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八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.6 国家とは何か、日本は国家か、なぜ国家でなくてはならないか ————その2

2.6 国家とは何か、日本は国家か、なぜ国家でなくてはならないか————その2

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市内にある湧水。夏を涼しくさせる。

本記事には前半があります。

まずは以下の記事を読んでいただければ、話の流れをよりつかんでいただけると思います。長文で申し訳ないのですが、よろしくお願いします。

 

itetsuo.hatenablog.com

 

 

日本が国家でなかったことで起きた例 

例その1

まずは前半の問い、つまりこの国が国家ではなかったことによって起こった例について考える。

これは2019年7月にあった実例である。

それは、「老後30年で、夫婦世帯で必要な金額」ということで、政府を構成する厚労省金融庁経済産業省が国民に提示した金額がバラバラだったことである。国民から見れば政府は一つなのだ。
実際、一つでなくてはならない。
ところが、厚労省は「約2000万円」、金融庁は「1500万円〜3000万円」、経済産業省は「2895万円」を国民に示したのである。

こんなことは、この国が国家であったなら、絶対にあり得ないことなのだ。

こうなるのも、厚生労働省の大臣も、金融庁の大臣も、経済産業省の大臣も、配下の官僚を国民の代表としてコントロールするなど全くなく、閣僚同士で連係プレイをとって統一見解を国民に向かって発表しようとするわけでもなく、またそれを総理大臣も、「行政府の長」とはよく口にするが、それは例によって口先だけのことで、実際には政府全体を指揮して指示しているわけでもないからである。

つまり、この国日本は、「社会の構成分子たるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」ではないし、政治的説明責任の中枢も存在していないし、政府を公式に代表できる人も集団もないからなのだ。

要するに国家ではないからだ。

 

例その2

この国が国家ではないことは、たとえば「3.11」の後の政府の被災者に対する対応を見ても明らかだ。

国土交通省(の官僚とそれに追随する国土交通大臣)は、ただ被災地の盛り土やかさ上げ工事をし、プレファブの仮設住宅を創ればそれでよしとしている風だし、厚生労働省(の官僚とそれに追随する厚生労働大臣)は、避難所→仮設住宅公営住宅という単線的な再建プランを示せばそれで自分たちの公僕としての役割は果たしたと思っているらしい。
実際、被災者に多様な復興の仕方や自立に至る多様な選択肢というものは何も用意していない。結果、被災者は6年を超えても9年を超えても、なお
仮設住宅住まいを余儀なくされてしまう。その間、展望を見出し得ないがゆえにストレスを抱え、仮設住宅住まいに疲れ、体を壊してしまう者が続出する。
また再起する意欲をなくして、絶望の中で亡くなってゆく人、自殺してしまう人も続出している。

こうなるのも、結局は、安倍晋三は内閣を実際には総理もしていなければ、全閣僚を指揮も統率も出来ていないからだ。
首相としての役割など全く果たしてはいない。
そんな状態だから、目の前に起った「3.11」なる事態は前例のない事態であり、これまでの災害関係の法律では対処できないことは明白なのに、安倍晋三は、たとえば戦後すぐにできた法律「災害救助法」を目の前の事態に対応できる内容に大幅に改正しようともしていなければ———憲法を変えることには固執するが———、国会にその改正の審議を要請することもしていない。

あるいはまた、こうして国土交通省および厚生労働省の官僚と大臣がバラバラ行政をしているがために、また安倍晋三は首相でありながらそれを放任しているがために、3.11による多くの被害者が依然と自立できるまでに救済されていないという状況なのに、今度は経済産業省の官僚と大臣は、国内の既存の原発が再稼働できる道を開いたのだ。

これでは、被災者はいつまで経っても自国の政府に救われるはずもない。
むしろ、被災者は、自省の既得権益に拘る国交省厚労省および経産省の官僚に事実上見捨てられてさえいる状態であって、またそれを安倍晋三も放置放任しているのだ
NHKスペシャル 東日本大震災▽仮設6年は問いかける〜巨大災害に備えるために 2017年3月17日NHK総合1)

これも、この日本という国は国家ではない何よりの証拠なのである。 

その他の例

また、キャッシュレス化を進めたい経済産業省(の官僚とそれをただ追認している経済産業大臣)と、お札を新たなお札に切り替えて、紙幣の流通を増やしたい財務省(の官僚とそれをただ追認している財務大臣)との間の省益をめぐる対立を、総理大臣として安倍がそれを野放しにしているというのも、この国が国家ではないことを証明する一実例だ。

あるいは、これは国民誰もが知っている行政組織間のタテ割りを、総理大臣を含む全閣僚も、また国会議員も、全員が、それを放置したままであるというのもこの国が国家ではないということを証明する最たる実例の1つだ。

この「タテ割り」がどれほどこの国の行政を硬直化させ、国民から納められた税金の無駄遣いを強い、国民の生命と自由と財産を守る上での機動力を損ねていることか。

政府の官僚に対してさえ安倍晋三以下全閣僚はこんな状態なのだから、軍(自衛隊)の官僚に対してはなおのことコントロール———いわゆるシビリアン・コントロール文民統制)———などできているはずもない。

それを如実に示す一例が次のものだ。

日本の領海や領空に入り込む不審船や不審機に対する対応の仕方がそれだ。自衛隊が国連の平和維持活動PKO(Peace−Keeping Operations)の一部隊として海外に派遣された場合の「日報」問題がそれだ。また海上自衛隊が「海上護衛行動」をとる際の取り方がそれだ。

海上自衛隊の「海上護衛行動」について具体的に言えば、現場で海上保安庁の船や海上自衛隊護衛艦が武器を使用してもいいのか、使用するにも相手の不審船ないしは不審機に砲撃していいのか、それともあくまで警告に留めるべきなのか、それについて防衛大臣も総理大臣も『どこまではしてもいいが、どこから先はやっては駄目だ』と明確に指示もできないのだ。
海上警備行動をとるとは言っても、『どの程度の警告射撃をしたら国民が納得するのか』と自衛隊の官僚(海上幕僚長)が国民の代表であるはずの防衛大臣に尋ねても、せいぜい『12、3回の射撃でいいのではないか』という程度の答え方しかできない。
明確な論拠をもって説明できない。

またある官僚幹部が『(防弾チョッキも所持していないから)不審船への立入検査は危険』と進言しても、防衛大臣は、現場の状況を知ろうともせず、『(立入検査も)やらないで不審船には逃げられたと国会で答弁できるか』と言って怒るだけでしかないのだ。
その上、事を起したとき、いったい誰がその責任をとってくれるのか、それも防衛大臣は現場隊員に明確にしないのである
NHKスペシャル 平成史第7回「自衛隊 変貌の30年〜幹部たちの告白〜」2019年4月24日NHK総合1)

こうなるのも、文民である防衛大臣も首相も普段から現場の状況も知らなければ、現場のあらゆる事態を想定して二重、三重に対応策を考えてもいないからなのだろう。
それに、日頃、戦争とは、兵の役割とは、将校の役割とは、ということさえまともに考えてはいないのであろう。
だから少し「想定外」の事態が生じると、もうあたふたするしかなくなる。というより、一旦、戦闘地域に行ったなら、そこではもはや何が生じるか判らず、「想定外の事態」などとは言っていられないことすら理解できていないのだ。
そして
この国の防衛大臣は、一歩対応を誤れば、国と国との軍事的衝突に発展しかねないということも覚悟をもって考えてはいないし、祖国を防衛するということがどういうことかということも、まったく判ってはいないように私には見える。

大臣は、そして首相も、そもそも戦場を自ら体験しようとさえしていないのだ。
戦争は、世界のいたるところで、実際に起っているのだから、ただ外遊してくるのではなく、戦争とはどういうことかを、戦場とはどういうものかを本当に知ろうと思えばいつでも現場を視察させてもらえるはずなのに。

とにかく、このようなことで、緊迫した現場の隊員は、どうして確信を持ったPKO、Peace−Keeping Operationsなどを取ることなどできよう。

命令を出す人間はその決断とともに(それから後の人生を)生きて行かなければなりません。その責任は抱え続けるものなのです。』(元アメリカの在日米海軍司令官ロバート・チャプリンという覚悟は日本の文民(首相や防衛大臣)にはほど遠いものなのだ。

では、政治家のこうしたお粗末な状況対応に対して、国民の側の安全保障感覚はどうか。

たとえば不審船を逃したことに対して、現場の状況を理解しようとする前に、『なぜ逃がしたか?』、『税金泥棒!』と言っては海上自衛隊を非難するばかりなのである。

 

あるいはこの国が国家ではないことを証明する実例にこういうのもある。

それは、ある新聞のトップにあった「パリ協定 きょう発効」という見出しの記事と、その隣にあった「日本、世界に逆行」という見出しの記事がそのことを実感させられたのである(2016年11月4日付の朝日新聞

その記事の中から私がここで言いたいことと関連する部分を、ところどころ引用してみる。

「世界はすでに二酸化炭素(CO2)排出を減らしながら成長する時代に入っている。その流れを決定づけ、後押しする仕組みがパリ協定だ。だが、日本政府や産業界は温暖化対策は経済成長を阻害するという意識にとらわれたままだ。(中略)各国は協定の締結を急ぎ、採択から一年足らずという異例の速さで発効した。(中略)。日本は別の方向に向かっている。(中略)。鉄鋼や電力などCO2を大量に排出する企業が発言力を持つ日本の経団連は(自然エネルギーの)導入に反対。政府もそうした声に引きずられて導入に後ろ向きだ。

1997年の京都会議(COP3)で、日本は議長国として京都議定書をまとめ、世界を引っ張った。だが、パリ協定の合意に向けた交渉では影響力を示せなかった。すでに、世界から相手にされなくなりつつある。」 

 

実際日本は、その後、「パリ協定」の実施ルールを採択したポーランドで開催されたCOP24でも存在感がなくプレーヤーではなかった、と長年にわたり温暖化交渉を見て来たNPO法人「地球環境市民会議」の早川光俊専務理事も言う(2018年12月17日 山梨日々新聞)。

もしこの日本という国が国家であったなら、すなわち「社会の構成分子であるあらゆる個人または集団に対して、合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」(H.J.ラスキ)であったなら、このような記事が書かれることはなかったはずだし、それ以前に、日本がパリ協定に参加した以上、国内がパリ協定実施に際してこのような分裂状態になることもなかったはずである。

その意味は次のように説明される。

もし、日本が真の国家であったなら、中央政府(の全閣僚はもちろん、その各閣僚の配下の全府省庁の官僚)はもちろん日本の社会の構成分子であるあらゆる個人または集団は、合法的に一個の強制的権威を与えられた者———それは首相ということになろう———の下に統合されているのだから、日本国として「パリ協定」を締結しようとするCOP23に参画する場合には当然のことながら、その強制的権威を持った者が任命した者には日本国政府を代表した全権が託されていて、現場の会場で、政府を代表した意見として、自らの判断と決断で発し、対処できたはずなのだ。

そしてその場合、締結されたパリ協定は、結局のところ、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者が締結したことと同じ意義を持ち、それは日本政府として締結したことになるのである。

そしてそのときは、そうした経緯の下で締結されたパリ協定には、日本の政府の全閣僚はもちろん、その閣僚の下に公務をする全官僚も、そして経団連という経済団体内部の官僚も、またその経団連内でどんなに発言力を持つ鉄鋼や電力の分野の大企業のCEO(最高経営責任者)も、無条件に従わねばならないのである。

 

したがってそのとき、その締結された協定に抵抗したり、協定実施を妨害したり、サボタージュしたりすることは何人たりとも許されないし、もしそのような言動に及ぶ者がいたならば、その者は国際協定に反逆する者であると同時に、合法的に最高な一個の強制的権威を国民から負託された者に逆らうことであり、それはすなわち民主主義政治体制という今様の国体に反逆することでもある。
だから、その場合には、そのような者あるいは団体は国家反逆罪に問われても仕方がないことなのである———これは、もし、そのような国家反逆罪を明文化する法律が国会において実定法としてつくられていたのならの話である。しかし残念ながらこの国では、政治家たちはこうした法律も作ろうともしなければ、まったく無関心で無頓着のようだ————。

ところが、NPO法人「地球環境市民会議」の早川光俊専務理事が指摘するごとく、存在感もなくプレーヤーにもなれなかったということは、任命した安倍晋三首相も日本国政府を代表しての全権を託した訳ではないから———実際には安倍首相自身が各府省庁連合体でしかないこの国の政府の「お飾り」的存在でしかないから、全権を託するなどということすらできなかったのであろう———、任命された者も、ただ任命されたというだけで、交渉事にその場で賛成も反対もできなかったということなのである。

しかしこれでは外交にはならない
その都度本国に課題を持ち帰って政府内で検討しなくては返答できないとなれば、一体何のために閣僚がパリの会場まで行ったのか、となるからだ。

だから、先のような新聞記事の内容になるのである。
まただから、
「パリ協定」の合意事項を実現するのにはほど遠い内容の「第5次エネルギー基本計画」などと言った、「パリ協定」にまったく後ろ向きのエネルギー計画が、2018年、経済産業省の官僚だけの都合で作成されてしまうのである。

問題はそれだけではない。そのように作られた基本計画が、既述したように、政府を構成する全府省庁の官僚のトップである事務次官が全員合意の上で内閣に提出され、それがわずか15分かそこらでそっくりそのまま「閣議決定」されてしまう。
その結果、内閣とは本来、国権の最高機関であると憲法が規定する国会が決めたことを執行するだけの政府機関の中枢であるに過ぎないのに、あたかも内閣が法制度を決めているかのように振る舞っている。そしてそれに対して、国会議員も憲法学者政治学者も政治評論家も、そして政治ジャーナリズムも見て見ぬ振り、知って知らぬ振りだ。

京都議定書の時にとった政府の態度も大同小異だ。

日本は、京都会議(COP3)」においては議長国として世界を牽引して、いわゆる「京都議定書」をまとめたのであるが、日本がまとめたこれも、経済関係省庁の官僚や関係産業界の経済官僚の協力が得られず、結果的には世界に公約したことを破リ、世界から非難されることになったのである。

こうなるのも、議長国の議長になる者が合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者から全権を委任された上で議長として京都会議(COP3)」に参画したのではなく、ただ世界の趨勢に流されて、つまり、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者による明確な意思決定と指示に拠るのではなく、何とはなしに誰かが議長として臨んでおけばいいという程度で曖昧な形で選ばれた者が臨んだ結果か、それとも、そもそも合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者など存在していない中で、今回日本が議長国になったので仕方がないから、形式上、誰かが議長をやっておけ、という程度で府省庁連合体である政府内で選ばれた者が議長を勤めただけかのいずれかであろう。

どっちにしても、今や日本は、その結果、既に、世界の脱炭素革命の流れからもまったく取り残されてしまっているのであるNHKスペシャル2018年12月17日「激変する世界ビジネス “脱炭素革命”の衝撃」)

 

なぜ「国家」でなくてはならないのか

では、先の後者の問いの答えについてはどうだろう。

すなわち、日本が本物の国家、それも民主主義を実現した国家となったなら、具体的には何がどのように変わると期待できるだろうか、という点について。

その総論的答えとしては、平時であれ、戦時であれ、また非常時であれ、とにかく、これまでのように官僚や役人の利益が真っ先に守られるようにして政策や対策が打ち出されるというようなことはなくなり、いつでも主権者である国民の生命と自由と財産が第一に守られ、国民の人権と幸福が真っ先に考慮される政治と行政が行われるようになる、ということである。

その場合も、国民に発せられるのは、これまでのような、定まった法律もないのに、曖昧な形での指示や要請や勧告あるいは目安が発せられるというようなことはなくなり、いつでも明確に定まった法律に基づいて、国民に発せられるようになる。

したがってそこでは、たとえば安倍晋三がしょっちゅうやるような、自分の勝手な気分あるいは思いで、憲法条文や法律条文のこれまでの解釈を変更したり、自分に好都合となるように法律を改正したりするようなこと、つまり恣意的行為はまったく通用しなくなるということである。

この意味は、これまでの法制度や社会のしくみは、国民一般から見ると、実際にそれを活用しようと思っても、どう判断したらいいのかよく判らなくて迷ってしまうということがしょっちゅうあったが———立法を官僚に放任して、そうした状態を放置して来たのは、もっぱらこれまでのすべての国会議員であるが———この国が本物の国家となれば、そこで作られる法制度や社会のしくみは、何はして良くて、何はしてはならないか、どこまではしてよく、どこから先はしてはならないかという事どもが明確になる、ということである。

またこの意味は、法制度や社会の仕組みが、統治される国民の立場に立って明解な文章によって全面的に作り直されるということである。作り直すのは、もちろん、新しい選挙制度(第9章)によって生まれて来た本物の政治家である。

このことがどれほど大切かは、たとえば直近の実例で言えば、新型コロナウイルスによるパンデミックが生じたとき、国会議員が例によって怠慢な余りに新法を制定せず、この国の政府の首相や関係大臣が間に合わせ程度の「要請」だ、「指示」だという定まった法律にも拠らない臨機の命令や恣意的な指示を次々と朝令暮改的に発したことが、それを聞く国民にどれだけ判断を迷わせたことか、またそれによって、国民の間に、その要請や指示に従う者と従わない者が生じ、その結果、両者の間で嫌がらせやイジメといったどれだけ哀しくやりきれない、そして無用な分断を生じさせてしまったことかを思い出していただければお判りいただけるものと私は思う。

またこのことがどれほど大切かは、国会議員が自らの持つ国民から負託された権力を政府官僚にを丸投げして、ほとんどの立法を放任して来た結果、その隙に、中央省庁の官僚たちが地方政府の役人に向ってご都合主義的に設けて来た「タテ割り」に基づく「行政指導」や「通達」あるいは「政令」や「省令」といった臨機の指示や命令がどれほどこの国の行政のあり方を融通の利かない硬直したものとさせ、さらにそれだけではなくどれほど法秩序あるいは法体系を複雑化させ、それだけに法というものを国民には判りづらくさせ、国民が民主主義的感覚を身につける上でどれほど障害となって来たか、またそれだけに国民が日常的に法律を活用しようと思っても、法律を活用しづらいものとさせて来たことか、ということどもを思い出していただければお判りいただけよう。

とにかくこの日本という国が本物の国家となるということは、首相も本物の首相になる、政府も本物の政府になるということでもあるが、「互いに他の府省庁の管轄範囲に踏み込まない」などといった、官僚が勝手に作って来た「タテ割り」などという悪弊は首相と全閣僚、さらには全国会議員を含む全政治家の結束の下に廃止されることを意味するし、それだけに、国民が不幸にして大惨事という事態に遭っても、かつてはつねにそうであった「初動体制が遅れる」ということはもうなくなり、「合法的に最高な一個の強制的権威を持った者」の指揮と統率の下で、迅速果敢な統治、つまり、救助、検査、療養と秩序維持が整然と行われるようになることを意味する。

そこでは、その指導者による———その指導者の周囲には権力に忖度などせず、あくまでも大所高所から、またひとえに国と国民の安全を第一に考え、科学的合理的に発想して戦略を提言できる本物の知識人から成る参謀がいるはずであるが———統一した戦略と指揮の下、中央政府と地方政府は互いに蜜に連携協力体制をとりながら、しかもそれら各政府内の全組織も組織を挙げて互いに協力し合いながら機動的に動くようになるからである。
また、自衛隊や警察機関そして消防機関も、「合法的に最高な一個の強制的権威を持った者」の指揮と統率の下で連携して動くようになるからである。そしてそのときにはもはやボランティアがいなくては救助作業も進まない、というかつてのような状況はなくなる。

また、救助した後のことについても、これまでのように、関係各府省庁が互いにバラバラに復興と救済に当たるとか、途中から事実上見捨てられてしまうというようなことはもうなくなり、、「合法的に最高な一個の強制的権威を持った者」の指揮と統率の下で、統一的かつ総合的かつ長期的な戦略に基づき、被災者一人ひとりが真に自立できるまで、人間の尊厳に立った統治が為されるようになる。

これらが新しい政治家の手によって実現されれば、これまでのような、官僚による、闇の、あるいは非公式の権力の行使などはまったく不可能となる。そしてそれは高級官僚の「天下り」を自動消滅させられることでもある。

またそうなれば、国家目的を実現し、また民主政治を実現し、またそれを維持する上で必要な情報は、これまでのように、途中で、自省の損得に拘る官僚の恣意的判断に拠って握りつぶされてしまうというようなことはなくなり、細大漏らさず、末端の現場から国家の最高指導者にまで最速で伝達されるようになる。

そうした中で、軍(自衛隊)に対しても、「5.15事件」や「2.26事件」を二度と起こさないようにするために、シビリアン・コントロールを口先だけで済ますのではなく、「文民統制を貫ける、国民にとって安全で信頼できる、兵に対する統治機構(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.164)というものが政治家によって考え抜かれ、あるいは、「将来の軍隊の活動をめぐる一大不信感を解消できる諸条件が整備」されると共に、「厳格な文民統制を国民に保証できる実権と技術・知識・人材・経験をそなえた防衛大臣」も育って来て、クーデターといった非民主的暗躍などを防止する二重三重の法整備も為されるようになるだろう。

また、国会が質問の場ではなく、正真正銘の立法府となり、名実共に国権の最高機関となりうる。それも、議論に先立ってつねに優先順位が考慮されて議論され、立法されて行くようになるだろう。

それは同時に、あくまでも政府は議会が議決した法律なり政策を執行する機関となり、その政府の中枢である内閣は、議会が議決して公式の政策となったそれをいかに効率よく迅速に執行して成果を上げられるかという執行方法を閣僚同士で議論して決定するための機関となる。
それは、内閣が国会が決議した法律や政策を忠実に執行することを主たる役割とする本来の執行機関となることを意味する。
またそれは、官僚たちが組織を挙げて出して来た案を各閣僚が合意の署名をして追認してはそれを「閣議決定」として来た、またそうしてはあたかも
重要な政策を立法府の審議を経ずとも実行してしまえるかのように、それを正当化するための手段に使ってきた内田樹(たつる)赤旗日曜版2014.3.16付)これまでの閣議閣議決定のあり方は根本から変わることをも意味する。

そしてそうなって初めて、憲法がその第41条で明記する、「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」とする中での国権、すなわち国家としての権力の「最高」という意味が国会と政府と裁判所の相互に深く浸透することになる。
最高とはこれ以上のものはないということを意味し、それ以外の国家機関の権威と権力はすべて国会のそれ以下で、すべては国会権力に由来する、という意味だ。
そうなれば、首相が、あるいは内閣が、恣意的であろうがなかろうが、またどのような理由を付けようが、憲法あるいは一般法について、従来の解釈を変更ないしは改訂したり、違憲の法律を持ち出したりするなどということはすべて越権行為となり、決して許されなくなる。というより政府あるいは内閣はあくまでも国会が決めたことを決めたとおりに執行することを本来の役割とする機関であって立法機関ではないのだから、憲法や法律を議論できる場でも機関でもないのだ。
ましてやそれを「閣議」などで「決定」できる立場ではない。それを明確化しているのが過去の教訓に基づいて人類が獲得した三権分立という智慧なのだ。

またこの国が本物の国家となれば、執行機関である行政府と司法権を有する裁判所との相互独立も実現され、本当の意味で三権分立も達成されるようになる。
そうなれば、これまで法務省の官僚に支配されて来た裁判所判事も、そして検察官も、行政府所属を維持しながらも、公正と中立を貫ける完全な独立を達成されるようになる。
それは、国民の誰もが「法の下に平等」という考え方の下で、何人の恣意も差し挟まれることなく公正に裁かれるようになることであって、
このことの意義も、実際には限りなく大きいのである。

そして予算についても、これまでは執行機関が立てていて、それを当たり前として来たが、これからは、憲法も改正されて、国民から納められたお金の使途は、公僕に拠って決められるのではなく国民の利益代表である政治家によってこそ国会にて、あるいは国会の委託を受けた複数の公認会計士を含めた公正で中立なる第三者機関によって、使途の優先順位を明確化した上で決められて行くようになるだろう。
それは一般会計予算のみならず、特別会計予算についてもである。

その結果、これまで官僚が自分たちの既得権維持のために設けて来た「国家的事業」ないしは「公共事業」は興せなくなるだけではなく、巨額の無駄遣いもできなくなり、高級官僚の「天下り」も不可能になり、さらには超巨額の政府債務残高も順調に返済されて行くようになると並行して、国民の福祉向上と教育の質の向上を最優先に遣われるようになるだろう。

 

外交も、「合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者」によって全権委任された者を通じて、つねにまともな外交が行われるようになる。

中央政府が真の指導者を持つ真の政府となると共に、都道府県庁や市町村役場という地方政府も、共にそこでの真の指導者を持つことになり、国全体の統治の体制が整うようになる。

すなわち、都道府県庁の役人も、市町村役場の役人も自主的・主体的自覚が高まり、公務員は真の公僕となり、真の「自治」体となり、それだけ中央政府に支配や影響されずに、各地域の実状や特殊性に合った行政が可能となる。

そして今後は、地球温暖化が進む中で、ますます頻繁に生じることになるであろう、得体の知れないウイルスの感染をも含めた自然大災害時(巨大地震時、大洪水時、巨大津波時、大豪雨時、巨大台風通過時)にも、国家として、必要で正確な情報を地方政府を通じて速やかに収集し、それを時々刻々国民に流すとともに、被災者を最大限迅速に救済しては、必要な検査をきめ細かくして、適切な医療を施し、またそれを継続できる大規模危機管理体制も出来上がって行くようになる。

食糧もエネルギーも自国で、あるいは各地域で確保できるようになるだろう。

以上、こうしたことが次々と実現されて行くことによって、非常事態あるいは国民的大惨事がいつ生じても国民はそれを冷静に受け止められるようになり、冷静沈着に対処できるようになるのである。

 

主権者としての国民のあるべき態度

ところで、こうした国家実現への変革を実現しようとする際には、私たち国民は、過去の教訓に照らして、主権者として、とくに注意していなくてはならないことがある。

それは、こうした変革は、現状維持に固執する官僚にとってはこれまで長い間維持して来た既得権や独裁権を取り上げられることになるために、そしてそれは彼らの「天下り」を不可能とさせてしまうため、彼らは、憲法第15条第2項が言う「公僕」「全体の奉仕者」としての立場など糞喰らえの姿勢で組織を挙げて妨害に出て来て、その変革を無きものに、あるいは骨抜きにしようと抵抗してくることが予想されるということだ。

こんなとき政治家は、自分が国民から選ばれた国民の利益代表であること、国民の利益を最優先に実現しなくてはならない使命を負っていることを忘れないことだ。
官僚の助言にではなく、一貫して、国民の声に耳を傾け、本物の知識人多数の助言を聞き、その上で大局的見地に立って判断し、決断し、決断したそれを官僚に断固実施させる必要がある。
抵抗する官僚、サボタージュする官僚には日本国憲法第15条第1項の公務員罷免権を公務員法に優先させて行使すればいいのだ。そしてその時、自分が今やろうとしていることを自らの言葉で国民に向って簡潔に説明し、同時にそのことへの国民の理解と協力を訴えるのだ。

政治家はその姿勢を決して緩めてはならない。

かつて民主党政権が、とくに初代鳩山由紀夫首相が選挙時の公約を忠実に実行しようとしながら短命に終ったのも、鳩山氏の同志であったはずの菅直人野田佳彦を含む内閣の各閣僚が一丸となってその姿勢を国民の前に貫けなかったからだ。
また、その時、民主政治の何たるかも本当は知らない大新聞を含むメディアも、官僚に操られて、鳩山氏を退陣に追い込んだのだ。

実は私たち国民は、その時ほど、日本の戦後政治史において、主権者としての自覚と決意、そして民主主義に覚醒した真の市民としての自覚と決意が試されていた時はなかったのではないか、と、私は思う。

それは、私たち主権者は、市民となって、無責任なコメンテーターあるいは政治評論家と呼ばれる人たちやメディアに振り回されるのではなく、しっかりと目を開けて、なんのために民主党に政権を取らせたのかを考えることだった。
そして、官僚独裁を打ち破って「政治主導」という真の民主政治を実現するには今こそ自分たちが選んだ代表への主権者としての応援がどれほど必要であるかを、しっかりと自分の頭で考え判断すべきだったということである。

もし、国民の大多数があの時それをしていたなら、野田佳彦による消費税増税の強行はもちろん、民主主義と立憲主義と平和主義を踏みにじった上に政権を私物化した自民公明連立から成るあの「悪夢のような」安倍晋三長期政権を生むこともなかったのではないか。
さらには、その体験を経た時、国民は、日本の歴史上初めて、市民となることの意義と大切さを肌で実感し得たのではないか。

私にはそう思えてならないのである。