LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その3

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快晴に南アルプスを望む



本投稿は3部で構成されています。

今回の記事は、前回のものに続く第3段になります。

 

 

2.2 なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか——————その3

辞めさせるべき第5の理由の詳述

 第3、第4の理由は特に議会の政治家についてのものあったが、ここでは政府の政治家についての「辞めさせるべき」理由である。

4つある。

 その4つの理由とは、いずれも一番最初に明らかにした「政治家という政治家を一旦はやめさせる理由」に底通するものであるが、その内の最初の2つは、政府の政治家として特に最も重要と私には思われることを知らないようだからであり、次の2つは、民主主義政治のあり方を原則に立てば判断がつきそうなことなのに、先輩諸氏がやってきたことをやってきた通りにやっていればいいと思っているだけのようだから、相変わらずそれに気づかずに政治を行っているつもりになっているように見えるからだ。

 最初の2つのうちの1つは、政府というのは、中央政府であれ地方政府であれ、あくまでも執行機関であって、立法機関ではない、ということをである。したがって、政府で議論し、決めること、決められることは、立法機関である国会や地方議会が議決した法律・条例あるいは政策や予算を引き受けて、それを最大効率をもって執行する方法についてである、ということだ。

そしてそれを議論して議決する場が「閣議」であるということだ。

 言い換えれば、政府ないしは内閣の使命と役割は、「三権分立」の原則に立って、法律案や条例案————予算案をも含む————を自分たちで作って議会に提出することではない、ということだ。

 これを知らないことだ。

 もう1つは、執行機関としての役割を果たす際には、政治家は官僚ないしは役人を支配し、統制し、管理し、監督し、操縦しなくてはならない、すなわち統括またはコントロールし、統治体制を整え、この国を本物の国家としなくてはならないということ。

つまり、この社会の構成分子である全ての個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持って、この国の社会を統合しなくてはならない、ということ。

 だから、政治家が逆に官僚にコントロールされるなどということは断じてあってはならないわけで、それであったら主従が逆転してしまって、民主主義議会政治の仕組みが壊れてしまうからだ。

 残りの2つの理由のうちの1つは、国会を含む議会には予算案を提出できる権限はなく、その権限が与えられているのは内閣ないしは地方自治体の長にだけである、という矛盾に気づかずに、それを相変わらず続けていることについてである。

 そしてそのことについては、後述するように、現行の憲法あるいは法律に盛り込まれているようではあるが、だとしても、その条文は民主主義を実現する上で不適切として、変更されるべきだと私は考えるのである。

2つ目は、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」として、今なおそれを当たり前のようにして継続しているからである。

 以上4つの理由のうち、初めの2つについては、すでに述べてきたことだから、もはや説明の必要はないであろう。

そこで、後半の2つについてのみ、その意味を以下に説明する。

 第1の疑問点の行政府が予算案を作ることについて。

日本国憲法第73条の5項と地方自治法の211条第1項と112条第1項に拠れば、国会を含む議会には予算案を提出できる権限はない。権限が与えられているのは内閣にであり、地方公共団体の長にだけである。

 このことを杓子定規に受け取ってのことであろう、これまで、政治家は、議会で、自分たちが掲げて来た公約の実現に向けての立法化または政策化のための論議はもちろん、その公約を実現するに必要な予算案を自分たちで議論し、定めてくるということも一度もして来なかった。

 しかし、私見であるが、国会を含む議会が、政治家各自が掲げる公約が支持されて選ばれて来た国民の代表が集っている場であることを考えれば、その各政治家が掲げる公約を実現することこそが政治家の最も大切な使命であることを考えれば、その公約を実現する上で必要となる予算を決められる権限は当の政治家自身に与えられていなくてはならないのではないか、と考えるのである。

それは言い換えれば、予算を作成し、国民が納めたお金である税金の使途を決めることができる権限は、国会であり、地方議会にこそなくてはならない、ということになるのである。執行府である政府にではなく、である。

 

これまでのように、政府がつくった予算について、それを議会はただ質問し、承認するだけということでは、それはあくまでも議会が追認したということであって、それでは国会も地方議会も、国民の利益を実現する代表としての役割を十全に果たしていることにはならない。

ましてやこの国では、政府が予算を組む場合、閣僚や首長が事前に主権者の要求を十分に聞き、それを満たす形で官僚や役人に指示し、コントロールしているわけではなく、むしろ反対に、既述のように、閣僚や首長はただ官僚や役人から「報告」を受け、彼らに追随する、役人の操り人形でしかないからだ。またそのようなことだから、官僚や役人は自分たちの所属府省庁や部あるいは課の既得権の確保拡大のために必要以上に予算を水増しするから、この国の財政は、天井知らずに「政府債務残高」を膨らませ、対GDP比で、世界最悪の借金を抱えてしまうことになるのだ。

 

 そして2番目の「衆議院の解散権は首相の専権事項である」について。

 これまで、この国では、衆議院の解散権は首相の専権事項だとされて来た。そしてそれに対して、この国の政治家は、与野党を通して、誰も異議を申し立てもしなければ反論もしない。何の疑問も感じていない風なのだ。

 では、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」とする法的な根拠は一体どこにあるのだろう。

 当然それは、あるとすれば、事の重大さから憲法に明記されていなくてはならないはずのものだ。

ところが、日本国憲法第四章の「国会」に当たる部分のどこを見てもそれらしきの条文は見当たらない。

 そこで「衆議院の解散権は首相の専権事項である」とする根拠を国会や内閣の法制局に問い合わせてみると、どうやら、その根拠は同憲法の第7条と第69条にあると言う。

その第7条は天皇の国事行為について明記している条文であって、こうある。「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う。」

ところがその3項目に「衆議院を解散すること」とあるに過ぎない。

では憲法の69条はどうか。それは「内閣不信任決議の効果」に関するもので、具体的にはこうある。「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、または信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されないかぎり、総辞職をしなくてはならない。」

 一体これら2つの条文内容から、どう解釈すれば、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」とする根拠が見出せるというのか。

私には、これは、憲法には「衆議院の解散権は首相の専権事項である」と明確に記されていないことをいいことにして、吉田茂時代から、従来の政権がご都合主義的に解釈してきただけに過ぎないと思える。そしてそうした態度は、憲法が定める正規の改憲手続きを踏まずに、勝手に解釈の仕方を従来のものとは変えだけで憲法を変えたことにしてしまう、自国憲法を虚仮にする態度と同じとも見えるのである。

 なお以上は、あくまでも表面上において言えることであるが、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」というのは、民主主義政治理論上からもおかしい、あってはならないことであるということが次のように言えるのである。

それは、国会は国民の代表が集まるところであり、立法する機関であるからして最高権力を有する。「なぜなら、他人に対して法を定めることができる者は、その他人に対して必ず優越していなければならないからである。そして立法府が社会の立法府であるのは、ただそれが社会のあらゆる部分、すべての成員に対して、彼らの行為に対する規則を定め、それを執行する権力を与えるというように、それは、法を作る権利を持っていることにのみ拠るのである」とジョン・ロックが言うように(ジョン・ロック「市民政府論」岩波文庫p.152)、執行する権力を有する政府はあくまでも国会に由来する機関なのである。

 このことから、政府の有する行政権は、当然ながら、立法権を有する国会の権力よりも低位の権力でしかない。その国会よりも低位の権力でしかない政府、そして内閣の長である首相も政府の一員であることを踏まえると、その長たる首相が、国権の最高機関である国会を構成する衆議院を解散させることができるなどということは、上記の論理から成り立つはずはないのである。

 結局こうなるのも、元を質せば、この国の政治家という政治家は、民主政治を行う上では絶対に知っていなくてはならない政治的基本諸概念のすべてを体系的に一式揃って理解し得ていなければまともな政治などできるはずはないということを知らないからだ、と私は断定できる。

 もう、こうした、戦車を特車と言いくるめ、撤退を転戦と言いくるめ、全滅を玉砕と美化し、解釈をねじ曲げるだけで改憲成立としてしまうような、事実を事実として受け止めようとはせずに、実態をあえて歪曲するようなごまかしは止めようではないか。人間として潔くなく、あまりにも見っともない。

 ともかく、こうしたいわばデタラメがいかにも尤もらしく通ってしまうというのも、近代民主主義議会政治とは何か、どのように進められるべきか、ということを先哲が残した原典に当たって勉強していないからだ、と私は確信する。

 

辞めさせるべき第6の理由の詳述

 第1の点について。

 彼らは、特に国会議員、次いで都道県議会議員は、世の中がどんなに不況でも、また一般国民がどんなに苦境にあえいでいる時でも、そんなこととは関係なく、途方もない金額の議員報酬を毎年、毎月、確実に享受し続けているのである。

 国会議員は、与野党を含めて、享受している議員報酬、議員特権、議員特典の全てを金銭表示すると、実におよそ2億円となる。これ全て、私たちの納めた税金から出ているのである————ただし、共産党国会議員だけは政党助成金およそ4500万円は受け取っていないから、その分だけ少ない————。

 とにかくあまりにも厚顔無恥と思うのは、すでに度々言及してきたように、国会議員は、誰一人国会の場で立法などしておらず、ただ、せいぜい「質問」しているだけなのに————質問すらしない者の方が大部分を占める————、毎年、一人当たり、共通に、780万円もの「立法事務費」を受け取っているのだ。立法事務費とは、文字通り、自らが国会にて法律を作るための調査検討を含む準備金のはず。

 公約を掲げて当選してしまえばその公約を反故にしてしまうというのが国民に対する裏切り行為であるとすれば、立法事務費を受け取っていながら立法をしないというのは国民に対する詐欺行為であり、税金横領だ。しかもこうした行為が、毎年、全国会議員によって常習的に行われているのだ。

 ところが、こうしたことを公然と問題とする国会議員は一人もいない。もちろん、自分には受け取る資格はないからと、国庫に返納する者も一人もいない。

 よく「政治資金規正法違反」事件がメディアで取り上げられるが、この問題はそれどころではない。

 国民の代表である者がこうした姿を晒すのも、多分、“赤信号、みんなで渡れば怖くない”の心境、あるいは“臭いものには蓋をしろ”の心境がそうさせるのだろう。

 そして驚くべきことは、一方ではこうした自国民への背信行為三昧を繰り返しながら、他方では、彼らは、世界の議会制民主主義国共通の「三権分立」の原則をも平気で破っては行政府の人間を議会に招き入れては、立法ならぬ、“あれはどうなっているのか”とか“総理に伺います”といった倫理や正義や秩序を問う質問を繰り返しては時間を浪費していることだ。

 一体、どうしたら人間が、一人の人間として、精神が分裂したこうした行為ができるのであろう。どういう神経を持っていたら、以上述べて来たような言動に対して、人間としての良心の呵責、罪意識、罪悪感、というものを感じないでいられるのだろうか。

それはもはや、思考停止どころか、事の善悪、理非の判断力といったものが完全に麻痺した状態としか言いようがない。

 「代表」たる者が約束事を次々と平気で破るこうした行為が、どれほど自国民の道徳心や倫理観を劣化させ、そして自国民の母国への誇りを失わせてしまうか、それも彼らには判断も想像もできないようだ。

特にこれからの日本を背負って立って行ってもらわねばならない若者たちや子供たちにもたらす害悪、悪影響を考えれば、並の刑法に抵触する犯罪のレベルと規模を遥かに凌ぐ、私に言わせれば、国を崩壊に導くもので、極刑に値する言動なのだ。

 

 第2の点について。

ただしこの国会議員の数の問題は、これまで述べてきた5つの理由の本質性や、根拠の重要度に比べたらはるかに低いものである。

 「政党に対して数を稼ぐ一員として存在しているだけ」の国会議員の存在を考慮してもなお、この国の現行の国会議員の数が衆参両議院合わせて総数は722名(2016年現在?)というのは多すぎる。そのことは例えばこう考えるだけでも容易に判る。

 日本の国土の25倍、人口は三倍近くもあるアメリでは、連邦議会を構成する上下両院の議員総数は535名である。それでもアメリカは、世界に冠たる民主主義政治を維持できているのだ。

また加盟28カ国の代表からなるEU議会(欧州連合議会)の議員数は751人。彼らは人口およそ4億人の代表だ。

さらには世界最大の民主主義国インドでは、その下院議員の数は545人。彼らは人口13億人の代表だ。

 そこでもし、アメリカ、EUそしてインドそれぞれの人口に対する議員数の比率を日本に当てはめたなら日本の国会議員数は何人となるかを計算すると、次のようになる。

 アメリカとの関係で見ると、日本の国会議員数は214名で十分ということになる。つまり、508名も多い。

EUとの関係で見ると、日本の国会議員は226名で充分となり、497人も多い、となる。

インドとの関係で見ると、インドの場合判っているのは下院だけであるが、上院もほぼ同数と仮定すると、日本は90名で充分となる。そうなれば、630名も多いということになるのである。

 つまり、これから判るように、この国では「一票の重み」が「憲法違反の状態」になっていないかとか、だったら、その対処策として、“定員を○増△減にしたり合区にする”等々といったことがいかにもまことしやかに話題となるが、そんなこと以前の問題だということだ。

 実際、選挙のたびに、とくに自民党などの多数党あるいは大政党に典型的に見られる現象であるが、これまで政治の世界とはまったく無縁で生きて来たTV界のタレントや芸能人あるいはスポーツ選手などを公認候補としたり、あるいは当選した後に公認としたりするが、これなど

、ただ単に自党の頭数を確保できればそれでいいとする態度であって、民主主義政治を虚仮にしている態度の何ものでもない。

 それに国会議員の数が多すぎるという問題と関連させて、この国における二世、三世さらには四世議員の問題もここで考えなくてはいけないと私は思う。

特に問題と感じられるのは、特に自民党に多い三世議員と四世議員の場合だ。

彼らの先代は、そのほとんどが、アジア・太平洋戦争を体験してきた人、というよりはその戦争を遂行してきた側の人間であろう。

それも、国民にそれまでの経緯は何も説明せずに中国をはじめ東南アジア諸国を侵略し、同時にアメリカにも戦争を仕掛けるような身の程もわきまえずに、狂気の沙汰とも言える侵略戦争を引き起こした軍部に言うべきことも言えないまま、「鬼畜米英」とか「一億総玉砕」とかと威勢のいいことを軍部と一緒になって叫びながら国民を戦場に駆り出して来た人たちだ。それも、明治憲法の下、天皇の臣民という意識の下に「国体」を絶対視して、政治家をして来た人たちである。

 そのことは何を意味するか。それだけに、先代は民主主義政治というものについては全くと言って知らない人たちだということである。

 またその先代は、敗戦となるや、それまでの言動をコロっと変え、自分たちがそれまで、アジアの同胞に何をして来たかについては、公式には一切語らず、また反省もせず、生きながらえてきた人たちだ。

しかも、A級とされた戦争犯罪者の裁きを極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判に任せるだけで、自分たちの間では正義を明らかにする裁判もしなければ、戦争についての総括も検証もしないで済ませて来た人たちなのだ。当然、彼らは国民に謝罪もしてはいない。

 そして、敗戦となるや、日本の主権をさっさとアメリカに譲渡し、アメリカの保護下に置かれることに恥も自責の念も感じずに国民に向き合っても来た人たちだ。

 今日の特に三世および四世議員は、そうした人たちを祖父として、あるいは曾祖父として持つ人たちであって、彼らは幼児期から“政治とはこういうものだ”、“国家あってこその国民なのだ”などと薫陶を受けて来ている人たちであろう。

 “三つ子の魂百までも”という言い伝えを思い返すとき、例えば安倍晋三にしてもそうであるが、彼の祖父は岸信介で、明らかにアジア・太平洋戦争を商工大臣として遂行して来た人物だが、そんな先代を持つ彼は、まともな民主主義精神に基づいた政治をきちんと身につけることなど土台無理なのではないか、と私は思わざるを得ない。なぜなら、幼少期から祖父に可愛がられ、祖父の膝下で叩き込まれた政治姿勢は頭の芯にまで深く刻み込まれてしまっているだろうから、たとえ今は民主主義の時代とは判っていても、幼少期から、特に尊敬するおじいちゃんから吹き込まれた記憶は拭い去りようもなく、どうしても、ことあるごとに蘇って来るのではないかと思うからだ。

安倍晋三憲法改定に異常なまでに拘るのも、結局は、祖父岸信介が果たし得なかった悲願を自分が果たそうとしている現れなのではないか。

 こう考えれば、民主主義政治にとって、安倍晋三のような人物————吉田茂を祖父にもつ麻生太郎ももちろんそうだが————、そのような人物は、日本の国と国民、そしてその未来にとってはかえって危険な存在にならざるを得ないのではないか。

 そうでなくても、後述するように(第3章)、すでに世界は、したがって日本も、人類の死活がかかった環境問題・気候変動問題そして生物多様性問題が主たる政治課題とならざるを得ないと考えられる新しい時代に突入してしまっている。その新時代とは、三世そして四世議員の先代たちの信奉した天皇制どころか、民主主義すらも超えなくては人類はもはや生き続けられない時代なのだから、と私は考えるのである。

 とにかく、この国は、現行選挙制度を根本的に変えて、本物の政治家と入れ替えながら、国会を含めて議会という議会が政治家の数を今よりも例えば5分の一以下に縮小したなら、何とか「持続可能な国」になりうるのではないだろうか。

その時は、真の主権者となった国民の要求が速やかに政治に反映され、議会は小回りが利き、政府も機動力を増し、今後起こりうる様々な事態に迅速果敢に対応しうる国となるのではないか、と私には期待されるからである。

 

 さて、これまでは「なぜ今、この国の中央と地方の全政治家を一旦は辞めさせる必要があるか」という主旨の下に記述してきたが、本節を閉じるにあたって、最後に、以上述べて来たような儀式あるいは茶番劇あるいは「議会ごっこ」を相変わらず国会を含む議会という議会で続ける政治家たちに対して、たとえば、国会での答弁書を作文している役人たちはそんな政治家たちをどう見ているだろうか。それをここで紹介しておこう。

 これはある官僚とその上司との間で実際に交わされた会話である。

『国会なんてそんなもんさ。(政治家たちをして、)法案作成能力に欠けた立法者のままにしておく方が、官僚がいつまでも法律をつくるという最大の権力を握っていられて好都合なのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律をつくることを任せられると思うのか。そんなことをしたら日本はつぶれる。程度の悪い議員でも、いちおう国民に選ばれた人たちだから、形だけでも、尊敬の念を表わすことにしている。』(宮本政於「お役所の掟」講談社 p.28)。