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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その2

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北杜市の水田と小高い山々

本投稿は3部で構成されています。

今回の記事は、前回のものに続く第2段になります。

 

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その2

辞めさせるべき第2の理由の詳述

 とにかく、政治家の大多数が、日本人としての自己認識の出発点となる極めて重大で画期となる出来事である母国の「建国の歴史」を正確な史実に基づいて知ろうともしないというのは、国内政治を行う上ではもちろん、外交を行う上でも重大なことだ。交渉相手国代表から、自国の建国の歴史も正しく知らないのかと見られ、それだけで信頼されなくなってしまうだろうからだ。と言うのは、どこの国の人も、堅実に生きようとしている者ならば多分誰も、祖国を愛し、祖国の建国、そして祖国の独立に誇りを持っているだろうからだ。

 そもそも人は、誰も、自分がいつ、どこで生まれたのか、それを知らないで、あるいはそれを正しく知ろうともしないで、つまり自らの出自あるいは出発点を曖昧にしたままで、どうして確信を持って一歩前へ踏み出せよう。出発点を曖昧なままにしてどうして目ざす目標なり目的地を定められよう。出発点曖昧なままにして、どうして、今、自分がどれだけ歩んできたか、そして今自分はどこにいるかを、確信を持って捉えられよう。つまり正しい自己認識を持てようか。それであっては、その後の人生において、確かなアイデンティティなど持って生きられるはずもない、と私は思うからだ。

そして、そのような状態では、母国への真の愛国心や忠誠心も育ちようもない、とも私は思う。

 自国の建国の歴史について、「日本」という国号がいつ定まったのか、したがって「日本人」が歴史上に現れたのはいつなのか、その正しい歴史認識も無いままに、例えばどうして国の安全保障を口にできよう。いえ、それ以前の問題として、そんな状態でどうしてこの国の政治家、とりわけ自民党自由党公明党民主党の一部は「日の丸」を国旗と定め、「君が代」を国歌とするような法制化ができたのか。1999年8月9日のことだ。

 歴史学者網野善彦氏は言う。

「真の建国のその時をもって初めて私たちは本当の意味で『日本国の人民』の一人になったと言えるのである。あるいはそのときこそが、日本国という国籍を持つ私たち日本国民の真の出発点となったのだと言える。そしてその時こそが、私たち日本国民としての自己認識の出発点となったのである」、と(「『日本』とは何か」講談社学術文庫p.19)。

 真の建国の時期が明確になって初めて私たち日本国民は、日本国民としてのルーツが明確になり、日本国民にとっての「今」の意味が明確になり、そしてそのとき初めて「未来」に向けての目標を持つ意味も明確になるし、その目標を意味あるものとして定め得るのだ。

逆に言えば、政治家たちのそのような実態の中では、長期的戦略や長期ビジョンなど持てるはずもない。

 元々2月11日を国民の祝日としたのは明治政府であり、時は明治5年、西暦1872年だった。西暦の紀元前660年2月11日が神武という名の人物が「天皇」という名で即位した日だという。今日に言う「建国記念の日」とは、太平洋戦争敗戦後は廃止された祝日を、日本政府が、1966年にそのような呼び名で復活させたものである。

 ではその神武が天皇として即位したと明治政府が定め、日本政府がそれを引き継いでいる紀元前660年とはどういう時代であったか。

 現在の日本の領土上に初めて登場した国として正式に歴史的文献上で認められている国と人物とは、文部省あるいは文科省の歴史検定を通過した教科書で私たち国民が学んだ「邪馬台国」と「卑弥呼」である。そしてその時代とは紀元後の200年頃のこと。

 ということは、卑弥呼と神武との間の年代差は実に900年ほどあり、神武の方が卑弥呼よりも900年近くも前ということになる。

しかも神武以降に登場した邪馬台国は日本国ではないし、卑弥呼も日本人ではなかった。

また、よく縄文人とか弥生人が話題に上ることがあるが、彼らも日本人ではなかった。なぜなら、そのとき、まだ日本国は誕生も成立もしていなかったのだからだ。

 では、「日本」という国号が初めて歴史上に登場したと歴史研究者の間で大筋で認められているのは一体いつか。

それは、西暦で言うと紀元後の689年あるいは600年代後半から700年代初頭までの範囲内とされる(同上書p.20)。

 つまり「日本国」という国号が確定し、日本国と「日本人」が地球上に初めて誕生したのは7世紀末ということになる。紀元後のその689年あるいはその前後こそが、私たちの国「日本」の起源となるのであり、日本人の起源(ルーツ)となり、日本人としてのアイデンティティの出発点となるのである。

もちろん、その時の日本には、アイヌ人も、琉球人も、小笠原人もいた。それだけではない。ウイルタやニブヒと呼ばれる人々もいたのである(同上書p.321)。

 ということは、このことからもこの日本という国は、明治以降の政府が国民に言い聞かせてきたような「単一民族による単一の国家」ではなかったことは明らかだ。政府はずっと国民にウソを言い続けて来たのだ。いずれにしても、「日本国」という国号が確定し、日本国と「日本人」が地球上に初めて誕生したのは、神武なる人物がいたとされる紀元前660年からはおよそ1300年も後のことだ。このズレはごまかしようもなく大きい。

 

 実際、この国の政治家の愛国心や忠誠心の無さは次のような様々な面に見出せる。

 たとえば、今、この国では、日本国民の生活の基礎になる土地、農地、水源地、森林などがとくに中国などを中心とする外国企業にどんどん売られている。本来売買できる性質のものではない農作物の種子や、教育、医療、介護等までもビジネス対象として扱われて外国の巨大アグリビジネス企業や多国籍企業群に売られている(堤未果「日本が売られる」幻冬舎新書)。

その結果、今この国は、外から武力攻撃を受けて破壊されているわけではないのに、内側から猛スピードで壊れてさえいるのである。

 では、政治家たちはどうして自国内に起っているこうした事態を放置できるのか。あるいは無関心でいられるのか。

自国民が生きて暮らしてゆく上で絶対不可欠な母国の土地が、環境が、自然が、このように外国に売られてゆく事態を「政治」を以って食い止められるのは政治家だけなのに。

 自分の心も体も「日本人」として育ててくれた祖国や郷土の自然が、こうして海外に売られたり、「公共事業」とかで、アッチでもコッチでも急速に変わり果ててゆく姿を放置でき、また無関心でいられるのも、また自分を日本人として育んでくれた日本の伝統の文化がこれほどたやすく破壊され、消滅させられて行っていることに無関心でいられるのも、結局は愛国心が欠如しているからだと、私は思う。

 比喩をもって考えても、このようなことはすぐにも判断のつくことではないか。

 もし自分の愛する身近な人や家族が、無抵抗なのをいいことに、他者から傷つけられたり、暴力行為を受けたなら、そのときは、そこにどのような理由があろうとも、黙って見過ごすことは出来ないものだと思うが、しかし、もしそこに愛がなかったり、無関心であったりしたなら、放置もできるのかもしれない。

 それと同じことではないのか。

 かのマザー・テレサは言った。「愛の反意語は憎しみではない。無関心でいることだ」と。

人間、どんなことにも、愛があれば、そのことに無関心ではいられなくなる。とくに自分を育ててくれたものには無関心ではいられないのだ。それは時に、国であったり、文化であったり、自然であったり、また肉親であったりする。

 人類が今直面している、人類の存亡がかかっている地球温暖化に対しても、生物多様性の消滅という事態に対しても、そしてそれに少なからぬ影響をもたらすこの国の「エネルギー基本計画」に対しても、無関心、あるいは「あなた任せ」でいられるというのも、結局はそこに愛がないからだ。人類愛という愛である。

 また、政治家たちに真の愛国心と自国民への忠誠心があったなら、例えば、阪神淡路大震災の起った時(1995年)、その直後のオウム真理教に因るサリンばらまきとそれに関連したテロ攻撃があった時、東日本大震災の時(2011年)、その直後の東京電力福島第一原発炉心溶融事故による大爆発が起った時、九州北部豪雨による大災害発生の時(2017年)などの前例のない大惨事が生じた時には、全ての政治家は直ちに、次のような行動をとるべきだったのではないか。

 一刻も早く被災現地に赴き、少しでも早く状況を各自が自分の目で把握し、被災者を励ましながら、彼らの訴えに真摯に耳を傾けること。そしてそれを聞いた後、被災者を、一刻も早く救済するためだけではなく、被災者が少しでも早く再起し得て、自立できるよう、旧来の災害救助法に代わる新法を臨時国会を開いてでも制定すること。なぜなら、現地をつぶさに見ていたなら、もはや既存の法律では対処できないことは直ちに理解できていたはずだからだ。

 しかし、この国の政治家たちの実際の姿はどうだったか。新法制定の必要性を訴える政治家は、私の知る限り、誰一人いなかった。

 もう一つの例である。

もし、国民への忠誠心があったならば、たとえば、3.11直後に起こった上記の東京電力福島第一原発炉心溶融事故による大爆発によって生じた、文字どおり日本国誕生以来の歳月の何十倍、何百倍もの期間、その毒素が消滅することもない放射性廃棄物を、官僚や役人が民家の周辺に置くという措置を政治家として放任できたはずはない。

 それに、それだけの大災害を受けたために、被災を免れた私たちその他の国民の想像を絶するストレスを心身共に受け続けて来ているであろう人々を前にして、しかも科学的で、かつ公正なる検証を行おうとする気配すらなく、政治家たちが「原発再稼働」を決めるなどという狂気とも言える行動がとれたはずもない。

 それにこれは既述したことだが、「本土復帰」とは言われながらも、戦後ずっと、事実上、アメリカの支配下に置かれ、米軍基地内は治外法権という事実上の植民地状態、すなわち売国奴吉田茂が自国民に対して秘密裏にアメリカとの間で交わした「日米地位協定」と、その後、同じく吉田が自国民に秘密裏に交わした「ラスク・岡崎交換公文」と「日米地位協定合意議事録」に拠る主権放棄状態の中、人権を踏みにじられ、米軍機の墜落の不安と爆音に曝され続けている沖縄の人々の“もういい加減、米軍基地を沖縄県外に持って行って欲しい”との悲願を無視し、アメリカ政府に迎合し追従しては駐留米軍最大の基地を沖縄県内に存続させるなどということも、自国民への忠誠心があったのなら、いえその前に、人間としてできたはずもない。

 また、西日本で豪雨災害が発生して200名を超える死者が出、泥水に埋まった家屋が続出し、そのとき出た膨大な量の災害ゴミの片付けが一週間経っても一向に片付かなかったときのことである。

酷暑の中で多くのボランティアが必死で救援活動をしているというのに、国会では、自公政権は、ギャンブルに関するカジノ(IR)法案や参議院の選挙法改正案を会期延長してでも通すことに躍起になっていたのだ。

 とにかく、この国の政治家という政治家に、自国に対する愛、自国民に対する忠誠心があったなら、そしてそれに裏付けられた責任感や使命感があり、信念があり節操があったなら、選挙のたびにその場限りの漠然たるスローガンを掲げて見せたり、それまでの支持者に了解なく政党を乗り換えたり、立候補する場所を変えたり、政党間で相乗りしたりして、ひたすら当選することだけを目ざすという、人間として浅ましすぎる姿を曝すはずはない。

 

辞めさせるべき第3の理由の詳述

 それは、国会をはじめ地方議会の全てにおいて、本来、議会が果たすべき最も大事な役割と使命をも果たしてはいないからだ。それも、世界の議会制民主主義の国だったらどこも、当たり前のように厳守している「三権分立」を無視しながらである。

実際、日本中の政治家の誰も、“この状態はおかしいではないか、我々は支持してくれた有権者を裏切っているのではないか!”と声を上げる者がいないということは、自分たちのそうした姿に対して平気だからだ。

 ここで私が言う、本来、議会が果たすべき最も大事な役割と使命とは、国会であれ、地方議会であれ、選挙で当選した議員たちは、各自が選挙の時以来掲げ、有権者・国民に約束してきた「公約」と呼ばれる約束事を、法律あるいは条例という裏付けを持った予算付きの政策として果たしてみせることなのである。

 特に各議会で与党に回った政党あるいは会派の議員はそれが実際にできる状況にあるはずなのだからだ。

 ところがそれをどこの議会の誰も、全くしない。しないでむしろ当たり前という風でさえある。

 こんな裏切りはない。その裏切りとは、支持した国民に対してであると共に、民主主義議会政治への裏切り、特にその根幹を成す選挙という制度に対してである。つまり、何のための選挙なのか、何のための公約なのか、ということに対する重大な裏切りなのだ。選挙を、そして公約を全く形骸化させてしまう行為だからだ。

それをこの国の現行の政治家という政治家は、皆が皆やっているのだ————ここにも、本当は誰よりも民主主義を体得し得ていなくてはならないはずのこの国の政治家自身が、実は、民主主義には不可欠な「個」にも目覚めてはおらず、精神的に自立も自律もできていないで、ただ、“周りのみんながやっているからやっている”というだけの姿がある、とは言えないだろうか————。

 では、実際にはこの国の政治家は議会という本来的に立法機関で何をやっているか。

執行機関である政府の者(国会では、首相、閣僚そして官僚であり、地方議会では首長と部課長)を招き入れては彼らに向かって、ただ「質問」をしているだけだ。「代表質問」、「一般質問」と呼ばれるアレだ。それも、先述の「公約」を果たさないで国民を裏切っているのを平気でいるのと同様、ここでも、「三権分立」という世界の議会が守っている政治原則を破ってやっていても、全く平気なのだ。

 ではその質問とはどんなものか、と言えば、執行機関側の者に向かって、“あれはどうなっているのか?”、“これはどうなっているのか?”といった類いのものだ。時には“総理のご見解を伺いたい”といったものだ。

 私は思うのである。そんな質問だったら、何も国会の場でするのではなく、普段、議会が開催されていない時に、あるいは議会の合間に、一人、政府に出向き、しかるべき部署を訪ね、しかるべき担当者に会い、自分が知りたい質問をぶつけ、時間にこだわらずに納得ゆくまで答えを引き出したらいいではないか。それで済むような話ばかりだからだ、と。

実際、政治家にはそれができるだけの権力や権限が、選挙当選時に、主権者から与えられているのだからだ。

 本会議で質問するのなら、普段のその質問結果を踏まえて、せめてもっと本質的、もっと根本的、もっと根源的なところに踏み込んで、国民が最も知りたいと思っているところ、あるいは国民も聞いて目がさめるようなところを突けばいいではないか、と。

 私はこうしたやり取りをしていることについて、ある時、議会のある政治家に問い質したことがある。

すると返事はこうだ。

“議会の、行政権へのチェック機能を果たしているのです。”

 私はそこでも思った。やはり彼らは、近代民主主義政治理論を全く勉強していなければ、国会を含めた議会というものの民主主義政治体制における位置付けを知らない、と。そして、とんでもない勘違いをしていることにさえ気づいていない、と————いや、ひょっとすると、気づいていながら、自己正当化しているだけなのかもしれない————。

 確かに議会には、最高権として、行政権すなわち政府に対して、国民に代わって、チェック機能を果たさねばならないが、そこで言うチェックとは、私の質問に答えた、議会の「ある政治家」が言う意味でのものではなく、議会が独自に法律や条例の裏付けを持って議決した予算付きの政策を、政府が議会が定めたとおりに執行しているかどうかを、最高権としての議会が問い質すことこそを言うのだからだ。

 だから「議会の政府に対するチェック機能を果たす」とは、たとえば次のようなことを言うのだ。

 「先に議会が提出した○○○という題目の政策は、あるいは第○○○号という政策は、その後、計画どおりに進んでいるか? 進んでいないとしたらなぜか? どんな問題や課題があって進んでいないのか? それを今後どのように解決させて、議会が議決した政策が目的とするところを実現させて行こうとしているのか、それを国民が納得行くよう論理的に———“丁寧に”といった情緒的な表現ではなく———説明してもらいたい」、と。

 あるいは、「先に議会が提出した○○○という題目の政策は,執行が完了したのか、しないのか? 完了したとすれば、どんな成果が得られたのか? 他分野へのどんな波及効果が期待できるか? また、執行が予定どおりに行かなかったとすればその原因は何か? 誰がどのようなことをし、また誰が何をしなかったからなのか? それを今後どのように解決させて行くつもりか? これらを国民が納得行くよう論理的に説明してもらいたい」、と。

 さらにあるいは、「先に議会が提出した○○○という題目の政策については、執行過程で、予算は余りそうにないか? 今、財政はきわめて厳しいので、何でもかんでも当初予算は全部使いきると姿勢ではなく、できる限り最少の公金で最大の成果を上げるようにしてもらいたい。残った予算は、累積されて来ている巨額の政府債務残高の返済に充ててもらいたい」、と。

 それに、従来の「質問」あるいは「お伺い」は、本来最高権を有する議会のすることではない。その質問ないしはお伺いは、その権力と権威は議会に由来するものでしかない政府に依存している姿でしかないからだ。あるいは最高権を有する議会が、政府に従属している姿でしかないからだ。国民から選ばれた主権者の代表である議会が、自ら、政府の独裁を許している姿だからだ。

 つまり議会の政治家の政府へのこうした質問は、なぜ議会は最高権かという理由も知らないことの証左でもあるのだ。

 しかも本会議でも予算委員会でも、そこでの質問の進め方は、文字通り「儀式」であり「茶番劇」でしかない。NHKのアナウンサーが「国会中継」などで言うような「論戦」などといったものとは程遠いものだ。「議論」でさえない。

 つまりすべては、あらかじめ決められたことが、決められた通りに進められてゆく。したがって結論は、あるいは行き着く先はすでに決まっている。その質疑のやりとりの途中で、周囲から第三者が飛び入りで意見を言ったりすることはできないし許されもしない。

 質問内容は事前に議会事務局側に通告されているものばかり。その範囲からはみ出すことは通常はない。

 そして、質問者の順序も、質問時間も、事前に決められている。

 その質問に対する政府側の答弁者の対応の仕方もこうだ。

その場合、答弁者とは、閣僚であり総理大臣であり、彼らが答えられなければ、代わって官僚だ。

 彼らが答えるにも、自分が即席で、その場で、自分の言葉で答えるわけではない。その答弁が行われるその日の朝までに、政府の然るべき府省庁の、然るべき担当者である官僚によって作られた想定問答集の中から、その場に合った答えの文章をその場で拾い出してはそれを棒読みするだけだ。

 中には、想定問答集の中から拾い出した文章を読み上げるにも、たとえば「未曾有」を「ミゾウユ」と読み、「有無」を「ユウム」と読んで見せる閣僚さえいる。その御仁は、なんと内閣ではナンバー2だ。戦後すぐに、母国の主権をアメリカに譲り渡した総理大臣の孫でもある。ところがその御仁は祖父と同様、国民の前では尊大な態度を取りながらも、中学生でも読める母国語もまともに読めないのだ。母国語への無知のみならず、日本には世界に誇る「恥の文化」という精神文化が伝統としてあるということもどうやらご存知なさそうだ。

そんな御仁が日頃、「日本文化」や「美しい日本」を口癖にしているとは。これ以上の滑稽はないのではないか。

 要するに、質問者にしてみれば、質問の中身は重要なのではない。質問していること自体に意味があるのだ。特にTV中継があるときなどは、TVの向こうに注視しているであろう視聴者や支持者を意識して、“支持者の皆さん、見てください。私は国会の本会議でこんなにも活躍しているんですよ”と誇示し演技して見せることこそが重要なのだろう。次期選挙の選挙活動として。

 私にはそうとしか思えないレベルの質問内容だし、そうとしか見えない質問姿勢なのだ。

実際、彼らの質問は、どれも、この国が今抱えていて、すぐにも解決させるか解決の目処を立てておかねば近い将来大変なことになるとされる本当に重要な課題についての、政府への言い逃れを許さないといった、あらゆる角度からの質問ではなく、その時たまたま明るみになった政治家の醜聞や世の中の誰もが関心を持っている問題を取り上げての質問だ。

 例えば議員の汚職問題とか政治資金規正法違反、「森友学園問題」、「架計学園問題」、「桜を見る会」、「IR疑惑」、あるいは特定秘密保護法やいわゆる「戦争法」と呼ばれる平和安全法制整備法と国際平和支援法、等々についてだ。また、「解釈」の仕方を変えるだけで憲法改正したことにしてしまおうとする憲法9条についての集団的自衛権容認問題だ。

 どうしてこんな状態で、国民の政治的利益代表と言えよう。

どうしてこんなことしかできない政治家を存続させておく必要があろう。

 

辞めさせるべき第4の理由の詳述

 ここで私の考える最重要政治的緊急課題とは、たとえば次のようなものを指す。

この日本という国を、政府の縦割りの組織構成を撤廃しながら、本物の政府、本物の首相、本物の閣僚、本物の統治体制を整えた、本物の国家とすること

平時はともかく、とくにこの国に大惨事または非常事態が生じたときに、国民の生命と自由と財産が最優先かつ最速で守られるようにするためには、まずはこのことが常に実現されていることが是が非でも必要だからである。

 なぜなら、首相が官僚の「お飾り」でしかなく、閣僚が官僚の「操り人形」である今のままであり、中央政府内の各府省庁間や地方政府内での各部課間が縦割りとなっていて、情報や指示あるいは連絡事項が縦方向あるいは上下方向にしか流れないような組織構成のままでは、どんなにトップから必要な指示を発しようとも、また反対に国の津々浦々からの、あるいは現場からの声が速やかにトップに伝わらずに、場合によっては、それをトップに伝えるのを不都合と判断する者や部署によって、その情報が握りつぶされてしまうこともあって、政府が一丸となって大惨事あるいは非常事態に対応し得なくなってしまうからだ。

 また、その上、首相が首相としての、言い換えれば内閣を総理する総理大臣としての役目を果たせなければ、閣僚を任命するだけのことで、全閣僚を指揮することもできないし、また閣僚は閣僚で、各府省長の大臣としての役割を果たせなければ、配下の全官僚を統括すなわちコントロールもできず、結局、それでは、政府の全組織を有機的かつ効果的に動かすことができないから、それはそのまま現地に反映されることになる。

すなわち、被災され、被害にあった人々は速やかに救われないことになるのだ。というより、下手をしたら、救助が遅れて、命を落とすことにだってなる。

 過去、この国で起こった、前例のない大惨事においては、メディアは決まって政府の対応を「初動態勢の遅れ」と表現してきたが————そしてコロナ禍の中の今では「検査態勢の遅れ」、「医療態勢の遅れ」、等々————それは真実ではない。政府内の状況を正しく捉えたものではないからだ。

 こうしたこの国の中央政府と地方政府の実態をそのままにしていたなら、“国民一人ひとりが、誰も取り残されることない社会”の実現など、夢のまた夢になるしかないのだ。

 とは言え、今言ってきたような政府に変えるには、現状のこの国の統治のシステムを大胆に変える必要がどうしてもある。

 しかしそのことは、事実上の独裁を行ってきた官僚にしてみれば、そして現状変革を嫌う彼らしてみれば、間違いなく受け入れられるものではないのである。

したがって官僚たちは、共通の利害と見て、政府内府省庁の組織全てを挙げて抵抗してくるだろう。またそこには、いわゆる「族議員」と呼ばれる特定の省庁や業界の利益を代弁する政治家たちも加担してくるだろう。

なぜなら、その独裁の中で構築してきた全ての既得権を失いかねないと彼らは見るだろうからだ。実際、社会のあらゆる分野に対する自分たちの支配権とそれによって手に入れ的た既得権益のネットワークと「天下り」先確保のシステムを失うことになるだろう。同時に、自分たちの専管範囲の縮小を迫られて組織の縮小と弱体化をも招くことになるだろう。いや、ことによれがこれまでの府省庁は改変されて、中には廃省ということになる省庁もあるかもしれない。

 政府の変革にはこうした状況が不可避的に伴うために、これまでの行政改革は失敗に終わったり、あるいは骨抜きにされてきたのである。

しかし、今、この日本国としてどうしても必要なのは、この中央政府及び地方政府の変革とともに、国家公務員制度改革と、国家公務員法及び地方公務員法の抜本的変革であろう。とにかく、彼らにも、民間企業人と同様に、公務員らしからぬ行為や闇権力を行使したり、サボったりしたなら、減給や降格ではなく辞めさせられるのだとして、仕事に緊張感を持たせるべきだと私は思う。

 この政府変革は明治薩長政権以来、初めての大事業である。だが、国民から選ばれた全ての政治家は、議会の政治家も政府の政治家も一致協力して、この大変革は成し遂げなくてはならないのだ。サボタージュをし、抵抗を見せる官僚に対しては、臆することなく、また躊躇することもなく、日本国憲法第15条の第1項に基づいて、国民の公務員に対する選定権と罷免権という固有の権利を行使するのだ。

 これも、この国を真に持続可能な国とするためには、やむを得ないことなのである。

◯その上で、あるいはそれと並行して、世界で最速で進むこの国の人口減少問題への解決策を、必要であればその関係分野の専門家の助言と協力を得ながら、議会の政治家同士で見出し、それを国家の最優先の公式の政策、すなわち国策の1つとして議決し、それを政府に執行させること。

 それは、この問題こそ、軍事力とか軍備といった問題以前に、真の国力に直接関わる問題であるからだ。

そしてこの問題は、単に労働力減少という経済的観点からだけの問題ではなく、国の人口構成における少子化と高齢化の適正比率を見出そうという問題でもあり、他国民の移民や難民の受け入れ問題と日本国民との、人権的観点から見た法的関係のあり方の問題とも密接に関係しているのである。

 具体的には、良い教師を十分な数育てること、高い人権意識と倫理的感覚を備えた医師と看護師を十分な数育てること、人道的意識の高い介護士や保育士を十分な数育てることにも通ずることなのである。

◯食糧とエネルギーの国内での100%自給を達成させる方法を見出し、それを公式の政策(国策)として決定すること

 その場合のエネルギーとは、従来のような化石エネルギー、いわゆる再生不可能なエネルギーではなく、太陽光、太陽熱、水力、風力あるいは波力や地熱等々の自然エネルギーという再生可能なエネルギーである。

 この問題こそ、日本国民にとっての真の安全保障に関わる問題であるからだ。

現状は、食糧自給率37%、エネルギー自給率5%という、とても独立国とか先進国などとは言えない状況にある。

 特にこれからは、温暖化の激化や生物多様性の消滅の激化で、海外に食料供給を期待できなくなる可能性が高まっているだけではなく、世界の政治経済事情の混迷の深まりによって、いつ海外からのエネルギー供給が期待できなくなるかわからないという状況に至っているからだ。

 それに、もはや温室効果ガスを出す化石エネルギーの時代ではない。再生可能エネルギーの自給が不可避となっているのである。

GDP比で見て2.4倍という、世界最悪の国の借金、すなわち中央と地方の政府の抱える債務残高を速やかに解消し、将来世代・未来世代の負担を取り除く政策を公式に決定すること

 この問題を引き起こした最大の理由は、国民の利益代表であるはずの政治家————国会の政治家と政府の政治家の両方————が、国民から納められた税金の使途について、自分たちで国民の要求に沿う形で予算を組むのではなく、それを中央政府ではもっぱら官僚に、地方政府ではもっぱら役人に任せっぱなしで来たことだ。またそれをいいことに、官僚や役人は、自分たちの組織が縮小されたくないが故に、むしろ必要以上の予算額を要求してきたがためだ。

 だから、GDP比で2.4倍などという世界最悪の国の中央と地方の政府の債務残高とさせてしまった責任は、もっぱら政治家にあるのだ。政治家の怠慢と無責任と無能の結果なのだ。

 したがって、表記課題を解決するためには、やはり一番最初に挙げた難題を何としても解決させておくことがどうしても必要となる。その上で、これからは、既存の法律にこだわらず、あるいは必要なら既存の法律を改変してでも、政治家自らが、国民の声を聞きながら、それに応える形で予算案を組み、それを議会で政党を超え、議員同士で議論して議決することであろう。

◯環境問題、特に地球温暖化・気候変動と生物多様性の消滅という事態の進行を止めることに日本国として世界に具体的に貢献できる政策を、公式に決定すること

 具体的には、温室効果ガス排出規制、化石エネルギーの全面廃止から自然エネルギーへの全面転換の実現方法。未来永劫にわたって人間による安全管理という負荷をかけ続ける原発の全面廃止と廃棄物処理の仕方の決定、農業分野における農薬や化学肥料の使用をやめ、有機農業へと全面転換する方法の決定、等々であろう。

今後、地球温暖化が進む中で、また生物多様性の消滅という事態が進む中で、次々と現れてくるであろう国民的免疫のない新手のウイルスや細菌類によるパンデミックを生じさせない、国家としての根本的な対策を考え出し、それを公式の政策とすること

 はっきり言えば、そのためには、この国はもはやグローバル資本主義経済という仕組みと考え方を止めることであろう。それは、本質的に経済の成長を飽くなきまでに追求するシステムなだけに、どういう理由を設けようとも、エネルギと資源の使用と浪費は果てしなく続き、同時に格差や分断も深まるしかないからである。

 だからもはやこれまでの資本主義を止めて、真の意味で、国民誰一人取り残さない、経済と教育と福祉の国、そして同時に真に持続可能な国とすることであろう。

◯既存の「災害救助法」を廃止して、近い将来起こりうる大災害に向けての、被災者に対するハード面とソフト面の両者を統合的に対処する全く新しい被災者救済と自立支援の法をつくること

 阪神淡路大震災時(1995年1月)でも、東日本大震災時(2011年3月)でも、そしてその直後起こった東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融による水素大爆発時でも、あるいは西日本豪雨災害時(2018年6月)でも、九州北部豪雨災害時(2019年8月)でも、被災者が速やかに救助されなかったり、自立が困難となったりして、中には救済が遅々として進まないことから絶望のあまり自殺するといった痛ましい出来事が続き、多くの人が国家によって救われないままの事態が続いてきたのも、既述した、この国が国家にはなっていないことと合わせて、その時適用しうる法律が何と75年以上前にできて、その後ほとんど改正されないままできた「災害救助法」しかなかったことである。

それらの大災害は、その時点では、いずれも前例にない大災害であったのだから、既存の法律や法体系では対処できないことは明らかだったのに、その後、部分的改正しかされてこなかった「災害救助法」しかなかったからである。

 こうなるのも、ほとんどの責任は立法機関である国会の政治家の怠慢と無関心と無責任と官僚への依存心にあると言い切れるのである。

 だから、今度こそ、国会の政治家は、これまでの経緯を反省しながら、そして国民も、そうした法律の制定を促しながら、上に表記した法律を、今度は国会の議員だけで、専門家の協力を得て、新しくつくるのである。

◯大都市から地方への人口移転による、「都市および集落の三種の原則」を実現するための政策を公式に決定し、それを実行に移すこと

 これを実行する目的は大きく言って3つある。

1つは、2050年までに発生確率70〜80%で来るとされるマグニチュード8〜9クラスの南海トラフ巨大地震による犠牲者を最小限に抑えるため

1つは、現状の極端なまでの人口の大都市への集中と、地方、特に農村や山村での極端なまでの人口減少ないしは過疎化を解消し、国全体の均衡のとれた発展を目指すため

1つは、またそのことを通じて、特に大都市での人々の暮らしと産業が排出する物質(排ガス、排熱、汚水、ゴミ、有毒物質)の絶対量を減らし、環境への過負荷を解消し、生態系を蘇生させるため

◯ 政治家あるいは文民による二重三重にシビリアン・コントロールの利く仕組みを中央政府内に創ること

 国としての安全保障に関わる問題や大惨事が生じたとき、また、国内が食糧危機、エネルギー危機、あるいは飢餓等々によって政情不安となった時にも、かつての「5.15事件」や「2.26事件」あるいはクーデターを生じさせないようにするためには、文民が最後まで確実に軍人(制服組)を統制ができるようにするために、普段から二重三重のシビリアン・コントロールの仕組みを設けておくことが必要であるからだ。

 もちろん、安全保障に関わる問題や大惨事が生じたときだけではなく、平素から、軍隊(自衛隊)を動かす上では、シビリアン・コントロールを確実にしておくことは重要なのである。

 実際、この国は、「2.26事件」をきっかけに、政治家は軍部の独断専行をコントロールできなくなり、日中戦争国際連盟脱退、三国同盟締結、真珠湾攻撃と東南アジアへの侵略開始によるアジア・太平洋戦争への突入、広島と長崎への原爆投下、ソ連軍の侵略による北方四島の喪失、ポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏へと行ってしまったのだからだ。

◯真にこの国を支えられると同時に、世界の平和と安定に貢献でき、世界に通用する人材を育成するために、現行の中央集権的教育行政を行う文部科学省を廃止して、教育の地域化を図る政策を実現すること

 そうすることが必要と私が考える主な理由は以下の通りである。

1つは、現行の文科省では、世界共通の価値、すなわち人権・環境・平和の価値や、人類普遍の価値とされる自由・民主主義をきちんと教えられないからである。したがって、世界をリードできる国際感覚や創造性などとても身につけられないこと。

1つは、現行の文科省では、官僚たちの統治上の不安解消のために、教育の画一化にこだわるあまり、児童生徒一人ひとりの個性や能力を育てられないどころか、かえって大量に殺してしまっているからである。それに、現行の文科省では、理解力や思考力また創造力を身につけさせるのではなく、自然と交わらせることもなく、自国の歴史も正しく教えずに、伝統の文化の価値をも理解させず、断片的知識を詰め込ませるだけで、児童生徒の精神を見えない力で抑圧しているからだ。そしてそれは、彼らに無意識なりとも、社会への敵意や憎しみの気持ちを植え付けてしまうと推測されるからだ。

1つは、したがって、児童生徒は、自分が育った地域の歴史も文化も風土も知らないままで大きくなってしまうために、一層、正しい自己認識やアイデンティティを持てなくさせてしまうから。つまりその後の人生において、根無し草の生き方をさせてしまうことになる。そうなれば、郷土愛や祖国愛など持てるようになるはずもないからだ。

◯看護師、医者、介護士、保育士の大幅拡充と待遇の大改善

 前述の「教育の地域化」を通じて良き教師も育ってくると思われるのであるが、ここでは、そうした教師の育成と並行して、看護師、医者、介護士、保育士をより数多く育てるのである。それも質を向上させながら、同時に待遇も大幅に改善しながらである。

私は、社会構成員の中で、彼らこそ最高の待遇を受けてもいいのではないか、彼らにはそれだけの資格があるし、また社会もそうした待遇を与えるべきではないか、と思う。

 このことは日本の社会に何をもたらすか。

直接的には、看護師数の圧倒的不足の解消と介護士の圧倒的不足の解消である。

間接的には、人間の権利と尊厳が何よりも大切にされる社会の実現である。

 

 今列挙してきたような問題の解決に向けて、国会の全政治家が、日本国民に“未来世代のために、しばしの重荷に耐えよう”と説得しながら、自らも政党や派閥を超え、また利害をこえて対処することこそが、今この国に求められていると考えられるのに、これまでのこの国の政治家は、「国民の利益代表」でありながら、目先の自身の保身、すなわち次期選挙での当選ないしは再選にこだわるあまり、そこから逃げてきたのだ。

逃げながら、国民とこの国にとっての優先順位から見たらはるかに順位の低い、というより時間があったなら取り上げればいいといった程度の事柄ばかりを取り上げては、かけがえのない時間を失ってきたのだ。

 それでは、この国全体は、ますます危機的状況を深めることにしかならないし、また実際に危機に直面した際には彼ら議会の政治家は対応の仕方も判らずに、政府は政府でただうろたえるだけで、危機を一層深め、無意味な犠牲者を一層出してしまうようになるのだ。