LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

この国の現状と近未来に不安を抱く全てのみなさんへ

 このたび、子どもの手を借りながら、インターネット上で発信するためにこのようなブログという場をつくることにしました。
今回は、このブログの方向性を示しながら、私の紹介を簡単にしようと思います。

 

この国の現状と近未来に不安を抱く全てのみなさんへ(改訂版)

 

 みなさんは今、この国の現状と近未来に不安を感じていないでしょうか。

感じているとしたら、それはどんなことに対してでしょうか。

 私も不安を感じています。

私が不安に思っている主たる問題を挙げれば、次のことです。

 第一の不安。

これは人類がこれからもずっと生きて行けるかどうかという問題がかかった不安です。

 地球は今、温暖化が進んでいます。そしてその温暖化については、地球の平均気温が産業革命以降から1.5℃以上に上がったなら、異常気象を始め、予測不能な事態が頻発し、その結果人類の存続は危ぶまれる、とはIPCC(国連の公式の組織で、「気候変動に関する政府間パネル」)が警告しているところです。

 そこで、その温暖化を2100年までに1.5℃の上昇範囲に止めるために、国連をはじめ、世界の各国、特にヨーロッパ諸国等の真の先進諸国はすでに対策に乗り出しています。

しかし、この日本という国は、かつて経済超大国と呼ばれ、今日の地球温暖化には、世界規模の経済活動を通じて、温暖化を生じさせてきた最大の国の一つであるのにも拘らず、議会————国会だけではなく地方議会————をはじめ、政府————中央政府だけではなく地方政府————も、そして国民一般も、その責任を感じている風はなく、むしろ温暖化阻止に向けた意識は諸外国に比べて極めて低く、対策も先進諸国に比べたなら大幅に遅れています。

 この国の首相は、よく「世界の平和と安定」という言葉を口にしますが、例えばこの国の政府が特に途上国に対してやっていることは、お金————これすべて私たちが納めた税金です————をバラまくことだけです。その国がどうしたら伝統の文化の上に立って経済的に自立して暮らして行ける国になるかということまで考えているわけではありません。それだけにばらまくそのお金には、日本の産業界に儲けさせるという意図が常に込められているのです。そうでなくとも、この日本自身、今や、国民総生産額およそ500兆円の2.4倍もの借金を抱えていて、実態は他国にお金をバラまけるような財務状態ではとてもない国だというのに、です。ODAと呼ばれる「政府開発援助」がその象徴です。

 果たしてこの国は、こんなことをしていていいのでしょうか。この国は————ということは私たち国民と政府ですが————少なくとも、自国の将来世代、そしてこれから生まれてくるまだ見ぬ世代に対して、こうした地球の状態をもたらしたことに対して、責任を果たしていると言えるのでしょうか。

そして、こんなことで、この国は、「世界の平和と安定」などと口にできるのでしょうか。

 

 第二の不安。

これも人類存続の可否のかかった問題です。

 今、地球上の生物多様性が急速に失われています。

ところがこの問題については、日本はもちろん世界でも、一般に、地球温暖化問題よりもさらに関心が低いようです。

しかしこの生物多様性が地球上に保たれていることが人類にとってどれほど大切ということは、次のように考えればすぐに理解できると思います。

 人は、誰も、例外なしに、他生物を食べることでしか生きられません。それは例外無しです。工業生産物を食べて生きるということは絶対にできないのです。そしてそれは永遠の真理です。

その場合、ヒト以外の他生物同士は、動物、植物、昆虫類や鳥類、爬虫類、菌類を含めた微生物、その他諸々の間で、互いに「喰って、喰われて」という関係を保ちながら一つの閉じた「環」を構成して、その環の中で、それぞれは生命を維持し、子孫を残しているのですが、そこでは、ヒトは、土葬をしなくなってからというもの、その関係の外にいるのです。

 この場合直ちにわかるように、動物、植物、昆虫類や鳥類、爬虫類、菌類を含めた微生物等々のそれぞれの種の間での種類が豊富であればあるほど、つまり種の種類が「多様性」に富んでいればいるほど、それぞれの種は色々な他生物を食することができるわけですから、その種の存続は保障されることになります。

 ところが、です。それら生物種の中のいずれかの種が例えば農薬散布などによって、あるいは人間による乱開発等によって数が激減、あるいは絶滅してしまったなら、これまでの、動物、植物、昆虫類や鳥類、爬虫類、菌類を含めた微生物、その他諸々の間での互いに「喰って、喰われて」という関係はどうなるか。

その時には、その環を構成していた一つの生物種の数が激減ないしは絶滅していなくなるわけですから、それまで閉じた環はそこで切れてしまうと同時に、それまでその激減あるいは絶滅した種を喰って生きてきた別の種は喰うものを失って生きられなくなります。

 そうなるとどうなるか。当然その種も絶滅せざるを得なくなるわけですから、これまでそれを喰って生きてきたさらに別の種も生きられなくなってしまいます。

 こうして、一つの生態系の中で、これまで、食物循環という多様な種からなる閉じた環を構成することで生きながらえることができてきた様々な種は、たちまち、というよりドミノ倒し的に、生きられなくなって、絶滅してゆかざるを得なくなるわけです。

 いうまでもなくその現象がどこかの生態系内で生じた場合には、もはや人間の手でその現象を止めることはできません。

しかも一つの生態系でこうした現象が生じてそこでの生物多様性が消滅すると、その影響は、それまでその生態系との間で微妙な関係を保って存在できてきた隣接する生態系にも当然ながら波及します。

 こうして、一つの生態系で生じた現象が自然界全体に広がってゆくことになるのです。

 こうなれば、最終的には、あるいは遅かれ早かれ、自然界での食物循環の外に立ちながら、その環を構成していた生物種のいくつかを選択的に喰っては生命を維持し得てきたヒト自身も、やがては喰う他生物種がいなくなるわけですから、否応無く絶滅せざるを得なくなるのです。

 ですから私はなおのこと危惧するのです。一旦、どこかの生態系で生物多様性が失われれば、その現象は、もはや人間の努力では制御し得ないまま、不可避的に、しかも加速度的に自然界全体へと拡大してゆくことが考えられるわけですから、論理的に考えても、温暖化による人類の破局よりも早まるのではないか、と。

 ところが、こうしたことが予想されるのに、この問題に対しても、この国の議会も政府も、国民一般も、とんと関心もなく、したがって対策など絶無と言った状態なのです。

 これについても、私たちはこれでいいのか、と不安になります。

 以上が、私の抱く、あらゆる問題の中で、重要度と緊急度の点で、優先順位最高の不安です。

私は「あらゆる問題の中で」と書きましたが、その意味は、私が思うに、例えば核戦争の脅威以上です。

確かにそんな戦争が実際に勃発したなら、今の時代、多分ほぼ数時間で地球上の自然はほぼ全域が破壊され、他生物はもちろん人類もほとんどが死滅するでしょうから、即死的であるという意味ではむしろ地球温暖化生物多様性の消滅という事態よりは脅威です。しかし、その戦争は、それでも、なんとか人間の判断と決断が介在しうるし、回避しうる可能性は残されているのです————ただし、これからの戦争はAIによる戦争が主流となりそうと言われているので、核戦争もAIによる戦争となったなら、もはや制御のしようはないでしょうが————。

 事実、キューバ危機の場合がそうでした。

偶発的な事件が重なって、もはや核による全面戦争は避けられないかというところで、ソ連原子力潜水艦の副館長の冷静な判断と、両国の最高首脳同士————ここではケネディフルシチョフ————の叡智と決断をもって、土壇場で回避されたのです。

 ところが、地球温暖化生物多様性の消滅という問題は、一旦加速度がついたなら、もはや何人をもってしても止めることはできず、文明の崩壊そして人類の破局へと直線的に進まざるを得なくなるからです。

 

 不安の三つ目。

それは、この国の政治家全般について言えることです。

つまり中央の政治家だけではなく地方の政治家についても、また議会の政治家だけではなく政府の政治家についても、です。

それは、彼ら政治家はあまりにも政治的に無責任・無知・無能・無策すぎ、また不忠である、あるいは自国民を裏切っているという事実に起因する不安です。

 ここに言う無責任とは、自らが掲げた公約を、選挙戦ではあれだけ声を大にして主権者に訴えていたのに、当選してしまうと、けろっと忘れたふりをすることです。

無知とは、政治を行ってゆく上で是が非でも知っていなくてはならない基本的な用語を知らな過ぎる、ということです。

例えば、自由、平等、民主主義、議会と政府の使命の違い、政治家と役人の使命の違い、国と国家の違い、国と中央政府の違い、についてです。また、権力の意味とそれが成立する根拠、憲法の意味、国会が国権の最高機関とされる根拠、「三権分立」の意味、「法の支配」の意味、「法治主義」の意味、等についてです。

 なお、ここで用いている「無知」とは、たとえ言葉としては知っていても、その意味を正確に理解した上で、それを自身の政治活動に日常的に活用できていなかったならそれは知っていることにはならない、という意味です。

無能とは、法律を作るにも、国民の大切なお金の使途を決めるにも、政策を立案するにも、また、国民に政治の現状を説明するにも、本来「国民のシモベ」でしかない官僚ないしは役人に依存し、またそのシモベに追随・追従しなければ政治も行政もできないことを言います。

無策とは、国民が望んでいることを速やかに政策として立案できないことを言います。

不忠とは、あるいは自国民を裏切っているとは、自身は国の主権者である国民から選挙で選ばれた国民の代表あるいは代理者なのだから、それは例えばちょうど、その家に仕える「お手伝いさん」は全てその家の主人の指示に従って行動しなくてはならないと同じように、国民のシモベ=公僕も、全て国の主人公である国民の代理者=政治家の指示に従って公務をこなさなくてはならないのに、この国の政治家はその役割と使命を全くと言っていいほどに果たしてはいないことを言います。

 例えば、一方では、主人公と約束した公約を、選挙当選時に主権者から負託された権力をもって、政策なり予算なりを法律の裏付けを持って定めるべき役割と使命を持っているはずなのにそれを果たさないこと、また他方では、定めたそれを、「国民のシモベ」に指示し、またコントロールしながら実現してゆかなくてはならない役割と使命を国民から負っているのにその役割や使命を果たさないことです。

 それだけではありません。主権者から負託された、それだけに他者に委譲することなど絶対に許されないその権力を、事もあろうに「国民のシモベ」でしかない官僚あるいは役人に委譲し、しかもその権力の行使を、「立法」を含めて全て、シモベに事実上放任していることです。

しかも、そうしていることに、何の罪意識も見せずに、平然としていることです。

 これが、政治家という政治家の国民への最大の裏切りと言わずして、なんと言えばいいのでしょう。

 

 こうしたこの国の政治家の無責任・無知・無能・無策すぎ、また不忠である、あるいは自国民を裏切りは既述してきた二種類の不安を除けば、私には当然ながら最大級の不安となります。

なぜならば、この日本という国あるいはその内外に、近い将来、国民全体の生命と自由と財産の安全に関わる重大事が生じたなら————例えば自然大災害、食糧危機、エネルギー危機、金融危機、あるいは戦争、等々————、彼ら政治家は、国民の利益代表でありながら、全く為すすべを失い、その場合、議会という議会は国会を含めて全くその役割と使命を果たせなくなるだろうし————今でさえ、そうなのだから————、政府という政府も、中央政府を含めて、どこの地方政府も、完全に「無政府」状態、すなわち統治不能という事態に陥るのは間違いない、と私は予測するからです。

したがって、その場合、被災した人や被害にあった人が、あるいは生きることにさえ困窮に陥った人々が、政府に対して————中央政府であろうと地方政府であろうと————、「すぐにも助けてほしい、助けに来てほしい」と叫んでも、政府は全くと言っていいほどにその声に対応できなくなっているだろう、というより、政府を構成する政治家自身————それは総理大臣であり閣僚であり首長を言う————が、うろたえてしまって、何をどうしていいのか、皆目分からなくなってしまうであろう、と私は推測するのです。

 なぜそうなるか。それは、長年、この国の政治家という政治家は、既述したように各自、全く己を甘やかして来ただけではなく、その上、国民から負託された権力を国民の代表でもなんでもない官僚(役人)に委譲してはその官僚(役人)に立法も行政も依存し、また追随するということを「当たり前」にしてやってきたし、しかも、特に国会議員などは、議員報酬や議員特典や議員特権等すべてを税金換算したなら、一般社会人からは考えられないおよそ2億円に近いお金を享受するということを「当たり前」にしてきたからです。

 先に起こった阪神・淡路大震災の時、オウム真理教によるサリンばらまき事件の時、西日本豪雨災害の時そして東日本大震災の時とその直後の東京電力福島第一原発炉心溶融による水素大爆発時などで、果たして中央政府はどのような対応ぶりを見せたか、思い出してみてください。

メディアはその度ごとに「初動態勢の遅れ」と表現してきましたが、事の本質は初動態勢の問題などでは決してないのです。

 国会の政治家であれ、政府の政治家であれ、一人ひとりは、すかさず現地に飛び、自分の目で現状を視察し、被災者や被害者の生の声を聞き、現地の惨状が現行法で対応できるのか否かを議会に戻って全員で早急に検討し、もし「前代未聞の事態」とか「前例のない事態」となれば在来法では対応できないことは明らかなのですから、関係方面の専門家の知恵を借りるなどして速やかに新法を定め、定めたそれをもって政府に、国権の最高機関として執行させなくてはならないのですが、いずれの大惨事でも、この国の政治家はそれができなかったし、やろうとさえしなかったのです。
 なぜか。いつも決まって、全てを官僚(役人)に依存し、彼らに追随してきたからです。それが完全に習慣化しているからです。

 そしてその結果、被災者や被害者はその後どうなったか。今だに救われてはいません。むしろ、実質的にはこの国の政府に見捨てられたままでさえいます。

 ところがこの国の政治家の無責任・無知・無能・無策と、不忠あるいは自国民への裏切りがもたらす事態はそうしたことだけではありません。

 例えば、「森友学園」問題での対応の仕方がそうです。

赤木俊夫元財務省職員が、佐川宣寿理財局長(当時)から命ぜられて公文書改ざんをした後、それをしてしまったことを悔いて自から命を絶った事件の際の政治家(閣僚)の対応のことです。

 本来この事件は財務省内で起こった事件なのですから、当然ながら財務省の国民を代表する最高責任者である麻生太郎財務大臣がこの事件に関する説明責任を自らが果たすか、あるいは配下の官僚をコントロールしながら、官僚に説明責任を果たさせるかしなくてはならなかったのに、麻生は終始その責任を果たさなかった。赤木雅子さんや国民(メディア)の前に出て、赤木雅子さんの疑問に答えるとともに、事の顛末を国民が納得するまで、ずに、赤木俊夫さんの奥さんである赤木雅子さんへの対応、そして国民への対応の全てを官僚に任せっきりにしていたことです。それどころか、麻生は、なぜそのような事件が自分の担当省内で起こったのか理解できないという態度をとり、我関せずのような態度ですらいたことです。

 麻生のそうした無責任きわまる態度をいいことに、佐川を始め財務省の官僚たちは、赤木雅子さんが提出を要求した自分の亡き夫が書き残したとされる「赤木ファイル」については、当初は「ない」と報告しては裁判を長引かせ、1年3ヶ月後にやっとその存在を認めて出して来たかと思えば、今度はそのほとんどを黒塗りにして提出したりした。

 しかも財務官僚たちは、そうやって裁判を長引かせて来ておきながら、今度は、“いたずらに訴訟を長引かせるのは適切ではない”として、雅子さんが求める真相解明に対してもうやむやにしたまま、突如、雅子さんの損害賠償請求金額のすべてを受け入れるという意味での「認諾する」と言って、裁判の幕引きを図ったことです。

しかも、そうした官僚の、自分たちの金ではなく国民のお金(税金)を使って自分たちの責任をうやむやにしてしまったことについても、その後、岸田文雄政権に変わって新しく財務大臣となった鈴木俊一氏も、麻生と同じように、官僚の対応に追随してしまったことです。

 また、スリランカ女性ウイシュマさんが、名古屋入国管理局の役人の人権無視によって死亡した事件での

対応の仕方がそうです。

この事件の際にも、それは全て法務省の管轄下で起こった事件なのだから、法務省のトップである上川陽子法務大臣が、事の顛末の全てを、真相を速やかに明らかにしてくれることを要求するウイシュマさんの妹のポールニマさんに対して説明したり、国民(メディア)の前に出て、自らが説明責任を果たすか、配下の官僚をコントロールしながら完了に説明責任を果たさせるかしなくてはならなかったのに、上川も麻生と全く同様に閣僚としての責任は全く果たさずに、配下の官僚に任せっぱなしにして、むしろ上川自身は第三者的に傍観していたことです。

 もちろん、麻生や鈴木や上川ら閣僚を任命した総理大臣としての安倍晋三岸田文雄にしても、配下の官僚には“国民に対して国民のシモベとしての義務を果たさせなさい”と担当閣僚に指示することも命令することもできないのです。

 要するに、この国の政府は、総理大臣も閣僚も共に、国民から選挙で選ばれた代表でありながらその代表として官僚と官僚組織をコントロールもできないのです。

ではなぜできないか。それは、この国の政治家という政治家は、政治家としての使命などほとんど果たさずに、もっぱらと言っていいほどに官僚(役人)に頼ってきたことに因るのです。

 しかし、ここで重要なことは、だからと言って、官僚(役人)には、国民の「生命・自由・財産」を守るための法を作ったり、政策を決めたり、国民の金の使途を決めたりする権限は、もともと与えられてはいない、ということです。

 考えてもみてください。主権者である国民の代表でもなく、「国民に仕えるシモベ」、今様の言葉としては不適切かもしれませんが、本質的に「国民の召使い」の立場である者に主権者である国民の生命・自由・財産のありようを規定する法律や政策や予算を決める権力や権限が国民から与えられるはずはないのです。

 ですから、以上のことから判っていただけるのではないかと思いますが、この日本という国には、国と国民の安全保障に関わる事態が生じても————例えば、安倍晋三はよく「台湾有事」ということを軽々に口にしますが、そのような場合でも————、自らの戦略をもって軍を二重三重に「シビリアンコントロール」しつつ、この国全体を指揮統率しながら舵取りをする者など、この日本にはかつても、そして今もなお、安倍晋三自身を含めて、誰もいないのです————それは、拙著の本文の中で、随所にて指摘しますが、この日本という国は、見かけは国家でも、本物の国家ではない、ということと意味は同じことです————。

 国民にとって、こんな恐ろしいことはないではありませんか。そしてそれは、実際、日米安全保障条約とか安保法制とか現行日本国憲法第9条とかを云々する以前の話のはずです。

 

 とにかく、政治家という政治家がこんな体たらくなことで、近い将来、進行する地球温暖化と気候変動そして生物多様性の消滅という事態の進行に伴って生じるであろう、人類史上、かつてなかった地球規模の大惨事には、この国の議会と政府は、一体、どのようにして自国民の「生命・自由・財産」を守ろうというのでしょうか。そして、そのような事態に遭遇するであろうことを見越して、事前に、どうこの国を耐性のある国、真に持続可能な国にさせうるのでしょう。どうして、その時の日本国民は救われるのでしょう。

とにかく、今政府が掲げている「国土強靭化」政策といった中身の何もない政策では全く無力。菅総理(当時)が宣言した、“2050年には日本はカーボン・ニュートラルを実現します”も全くダメです。

他国が言っているから、日本も言わなくてはという程度のもので、何の具体的な中身も方針もないのですから。第一、当時の菅総理は、カーボン・ニュートラルの意味すら正確には理解し得てはいなかったのではないか、とさえ私は推測します。

 私たちの国日本は、既述した二つの危機に対処しうる国になるためにも、早急に真の意味で持続可能な国に生まれ変わらねばなりません。

しかしこの国がそのように生まれ変わるためには、ただ口で言っているだけではダメで、まずは、この国を私たち国民の要求が速やかに政治に反映される民主主義の国にしなくてはなりません。今のように官僚たちに、自分たちのお金ではない国民のお金(税金)を自分たちの利益や既得権益を守るために最優先に、しかも好きなように使われてしまうような国、またそれを許してしまう無力で無能で無責任で無策で不忠な政治家の国、すなわち官僚主導どころか官僚独裁の国では、民主主義の実現した国はおろか、真の持続可能な国にも決してなり得ません。もちろんその場合、私たち主権者である国民の利益=「生命・自由・財産の安全確保」も守られません。

そしてさらには、本物の国家にもしなくてはなりません。

 みなさんも、例えば過去のこんなケースを思い出してみてください。

阪神・淡路大震災の時(1995年)、当時の政府(建設省兵庫県庁、神戸市役所)は被災者救済のためにすぐにも動きましたか。東日本大震災時(2011年)ではどうだったでしょうか。その直後起こった東京電力福島第一原発での相次ぐ水素爆発時はどうだったでしょうか。熊本地震時(2016年)は? 九州北部豪雨の時(2017年)は? 西日本豪雨災害時(2018年)はどうでしたか? 

 では新型コロナウイルスによるパンデミックの時、国民の要求である、一刻も早く誰もがPCR検査ができるようにして欲しいという要求は実現されたでしょうか。感染が拡大した時、医療体制が崩壊しないように、ベッド数を確保するだけではなく医療体制を整えておくべきとの要求に対してはどうだったでしょうか。

 日本を持続可能な国にするには、まずは民主主義の国にすることは欠かせません。

そのためには、民主主義の価値を真に理解し得た、そして政治家の役割と使命をわきまえて、官僚に依存しないだけではなく、国民の代表として官僚(役人)をコントロールできる本物の政治家を私たちが育てるよりありません。今の政治家では到底無理だからです。

 その育て方は、今のような単なる数合わせ的な儀式でしかない選挙制度ではなく、国民に忠誠を誓い、高い政治的志ある者ならお金や知名度や地盤など全くなくても選挙に出られる、公正で真の民主主義選挙制度を確立することによってです。

それも、私たち国民の手で、です。もはや一人ひとりは「あなた任せ」ではいられないのです。“政治には関心はない”、とか、 “政治家は信用できない”などとも言ってはいられないのです。私たち国民一人ひとりが国家の政治のあり方を最終的に決定しうる権限を持った、重大な責任を負う主権者なのですから。ですから、それを自覚すると同時に、「公共の領域」(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本という国をあなたのものにするために」角川書店p.192)の形成に自律的かつ自発的に参加する、真に本物の市民(シティズン)となって立ち上がらねばならないのです。

 果たしてこの国が手遅れにならないうちに、そうした真に持続可能な国に生まれ変わることができるか、それが先の二大不安を除けば、私にとっては最大級の不安です。

 

不安の四つ目。

 それは、近年、この国では、例えば次のような事態が急増していることです。

1つは、特に若者の間にイジメや不登校あるいは登校拒否、引きこもりが急増し、またその中で自殺者も急増していること

1つは、大人の社会でも、パワーハラスメントセクシャルハラスメントといった、やはりイジメやイビリが急増していること

1つは、特に社会的弱者がまるで存在意義などないかのように虐待あるいは殺されてしまう事件が頻発していること

1つは、親、特に若い親が我が子を殺したり、子供が親を殺す事件も頻発していること

1つは、理由も動機も曖昧なままの、“誰でもいいから殺したかった”という類の殺人が若者から大人までの間で増えてきたこと

1つは、日本の科学技術力が、世界で、相対的にどんどん低下していること

1つは、若者たち一人ひとりの想像力も創造力も、したがって共感力もどんどん下がっていること

1つは、報道の自由ジェンダー平等の面でも、世界のランキングからすると、年々、その順位を下げていること。と言うより、世界では当たり前としている価値観や認識の仕方に、日本国民がついていけていないこと

もちろんこの他に、既述してきたことではありますが、今や政治家の自国民への裏切り行為が当たり前に行われていることも含まれます。

 ではなぜ私はこうした事態が頻発し、また急増していることを、この国の持続可能性を脅かす不安材料と考えるか。

 それは、これらは、一言で言えば、日本国民の多くが、自身の生き方の上で、何が善で何が悪か、何が正しく、何が間違っているか、どういう時に自分は何をどう判断すればいいか、人間にとって何がより高い価値を持っていて何がそれよりも低い価値のものか等々という、行動の上での規準や諸価値には階層性があるということを判断し得なくなっている、あるいは、生きる上での核心とか心棒といったものを見出し得なくなっている、と見るからです。

要するに、今、この国日本では、国を構成する国民が、生き方に迷っているからです。

これは、国家としてというよりは国として由々しきことです。

それは、この日本の真の国力というべきものをますます低下させてゆかざるを得ないからです。

 では、こうした事態や状況を、この国のそれぞれの分野の評論家・批評家はどう見て、どう言っているか。私の知る限り、彼らが語るその内容は、ほとんどどれも「対症療法」の域を出ないものばかりで、「とりあえず」論あるいは「当面策」に過ぎないものばかりです。つまり事の本質、あるいは本質的原因まで追求し、それを明らかにして、それを除去あるいは変革する方法まで説いている識者は、私の見るところ、皆無に近い。

 これでは、いつまでたっても問題は解決しません。というより、それでは、しょっちゅう、同じ事態を繰り返さざるを得ない。つまり進歩や発展は見込めないどころか、ますます国の存亡そのものを危うくさせます。

 なぜ専門家ですらこうなるのか。それは、もはや問題の本質を解き明かす力もなければ、自分の社会的責任を判断し得なくなっているからであろうし、あるいは本質を解き明かして見せた場合の結果の身にかかる損得を計算するからであろう、と私は考えます。

 では、なぜこの国は全体がこうなるのか。

 私は、これこそ、この国の中央政府の文部省と文部科学省がもたらしたものだ、と私は断言します。

とりわけ国民から選ばれた国民の代表である閣僚が責任を持ってこの国の学校教育のあり方を知識人から助言を受けるなりして先導するのではなく、もっぱら配下の官僚に、国民から負託された権力を丸投げするという絶対に許されない裏切り行為を働いては彼らに放任して、彼らに追随してきた結果だと。

 考えてもみませんか。

人は誰も、生まれも育ちも違うわけですから、持って生まれた個性も能力も違います。それが当たり前です。ところが、その個性や能力は認められず、評価もされず、とにかくみんながある一つの規格の中に収まるように教育され、自分の考えを意見として堂々と述べたり間違っていることを間違っていると意思表示する態度を「協調性がない」とされたりして、また事態や状態をよりよくするために勇気を持って批判しても、その批判は非難と混同されてしまい、「和を乱す者」とされてしまう、という状況が常態化されたなら、人間、どうなるかということを。

 また、人間の成長過程において、最も自由が必要とされる時期に、言いたいことも言えずに自己規制しなくてはならない状態に押し込められてしまい、正義は問われずに秩序を保つことだけが強調されて、その枠組みからはみ出すことを学校管理者から極度に忌み嫌われた上に、実際にはみ出すとそれはその子の将来の進路指導にも影響をもたらす、という状況が常態化されたなら、人間、どうなるかということを。

 教科の内容についても、その子が実社会に出て人間として生きてゆく上で“こんなことを覚えることがなぜ必要なのか”と思わせられるような知識ばかり、それも相互につながりのほとんどない断片的な知識ばかりを覚えさせられては、その暗記の正確度をしょっちゅうテストされた挙句、そんな一片のペーパー試験の結果をもって、その子の能力の有無が評価されてしまう、という状況が常態化されたなら、人間、どうなるかということを。

 私は、人間という生き物は、個人が個人として個性や能力を尊重されず、しかも精神の自由がない抑圧状況の中に育ったなら、どんな人も、程度の差こそあれ、必ず精神は鬱屈し、異常をきたすと考えます。

そしてそれは、自分でそれを意識しているか否かは別として、大なり小なり、個々の子供たちに、現状の社会に対しする反抗心、敵意、敵愾心、憎しみの感情を芽生えさせることになる、とも考えます。

もちろん、そうした感情を表に表すか否かは、個人個人の判断力や理性や正義感の程度によって異なるでしょう。

 今、他国と比べても、この国に既述してきたような事態がますます多発してきているのは、まさにそのことを裏付けていると見ます。

 人間個々人にとって、自由はそれほどに大切なのです。

そもそも、人間の歴史そのものは、より大きな「自由」を勝ち取るための闘争の歴史だった、と言い換えることもできるのではないでしょうか。とりわけ、近代以降の世界が、民主主義と並んで自由を人類普遍の価値としてきたのもそのためなのでしょう。

 私は、既述してきた様々な好ましからざる事態の急増は、この国の政府の文部省そして文科省において、文部大臣や文部科学大臣が国民の代表としての役割と責任を果たさずに、もっぱら配下の官僚に教育内容と教育システムを放任してきた結果だ、との確信を持ちます。

 要するに、この国の子供たちや若者たちは、日本政府の、それも文部省や文科省の学校教育の犠牲者なのです。またその教育で育ったこの国の親たちも大人たちも犠牲者なのです。

 したがって、そしてそのことは、この国には、ますます国を支えてくれる人材がいなくなり、世界的に見て、真の国民力は相対的にますます低下してゆかざるを得なくなることを意味するのです。

 とにかく、これからの人生を生きる日本の児童生徒に、官僚が人間として育てる教育内容を定めたり、教育行政システムを定めたりすることなどできるはずはないのです。なぜなら、彼ら自身、かつて、同じ教育を受けて育っているからです。しかもその教育に対して、ほとんど無批判に、ただそれに従順に従ってきた人たちなのですから。

 本当の国力をつけることは、国民力をつけることのはずです。産業力ではありません。産業力は、その結果として、必然的に付くもののはずです。

でもこれまでのこの国の政府の教育では、その国民力は付くはずはありません。付かないどころか、世界に通用し得ない若者をますます大量生産してゆくことになると私は確信します。それに、真の国難に直面した時、豊かな想像力と創造力を持って事態を積極的に打開して行ける若者を育てられるはずもありません。

 

 以上が、現状の日本とこれからの日本の、国と国民のあり方を考えた時、私の考える、最も大きな不安、優先順位の最も高い不安です。

もちろんこの他にも、この国と国民にとって、本当は今すぐにも解決しておかなくてはならない重大な問題はあります。例えば次のようなものです。

①人口が減少し続けている状態をなんとか回復させなくてはならないという問題

②この国の真の安全保障を確保するという問題。

それは、日米安全保障条約だけにこだわらずに、アジア諸国全体、さらにはユーラシア大陸全体という視点に立った上での全方位平和外交を通してと、これからの温暖化と生物多様性の消滅の進行を考えた時の、食糧自給とエネルギー自給を達成させることを通してのトータルとしての安全保障を確保するという問題です。もちろんそこでのエネルギーとはもはや化石エネルギーといった再生不能エネルギーではなく、再生可能エネルギーです。

③対GDP比で2.3〜2.4倍という、中央政府と地方政府を合わせた債務残高をせめて0.5倍以下に縮小させるという問題

④東京を中心とする大都市の住民には地方に分散移住してもらって、国土の人口分布での均一化を図ると共に、迫り来るとされる首都直下型大地震南海トラフ地震を含めた自然大災害での犠牲と被害を最小にするためとしての対策問題

 でも、これらの問題解決は現行の政治家にできるわけはありません。その理由は今まで述べてきた通りです。

 ですから、日本が近い将来、ほぼ間違いなく直面するでありましょう真の、それも全面的危機に対して瓦解も崩壊もせずに対処でき、これからも国を保ち、国民の誰もが真に安心して暮らしていける国になるためには、つまり日本が真に持続可能な国になるためには、私たち国民は、全権力を所持する主権者として、また同時に私たち国民が本物の「市民」となって、現行の政治家という政治家をどうしても淘汰し、本物の政治家と言える政治家を私たち国民の手で育て、生み出せるようにしなくてはならないと私は考えます。

その方法は、これまでとは全く違う新選挙制度を実現させることによってです。

もちろんその場合、統治権力の不在と空白という無政府状態はなんとしても避けねばなりませんが。

 そうした政治屋が、族議員をも含めて淘汰されて、既述した政治家として絶対に理解していなくてはならない政治的諸概念を体得した本物の政治家が誕生してくれば、その数はたとえ現行の十分の一になろうとも、むしろその方が少数精鋭という形で、彼らの力で、これまで述べてきたこの国と国民の近未来を思う私の不安は、速やかに、かつ確実に解決の方向に向かって動くのではないかと期待するのです。

 拙著「持続可能な未来、こう築く」は、ですから今のような日本ではなく、国民の誰もが希望と展望を抱ける日本であって欲しいと願い、こうすればそうした日本国は多分実現可能となるだろうと私は考えるプロセスを、私の考えの及ぶ限りを尽くして、具体的に記述したものです。

その構想は、決して部分最適化を狙ったものではありません。「受け」を狙ったものでもありません。国をトータルとして成り立たせる上で不可欠な仕組みや制度を、一つの理念を貫通させながら統一して描いたものです。

 ですから、この拙文をたまたま目にされた皆さんは皆さんで、他人の絵空事としてではなく、自身の問題として引き付けながら、批判的に読んでいただけたなら嬉しいです。

 

 

 

 

 

 以下は、私自身の自己紹介です。

 

自己紹介(生駒哲夫の生い立ち)

  

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1946年 長野県上田市(真田城下)に生まれる。

1969年 信州大学 理学部 物理学科卒業

1974年 京都大学 大学院工学研究科 航空工学専攻 修士課程修了

 同年4月 清水建設(株)に入社。 研究所 力学研究部に配属

1992年 同社の本社の環境技術開発部に異動

1998年 この国の行く末を案じ、定年まで8年を残し、同社を希望退職

 同年6月 ある目的を持って農業生活に転身するために、山梨県北杜市(旧 北巨摩郡高根町公営住宅に移住

その目的とは、農業に生きる中で、それを食わねば誰もが生きてはゆけない喰い物を生産する農業でありながら、日本ではその農業では食ってはいけないという根本的矛盾を克服する日本のこれからの農業のあるべき姿を模索し、さらには、そのあるべき農業を土台にして、温暖化と生物多様性の消滅という事態の克服策をも模索しながら、この国の近未来の姿形を総合的かつ具体的に描き出すことであった。

 同年7月 畑での農作業を開始。

2000年 上記目的と並行して、この国を地方の狭い範囲から変革してゆくことをめざして、自己完結循環型地域社会を構築することを構想し、「暁鐘の杜」と自らが命名した森の中で、自給自足の集落づくりを開始。

2002年 その「暁鐘の杜」の中に、この森で育った樹木だけを構造材として新居を建築し、転居。現在に至る。

 

  • 農業の方法:農法は、一滴の農薬も一握りの化学肥料も用いず、良質な有機質のみによる有機農法

温暖化が進み、化石資源が枯渇し始めた今、農業における石油化学資材を極力用いないでどれほどの農産物生産ができるかという問題をも自らに課して試しながら、野菜と米を栽培し、それをお客さまに買っていただいて生計を立てている。

  • 家族:子どもは二人(一人は大学院生、一人は看護師)。

妻とは、サラリーマン生活を辞め、山梨県に転居後、一年で離婚。
今、単身生活中。

以上

 

最後に 

 このブログのシリーズの内容は、24年前、専業で有機農業の道に家族ぐるみで進むことを決意して以来、畑や田んぼで農作業をしながら考え続けてきたものです。

そして本ブログのシリーズの目指すところは、既述のように、持続可能な社会、持続可能な国家、すなわち持続可能な未来はこうすれば築けるというその構築方法を具体的に「たたき台」として示すことです。そしてそれは、今を生きる私たちが、私たちの子々孫々に託すに値すると私たち自身が確信の持てる本物の国家だと私は考えます。

 そのたたき台については、拙い文章ですが、一部だけあるいは枝葉末節を見るのではなく、どうか幹を、骨格を、そして全体的整合性・論理的一貫性を見ていただきたいのです。