の日本軍、特に関東軍は、侵略したその地で、その地の人々に対して、幾多のそうした暴虐行為を働いたのだ。

 

 日本国民の大多数は、自国の現行憲法を、意識的に、日頃の自分の暮らしと生き方に役立てようとして来なかったがために、この国を本気で守らねばならないという非常時には、皮肉にもその憲法がかえって足かせになってしまうということに気付かないで来たのではなかったか。

というより、こうした欠陥をもつ憲法を、どの家でも、どの人も、「平和憲法」だとして後生大事に、つまり触れてはならないものとして、70年以上も後生大事に抱え込んで来たのではなかったか。そしてそれがために、いつの間にか、憲法と私たちとの関係はそれが当たり前として、次の事柄にも疑問を持つことさえして来なかったのではないか(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.156)。

1.正当な戦争と邪悪な戦争を一切区別しない「平和憲法」を持ったという理解により、私たち日本国民は、世界に現実に起っているさまざまな戦争について、正当化できる戦争とそうでない戦争があることにすら気付かず、考えようともせず、またその区別をしたり見分けたりする必要もなくなったこと。

 そしてこのことが、私たち日本国民の多くをして、現実の世界を直視させ判断させる必要性を感じさせなくしてしまい、正当化できない戦争で苦しむ人々に同情することもなく、むしろ無関心を助長することになったこと。

2.すべての戦争はつねに悪だとする平和主義を推し進めることによって、私たち日本人は、過去の自分たちの戦争すらも———その戦争は軍部の官僚と政府の官僚とが一体となって推し進めただけの戦争と理解するだけで———歴史の真実としてそれを直視することもしなければ、受け入れることをも自分自身でいつまでもしなくなっていること。

3.既述の意味で実行不可能な「平和憲法」なのに、その憲法を持ったことによって、日本(人)は何もしないでも———世界の危険地帯や紛争地帯に実際に足を運び、血を流してでも世界の平和のために、あるいは大義のために戦っているわけではないのに。また、そうした海外の人々と共に現地での平和維持活動に参加しているわけではないのに———世界平和の大義に貢献しているという思い上がりと独りよがりを、日本国民、それもとくに護憲派の人々の間に生んでしまうことに役立ってきたこと。

 しかもそうした思い上がりや独りよがりの態度は、実際に命の危険を冒して世界平和に貢献している国々とその国々の民間人や兵士に対しては不遜であり自己欺瞞の態度でもあるということにも気付かせないできたこと。またそうした態度は、とかく、すべてをお金で済まそうとする日本政府の態度や、法律上は決着を見た問題だとして自己の加害行為を心に刻もうとしない態度と共に、日本に対する世界の誤解を深めることになるだけだ、ということにも気付かせないできたこと。

4.公式に交戦権を放棄した世界で唯一の国だからとして、それゆえに「日本は他に類のない国である」と世界にその特異性を訴え強調することで、国民自身、とくに護憲を主張する人々は、かえって国際社会の中で孤立を深めてしまっていること。

 

 なお、もちろんここで言う「世界」とは国連に加盟している国家群のことであり、それぞれは自衛権はもちろん交戦権をも堅持する憲法を持ち、対外的にはつねに自国の主権を最優先して外交をしている国々のことである。

 実際、その世界は日本をこう見ている。

“国際的有事の際、日本は交戦権を放棄している国だから、オレたちと一緒になって国際平和のために血を流すようなことはしない”。“国際的有事の際、日本は満足な責任を果たせない国だ”。

その代わりに、“日本はいつもカネですべてを済ませようとする国だ”。“日本はいつもアメリカに追随し、アメリカの傘の陰に隠れているだけの国だ”。“日本はいったい何がしたい国なのか”。

 要するに日本は、国際社会で、一人前の国、一緒に付き合える国、価値ある国、本当に信頼するに値する国とはみなされない国になってしまっているのである(K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社。「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」徳間書店p.305)。

 現行の日本国憲法を巡るそんな状況の中、また、そんな主権意識に欠けた指導者を抱える状況の中、とくに「護憲派」と呼ばれる人々あるいはその陣営の中には、そんな第9条を「人類の宝」とみなし、それを「世界遺産」にしようとする人々までいる。

果たしてそう試みようとしている人たちは、世界遺産登録の可否を審査する国連の人たちこそ、民主主義と憲法というものへの深い理解を持った人たちであるということを知らないのであろうか。

 しかしこうなるのも結局は、私たち日本人は、少なくとも江戸時代から、理不尽と感じても抗議の行為に訴えることをせず、また理不尽を跳ね返す行為に出ることもせず、むしろ「仕方がない」として泣き寝入りさせられることに馴らされて来た結果なのではないか。イエーリング(「権利のための闘争」村上淳一訳 岩波文庫)が言うが如く、日本国民一般の権利感覚が萎縮し、いえ、萎縮するだけではなく鈍感にもなり、理不尽を理不尽と、苦痛を苦痛と感じないようになってしまった結果なのではないか、と私は考える。

特に沖縄の人々が70余年にわたって置かれて来た状況に対する本土の人々の理解の程度が、そして日本政府そのものの態度が、そのことを何よりも如実に証明しているのである。

16.1 なぜ今、新憲法を大至急制定する必要があるか

 

 今回からは、この国の形と姿を決める憲法についての私の見解を公開します。

その際、この国のこれまでの憲法論議のあり方と自民党が掲げる憲法案には特に注目していただきたいと思います。

 

第16章 国民の手による新憲法の起草と制定

16.1 なぜ今、新憲法を大至急制定する必要があるか

 今、憲法に関心のある人々の間からは、憲法を巡って、「改正すべきだ」、「否、変えるべきではない」といった声がしきりと聞こえてくる。政治家の間でも、「とにかく、憲法論議を前に進めるべきだ」との声がよく聞かれる。

 ところが、不思議なことに、そうした声を発する人々の間には、「そもそも憲法とは何なのか」と憲法の定義やその位置付けを明確にすることの必要性を訴える人は皆無に近い。

そしてそのことは、一部の憲法学者や特別な人を除けば、政治家についてさえ当てはまる。
安倍晋三氏などは、「憲法は国の理想を表現するものだ」などと堂々と語って見せる。彼特有の持論なのだろうが、後述するように、とんでもない間違いだ。そしてその説に対して、政治家の間でさえ、正面切って反論したり間違いを正したりする者もいないのだ。

 つまりここでも、日本国民一般の「ものの考え方」とそれに拠る「生き方」の特徴が現れていると見るべきなのであろう、何かを始める時、物事の「意味」や言葉の「意味」あるいは「定義」、また歴史的事実の「意味」を問わないし、とにかく力の強い者、勢力の大なる者、声の大きな者には無批判に追随し、あるいはその風潮に便乗しようとするのである(5.1節)。

 何れにしても、もし憲法とは何かを充分に知り、また理解していたなら、作られてから70年余を経ながら、日本社会の状況や人々のものの考え方そして世界状況は作られた当時とは激変しているというのに、これまで一度も変えようとはしてこなかったことそのこと自体が異常なことなのだ。そしてそのこと自体、憲法というものが、本当の意味で国民には理解されてはいないし、また国民の間で憲法が日常的に活用されてはいないことを実証している、とも言えるのである。

実際、世界では、憲法を持つどこの国も、状況の変化に伴って、憲法改正を実施しているのだからだ。

 

 そこで、ここでは、生駒なりに、この日本という国の、これからの環境時代を見据えて、言い換えればこの国が真に持続可能な国となるために、これからの憲法はこう変え、こうあるべきではないかと考えるそれを、その根拠と共に、以下に明確にしようと思う。

しかしそれは決して憲法の一部を手直しして「改正」するというものではなく、全く新しい憲法を制定しようとするものである。そしてその作業は非常に急がれている、と私は考えるのである。

 そう考える最も大きな根拠は次の4つである

 1つは、既にこの日本という国のこれまでの憲法は否定され破壊されてしまっていることである。その結果、法理論上は、はっきり言えば、無憲法状態になっているからだ(樋口陽一小林節「『憲法改正』の真実」集英社新書p.3)。このことの意味はすぐこの後に述べる。

したがって憲法を土台にして成り立って来た他のすべての法律も、すべてその成立根拠を失っている。ということは、今この国は無法の国となっており、法治国家でもなくなっているということだ。この状態は、新憲法をもって、直ちに回復しなくてはならないからである。

 もう1つは、安倍政権自身がこれまでの日本国憲法を否定し破壊しておきながら、憲法の何たるかを知らないがゆえに———安倍晋三氏が「憲法は国の理想を表現するものだ」などと堂々と語ること自身が、憲法に対する無知さ加減を実証している———自分たち政権与党がやって来たことの国賊ないしは国家反逆罪的な意味にも気付かずに、破壊した憲法をそのままにして、そこに、論理的整合性も取れない偏狭で懐古趣味的な自分たちの主義主張を表わす条文を書き加えて存続させようという支離滅裂な行動に出ようとしているからである。

 もう1つは、近代を支配して来た経済システムである資本主義それ自体が今や次々と矛盾を露呈するとともに、その経済システムが持つ「飽くなきまでに利潤を追求してゆかねば資本主義そのものを維持できない」という本質によって、あらゆる自然は二の次にされてしまう結果、地球温暖化も、生物の多様性の劣化も必然となるのであるが、このことから、この先、地球の自然を回復し、人類がこれからも末長く存続できるためには、もはや資本主義は終焉を見たとしなくてはならない、あるいは資本主義とは決別しなくてはならないことは明らか。そしてその時、今やこれまでとは異なる全く新しい時代に突入しているという理解と時代認識を持たねばならないと思われるのであるが、そうであれば、国家の基本法である憲法も、近代の憲法の精神を踏まえつつも、近代を超える精神を盛り込んだ、新時代に相応しい内容と体裁を整えた憲法に変えて行かなくてはならないからである。

 またそうしなくては、つまり古い憲法に基づく法律では、今後人類が直面してゆくであろう全般的危機、またそれに因る前例のない大規模で長期にわたる災難には対処できなくなるのは明らかだからである。

 もう1つは、人が変わることで、解釈の仕方も変わってしまい、またそれが通ってしまうような、つまり恣意的な解釈の余地を残してしまうような条文からなる憲法は、やはり憲法として相応しくないからだ。

 その象徴的好例が憲法第9条だ。その条文については、これまで、“集団的自衛権の行使は認めていない”と、「解釈」され、それが国内で通って来たのであるが、それを、安倍晋三政権になると、同じく「解釈」の上で、“同条文は集団的自衛権の行使は容認しうる”に変えてしまったことだ。つまり、事実上の憲法改定だ。

それも、憲法第96条には、「憲法改正の手続」が明記されているのに、それを完全に無視してのことだ。

 これでは、国民は、憲法は国の基本法だとは判っていても、その憲法に対して安心感や信頼感を持てなくなるのは当然だからだ。

ということは、結局のところ、この国の法律の体系そのものへの国民の信頼感が揺らいでしまう、ということでもあるのである。

 

 なお、既述の、“これまでの日本国憲法は、法理論上は、すでに否定され破壊されている”と述べた根拠は次のものである。

 西暦2015年9月19日の未明、憲法に違反する「平和安全法制整備法案」および「国際平和支援法案」、いわゆる安保法制案、あるいは戦争法案が国会にて強行裁決され、可決、成立してしまったからである。

 ではこれがなぜ、日本国憲法を破壊してしまったことになるのか。

周知のように、国家のあらゆる法律は、憲法に基づき、憲法の説くところに違反しないように制定されている。それは世界中のどんな立憲主義の国でも同じである。

そしてそれが、憲法が一般法の親、一般法の基準、一般法の土台といわれる所以である。

 既述の戦争法はあくまでも一般法である。ところがその一般法である戦争法は憲法学者がいうところの違憲の法律なのだ。そんな法律が政権与党勢力によって国会にて強行可決されたということは、彼らは憲法あるいは国家の憲法体制に対して謀反を起こし、国家反逆を試み、その謀反をまんまと成立させてしまったということを意味する。このことは、これまで、曲がりなりにも機能して来た私たちの日本国憲法を完全に亡きものにし、憲法憲法体制を「死」に追いやったということを意味する。

 これが、前述の、「この国では、これまでの日本国憲法は、法理論上は、すでに否定され、破壊されている」とした根拠である。

 したがって憲法が破壊されたこの瞬間、その憲法を土台にして、あるいはその憲法を根拠にして成り立って来たこの国の実定法としての一般法のすべても、その成立根拠を失ってしまったのである。

 実はこのことが意味することは、少なくとも私たち国民の誰でもが、頭の中で想像しうるどんな事柄よりも重大で深刻な事態なのである。

そのことは、例えば、次のことを考えてみるだけでも、納得行くのではないか。

それは、それまで、その憲法に根拠を持つすべての実定法に拠りこの国を支えて来たすべての公的機関、公的制度、公的システム、それらのすべてが存立根拠を失ってしまったということだけではなく、行動もできない状態になってしまったということを意味するからだ。と言うより、それらはすべて無意味化してしまったのである。

したがって、もはや、国権の最高権力機関とされて来た国会の有する立法権も、内閣の有する行政権も、また最高裁判所を含む裁判所が有する司法権も、それらすべてが憲法が定めていることに基づくものであることを考えれば判るように、もはやその存在根拠を失い、行動できなくなっている、いや、それ以前にそれらすべてがもはや無意味化されているということである。

つまり、この国は、すでに、無国会、無政府、無裁判所の状態になってしまっているということだ。当然、三権の意味もなくなってしまっている。

 したがって、そこでは、総理大臣という地位も、衆参両院議長という地位も、最高裁長官という地位も、無意味となっている。

だから、その意味では、このままでは、国会で質疑を行うことはもちろん、国会を開くことすらできなくなっている。国会解散ということも無意味化している。それ以前に彼らは政治家でさえなくなっているのだ。

全官僚・全役人を含む全公務員もその存在根拠は既にない。したがって活動もできない。

だから、もはや検察も警察もない。検察官や警察官も存在根拠はなく、無意味化している。

したがって、憲法がこの状態のままであったなら、たとえば誰かが他人の物を盗んでも、他者を殺しても、警察は容疑者を逮捕もできなければ、検察は起訴もできない。警察も検察も機能し得ないからだ。

 また、ここで、もし自然大災害や大惨事が起こったとしても、その時、中央と地方の政府機関はもちろん警察も自衛隊も一切存立根拠を失い無意味化しているのだから活動できない。となれば、そのとき国中で見られるであろう混乱ぶりは、明らかに「3.11」とその直後の東京電力福島第一原子力発電所の水素大爆発の大惨事の時の比ではなくなり、凄惨を極めることとなるのであろう。

 安倍政権によって憲法が破壊されたことによる事態の深刻さはそれだけではない。この日本という私たちの国は、もはや立憲主義も民主主義も消滅させられたのである。もちろん平和主義も、である。

 つまり、もはやこの国は、法理論上は、無憲法、無法、無規律の国となってしまっていて、「法治国家」でなくなっているだけではなく、無政府の状態であり、無秩序の状態にあり、民主国なのか独裁国なのか、はたまた独立国なのか、それすらも定かではなくなってしまっている。言ってみれば、未開の状態、原始の状態あるいは万人の万人による闘争の状態に引き戻されてしまっているのだ。

 これはもう、この国は国家であるか否かを云々する以前の問題であって、国中が完全に機能停止状態、あるいは機能を停止させねばならない状態に陥ってしまっていることなのである。

 それをしたのは安倍晋三政権だ。

 無憲法の国になるとはこういうことなのである。そしてそれは、その意味を考えれば考えるほど、私たち国民にとっては、これほど恐ろしいことはないのである。

 しかし、ここで少し考えてみよう。

確かにこれまで述べてきたことは法理論上はこうしたことが言えるということなのであるが、そのような言い方をすると、この日本では、ひょっとすると、“理論と実際は違うんだ”などと当たり前のように嘯く御仁が出てきそうなのであえて強調するが、そもそもロックやモンテスキューそしてルソーらが打ち立てて、世界に広がって行った近代民主政治の体系そのものが理論的に出来上がっているのだ。その理論に従って、現実政治は行われているのである。

だから、法理論上言えることは決して無視してはならないのである。

 ところが安倍晋三自公政権政治屋らの現状を見れば判るとおり、無視したままだ。

 では、それでもこの国が国として何とか維持して来られたのはなぜか。

それは、戦後のこれまで、この日本という国は、実質的に官僚によって主導され、それに政治家たちが追随するという形で維持されてきた、ということに拠る。もう少し具体的に言うと、政治家、すなわち主権者の代表であるはずの彼らは、議会においては、選挙での当選時、国民から負託された立法権を官僚(役人)に丸投げし、政府においては、官僚らやはり主権者から課せられた公僕をコントロールする役割を果たさずに、つまり国民と民主主義を裏切っては官僚らに追随すらして来た結果なのである。一方、それをいいことにして、官僚たちは、憲法安倍晋三政権によって破壊される以前から、日常的に憲法を無視し、法律を無視し、つまり「法の支配」を無視しては、「縦割り」の組織構成を固持する中で、自分たちが所属する府省庁の既得権を維持あるいは拡大するために、恣意的かつ独裁的に、この国を運営してきた結果なのである。

 

 こうした事態を招いた張本人は言うまでもなく安倍晋三を首班とする自民党と、そこに「中道政治」を立党の理念として掲げながら権力欲しさに連立して参加してきていた山口那津男を党首とする公明党の両党から成る内閣の閣僚と両党全議員である。

 彼等は戦争の放棄、軍備および国家としての交戦権を自ら放棄した第9条を否定しただけではない。国務大臣や国会議員その他の公務員の憲法尊重擁護の義務を規定した第99条を否定しただけでもない。立憲主義を否定すると同時に民主主義をも否定したのである。

 とりわけ安倍晋三山口那津男は、文字どおり、この国を、この国の国民誰をも、身動きできない状態、どのように動いたらいいのか誰もがまったく判らない状態に陥らせてしまったのである。そういう意味で、安倍晋三山口那津男は、国家に対する反逆や転覆を図り、国家そのものを崩壊させたのだ。

 ところが、こんな重大で深刻で恐ろしい状態を自分たちがもたらしたことについては、安倍も山口もまったく気付いていない風だ。安倍晋三はケロッとした顔で首相を続行しているし、山口那津男も政党の党首を続けているからだ。いや、正確に言うなら、安倍も山口も、政治家としての自らの公的立場がすでに無意味化してしまっていることにすら気付かずに、首相や党首をしているつもりになっているからだ。

 しかも、安倍晋三は、こうして自ら現行憲法を否定し、国家としての全機能を停止させ、この国を法理論上は原始の状況に陥れておきながら、今度は「憲法を改正」すると言い出している。その上さらに “人づくり革命”とか“生産性革命”などとも言い出している。

 自ら否定し破壊してしまったものを「改正する」とは一体どういうことなのであろう。この国を法理論上原始の状態にしておいて、人づくり革命をするとか生産性革命をする、とはいったいどういうことなのか。

あるいは、日本を北朝鮮からの脅威から守ると威勢のいいことは言うが、今や文民統制(シビリアン・コントロール)すら働かせられる根拠も自ら失わせておいて、どうやって自国と自国民を守れるというのであろう。

自分のやっていることと言っていることが支離滅裂、矛盾だらけである、ということにすら当人は気付いていない。

 とにかく安倍晋三は民主政治の仕組みの根幹すら、やはり知らなかったのだ(第2章参照)。憲法とは何かも知らなかったのだ。知らないで、一国の首相を3期も4期もやってきたのである。

知らないだけではない。安倍は既述のように、自己錯乱に陥っており、自己矛盾に陥ってもいる。そして先の国会解散の時の安倍の取った仕方が彼の人間性を象徴しているように、首相である前に人間としてきわめて卑劣で卑怯でもある。

 このような人間に真の愛国心、真の祖国愛があるとは私には到底信じられない。しかし、そんな安倍を日本国民は政治家として選んでしまったのだ。

 要するにこれは、安倍晋三山口那津男も、実際のところは、憲法の何たるかを理解もしていなければ、憲法を土台にしてすべての法律の体系が成り立っているというこんな自明なことも判ってはいなかった、ということを証明しているのである。言い換えれば、二人を中心とする自民公明両党の全政治家は、口では何と言おうとも、近代という時代が打ち立てて来た立憲民主政治とは何なのかという根本すらも知らなかった、ということでもある。そのことを、このほど、国民の前に証明して見せてくれた、ということなのである。

だから憲法でも平気で破るのである。破っておいて、改訂あるいは解釈を変えようとするのだ。

 

 そこで参考までに記せば、世界一の権力を持つことになるアメリカ合衆国の大統領が就任するに先立っては、歴代の大統領は全て、次のようにするのである。

それは、国民の注視する中で、左手を聖書の上に乗せたまま、右手を上げ、次のように、神に宣誓することだ。

“私○○○○は、厳粛に誓います。

 私は合衆国大統領の職務を忠実に遂行します。

 私は全力を尽くして、合衆国憲法を、維持し、保護し、擁護します。

 そのことを厳粛に誓います。

 神よ、助けたまえ。”

 安倍晋三を含め、日本の政治家の全ては、あるいはせめて政権を執った政党の政治家の全ては、自らの任に就くにあたって、たとえ自らが信ずる神はなくとも、主権者である自国民の前で、自国民に対して、全員がこうして厳粛に誓う必要があるのではないか。
約束事や決まり事をあまりにも軽く考え、無批判にアメリカに追従するだけの日本の政権政治家は、なぜこうしたことについては真似をしないのか。

 

 ではこんな状態で私たち国民は今後どうしたらいいのか。

 最も急がれることは、政治家とされてきた人々は、主権者である国民の合意を新たに取り付けた上で———今やその活動根拠だけではなく存在根拠も失われてしまっているから、国民の合意が新たにどうしても要るのである———、国会の権威を再興させるために国会を急遽開催し、憲法を破壊した当の二法「平和安全法制整備法」および「国際平和支援法」、いわゆる安保法制または戦争法を直ちに「白紙」にすることであろう。

そうすることで、破壊され、無きものとされた先の日本国憲法を先ずは復活させるのである。

 しかし、である。

仮にそうして元の憲法が復活したところで、それでも、先に述べた根拠により、新憲法を起草し制定するという必要性がなくなるわけではない、と私は考えるのである。

それは、新憲法を大急ぎで制定する必要性とその根拠に関する3番目と4番目である。

 とにかくこれからの憲法は、近代憲法止揚したものでなくてはならないと私は考える。

でもそれは近代憲法を丸ごと否定するものではない。

近代憲法の骨格を成す「立憲主義」、「民主主義」、「平和主義」、そしてそのいずれの根底にも共通に流れる人道主義ヒューマニズム)は堅持するのである。「国民主権」も「国民の基本的人権の尊重」も堅持するのである。

 しかし、「ポスト近代は環境時代」と考えられるこれからの時代の憲法は、それらだけでは明らかに不十分だ。その理由は、現行の日本国憲法は、今でも頻発し、今後はますますそれが激化するであろうと予想される、それこそ前代未聞、前例のない事態に対応できる内容ではないし、国民がポスト近代を生き抜いていける指針を明確にした内容でもないからだ。

 それに、この国は、これまで、民主主義の国とは言われて来たがそれは上辺だけで、実質は、再三述べてきたように、官僚独裁の国だ。そして本物の国家にもなり得ていない。政治家という政治家がその本来の使命と役割を果たしていない結果だ。

 そのために、16.3節に述べるつもりであるが、予め国民に明らかにされていなくてはならない重要な事柄の多くが不明のままなのだ。

15.5 全方位平和外交によりユーラシアの一員として世界に貢献する

15.5 全方位平和外交によりユーラシアの一員として世界に貢献する   

 今、世界の情勢は、俯瞰すると、現状の世界秩序を力を持ってしてでも変えようとしている国々と、その反対にこれまでの東西冷戦以後に形成されてきた秩序を維持しようとする国々とのせめぎ合いと見ることができよう。

 そしてその状態は、互いに集団安全保障体制という軍事同盟の形をとってそれぞれの国の安全を保障している。

 具体的には、東西冷戦終結後、本来ならその目的と役目を終えたはずなのに存続し、むしろ加盟国を拡大しているヨーロッパの30カ国からなるNATO北大西洋条約機構)と、ソ連崩壊後にできたCIS(独立国家共同体)のうちの6カ国(ロシア、カザフスタンアルメニアタジキスタンキルギスベラルーシ)からなるNATO型の集団安全保障条約機構とが対峙しているといった具合だ。そしてそれは相変わらず、かつての冷戦状態のようだ。

 さらには、軍事同盟ではないが、インド洋と太平洋を囲むように位置する米国・オーストラリア・インド・日本の4カ国は、中国(中華人民共和国)を警戒して、自由や民主主義、法の支配を守るといった共通の価値観を持って安全保障や経済を協議するQuad(クアッド)がある。

なぜ中国を警戒するか。それは、中国は、経済・政治そして軍事の面で、アメリカに対抗して、これまでの世界秩序を変更して、世界規模の覇権を確保しようとしているからだ。

実際、中国は、習近平の国策「一帯一路」政策を掲げてはいるが、それは表向きの言葉だけのもので、特に弱小の国々に対しては、いかにも経済開発に協力するかのような素振りを見せては多額の資金供与をし、それが期限内に返せないとなると、供与した資金に見合う利権をその国から中国が獲得するといういわゆる「債務の罠」を巧妙に仕掛けながら、影響力の拡大を図っている。中国がしていることはそれだけではない。1997年、香港がイギリスから中国に返還されるに先立って中国とイギリスとの間で結ばれた約束である「従来の資本主義や生活様式を、返還後50年間維持する」とのいわゆる「一国二制度」を破り、香港の自由と民主主義を弾圧し、中国の統治下に置こうともしているのである。また台湾との関係においても、中国は台湾を中国の領土の一部とする「一つの中国」であると考えるのに対して、台湾は、蒋介石が打ち立てた国であって、「中国とは別」の独立国家であるとすることによって、双方はいま鋭く対立しているのである。さらには、中国は、トルコ系の少数民族で、大多数がイスラム教を信奉しているウイグルの人々を教育施設なるところに閉じ込めては、大規模に思想改造をもしているのである。

つまり本当の国名が中華人民共和国と呼ばれている中国は、自由と民主主義そして法の支配の価値を重視するいわゆる民主主義陣営とははっきりと異なる専制主義の傾向をますます強めているのである。

 ただし、もちろんのこと、上記の集団安全保障体制に加わっている国々の数というのは、例えば2022年現在、国連に加盟している193カ国と比べてみても判るとおり、圧倒的に少数の国々だ。

それだけにそれぞれの集団安全保障体制への各国の加わり方には様々な事情が見て取れる。例えば、その集団安全保障体制に加わっていないと自国は見捨てられてしまうのではないかという不安から加わる国もあれば、その反対に、集団安全保障体制に加わっていると、したくもない戦争にかえって巻き込まれてしまうのではないかと不安を抱きながら、半ば仕方なしに加わる国もある、といった具合だ。

 なお、そうした集団安全保障体制とは目的は違うが、その存在意義が世界に認められ、注目されている国々の連合体がある。ASEAN(東南アジア諸国連合)だ。それは、集団安全保障体制ではないが、域内における経済成長、社会的・文化的発展の促進、政治と経済の安定の確保、域内での諸問題に関する協力を目的とした10カ国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、シンガポールブルネイベトナムラオスミャンマーカンボジア)からなるものだ。

 

 ところで前節では、「世界の平和と安定の保障のための提言」をする中で、私は世界の平和と安定の保障のためには、国連を強化することこそが求められているのではないかとして、その強化に当ってあらかじめ確認しておかねばならないこととして、現在の国連ができてくるまでの経緯を確認し、それに基づいて、私なりの具体的な強化策案を提示してきた。

 具体的には、国連設立後、70年余の経過の中で、多くの国は独立国となり、世界情勢も大きく変わってきているのに、今もずっとその位置を保っている「常任」理事国という特別の地位を廃止するとともに、それらの国が所持し続けている拒否権という国連の目的を阻み、機能を麻痺させてしまう強大な権限をも廃止し、国連を真に対等な権限を有する主権国家の連合体とみなして世界連邦の政府とすることにより、世界はその下に活動するようにする、というものだった。

そしてそれが実現できるよう、日本は政府が中心となって、特定の国との外交に限定せずに、全方位外交を展開しながら世界に呼びかけて協力を訴える必要がある、というものだった。

 

 では、果たして、日本は、現状の世界を見渡した時、理想的とも言えるこうした目標に向かって、実際に行動ができるだろうか。

 とにかく今のままでは少なくとも次の2つの理由によって到底無理だ、と言えよう。

 その1つの理由は、日本国民一般の「ものの考え方」と「生き方」に因る、というものである。

その「ものの考え方」と「生き方」とは、5.1節に述べてきたものを指す。

それらについては、私は、自らの道を閉ざし、自らが自らに危機を招いてしまうものでもある、ともしてきたものだ。

 それらは極めて重要なものと私は思うので、要点だけをここで繰り返して記すとそれらは次のようになる。

1.生き方において、骨格となるもの、芯棒となるものがない。これだけは誰にも譲れないというものを持とうとはしない。自分というもの、自分の考えというものを持たない。

自分なりの価値規準や物事への判断規準を持とうとはしない。物事の価値の軽重の違いを区別しない。そして力の強い者、勢力の大なる者、著名なる者、声の大きな者には無批判に追随してしまいがちである。「正義が実現した上での秩序」ではなく、「正義よりもまず秩序」を重視してしまいがちである。

2.その場の「空気」は読んでも、「先」を読もうとはしない。目先を見るだけで、大局的ないしは長期的な視野で物事や出来事を見ようとはしない。

 何かを為そうとする時、あるいは物事に対処するにも、動機と目的を明確にしない。歴史から学ぼうとはしない。正義や大義を問うこともしない。理念も問わない。物事の原理や原則を問わない。物事の「意味」や言葉の「意味」あるいは「定義」、また歴史的事実の「意味」を問わない。科学的真実あるいは客観的事実に基づいて将来予測をしたり予防の手を考えたりするということもしない。

 起こった出来事についても、それがなぜ起ったのかその原因を本質まで突き詰めることもしなければ、総括も検証もしない。失敗しても、なぜ失敗したのかその原因を突き止めようともしなければ、そこから教訓を引き出してそれを未来に生かそうともしない。もちろんその失敗を含めて、公式の記録として残すこともしない。むしろ失敗や不都合を隠そうとさえする。場合によっては、起こった出来事でも、「なかったこと」にしてしまう。

 物事や現象あるいは状況や情勢を見るときにも、客観的かつ多面的あるいは総合的に見極めようともしない。一部を見るだけで、あるいは一部に囚われるだけで、全体を見ようとはしない。

そして自分(たち)に不都合な事実や状況はあえて見ようとしないし、不都合な情報は知ろうともしない。自分(たち)が知りたいことしか知ろうとしないし、自分たちが関心あることしか関心を示さない。起きて欲しくないことは起きないことにしてしまう。そして敵あるいは対象を知ろうとしなければ、自分の力量も能力も客観的に知ろうとはしない。

同様に、醜いもの、汚いもの、不快なもの等も見ようとはしないし、見せようともしない。

 つまり、事実や真実そのものを直視しようとはしないし、直視するよう仕向けもしない。

 それでいて“とにかく頑張ろう!”とか、 みんなで“バンザイ!”といった意味不明の雄叫びを上げたり、同じく「骨太の方針」などと情緒的な呼び名を付けたりしては、精神論と抽象論で現実に対処しようとする。

3.自分は社会という共同体を構成する一員である、あるいは全体を構成する一員であるという意識や自覚を持とうとはしない。

社会の出来事に主体的に関わろうとはしない。自分の言動には常に責任が伴う、とは考えない。

自分の為したこと、関わったことに対して、自ら責任を取ろうとはしない。

特に自分が関わったことが失敗した時などには、むしろ「言い訳」をしたり、「言い逃れ」をしようとしたりする。

 

 もう1つの理由は、この国は、本物の議会制民主主義の国でもなければ、本物の国家でもないことによる、というものである。言い換えれば、この日本という国は、これまでのところ、実態は、ずっと官僚主導の国であって、本物の民主主義の国ではなく、国家でもなかったということに因るのである。

すなわち、国権の最高機関であると日本国憲法が明記している国会ではあるが、「行政機関」に「質問」しかしていない実態からも明らかなように、実際には決して国権の最高機関ではないし、また立法機関としての使命も役割も果たしてはいない。また中央政府も、首相や閣僚は官僚の作文を棒読みしなくては国民に行政状況を説明もできない姿からも明らかなように、また各府省庁間の「縦割り」という組織構成を一向に解消することもできない姿からも明らかなように、首相も閣僚も本来「国民のシモベ」であるはずの役人の操り人形でしかなく、したがって本物の政府ではないのだ。

 要するに、この日本という国は、立法機関も行政機関も、これまでのところ、実際には、官僚に主導された機関の国、もっと言えば官僚たちに乗っ取られた国、官僚独裁の国だからだ。

 

 さらに言えば、この国は、これまでも、そして今も、その行動の動機は、常に、そして決まって、唯一アメリカに、それもほとんど無条件に追随する、あるいは率先してアメリカのご機嫌とりさえする、というものだった。

つまりこの国の主権はアメリカ(政府)にあるのだ。

 そんなことだから、かつて日本が「ジャパン アズ ナンバーワン」ともてはやされ、世界の経済超大国となった時でさえ、世界からは、日本は一体何をしたいのか、何が望みなのか、世界をどうしようとしているのか、と見られていたし、今もそれは変わってはいない。

そんな状態だから、結局、日本がどういう時、どういう行動に出るかは、アメリカのやっていること、やろうとしていることを見れば判る、とさえささやかれて来たのだ。
 公式には、世界から独立を承認された国として早70年余り経つというのに、この国は未だにこんな状態なのだ。

こうなるのも、つまるところ、上記の2つの理由が決定的だと、私は見るのである。

 どうしてこんな状態で、この国は、国際社会において、既述の理想的とも言える目標に向かって行動ができよう。この国は、世界を先導できる考え方や枠組みだって提案できないし、それ以前に、日本国憲法の前文に明記する「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占める」ことだってできるはずはない。

 

 では、現状、こんな状態にある中、今後、この国の世界に示すべき姿として、どうして「せめてユーラシアの一員として」となるのか。

それは、日本の現状からはあまりにも飛躍した姿だからだ。

 そこで、それを理解するには、日本が今日の日本になり得た歴史にとどまらず、むしろ時間的にはそれをもはるかに超えた人類の発祥あるいは起源にまで遡って考えてみる必要がある。

 つまり、私は何を言いたいのかというと、今日でこそ、国が違うと、言語も違い、宗教も違って、その結果、互いに異民族だとか、人種が違うとか言って、それがとかく紛争や対立あるいは分断の原因となってしまうことがあるのであるが、しかし、前節で言及した、人類の遠い祖先たちのいわゆる「グレートジャーニー」を思い起こしてもらえば直ちに判るように、どんな民族、どんな人種も、大元を辿れば、みな兄弟同士なのだ。

 そう考えれば、ある民族が他の民族を攻撃したり弾圧したりするのも、またある人種が他の人種を迫害したり蔑視したりするのは土台おかしな話だということがすぐさま判断できるのである。

 あのベートヴェンも、彼の最晩年に、詩人シラーの言葉を借りて“全ての人々は友になる!”と崇高なまでに歌い上げたではないか!

つまり、人類の目の前に難題が次々と起り、人類の存亡がかかっている今こそ、人類は、すべてが、歴史の大河の中で、過去の怨讐を超え、一時の損得の感情を超えて、人間観と人間愛を取り戻すことが求められているのではないか、と私は思うのである。

 そういう意味で、少なくとも今はもう侵略戦争を起こしたり、過去の自国の栄華の再興を夢みて、あるいは失った自国の領土を回復する野心を持ったりして、それを正当化しては他国の領土を我が物として得になる時代ではない。というよりそんなことをしたなら、侵略される側はもちろん侵略する側もどれほど多くの人々の血が流されて悲惨が繰り返され、先人たちが築き上げてきた文化遺産がどれほど失われ、自然環境がどれほど大規模に破壊されることになるか。そんな野心を実行に移して悦に入る者はただ一人、支配者ぐらいなものであろう。

 また、イデオロギーの違いや信教の違いを理由に対立抗争するような時代でもない。

そうではなく、今こそ全人類に求められている新たな生き方は、損得勘定を超えて、人間がどう逆立ちしたところで抗いようがない絶対の真理、あるいは好むと好まざるとに拘らず認めて受け入れなくては人類として生きてはいけなくなる絶対の真理を共通の主導原理として生きることことであろう。

その意味で、「エントロピー発生の原理」と「生命の原理」こそが正にそれではないか、と私は確信するのである。また、どんなに科学技術が進歩し、宇宙開発が進んだところで、そして宇宙にはどれほど無数の天体があろうとも、さらには地球の外の天体にどれほど生命の元となる物質が確認されようと、人が裸で過ごせ、互いにのどかに暮らせるのはこの地球しかないというのも絶対の真理の1つと言えよう。

 ケネディは1963年、暗殺される5ヶ月前の6月、アメリカン大学での卒業式で、卒業生と共に、「冷戦」を終結させようとして世界にも呼びかけたスピーチの中でこう力説した。

“互いの違いを認め合えば、多様な人々が共存できるはず。突き詰めれば我々は皆、この小さな惑星で暮らし、同じ空気を吸って生き、子の幸せを願い、いつか死に行くのです”

 

 結論として、「日本」国が「主権」を常に行使しうる真の独立国となると共に、私たち国民も主権者としての自覚を持ち、既述の【人類共通の至上の価値】、【人類共通の至上の大義】そして【人類共通の至上の正義】を我が物とした「地球市民」となりながらこれまでの特異とも言えるものの考え方や生き方とは理性をもって決別し、「アジアの一員」の枠をも超えて、陸続きのアジアとヨーロッパとを一体化した「ユーラシアの一員」としての自覚を持って、いかなる国との関係においても卑屈になることも尊大になることもなく、しかし相手の歴史と文化は常に尊重しながら、言うべきことははっきりと言い、あくまでも対等に接してゆくことこそが、結局は日本と日本国民が人類の平和な存続に向けての真の国際貢献となるのではないか、と私は思うのである。

15.4 世界の平和と安定の保障のための提言    ————(その2)

 

15.4 世界の平和と安定の保障のための提言    ————(その2)

 ではそう考えた時、国連は、現状、既述のような使命を果たしているだろうか。あるいは今は果たしてはいなくとも、このままで、今後は果たして得るようになるだろうか。

 どちらについても明らかに「ノー!」である。

何故ならば、例えば、かつての東西冷戦下でアメリカが起こしたベトナム戦争イラク戦争でも国連は「世界の平和と安定」を保障し得なかった。一方、同じく冷戦下、旧ソ連が起こしたアフガニスタン侵攻や、ソ連崩壊後、つまり東西冷戦終了後のロシア(プーチン)が起こしたチェチェン紛争やシリアの内戦時でも同様だった。とりわけこの度(2022年2月24日から)のロシア(プーチン)のウクライナ侵攻においては、国連は「停戦」を呼びかけることしかできずに、全くの無力さを世界にさらけ出したのだからだ。

 

 では国連が既述のような使命を果たしうると考えられる国連改革案を具体的に考えようとするとき、少なくとも、あらかじめどういうことを確認しておく必要があるのだろうか。

それは次の事実ではないだろうか。

(1)今日、日本語で「国際連合」と意訳され、あるいは表現され、「国連」と略称されることになった組織が設立されたのは1945年6月26日である。そして、その時の加盟国は全51カ国であったこと。

 その組織の設立目的は次の3つとされていた。

ⅰ)国際の平和および安全を維持すること、ⅱ)人民の同権と自決の原則の尊重に基礎を置く諸国間の友好関係を発展させること、 ⅲ)経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題の解決、ならびに人権および基本的自由の尊重を助長奨励することについて、国際協力を達成すること。

(2)なお、その組織への加盟国とは、第二次世界大戦において、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦ソ連)、中華民国の5カ国を中心とする、いわゆる戦勝国としての「連合国」と呼ばれる国のグループであったこと。つまり、その連合国と敵対し、あるいは交戦状態にあった枢軸国とも呼ばれていたドイツ、イタリア、日本の三国及びその同盟国であったブルガリア王国(現在のブルガリア共和国)、ハンガリー王国(現在のハンガリー共和国)、ルーマニア王国(現在のルーマニア共和国)、フィンランド共和国の7カ国はそこには含まれてはいなかった。

(3)そしてその7カ国とは特定されてはいないが、日本で言う「国連憲章」には、通称「敵国条項」と呼ばれている第53条と77条と107条の3条が、1995年に国連=「連合国」総会で死文化が確認されたとはいえ、2022年のいまだに抹消されずに残されていること。

 その敵国条項とは、日本で言う国際連合の母体である連合国に敵対していた枢軸国が、将来、再度侵略行為を行うか、またはその兆しを見せた場合、国際連合安全保障理事会(略して安保理)を通さずに軍事的制裁を行うことができると定められた条項のことである。

(4)ここで、元々の英語表記では「the United Nations」とあったものを、日本が————日本政府であろうと私には思われるが————、なぜか「国際連合」と表現したことについて。

 それは、一言で言うと、「the United Nations」とあったものを「国際」連合と表現したのは不適切だったのではないか、ということだ。

理由は二つある。一つは、最初から英語表記の「the United Nations」をそのまま「連合国」と訳していれば、その「連合国」の憲章に「敵国条項」があるのももっともだとして日本国民にも正しく理解できていたであろうからだ。もう一つは、「敵国条項」というものが憲章にあり、そこでは、連合国と枢軸国を区別していたにも拘らず、その組織を、いかにも世界のほとんどの国が加盟しているかのような印象を与えがちな呼称だからだ。

 したがって今後は、その組織全体のあり方が再検討されるまでは、少なくとも拙著では、国際連合という表現は止めて、正しく「連合国」と表現してゆく。国連憲章という日本的表現も、同じように改めて、正しく「連合国憲章」と表現してゆく。その方が、その組織に対して、誤った理解や認識は、極力避けられるだろうからだ。

(5) その「連合国」なる組織において、先の3つの目的の第1の「国際の平和および安全を維持すること」を実現するために次の決定が為された。3つある。

①“「連合国」の迅速かつ有効な行動を確保するために”との理由の下、「主要な責任を負う機関は安全保障理事会である」として、安保理に責任を負わせるようにしたこと(「連合国憲章」第24条1項)。②その安保理の議決内容は、「連合国」全加盟国に対して法的拘束力がある、としたこと。③安保理は、「平和に対する脅威、平和の破壊および侵略行為に関する行動」に基づく強制措置の発動も決定できるとしたことだ(「連合国憲章」の第7章)。

(6)ところが、その加盟51カ国の中で、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦ソ連)、中華民国の5カ国だけが次のような特別の地位と特別な権力が、どのような経緯によってかについては筆者である生駒には不明だが、とにかく与えられたこと、あるいはこの5カ国自身が主張して手に入れたか、したことである。

 その特別な地位とは、「連合国」の中枢を占める安全保障理事会の構成国の中で、「常任」理事国となることであり、特別な権力とは、その5カ国のいずれにも、その5カ国のうちのどの一国でも安保理決議を拒否すればその決議は成り立たないことにするとした権力のことで、「拒否権」と呼ばれるものである。

 実際、2022年現在、これまでに常任理事国が拒否権を行使した回数は、国別で、次のようになる。

  ロシア   120回

  アメリカ   82回

  英国     29回

  フランス   16回

  中国     17回

 

 ただし、ロシア時代とソ連時代での拒否権行使回数と、中華民国時代と中華人民共和国時代のそれらについては、私には不明。

 つまり、上記5カ国のいずれの国からであろうとも、こうした拒否権が行使されるたびに、「連合国」が創設時に掲げた先の3つの目的の中で最も重要な第一目的である「国際の平和および安全を維持すること」は実現されないままに来たのである。つまり、「連合国」は、その組織内での主要な責任を負うとして設けられてきた機関であるはずの安全保障理事会は、その機能を果たせないままで来たのだ。

 その結果、世界の紛争当事国の国民や民族は、どれほど悲惨な目に遭わされてきたことか。またその結果、世界には、どれほどの難民を生むことになったことか。

参考までに言えば、今年(2022年)には、プーチンウクライナ侵攻も手伝って、世界で1億人に達しているのだ。

(7)「連合国」との名称の国際組織の総会については、すべての加盟国の代表で構成され、一国一票制による表決手続きがとられていながらも、そこでの決議事項が加盟国に対する「強制力」にも「拘束力」にもならず、勧告的効力しか持たないとしたことである。

(8)しかし、「連合国」という名の組織が設立された当時は、「枢軸国」とも呼ばれたドイツ・イタリアそして日本の敗戦国は加盟していなかったし、「連合国」という組織を構成する5カ国以外の諸国は、実質的に、軍事的にはもちろん政治的にも経済的にも当の5カ国に頼らざるを得なかったから、5カ国の常任理事国化、そしてその5カ国に責任を持って「連合国」という組織を運営してもらうためには、拒否権を与えるということもやむを得なかったかもしれないが、その後、世界には多くの独立国、すなわち主権国家が誕生するとともに、「連合国」という名の組織を構成する主権国家の数も当初の51カ国にさらに142カ国が加わって、現在(2021年4月)、加盟国は全193カ国となっていること。

(9)しかも、193カ国のそれぞれの国は、国土の大きさや人口には違いはあっても独立国となった以上、主権国家となったことである。すなわち、193カ国相互の関係は、それぞれの主権に拠り、互いにどの国との関係においても対等な関係を維持できるようになったこと。

(10)さらには、1947年頃から顕著になってきたいわゆる「米ソ冷戦(東西冷戦)」も、1991年にソ連が消滅したことにより終わり、世界の秩序は激変したこと。

(11)また、ソ連が消滅したことにより、ソ連という社会主義共和国の連邦を構成していた支分国のいくつかはソ連陣営を離れたし、残った国はロシアを含めて独立国家共同体(CIS)となったこと。

 その意味では、安保理常任理事国としてのソ連はなくなったのだから、安保理常任理事国は4カ国となったはずなのに、その手続きがどのように公正に行われたのか不明だが、今度はロシアが常任理事国の地位にとどまっていることである。

(12)それに、「連合国」なる組織が設立された当初は、原爆を保有する国は一国もなかったが、その後、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の順で保有することになった。

そして1968年7月、アメリカ合衆国中華人民共和国、イギリス、フランス、ロシア連邦の5カ国、および非批准国以外の核兵器保有を禁止することを主な内容とする、略して核拡散防止条約(NPT)が締結されたが、その後、そのNPTも実質的には破られて、今や、インド(1974年)、パキスタン(1998年)、イスラエル(核実験実施は未確認。しかし、保有していると信じられている。NPTには加盟していない)、そして北朝鮮(2006年)も保有するようになっていること。

(13)このように、日本で言う国連が「連合国」という正式名称で設立された1945年6月以来、いくつかの矛盾や問題を含みながら、そしてその後、主権国家の加盟国の数も設立当初に比べて4倍弱に激増しているのにもかかわらず、しかも、温暖化と生物多様性の劣化という人類存続に関わるいわゆる地球環境問題が深刻化している中でも、その骨格部分である安保理常任理事国制度とその常任理事国には拒否権が与えられているというところは、全く変更されてもいなければ、改良もされてはいないこと。

 

 では以上の事実経過を踏まえるならば、そこから何が判り、何が言えるだろうか。

第1には、設立後、多くの国が独立し、またその国々が加盟してきても、「連合国」=「戦勝国」という意識を今なお変えることができないでいる、ということである。

第2には、5カ国こそ世界の中核であって、その他の国とは、たとえ主権国家とは言え、対等ではない、という意識のままでいること、と、その意識の下で奢りが見え隠れすることである。

 

 なお、日本名「国際連合」なる組織が誕生してくるまでの経緯は次の通りである。

 まだ第二次世界大戦中だった1941年8月14日、英国のウインストン・チャーチル首相とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、第二次世界大戦終了後を見越して、アメリカとイギリス両国の世界政治に対するあり方の原則を「大西洋憲章」との名称の下で共同宣言として発表したのである。発表場所は、大西洋上に浮かぶ戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」の甲板上においてである。

 その大西洋憲章は次の8項目の原則から成っていた。

〔1〕戦争勝利国といえども領土は不拡大、〔2〕国民の合意なき領土変更の不承認、〔3〕国民の政体選択の権利の尊重と、奪われた主権の回復、〔4〕通商と原料の均等な解放、〔5〕各国間の経済協力、〔6〕ナチス暴政の打倒と、恐怖と欠乏からの解放、〔7〕海洋航行の自由、〔8〕武力使用の放棄と、恒久的な一般的安全保障体制の確立。

 そしてこの大西洋憲章が発表されたおよそ4ヶ月後の1942年1月1日には————日本が真珠湾奇襲攻撃をしたおよそ3週間後のこと————、26カ国が大西洋憲章の8原則を実現するために「連合国(the United Nations)共同宣言」として署名し、発表したのである。

 実はこの時、「連合国」という呼称が初めて公式に登場したのである。

それは言うまでもなく、当時交戦状態にあった敵対国としての、既述のいわゆる「枢軸国」を念頭に置いての呼称だった。

そしてここで大事なことは、この「連合国(the United Nations)共同宣言」には、当時のソ連も中国(当時は中華民国)も加わっていたということ、つまり、ソ連も中国も、先の8項目からなる大西洋憲章の原則を認め、それを実現することを26カ国相互の間で約束していたことだ。

そしてこのことは、米英の「大西洋憲章」から26カ国による「連合国(the United Nations)共同宣言」へと発展し、これがさらに、後に日本では「国際連合(国連)」と呼ばれることになる国際組織の名称「連合国」へと結実してゆくことになることを考えると、そのことは、特に本節において「世界の平和と安定の保障のための提言」を考える上では、極めて重要な意味を持ってくるのである。

なぜなら、ソ連中華民国も、たとえその後両国は、独立国家共同体(CIS)となってロシア連邦となり、中華人民共和国となったとはいえ、両国とも、当初の1941年の「大西洋憲章」の8項目を受け入れているからだ。

 しかしながら、史実から言えば、ソ連は、そしてそのソ連安保理常任理事国を引き継いだロシア連邦は、第二次大戦後から今日まで、少なくとも2度はこの大西洋憲章を破っている。

 1度目は第二次大戦終了間際から終了後にわたって、日本の固有の領土である「国後・択捉・歯舞・色丹」の島々、いわゆる「北方四島」を領土として奪い、ソ連領土を拡大したことであり、2度目は、ソ連崩壊後、独立国家共同体(CIS)となったその構成国の一つであるロシアは、2014年、ウクライナに戦争を仕掛け、クリミヤ半島を戦争勝利国として奪い、それを自国領土として拡大したことである。
 つまり、ソ連も、その後のロシアも、自ら大西洋憲章の原則を認め、それを実現することを宣言したことを破っているのである。

 

 では、どういう考え方を根拠に、現行の国際組織「連合国」を改革していったらいいのか、またどういう考え方を根拠にしたら改革ができそうであろうか。

 これは大変困難な問題だ。なぜならそれは、これまで常任理事国とされて来た米英仏中露の国々が拒否権を行使することなく、一緒に改革案を考え、考えたそれを受け入れてくれるようになるか、ということでもあるからだ。

 そこで私は改革案を創出する際の基本的な考え方としてこう考えたのである。

先ずは、現行の「the United Nations」として表現される「連合国」という組織とその成り立ちに関しては重大な欠陥があることは常任理事国とされる米英仏中露も認識しているであろうということを前提とする。その上で、新しい国際組織への加盟を目指す目指さないはともかく、どの国も反論のしようのない考え方あるいは原理と言ってもいいものを土台にして改革案を議論しようと言えば、さすがの米英仏中露も議論に乗ってくるであろう、ということ。そして当の5カ国を含めた、現在「連合国」に加盟している全ての国の代表がその「どの国も反論のしようのない考え方あるいは原理と言ってもいいもの」を土台にして議論して決まった「連合国」改革案であったなら、現行の「連合国」に加盟している全ての国は、多分受け入れてくれるのではないか、と。

 私の考える「どの国も反論のしようのない考え方あるいは原理と言ってもいいもの」とは次の7つである。

 

①もはや、「戦勝国」とか「戦敗国」とか、「連合国」とか「枢軸国」とか、また「民主主義国家」とか「専制国家」とか、「西側」とか「東側」といった、これまで対立を前提として用いられてきた用語や概念は、この際、一切用いることは避ける。

というよりは、もはや世界人類は、過去を省みながらも、その過去を乗り越え、それらの概念を止揚して議論に臨むこと。

②実際、今、世界人類の目の前には、地球規模の温暖化による気候変動および異常気象の頻発と生物多様性の消滅という自然界における食物循環を成り立たせない事態が懸念される中で、食糧不足問題や水不足問題を含む様々な被害が世界中で起こっていて、人類の存続が危ぶまれていて(IPCC報告書)、国同士が、あるいは民族同士が、あるいは部族同士が、また人種間であらそってなどいられない状態であること。

 特に戦争は、敵味方双方の人間を大量殺戮し、地球の自然環境を最大規模に破壊する行為なのだからだ。

③現行の「連合国」に加盟している国は、どの国も主権国家であり、そしてその主権には、上下の関係はなく、また、人口規模や国土面積、また経済力等にも無関係であって、全て互いに対等である。

④その主権を持った国の代表同士が集まる総会は今後生まれてくる真の意味での全世界的国家連合としての新組織における最高意思決定機関であるとすること。

⑤したがってその総会が議論して議決した結果は、憲章であれ、組織ルールであれ、最終的な結論である。

⑥そしてその新組織は、「the United Nations」のように、第二次世界大戦時での枢軸国の存在を想起させるようなものではなく、名実ともに全世界的国際組織とするために、その組織の呼称は「the International Union of Nations」、すなわち、文字通りの「世界国家連合」とすること。

⑦なお、ルールづくりに参画するしないは各主権国家の自由であるが、しかし一度その新組織としての確定したルールを受け入れたなら、それは、その後、厳守しなくてはならない。

 

 では、こうした原理に基づいて議論されて議決された結果として設立されたとする新組織としての「世界国家連合」の最大の使命と役割は何とするか。

それをこそ、世界全体の平和と安定を保障しつつ、同時に、既述の【人類共通の価値】、【人類共通の大義】、【人類共通の正義】を新時代のパラダイムとして地球上に実現すること、とするのである。

 そのためには、その「世界国家連合」は、世界連邦の政府ともなるべきなのだ。そしてその政府の下で、その政府によってコントロールされる世界連邦軍をも創設するのである。

その「世界国家連合」の維持と世界連邦軍の維持には、加盟している全ての国が、その国の一人当たりのGDPに比例する形で費用を負担し、また人口に比例する形で兵を送って協力するのである。

 

 人類が存続できるかどうかは、実際、2030年までに、人類として具体的に温暖化を抑えるためにどれほどの対策の手を打てるかにかかっているとIPCC報告は警告を発している。

それは、我々人類が生かされている地球の自然が、もはや人間の諸活動によって、その自然を維持するための大気・水・栄養の大循環がいたるところで分断され、その結果、発生した「汚れ」としてのエントロピーは大気圏外に捨てられないまま、地球表面上に充満している結果であろう、とも解釈できる(第3章)。

 したがって、もはや人類は、これからの環境時代においては、どこの国とであれ、侵略を含めて、武力に頼って現状変更を試みようとしたり、戦争を仕掛けたりすることは、その国がその行為をどんなに正当化しようとも、人類的そして地球的見地に立てば、すべて、現在世代と未来世代の全人類の存続の可能性を狭めてしまう犯罪行為なのだ。

民族同士の、部族同士の、宗派同士の、さらには人種同士の争いや紛争はもうやめるべきだ。

 私たち人間は、真の意味でもっと「進歩」し、「向上」なくてはいけないのだ。