LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.3 そもそも政治家とは何か、役人とは何か、そして両者のあるべき関係とは何か——————その1

 

2.3 そもそも政治家とは何か、役人とは何か、そして両者のあるべき関係とは何か——————その1

 

読者の皆さんには、この国の政治家という政治家がどれほどそれぞれ自己に甘え、自分たちの本来の役割と使命を知ろうともせず、したがってそれを知るための勉強もせず、選挙公約など放り出して、国民を裏切っているか、それは前節でその一端はお判りいただけたかと思う。

ではそれに対して役人(官僚を含む)については、その実態はどんな状態なのか。

それは、一言で言ってしまえば、役人は、一見「公僕」のごとくに振舞ってはいるが、政治家がそんないい加減な状態であることをいいことにして、実際にはまことに傲慢で冷酷な態度で国民に向き合っているのだ。その一端は後の2.5節にて明らかになるだろう

そこで、ここでは改めて表題に掲げている問いについて考えてみようと思う。

なぜそのような問いを発するか。それは、私たち国民は、主権者として、あるいは本物の市民となるためには、政治家についても役人についても、是非とも知っておかねばならないことがあるからだ。

本来なら、政治家と役人については、またその両者のあるべき関係については、日本政府のかつての文部省と今の文科省が、日本国民のすべてに対して、義務教育の段階で、自由や民主主義そして政治や国家という概念を明確に理解させながら、それと並行して教えるべきことなのだ。なぜなら、本来、政府の役割は、国家の代理者として、国家の最大目的である国民の生命と自由と財産を、民主主義を守る中で、最優先に守ることこそが使命だし(H.J.ラスキ「国家」p.8)、一方、国民こそが主権者だからだ。主権者、これは私たち国民にとっては極めて重要な政治的概念なので幾度でも繰り返すが、主権者とは、国家としての政治のあり方を最終的に決めることができる権利を所持している者のことだ(広辞苑)。国家としての政治のあり方を最終的に決められるためには、少なくとも、私たち主権者にとっては、政治家とは何か、役人とは何か、そして両者のあるべき関係とは何かということはどうしても正確に知って理解しておくことが必要なことだからである。曖昧ではダメなのだ————今日、ますます混迷の度合いを深めている、本物の先進国とは異なる日本固有の最大の理由は、まさにこの政治家とは何か、役人とは何か、そして両者のあるべき関係とは何かということを私たちは主権者でありながら、主権者としての自覚もなく、曖昧にしてきた結果だと私は考えるのである————。

しかし文部省と文科省の官僚は後述する理由により、国民にそのことを正確に教え理解させることを敢えてして来なかった(10.1節、7.1節、5.2節)。というよりもむしろそうすることを彼らは避けてきた。それは、彼らにとってはそれを教えることは不都合なことだからだ、と私は確信する。そしてそのことは、政府文部省・文科省の官僚が日本の近代の正確な歴史を学校できちんと教えてこなかった理由とも符合する、とも思う。

前節でもそうであったが、ここでも参考にした主な文献は以下のとおりである。

 

ジョン・ロック「市民政府論」岩波文庫

 H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書

 K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社

      同上   「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社

 ケルゼン「デモクラシーの本質と価値」岩波文庫

 広辞苑(第六版)

 社会科学事典 新日本出版社

 山崎広明編「もういちど読む政治経済」山川出版社

 

 

さて、表題の問いに対する答えとはどのようなものか、そしてそれは何を根拠にしたら見出せるのだろうか。もちろんこの場合、見出そうとする答えとは、近代という時代における、民主主義の実現した国、または、今まさに民主主義の国の実現を目指している国における政治家と役人、そしてその両者の関係についての答えである。

そこで、その答えは、次の二段階の過程を経ることで可能となるのではないか、と私は考えるのである。

その第一段階とは、人間の歴史の中で、政治家という立場がどのような動機の下で、どのようにして誕生してきたか、つまり政治家誕生の経緯に立ち戻ることによって、であろうと。そしてその場合、政治家とは何かということの本質、すなわち政治家の最も重要な役割と使命がはっきりするであろう、と。

そしてまた、そのことが明らかになれば、政治家の誕生と同時に必然的に誕生したと考えられる役人についても、その本質的な役割と使命ははっきりするであろう、と私は考えるのである。

とはいえ、まだその段階では、人々の政治的意識の発達程度はまだまだ未発達であったために、政治家についても、また役人についても、具体的に何をしなくてはならないか、つまり為すべきことは何か、またその一方、何をしてはならないか、つまりやってはならないことについては明確ではなかった。

そのため、それが明らかになるのには、古代ギリシャソクラテスに始まる西欧の知的伝統の中で、西欧近世に登場した啓蒙思想とその思想に導かれた思想家ないしは哲学者たちの出現を待つよりなかった。ここに啓蒙思想とは、君主に至上の権力を付与することで成り立っていた絶対主義の持つ弊害をことごとく打破する目的で近代の黎明期において登場してきた革新的な思想のことである。

その代表的な思想家とは、例えばジョン・ロック、ルソー、モンテスキューである。

そこで第二の段階としては、その彼らが民主主義政治というものを西ヨーロッパに実現させるために、何をどのように考えていたかを明らかにすることである。

そこでは、彼らは、人が自然状態にあった時から集住して社会や国家を結んだ過程を振り返りながら、共通に、そうした人々には国家や社会が必要だったのだと説き、しかもその国家や社会は個人相互の契約により成り立つものであるとして社会契約説を説いているのである。

例えばジョン・ロックについてみれば、自然状態から始まって、戦争状態、奴隷、所有権、父権から始まって、政治の成り立ち、政治社会すなわち市民社会、政府の目的、国家、立法権、国家の諸権力の従属関係等々、国家を成り立たせる政治のあり方の全般を理論的に明確にしている。その中では当然、政治家と役人の役割と使命、そして相互の関係についても、それぞれ、こうでなくてはならない姿と、こうであってはならない姿とが明快に示されてもいるのである。

 

そこで、先の第一段階についてである。

初め自然状態にあった私たちの遠い祖先は、ある時から集住して、「社会」という共同体を結んだのである。それもみんなで同意の上で、である。

そのとき、その社会を構成するすべての人々は、その社会のすべての規則を自分たちで決めることのできる力、すなわち全権力を互いに等しく持つことにしたのである。

ここに、「社会でのすべての決め事をする際の体制のあり方」としての「民主主義」、すなわち「デモ・クラシー」が誕生するのである。デモは人民、クラシーは権力、つまり、「権力はつねに人民が持つ」という考え方に基づく政治体制のことである。

しかし、そのうちに、その社会に集住すれば自分たちの「生命と自由と財産」はより安全に守れると判ると、人々はいっそう集まり、その数は増えて行った。ところが、その社会が大きくなるにつれて、互いに対等の全権力を持って集まってはその社会の決め事をスムーズに決めるということが難しくなった。

そこで、やはりみんなが同意の上で、自分たちの代表になるにふさわしい人物を代表として選んで、その代表に、自分たちに代わって自分たちの社会の決め事をしてもらうことにした。

ここに、全権力を所持している人々から選ばれた、その人々の代表としての「政治家」が誕生するのである。

そしてその時、つまり社会に集住した人々が、自分たちの代表としての政治家を選ぶその時に、彼らは、それまで互いに対等に所持していた全権力のうちの一部をその政治家に負託したのである。付託したその権力とは、自分たちの多くが願い望んでいることを、自分たちに代わって、公式に決めることのできる力であり、また、決めたそれらを実際に形として現出させうる力である。

こうして、政治家の政治家としての最も重要な役割と使命が明確になり、確定したのである。

その最も重要な役割と使命とは、以上の政治家誕生の経緯からももはや明らかなように、大きく言って二種類に分けられる。

一つは、社会に集まる人々が最も多く、また最も強く望んでいることが可能となり実現できるように、物事を決めることである。そしてそれを決める場こそが議会となるのである。

これを今様の日本に当てはめてみれば、この議会の中には、国会も、地方の議会も、全て含まれる。

もう一つは、議会が決めた物事を、決めた通りに、主権者全ての人々の目にも判るような形にして、あるいは人々が納得できる形にして実現してみせることであり、また、その実現したモノやコトを維持することである。

そしてそれをやり遂げてみせる機関こそが政府なのだ。

ここでも、この政府を今様の日本についてみれば、この政府の中には、国の中央政府も地方政府も含まれる。

中央政府とは中枢に内閣を有し、その内閣の指示のもとに動く府省庁から成る。地方政府とは、規模の大きい順に言うと、都庁、道庁、府庁、県庁、そして市役所、町役場、村役場のことである。

とはいえ、それらの政府について言えば、政治家はあくまでも代表という立場であるから、その人数はそれぞれの社会共同体の住人の総数からすれば圧倒的に少ない。それに、もともと、主権者である人々は彼ら政治家には、政治家が自分で体を動かして議会の政治家が決めたことを実現して見せてくれるところまでは期待してはいないのだ。彼ら代表はあくまでも、判断力や知識や決断力を期待され、人格を信頼されて選ばれた人たちだからだ。

こうして、議会の政治家が議会で決めた物事を、その社会の人々みんなの目にも判るような形にして、あるいは人々が納得できる形にして実現してみせるには、そのことに専門的に従事する人々の集団が必要となったのである。そしてその役割と使命を担うとされた存在が役人だった。

このことから明らかなように、彼ら役人は最初から、その位置付けは「公僕」だった。それは、その社会を構成する主権者である人々の望んでいることや願っていることを、その人々の代わりに、代表として議会で公式に決めたことを決めた通りに実現してみせてくれる人々、という意味においてである。

 

なお、先に、二種類に分けられた政治家の政治家としての最も重要な役割と使命というものを今様の世界の民主主義国についてみるならば、それは共通に次のように説明できる。

議会における政治家については、選挙の時に有権者の前に掲げた国民との約束(公約)を議会にて果たすことである。

なぜなら、彼らは、それぞれが掲げた公約が支持された結果、政治家になれたのだからだ。

そして議会は、議会における各政治家にとっては、その公約を公式の政策として実現して見せる唯一の場なのだ。

一方、政府における政治家については、先に述べた理由により、政治家自身が体を動かすわけではないから、彼等政治家が、そこに集まる役人らを統括し、指図して、議会が決めたことを決めた通りに執行させ、実現させてみせることなのである。つまり、政府の政治家の場合、議会が決めたことを、決めた通りに、配下の役人をコントロールして確実に執行させるということが決定的に重要なことなのである。

この場合、政府の政治家とは、議院内閣制を執るこの日本の場合には、国の中央政府では特に内閣と呼ばれる政府の中枢を構成する総理大臣以下閣僚たちのことであり、地方政府では、所謂首長と呼ばれる知事、市長、町長、村長のことである。

なおここで、本筋から逸れるが、しかしこの国と私たち国民にとっては極めて重要なことなので、あえてここで次のことを強調しようと思う。

それは、要点を先に言えば、この国の政府の政治家は、この彼らとしての決定的に大切な役割と使命をほとんど果たしてはいないということである。

それは、中央政府の総理大臣や閣僚、そして地方政府の首長らに共通に言えることだ。

なぜそうなるか。結論は、彼らは、というより日本の政治家という政治家は、ジョン・ロック、ルソー、モンテスキューらが確立した民主主義政治とはいかなるものか、その中での政治家の役割、役人の役割とはいかなるものか、勉強もしていないために、知らないからであろう。さらにそこに、自己への甘えと無責任さが加わっているからなのであろう。

だから政治家は、官僚や役人に依存し、また彼らに追随していて平気なのだ。

だから、役人が提案してくる政策案や法律案を「当たり前」のようにして追認している。

役人をコントロールしなくてはという気配など微塵も感じられない。

政治家とは、特に政府の政治家とは、そうではなく、配下の全部署の全ての官僚や役人を「公僕」としてコントロールしながら、国権の最高機関である国会の政治家が、あるいは地方公共団体の最高機関である地方議会の政治家が、彼ら同士でそれぞれの公約を議論して定めた政策・事業・予算・法律等をその通りに執行させることなのだ。そしてそうであってこそ、この国は、明治期以来の官僚独裁を止めさせられるようになるし、真の民主主義の国、真の国家を実現しうるのである。

言い換えれば、それは、これまで幾たびも問題とされながらも、ついぞ解決し得ないで来た大問題である、例えば次のような悪弊をたちまち解消できるようになる、ということを意味するのである。

官僚は国会が定める政策や法律を執行すればいいだけとなるから、官僚が自分たちの所属部署に好都合な政策や法律を国会で通したいがために設ける「審議会」を無意味させられること。この国の不要不急あるいは無意味な「公共」事業を止めさせることが出来るようになること。国の特別会計を公正で透明なものにさせられること。と言うより、圧倒的に無意味とも思われる「公益」法人を廃止にすることが出来るようになること。そして官僚の「天下り」をもなくすことができるようになること、等。

結果として、官僚や役人に税金の巨大な無駄遣いをやめさせることもできるようになり、これまで官僚依存・役人依存の政治家が掛け声ばかりで実行する勇気も覚悟もなかった「財政の健全化」もたちまち実現できるようになり、むしろ国民のお金は、ようやく、本当に必要な人やところに、回せるようになるのである。

 

以上のことからも判る通り、私たち国民は、民主主義の国と社会では、上記2種類の役割と使命を負い、またそれを果たさねばならない義務と責任を負っているのは唯一、政治家だけだということは片時も忘れてはならないことなのだ。

それと、ではなぜ彼ら政治家だけがそれをできるのか、というその理由をも一緒に理解しておくことも是非とも必要なのだ。それは、本節の冒頭で、人間社会の成立の歴史の中で政治家がどのようにして誕生してきたかを確認したことからも明らかなように、私たち国民が、もともと全権力を有する主権者として、そうしたことができるだけの権力を彼ら政治家だけに付託しているからである。そしてそんな権力を私たち国民が政治家に与えたのは、それも本節の冒頭に記したことから明らかなように、選挙の際、私たちが自分の一票をその政治家に投じた時なのだ、ということも決して忘れてはならないのだ。つまり、選挙とは、単に一票を投じるだけではない。私たち国民が主権者として有する権力の一部を、自分が選んだ相手に託す行為でもあるのだ。

それだけに、それを与えられた政治家らはその付託された権力を正当に行使して、その役割と使命を国民の前に果たして見せねばならないのである。

なお、ここでいう権力とは、他人を押さえつけ、支配する力のことだ広辞苑

しかし、政治家には、どんなに果たさねばならない役割と使命があるとは言っても、これだけはしてはならないというものがある。つまり政治家にとっての禁止事項である。

それについても、議会における政治家の禁止事項政府における政治家のそれとでは異なる。

まずは議会における政治家について。

1つ。公約に掲げたこと以外の決め事をすること。そして、そのために主権者から付託された権力を行使すること。

考えてもみよう。もし一旦当選して政治家になってしまえば、どんな政策でも、どんな予算でも、どんな法律でも議会で議決でき、制定できるとなったら、世の中や私たちの暮らしは一体どういうことになるのだろうか、と。

そうなったら公約にはなかったことはもちろん、私たち有権者の大多数が反対している政策や制度————その中には税制や、徴兵制や、国民への監視制度等も含まれる————が法律の裏付けをもって制定されてしまうことにもなりかねない。あるいは憲法や一般法律を勝手に解釈の仕方を変えるだけで、その中身を変更したことにさせられてしまう、ということさえあり得ることになる————実際、特に安倍晋三政権はそれも幾度もしているのだ!————。あるいは勝手に自分たち政治家だけを利する制度だってつくることができる、ということにもなってしまう————実際、国会議員は、一般社会人とはかけ離れて、しかも政治家としての既述した最も重要な役割と使命など実質的に何も果たしていないのに、全てを税金換算すれば、とんでもない額の議員報酬を享受しうる制度をいつの間にか設けているのだ!————。

そうなっては正に専制政治だ。

とにかく、立法するということは、その法律によって全国民を等しく押さえつけ、支配するということであるからして最大の権力の行使になるのである。このことは、私たち国民は絶対に忘れてはならないことである。私たち国民は、主権者ではあるが同時に被統治者でもあるわけで、「他人をおさえつけ、支配する力」に服従を強いられることにもなる立場なのだ。

果してそんな権力を、一国の主権者である私たち国民が、当選したからといって、白紙で、あるいは無条件で当選者に与えることなどあり得ようか。一票を投ずる行為の中にそこまでの合意を含めて投票することなどあり得ようか。

絶対にあり得ない!

こうして、主権者が政治家に付託している権力は、つねに条件つきのものだということが判る。実はこれは、私たち国民が政治と政治家に関して考えるときには絶対に忘れてはならない決定的に大事なことなのだ。

それゆえ、ジョン・ロックもこう主張するのである。

ある目的を達成するために(国民から)信託された一切の権力は、その目的によって制限されており、もしその目的が明らかに無視され違反された場合にはいつでも、信任は必然的に剥奪されねばならず、この権力は再びこれを与えた者(国民)の手に戻され、その者(国民)はこれを新たに自己の安全無事のために最も適当と信ずる者に与え得る。p.151

権力の根拠は、その権力によって服従を強制される人々の同意である、とされるのは正にこうした理由に拠るのである(H.J.ラスキ「国家」p.9)

ともかく、政治家になったから、あるいはなれたからといって、議会にて、無条件に何でも議決できる、定められるということでは決してない。それは、その政治家が、選挙時に自らが有権者の前に掲げた公約が支持され、それをなんとか実現してもらいたいと切望されたからこそ政治家になれたのだという、政治家と成り得た原点を考えれば直ちに判る。

したがって、自ら掲げた公約を実現させるためではない他の目的のために主権者から付託された権力を行使するのは、どのような理由をつけようとも、その行為は国民に対する裏切り行為であり、権力の濫用以外の何ものでもなくなる。

この権力の濫用というのはとりわけ重大な意味を持っていることなので、さらに補充しておく。

政治家によるその権力の濫用という行為は、メディアなどでよくニュースになる通常の犯罪という行為とは、それが及ぼす影響の広さといい、時間的長さといい、それの意味する深刻さは桁違いに違うのである。ここで言う通常の犯罪とは、たとえば窃盗、詐欺、暴力行為、恐喝、あるいは場合によっては止むに止められない事情による殺人、等のことである。

なぜなら、これらの犯罪は普通、社会に影響を及ぼすとしても、その影響の及ぶ地理的範囲も時間的長さも限定的である。ところが、政治家による権力の濫用という行為は、また権力の濫用という国民への裏切りによる立法は、その法制化を望まない国民・住民を含めた圧倒的に多くの国民の生活と生き方を、その法が撤廃されるまで拘束力をもって強制し、乱し続けることになるからである。それだけではない。その権力の濫用という行為は、濫用された権力によって作られた法律や条例を通じて国民や住民には不本意な思いをさせながら長期にわたって拘束し、その結果、人々の道徳観をも著しく低下させ、政治と政治家への信頼をもますます失わせ、社会の秩序をも大きく乱すことになるからだ。

その意味で、負託されてもいない権力の濫用という暴挙に出る者は国を乱す者という意味で間違いなく国賊であるし、今日の日本という国が不十分ながらも国家として採用している議会制民主主義体制という、天皇制の明治期とは本質的に異なる意味での「国体」に真っ向から反逆する者でもある。

したがってそのような者は、ジョン・ロックおよびイエーリング流に言えば、元々全権力を所持していて、国家の政治のあり方を最終的に決める権利である主権を所持する国民にとっては、直ちにその国賊ないしは国体反逆者から政治的全権力を剥奪することがそれを裏付ける法の有無にかかわらずに「許される」だけではなく、むしろ共同体である国家・社会の平和と安定を維持するためには、主権者として、権力を濫用した者の政治的全権力を剥奪することが「自身のみならず国家・社会に対する義務」にさえなるのである。そしてその場合、国賊ないしは国体反逆者には国民は極刑を科すこともできるのだ。

たとえば、外国でも、それも民主主義国で、在任中に権力を濫用した大統領が、次の選挙で大統領の地位を失った瞬間に新たに当選した大統領によって逮捕され、投獄される、あるいは処刑される、ということがよくあるのもそのためだ、と私は推測する———尤も、それを科せられるためにはそのための法律が存在していなくてはならないが、前節で述べて来たような現行の政治家では、そのような法律をつくれるはずもない。そうでなくても、自己に甘くて、「身を切る改革」とは言っても実質2億円近くの税金による特権を享受していながらそれを隠して口先だけでしかなく、それを断行する覚悟もなければ、立法そのものもほとんど官僚任せだからだ———。

繰り返すが、権力の濫用がもたらす罪は、たとえ「誰でもよかった」と言って殺人を犯す罪と比べても、比較にもならないほど重いのだ。

以上のことからも判るように、権力というものが成立する根拠は、つねに、その権力によって服従を強制される人々の合意にある。そして人々が権力行使に合意するということは、同時に、政治家が付託された権力を行使して議決した政策なり法律なりによって自分たちが統治され、また拘束されることにも合意していることでもある。

再度確認するが、政治家が選挙時に自らが有権者の前に掲げた公約を実現すること、そしてそのためにこそ付託された権力を行使すること、そのこと以外のことには主権者は一切合意してはいないのである。

そしてこのことは、主権者である国民はもちろん、政治家になろうとする者もなった者も、片時も忘れてはならないことなのだ。

 

ところで、政治家は、当選したならば、自分の掲げた公約を出来るだけ早く実現させなくてはならない義務と責任が国民に対してあるが、それだけではどうしても済まない場合がある。

それは、社会的経済的状況等が選挙運動中には予想もできなかったこと、それも国民の多くの生命と自由と財産の安全に関わる前例のない大惨事が当選後に生じたような場合である。

例えば阪神淡路大震災や、オウム真理教によるサリンばらまき事件、東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所メルトダウンとその後の水素大爆発事故によって大量の死の灰がばらまかれた時などが該当する。

このような事態は、それまでにはなかった事態であるがゆえに、既往の法体系では被災者を速やかに救済できないし、十分な対応ができないことは明らかだ。そのような場合には、政治家は国民の生命と自由と財産を最優先に守ることを使命とした国民の代表である以上、政治家たちは緊急に臨時議会を開催してでも、その前代未聞の事態に対応できる新法を制定しなくてはならない。あるいは既存の法律を目の前の事態に対応しうるよう大至急修正する必要がある。そうしなければ、被害にあった人々、被災した人々を一刻も早く救済できないからだ。あるいは立ち直ってもらうことができないからだ。それに、政治家がそうすることは自分を選んでくれた国民への義務でもある。とにかく、通常国会だけが議会ではないし、定例議会だけが議会ではないのだ————実はこうしたことも、憲法上に明記される必要がある、と私は考える————。

問題はその時である。

政治家は誰もそのような事態が起こるなど想定もせずに政治家になっている。したがって、誰も公約にも掲げてなどいなかったであろう。

ではそのような場合、政治家は何をどのように進めてゆかなくてはならないか。

私は、第1には、主権者である被災者の最新の現状を、関係するそれぞれの政治家が自らの足で速やかに、かつ、つぶさに視察し、被害者や被災者の困っていることや望んでいることを生の声で聴き取り、集めることことであろう、と思う。

第2には、その切実なる声に基づいて、その要求を満たすにはどのような法律を制定すべきかを政治家一人一人が早急に考えることであろう。

その際、政治家は、新法を作るということは、権力を行使するということであることを絶対に忘れてはならない。と同時に、権力の行使は、それを行使することで拘束されることになる人々の合意に基づくものでなくてはならないということも、である。

そこで、第3に、各政治家は、自分が描く新法の概要を国民に明快に説明し、合意を求めることだ。

その合意を得られたのなら、第4に、被災者の声に応えられる政策なり対応策を提案してもらえそうな専門家を、役所の役人を動かして、早急に全国から透明性を維持しながら探すことである。すなわち、役人が役人に好都合な専門家だけを集めては、役人が彼らを任命するようなことは政治家として絶対にさせないよう、コントロールすることである。

つねに、公平で客観的な基準に基づいて人選させることである。

そのためには、日頃から、政治家が議会で、そうした人選基準を入念に作っておくことである。

第5は、早急に議会を開催するのであるが、その際、集められた専門家を議会に招聘し、彼らから助言を受けながら、彼らの知見を謙虚に聞き、新事態に対応し得る新法を議会の議員同士で議論し、立法することである。

なおその時、行政府の人間を議会に呼ぶ必要も介在させる必要もない。議会は議会で、「三権分立」の原則のもとで、議会としての役割と使命を果たせばいいのである。

第6は、議会が議決した新法なり新政策を受けて、行政府の政治家は、配下の関係部署の全役人を指揮し統率して、議会が議決した通りに、速やかに、最大の効率を持って執行するのである。

 

もしこのような手順を踏まねばならないとした時、政治家の中に、「その都度そのように動くのは面倒くさい」とか「いちいちそんな面倒な手続きは踏んではいられない」などと言うような者がいたなら、そのような者は、政治家になろうなどとは最初から思わなければいいのである。立候補しなければいいのである。

そのような者は、国民の生命と自由と財産をいつでも最優先に守るのが国家の使命であり、その国家の使命を代理で勤めるのが政府(役所)であり、その政府に執行させるべき法律なり政策をつくるのが議会の本来の、そして最も大切な使命なのだという基本的なことも知らないということを証明しているのであって、元々政治家になる資格すらないのだからだ。

議会における政治家の禁止事項の2つ目。

それは、政治家になる時に国民から負託された権力を役人に委譲すること。

前記の、公約に掲げたこと以外の決め事をすること、またそのために主権者から付託された権力を行使することはもちろんのことであるが、その他に、付託された権力を政府の役人に委譲することも、また、委譲しては役人に法律案や政策案や予算案を作らせることもしてはならないのである。

さらには、政府側の者を三権分立の政治原則を破って議会に招き入れては、役人に作らせた法律案や政策案や予算案について政府側の者に質問(代表質問、一般質問)することも、断じてやってはならない。ましてや議会の政治家が役人が作った法律や政策を追認することなど、断じて許されないことだ。

なぜなら、それは、その政治家自身が、彼に権力を託した国民を裏切り、民主主義を裏切り、官僚独裁政治を自らの手で助長することでしかないからだ。

 

次に政府の政治家についての禁止事項である。

1つ。議会における政治家と同じように、自分たちが、法律案や政策案や予算案等の決め事をすること。

この国では、政策についても、制度を設けることについても、よく「閣議決定した」ということがメディアで当たり前のように報道される————その意味で、NHKを含む全てのメディアも、民主主義政治原則など、全く無関心で、考えてもいないということだ————。そしてそのことについて、専門家であるはずの政治学者や憲法学者の誰も異議を申し立てない————その意味で、彼らは一体、日頃、現状の何を観察して研究しているのだろうか、と思う————。その結果、国民の間では、それだけで、あたかも法律として定まったかのようにみなされてしまい、実際、それだけで内閣は執行してしまったりする。

しかしながらそれは、政府の政治家が民主主義政治制度を無視する最大の過ちを犯していることなのだ。つまり、政府あるいは行政府はあくまでも執行機関なのだから、それも、議会という立法機関が議決して公式となったものをその議決した通りに執行して見せることを主たる役割と使命とする機関なのだから、当然のことながらそうした決め事をしてはならないのだからだ。

むしろそうした政策や制度や事業や法律を定めるというような行為は、三権、すなわち議会は立法権を担い、政府(内閣)は執行権を担い、裁判所は司法権を担うという分立の原則を踏みにじる、許されざる越権行為なのだ。そしてその越権行為は独裁政治と言ってもいいものだ。

独裁とは「行政府が重要な政策を立法府の審議に委ねずに、閣議決定だけで実行してしまう政体のことで、行政府への権力の集中のこと」だからである(内田樹(たつる)赤旗日曜版2014.3.16付)。

このように政府はとにかく決め事をしてはならないのだから、例えば、憲法が定める手順を無視しながら勝手な解釈を持ち込んでは憲法を改訂したことにしてしまうことを議論しては閣議決定することも、また、憲法に違反する法律(特定秘密保護法や、いわゆる戦争法など)を議論しては閣議決定することも、さらには赤字国債なり建設国債を発行して補正予算を組むことを議論しては閣議決定することなども、原則上できないことなのだ。

それは、そこで取り上げている内容が憲法を無視しているからとか、違反していることだからとか、民意を無視していることだからとか言う以前の話なのである。とにかくそうしたことは原則的に執行機関である政府ができることではないし、また、してはならないのだ。そうしたことを議論でき、議決できるのは国会あるいは議会だけだからだ。

それは、現行日本国憲法が明記している「国会は国の唯一の立法機関である」(第41条)との条文をちゃんと読めば、自明なのである。そして、それがゆえに「国会は、国権の最高機関である」のだ。

その理由を、ジョン・ロックはこう説く。「立法府は必ず最高でなければならぬ」、「何故なら他人に対して法を定めることができるものは、その者に対して必ず優越していなければならぬからである」、「そうして社会のどの成員ないし部分のであれ、およそ一切の他の権力は、それから由来し、それに従属しなければならぬ。」(P.152)

こうして、政府(内閣)ができることは、またやらねばならぬ最も重要な役割と使命とは、あくまでも議会が定めたことを、議会が決めたとおりに執行することであることが理論的にも確定する。したがって、内閣が「議論」でき、「閣議決定」できるのは、議会が決めた政策・制度・事業・予算・法律等をいかに効率よく、素早く、最少の資源と財源をもって、最大の効果を上げ得るか、その方法について議論することであり、その結果を決定できることだけなのだ。

ところで、これまで、私は、国会を含む議会が予算を決められる、としてきた。

それについては、読者の皆さんは違和感を感じてきたのではないだろうか。

と言うのは、これまで、日本国憲法第73条の5項と地方自治法の211条第1項と112条第1項に拠れば、国会を含む議会には予算案を提出できる権限はない、権限が与えられているのは内閣にであり、地方公共団体の長にだけである、とされてきているからである。

このことを杓子定規に受け取ってのことなのであろうか、これまで、この国の政治家という政治家は、国会から地方議会に至るまで、2.2節でも述べてきたように、議会で、自分たちが掲げて来た公約の実現に向けての立法化または政策化ということは全くしてこなかっただけではなく、あるいはそれだからこそなのかも知れないが、政治家は、それぞれ自身の公約を実現するのに必要な予算案を、同じく議会で自分たちどうしで議論して定めてくるということもして来たためしはない。

しかし、私見であるが、国会を含む議会こそが、立候補時にそれぞれが掲げる公約が主権者に支持されて選ばれた国民の代表が集っている場であることを考えれば、日本が国家として、あるいは地方公共団体として、為すべき重要政策の実現に必要な予算を決めることのできる権限はもちろんのこと、各政治家が掲げる公約を実現する上で必要となる予算を組む権限も、やはり国会と地方議会に与えられていなくてはならないのではないか、と私は考えるのである。

そうでなくては、政治制度全体の理屈に合わないからだ。

言い換えれば、執行府である政府にではなく、議会にこそ国民が納めたお金である税金の使途を決めることができる権限が独自に与えられるべきなのではないか、と。

なぜなら、政治家は、掲げるその自らの公約が国民の支持を受け、その結果なれたのだ。

ということは、自らの公約を実現するために予算を組むことも、またそのために権力を行使することも、国民からその公約を支持された際には、同時に合意されていたはずだからだ。

ところが、現状は、どうしたことか、既述の通り、日本国憲法第73条の5項と地方自治法の211条第1項と112条第1項だけが議会でも政府においてもまかり通ってしまっているのである。

そしてそのことは、却って、議会制民主主義に反することであるし、またそれこそ既述の意味での独裁を助長してしまうことでもある。国民の代表でもない者が、またそうした者の恣意と都合で国民のお金の使途を、たとえそれが「案」であるとしても、決められるなどということは、もともと主権者は合意もしていなければ、許してもいないはずなのだ。またそんなことを政治家という政治家が許していたなら、いつまでたっても、国民のお金が国民のために使われないままになってしまうのだからだ。

それに、これまでのように、国会や地方議会の政治家は、政府がつくった予算案を議会でただ質問し、最終的には承認してしまうということをしていたのでは、国会も地方議会も、国民の要求や利益を実現する代表としての役割を十全に果たせる訳はないのである。ましてや政府が予算を組む場合、閣僚や首長が主権者の代表として、主権者の要望をきめ細かく汲み取り、それに基づいて官僚や役人にそれを実現するような予算を組むことを指示し、コントロールしているわけではないからなおさらだ。それどころか実態はむしろ反対で、そしてこれも既述したように、ただ官僚から、それも事実上野放しにされた彼等がそれぞれ自分の所属する府省庁や所属部署の既得権益の拡大および維持のためにつくった案についての「報告」を受けてはそれを了として彼らに追随する役人の操り人形でしかなくなっているのだからだ。

またそのようなことだから、この国の財政は、中央政府も地方政府も、天井知らずに「政府債務残高」を膨らませ、2020年末現在、対GDP比では2.4倍もの、世界最悪の借金を抱えてしまうことになっているのだ、と私などは確信するのである。

2つ。臨機の命令を発すること、不明瞭あるいは曖昧な決定をすること、恣意放縦な決定をすることも禁止だ。

いかに政府は執行機関であるとは言っても、発する命令や指示や決定は、つねに、確定し公布された法に拠ってなされなくてはならないからだ。例えば通達や行政指導がそれに当たる。

 

なお、議会の政治家であれ、政府の政治家であれ、共通に、してはならないその他のこととしては、例えば次のようなものもある。

脱税をすること。政治家の「私」と「公」の立場を混同した行動をすること。誰かの個人的頼みを受けて、私企業や公的機関などに口利きすること。地域や学校の行事に顔を出したり、支持者の冠婚葬祭に祝電や弔電を送ったりすること、等々である。

以上のことからも判るように、私たち国民は、国家の政治のあり方を最終的に決める権利を持つ者として、どんな場合にも、どういう権力が、いつ、どこで、どのような段階で、あるいはどのような場面で、誰によってどのように行使されたかを、つねに細心の注意を払って監視し、チェックし続けなくてはならないのである。そしてそのことは政治ジャーナリストには一段と強く求められるのである。そしてそれも、私たち国民一人ひとりの、自身と国への義務と責任でもある。

 

以上は政治家に関することであったが、では役人についてはどうか。

そこで、まずは、役人が役人としてなすべきこと、役人としての最大の使命と役割とは何か、についてである。それは次のように表現できる。

政府の政治家のコントロールの下で、議会の政治家が議会で決めたことを、決めたとおりに、迅速かつ的確に執行し、最大の効果を上げること。

その意味で、彼らはあくまでも国民のシモベ、つまり公僕なのだ。国民の代表ではない。それは現行の日本国憲法でも「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記されているとおりである(第15条第2項)。したがって彼らが国を動かすことはあり得ないし、また動かしてもならない。それに、全権力を有する国民からそんな資格も与えられてはいない。

「全体の奉仕者」、つまり国民全体に対する奉仕者とは、政府の政治家のコントロールの下に議会の政治家たちが議会で議決して定めた法律(条例)あるいは公式の政策を、議決した内容どおりに執行し実現させる人々ということなのである。なぜなら、政治家は、ひとたび当選して政治家となったならば、それは「代表の原理」に基づき、一選挙区の代表ではなく国民全体の代表となっているのであるが(山崎広明編「もういちど読む山川政治経済」山川出版社p.12)、その国民全体の代表たちが決めたことを役人が所属する機関のトップのコントロールの下に、議会が決めたとおりに執行することはすなわち国民のすべてに奉仕することでもあるからだ。

ここで言う政府の政治家とは、既述した通りで、中央政府においては内閣を構成する総理大臣であり各府省庁の大臣である。地方政府では知事や市長、町長、村長といった首長のことである。つまり、いずれも主権者から選挙で選ばれた人たちである。

 一方、役人が決してしてはならないことについては、次のように言える。

最も重要なことは、権力、すなわち、他人を押さえつけ、従わせ、支配する力を、陰に陽に、あるいは公式非公式に行使することである。

ただし、公式に行使できる場合がただ一つだけある。それは政府の政治家の指示あるいは統括の下で、つまりコントロールの下で、しかも規定の定まった法律の下に、議会の政治家が議会で決めたことを、決めたとおりに、迅速かつ的確に執行し、最大の効果を上げることを目的として、そのためだけに権力を行使する場合である。そしてそれこそが、世界中の民主主義国が尊重している「法の支配」ということだ。

その他の場合には、いかなる場合にも、役人が権力を行使することは許されない。そのことは、現行日本国憲法はどの条文を見ても、役人には権力を与えてはいないし、権力の行使を認めてもいないことからも判る。

官僚や役人が審議会や各種の委員会を立ち上げることも許されない。委員を恣意的に人選しては実質的に任命して審議会や各種の委員会を立ち上げることはもちろん、そこの委員を自分たちの思う通りに取り仕切ることもまぎれもない権力の行使なのだからだ。

にもかかわらず権力を行使したなら、その場合も、政治家の場合と同様に国賊となる。もちろんそのような者は直ちに、無条件に罷免されるべきだし、実際、罷免するのは主権者である国民固有の権利でもある(日本国憲法第15条の第1項)

なお、これらは全て役人には許されない行為であるが、役人を公僕として国民の代理としてコントロールしなくてはならない所轄大臣がそうした役人の一連の行為を見て見ぬ振りをして放任することも許されない。それはその政治家自身が、自分を選んでくれた国民の信頼を裏切り、国を裏切り、役人独裁を助長し、民主主義の実現を遠ざけていることだからだ。

役人が決してしてはならないもう一つのことは、所属する政府の首長や首相に忖度することであり、おもねることである。特に人事権を振り回す政治家に同様の態度をとること。

もちろん、その場合、その政治家についても、国民の代表として正当かつ公正に役人をコントロールする力もないのに、ただ人事権を最大限に悪用して、役人組織のトップを威圧あるいは威嚇したり、自分や自分が固めている取り巻きに対して少しでも批判的な態度を示す者を徹底的に排除したりするという仕方で人心を操っては自分の地位を保とうとする政治家であり政治を私物化する者として、国民に代わって、あらゆる他の政治家から容赦なく批判や非難されるべきなのだ。

とにかくこうして判るように、役人一般に求められる能力は行政能力なのだ。政策立案能力ではない。

議会が決めたそれを執行する上で、執行機関の中枢である内閣を構成する総理大臣と各府省庁の大臣が合議で決定した執行「方法」に基づき、総理大臣の統括指揮の下、各府省庁の大臣のコントロールの下で正確かつ迅速に執行する能力なのである。

なおその際、その執行はすべて主権者である国民の納めた税金を用いて行うわけであって、役人のポケットマネーでするのではないのだから、執行に関わった全ての時間の過ごし方については、すべて公文書として正確に記録され保存されねばならない。参加した会議や調査の経緯についてはもちろんである。

それ自身がこの国の歴史的記録となるし、後々の貴重な参考資料にもなるからだ。

ところがこの国では、過去、公務員による公式記録は少なすぎるのである。それは、公務員が「お上」と呼ばれた頃からのことで、自分たちの行動の記録は残す必要はないとしていたからであろうし、また失敗は記録として残したくないという気持ちが働いていたからであろう。というより、自分たちは天皇のシモベであって、自分たちのすることに過ちなどあろうはずはないという傲慢さもあったからであろう。とにかく、国民に対する態度は、明治期以来、「知らしめるべからず、依らしめよ」だったのだ。

そんな意識が当たり前できた彼ら役人にしてみれば、戦後の民主主義の時代になっても、公文書を自分たちに好都合なように改ざんしたり、不都合とみればそれを破棄したりするなど、苦でもなかったろう。それに、国民あるいはその代表である政治家から開示を求められたとき、一部分あるいは全体を黒塗りにして提示するなどということもさして苦でもなかったろう。

それは先輩がしてきたことを、彼らがして来たように、ただ自分たちもしているだけだ、といった程度の感覚なのではないだろうか。

しかしそうであったとしても、役人がそうした態度をとり続けるのは、つまるところ、国民の代表である政治家が国民の代表としての役割を果たさずに、したがって役人を公僕としてきちんとコントロールせず、むしろ役人に依存し、追随しさえして来たからだ。

この私の見方は、政治家と役人とのこれまでの関係を見て来て、決して大きくは間違ってはいないはずだ、と思う。

とにかく政治家が役人たちに軽く見られ、軽くあしらわれているのだ。そして政治家たちも、そうされても仕方がない接し方を役人らにして来たのだ。

 

ここで、以上において記してきた私の見解に対して、それを補強ないしは確認する意味で、近代民主主義政治を理論的に確立したジョン・ロックの、以上の内容に関連した主張を以下に転載しておこうと思う。

出典は「市民政府論」である。カッコ内の数字は、それが記述されているページである。

人は、(中略)、他人の恣意的権力に服従することは、あり得ないのである。(p.137)

絶対的恣意的な権力、あるいは定まった恒常的な法なしに支配することは、すべて、社会および政府の目的と両立しない。(p.140)

一切の政府の権力は、ただ社会の福祉のためにのみあるのだから、それは臨機の命令、不明瞭な決定、恣意放縦であるべきではなく、したがって確定し公布された法によって行使されねばならないのである。(p.141)

民衆が選任した立法権によって承認を得ていない者は、法としての効力拘束力を持つことができない。(p.135)

何人もただ民衆自身の同意に拠り、また民衆から与えられた権威による以外には、社会に対して法を作る権力を持つことはできない。(p.135)

またこのようにして制定された法に違反し、またその認めるところ以上に及ぶどんな義務をも民衆に課することはできない。(p.136)

立法府は、法を作る権力を他の者に譲渡することは出来ない。何故ならそれは人民から委任された権力に過ぎないのであるから、それを持っている者がさらに他の者に譲り渡すことはできないのである。(p.145)

社会の構成員は社会の公の意志以外のものに服従の義務を負ってはいない。(p.153)

 

以上で、政治家とは何か、役人とは何か、またその両者の関係はどうあるべきか、についての本質の説明は終る。

しかし、今日に至るこの国の政治と行政の実状をつぶさに観察すると、私たち国民は、主権者として、これまで述べて来た政治家とは何か、役人とは何か、そして両者のあるべき関係とは何かについての本質的なあり方を知っているというだけではとうてい足りない、と私は実感するのである。

それは、2.2節にて述べて来たとおり、政治家と役人のその惨憺たる状況、あまりにも低劣なる状況からもお判りいただけるのではないか、と思う。

そこで、次には、私たち国民は、政治家と役人についてこんなことも知っておかねばならないのではないかと私には思われることも、補足的に考えてみようと思う。

それらについては、続く「その2」で述べる。