LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.6 国家とは何か、日本は国家か、なぜ国家でなくてはならないか ————その2

2.6 国家とは何か、日本は国家か、なぜ国家でなくてはならないか————その2

f:id:itetsuo:20200908001226j:plain

市内にある湧水。夏を涼しくさせる。

 では、国が国家でなかったなら、すなわち国家と言える統治体制を整えていなかったなら、どういうときに、どういうことが起こりうるのだろうか。それを考える。

 それは、例えば、「3.11」、東日本大震災が起こった後の政府の対応を見れば判る。

国土交通省(の官僚とそれに追随する国土交通大臣)は、被災地の人々には、二度と再び津波に襲われないようにと、ただ被災地の盛り土やかさ上げ工事をし、被災者たちが住めるプレファブの仮設住宅を創ればそれでよしとしている風だったし、厚生労働省(の官僚とそれに追随する厚生労働大臣)は厚生労働省で、国交相とは全く無関係に、あるいは連絡を取り合うことなく、独自に避難所を設け、仮設住宅を建て、その後公営住宅を建設するという単線的な再建プランを示せばそれで自分たちの公僕としての役割は果たしたと思っているらしかった。

 実際、国交省(の官僚とそれに追随する国土交通大臣)はそのようないわばハードの面だけを作るだけで、被災地の人々の文化や価値観を最もよく知っている被災地の県庁や市役所または町役場と協力しあって、被災した人々がまた被災前のように、互いに人間らしく暮らせる街として再建するには、ソフト面でどういうことを考慮、どういうことを備えなくてはならないか、ということについては全く考えてはいなかった。厚労省(の官僚とそれに追随する厚生労働大臣)も、同じく、被災地の人々の生活ぶりを最もよく知っている被災地の県庁や市役所または町役場と協力しあって、被災者に対して、多様な復興の仕方を用意したり、被災者たちが自立に至る多様な選択肢というものは何も用意していなかった。

 その結果、被災者は6年を超えても9年を超えても、なお仮設住宅住まいを余儀なくされている。その間、展望を見出し得ないがゆえにストレスを抱え、仮設住宅住まいに疲れ、精神を病み、体を壊してしまう人が続出している。また再起する意欲をなくしてしまい、絶望の中で亡くなってゆく人、自らが自らの命を終わらせてしまう人も続出しているのである。

 ————実は少し余談だが、このほど(2021年1月15日)、私は、「3.11」からの復興のために設けられた「復興庁」に、あることを知りたくて、直接、そこの「被害者支援班(03-6328-0271)」に電話した。次の三つの事項について質問したのである。①現在もなお、仮設住宅住まいを強いられている人々の総数。②「3.11」以後、止むを得ず、故郷を捨てて、他県を含む別の場所に移住せざるを得なくなり、そこで暮らしている人々の総数。③遅々として進まない政府————中央政府だけではなく、地元の政府も含む————の復興・復旧対策に絶望して、「3.11」以降、自殺された方々の総数。

 ところが、である。驚くことに、その3つの質問に対して、3つとも、“そういったデータは取ってはいません”との返事だった。————

 これだって、いかに官僚が冷酷であるとはいえ、復興庁の大臣が、国民の代表として、“こうしたデータは重要だから、必ず調べよ。そして公式の記録として残せ”、と配下の公僕である官僚をコントロールし、指示していれば残せたはずだし、今後の教訓と成し得たはずなのだ!

 ところがこんなお粗末な状況なのに、今度は経済産業省の大臣は、配下の官僚に操られて、国内の既存の原発が再稼働できる道を開いたのだ。

 もし「3.11」が起こった時、この国が本物の国家であったなら、ということは、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって社会を統合できる人または集団がいたなら、あるいは政府を公式に代表できる人または集団が存在していたなら、さらにあるいは、国の進路を決めることができる、公式で、満足な舵取りのできる人または集団が存在したなら、その時、その人物あるいは集団から災害復興関係府省庁の全てに緊急に指示・命令が下され、その指示・命令の下に関係府省庁の大臣同士が緊急に協議しまた相談し、またその時必要なら各大臣は配下の官僚に指示して災害復興関係の専門家を全国から政府に招聘して、その専門家の意見や助言を聞きながら、互いに大臣同士が連携し合いながら、政府が一丸となって、被災者救済に総合的かつ統一的に当たることができたはずなのだ。

そうすれば、被災地に起こった不幸な大事件は最少の数の被害者で収まったであろうし、またその後被災地に起こった悲惨な事態も、最少に抑えられたのではないか。私はそう思う。

 もちろんその時、政府として一致一丸となって災害復興に当たる際には、防衛大臣は、「シビリアン・コントロール」を徹底し、日頃、自らが自衛隊の幹部を集めては練りに練ってきた災害時あるいは国難時の自衛隊の動かし方を、他の府省庁の大臣と密に連携しながら、ここで実践的に実施するのである。

 

 また、次のようなことが生じるのも、この国が国家ではないからだ。

それは、ある新聞がトップに掲げた「パリ協定 きょう発効」という見出しの記事と、その隣にあった「日本、世界に逆行」という見出しの記事がそのことを示している(2016年11月4日付の朝日新聞)。

 その記事の中から私がここで言いたいことと関連する部分を、ところどころ引用してみる。

「世界はすでに二酸化炭素(CO2)排出を減らしながら成長する時代に入っている。その流れを決定づけ、後押しする仕組みがパリ協定だ。だが、日本政府や産業界は温暖化対策は経済成長を阻害するという意識にとらわれたままだ。(中略)各国は協定の締結を急ぎ、採択から一年足らずという異例の速さで発効した。(中略)。日本は別の方向に向かっている。(中略)。鉄鋼や電力などCO2を大量に排出する企業が発言力を持つ日本の経団連は(自然エネルギーの)導入に反対。政府もそうした声に引きずられて導入に後ろ向きだ。

 1997年の京都会議(COP3)で、日本は議長国として京都議定書をまとめ、世界を引っ張った。だが、パリ協定の合意に向けた交渉では影響力を示せなかった。すでに、世界から相手にされなくなりつつある。」 

 実際日本は、その後、「パリ協定」の実施ルールを採択したポーランドで開催されたCOP24においても存在感がなくプレーヤーではなかった、と長年にわたり温暖化交渉を見て来たNPO法人「地球環境市民会議」の早川光俊専務理事も言う(2018年12月17日 山梨日々新聞)。

 もしこの日本という国が国家であったなら、すなわち「社会の構成分子であるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」であったなら、その「合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者」の指示の下に、「社会の構成分子であるあらゆる個人または集団」は統合されているわけだから、例えば上記記事の中にある「鉄鋼や電力などCO2を大量に排出する企業が発言力を持つ日本の経団連は(自然エネルギーの)導入に反対。政府もそうした声に引きずられて導入に後ろ向きだ。」などということは起こり得ないのである。

 なぜなら、中央政府(の全閣僚はもちろん、その各閣僚の配下の全府省庁の官僚)はもちろん日本の社会の構成分子であるあらゆる個人または集団は、合法的に一個の強制的権威を与えられた者———それは普通は首相ということになろう———の下に統合されているのだから、日本国として「パリ協定」を締結しようとするCOP23に参画する場合には当然のことながら、その強制的権威を持った者が任命した者には日本国政府を代表した全権が託されていて、現場の会場で、政府を代表した意見を自らの判断と決断で発言し、それをもって、日本の存在感を世界に示し得たはずだからだ。

そしてその場合、締結されたパリ協定は、日本にとっては、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者が締結したことと同じ意義を持ち、それは日本の国の「国家の代理者」である日本政府として締結したことになるのである。

 そしてそのときは、そうした経緯の下で締結されたパリ協定には、日本の政府の全閣僚はもちろん、その閣僚の下に公務をする全官僚も、そして経団連という経済団体内部の官僚も、またその経団連内でどんなに発言力を持つ鉄鋼や電力の分野の大企業のCEO(最高経営責任者)も、無条件に従わねばならないのである。

 したがってそのとき、その締結された協定に抵抗したり、協定実施を妨害したり、サボタージュしたりすることは何人たりとも許されないし、もしそのような言動に及ぶ者あるいは法人がいたならば、その者や法人は国際協定に反逆する者であると同時に、合法的に最高な一個の強制的権威を国民から負託された者に逆らうことであり、それはすなわち民主主義政治体制という今様の国家体制(国体)への反逆者であり、同時に国賊ということにもなる。

だから、その場合には、そのような者あるいは法人は国家反逆罪に問われても仕方がないのである———ただしこれは、もしこの国において、そのような国家反逆罪を明文化する法律が国会において実定法としてつくられていたのならの話である。しかし残念ながらこの国では、政治家たちはこうした法律も作ろうともしなければ、それ以前に、国家とは何か、すら知らないのだ————。

 ところで、NPO法人「地球環境市民会議」の早川光俊専務理事が指摘するごとく、「パリ協定」の実施ルールを採択したCOP24でも日本は存在感がなくプレーヤーではなかった、ということから、では何がわかるか。

考えられることは2つある。1つは、COP24に日本から参加するために安倍晋三首相(当時)が任命した人物に、日本国政府を代表しての全権を託さなかったか、2つ目は、全権を託したとしても、安倍晋三総理自身が鉄鋼や電力などCO2を大量に排出する企業が発言力を持つ日本の経団連を統治できていなかったから、また安倍晋三自身もCOP に対して批判的あるいは消極的であったがゆえに、COP24の会場においては積極的な発言を控えるように指示したかのいずれかであろう。

 その場合も、前者のようなことは普通は考えられない。国際会議に、オブザーバーとしてではなく、政府代表として参加する以上、参加する人物に全権が与えられないなどということは普通考えられないからだ。

 いずれにしても、そうなれば、COP24に実際に参加した環境大臣丸川氏も、交渉経過の中で、賛成も反対も明確に意思表示も根拠説明もできずに、ただ会場の隅に、目立たないようにしているしかなかったというのは、十分に理解はできる。

 

 なお、日本政府のこうした外交姿勢については、実は京都議定書の時も同様だった。

日本は、「京都会議(COP3)」においては議長国として世界を牽引して、いわゆる「京都議定書」をまとめたのであるが、日本がまとめたこれも、経済関係省庁の官僚や関係産業界の経済官僚の協力が得られず、結果的には世界に公約したことを破リ、世界から非難されることになったのである。

 こうなるのも、議長国の議長になる者が合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者から全権を委任された上で議長として「京都会議(COP3)」に参画したのではなく、ただ世界の趨勢に流されて、つまり、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者による明確な意思決定と指示に拠るのではなく、何とはなしに誰かが議長として臨んでおけばいいという程度で曖昧な形で選ばれた者が臨んだ結果か、それとも、そもそも合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者など存在していない中で、今回日本が議長国になったので仕方がないから、形式上、誰かが議長をやっておけ、という程度で府省庁連合体である政府内で選ばれた者が議長を勤めただけかのいずれかであろう。

 どっちにしても、今や日本は、その結果、既に、世界の脱炭素革命の流れからもまったく取り残されてしまっているのである(NHKスペシャル2018年12月17日「激変する世界ビジネス “脱炭素革命”の衝撃」)。

 

 もう1つ、この国は国家ではない証拠を挙げる。

「パリ協定」の合意事項を実現するのにはほど遠い内容の「第5次エネルギー基本計画」などといった、「パリ協定」にまったく後ろ向きのエネルギー計画が、2018年、経済産業省の官僚だけの都合で作成されてしまったことである。

 問題はそれだけではない。そのように作られた基本計画が、既述したように、政府を構成する全府省庁の官僚のトップである事務次官が全員合意の上で内閣に提出され、それがわずか15分かそこらでそっくりそのまま追認される格好で「閣議決定」されてしまっていることだ。

つまり、この国の政府を動かしているのは、国民から選挙で選ばれた国民の政治的代表としての政治家————すなわちここでは閣僚————ではない。ほんら「国民のシモベ」たる官僚だ。ましてや、「合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者」の指揮統括の下に動いているわけではない。

 この意味でも、この日本という国は、明らかに国家ではない。せいぜい国家もどき国家、似非国家でしかない。

 さらには、その結果、内閣とは本来、国権の最高機関と憲法が規定する国会が決めたことを執行するだけの執行機関の中枢であるに過ぎないのに、あたかも内閣が法制度を決めているかのように振る舞っていることに対しても、この国の国会議員も憲法学者政治学者も政治評論家もそして政治ジャーナリズムも、皆、見て見ぬ振り、知って知らぬ振りで、“内閣は三権の役割を逸脱し、立法権にも踏み込んでいるではないか”と抗議の声をあげたり、批判する者は一人もいない。

 

 次の例も、この国が国家ではないことを示すものである。それも、これはいわゆるシビリアン・コントロール文民統制)について、実態は、それが全くなされていないことを如実に示す一例である。

なおシビリアン・コントロール文民統制)とは、軍隊の指揮権が文民、すなわち軍人あるいは職業軍人の経歴を持たない人によって統制されること、をいう(広辞苑)。

 日本の領海や領空に入り込む不審船や不審機に対する対応に見るシビリアン・コントロールの実態について見てみよう。

ここでは不審船に対してである。

 海上自衛隊の「海上護衛行動」について具体的に言えば、現場で海上保安庁の船や海上自衛隊護衛艦が武器を使用してもいいのか、使用するにも相手の不審船ないしは不審機に砲撃していいのか、それともあくまで警告に留めるべきなのか、それについては現場では迷うはずである。問題はその時、防衛大臣も総理大臣も『どこまではしてもいいが、どこから先はやっては駄目だ』と明確に指示もできないことだ。「海上警備行動」をとるとは言っても、『どの程度の警告射撃をしたら国民が納得するのか』と自衛隊の官僚(海上幕僚長)が国民の代表であるはずの防衛大臣に尋ねても、せいぜい『12、3回の射撃でいいのではないか』という程度の答え方しかできない。明確な論拠をもって説明もできないのだ。

 またある官僚幹部が『(防弾チョッキも所持していないから)不審船への立入検査は危険』と進言しても、防衛大臣は、現場の状況を知ろうともせず、『(立入検査も)やらないで不審船には逃げられたと国会で答弁できるか』と言って怒るだけでしかないのだ。その上、事を起したとき、いったい誰がその責任をとってくれるのか、それも防衛大臣は現場隊員に明確にしないのである(NHKスペシャル 平成史第7回「自衛隊 変貌の30年〜幹部たちの告白〜」2019年4月24日NHK総合1)。

 これでは政治家が軍人をコントロール(統制)していることにはならない。軍人も、現場で、明確な指示と統制のない中で、自分の判断で下手に行動したら、自分に責任が及んでくるのではないかとも考えてしまうと、どうしたらいいのか、迷うばかりで、迅速な対応もできなくなってしまう。

 こうなるのも、文民である防衛大臣も首相も普段から実際の戦場あるいは紛争の現場の状況も知らなければ、現場に起こり得るあらゆる事態を想定しての、二重、三重に対応策あるいは戦略を考えようともしていないからなのだろう。戦場あるいは紛争の現場の状況は、今もなお、世界中、どこかで起こっているのだから、視察しよう、現場の状況を知ろうと思いさえすれば、いつでも視察できるはずだ。それに、日頃、戦争とは、兵の役割とは、将校の役割とは、ということさえまともに考えてはいないようにも見える。だから少し「想定外」の事態が生じると、もうあたふたするしかなくなるのである。

 というより、一旦、戦闘地域に行ったなら、そこではもはや何が生じるか判らず、「想定外の事態」などとは言ってはおれないことすら理解できていないのだ。それに、この国の防衛大臣は、一歩対応を誤れば、国と国との軍事的衝突に発展しかねないということも覚悟をもって考えてはいないし、祖国を防衛するということがどういうことかということも、まったく判ってはいないように私には見える。

 とにかく、このようなことで、緊迫した現場の隊員は、どうして確信を持って祖国と国民を守る行動を取れようか。

 自衛隊が国連の平和維持活動PKO(Peace−Keeping Operations)の一部隊として海外に派遣された場合についても、事情は全く同様だ。

果たして、『命令を出す人間はその決断とともに(それから後の人生を)生きて行かなければなりません。その責任は抱え続けるものなのです。』(元アメリカの在日米海軍司令官ロバート・チャプリン)という覚悟は、日本の文民(首相や防衛大臣)にあるのだろうか。

こんなことだから「日報」問題をも起こしてしまうのであろう。

 

 また、こういう実例もある。これも日本国は国家ではない何よりの証拠だ。

これは2019年7月にあったことである。

それは、「老後30年で、夫婦世帯で必要な金額」はいくらになるかということで、政府を構成する厚労省金融庁経済産業省が国民に示した金額が次のようなものだったことだ。またそのことについて、各府省庁の担当大臣は誰もそれを互いの大臣間で調整することもしなければ、国民を迷わせたことを謝罪もしなかったことだ。また総理大臣も全く無関係を装ったことだ。

厚労省は「約2000万円」、金融庁は「1500万円〜3000万円」、経済産業省は「2895万円」をそれぞれバラバラな額を示したのである。

ふるさと納税」という制度についても、農林水産省総務省は対立している、という事実もこの国が国家ではない証拠だ。

 キャッシュレス化を進めたい経済産業省(の官僚とそれをただ追認している経済産業大臣)と、札を新たな札に切り替えて、紙幣の流通を増やしたい財務省(の官僚とそれをただ追認している財務大臣)との間で省益をめぐる対立が起こるということも、国家では決して起こりえないことであるが、そこへさらに、総理大臣としての安倍、政府の長と自称する安倍が、その状況がどうして起こっているのか、それを自分の責任においてどう統制しようとしているのか、それについて国民に最終的な責任を持って説明しようともせず、むしろ放任しているというのも、この国が国家ではないことを如実に証明する一例なのだ。

 

 以上、いくつかの実例を箇条書きしてきたが、これらから判るように、この日本では、統治システムのどの一要素も、最終的には誰の支配下にもないのである(K.V.ウオルフレン「システム」p.79)。こうして、この日本という国は、どういう観点から見ても国家ではないことはもちろん、国家でないどころか、日本は、「官僚独裁主義によって維持されている秩序保持のための大がかりな統治のシステムそのものすら、つまるところコントロールされずに野放し」状態になっている社会でさえあるのだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.124)。

 それも、もっと言えば、この日本は、戦後はとくに二重の意味で国家ではなかったし、今もなおそのままだ、と言える。

1つは、この国は、既述の通り、社会の構成分子たるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合されているどころか、バラバラな統治組織によって、バラバラに統治されている国であるという意味において。もう1つは、近代国家であるための三要素である「領土・国民・主権」のうちの主権を自ら放棄した国でもあるという意味においてである。なおここでいう主権は、主権在民という意味での主権という意味ではなく、「その国家自身の意思によるほか、他国の支配には服さない統治権力」としての主権である。そしてこの後者に関しては、この国の政府の自分より大国と思えてしまう外国に対する外交姿勢一般について言えることであるが、特にアメリカに対しては、例えば「日米地位協定」あるいはその背後で日米の間で、当時の吉田茂によって交わされた「密約」としての「交換公文」(孫崎享「戦後史の正体」創元社 p.150)そして「日米地位協定合意議事録」(山本章子「日米地位協定中公新書 p.58)に象徴されるように、顕著である。

そして後者に属するもう一つ根拠は、この国の現行憲法第9条自体が、その第1項で、国際法上、世界のどの独立国にも保証されている「交戦権」という主権を自ら放棄していることである。

 以上、結論として、この日本という国は、今のところ、世界の本物の民主主義国の間でいうところの国家ではないがために、この国を実際に誰が国民に対して責任を持ちながら舵取りをしているかも曖昧だし————官僚たちが実質的に独裁しているとはいえ、彼らも、立場上、日本の進むべき道までは決めることはできないのである————、したがって国として、何を何のためにしようとするかも決められず、目指す目的地も、そこに至る航路も誰も決められないままず、世界という大海の洋上で、その時吹いている風邪任せにして、国丸ごとただ漂流し続けている国である、ということだ。

 このことが私たち国民すべてにとって、どれほど恐怖であり、また不安でもあるかということは、言うまでもないであろう。

 ところが実態はこうした状態なのに、この国の総理大臣を含む全閣僚は、この真実には一切触れない。その上、地球温暖化と気候変動によって、多分間近に迫っているであろう食糧危機やエネルギー危機にも一切触れないし、この国の人口減少や天文学的な額に達してしまっている借金(政府債務残高)についても触れようともせず、ただ「国の安全保障」だけを繰り返しているのである。

 歴代の総理大臣以下、閣僚も、そして一般の国会議員についても、日本国とその国民に対してこれほど無責任で無能なことはないのだ!

 彼らは「日の丸」(国旗)の前では恭しく頭を下げてみせるが、それは見せかけで、実際には、彼らには愛国心などかけらもないのかもしれない。

 

 では、もし日本が本物の国家、それも民主主義を実現した国家となったなら戦前から戦後の今日までの歴代の日本政府、すなわちその間の内閣総理大臣および閣僚そして官僚たちのやって来たことやそのやり方については、具体的には何がどのように変わると期待できるだろうかそのことについてもここで少し考えておこうと思う。

 その総論的答えとしては、先ずは中央政府では、総理大臣は本来の内閣を真に総理する大臣となり、政府内全組織に対して統括し、指揮できるようになるだろう。また、総理大臣に任命された閣僚は閣僚で、総理大臣の指揮の下で、国会の議決内容に従って、内閣が閣議決定した執行方針に基づいて、配下の全官僚を指揮監督しながら、執行させることができるようになるだろう。

 その場合、総理大臣の元には、権力にはおもねずに、あくまでも国民の生命と自由と財産の安全保持を第一に考えて、大所高所から、また科学的合理的見地から国家目標や国家戦略を提言できる本物の知識人たちが政府の頭脳(ブレイン)として集められるようになるだろう。

 また、国民の生命と自由と財産を守るための行政を行う上で、必要な情報は、細大漏らさずに総理大臣の元に最速で集まるようになると同時に、総理大臣が国民に向けて発した事柄も、最速で、国の末端の地方自治政府にまで伝達され、その自治体の権限を侵さない範囲で、直ちに執行されるようになるだろう。

 また、こうした統治が国の全体に対して速やかに行われるようになるためには、中央政府内の各府省庁間での、官僚たちが「互いに他の府省庁の管轄範囲に踏み込まない」などといった勝手な理屈をつけては戦後ずっと設けてきた「タテ割り」などという悪弊も、首相と全閣僚、さらには全国会議員を含む全政治家の結束の下に撤廃されるようになるだろう。

そして、各府省庁の官僚の人事評価権や罷免権は、同憲法第15条第1項に拠り、国民の代表としての担当大臣が行使することになり、官僚を含む役人一般は、同じく憲法第15条に拠り、各府省庁の大臣の監督下で真の「公僕」としての公務員となり、常に大臣の指示のもとに公務を行うようになるだろう。

 こうして、これまでの官僚が当たり前にやってきた、闇での、あるいは非公式に権力を行使することなどまったく不可能となる。官僚の「官尊民卑」の思想も維持できなくなる。

 そして、これまで、官僚たちが互いに所属府省庁の既得権を維持するために、そしていかにも民主主義的手続きを踏んだかのように装っては国民の目をごまかしてきた「審議会」制度も完全に撤廃される。これまで幾度となく国民から非難されながらも官僚たちが続けてきた産業界への「天下り」や「渡り鳥」も完全に不可能となる。つまり、公務員も、民間企業人と同様、定年で退職すれば、基本的にはそこで現役は終わり、となる。もちろん役人だけが天国と国民から思われるような税金の無駄遣いも、各担当大臣のコントロール下では、不可能となる。

 予算についても、これまでは執行機関が立てていて、それを当たり前として来たが、これからは、憲法も改正されて、国民から納められたお金の使途は、公僕に拠って決められるのではなく国民の利益代表である政治家によって国会にて、あるいは国会の委託を受けた複数の公認会計士を含めた公正で中立なる第三者機関によって、使途の優先順位を明確化した上で決められて行くようになるだろう。それは一般会計予算のみならず、特別会計予算についてもである。

 その結果、これまで官僚が自分たちの既得権維持のために設けて来た「国家的事業」ないしは「公共事業」は興せなくなるだけではなく、産業界を優遇する巨額の無駄遣いもできなくなり、高級官僚の「天下り」も不可能になる。

そうなれば、これまでは「財政の健全化」などと全く口先だけで済まされてきた超巨額の政府債務残高も順調に返済されて行くようになると並行して、国民の福祉向上の実現と教育の質の向上の実現も最優先の政治課題となってゆくだろう。

 外交も、定まった国家目標や国家戦略に基づき、「合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者」によって全権委任された者を通じて、つねに日本の存在を世界に知らしめられるまともな外交が行われるようになるだろう。

 一方、中央政府が真の指導者を持つ真の政府となると共に、都道府県庁や市町村役場という地方政府も、共にそこでの真の指導者を持つことになり、国全体の統治の体制が整うようになる。

すなわち、都道府県庁の役人も、市町村役場の役人も自主的・主体的自覚が高まり、公務員は真の公僕となり、真の「自治」体となり、それだけ中央政府に支配されたりすることなく、各地域の実状や特殊性に合った行政が行われるようになる。

 そして今後は、地球温暖化が進む中で、ますます頻繁に生じることになるであろう、次々と登場してくる新手のウイルスのパンデミックをも含めた自然大災害時(巨大地震時、大洪水時、巨大津波時、大豪雨時、巨大台風通過時)にも、国家として、必要で正確な情報を地方政府を通じて速やかに収集し、それを時々刻々国民に流すとともに、被災者を最大限迅速に救済しては、必要な検査や適切な医療を施し、またそれを継続できる国家を挙げての危機管理体制も出来上がって行くようになるだろう。

 食糧もエネルギーも自国で、あるいは各地域で自給できるようになるだろう。

 

 以上、こうしたことが次々と実現されて行くことによって、非常事態あるいは国民的大惨事がいつ生じても国民はそれを冷静に受け止められるようになり、冷静沈着に対処できるようになるのである。

もちろんその時、これまでのように官僚や役人の利益が真っ先に守られるようにして政策や対策が打ち出されるというようなことはなくなり、いつでも主権者である国民の生命と自由と財産が第一に守られ、国民の人権と幸福が真っ先に考慮される統治が行われるようになる。

 

 また、国民や産業界に発せられることは全て、そしていつでも、明確に定まり公布された法律に基づいてなされるようになる。これまでのような、定まった法律もないのに、曖昧な形での指示や要請や勧告あるいは目安が発せられるというようなことはなくなる。

 したがってそこでは、たとえば安倍晋三がしょっちゅうやってきたような、憲法条文や法律条文を恣意的に解釈変更してはそれを執行するという行為は「法の支配」に挑戦する行為、民主主義とは逆行する専制的行為として、あるいは国賊として、無条件に国会にて弾劾されるようになる。つまり、もはや安倍晋三がやってきたようなことはできなくなるのである。

 また官僚についても、会議録など、官僚が記録して残すべき公文書を残さなかったり、これまでの公文書を改ざんしたり、またそれを破棄したりする、ということもできなくなる。

もしそれをしたなら、直ちに担当大臣によって、躊躇なく断罪されて、罷免されるようになるからだ。

 

 とにかく、国が本物の国家となるということは、国会が質問の場ではなく、正真正銘の立法府となり、名実共に国権の最高機関となることだ。

そしてその国会も、議論されるテーマについてはつねに優先順位が考慮されて議論され、立法されて行くようになるだろう。

それは同時に、あくまでも政府は議会が議決した法律なり政策を執行する機関となり、その政府の中枢である内閣は、議会が議決して公式の政策となったそれをいかに効率よく迅速に執行して成果を上げられるかという執行方法を閣僚同士で議論して決定するための機関となることを意味する。それはまた、官僚たちが組織を挙げて出して来た案を各閣僚が合意の署名をして追認してはそれを「閣議決定」として来た、またそうしてはあたかも重要な政策を立法府の審議を経ずとも実行してしまえるかのように、それを正当化するための手段に使ってきた(内田樹(たつる)赤旗日曜版2014.3.16付)これまでの閣議閣議決定のあり方は根本から変わることをも意味する。

 また、国が本物の国家となるということは、司法も、国会はもちろん、政府内閣からも独立して、「三権分立」あるいは「三権独立」が真に行われる国になるということでもある。

 

 なお、この国が本物の国家となる上で、もう一つ、どうしても実現させねばならないことがある。それは、いわゆるシビリアン・コントロールと言われる「文民統制」に関することである。

この国では、「5.15事件」や「2.26事件」が結果的に軍部の独走を許し、それが中国侵略になり、アジア・太平洋戦争へとのめり込んで行き、その挙句に国を無条件に降伏しなくてはならないような敗北をさせてしまったことの教訓として、このような事件を二度と起こさないようにするために、シビリアン・コントロールを口先だけで済ますのではなく、「文民統制を貫ける、国民にとって安全で信頼できる、兵に対する統治機構」(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.164)というものを政治家によって考え抜き、例えばクーデターといった非民主的暗躍などを防止する二重三重の法や諸条件を整備すると共に、「厳格な文民統制を国民に保証できる実権と技術・知識・人材・経験をそなえた防衛大臣」をどうしても国民の手で育てる必要があるということだ。