LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その1

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金色の稲穂と八ヶ岳

本来ならば、拙著の原稿を公開するにあたりまして、その順序は、「はじめに」からとすべきなのですが、その「はじめに」については、すでにこれまで、その内容に近いことを記述してきましたので後回しにします。
おいおい公開します。

そこで早速、第1章「世界はなぜ混迷の度合いを深めてゆくのか、そして日本はなぜ?」第1節「1.1 ますます混迷の度合いを深めてゆく世界」から公開してゆこうかとは思ったのですが、それも今のこの国の政治状況を優先的に考慮して、後回しにします。

そして第2章「この国の全政治家を一旦辞めさせ、官僚制度をも全面的に創り換える」第2節「なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか」から公開してゆくこととしました。

 その理由は、今、この国も新型コロナウイルス禍で文字通り日本国民の命と健康が直接的に脅かされているというのに、その国民的危機を政治的策をもって救わねばならない立場の、国民から選ばれたはずのこの国の全国の政治家という政治家の相変わらずの自己への甘えからくる無為、無策、無脳、無責任な姿を目の当たりにするとき、やはり今は、この2.2節の公開を真っ先にすべきと私は判断したからです。
とにかく、彼ら政治家らが己の責務をきちんと果たさないが故に、そしてそれが真の根本的理由であるが故に、今、この国は大混乱に陥っているのですから。

とはいえ、この2.2節だけでも相当の分量となります。それを一気に読まれるのは、かなりしんどいかもしれません。

そこで、便宜上、これを3回に分けて掲載してゆきます。

ご了承ください。

 

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その1

 前節では、一国におけるあらゆる社会制度の中で「政治」が何よりも重要であるとして、その根拠を私なりに述べて来た。

しかし、その政治を行うことを自らの使命とする日本の政治家たちの今日的状況をみるならば、私は、ここで、彼ら政治家という政治家の全てを、すなわち国会議員から都道県議会議員、そして市町村議会議員と、中央政府の政治家(総理大臣、閣僚)と地方政府の首長(都道府県知事、市町村長)の全てを一旦は辞めさせる必要がある、と強く思う。

 なおここで私の言う“一旦は辞めさせるべき”の「一旦は」の意味は、例えば本書の後の章(第9章)にて私が提案する新選挙制度が実現され、それが実施され、まったく新しい、そして本物の政治家が育つまでは、という意味である。

それは、少なくとも従来の選挙制度の持つあまりにも多くの弊害を考慮するならば、そこで私の提言する新選挙制度の方が最善とはいかないまでも、少なくとも真の民主主義に近づいた、真の政治家を育てる選挙制度と言えるのではないか、と思うからである。

 もちろんその場合も、政治家が揃って交代するにあたって、統治体制に空白があってはならないので、そこは、スムーズな交代ができるような仕組みは事前に設けておく。

 

 本節では、一旦は辞めさせるべきとするその理由を具体的に述べてゆく。

しかし、その理由の全体をあらかじめ、あえて一言で言えばこうなる。

彼らのほとんど全ては、近代西欧が確立した民主主義議会政治を行う上で必須となり、当然我が物としておかねばならない基本的知識のほとんどを体系的に知らないまま、ただ先輩諸氏がやってきたことをそれが政治だと思い込み、その彼らがやってきたことをやってきた通りにただやっているだけにすぎないからである。そしてそれは、本物の政治家がすることでは決してないからだ。すなわち、今日の政治家は、その圧倒的多数は「似非政治家」ないしは「政治家もどき存在」にすぎないからだ。

 言い換えれば、彼らは、欽定憲法下の明治期以来の薩長寡頭政権の後を継いだ先輩諸氏がやってきたこと、やってきたそのやり方を、それが本来の民主主義政治における政治家のすることであるか否かを近代西欧が確立してきた政治理論に依って確かめるための勉強もせずに、むしろそれが政治家の政治家としてやるべきことであるかのようにみんなで錯覚して、戦後の民主憲法下になってもなお、ただ単に踏襲しているにすぎないからだ————他者はどうであれ、自分は納得行くまで議会のあるべき姿や、物事が進められる手続きのあり方の真実を確かめるのだという姿勢を持たず、ただ周囲のみんながやっていることや、やっている仕方に無批判に同調するこうした人たちが行う政治によっては、「近代」が確立した「個」に基づく民主主義や自由がこの国に実現するはずはないのである————。

 その結果、この国は、今なお、本当の意味での民主主義の国、つまり主権者である国民の意思や要求が政治に速やかに反映されるような国になり得てはいないのだ。

 では、そのことは何を意味するか。

それは平時の際にはさほどそのことは問題とはならないが、国民にとってまさかの事が起こった時、すなわち国民が前例のない大災難や大惨事あるいはパンデミックに遭遇して、その生命や自由や財産の安全が脅かされたような場合には、そうした政治家たちの姿はそのまま国民には不幸で悲惨な形となって現れるということである。

それはどういうことか。国民の多くが政府に対してすぐにも助けに来て欲しいと望んでも、その人たちはいつまでたっても救われないままとなるか、事実上、見捨てられたままとなりかねない、ということだ。

 つまり、ほとんどが「似非政治家」あるいは「政治家もどき存在」、あるいは「自分では政治家だと思っているだけの者」であるがゆえに、そのような事態が生じた時、どのような手続きをどのように合法的に進めて、どのような統治体制を築き、事態に速やかに対処して、救助を求める国民を救うかという手法が全く判らないのだ。つまり真の意味で「政治」とは、「人間集団における秩序の形成と解体を巡って、人が他者に対して、また他者と共に行う営み」(広辞苑第六版)であることを知らないからだ。

それというのも、後述するように、彼らは、議会の政治家も、政府の政治家も、各自が選挙時に掲げた公約を実現するためにのみ国民から負託されたはずの権力を、事もあろうに役人に丸投げするという民主主義議会政治においては絶対に許されない国民への裏切り行為を平気でしては、立法にしても行政にしても、本来自分たちがコントロールすべき公僕でしかない官僚や役人にもっぱらと言っていいほどに放任し、また追随して来ただけだからだ。

要するに本物の政治家としての訓練など、ほとんど誰もしてきてはいないのだ。

 

 それは、例えば、その時点ではいずれも前例のない事態といえる次のような大惨事が生じた時、この国の中央と地方の両者の議会と政府の政治家は国民に対してどのような対応ぶりであったかを思い返していただければ、納得ゆくのではないか。

阪神淡路大震災が起こった時。オウム真理教集団によって猛毒サリンをばらまかれた時。東日本大震災が起こった時、またその直後、東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融を起こして水素大爆発を起こした時。西日本が集中豪雨に遭った時。震度7熊本地震の時。直近の例では、この国が新型コロナウイルスによるパンデミックに直面した時。

 そんな時、この国の大手のメディアは決まって「初動体制の遅れ」という言い方をして済ませてきたが、それは、政治家と官僚・役人との関係の実態を国家という観点からは全く見ていない言い方だ。実際、これは後に詳述するつもりであるが、この国は、国家ではないからそうなる。少なくとも、近代民主政治学で言うような国家ではないからだ。

 実際、今回の新型コロナウイルス禍での政府の政治家の対応、すなわち本質的に「お願い」であり、「協力の要請」の域を出ない緊急事態宣言や蔓延防止重点措置にしても、彼らは総理大臣を含め閣僚も、首長も、誰も、国家とは何かも知らなければ、法律とは何かも知らないし、安倍晋三菅義偉もよく口にしてきた「法の支配」とは何かも実際には知らなかったことが浮き彫りになったのである。もっと言えば、この国には、本物の首相はいないし、本物の閣僚もいない、したがって本物の政府もないというもはっきりし、したがって統治体制にも根本的な脆弱性があることが露呈されたのである。

 

 とにかく、こういう時に決まって見られる政府のうろたえた姿、またその結果としての国民への場当たり的対応こそ、この日本という国と国民にとっての最も重大で深刻な危機なのである。そしてこれは、この国が、特に戦後、ずっと抱えてきた国の最大の弱点でもある。

 なお、この最重要な弱点問題の中には、軍(自衛隊)に対する文民統制シビリアンコントロール)の問題も含まれている。実際、日本のPKOから明らかになったことであるが、政府(防衛大臣)は、自衛隊に対して、兵の動かし方に自信を持って指示もコントロールもできないのだからだ。

 そしてこれらのことこそ、私たち国民は、何よりも真剣にそして早急に考えなくてはならない日本国と日本国民の安全保障に関わる問題なのだと私は思う。その意味で、その重要性と緊急性は、日米安全保障条約だとか、憲法9条自衛隊を明記すべきか否かというレベルの比ではない。

 

 そこで、私の考える、この国のすべての政治家は一旦は辞めさせなくてはならないとする理由または根拠についてである。それは少なくとも6つはあると考えるのである。

予め、その6つの理由または根拠の概要のみを記せば次のようになる。

 なお、以下において、私が繰り返し用いる用語 “知らない”とは、次の意味で用いている。

たとえ言葉では、あるいは知識としては知っていたとしても、それの意味していることを理解して我が物とした上で、それをいつでもどこでも当たり前のように実行・実践できなかったなら、それを本当の意味で知っていることにはならないのだ、と。

 本節以降でも、本書では、“知らない”については、一貫してこの意味で用いてゆく。

 

その1————ほとんど全ての政治家に当てはまる、最も根源的な辞めさせるべき理由)

 国政レベルの政治家であれ、地方政治レベルの政治家であれ、いやしくも政治家であったなら、この国が近代西洋から取り込んだ民主主義議会政治が彼の国ではどのようにして生まれ、どのようにして体系化され確立されてきたのかということは、民主主義議会政治を我が物にする上では是が非でも知っていなくてはならないのに、その歴史的経緯について知ろうとしないばかりか、その民主主義議会政治を行う上で基本的に重要な諸概念そのものすら知らないで政治家をやっているつもりになっている風だからである。

 なお、これをこの国のすべての政治家を一旦は辞めさせるべきと私が考える理由または根拠の第1に挙げるのは、これが以下に述べる残りの5つの理由のどれにも、その根底において共通に当てはまる理由でもあるからである。

 

(その2————同じくほとんど全ての政治家に当てはまる辞めさせるべき理由)

 今後、地球温暖化による気候変動や生物多様性の消滅等の進行により、人類の危機がますます深まることが推測される中、母国を真に持続可能な国にするための長期的戦略もビジョンを持とうという様子も全く見られないし、この国が真に主権国となって、複雑化する一方の国際社会の中で、その平和と安定のために真の貢献ができる国になろうという気概も全く見られず、アメリカ一国に追随しながらただ似非政治家をやっているだけだからだ。

 というより、それ以前に、この国の現行の政治家もどき政治家という政治家は、母国の建国の歴史にも無頓着、正しい歴史認識を持って政治を行うことについても無頓着であるからだ。つまり、母国に対する愛国心も見られなければ、自国民に対する忠誠心も見られないからだ。

 それに、近代が獲得した「自由と民主主義」そして「法の支配」という思想の価値の普遍性を国民の代表として率先して身に付け、それを行動に表して、この日本という国を世界から「信頼できる国」、「価値ある国」と見られる国にしようという気配も全く見られないからだ。

 これでは、この国は、環境対策もますます世界から遅れをとり、世界が普遍的価値とする自由を含む人権についても、ますます世界の後進国とならざるを得ないからである。

 

(その3————特に議会の政治家について辞めさせるべき理由 

 この国の国会と地方議会(都道府県議会と市町村議会)の政治家は、議会の政治家としての最大使命を全く果たさないからである。

それは、選挙の際に主権者に選ばれようとして自らが掲げた公約を、当選しても、立法府である議会にて、法律あるいは条例という裏付けを持った予算付きの政策としてその約束を果たしてみせるということを全くしないという点、つまり議会本来の役割と使命を全く果たしていないからだ。

 そしてこうした似非政治家の姿は、同時に、有権者(国民)を裏切っても平気である、という点において。それは、この国の国民全てをして、日本国民の道徳観念を劣化させ、「約束は守らなくてもいい、守らなくても咎められはしない」とする風潮をどれほど高めることになるかしれないからだ。

 

(その4————同じく議会の政治家についての辞めさせるべき理由)

 そして彼らは、選挙で国民に選ばれることを自ら望んで立候補して選ばれた国民の政治的利益代表でありながら、既述の公約不履行の件だけではなく、この国と国民が存続できてゆくために、今、是非とも緊急に解決させておかねばならない、あるいは解決の目処を立てておかねばならない、この国と国民の今と将来にとっての最重要政治課題についても、それを議会で取り上げることを避け続けているからだ。

それも、そうした最重要政治課題を次期選挙の時に争点とすることは、それはとりもなおさず有権者に大きな義務と負担を強いることになることであるだけに、それでは次期選挙での自身の再戦は難しくなるのではないかという自己利益を考慮してのことであろう、その最重要政治課題を多分弁えていながら回避しているのだ。

そこには、選挙時にどんなに有権者の福祉の実現を唱えようとも、結局は自己利益しか考えてはいない偽善的な姿があるだけだ。

 こうした政治家の問題の先送りという義務と責任の回避は、将来世代や未来世代に、本来彼らの責任で生じたのではない問題の解決を、一層大きな負担として彼らに委ねてしまおうとしていることで、やはりこれも、先の第3の理由と同様、この国に民主主義の実現を一層遠のかせるだけではなく、ますます不道徳を蔓延させてしまい、政治への国民の信頼を一層失わせてしまうことになるのは明らかだ。

 それだけではない。こんな政治家たちを生き永らえさせたなら、ますます将来世代や未来世代から希望や幸福を奪うことになるだけではなく、彼らが生きられる可能性すらも狭めてしまうこととなる。

 それは国民の政治的「利益」代表である政治家の、断じてあるまじき態度だ。

 

(その5————特に政府の政治家についての辞めさせるべき理由)

 第3、第4の理由は特に議会の政治家についてのものあったが、これは政府の政治家についての「辞めさせるべき」理由である。

 ここでの理由とは、第1の挙げた基本的な政治的諸概念に対する無知との理由に底通するもので、政府の政治家として絶対に知っていなくてはならない、特に次の最も重要と私には思われることを知らないからである。2点ある。

 1つは、政府というのは、中央政府であれ地方政府であれ、あくまでも執行機関であって、立法機関ではない、ということをである。したがって、そこで議論し、決めること、決められることは、立法機関である国会や地方議会が議決した法律・条例あるいは政策や予算を引き受けて、それを最大効率をもって執行する方法についてである、ということだ。

そしてそれを議論して議決する場が「閣議」であるということだ。

 言い換えれば、政府ないしは内閣の使命と役割は、「三権分立」の原則に立って、法律案や条例案————予算案をも含む————を自分たちで作って議会に提出することではない、ということだ。少なくともそれは最優先事項ではない、ということである。

 これを知らないことだ。

 1つは、執行機関としての役割を果たす際には、政治家は官僚ないしは役人を支配し、統制し、管理し、監督し、操縦しなくてはならない、つまり統括またはコントロールし、統治体制を整え、この国を本物の国家としなくてはならないということ。

つまり、この社会の構成分子である全ての個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持って、この国の社会を統合しなくてはならない、ということ。

 だから、政治家が官僚にコントロールされるなどということは断じてあってはならないということである。それであったら民主主義議会政治の仕組みが壊れてしまうからだ。

 

(その6————特に国会と内閣の政治家共通に辞めさせるべき理由)

 これまで述べてきたことから明らかなように、この国では、議会の政治家についても、また政府の政治家についても、政治家とは名ばかりの、政治家として本来為すべきことの何も為さない、国民にとってはほとんどあるいは全く「役立たず」と言える政治家ばかりであるが、その彼らについて、さらに次の事実が言えることだ。

1つは、特に国会議員は、一般社会人と比較しても、あまりに法外な、総額およそ2億円という議員報酬・議員特権・議員特典を税金から享受していること————2億円の具体的な中身は2.4節にて記載する————。

1つは、その税金泥棒とも言える者の数が、衆参両院を合わせて、720余名と、多すぎるほどいることだ。

そうでなくとも、この国の政府債務残高、すなわち「国の借金」は彼ら国会議員の怠慢・無気力・無責任・無能・自己への甘えに因る官僚への依存心の結果であるというのに、こうした議員報酬を享受しては、ただ「政党に対して数を稼ぐ一員として存在しているだけ」の国会議員がかくも多くいるということは、その有害無益な彼らの存在自体、この国の政府債務残高を無意味に、ますます増やしているということでもある。

 

 以下では、上記6つの理由を詳細かつ具体的に説明する。

 

辞めさせるべき第1の理由の詳述

 そもそも近代民主主義議会政治は、私たち日本人が苦労して考え抜き、生み出し、あるいは勝ち取り、体系化し、確立したものではない。彼の国の人々が命がけで掴み取り、生み出してきたものだ。それを、この国が手っ取り早く西欧列強に追いつこうとして、明治期以降、借り物として移入してきたものである。それだけに、こうした成果を使わせてもらう以上、彼の国の人々の歴史的偉業に敬意を評し、こうした政治制度誕生の経緯を知った上で、有り難く使わせてもらうのが、使わせてもらう側の態度あるいは礼儀と言えるのではないだろうか。

 とにかく、どんなスポーツであれ、またどんなゲームであれ、そこで用いられている専門用語の意味やルールを知らなかったならば話にならないのと同様に、政治の世界においても、政治的を行う上で重要な基本的諸概念を知らなかったなら、本来の民主義議会政治など行えるはずもない。

 たとえば、次のような概念だ。

————国家、主権、国、政治、選挙の意味と目的、政治家の役割と使命、権力の意味とその成立の根拠、議会、立法権、最高権、政府、内閣、閣議、行政権または執行権、司法権三権分立、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、独立国、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、首長、閣僚、自治、役人(公僕)の役割と使命、法の支配、法治主義、独裁、等々である。

 

 構造物でもまずは基礎がしっかりとできていなかったなら、その後どんなに堅固そうに作ったところで、事実上砂上の楼閣となるし、学校教育での学力もそうである。基礎がしっかりとできていなかったなら、その後どんなに努力しても、成長は大して期待はできないものだ。

 それと全く同じで、政治家についても、まずは先哲らが組み立て、確立してきた民主主義議会政治とそれを成り立たせる基礎的な政治用語や政治概念を正確に理解して我が物とし得ていなかったなら、まともな政治家となれるわけはなく、その姿や振る舞いは独善的となったり専制的となったりしかねないものだ。しかしそのような政治家もどき者など、国民にとっては、存在そのものが有害無益でしかないのである。

 とにかく、先人たちが作り上げてきた民主主義議会政治の全体は論理的整合性を持った一つの体系を成しているので、例えばこの国の一部の政治家が口にする地域主権といった用語のように、本来、主権は国家に属する概念であるだけに、勝手にこのような言葉を造語するなどということはできるはずはない。なぜなら、そんなことをしたら、たちまち政治制度全体の整合性は崩れ、訳のわからないもの、御都合主義的なものとなってしまうからだ。

 とにかく、上記の基本諸概念を知らなかったなら、政治家とは言っても、あるいは自分は政治家であるとは思っても、実際、自分はいったいどのような役割と使命を誰に対して負っているのか、自分は、どういう時に、何を、どうすればいいのか、ということさえ確信を持てないはずではないか。

 

 国と国家のそれぞれの意味を知っていたなら、すなわちその違いを知っていたなら、両者をごちゃ混ぜに用いることなどないはずだ。なぜなら、国と国家は、明確な違いがあるからだ。

 「国家」とは何かを知っていたなら、例えば東京電力福島第一原子力発電所が水素大爆発と炉心溶融大事故を今にも起こそうとしていた際、首相が、周囲の反対を押し切って、一人で現場にヘリコプターで視察に赴くなどということをするはずもなかった。

 もっと根本を言えば、この国の特に国政レベルの政治家が国家とは何かを知っていたなら、

各府省庁間の関係を、情報のやりとりもしない、互いに専管範囲に踏み込まない、干渉をしないということを暗黙の了解事項とするいわゆる行政組織の「縦割り」という言い方でされる状態をそのままにし、国民と国土への統治のあり方を、官僚たちのなすがままの、バラバラ状態に放置しておくことなどありえないからだ。

なぜなら、国民から見て、あるいは住民から見て、政府は一つなのだからだ。府省庁の数だけ政府があるなどということは考えられないことなのだ。

 実際、各大臣がそんな状態だから、つまり、各省庁の大臣が配下の官僚をコントロールできていないし、総理大臣も全閣僚を指揮できていないから、各大臣間の協力体制もできていない。だから、国民の「老後の30年間で必要な金額」が問題となった時、厚生労働省(の官僚)は約2000万円、金融庁(の官僚)は1500〜3000万円、経産省(の官僚)は2895万円と、各省庁がバラバラな数値を平然と公表してくるのだ。

これにより、国民がどれだけ混乱させられるか、官僚は当然考えもしないし、国民から選ばれた国民の代表である大臣も気づこうとさえしないのだ。

 また、財務省は新紙幣を発行しようとするのに対して、経済産業省はキャッシュレス化を進めようとしている、などといった事態が起った原因も同じだ。

 また、丘陵地や山岳部が多く、国土の67%程度が森林というこの国では、森林と河川の一体的管理が当然求められるのに、相変わらず、森林管理は農林水産省の一組織である林野庁が、河川・ダム・堤防・堰堤は国土交通省と別々となっているというのも、この国は「縦割り」が放置されたままで、国家ではないからだ。

 明治期においてもそうだった。例えば、軍隊を構成する海軍と陸軍はバラバラだった。両者を統一して統治する者などいなかった。

 専門家や学者の中にはよく、“この国には国家戦略はない”などと言う者がいるが、それは当然だ。この国は「国家」ではないのだからだ。戦術は立てられても、国家としての戦略など立てようがないし、あろうはずはないのだからだ。というより専門家は、ありもしない状況を見ているのだ。

 権力とは何かを知っていたなら、その権力は何に依るのかをも知っているはずだ。そうであれば、権力はどのように行使すべきか、またどういうことには行使してはならないかをも知っているはずだ。

 では実際はどうか。国民から付託された権力を官僚(役人)に丸投げして、法案(条例案)を作らせている。また、国民からお金(税金)をどれだけ、どう徴収し、それをどう使うかについても、実はこれこそ最大級の権力であり、その行使になるのに、その権力と行使を官僚に丸投げしている。

 また、官僚(役人)が法案を作るにも、自分たちに好都合な法律としたいがために、自分たちの都合のいい方向に答申してくれる専門家・有識者を全国には数多いる中で恣意的に人選するという権力の行使を放任している。

 国会を含めて、議会の意味と役割を知っていたなら、その議会を「代表質問」・「一般質問」と呼ばれる質問の場にすることもなかった。質問者の順序も質問時間も予め決められたとおりに進められて行く儀式会場とするはずもなかった。

国会を含めて、議会の意味と役割を知っていたなら、なぜ国会が国権、すなわち国家権力の最高機関であるか(憲法第41条)をも知っていたはずだし、そうなれば、政府、それも中央政府の中枢である内閣(の総理大臣と閣僚)が国会の立法権という役割を奪って「閣議決定」することなどあり得なかった。また国会議員も、それを許すはずも見逃すはずもなかった。

そうでなくても、政府は議会(国会)が議決したことを執行する執行機関であるはずだからだ。そしてそれが議会制民主主義の意味でもあるからだ。

 「選挙の意味」を知っていたなら、あるいは「有権者から選ばれることの意味」を知っていたならば、選挙の際に、思いつきで公約を掲げることもなければ、また当選してしまえばその公約を履行することなどけろっと反故にしてしまったりすることもないだろうし、さらには、このままでは自分の再選は難しいと見れば、有権者と相談することもなく、別の政党に平気で乗り換えて立候補したり、相乗りで立候補したり、居住場所を移してしまうなどということもあり得なかったはずだ。

 三権分立、すなわち、なぜ権力は分散されることが必要なのか、なぜ三権は互いに独立していなくてはならないのかを知っていたなら、本来議会が、議会でしか決められないことを閣議で決めるなどという立法権を侵害する行為を政府がすることなどあり得なかったし、行政権としての政府が司法権としての裁判所に干渉したり、司法権に関わる裁判や法律に行政権が介入したりすることも断じてあり得なかったはずだ。

 ましてや、安倍晋三三権分立の原則を知っていたなら、裁判を通じて人の運命を変えてしまう可能性のある検察官について、行政権の長でしかない自分が、自分に好都合だった東京高等検察庁検事長検察庁法の定める定年を迎えるに際して、その検事長の定年を延長させたいがために、“国家公務員法の規定が検察庁法にも適用されると解釈することとした”などと言いながら、検察庁法を無視して、“一般公務員法を適用できると解釈変更する”などと、言えるはずもなかった。要するに、安倍晋三は、首相でありながら、実は、民主主義の意味も、権力の根拠も、法というものの位置づけも、もちろん三権分立の意味も、そして首相という役割の限界も、全く知らなかったということだ。

 また、安倍晋三のみならず他の全政治家についても、なぜとくに司法は行政からは完全に独立させていなくてはならないか、そしてその場合、独立しているとは何がどうあることかを知っていたなら、司法権に属する裁判官、とくに最高裁判所長官は執行機関である内閣が指名(実質的には行政庁(法務省)の官僚が指命)するとしている現行憲法第6条を放置しておくことなどあり得なかったはずだ。民主主義政治理論的に矛盾しているからだ。 

 政府とは何か、その最大の使命とは何かを知っていたなら、「3.11」東日本大災害被災者を10年経っても1万人以上の人たちをして、総理大臣が仮設住宅住まいを強い続け、政府の対応に絶望して自殺する人を200人以上出してしまうなどということはあり得ないのだ。

 閣僚とは何かを知っていたなら、国民に政治状況を説明するのに、官僚の書いた作文を読まねば説明できないなどということはありえない。と言うより、閣僚は各府省庁の大臣でありながら、配下の官僚たちをコントロールするどころか、逆に官僚たちの実質的な操り人形と成り下がっているのだ。

 独立国とは何か、主権とは何かを知っていたなら、政治的にも軍事的にもアメリカに追随しつづけていることなどあり得なかったし、日米地位協定の内容の変更をアメリカに迫らずに放置し続けてきたなどということもあり得ない。また主権とは何かを知っていたなら、地域主権などという、本来、政治理論的にもあり得ない造語をして平然としているはずもなかった。

 憲法とは何かを知っていたなら、条文の文章はそのままにして、解釈を変えるだけで改憲したことにしてしまうなど、断じてありえなかった。それは、国の基本法、あるいは国を成り立たせている骨格法を虚仮にする態度であり、国を乱すものとしての国賊としての行為であり、手続きを大切にする民主主義を破戒する行為でもある。

 それは、例えば窃盗とか、詐欺とか、交通違反の類とは、その意味しているところ、罪深さは比較にもならない。

 それゆえ、どんなに非難されても仕方がない行為だ。

もっとも、そうなるのも当然かもしれない。「憲法は国の理想を明らかにしたもの」などといった頓珍漢なことを言う安倍晋三だからだ。

 人権の意味を知っていたなら、その日米地位協定によって、特に沖縄の人々がどれほど人間としての尊厳を傷つけられているか、想像できないはずはない。

 人権とは何か、を知っていたなら、とくに自由とは何か、そしてその価値とは何かを知っていたなら、そして、基本的人権と人間の尊厳と価値を確認することがどうして国連憲章に採択されたかを知っていたなら、共謀罪法の類いの法律を成立させるはずもなかった。

 また人権とは何か、を知っていたなら、この日本という国に来て、難民として認めてもらいたいとして申請する人の数に対する認定率が、例えば、2019年についてみるならば、わずか0.4%、数にしてたったの44人(UNHCR Refugee Data)、などということはありえない。

ちなみに、同年、世界主要国の認定率と認定数を比較すると次のようになる。

ドイツは25.9%(53973人)、米国29.6%(44614人)、フランス18.5%(30051人)、カナダ55.7%(27168人)、英国46.2%(16516人)。

国連総会の場で、「自由と民主主義は人類普遍の価値」などと語る安倍晋三は偽善者なのだ。

 この国の政治家は、首相を含めて、また閣僚になるような者も含めて、「法の支配」も知らない。

 知っていたなら、定まった法律もないのに、定まった法律によるわけでもないのに、「緊急事態宣言」を発しては、国民の行動に制限をかけるなどありえない。「自粛」を呼びかけたり、「要請」をしたり、「お願い」をしたりする、それも解除したり再要請したりを繰り返すなどということもありえない。なぜなら、それらは、多少なりとも権力の行使に当たるからだ————尤も、政府の国民への対応がそうなるのはやむを得ないことではある。なぜなら、国会と地方議会が、共に立法機関として、事前に、関係する専門家たちから公正に意見や助言を受けては今後起こりうる事態を想定してかかり、あらかじめ最適な法律なり条例を定めないからだ。要するに、立法機関の政治家たちが自分たちの役割と使命を知らなすぎるからであり、執行機関である政府に依存しすぎるからだ————。

 しかし、また、それとは別の意味でも、こうなるのは必然であろう。

なぜならば、たとえば安倍晋三が任命し、また菅総理も任命した西村経済再生担当大臣でさえ平然とこう言うのだからだ。

“この日本の法体系はあくまでも要請ということであります。”(2020年6月13日)

 ここには、法とは、それが法であるかぎり、ルール一般ではなく、国家権力の物理的行使による拘束や制裁を受けるルールであるという、法の最も基本的な特性すら知らないという事実が見て取れるのである。

 そもそもこの国には、政令、省令、告示、通達、行政指導等々と、法律でもなく、もちろん憲法でもない、官僚たちが勝手に、ご都合主義的に作ってきた、「法の支配」や「法治主義」を踏みにじる、官僚の恣意を介入しうる慣例がありすぎるのだ。それを、官僚に依存すること、追従することに何の疑問も感じないできたこれまでの政府の政治家と国会の政治家が皆、追認してしまったのだ。その結果、政治システムを国民にはいっそう判りにくいものとして来てしまったのだ。

 つまり、官僚が恣意を差し挟めるこのようなものを政治家が認めるということは、この国の政治家という政治家は「法治主義」だって知らないということだ。

法治主義」、それは国民への恣意的な支配を排除するものであるという点では「法の支配」と同じであるが、行政権の行使には明確に定まった法律の根拠が必要であるとする考え方のことである。

 では「法の支配」は「法治主義」とどこが違うか。それは、「法の支配」の方は、法の内容そのものが合理的なものでなければならないこと、特に、基本的人権を尊重したものであることを要求していることだ(山崎広明編「もういちど読む山川の政治経済」山川出版社p.8)。

 この国の政治家という政治家、特に防衛大臣を含む総理大臣以下全閣僚は「文民統制シビリアンコントロール)」の意味も知らない。

知っていたら、例えば次のような問題を起こすはずもないからだ。

 それを如実に示す一例が日本の領海や領空に入り込む不審船や不審機に対する対応の仕方がそれだ。また、自衛隊が国連の平和維持活動PKO(Peace−Keeping Operations)の一部隊として海外に派遣された場合の「日報」問題がそれだ。また海上自衛隊が「海上護衛行動」をとる際の取り方がそれだ。

 海上自衛隊の「海上護衛行動」について具体的に言えば、現場で海上保安庁の船や海上自衛隊護衛艦が武器を使用してもいいのか、使用するにも相手の不審船ないしは不審機に砲撃していいのか、それともあくまで警告に留めるべきなのか、それについて防衛大臣も総理大臣も『どこまではしてもいいが、どこから先はやっては駄目だ』と明確に指示もできないのだ。海上警備行動をとるとは言っても、『どの程度の警告射撃をしたら国民が納得するのか』と自衛隊の官僚(海上幕僚長)が国民の代表であるはずの防衛大臣に尋ねても、せいぜい『12、3回の射撃でいいのではないか』という程度の答え方しかできない。明確な論拠をもって説明できない。

 またある官僚幹部が『(防弾チョッキも所持していないから)不審船への立入検査は危険』と進言しても、防衛大臣は、現場の状況を知ろうともせず、『(立入検査も)やらないで不審船には逃げられたと国会で答弁できるか』と言って怒るだけでしかないのだ。その上、事を起したとき、いったい誰がその責任をとってくれるのか、それも防衛大臣は現場隊員に明確にしないのである(NHKスペシャル 平成史第7回「自衛隊 変貌の30年〜幹部たちの告白〜」2019年4月24日NHK総合1)。

 こうなるのも、文民である防衛大臣も首相も普段から現場の状況も知らなければ、現場のあらゆる事態を想定して二重、三重に対応策を考えてもいないからなのだろう。

それに、日頃、戦争とは、兵の役割とは、将校の役割とは、ということさえまともに考えてはいないのであろう。だから少し「想定外」の事態が生じると、もうあたふたするしかなくなる。というより、一旦、戦闘地域に行ったなら、そこではもはや何が生じるか判らず、「想定外の事態」などとは言っていられないことすら理解できていないのだ。そしてこの国の防衛大臣は、一歩対応を誤れば、国と国との軍事的衝突に発展しかねないということも覚悟をもって考えてはいないし、祖国を防衛するということがどういうことかということも、まったく判ってはいないように私には見える。

 大臣は、そして首相も、そもそも戦場を自ら体験しようとさえしていないのだ。戦争は、世界のいたるところで、実際に起っているのだから、ただ外遊してくるのではなく、戦争とはどういうことかを、戦場とはどういうものかを本当に知ろうと思えばいつでも現場を視察させてもらえるはずなのに。

 とにかく、このようなことで、緊迫した現場の隊員は、どうして確信を持ったPKO、Peace−Keeping Operationsなどを取ることなどできよう。

『命令を出す人間はその決断とともに(それから後の人生を)生きて行かなければなりません。その責任は抱え続けるものなのです。』(元アメリカの在日米海軍司令官ロバート・チャプリン)という覚悟は日本の文民(首相や防衛大臣)にはほど遠いものなのだ。

 こんな状態だから、総理大臣も防衛大臣も、言葉としては知っていても「文民統制シビリアンコントロール)」などできるはずはない。そうでなくとも、主権も知らず、むしろ主権を放棄し、独立国であるとはどういうことかも知らず、日米安保体制、すなわち米軍に、根っから、依存しているのだからだ。

 それは、非常時に、自国民を守れないということなのだ。

 

 とにかく、この国の政治家が先に挙げた政治的基本諸概念を一式揃って体系的に知っていたなら、国会を含めて、日本中の議会は、今日のようなママゴト議会ないしは儀式議会などやっているはずはなく、民主主義がとうに実現されていて、今日のような日本になることは絶対になかった。

 指摘しておかねばならない重要な事実はまだある。

そしてそれも、この国の政治家という政治家の無知と怠慢と無責任によるものであると言っていいだろう。

それは、一言で言ってしまえば、昭和22年5月3日に施行されたこの国の地方自治法は、政治学における根本的な無知または誤認に基づいているのに、それに気づかず、あるいは気づいていた者はいるかもしれないが、それを放置してきたことに基づくことである。というより、やはり、戦後これまで、この国の立法のほとんどを官僚任せにしてきた結果であると言っていいように私は思う。

そしてそれがこの地方自治法という重要な法律でも如実に表れているのだ。

そして民主主義議会政治が実現されてゆく上で、とくに重大な誤りと思われる点は次のことだ。

 一つは、国と都、道、府、県、市、町、村という、本来、そこに住むすべての人々の暮らしの場であり共同体でもあるそれらに対して、この地方自治法はそうは理解せずに、国、都、道、府、県、市、町、村のそれぞれを統治体としての政府のこととみなしていることだ。それは、「都道府県及び市町村を普通地方公共団体」と呼び(第一条の三)、地方公共団体の役割として、地方公共団体を主語として、「住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担う」(第一条の二の①)としていることから判る。

 もう一つは、三権分立の観点から見て判るように、法律あるいは条例というルールを作ることのできる議会は、行政権や司法権からも独立して、最高権でなくてはならないのに、この国の現行地方自治法は、その議会が、地方政府に飲み込まれる格好になっていることだ。

それは「普通地方公共団体に議会をおく」という表現から判る(第八九条)。

これでは、民主主義議会政治は行われ得ない。

 こうした官僚の誤認あるいは恣意を戦後の政治家が放置してきた結果、生じているのが次のことなのだと私は思う。

それは、例えば、中央政府と言うべきところを、あるいは具体的な各府省庁の名で呼ぶべきところを「国」と平然と呼んできたこと。

 同様に、都庁、道庁、府庁、県庁、市役所、町役場、村役場と呼ぶべきところを、あるいはそれらの中の具体的な部課名で呼ぶべきところを、ト、ドウ、フ、ケン、シ、チョウ、ソンと呼んで平然としてきたこと。そもそも、政治家も政治評論家もメディアも、当たり前のように言う、“国は、・・・”とか、“都は、・・・・”、とか“県は・・・・”、そして“市は・・・・”というそれは、それを言う人は一体誰のことを頭に描いて言っているのだろう。

 結局のところ、こうなるのは、この国の政治家という政治家は、政治学における基本的定理である次のことに知らないでやってきたからだ、と私は思う。

 「あらゆる制度は、人を通じて活動する。したがって国家は、自らが自由にしうる最高強制権力を国家の名において運用する一団の人々を必要とする。しかしてこの一団の人々こそ、われわれが国家の政府と称するものである。今や、国家と政府とを截然と区別しなければならないことは、政治学の基本的定理の一つである。後者は前者の代理者に過ぎないのであって、国家の諸目的を遂行するために存在するのである。政府は、それ自体が最高強制権力なのではなく、ただ、この国家の権力の諸目的を実現する行政の機構にすぎない。それは、国家が主権的であるのと同じ意味では主権的ではない、と言われる。

(中略) 国家自身は、厳密に言えば、決して行動しないのである。国家は、その政策を決定する権限を得た人々に、代わって行動してもらうのである。」(H.J.ラスキの著「国家」(岩波現代叢書p.7〜9)。

 そしてこのことは、同じく、「都と都庁という政府、道と道庁という政府、府と府庁という政府、県と県庁という政府、市と市役所という政府、町と町役場という政府、村と村役場という政府とは截然と区別されねばならない」とも言い換えられるのではないか。 

 要するにこの国の政治家という政治家は、各府省庁、都庁、道庁、府庁、県庁、市役所、町役場、村役場のそれぞれは、国、都、道、府、県、市、町、村という人々の共同体としてのそれぞれの諸目的を実現するためにあるということ、そして前者は後者の代理者に過ぎず、そのいずれも政府なのだ、ということさえ知らないでこれまで来たのだ。

つまり、各府省庁≠国≠国家、都庁≠都、道庁≠道、府庁≠府、県庁≠県、市役所≠市、町役場≠町、村役場≠村、なのだ。

 こうなるのも、結局は、政治家は、立法も行政も、そして司法も、全て官僚任せできた結果なのだ、と私は断定する。

 

 こうした統治諸概念を曖昧にすることは、結局は、あるいはいつかは必ず統治上の混乱をきたすことになる。例えば、後述するが、今日の新型コロナウイルス禍の中で、政府(首相も閣僚も)は法律というものを知らず、また「法の支配」ということをも知らないために、国民に対して自粛の「要請」をしたり、「緊急事態宣言」あるいは「蔓延防止等重点措置」という仕方で、出したり引っ込めたりしてきたのも、そうした統治概念に対する無知、政治学の無知の結果なのだ、と私は確信する。

 同じく、政治家という政治家が、立法も行政も官僚任せ役人任せできたがゆえに、この国の政治行政システムを国民から見て非常に判りづらく、また複雑にして来てしまったことの一つが、憲法、法律の他に、中央政府の官僚と地方政府の役人との間での政令、省令、通達、行政指導、告示という法に基づかない権力の闇行使という慣習を放置してきたことだ。

 これらが全て権力として官僚や役人に非公式に行使されたなら、この国に「法の支配」など実現されるはずもない。