LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

この国の現状と近未来に不安を抱く全てのみなさんへ

 このたび、子どもの手を借りながら、インターネット上で発信するためにこのようなブログという場をつくることにしました。
今回は、このブログの方向性を示しながら、私の紹介を簡単にしようと思います。

 

 

この国の現状と近未来に不安を抱く全てのみなさんへ

 

 今、世界は、どこの国も、新型コロナウイルス禍で大混乱の状況にあります。またその中で、人々のこれまでの生き方をはじめ、価値観も揺らいでいます。この日本も、同じくコロナウイルス禍で、国民は今大混乱に陥り、多くの人々は経済的・精神的に大変な苦境に立たされています。そして、このコロナウイルス禍が今後も長引いた場合、そのウイルスと人類はどのように共存していったらいいのか、またその禍が一応沈静化したならば、その後はどんな世界になるのか、と多くの人々は不安を抱いています。

 ところが今は、全人類的問題として、そのコロナウイルス感染症によるパンデミック(感染爆発)だけでなく、地球温暖化という事態も、生物多様性の消滅という事態も止められずに進む一方です。またその中で、化石資源のみならず、海産物等の海洋資源も山林資源も枯渇の方向に向かっています。

さらにそこに、核兵器の拡散と世界の無秩序化によって、今は、かつての米ソ冷戦時代のキューバ危機(1962年)や1973年に起こった危機以上に、核戦争の脅威は拡大し深刻化してもいます(ウイリアム・ペリーの言)。

それだけに、今、そうした問題の克服ないしは解決ということが急がれています。

 とは言え、コロナウイルス感染症については、人々が感染しないように気をつけてさえいればいいわけで、あるいは適切なワクチンが開発され、その摂取が行き届きさえすれば、さほど怖いものではありません。

ですから、本当に怖いのは、地球温暖化生物多様性の消滅、化石資源のみならず海洋資源や山林資源の枯渇という問題であり、核戦争です。そればかりは、誰も、自分でどんなに気をつけていても、どうにもならず、それに人類全体の死活に直接関わってくるからです。

 それだけに、こうした問題の解決に向けては、どの国も、まずは議会(とくに国会)が、ついで政府(とくに中央政府)が動かねばどうしようもないのです。あるいは国民が、です。

 ではこの国では、議会が、そして政府が、そうした問題の解決の方に向けて具体的に動いているでしょうか。国民一般はどうでしょうか。

いずれも動いてはいません。少なくとも、本物の先進国と呼ばれる、例えば、フランス、イギリス、ドイツ、スエーデン、フィンランドオーストリアニュージーランドはすでにどこも動いているのに、この国ではこれといった大きな動きは見せてはいません。

 実は私たちの国この日本は、地球温暖化生物多様性の消滅、化石資源のみならず海洋資源や山林資源の枯渇という問題以外にも、この国固有の、それも、これらも放っておいたなら、この国が近い将来、成り立たなくなってしまうであろうと思われる重大な問題を抱えています。

その筆頭に上がってくる問題が少子化問題であり高齢化問題、一言で言えば人口減少問題です。次には、日本を除いては世界中どこにも見られない、それこそとんでもない額の中央政府と地方政府の抱え込んだ借金問題です。それは、国民が一年間働いて生産した財とサービスの合計を金額表示したGDP国内総生産)と呼ばれる数値の実に2.4倍の額です。これは言い換えれば、日本国民のうち、働ける人の全てが、2年と3ヶ月、飲まず食わずに働らいて初めて返済できる額の借金です。

 さらに本物の先進国には決して見られない、この国固有の問題としてあるのが、人口に対する自殺者の多さであり、イジメや引きこもりの多さです。しかもこれらの問題は、もう10年も20年も前から問題視され、政治問題にもなって来たものです。

ところが未だに解決されていません。それどころか状況はますます悪化しています。

 そこで、皆さんに問います。

この国はなぜこうなるのでしょうか。なぜこうなると考えますか、と。

 実際、私にはこうしたことを考えさせられることばかりです。

直近のコロナ禍の中から例を挙げてみましょう。

例えば「尤もだ」と思われる次のような要求がいつまでたってもこの国では実現されないことです。

 国内でのコロナウイルス感染者の実態をできるだけ正確に把握するためにも、せめて希望する人誰もがPCR検査を受けられるようにすべきだという要求。感染を拡大させないために、コロナウイルスに感染していながら無症状の人がどれほどいるか、それをなんとか把握すべきだとの要求。感染拡大するコロナ患者を受け入れられる十分な医療施設を早急に整備拡充すべきだとの要求。自分が感染してはならないという緊張の中で、昼夜の別なく、トイレにゆく時間もまともに取れずに、必死の医療活動を続けている医者や看護師への待遇を政府としてもっと思い切って改善すべきだという要求。コロナ感染者を受け入れても、その病院の経営が悪化しないように、政府による思い切った病院支援策としてのお金を投入すべきだという要求。自粛を「要請」するという国民への指示の仕方では、国民は従うべきか従わざるべきか判断に迷うため、拘束力のある法律を制定して、その下で、「法の下での平等」の観点に立って、その法を施行すべきだという要求。そしてその際には、本人のせいで自粛したり商売の仕方を制限したりするわけではないのだから、その法に従った者には、相応の補償も同時になされるべきだ。そうでなかったなら、店や会社の経営や維持が困難となって、廃業に追い込まれる人が激増し、雇用を維持できなくなるからだという要求、等々です。

 こうした国民の切実で尤もな要求がこの国では、これまで、政治的にはなかなか叶えられてはこなかったし、たとえ叶えられても、タイムリーには実現されてはこなかった。

 このことは、見方を変えれば、この国では民主主義が本当の意味では未だ実現してはいない、ということを意味しているのです。

なぜならば、民主主義とは、英語でデモクラシー(democracy)ですが、その語は、デモ=人民とクラシー=権力から成り立っているもので、それは人民あるいは国民が全権力を所持する政治体制を意味するのです。このことから、全権力を持つ国民の支持と合意の下に、その「利益代表」として成立している議会も、またその利益を実現するために執行しなくてはならない政府も、本来は、何をおいても、国民の生命・自由・財産を最優先に守るために行動しなくてはならないのです。

これが民主主義というものです。ところがこの国では、議会もそして政府も、国民の利益を守るべき代表としての行動はしていないのですから。

 

 では、先のような国民の要求に対して、議会そして政府の対応の実態はどうでしょうか。

なお、そこで言う議会には国会だけではなく地方議会も含まれます。また政府には、中央政府と地方政府の両者が含まれます。そして地方議会とは、都道府県議会であり、市町村議会のことです。中央政府とは、永田町にあるいわゆる「官邸」と霞が関にある諸官庁を含めた全体のことです。地方政府とは、都道府県庁のことであり、市町村役場のことです。

 まず、第一に言えることは、国民のこんな事態でも、議会という議会は、すなわち議会を占める政治家という政治家は、ほとんど議会を閉じたままで、全くと言っていいほどに、国民の利益代表としての行動はしないのです。つまり、全くの怠慢であり、無責任であり、政府の任せっぱなしです。

 では政府の実態はどうか。

中央政府とその地方政府との間では対策や指示をめぐって依然として混乱状態です。中央政府感染症の専門家との間でも、対策の内容とその打ち出し時期についての認識のズレが表面化したままです。

中央政府の国民への対応や状況説明の仕方を見ても、バラバラです。実際、西村経済再生担当大臣が出てきたり、加藤厚労大臣(のちに官房長官)が出てきたり、赤羽国交大臣が出てきたり、羽生田文科大臣が出てきたり、かと思えば総理大臣が出てきたり、といった状態です。

本来、国民にとって政府はどこも1つなのですから、その政府の活動状況を説明する際には、常に同じ一人が責任を持って政府の全体的取り組みを説明すればいいはずです。

ところがそうはなっていません。こうなるのは、政府の政治家、すなわち、首相や閣僚あるいは首長が、政府内組織をバラバラ状態、いわゆる「縦割り」のままに放置してきた結果です。それは、彼らが、公務員あるいは公僕である官僚や役人の全体を一つにまとめて、指揮したり統括したりしてこなかった結果です。

というより、公僕を指揮統括どころか、すなわちコントロールするどころか、反対に、公僕たちの「操り人形」になり、公僕たちに追随するばかりだったからです。

 ところで政府組織の「縦割り」とは、「中央政府と地方政府とを、そのそれぞれの中での関連した業務を行っている部署どうしを縦に結びつけ系列化し、頂上の中央政府内の特定の府省庁の情報・指示連絡事項が、『通達』という形で、縦につながる地方の政府内の各関連部署に途中で邪魔されずに最速で流れるようにした、この国の各政府レベルでの専管分野別同士の中央集権体制を支える組織のあり方」のことです。

そしてそれは、「それぞれのレベルの政府内では、各府省庁や各部署どうしが、横の情報連絡はせず、また互いに他省庁や他部署には干渉しない、踏み込まないということを暗黙の了解事項とした組織のあり方」のことでもあります。

 菅総理大臣は就任時、「縦割り行政」を正すと明言していたはずですが、やはり口先だけです。

 また、しょっちゅう発する「要請」という指示の仕方も、それは法律ではなく、臨機のものにすぎず、場当たり的なものです。つまり、ここには、政府の政治家には「法の支配」ということさえ知らないのです。だから当然ながら、発するどれも強制力はない。その代り、その「要請」を受け入れた人や商店には相応の保障もない。しかもその「要請」の対象は主に飲食店に偏っている。経済システムは社会のあらゆる人を結びつけているという意識は全く見られない。「公平」であるべき、という意識も全く見られない。緊急事態宣言も、それが発せられるのが都市や地域によって異なっている。したがって、もちろん「法の下での平等」ということを大切にしようとしている風も見られない。

 これでは国民の間に要請が徹底されるはずもありません。しかも要請を発した本人を含めて、政治家たちは、あっちでもこっちでも、複数人で会食してさえいるのです。国民に、国民の「代表」として範を示す、という感覚が全く見られない。

 そしてここでより重大なことは、総理大臣や閣僚は————もちろんその他全ての政治家にも当てはまることですが————、現場を知らなすぎるということです。エッセンシャルワーカーと呼ばれている医療従事者たちの現場も知らなければ、自粛要請によって困っている巷の人々の現状を自分の足を運んで具に見て回るという姿勢がなさすぎるのです。だから政府として打つ手は、いつも、どれも、ピントのボケた、タイミングを失したものとなってしまうのです。

 

 ところがこの国では、私たち国民にとって、きちっと目を向けなくてはならないもっと重大なことがあると思います。

それは、先ほども少しだけ触れましたが、こういう時、つまり国民の多くが前代未聞の出来事、前例のない事態に遭遇して、本当に危機的状況にある時、国会を含む議会という議会が、そしてそこの政治家が、いつも、決まって全く動かないということです。そうした緊急事態あるいは非常事態から国民を救出するための議会活動は全くせず、むしろ政府に任せっぱなしで、政府のやることをただ傍観しているだけだということです。

 一体、議会とは何でしょう。そこの政治家は何のためにいるのでしょう。「国民の代表」とはどういうことでしょう。彼らの最大の役割や使命とは一体何なのでしょう。議会の中でも特に国会は、どうして国権の最高機関と呼ばれるのでしょう。

 政府の政治家もそうですが、議会の政治家は特に、ただ先輩諸氏がやってきたことを、やってきたやり方通りに、自分もただ真似をしているだけではないのか、そしてそれが政治家としてやること、と錯覚しているのではないか、という気がします。そしてそれは、とりわけ二世議員とか三世議員議員と呼ばれる世襲議員ほど、その傾向が強いように私には見受けられるのです。

 それはそうでしょう。小さい時から、父親や祖父から、“政治とはこういうものだ”とか、“国民なんてこんなものだ”、“政治にはカネがかかるんだ”、“政治は権力だ”、等々といったことを骨の髄にまで叩き込まれてくるのでしょうから。それにその場合、厄介なのは、今の二世議員や三世議員の父親あるいは祖父は、明治欽定憲法の下で政治家をやってきた者である可能性が高いことです。つまり、民主主義などほとんど知らない世代だろう、ということです。それだけに幼い時からそうした世代の薫陶を受けて育って政治家になった者は、今日の国民にとっては、ある意味では極めて危険でもある、ということです。

 つまり、この国では、政府の政治家もそうですが、それ以上に議会の政治家たちは、事実上全政党の全員が国民を裏切っています。自ら選ばれることを望んで選挙に出て、選ばれても、「国民の代表」たり得てはいないのです。選挙時に掲げた「公約」も、当選してしまえば知らん振りです。それでいて、少しの罪悪感も見せません。それでいて普段は、「もっともらしい」ことを平気で口にするのです。

 これでは、国民に対して、まともな政治、迅速な政治、血の通った政治、国民の願いに応える政治などできるわけはないのです。

 

 実は、政治家たちのこのような状態は、何も今になって始まったことではありません。

思い出してみてください。

例えば、阪神淡路大震災が起こった時もそうでした。オウム真理教によるサリンばら撒き事件が生じた時もそうでした。東日本大震災が起こった時藻そうでしたし、その直後の東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融を起こして大爆発をして大量の死の灰が周辺に広範囲に撒き散らされた時もそうでした。

あるいは比較的最近では、九州北部豪雨時、西日本豪雨災害時、熊本地震時でもそうでした。

 そうしたいずれの時にも、被災された多くの皆さんは、政府————もちろん、地方政府だけではなく中央政府をも含みます————には今すぐにも助けに来てくれることを望み、少しでも早く元通りの生活ができるように対策の手を打ってくれることを望みました。

 しかし、どうでしょう。例えば東日本大震災の直後の東電福島原発の事故以来、すでにまる9年経とうというのに、未だ1万2600余命の方々が近県での仮設住宅住まいを強いられています。政府の対応の遅れに絶望して自殺された方も、少なくとも200人以上います。

 しかも驚くことに、こうした数字は、「3.11」の「復興庁」では把握しておらず、福島、宮城、岩手の各県の職員から教えてもらった数字なのです。

 

 そこで最初の問いに戻ります。この国はなぜこうなるのか。

そしてその次の問い。この国では、政治家たちは、中央でも地方でも、与党でも野党でも、議会でも政府でも、共通に、どうしてこうなるのか。

前者の問いの答えを一言で言えば、この日本という国は、国家ではないからです。少なくとも本物の国家ではないからです。

後者の問いの答えを一言で言えば、この国の政治家という政治家は、民主主義議会政治を行う上で、いやしくも政治家と言われる者だったなら絶対に知っていなくてはならない一連の基本的政治用語とそれらが意味しているものについても、ほとんどの者はほとんど知らないからだ、と私は考えます。

 後者の問いの答えについてはじめに考えてみます。

この国の政治家という政治家は、例えば、「政治家とは何か」、「政治家とはどのような役割と使命を誰に対して負っている存在か」、ということを知らない、と私は断定します。もっと言えば、よく政治家は、「政治はカネだ」という言い方と共に、「政治は権力だ」という言い方もするが、そこでの「権力とは何か」、「権力は何に根拠を持つか」、「権力は誰から負託されたものか」、「それは何のための権力か」、そして「一度当選すれば、その権力は、勝手放題に行使できるものか」、そもそも「そんな権力、他者に委譲できるものか」ということすら知らないで「政治家」をやっているつもりになっているからだ、と私は断定します。

 だから、政治家になっても、自分は政治を行わず、つまり「公約」をほったらかしては、自分に国民から負託された権力を、執行機関でしかない役所の、公務員でしかない官僚・役人にほとんど丸投げしては官僚・役人に立法を任せ————条例の制定も含む————、彼らに依存し、そして追随しているだけなのです。

 これはとんでもないことであり、また重大な問題です。国民の「利益代表」であるはずの政治家が、国民の暮らしや行動の仕方を制限する規則を決めるという、国民にとってはあらゆる社会的諸制度の中で最も重要な政治を公務員でしかない官僚任せにしているということですから。

 これだけではありません。

 例えば次の諸概念についても知りません。

国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、内閣、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、主権、独立国、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相(総理大臣)、閣僚(大臣)、自治、公務員(官僚・役人)、独裁、法の支配、法治主義、法の下での平等、等々についても、です。

 これだけにとどまりません。これらの諸概念の全てを体系的に知らなければ、まっとうな政治、民主政治などできるわけはない、ということすら多分知らないでしょう。

なぜなら、もし知っていたなら、今、この国がこんなみすぼらしい国、世界に対して恥ずかしい政治の国になっているはずは決してない、と私は考えるからです。

 なお、ここで「知らない」との表現は、私は次の意味で使っています。

言葉だけを知っていてもどうにもならないのです。そんなの単に知識に過ぎないのです。何の役にも、誰の役にも立ちません。その言葉の意味を正しく理解し、その上で、日常の暮らしや政治活動の中で、つまり自分が本職とする中で、その意味どおりに、そしてそれを当たり前に活用し、実践できて初めて「知っている」と言えるわけで、それができなかったなら「知っていること」にはならない、という意味においてです。

 では、前者の問いの答えであるとする、この日本という国は国家ではない、とはどういうことでしょうか。

 

 実はここにこそ、この日本という国に生きる私たち国民の誰にとっても、またこれからの日本に生きて行かねばならない誰にとっても、等しく根源的とも言える政治的大問題が横たわっている、と私は考えます。

そこで言う「根源的」とは、私たち国民の多くに、その存亡に関わる大事が起こった時、あるいは同じく多くの国民が今すぐにも政府には助けに来て欲しいと思う大事が生じた時、つまり本当の意味で国が非常事態に陥ったとき、果たしてすぐにも政府は助けにきてくれるのか、助けに来れるだけの態勢を、この国の政府は、もう少し正確に言うと、政府を預かる国民から選ばれた政治家(首相・閣僚・首長)は、中央政府でも地方政府でも、普段から整えているのか、という意味です。

 しかしその答えは、明らかに「ノー!」です。

彼らはそんな態勢を整えてなどいません。中央政府も、そして地方政府も、です。

だからこそ、既述のように、大災害が起こっても、被災者は、速やかに救われず、いつまでも放置されてしまうのです。それは決して「初動態勢が遅れ」という類いの問題ではありません。

 では、どうしてそうなるか。

 それは、この国は国家ではない、政治家たちはこの国を国家としていない、からです。少なくとも、今のところ、本物の国家ではないからです。

もちろんここでいう国家とは、近代以降の国家、あるいは近代政治学で言うところの国家、という意味です。

 では、本物の国家とはどういうことを言うのか。

それを定義する前に、まず、社会とは、「自分たちの相互の欲求を満足させるために、共に住み、共に働いている人間の一集団のこと」と、定義しておきます。

その上で、国家とは、「その社会を構成するあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」と定義されます(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.5と6)。

 ところで、この国では、政治家はもちろん、政治学者や政治評論家、そして政治ジャーナリストも、国(クニ)という言葉とともに国家(コッカ)という言葉を頻繁に口にします。

ではその場合、彼らは、国と国家の違いを明確に理解し、区別し、その上で国家という言葉を使っているのでしょうか。

 私は決してそうではないと思います。というより、そもそも国家とは上記のように定義されるものだということすら知らないで口にしているだけにすぎない、と私は確信します。

 それだけではありません。彼らはそれと同時に、政治、それも民主主義議会政治を行う上で、いやしくも政治家と言われる者だったなら絶対に知っていなくてはならない一連の基本的政治用語とそれらが意味しているものについても、そのほとんどの者はほとんど知らないで口にしている、と私は確信します。

そのことは、彼らの日頃の言動を注意深く、継続して観察していることでわかります。

 

 

 ではそもそも政治とは何でしょうか。なぜ政治が、一国を成り立たせるあらゆる社会的制度の中で、最も大切な制度であるとされるのでしょうか。

 その答えは政治の定義そのものの中にあります。

政治とは、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み」のことです」(広辞苑

 この定義で言う「人間集団」とは、既述の通り、社会のことです。したがって「人間集団における秩序の形成」とは、例えば次のような諸制度をさします。

経済制度、教育制度、医療・看護・介護を含む福祉制度、文化文芸諸制度、科学や技術の制度、選挙制度、公務員制度、外交・防衛・軍事の制度、国会の制度、政府の制度、裁判所の制度、等々。

さらに、これらの諸制度や仕組みを実現し維持するために、国の中の誰からどのような税を取り、それを誰のために使うかということをも決める仕組みである租税制度も含まれます。

 このような諸制度の形成と解体に関わるのが政治です。そして、そこに公式に、あるいは公然と具体的に関わることができるのは、国民から選挙で選ばれた「国民の代表」としての政治家だけなのです。

その意味で、政治家は、国民にとっては、社会の他のどんな職業よりも重要で大切な役割を担っている立場と見ることができるのです。

 ところがこの国では、そうした政治家が、既述の通り、政治家としての役割と使命を全くと言っていいほどに果たさないでいるのです。体たらくそのものです。無責任そのものです。というより、自分を選んでくれた国民のすべてを裏切っているのです。不忠です。国民に対してだけではない。民主主義も、そして彼らへの信頼の下に行われている選挙と選挙制度そのものをも裏切っているのです。

 これまでの政治家、少なくとも、アジア・太平洋戦争敗戦後の政治家は、ほんの一部の政治家を除けば、その実態は、似非政治家、あるいは政(まつりごと)を通じて金儲けをし、あるいは財産をこしらえようとしているだけの政治屋、あるいは特権・特典を含めて高額すぎる議員報酬に群がるタカリ屋でしかありません。公職選挙法や政治資金規制法に違反しては、いわゆる「政治とカネ」のスキャンダルを性懲りもなく繰り返している姿がその証拠です。

もっと直接的な言い方をすれば、彼らは、税金泥棒です。そして「公約」を掲げてはそれで当選しても、その公約を実行しない詐欺師です。そしてそんな彼らだから、彼らには、多分、愛国心も、国民を思う気持ちもないでしょう。

 これでは、国民の望むところが叶えられるはずはありません。すぐにも助けて欲しいと望んでも、救われるはずはないのです。そしてこうしたことが今や当たり前となってしまっているのです。そしてそのことによって、彼らはこの国のモラルあるいは道徳心をどんどん低下させている最大の輩となっているのです。

これでは、選挙にゆこう、政治に関心を持とう、と呼びかけられても、虚しさと懐疑心ばかりが残るのは当たり前です。政治に不信感を抱くのは当たり前です。政治家に裏切られてばかりいるのですから。

 冒頭での表題に、“この国の現状と近未来に不安を抱く全てのみなさんへ”と掲げたのは、そのためです。私たちが漠然と感じる不安の原因は何なのか、その不安はどういうところから生じてくるのか、そこを突き止めて、みなさんには知っていただきたかったからです。

 

 

 今後、次々と公開してゆく本ブログのシリーズは、私たち国民のすべてが希望と展望を見出せる国、誰もが置き去りにされない国家、誰もが本物の幸せを実感できる史上初めての国家の建設を実現させるための、基本的な考え方と、その実現方法ないしは手順を、具体的かつ論理的に明らかにしてゆくものです。

その際、こうした似非政治家・政治屋・タカリ屋・税金泥棒・詐欺師らは何としても排除しなくてはなりません。不忠な彼らは、ただ一つ、人より幾分口が達者というだけで、存在していること自体、私たち国民にとって、また近未来世代にとって、有害無益でしかないのですから。

もちろん中には本物の政治家もいるでしょう。しかし、一旦は全て辞めてもらわなくてはならないと私は考えます。そしてその後に、本物の政治家を、私たち国民の手で生み出し、育ててゆくのです。

 目指すは持続可能な社会、持続可能な国家です。今を生きる私たちが、私たちの子々孫々に託すに値すると私たち自身が確信の持てる本物の国家です。

 

 

 

 

 

 以下は、私自身の自己紹介です。

 

自己紹介(生駒哲夫の生い立ち)

  

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1946年 長野県上田市(真田城下)に生まれる。

1969年 信州大学 理学部 物理学科卒業

1974年 京都大学 大学院工学研究科 航空工学専攻 修士課程修了

 同年4月 清水建設(株)に入社。 研究所 力学研究部に配属

1992年 同社の本社の環境技術開発部に異動

1998年 この国の行く末を案じ、定年まで8年を残し、同社を希望退職

 同年6月 ある目的を持って農業生活に転身するために、山梨県北杜市(旧 北巨摩郡高根町公営住宅に移住

その目的とは、農業に生きる中で、それを食わねば誰もが生きてはゆけない喰い物を生産する農業でありながら、日本ではその農業では食ってはいけないという根本的矛盾を克服する日本のこれからの農業のあるべき姿を模索し、さらには、そのあるべき農業を土台にして、温暖化と生物多様性の消滅という事態の克服策をも模索しながら、この国の近未来の姿形を総合的かつ具体的に描き出すことであった。

 同年7月 畑での農作業を開始。

2000年 上記目的と並行して、この国を地方の狭い範囲から変革してゆくことをめざして、自己完結循環型地域社会を構築することを構想し、「暁鐘の杜」と自らが命名した森の中で、自給自足の集落づくりを開始。

2002年 その「暁鐘の杜」の中に、この森で育った樹木だけを構造材として新居を建築し、転居。現在に至る。

 

  • 農業の方法:農法は、一滴の農薬も一握りの化学肥料も用いず、良質な有機質のみによる有機農法

温暖化が進み、化石資源が枯渇し始めた今、農業における石油化学資材を極力用いないでどれほどの農産物生産ができるかという問題をも自らに課して試しながら、野菜と米を栽培し、それをお客さまに買っていただいて生計を立てている。

  • 家族:子どもは二人(一人は大学院生、一人は看護師)。

妻とは、サラリーマン生活を辞め、山梨県に転居後、一年で離婚。
今、単身生活中。

以上

 

最後に 

 このブログのシリーズの内容は、22年前、専業で有機農業の道に家族ぐるみで進むことを決意して以来、畑や田んぼで農作業をしながら考え続けてきたものです。

そして本ブログのシリーズの目指すところは、既述のように、持続可能な社会、持続可能な国家、すなわち持続可能な未来はこうすれば築けるというその構築方法を具体的に「たたき台」として示すことです。そしてそれは、今を生きる私たちが、私たちの子々孫々に託すに値すると私たち自身が確信の持てる本物の国家だと私は考えます。

 そのたたき台については、拙い文章ですが、一部だけあるいは枝葉末節を見るのではなく、どうか幹を、骨格を、そして全体的整合性・論理的一貫性を見ていただきたいのです。