LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.3 そもそも政治家とは何か、役人とは何か、そして両者のあるべき関係とは何か—————その2

2.3 そもそも政治家とは何か、役人とは何か、そして両者のあるべき関係とは何か—————その2

 

昨日、安倍首相が体調の悪化を原因に辞意を表明しました。これからの政権はどうなっていくのでしょうか。私たち一人ひとりに直結する問題です。
今、改めて私たちは「政治」について考える必要性に迫られているのではないでしょうか。

 

今回の記事は前回の記事に続くものです。
以下のリンクから飛んでいただけますので、まずは「その1」を読んでいただき、本記事に目を通していただければ幸いです。

 

itetsuo.hatenablog.com

 

 

 

 

それは、私たち国民は少なくとも次の5つの事柄についても十分に理解している必要がある、ということである。

その1つは、政治家の最大使命である「立法」に関することである。

2つ目は、政治家に国民から負託された権力の行使の仕方についてである。

3つ目は、政治家は絶えず「既存の全法律の見直し」の必要性がある、ということについてである。

4つ目は、「権力の濫用者と闇権力の行使者」を厳罰に処する法律の制定についてである。

そして5つ目は、「議論」ということについてである。

第1の立法に関して。

これについては、さらに細かく見れば、次の3つになると私は考える。

政治家は、自分たちこそが法律をつくる立場である、ということの意味についてである。

立法するにも、極力曖昧さを残さない条文にしなくてはならない、ということの意味についてである。

政治家が最優先で定めなくてはならないのは、主権者である国民の福祉のための政策であり予算であり法律だということについて。

そこで⑴についてである。

「法律は政治家がつくる」とはよく言われることだが、そこには、とくにこの国の政治家が日頃やっていること以上にはるかに重大な意味と使命があるのではないか、と私は考える。それは、たとえば司法、すなわち裁判は政治家がつくった法律に基づいてなされることを考えてみただけでも推測はつく。

いかに独立した機関でなくてはならないとされる裁判所でも、そこを仕事場とする裁判官や検察官や弁護士は、あくまでも既存の法律に基づいて審理を重ねるのであるし、判決についても、たとえ新しい解釈がなされるにしても、あくまでも既存の法律と既存の判例に基づいて下される。

このことから判るように、裁判官や検察官や弁護士でさえも、彼らが判断する規準を創ってみせなくてはならないのが政治家だということなのだ。

ということは、政治家は、公約を掲げる時にも、議会で活動するときにも、つねにそこまで考えて行動しなくてはならないということである。

そしてそのことは、これまでは見られなかった風潮や価値観あるいは人権意識が社会の中に新しく生まれて来たり、これまでは法の対象とはなり得なかった事象や社会的に忌避されて来たことが無視し得なくなって来たりした場合とか、あるいはまた、前代未聞の大災害が起って、これまでの法体系の中では対応しきれない事象が次々と生じて来たりした場合などにはとくに重要な意味を持つことになる。

たとえば、2011年の東日本大震災とその直後の東京電力福島第一原発メルトダウン大爆発事故というどちらも前例のない大災害・大事故によって被災された人々は既存の法律や法体系によって、速やかにちゃんと救済されたか、救済され終えただろうか。2020年に日本のみならず世界中がその恐怖に脅えた「新型コロナ・ウイルス」に因るパンデミックという、これまた戦後になって前例のない事態に対して、この国の既存の法律と法体系はその感染拡大を最小限に抑えるために役に立ち得ただろうか。また感染してしまった人々を最も速やかに救済し得ただろうか。また、現場の医療従事者に対しては、肉体的かつ精神的疲労とストレスを緩和して、持続可能な医療態勢づくりに既存の法体系は有効に働いただろうか。また、感染拡大の中、一人ひとりの行動自粛の掛け声の中で仕事を失い、経済的損失を被った人々を速やかに救済するのに、既存の法体系は有効に作用し得ただろうか。

残念ながらそれらの問いに対する答えは、いずれも明らかに「ノー!」だ。

もちろんそこには、日本は「国家」ではない、という統治体制上の不備も手伝っていたことは間違いない。

ところがそんな中、小池都知事(当時)は、既存の法律では決してそんな権力など行使できない「首都封鎖(ロック・ダウン)」を公然と口にしたのだ。しかもそれに対しては、私の知るかぎり、ほんのわずかの人を除いては、“そんな権力行使は今の法律ではできないのだ”とは誰も指摘も批判もしなかったのだ。

私はその時にも思ったものだ。やはりこの国の国会議員も都知事も政治ジャーナリストも、そして政治学者や法学者さえも、権力————他者を押さえつけ、支配する力のこと————の行使には法律の裏付けが不可欠なのだという、本物の民主主義国では当たり前の政治原則も知らないのだ、と。そして彼らはいずれも政治の専門家ということになってはいるが、国民一人ひとりに判断を委ねるような「要請」は統治では無いし、統治していることにもならない、という理解も認識もないのだ、と。であれば、もはやこの国には政府はないということなのだから、国中が大混乱に陥ってしまうのは当たり前ではないか、と。

要するにここには、既存の法律には新事態に対応しうる力はないのだから、それを新たに、それも緊急に立法すればいい、という発想を誰も持っていなかったことだ。奇妙なことに、国会議員にさえその発想はついぞ見られなかった。

つまり、ここには、立法は何のために、誰のためにするのか、ということがほとんど理解されていない政治家の姿がある。では緊急に臨時議会を開き————そのためには現行日本国憲法第53条を生かし————、そこに専門家を招聘しては彼らの助言を真摯に仰ぎ、自国民の生命・健康を守るために新たな法律を国会にて大至急つくり、それを政府に執行してもらおうという発想もないのだ。

これでは、今後、温暖化の激化や政治家の怠慢と無責任に因るツケが主原因で、ますます頻発するであろう前代未聞の事態に国民は救われないままとなってしまう。

このように、政治家は、同じく「法律」に関わる立場であるとは言っても、裁判官や検察官や弁護士の役割や使命とは全く質を異にするのである。後者の立場はあくまでも「現行法に則り、それに依拠しながら解釈し判断する」立場であるのに対して、前者の政治家は、既存の常識あるいは通念を弁えつつも、必要に応じてそれには囚われずに、敢然と「法を創造しなくてはならない」立場だからである。

だから政治家は、ただ漠然と公約を掲げればいいのではない。つねに時代の変化を読み、前例のない事態、想定外の事態が目の前に起った時には、被災者・被害者の「生命・自由・財産」を最優先に守る観点から、専門家や知識人の助言を真摯に受け止めながら、人々をもっとも速やかに、かつ最も適切に救済できる新法をもって国民の信託に応えられるよう、平時から哲学を学び、法学をも学んでいなくてはならないのだ。

⑵について。

一般論から行こう。

例えば、社会の規則や集団の規則そして組織の規則というものが、明文化されてはいても、その表現が曖昧であったならどういうことになるだろう。

憲法も法律も規則である。規則(ルール)というものは、その集団に属する誰にでも、いつでも、公平に適用されなくてはならないものである。また規則というものは、そこに表わされたところ以上に及ぶどんな義務を課してもならないものである。

と同時に、とくに憲法や法律という公的な規則は、人々の合意に基づくものでなくてはならない。

そのためには、どんな公的なルールも、臨機のものであってはならず、「定まった」もので、かつ「恒常的」なものでなくてはならない。そうでなくては、その規則に縛られる人は安心できないからである。そのためには、先ずは文章として表わされたものでなくてはならない。その場合も、それを読む者だれもが、極力、たった一通りにしか解釈できないような表現でなくてはならない。その意味でその文章は曖昧であってはならない。曖昧さを残した文章にすると、必ず恣意的な解釈を可能とさせてしまうからだ。とくにその規則を適用したり運用したりする者———それは執行権を所持する機関の者、すなわち政府の官僚———に、その時の気分や状況に左右された「思いつき」や「気紛れ」を差し挟ませてしまう危険性があるからである。それでは、それに縛られる人からしたら、「いつでも、誰もが、公平に扱われた」ということにはならない。

では国会議員に限らず地方議会の議員も、上記のような条件を満たした明解な法律そして明確な条文にするためにはどうしたらいいか。それは、執行機関の者を一切入れず、国民・住民の代表である議員どうしだけで、後述するような「議論」を尽くし、その上で議決し、議決した内容を正確に明文化すればいいのではないか、と私は考えるのである。

⑶の、政治家が最優先で定めなくてはならないのは、主権者である国民の福祉のための政策であり予算であり法律だということについて。

どうしてこれが政治家としての心得となるか。

それは、この国の戦後政治を見ると、国民の福祉の実現以前に、産業界、とくに大規模産業を優遇する政治が一貫して行われて来たという事実があるからだ。そしてそうなったのも、幾度も述べて来たが、この国の政治家という政治家が国民に対する本来の責務を一向に果たさず、「果てしなき経済発展」、「果てしなき工業生産力の発展」こそ国力を高める道との強迫観念を持つ官僚や役人に権力を委譲し、彼らに立法を放任して来た結果なのだ。その結果、彼ら官僚は、公僕でありながら、主権者である国民の幸福よりもつねに産業の発展、とりわけ大企業の発展を最優先にしてきた。またそれをすることにより、官僚は、自分たちの専管範囲である業界に「天下り」して、第二の人生の就職先としてありつけたからである。

しかし先の政治家の定義からも判るように、政治家はあくまでも主権者である国民から選挙にて選ばれた国民の唯一の政治的利益代表であって、企業という法人から選ばれた人ではないのである。

であるから、政治家が最優先で定めなくてはならないのは、主権者である国民の福祉のための政策であり予算であり法律なのである。たとえ政治家が、あるいは政党が、特定の産業界ないしは企業からいわゆる「政治献金」を受け取っていたとしても、国民以上に、あるいは国民よりも優先して、その産業界や企業を税制面その他の政治面で優遇することは決して許されない。

もしその原則に逆って政治家ないしは政党が議会でその産業界や企業を優遇する何かを決めたなら、その場合の政治献金は、政治資金規正法の中身がどうであろうと、また献金する側とそれを受け取る側がどのような弁明を並べようとも、実体は賄賂という性格を持つことになる。直接的であれ間接的であれ、「見返り」あるいは「便宜」を求めた金であることは明らかだからだ。

政治家が政治を行う上でつねに最上位に置かれ、最優先されるべきは主権者である国民なのである。国民の福祉を実現し、またそれを向上させることなのである。それが民主主義ということだし、またそれをすることが政治家の主権者への忠誠ということなのだ。

 

第2の政治家に国民から負託された権力の行使の仕方についてである。

政治家が選挙時に国民から負託された権力の行使の仕方には二つの意味があるということである。

一つは言うまでもなく、各政治家が掲げて来た公約を実現するために、議会でそのための立法をするという権力行使の仕方。もう一つは、自分たちが議会で決めた政策を、政府に執行させるという権力行使の仕方である。

とくに中央政府ではその中枢である内閣の各閣僚は、国会が定めた政策を自分の担当する府省庁の官僚(役人)を指揮し統率して、議会が決めた政策どおりに最速かつ最高度の効率をもって執行するよう権力を行使しなくてはならないということである。

つまり政治家、とくに総理大臣と閣僚は官僚たちの操り人形であっては断じてならないということである。

こうしたことが政治家に義務づけられ使命とされているのも、「権力は人民に由来し、権力は人民が行使する」(広辞苑第六版)という考えに基づく「デモ・クラシー(民主主義)」に拠るものだ。

 

第3の、「既存の全法律の見直し」の必要性ということについて。

このことを真剣に考えなくてはならない理由としては、少なくとも3つはある、と私は日頃考えている。

1つは、この国の法律は、第1の⑶とも関係しているが、明治期の官僚たちが作った「殖産興業」という国策以来の流れを汲む戦後の「果てしなき経済発展」なる暗黙の国策の下で、ほとんどが官僚によって作られてきたものであり、その内容もほとんどが国民の福祉の充実を目的とするというよりもつねに産業を優先するという考え方を基本としたものであるから、というものである。世界的には、「近代」という時代が終わったいま、そしてこれからはポスト近代として、《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を時代の支配原理としてゆかねば人類はもはや生きられないという時代にあって(第3章を参照)、産業優先の法体系は根本から見直されなくてはならないからだ。

もう1つは、この国の既存の法律には、法の実質的作者であり運用者でもある官僚の恣意をいつでも差し挟める表現があり過ぎるほどあり、それがそのままになっているから、というものである。

法の運用者が恣意を差し挟めるということは、国民は「法の下での平等」原則が守られないことを意味し、その法を安心して頼れないということを意味するのである。

そして3つ目は、もはや時代遅れの内容のものがいつまでもそのままになっているものがかなりあるから、というものである。

法が時代後れということは、人権が適性に守られないということを意味するのである。

こうしたことも、言ってみれば、国民の生命と自由と財産を最優先に守ることを使命とする政治家の怠慢がもたらしている事態なのだ。

たとえば第2の例として「検察庁法」について見てみよう。

この法律は、三権分立の原則に立つとき、立法権からも執行権からも独立していなくてはならない裁判の場における検察官のあり方に深い関わりを持つ法律だ。

そうでなくとも、この国では、検察官の権限が異常に強大なのだ。

検察官は、犯罪や不祥事の容疑者について、捜査するもしないも、逮捕するもしないも、尋問するもしないも、そして起訴するもしないも、自分一人で決めることができる権限(自由裁量権)を持っている(K.V.ウオルフレン「システム」p.112)

これも、この国の政治家の民主主義への無理解と官僚依存という怠慢がもたらしてしまっている事態なのである。

六法全書有斐閣)によると、この法律は全36条、わずか1ページそこそこの分量から成る法律であるが、そんなわずかな法律条文の中に、上記のような異常に強大な自由裁量権を持つ検察の行動について、「・・・・することができる。」という表現が何と11カ所もある。「・・・と必要と認めるときは、・・・・」という表現は2カ所もある。

「・・・することができる」とは、法律を運用する者のその時の気分によっては、「・・・しなくてもいい」ということでもある。「・・・と必要と認めるときは、・・・・」とは、同じく法律を運用する者がその時「・・・を必要と認めないときには、・・・」ということでもある。

つまり、両者とも、法の運用者から見れば、その時の気分ひとつでどっちも選べる、ということだ。

私たち国民はこのことの意味することの危うさ、不公平さ、不公正さをよく考えなくてはならない。これは国民にとって重大なことなのだ。

法を運用するのは官僚である。法に基づいて量刑し、求刑するのは検察官で、裁定を下すのは裁判所判事である。そして検察官も裁判官も、この国では法務省の統轄下にある。とは言っても、法務大臣は—————法務大臣に限らず、すべての府省庁の大臣がそうであるが————配下の官僚を国民に成り代わってコントロールするという本来の職務を果たさずに、むしろ配下の官僚に追随しているから、検察官も裁判官も実質的には法務省官僚の手の中にある、と言ってよい。

したがってこのような条文から成る法の下では、いかに犯罪者に弁護士が付いて、「法の支配」とか「法の下での平等」を主張しようとも、私たち国民は誰もが公平に扱われる保障はないのである。

第3の例としては、例えば「民法」が挙げられる。「災害救助法」が挙げられる。

そこでここでは具体例として、今後ますます必要となると考えられる「災害救助法」について具体的に見てみる。

たとえば東日本大震災において、被災した人が、被災後丸9年を経たというのに、未だ、仮設住宅から出られず、また故郷に還られずにいるということ、しかも中には将来に希望を見出せず心を病んでしまった人や絶望の余り自殺した人がいるということは、災害救助法とは銘打っていても、実質的には法として機能していないということなのだ。

ただ仮設住宅を建てるとか土地のかさ上げをするといったハード面で対処していればいいというものでは決してない。被災者同士の励まし合いや国民の被災者への激励に任せておけばいいというものでも断じてない。

むしろ係累のすべてを失い、持つ物もすべて失い、打ひしがれている被災者の心に寄り添い、再起できるまでの長い道のりを支援するソフト面の対処をも総合的に法律がカバーするようでなくてはならないはずだ。こうした対処を阻んでいるのも、やはり政府省庁間での官僚たちによる「縦割り」だ。

そしてその状態をずっと放置してきているのも、やはり担当閣僚を含む総理大臣や与党政治家たちなのだ。

とにかく、今こそ全政治家は、既存の法律のすべてを、その内容の適否、時代に相応しいものであるか否か、表現が明確でいつでも誰もが公平かつ公正に適用される法になっているのか否か、そして内容についても、何が許されて、何が許されないかが明瞭であるか、等々について全面的にチェックし、不要であればそれを廃棄し、また必要であれば表現を改めるべきなのだ。

なお、この作業は官僚に任せておいてはいけない。そういう問題法律を意図的につくって来たのは官僚だからだ。

 

第4の、権力の濫用者と非公式権力の行使者を厳罰に処する法律を制定する必要がある、ということについて。

そもそも非公式権力または闇権力とはK.V.ウオルフレ氏が用いた言葉であるが、両方とも、定まった法律に裏付けをもたない権力のことを言う。

したがってそうした権力を行使することは何人たりとも許されないのだ。もちろん主権者でありながら被統治者でもある国民はそれを許さない。実際、ジョン・ロックも、「一切の政府の権力は、(中略)恣意放縦であるべきではなく、したがって確定し公布された法律に拠って行使されねばならない。」、「臨機の命令、不明瞭な決定によるべきではない」とその代表作である著書に明記している(p.141)。

それは、既存の定まった法律に基づいて判断できるような行為であったなら、国民から訴えられた時、裁判所もそれに対処しうるのであるが、非公式権力ないしは闇権力を行使されたなら、国民として、裁判に訴えようもなく、どのような法的手段をもってしても対抗のしようがないからである。それでは、国民は主権者たり得ない。

なお、権力の濫用が国と国民に対してどれほど深刻で悪い影響をもたらすかということは既に述べてきたが、非公式権力の行使も権力の濫用の内に入るのである。

とくにこうした非公式権力を頻繁に行使するのは中央府省庁の官僚である(後述する2.5節参照)

たとえば行政指導通達がそれだ。政令省令もそれに含められる。あるいは既述して来たような、所属府省庁の既得権の維持や拡大を目論んだ法律を実現するために、自分たちの方針にお墨付きを出してくれる「専門家」を恣意的に人選しては審議会を設立するというのもそれに含まれる。また審議会を設立した後、そこに集められた専門家を実質的に自分たちの意図する方向に仕切る、というのも闇権力の行使に当たる。

こうした権力行使が国民の目の届かないところで行われ、国民の代表である政治家もそれを見て見ぬ振りをし、いつの間にか審議会の結論が内閣で閣議決定され、国会を通って公式の法律なり政策なりになってしまうということが、国と国民にとって、また民主主義にとってどれほど危険なことか、容易に理解できよう。それは、言ってみれば、官僚とその組織にこの国全体が乗っ取られたことを意味するのである。そしてそれを閣僚も総理大臣も許している、ということなのである。

権力の濫用と言い、闇権力の行使と言い、それらは、通常よくメディアが報道する類いの犯罪に比べて国民や産業界に比較にならないほどの悪影響をもたらす、と私が強調するのはそのためである。

その意味で、このような権力の行使をした者は、国の主権者としての国民の義務として、あるいは市民として、容赦なく断罪に処する必要がある。現行日本国憲法も、“公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である”とは謳ってはいるが(第15条の1項)、今のところ、その条文は全く生かされてはいない。生かす法律も未だない。それは当然であろう。実質的に立法権を丸投げされている官僚たちがそのような法律を作るはずはないからだ。

つまり、政治家こそがこの国を、明治期以来ずっと官僚独裁の国にして来たのだし、見せかけの民主主義の国にしてきたのだ。

 

最後の5つ目の「議論」についてである。

例えば、国会でやっていること、地方議会でやっていることは議論と言えるだろうか。議論の名に値するだろうか。

私は全く違う、と思う。NHKなどはよく「国会論戦」とか「国会討論」などと表現してみせるが、論戦や討論どころか議論にもなっていないと言える。

やっていることは、既述して来たように、儀式場での茶番劇でしかない。言いっぱなしだし、聞きっぱなしだ。そして全てがあらかじめ国会対策委員会という名の談合の場で決められたスケジュールのままに進行してゆくだけだ。

本来、国会を含めて議会は、「言論の府」と言われるように議論の場、論戦の場でなくてはならない。

では、本当の議論とはどういうことであろう。そしてなぜ議論が必要なのであろう。

以下に、これについて、改めて考えてみる。

議論とは、辞書的には、「互いに自分の説を述べ合い、論じ合うこと。意見を戦わせること」(広辞苑第六版)とあるが、こと政治分野に関しては、政治家にとってはもちろん、政治家のやっていることを見つめる私たち国民にとっても、その程度の説明ではとても不十分であると私は考える。

そこで、本来、議論とは何か、ということである。

それは、そこに参加する誰もが、先ずは互いに相手に敬意を払いながら、先入観や固定観念、前例や慣例、さらには社会通念に縛られずに、自身の想像力や洞察力を豊かにし、そして歴史や哲学からも真摯に学びながら、長期的な視点を持ち、相手の意表をつくような指摘をし合い、そこに参加する者たちの思考のレベルを高め、幅を広げてゆけるような、きわめて柔軟かつ創造的で建設的なやりとりのことである。論戦も、読んで字のごとく、互いの持論を戦わせることで、議論とさほど違いはない。

だから、議論では、互いに持論を言いっ放しにするのではなく、また最初から結論ありきとするのでもなく、とにかく相手の言い分に理があると認められるときにはそれを謙虚に受け入れる心の用意を維持することも重要となる。

議論のための議論や、判り切ったことを尤もらしく語り合ったり、形だけのことをするだけだったら時間の無駄である。

では、なぜ議論をするのか。

もともと、政治家は、その一人ひとりが、国民(住民)全体の代表なのではなく、主権者ではあるが異なる主張や要望を持つ一定の集団を代表しているに過ぎない。

したがって、政党あるいは会派とは、国民(住民)の中のある部分の代表に過ぎないし、ある意見やある要求を共通に持った部分としての集団を代表しているに過ぎないのである。

議会とは、そうした全体の中の部分を代表した人々が集う場なのである。それだけに議会とは、各政治家が、自分が背負う一部の人々から託された要求であると同時に自らも支持者に約束した政策案(公約)を実現するために、多数の賛同が得られるように論理を組み立て、誠意を尽くしながら、また時には妥協点を捜しながら、他の政治家と前述した意味での議論をしては彼らを説得して、自分の訴えるところが公式に認められるように全力を尽くす場なのだ。

それだけに議論というものは、その性格上、つねにオープン、すなわち公開の中で進められねばならない。

ではこの国の議会では、国会を含めて、こうした意味での議論を、こうした目的を持って行っているか。

それは、これまで再三述べて来たように、全くの「ノー!」だ。

そもそもそうさせてしまう最大の原因がいわゆる「国会対策委員会」という名の談合の場の存在だ。

これが国会における自由闊達な議論を三重の意味で妨げている。1つは、オープンで公正な議論を不可能にしている。1つは、議論を形骸化させ、いっそう議会を儀式場化させてしまっている。1つは、最初から、「結論ありき」にさせてしまっている。

もちろん議会は、役所側の者に向って質問する場でもない。また従来のそのような質問は、決して議会の行政に対するチェック機能を果たしていることでもない。

質問したかったなら、普段から、役所(政府)に自ら足を運び、関係部署の役人に自分の知りたいことを尋ね歩き、必要なデータなり資料を提出させたらいいのである。彼らにはそれが公然と出来る権限と権力が主権者から与えられているのだから。

また、質問したかったなら、然るべき関係分野の専門家ないしは知識人を自ら訪ね、そこでじっくり尋ねたらいいのである。あるいは議会として然るべき専門家を複数招聘し、そこで全議員でさまざまな角度から質問したらいいのである。その場合の専門家とは、自己の研究の成果として掴みとった科学的真理を権力に媚びることなく、公正中立の立場で説明のできる真の知識人(6.3節を参照)でなくてはならない。

政治家のそうした真摯で積極的な行為には、有権者はきっと合意するであろう。

とにかく、敢えて国会で、自分を支持してくれた地元の有権者にこれ見よがしに一般質問なり代表質問という演技をすることはない。

そんな演技より、公約を政策として実現させてみせることこそ支持者の望んでいることなのだ。

それに、議会をそのような真に意味のある場にすれば、国民のお金である「立法事務費」や「政務調査費」の総額も格段に減らせるのである。「政党助成金」だってまったく不要にさせられる。

因に国会議員に配られる政党助成金は一人当たりおよそ4500万円だ(2012年9月11日 週刊ポスト。または2020年1月17日NHK BS101)。その額は、私たち国民に知らされており、また日本国憲法がその第49条でそれしか認めていない歳費という名の議員報酬およそ1600万円(平均)の実に3倍弱だ。政治家は、既述して来た実態でありながら、また「身を切る改革だ」などと言いながら、こういうお金だけは享受できる立法はしているのである。

正に税金泥棒としか言いようがない!

ただし、共産党だけは、そのような政党助成金は廃止されるべきとして受け取ってはいない。

なお、今、この国では、とくに地方の議会、それも過疎化の進んでいる地域、あるいは高齢化のとくに進んでいる地域での議会では、議会議員のなり手がいなくて、行く行くは議会が消滅するかも知れないといった深刻な状況にある。

しかし私は、こうなるのも、結局は、この国では、政府のかつての文部省と今の文科省が、子どもたちに、学校で民主主義を身につける教育をして来なかったことの必然的結果だと確信するのである。

文部省や文科省が、誰もその全人生を通じてほとんど役にも立たない瑣末の知識、断片的知識を覚えさせるという画一教育などせずに、むしろ互いに多様な個性や能力を認め合うように仕向け、問題が目の前に生じたなら、みんなで議論し、みんなで解決策を探し出し、それをみんなで協力し合いながら実行して問題を解決あるいは克服して行くという訓練を豊かにさせていたなら、今、いかに地方が高齢化し、また過疎化しているとは言っても、決して議員のなり手がいないなどといった状況にはならなかったと私は確信するのである。

 

では政治家が前述して来た5つの事柄を実行できるようになるには、どうしたらいいのであろう。

そのためには、日本の政治家は、先ずは、やはり、政治家とは何か、国民の代表となるとはどういうことかということを、たとえばジョン・ロックモンテスキュー、ルソーなど民主主義政治を理論的に確立してくれた先人・先哲たちの原点を読み、その内容を十分に理解することであろう。政治に対して独善的であってはならないし、自分たちの先輩がして来た事を真似していればいいというものではないからだ。そしてつねに物事の根幹を理解しておくことが必要なのだ。

次には、法とは何かをも、勝手な解釈によるのではなく、それらの先人からしっかりと学ぶことである。その上で、政治家は、「法は人間の権利の表現である」との基本的観点に立つことであろうと思う。

それには、人間とは何かから始まって、人権とはどういうことかを、自らとことん理解することである。いや、理解しているだけでは不十分だ。なぜなら、時代はつねに変化しているからだ。時代の変化とともに社会も変化して、人々の人権意識も変化するからだ。そうなれば人権の範囲も内容も変化し、たえず新しい問題を提起してくるようになる。そしてその新事態は政治に対しても必然的にこれまでにはない要求をして来るのである。

政治家がそれをすることにより、国家はその目的———国家の成員の最大の満足を得ることができるような条件を創り出すこと(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.8)———を果たせるようになるのである。