LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その2

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北杜市の水田と小高い山々

本投稿は3部で構成されています。

今回の記事は、前回のものに続く第2段になります。

まず以下の投稿を見ていただくことで、話の流れをつかんでいただけると思います。

 

itetsuo.hatenablog.com

 

前回の記事では、すべての政治家を辞めさせるべきであるという主張と、その理由ないしは根拠を5つ述べました。

5つの根拠の具体的意味を、それぞれに加えましたが、文量が多くなってしまったために2つだけを述べ、3つ目と4つ目をこの記事で述べます。

少し長くなりますが、どうかお付き合いください。

 

 

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その2

5つの理由または根拠の意味

理由その3について

 

要点はすでに述べたとおりである。
とにかく国民から選挙で選ばれた国民の政治的利益代表であるにも拘らず、公約不履行を当たり前にするだけではなく、国民の意見や要求を真摯に汲み取って、それを政策としたり行政に生かすということもしなければ、官僚をコントロールしチェックするという役割をも放棄し、むしろ立法をも含めてもっぱらと言っていいほどに、本来自分たち政治家がしなくてはならないことのほとんどを役人任せにし、あまつさえそれらの役人に追随してさえきているからだ。

その結果として、役人は、それをいいことにして、彼らに考えつく限りの、それも国民の利益に反する行為を繰り返してきた。

その典型的一例が法に基づかない権力の行使だ。憲法を無視した行為だ。それを恣意的に繰り返してきたのだ。
もちろん、その場合、政治家たちはそんな役人らの行為に対して、知って知らないふりをしているのか、見て見ぬ振りをしているのか、一切制止しないし、やらせ放題だ。
むしろ役人のやることに追従してさえいる。

では例えばそうした法に基づかない権力の行使がなぜ民主政治を行う上で許されないことか。

それについては、今や世界の多分全ての本物の民主主義国が取り入れているであろう制度の元になっている考え方を近代の黎明期に理論的に確立したジョン・ロックの次の声に耳を傾ければわかる。

たとえどんな形態を国家がとろうとも、一切の政府の権力は、ただ社会の(あるいは主権者である国民の福祉の)ためにのみあるのだから、それは恣意放縦であるべきではなく、確定し公布された法によって行使されねばならない。臨機の命令、不明瞭な決定によるべきではない」(「市民政府論」岩波文庫p.141)。

立法府は、法を作る権力を他の者に譲渡することは出来ない。何故ならそれは人民から委任された権力に過ぎないのであるから、それを持っている者がさらに他の者に譲り渡すことはできないのである。」(同上書p.145)

役人の法に基づかない権力の行使の例は数え切れないほどあるが、そのごく一例に行政指導がある。この非公式権力の行使の結果、過去、一体どれほど多くの企業なりビジネスマンが官僚にすかされたり脅されたりして、法にもないことに従わされてきたことか。 

また役人の法に基づかない権力の行使の一例としては、この国の、規模の大小を問わないいわゆる「公共」事業と呼ばれる開発と計画についての行政官僚ないしは行政役人に見られる行動様式だ。

そこでは、行政官僚は行政手続きに不透明・不明朗・不公正な恣意を挟み、「住民の要請だから」という根拠のない自分たちの既得権益を守る上では好都合な根拠のみを取り上げては、反対派住民の声には、耳を傾けるふりだけはして、結局は無視し続けてきた。

その結果、役人にでっち上げられた不要不急の「公共」工事によって国民のお金である税金がどれほど莫大に無駄遣いされてきたことか。
どれほどこの国の豊かな自然が破壊され続けて来たことか。

しかもその公共工事のためのお金の大部分は、国の借金、つまり政府債務残高を積み重ねる格好で賄われてきたものだ。
いまやその借金は驚くなかれ、この国のGDP国内総生産)の実におよそ2.4倍。世界中どこの国を探しても、対GDP比でこんな途方も無い借金を抱えている国は無いのだ。

そこでは、官僚・役人は、公僕ゆえにそんなことができる権力も権限も憲法では負託されていないのに、自分たちの意に沿って答申してくれる専門家を選任しては審議会や有識者会議等の各種委員会を立ち上げてはそれを実質的に取り仕切り、そこでの答申を「お墨付き」にしては閣議に諮り、官僚組織に追従するしか能の無い総理や閣僚らをして閣議決定させ、それを持って国会にて立法化するのである。

なおその過程では、関係住民への説明会やヒアリングそしてパブリック・コメントといったことが行われることはあっても、それは全て、官僚にとっては住民の「ガス抜きに」に利用するためのものでしかない。
「言わせてやって、聞き置くだけ」にするもので、民主的手続きを踏んだかのように装うポーズに過ぎない。
結論は、はなから実施することに役人は決めているのだ。それを、いかにして民主的手続きを踏んだか、と見せかけるだけのものでしかない。

ところがそうした「公共」工事については、反対住民にとっては、役人らのそうした行為を差し止める有効な手段はない。
なぜなら、もともと役人らは法律に基づかないことをしているのだから、反対するにも根拠とする法律はないのだ。
しかも肝心の国民から選ばれたはずの代表である政治家は、そのような場合、ほとんどは役人に追随しているだけなのだ。
そうした法の基づかない権力を行使している役人の前に立ちはだかって、「あなたがたにこのような権力行使をする権限はないのだ」と、その行為を制する勇気と民主主義精神に燃えた政治家など皆無だ。

そんな中でも、自分たちの権利を守るために、また母国の自然を子孫に残すために、無用な、というよりこの国の国土をダメにする「公共」事業をなんとか止めさせねばと、自分たちの掛け替えのない人生の時間をそのために割いている、真の愛国者と言える人々はいるのだ。

なお、関係する手続き法があっても、官僚らはそれをほとんど形骸化させてきたという例が次のものだ。

例えば司法関係では、これまで司法官僚は、刑事手続きに不透明・不明朗・不公正な恣意を挟み、数多くの誤判を生じさせてしまったことだ。それによって国民の人権がどれほど侵害され続けて来たか知れないのである。

たとえば、昭和の巌窟王といわれた吉田石松さんのケースがそれだ。加藤新一さんのケースも。那須隆さんのケースもある。谷口繁義さんのケースもそれだ(渡辺洋三「法とは何か」岩波新書

こうした実例も、結局のところ政治家が役人をコントロールしないで来たからだ。政治家がそのような不幸な事態を招いて来たのだ。

実は政治家のそうした無能・不勉強・無責任をいいことに役人たちが相変わらず続けているのが、この国では最も悪名高いいわゆる天下りだ————ただしこの場合の役人とは、とくにキャリアと呼ばれる国家公務員採用Ⅰ種試験に合格した官僚である————。

以下は、古賀茂明氏の著書「官僚の責任」PHP新書p.59による。

霞が関では互いに同期の官僚同士の熾烈な出世競争が日々行われているが、課長級までは毎年採用される人数分だけのポストは設けられているのだが、そのポストより上になればなるほど、例えば審議官や部長のポスト、さらには局長のポストの数は限られている。事務次官となれば、なれるのは各府省庁でただ一人だ。
ということはその他の圧倒的多数は、それ以上の役職にはつけないということだ。
そこで、霞が関では、その出世競争で敗者と決まった時点で時点で、その者は退職するのが習わしになっている。それは多分、お互いに居心地が悪いから、ということなのであろう。

ところが、そんな時、民間企業であれば普通はそれまでなのだが、霞が関の論理では、破れて去る者にも年次に応じた収入を保障してやろうとするのである。

そこで各府省長が再就職先を世話することになる。
その受け入れ先となるのが、各府省庁の子会社とも言うべき独立行政法人公益法人、あるいはその府省庁が所管する民間企業となる。これが「天下り」と呼ばれる行為だ。

そこでは退職時と同等の給与が支給され、多くの場合、その後複数の団体や企業に再々就職する、いわゆる「渡り(鳥)」という行為も行われる————資本主義の下では自由競争を前提とするので敗者は去るというのが当たり前なのだが、霞が関ではそれと大きく乖離した慣習が当たり前のように考えられていることと、その「天下り」が人事のローテーションに当たり前のようにのがっちり組み込まれているとのこと自体が問題なのだ。1.4節でも述べてきたが、この日本はそんな官僚と官僚組織に乗っ取られてきた国だから、この国は本物の資本主義の国にもなり得ていないのだ!(生駒)————。 

そのため、毎年のようにそのポストを退職者にあてがえるようポストの確保と維持が至上命題となっている。
天下った者にもそれなりの仕事が必要ということで無駄な仕事と無駄な予算がどんどん作られてしまう。さらに受け皿が足りない場合には、適当な理屈をつけて新たな団体————例えば財団法人○○○という名の「公益」法人がそれである————を立ち上げるようになる。

要するにキャリア官僚たちは、口ではどんなに尤もらしいことを言おうとも、実際には国民の利益のためなどいうことは全く考えてはおらず、ひたすら自分と官僚仲間の生活を守るために天下り先を躍起になって作ろうとし、またそこに天下っているのであり、しかも無能な人たちに高給を保障するために税金をつかっているのである。そしてその場合、こうした行為がさらに悲劇的なのは、そうしたキャリア官僚の優雅な生活を保障するために、都道府県庁の役人も、市町村役場の役人も、行政における「タテ割り」というこれもとんでもない悪弊の中で、自発的に隷従していることである。

つまりこの国の役人という役人はこぞって「法の支配」そのものを虚仮にして来たのだ。だから公僕などでは断じてない。

では、国民にとってはあらゆる意味でとんでも無く許しがたい役人たちのこんな非公式権力の行使がなぜ止められないのか。
それは、結論を一言でいえば、行政府の長と口では嘯く内閣総理大臣と、各府省庁を担当する大臣(閣僚)が配下の官僚と官僚組織をコントロールできていないからである。

さらに言えば、彼ら政治家が、この日本という国を真の「国家」としてもいないからだ。

そしてそうした執行府の政治家の有様に対して、立法府の政治家も、これまで、ただ見て見ぬ振り、知って知らぬ振りをしてきたのだ。
それは、多分、いつか自分たちが閣僚の椅子を手にした時にも多分現行の閣僚と同じような状態となるのだろうが、その時、非難されたくはないからなのではないか、と私は推測する。

理由その4について

辞めさせるべき第4の大きな理由とは、とにかくこの国の政治家という政治家は、国政レベルの政治家であれ、地方政治のレベルの政治家であれ、民主政治を行う上では絶対に知っていなくてはならない政治的基本諸概念などもまったく知らないし、ましてや、それらのすべてを統一的に一式揃って理解し得ていなければまともな政治などできるはずはないということも知らない、と私は、幾人かの政治家と会った際、直接質した体験からも、断定できるからだ。

たとえば、次のような基本概念だ。

————国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、内閣、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、主権、独立(国)、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、閣僚、自治、公務員、独裁、法の支配、法治主義、等々。

私が接したすべての政治家はこれらのどれも即答できなかった

そんなとき私は、せめて近代政治を理論的に確立した思想家たち(たとえば、ジョン・ロックモンテスキュー、ルソー)の書は読んで欲しいと提言したが、後で聞いてみても、真面目に読んだという人は一人もいなかった。

これでどうして政治家と言えよう。
どうして本物の政治家をやって行けよう。

要するに、自分はいったいどのような役割と使命を誰に対して負っているのかということについてはもちろん、本来の「政治」とは何か、「法律」とは何か、「政治家」とは何をどうする立場の者か、ということすら知らないし、勉強して知ろうともしていないのだ。
それだけではない。
「政治的良心」ということも知らない。

とにかく、このほど、この国も、新型コロナ・ウイルス問題で深刻な事態になっている中で、たとえば安倍晋三が任命した西村経済再生担当大臣を通じて、この国の政府の中枢である内閣の閣僚でさえ、法あるいは法律というものに対する理解がまったくなっていないことを改めて知ったのである。

彼は、3業種のガイドラインの概要の説明をしているとき、堂々とこう言うではないか。
この日本の法体系はあくまでも要請ということであります” (2020年6月13日)

ここには、法とは、それが法であるかぎり、ルール一般ではなく、国家権力の物理的行使による拘束や制裁を受けるルールであるという、法の最も基本的な特性すら知らないという事実が見て取れるのである。
要するに「要請」なるものは、とうてい法と言えるものではない。
こんなことも知らずに平然と国務大臣をやっているのだ。
いや、それ以前に政治家をやっているのである。
そしてこんな人物を安倍晋三は首相として任命しているのだ。
任命する方もする方だが、される方もされる方だ。それは自分には任が重いとして辞退もせず、むしろ自身の能力も顧みずに、任命されると嬉々として応じているのである。

実際、この国の政治家がこれらを一式揃って知っていたなら、国会を含めて、日本中の議会は、今日のようなママゴト議会ないしは儀式議会などやっているはずはなく、民主主義が実現され、今日のような日本になることは絶対になかった。

 

なおここで用いており、またこれ以降でも本書の随所で用いる“知らない”については、私は一貫して次の意味で用いてゆく。

たとえ言葉では、あるいは知識としては知っていたとしても、それの意味していることを理解して我が物とした上で、それをいつでもどこでも当たり前のように実行・実践できなかったなら本当の意味で知っていることにはならないのだ、と。

“知らない”の意味をもう少し実例を挙げて、明らかにしてみよう。

三権分立」の政治原則とか、「なぜ権力は分散されることが必要なのか、なぜ三権は互いに独立していなくてはならないのか」を知っていたなら、本来議会が、議会でしか決められないことを閣議で決めるなどという立法権を侵害する行為を議会は絶対容認しなかったはずだ。
また、行政権が司法権に干渉したり、司法権に関わる法律に立法権でもない行政権が介入したりすることも断じてあり得なかったはずだ。

ましてや、裁判を通じて人の運命を変えてしまう可能性のある検察官の定年延長を、最高権である国会の権力に由来する、言ってみれば国会憲力よりも下位の権力でしかない行政権の長である安倍晋三が、自分に好都合だった東京高等検察庁検事長検察庁法の定める定年を迎えるに際して、その検事長の定年を延長させたいがために、“国家公務員法の規定が検察庁法にも適用されると解釈することとした”などと、検察庁法を無視して、“一般公務員法を適用できると解釈変更する”など、独裁そのものだ。
これも、安倍などは、民主主義も権力も国会も、そして首相という立場も、実は全く知らなかったということだ。

「なぜとくに司法は行政からは完全に独立させていなくてはならないか、そしてその場合、独立しているとは何がどうあることか」を知っていたなら、司法権に属する裁判官、とくに最高裁判所長官は執行機関である内閣が指名(実質的には行政庁(法務省)の官僚が指命)するとしている現行憲法第6条を放置しておくことなどあり得なかったはずだ。

「権力は何に拠るのか」、「権力はどのように行使すべきか、またどういうことには行使してはならないか」を知っていたなら、権力を官僚(役人)に丸投げして、法案(条例案)を作らせることもなかったはずだ。
また、国民からのお金(税金)の取り立て方や、取り立てたお金の使途についても、官僚に作らせることもなかったはずだ。
またたとえば、官僚(役人)が自分たちに好都合な人選をしては「審議会」を立ち上げることについても、またその審議会を自分たちの都合のいい方向へと仕切っては自分たち所属府省庁が目論む事業や成立させたい法案に賛成してくれる答申を出させることについても、それは「全体の奉仕者」である官僚がすべきことではないし、そんな権力は公務員には主権者から負託されてはいないとして放置していなかったはずだ。
むしろそうした権力を闇で行使する官僚らを、憲法15条第1項に基づいて、閣僚はもちろん国会議員も罷免していたはずだ。

日本国憲法を知っていたなら、あるいは国会が国権の最高機関であること(第41条)の意味とその理由を知っていたなら、あるいは議会制民主主義とは何かを知っていたなら、政策・法律・予算等のすべてが、国会での審議に先立って政府の内閣で「閣議決定」されてしまうなどというを容認しなかったはずだし、憲法改正手続きを明記する憲法第96条を無視して、解釈上だけで改憲したことにしてしまうなどといった憲法そのものを虚仮にする安倍晋三など断じて容認しなかったはずだし、国会でのあらゆる審議をストップさせたはずだ。
なぜなら、それは、いずれも独裁行為であり、憲法破壊行為でもあるからだ。

つまり、独裁とは「行政府が重要な政策を立法府の審議に委ねずに、閣議決定だけで実行してしまう政体のことで、行政府への権力の集中のこと」であり(内田樹(たつる)赤旗日曜版2014.3.16付)、それは議会制民主主義の国にあっては断じて許されるものではないということも安倍晋三を含めて知らないということだ。。

むしろそのような挙に出た者に対しては、たとえ総理大臣であろうと誰であろうと、法律どころか国の基本法を犯した者、あるいは文字どおり国の民主主義議会政治体制という国体に反逆した国賊として、極刑に処する法律を政治家たちは国会において制定していたはずではなかったか。

もっと言えば、「憲法」とは何かをこの国の政治家という政治家が知っていたなら、「国の理想を明らかにしたもの」などと頓珍漢なことを言う安倍晋三など、一国の舵取りのできるはずもない首相として、国民すべてに訴えて、首相の座から引きずり下ろしていたのではなかったか。

また「国家」とは何かと知っていたなら、例えば東京電力福島第一原子力発電所が水素大爆発と炉心溶融大事故を今にも起こそうとしていた際、首相が、周囲の反対を押し切って、一人で現場にヘリコプターで視察に赴くなどということをするはずもなかった。

さらには、最近の例から見れば、国民の「老後の30年間で必要な金額」として、厚生労働省は約2000万円、金融庁は1500〜3000万円、経産省は2895万円と、各省庁がバラバラな数値を公表するのを総理大臣が黙認していることなど絶対にあり得なかったはずだ。

また、財務省は新紙幣を発行しようとするのに対して、経済産業省はキャッシュレス化を進めようとしている、などといった事態を総理大臣が放置していることもあり得なかったはずだ。

また、これからはますます頻発化し、また被害も大規模化すると予想される自然大災害をいくらかでも未然に防ぐ上でとくに森林管理や河川管理はきわめて重要となるはずであるが、ところが、農林水産省林野庁)は森林だけの管理、国土交通省は河川とダムや堤防・堰づくりのみ。
今や日本の山がいたるところ荒れ果てているために、ひとたび上流あるいは源流域に豪雨が降れば、その雨水が浸透して蓄えられることなく山肌を削りながら土石流となって一気に流れ下るために、せっかく巨額の税金をかけて造ったダムや堰は瞬く間に底が浅くなり、水をせき止めるという本来の機能を果たせなくなる。
そんな関係にはひたすら無頓着に、“互いに他の府省庁の専管範囲に踏み込まない”を暗黙の了解にして、税金と時間を浪費し続けているというのも、この国が国家ではない証拠だ。そしてそれを放置しているのが総理大臣を含むすべての政治家だ。

この国の政治家は、国会議員でさえ、「国家とは何か」を知らないだけではなく、国と国家の違いも知らないであろう。
政治というものは「国」ではなく「国家」という枠組みの中で行われるものだということさえ知らないであろう。
したがって、「この国は本当に国家と言えるのか」という疑問さえ持たないであろう。

閣僚とは何かを知っていたなら、たとえば国土交通大臣は、国中のすべての幹線道路建設については、つねに当該地域に自ら足を運び、関係地元住民の声を最優先に聞き取り、その総意に基づいて新規道路建設の要不要を自ら判断し、その判断の下で、配下の官僚を自らの手でコントロールし、道路行政を指揮し、統轄していたはずだ。
しかし実際には、その使命も役割も責任も知らないがゆえに、官僚にいいように任せて来たがために、この国には、こんなに狭い国土なのに、そして天文学的な額の借金が既に累積されているのに、すべて借金を重ねた上での無用・不要な道路づくりが止まらず、自然環境破壊が止まらないし、「パリ協定に」非協力的となるのだ。

要するにこの国の政府は、各府省庁がまったくバラバラなのだ。各閣僚もバラバラ。内閣総理大臣も、内閣を「総理」などしていない。

つまり、安倍晋三を含めて、この国の総理大臣も閣僚も、いや、政治家すべてが、国家とは何かすら知らないのだ。
日本は国家ではないのだ。
それは海軍と陸軍が対立していた明治期から変わってはいない。
専門家や学者の中には“この国には国家戦略はない”と言う者がいるが、当然だ。あろうはずはない。
この国は「国家」ではないのだからだ。
戦術は立てられても、国家としての戦略など、立てようがない。

 

こんな状態だから、総理大臣も防衛大臣も、言葉としては知っていても「文民統制シビリアンコントロール)」などできるはずはない。
それは自衛隊の日報問題一つを見ても明らかだ。

この国が前例のない大災害に見舞われ、多くの被災者が今すぐにも助けにきて欲しいというときに、決まって政府の初動体制が遅れ、救済対策も府省庁バラバラになるというのも、この国が国家でないことと不可分の関係にあるのだ。
被災者に対する総合的国家救済戦略などあろうはずはないし、それを実行できる体制もあろうはずはない。 

そして、「人権」とは何か、とくに「自由」とは何か、そしてその価値を知っていたなら、あるいは基本的人権と人間の尊厳と価値を確認することがどうして国連憲章に採択されたかを知っていたなら、それを顕著に侵害するいわゆる共謀罪法の類いの法律を成立させるはずもなかった。

国会が言論の府と言われ、民主主義の殿堂と知っていたなら、国会を質問の場、質問者の順序や質問時間も予め決められたとおりに進められて行く儀式の場とするはずもなかった。

「選挙の意味」を知っていたなら、あるいは「有権者から選ばれることの意味」を知っていたならば、選挙の際に、このままでは自分の再選は難しいと見れば、別の政党に平気で乗り換えて立候補したり、相乗りで立候補したりするなどということもあり得なかったであろう。

それに、「主権」とは何かを知っていたなら、「地域主権」などという、本来、政治理論的にもあり得ない造語をして平然としていられるはずもなかった。

恣意的な支配を排斥して、権力を法に拠って拘束することで国民の権利を擁護しようとする政治的原理である「法の支配」(「もういちど読む山川政治経済」p.8)を知っていたなら、根拠となる確定し公布された法もないのに———したがって強制力は持ち得ない———、行政府の長が国民の暮らしや行動を暗に規制することを目的とした「緊急事態宣言」を発したり、また「自粛」という国民一人ひとりにとっては具体的にはどういう場合にどう判断したらいいのか当人の恣意や主観を交えないではいられないような「要請」を発したり、あるいはそれを緩和ないしは解除したりするという支配または権力行使の仕方をすることは決してなかったはずだ。

そのことはたとえば裁判を考えれば判りやすい。
判決は有罪か無罪かのどちらかでしかない。その中間というのはないのだ。
ましてやそのどちらがいいか自分で判断しろ、ということなど絶対にないのだ。

しかしこの国の政治家という政治家は皆、行政府の長のこうした曖昧な支配の仕方、法に基づかない支配の仕方あるいは権力行使の仕方を容認したのだ。

つまり中央政府、地方政府を含めた行政府の長も、議会の政治家も、「法の支配」を知らないのだ。

また「法治主義」を知っていたなら、国権の最高機関である立法権が定めた法律を、立法権に由来する執行権に過ぎない政府の内閣が恣意的にその解釈を変えることなど絶対に出来ることではないことぐらい、高校で政治経済を学んだことのある者だったら誰だって判る。法治主義とは、行政権の行使には明確に定まった、曖昧ではない、また恣意が入り込む余地のない法律の根拠が必要であるとする考え方であるからだ。

国民は誰も、つねに平等に扱われる「法の支配」による社会秩序の中で暮らしたいと望んでいるのだ。
法の下の平等」とはそういうことであろう。

そのことを考えれば、法とは、またその条文とは、字を読める者ならば誰でも、読んでその意味がすぐに、しかも誰もが一義的に解釈でき、理解できる文章からなる条文でなくてはならないことはすぐに判断がつく。

にも拘わらずだ。
たとえば検察庁法という法律を見てみよう。

それは、六法全書で、1ページと少しという程度の分量の法律であるが、その中に何と11カ所も「・・・・することができる」という恣意を介入させられる文章があり、2カ所も「・・・必要と認めるときは、・・・」という恣意を介入させられる文章ある。

このこと自体、「法の支配」の下でつねに平等に扱われたいと願う国民にとっては大問題であるが、それをこの国の国政政治家は、それができた昭和22年以来、こんな重大なこともほとんどそのままに放置して来ているのだ。

また、この国の政治家という政治家は、「政治的良心」をも知らない。

その最たる見本が、ここでもやはり安倍晋三だ。
彼は、自分が任命した閣僚が汚職事件を起こしたり、逮捕されたりしたとき、お決まりのように「任命した者としての責任」、あるいは「責任は私にある」を口にするが、しかしそれだけだ。
その後、何もしない。
法務大臣に任命した者が逮捕されてもだ。

それで責任を果たせるなら、あるいは果たしたことになるのなら、子どもでも、誰でも言える。

 

 

要するに、安倍晋三は社会的精神レベルが子ども並か、あるいは精神的にカタワなのではないか、と私は推測する。

代々、政治家一家の中で育ったということ自体、私は異常なことだと思う。

それは、特にこの国では、巷の人々と同じ普通の暮らしを体験せずに、したがって普通の人々が抱く生活の苦しみや悩みをも体験せずに育ったことを意味する。
しかも彼が尊敬していると聴く祖父(岸信介)は、当時、中国を侵略してはそこに満州国を建国し、その運営に大臣(商務大臣?)として関わってきた人物だ。
そして欽定憲法下での天皇制と治安維持法の時代を良しとし、日中戦争を含むアジア・太平洋戦争を遂行した一人だ。
戦後、極東軍事裁判ではA級戦犯とされながらも、米ソ冷戦の激化の中、アメリカに役立つ人物だとしてアメリカに救われて釈放され、先の戦争遂行者としての反省もないまま政界に復帰し、首相にまで上り詰めた人物だ。その岸は、強権をもって日米安保条約改定まではやりとげたものの、日本国憲法を改定しようとの夢は果たせないままに政治生命を終えた。

「三つ子の魂、百までも」とは良く言われるが、政治家一家に育ち、そんな人物を尊敬し、幼少の頃からそんな人物の薫陶を受けて育った人間とは、長じた時、果たしてどんな人間になるのだろう。
祖父から学んだ政治観は終生変わることはないだろう。
政治は国民のもの、国民あって国は成り立つ、という政治観を持つことなど多分終生ないだろう。
「民主主義とは何か」、「政治的良心」とは何か、「責任を取るとはどういうことか」を知ろうとすることも、多分、ないままに終わるだろう。

 

そしてここでさらに、私は、この国の国会を含む議会での政治家のありようについて、つね日頃疑問を抱いている3種の事柄について考えてみようと思う。

その1つは、「議会の執行機関に対するチェック機能」ということについてである。

2つ目は、国会を含む議会には予算案を提出できる権限はなく、その権限が与えられているのは内閣にであり地方公共団体の長にだけである、ということについてである。

そして3つ目は、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」とする根拠についてである。

 

そこでその第1。

私が直接接してきた政治家は、議会での役所の人間に向っての質問行為を、だれも、“行政機関に対する議会のチェック機能を果たしているのだ”と言う。

しかしそれは正当な答えなのであろうか。
私はとんでもない錯覚だと思うのである。

たしかに、議会には行政府に対して、国民に代わってチェックする役割はあるが、それは、現行のどこの議会もしているような仕方に拠るものでは全くないと考えるのである。

私の考える議会の執行機関に対する本来のチェック機能とは、各政治家が掲げて来た公約を議会独自できちんと立法して、議会が本来の立法機関としての役割を果していることが先ず前提としてあるのであって、その前提が果たされた上で、議会が決めたそれらを執行する役割を負う執行機関が、議会が定めた政策なり予算なり法律なりを議会が定めたとおりに執行しているかどうかを問い質すことこそを言うのである。

たとえばこうである。

ただし、ここでは、予算の裏付けをもった法律あるいは政策はあくまでも自分たち政治家が予め議会で定め、定めたそれを執行機関である役所に回した後の場合のことを前提としている。

「先に議会が提出した○○○という題目の政策は、あるいは第○○○号という政策は、その後、計画どおりに進んでいるか? 進んでいないとしたらなぜか? どんな問題や課題があって進んでいないのか? それを今後どのように解決させて、議会が議決した政策が目的とするところを実現させて行こうとしているのか、それを国民が納得行くよう論理的に———“丁寧に”といった情緒的な表現ではなく———説明してもらいたい」、と。

あるいは、「先に議会が提出した○○○という題目の政策は,執行が完了したのか、しないのか? 
完了したとすれば、どんな成果が得られたか? 
他分野へのどんな波及効果が期待できるか? 
また、執行が予定どおりに行かなかったとすればその原因は何か? 
誰がどのようなことをし、また誰が何をしなかったからなのか? 
それを今後どのように解決させて行くつもりか? 
これらを国民が納得行くよう論理的に説明してもらいたい」、と。

さらにあるいは、「先に議会が提出した○○○という題目の政策については、執行過程で、予算は余りそうにないか? 
今、財政はきわめて厳しいので、当初予算は全部使いきるというのではなく、できる限り最少の公金で最大の成果を上げるようにしてもらいたい。
残った予算は、累積されて来ている巨額の政府債務残高の返済に充ててもらいたい」、と。

国会が政府あるいは内閣に対して、あるいは官僚に対してチェック機能を果たすというのは、こういうことだと私は考える。

ともあれ、「議会の執行機関に対するチェック機能」を既述のように錯覚するのも、この国の政治家という政治家が、国会を含めた議会というものの民主主義政治体制における位置付けを知らないからであろう。

 

第2の疑問点の行政府が予算案を作ることについて。

日本国憲法第73条の5項と地方自治法の211条第1項と112条第1項に拠れば、国会を含む議会には予算案を提出できる権限はない。
権限が与えられているのは内閣にであり、地方公共団体の長にだけである。

このことを杓子定規に受け取ってのことであろう、これまで、政治家は、議会で、自分たちが掲げて来た公約の実現に向けての立法化または政策化のための論議はもちろん、その公約を実現するに必要な予算案を自分たちで議論し、定めてくるということもして来なかった。

しかし、私見であるが、国会を含む議会こそ、そのそれぞれが掲げる公約が支持されて選ばれて来た国民の代表が集っている場であることを考えれば、その各政治家が掲げる公約を実現する上で必要となる予算を含め、日本が国家として、あるいは地方公共団体として為すべき重要政策の実現に必要な予算を決めることができる権限も、やはり最高議決機関である国会ないしは地方議会に与えられていなくてはならないのではないか、と私は考えるのである。

言い換えれば、執行府である政府にではなく、議会にこそ国民が納めたお金である税金の使途を決めることができる権限が独自に与えられるべきなのではないか、と。

これまでのように、政府がつくった予算案を議会はただ質問し、承認するだけということでは、国会も地方議会も、国民の利益を実現する代表としての役割を十全に果たしていることにはならない。
ましてや政府が予算を組む場合、閣僚や首長が官僚や役人に指示し、コントロールしているわけではなく、むしろ反対に、既述のように、ただ官僚から「報告」を受け、彼らに追随する、役人の操り人形でしかないからだ。
またそのようなことだから、この国の財政は、天井知らずに「政府債務残高」を膨らませ、対GDP比で、世界最悪の借金を抱えてしまうことになるのだ。

 

そして3番目の疑問点である、衆議院の解散権とその解散権の所在について。

今、あるいはこれまで、この国では、衆議院の解散権は首相の専権事項だとされて来た。
たとえば安倍政権の菅官房長官もそれを公言している。
そしてそれに対して、この国の政治家には、与野党を通して、誰も異論や反論をしない。
当たり前、と見ている風なのだ。

では、その法的な根拠は一体どこにあるのだろう。

当然それは、あるとすれば、事の重大さから憲法に明記されていなくてはならないはずのものだ。

ところが、日本国憲法第四章の「国会」に当たる部分のどこを見てもそれらしきの条文は見当たらない。

そこで「衆議院の解散権は首相の専権事項である」とする根拠を国会や内閣の法制局に問い合わせてみると、どうやら、その根拠は同憲法の第7条と第69条にあると言う。

その第7条は天皇の国事行為について明記している条文であって、こうある。
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う。」

ところがその3項目に「衆議院を解散すること」とあるに過ぎない。

では憲法の69条はどうか。
それは「内閣不信任決議の効果」に関するもので、具体的にはこうある。「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、または信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されないかぎり、総辞職をしなくてはならない。」

一体これら2つの条文内容から、どう解釈すれば、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」とする根拠が見出せるというのか。
これも、言ってみれば、憲法条文のこれまでの解釈の仕方を、憲法が定める正規の手続きを踏まずに、勝手に解釈の仕方を変えるだけで、憲法を変えたことにしてしまう、いわば国の基本法を虚仮にする態度と同じではないか。 

さらに、現行の政治家は気付かないのだろうか。

首相は内閣の長ではあるが、内閣の有する行政権は、憲法が———というよりどこの民主主義国でも同様であるが———、国権の最高機関と憲法が明記する国会の立法権に由来する権力で(ジョン・ロック)、当然立法権よりも低位の権力でしかない。その国会よりも低位の権力でしかない内閣の長が、国権の最高機関である国会を構成する衆議院を解散させることができるなどということは民主主義議会政治を成り立たせている仕組みから見てもあり得るはずもないことだということを、である。

結局こうなるのも、元を質せば、民主政治を行う上では絶対に知っていなくてはならない政治的基本諸概念のすべてを統一的に一式揃って理解し得ていなければまともな政治などできるはずはないということを知らないからだ、と私は断定できる

もう、こうした、戦車を特車と言いくるめるような、また撤退を転戦と言いくるめるような、解釈をねじ曲げるだけでそれを正しいとしてしまうような、事実を事実として見ようとはしない態度は改めようではないか。卑怯だし、卑劣だし、若者や子どもたちの教育上も、極めてよくないことなのだ。

事実を事実として物事を捉えようとはしない政治家は、やはりここで、きれいさっぱり、退場してもらうしかないのではないか。

——————つづく

 理由その5については次の記事に書くことにします。