LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

5.1 私たち日本人一般に見られるこれまでの「ものの考え方」と「生き方」の特徴—————その1(改訂版)

 今回は、拙著「持続可能な未来、こう築く」について、2020年8月3日掲載の目次の中の5.1節を公開しようと思います。

それは、第1章でも述べてきたように、今後、地球温暖化生物多様性の劣化が加速度的に進むことによって、ますます前代未聞の大災害や難題が世界あるいは地球に次々と生じてくるようになるであろうと予測されますが、果たしてその時、私たち日本国民の一人ひとりはこのようなものの考え方や生き方を続けていて大丈夫なのかと私には危惧されるものを整理したものです。

 本節も、全体は長いため、便宜上「その1」と「その2」に分けて公開します。

 

5.1 私たち日本人一般に見られるこれまでの「ものの考え方」と「生き方」の特徴                     ——————その1(改訂版)

  私たち日本人一般に見られる「ものの考え方」と「生き方」の特徴、それも、果たしてこのようなものの考え方や生き方を続けていて「いざっ」という時、あるいは「まさか」という時には大丈夫なのかと私には危惧される「ものの考え方」と「生き方」の特徴を示すと次のようになる。大きくは7つあると私は思っている。

ただしこれは私が思う日本人一般に見られる傾向であって、もちろんそうではないものの考え方や生き方をしている人はいる。しかしそれは例外と言っていい範疇に入る人々である。
  なお、ここでいう日本人とは、民族や人種に関わりなく、あくまでも「日本国籍を持つ人」の意味である。

1.「自分」を持たないし、「自分」に誠実ではない。「自分」を尊重しない。

 多くの人々の命と暮らしそして安全保障に共通に関わる問題が、自分の住んでいる地域に起こっても、また他所の地域や外国に起こっている時にも、ほとんどの人は、それを自分自身の問題として捉えない。だからそれを自分の頭で考えようとはしない。つねに周りの人の言動を気にしてそれに合わせようとしたり、特に著名人や「専門家」と呼ばれている人の言うことに影響を受け、あるいはそれに頼り、それに流されがちとなる。そしてそうしては安心している。

 ものの考え方や生き方において、自身を支えるものあるいは芯棒となるものがない。自分なりの価値規準や物事への判断規準を持たない。これが自分の生き方だ、これが自分だというものがない。主体性を持たないし、また持とうともしない。だから、いわゆるアイデンティティもない。生きる上での誇りもない。

 つまり、一人ひとりは、特に精神面において、自律できないし、したがって真の意味での自立あるいは独立はできてはいない。独立しようともしない。

 結局、こうして、一人ひとりは、自分の中に埋もれているであろう能力を自分で開発せずに、自分を周囲の人とは代わり映えのない人間、個性の乏しい人間に自分でしてしまう。それだけではない。物事の価値の軽重の違いをも特に区別せずに、また着手すべき物事の優先順位もつけずに、つまり何事もごちゃ混ぜにして対処しようとする(例えば自国の伝統的な文化のあるところへの外国文化の移入の仕方であり、都市の姿であり、文部科学省の教育行政のあり方)。

 その結果、社会を、集団を、画一的で均質的であるがゆえに耐性のない社会、活力のないものにしてしまう。

 

2.人が人間として生きてゆく上で絶対に欠かせないものや、本当に大切なものを軽視する。同じことであるが、出来事からその起こった原因や本質を客観的かつ科学的に汲み取らないし、また、そこに見られる「原理」や「真理」を軽視する。

 多くの人々の命と暮らしそして安全保障に共通に関わる問題が起こったときにはみんなで大騒ぎをするが、その場合も、なぜそれが起こったのかと、その出来事の原因を客観的かつ科学的に調査究明しようとはしない(好例が、第一次と第二次の石油ショック。冷夏によるコメ不足事態。東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融による水素大爆発事故)。

 だから、起こったその事から、何も学ばないし学べない。“ここから何が言えるのか”という教訓を真摯に引き出さない。総括や検証もしない。その一部始終をあったままに整理して記録として残すということもしない。

 そうした態度は何かに失敗した場合も同様である。なぜ失敗したのかその原因を明らかにしようともしない。少なくともとことんその原因を突きとめようとはしないで適当に済ませてしまう。というより、その場合、その事に関わった当事者あるいは関係者は失敗の事実を隠そうとさえするし、証拠の文書類を焼却したり破棄したり改竄しようとさえする。

 また周囲も、起こった出来事だけに気を取られてしまう。つまり、目の前に起こった出来事の背後や背景に何があってこうした出来事が起こっているのか、事の本質は何か、とは問わないし、その方向に向けて調べようともしない。

つまり、いつも、目の前の出来事に対する対応・改良・修繕という対処療法だけに終わってしまう。そのため、その背後で進行している事態を見逃してしまって、気が付いた時にはもはや手遅れ、あるいは万事休す、という状態にしてしまいかねない。

 そして、こうしたことも、本当は根本は何も解決も克服もできてはいないのに、しばらく時間が経つと、誰もがまるで何事もなかったかのように、忘れて平気でいる。だから、同じ類の失敗を繰り返すし、その失敗を繰り返すたびに、事態や状況を一層悪化させてしまう(例えば、この国の中央政府の特に経済産業省の官僚らが主導する原子力発電行政と、それに操られる内閣総理大臣経済産業大臣)。

 

3.集団で何かを為そうとするとき、動機・目的・正義・大義・理念・原則・意味・公正性・透明性・客観性・各自の役割と責任を明確にしない。その結果、無駄で無意味な労力と時間と金と精神を費やしてしまう。

 何かを為そうとするにも、物事に対処するにも、動機と目的を明確にしない。正義や大義を問うこともしない。理念も問わない。物事の原則も問わない。物事や言葉の意味、また歴史的出来事の意味を問わない。

 また、この社会を根底から成り立たせている重要な言葉や概念の意味をも、いわゆる専門家と呼ばれている人も含めて、誰もが判ったつもりになっているだけで、曖昧なままに使っている(例えば、自然、経済、政治、主権、国家、自由、民主主義、権利、法の支配、法治主義三権分立、等々)。

現象や情勢を客観的情報やデータに基づいて理性的に判断することもしないし、自分たちがやっていることがうまくいかなくなったときにも、立ち止まって考えたり、引き返したりするということもせずに、最初に決めたことは、結果がどうなるか、どういう事態を招くかということも考えずに、最後までやってしまう。だからその場合、大抵は、大失敗ということになる(最大の好例が、アジア・太平洋戦争建設省官僚による長良川河口堰という大公共事業)。

 そしてその場合も、その実施や実行を指示する立場の上司や上層部は、明確な指示や命令を発するのでもなく、ましてや、「結果についての全責任は自分がとるから」として指示するのでもなく、決断の意思決定や命令をつねに曖昧にしてしまう。そうなれば、結果は大抵「失敗」に終わるが、その場合も、上司あるいは上層部は自ら責任を取ることは決してせずに、つねにその責任を部下あるいは他部署に転嫁したりし、あるいは末端の現場の者に責任を取らせて(例えば、詰め腹を切らせて)、事柄をうやむやにしてしまう。

 また、この国の特に政府省庁の官僚たちは、自分たちが所属する組織の組織構成の仕方においては、自分たちは公僕、すなわち「国民のシモベ」であるという原則(憲法第15条第2項)を無視し、その上、公正性や透明性あるいは客観性の確保ということは二の次にして、常に自分たちの組織の利益を最優先する組織の作り方やルール(法律)の作り方をする。経済産業省を例にとれば、その組織内に、原子力行政を推進する部署と、原子力行政の安全性をチェックする部署とを同居させるというのがそれ。つまり、それでは明らかに原子力行政の安全性は保障され得ないのに、アクセルを踏み込む部署と、ブレーキを踏み込む部署とを混在させるのである。混在させては、自分たちに好都合なように二つの相反する役割を担う部署を、その時々に恣意的に使い分けるのである。また総務省について見ると、同省は放送を含むメディア、特にジャーナリズムのチェックを受けるべき政府の一省庁であるが、同時に、放送を含むメディアを直接監督したり規制したりできるようなルールを官僚たちは法律として設けるのである。そうしては、官僚たちは、経産省の官僚たちと同様に、自分たちが公僕であるという原則を無視して、国民の「知る権利」を恣意的に統治するのである————実は官僚たちがこんな身勝手なことができてしまうのも、主権者の政治的代表である政治家たちが公僕としての官僚をコントロールするという本来の役割を果たさないで、逆に官僚たちに常に依存し追従しているからなのである————。

 

4.物事や出来事の「事実」や「真実」を直視しようとはせずに、つねに主観的で情緒的、かつ恣意的に見ようとする。

 自分(たち)にとって不都合な状況はあえて見ようとはしないし、不都合な情報は知ろうともしない。自分(たち)が知りたいことしか知ろうとしない。起きて欲しくないことは起きないことにしてしまうし、起きなかったことにしてしまう。同様に、醜いもの、汚いもの、不快なもの等も見ようとはしないし、見せようともしない。つまり、事実や真実、あるいはありのままの状況を重視せずに、つねに軽視し疎んじる。

 脅威となる相手と戦うにも、とかくその相手を知ろうとはせず、また相手の立場に立って相手の出方を考えようともしなければ、自分の力量も能力も客観的に知ろうとはしない。戦略も立てずに、場当たり的な戦術だけで対処しようとする。

 その一方では、時に「大和魂」を持ち出しては自分本位の大義に酔い痴れて、“とにかく頑張ろう!”とか、“バンザイ!”といった意味不明の雄叫びをみんなで上げては、情緒的に、あるいは精神論で対処しようとしてしまう(例えば、衆議院を解散するときの国会議員の万歳三唱)。

 

5.構成員の一人ひとりが本当の意味で自律的に自立ができていないがために、その集団や組織は、時にブレーキが効かなくなって暴走し、社会の秩序を乱す危険な存在となりうる。

 自分の属する集団や組織の利益や面子には異常なほど拘る。またその集団や組織の内部では「和」あるいは「和の精神」ということを理屈抜きで重視する。だからその集団や組織は、内部の一人ひとりが、既述のように、精神的に自立も自律もできていないがために、また価値基準や善悪の判断基準が個々の内部で確立していないために、内心ではそれが不正あるいは不法行為と判っていても「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式にやってしまい、その結果、社会にとっては極めて秩序を乱す危険な存在となる。

 また、そのような集団や組織の不祥事が明るみになったり、不正や不法行為が社会から糾弾されたりした時には、組織の最高責任者が一人国民の前に出てきて真摯に事の真相と経緯を説明して誠実に謝れば、それでも人々は幾分かは溜飲が下がるのに、それをしないどころか関係者みんなでゾロゾロ出てきては、揃って頭を一定時間下げ続けるだけで「謝った」ことにしてしまうのである(例えば、企業犯罪における社会的けじめの付け方)。つまり、中身の真実さや誠実さよりも、外見や格好あるいは形式ばかりを重視するのである。

 一方、そうした様を見つめる側も、それで「ミソギは済ませた」としてしまうのである。だから、同じようなことがアッチでもコッチでも頻繁に起こるし、また繰り返される。

 結果、この国の人々の道徳心や倫理観はとどまるところなく低下してゆき、社会は乱れ、恥ずかしい国、学ばない国、みすぼらしい国、救われない国、軽蔑される国になってゆく。

 

6.歴史を軽視し文化を疎かにしてきたために、イザッ災難という事態に直面した時に、「手本となるもの」や「支えとなるもの」が記憶になく、対処できないまま大混乱に陥る可能性が大きい。

 歴史を学ぶということは、その時代、先人たちがどう生きたか、ということを知ろうとすることであり、またそこから何を教訓として引き出すかということである。一方、文化を知る、文化に関心を持つ、あるいは文化に理解を寄せるということは、その時代、先人たちは、集団で、どのような知恵を働かせて、どういう生き方や暮らし方を大切にしてきたかということを、尊敬の心を持って学ぼうとすることなのである。

 その際、決定的に大切なことは、歴史についても文化についても、「正しい」歴史や文化を知るということである。そしてそうあってこそ、その国の人々は、その国の国民としてのアイデンティティを身につけ、正しい自己認識を身につけ、正しい愛国心愛郷心を身につけるのである。

 しかしこの国では、特にアジア・太平洋戦争前後から今日までは、日本政府の官僚主導による意図的な方針の下、特に文部省そしてそれを引き継いだ文部科学省は、特にこの国の正しい歴史を児童生徒に教えることをあえて避けてきた。また文化についても、ありのままに、正しく教えることを軽視してきた。

そのため、私たち国民の多くは、その一人ひとりが、自分たちの祖父母を含む祖先たちの生き様を知らないし、また教えられてもいないから、本当の意味でのアイデンティティはもちろん、正しい自己認識も持てず、健全な愛国心愛郷心も育ってはいない。先人たちの知恵や工夫も知らない。

 その結果、私たち日本国民は、イザッ国難、イザッ大惨事という事態に直面したとき、見習うべき先人たちの知恵や発想の記憶を持たないがゆえに、対処法が判らないという事態に陥ってしまい、大混乱に陥ってしまうという可能性は大なのである。

 

7.自分たちの社会や集団に問題や難題が生じたとき、自分たちの「代表」を自分たちの手で選び、その者の統率の下にみんなで一致協力して事態の解決に当たるという体験を日常的にしていないことである。

 多くの人々の命と暮らしそして安全保障に共通に関わる問題が起こったときには、各人がバラバラではその問題に対処できないから、その場合はどうしても集団で事態に対処しなくてはならなくなる。が、その場合も、みんなで漫然と動いていてもそれは烏合の衆でしかなく、一向に事態は好転しないし克服もできない。したがってこのような場合にはどうしても関係者全員の合意の下に誰か指導者を一人選出し、その者に最高の一定程度の強制的権威と権力を与え、その者の指揮の下に、全員が一致協力して動くということが不可欠となる。

 ところがこの国では、どこの地域でも、どのような災害に直面した時でも、関係者たちだけの集団でそういう体制を整えて、一人の指導者の下で問題に対処するという方法をとったことはかつて一度としてなかった。集団で何かするにも、そうした権威と権限を持った指導者の下で行動するというのではなく、せいぜい取りまとめ役であり、面倒見のいい「世話役」を中心に共同行動するという仕方だった。そしてそれが「自治」活動とされてきた。

 しかしその場合も、本来であったなら、直近の「選挙」で選ばれた市町村議会議員や都道県議会議員が複数いるのだから、そしてその人たちこそ当該地域の住民の政治的利益代表なのだから、その政治家たちが協力し合って住民の意向や要望を速やかに聴きながら、必要に応じて緊急の臨時議会を開いて対策案を予算とともに議決し、それを当該地方政府に執行させればいいはずなのに————政治家にはそれができる権限と権力が主権者から負託されているのだから————、この国では、過去、どこの地域でも、そうした本来の自治の体制をもって問題に対処したことはなかった。

 しかし、こうした実態は地方に限らない。つまり「政治的利益代表」として、国民全体の生命と財産そして暮らしを第一に守るべき役割と使命を負った、そしてそのための権限と権力を主権者から負託された国会議員でも全く事情は同じだ。予算と政策を含む法律を作ることのできる権力である「立法権」そのものを、本来執行機関でしかない政府の官僚たちに丸投げしては、放任しているのだからだ。政府は政府で、その中枢である内閣すらも、それを構成する総理大臣や各府省庁の大臣らは、自分たちがコントロールしなくてはならない各府省庁の官僚という名の「国民のシモベ」に操られてしまっているのだからだ。

 これでは、今後、地球温暖化の加速、生物多様性の劣化の加速によって、頻発すると推測される大規模災害や大惨事には、この国はほぼ間違いなく無政府状態に陥り、私たち国民は救われる可能性はますます低くなる。というより、むしろその時には、先のアジア・太平洋戦争末期に旧満州にて実際にあったときと同じように、様々な情報を握っている官僚たちは、自分たちだけいち早く難を逃れる行動に出るのではないかとさえ推測されるのである。旧満州ソ連軍が大挙して突如攻め込んできたときに————それは2回目の原爆が長崎に投下された日であったが————、関東軍の官僚や将校たちは自国の民間人を置き去りにして自分たちだけいち早く逃げてしまった。その結果、日本政府の呼びかけに応じて満蒙開拓団として渡っていたおよそ155万の人々はソ連軍から守られることもなく、命からがら逃げ惑い、そのうち24万5千人近くは戦闘や飢餓そして集団自決で命を落とした。その結果残された多くの子供たちは中国人に預けられ残留孤児となった。また女性たちの多くはソ連軍にレイプされたりもした。残りの特に男たちはソ連軍によってシベリア送りとなり、ソ連独ソ戦で失ったおよそ2700万人の代わりの労働力として、長期にわたる過酷な環境下での抑留生活を強いられることになったのである。

 とにかく私たち国民は主権者として決して忘れてはならないのである。日本の官僚は、政府の官僚でも軍の官僚でも、その当時から今日もなお、イザっとなると、「公僕」としての立場など容易にかなぐり捨て、自分の利益を最優先して、冷酷非情となる傾向が強いのである。

そのことは、ニュースなどで報道される中央政府の各府省庁の官僚が打ち出してくる政策案————それを代わりに発表するのは閣僚なのだが————を長期にわたって注意深く観察しているとはっきりと見えてくるのである。