LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

5.1 私たち日本人一般に見られるこれまでの「ものの考え方」と「生き方」の特徴——————その2(改訂版)

5.1 私たち日本人一般に見られるこれまでの「ものの考え方」と「生き方」の特徴——————その2(改訂版)

 前回の(その1)では、近い将来、この国もますます直面してゆくことになるであろうと推測される前代未聞の大災害や大惨事に対して、私たち日本国民は、これまでのようなものの考え方と生き方、そして今もなお続けているそのものの考え方と生き方を続けていて果たして大丈夫なのかと私には危惧されるものの内、最も重視しなくてはならないと私には考えられるものについて整理してきました。

 今回の(その2)では、少し観点を変えて、では、そうしたものの見方や生き方を特徴とする日本人一般は外の人たちからはどう見られてきたのかということを明らかにすると共に、そもそも私たち日本人は、どうしてこのようなものの考え方や生き方をするようになったのか、何がそう仕向けてきたのか、ということを考えてみようと思う。

 少なくとも今、それをきちんと考えておかないことには、これまででさえ近隣諸国を含むほとんど全ての国々から、“日本は一体何を目指しているのか、日本人は一体何をしたいのか”と見られてきているわけで(カレル・ヴァン・ウオルフレン「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」徳間書店p.305)、今後、日本が、そして私たち日本国民が、何を大切にして国際社会の中で生きて行ったらいいのかということを迫られた時————実際には、今はすでにそういう状態にあると、私は考えるのであるが————、意義ある生き方についての発想は何も出てこないのではないか、と思われるからである。

 

(1)外国人の日本人への見方

 世界中のどこの国の人々にも、多かれ少なかれ、その国その地方独自の風土と歴史の中で育まれた固有のものの考え方とか生き方があるものである。そしてそれこそが文化といわれるものであり、人々はその文化の中でアイデンティティを身につけてゆくのである。

それだけにその文化は、それぞれ質の違いはあれど、いずれもそれぞれの風土と歴史の中で形成されて来たものであるだけに、どれが良くてどれが悪いとか言えるものではないし、また、一般に、相互に軽々に輸出したり輸入したりできる質のものでもない。

 当然ながら、この「風土と歴史」と「人々のものの考え方・生き方」との関係は、そのまま私たち日本人にも当てはまるはずである。

 しかし、である。そのとき、私たち日本人一般の行動様式、とくにものの考え方と生き方については、他所の国の国民のそれらとは顕著に異なっているのではないかと私には感じられるところが多々ある。それも、こんな時こそはと私には思える肝心な場面で見せるその姿においてである。

 たとえば、次のような時である。

————今、この国を変えたい、変えなくてはと思っている人は非常に多くなっていると私は思う。それであれば、それを実現する最も確実で手っ取り早い方法は、国民生活の今と近未来を決定的に左右する政治状況を換えることだと私は思うのであるが、ところが、その政治を換える絶好の機会の一つであるはずの選挙となると、なぜか投票率は低いままだし、結局は現状の社会をもたらして来た現政権を勝たせてしまう、という行動様式についてである。

 あるいは、「3.11」直後の東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融に因る連続水素大爆発事故によって最大47万人の避難者・被害者を出し(2011年3月14日)、原発事故の恐ろしさと悲惨さは世界をも震撼させたはずであるにも拘らず、またその被害者の多くは丸10年経ってもなお被災3県(岩手、宮城、福島)で4万2565人もの人々が自宅にも戻れずに避難生活を強いられ続けているというのに(「サンデーモーニング東日本大震災から10年 2021年3月7日)、この国の政府は、その事故の検証も公式にしないまま、早々と国内原発の再稼働を決めてしまった、という行動様式についてである。

 あるいは、近いうちには、首都圏を含んで、南海トラフなる巨大地震が50%を超える確率で襲ってくるという専門家の見方があり、そしてそれが実際に起ったなら、最低でも何万人という規模の人が犠牲になるとも予想されている中で、国民のかなりの数の人々は、東京やその周辺に移り住もうとすることを避けようとするどころか、却って、東京一極集中をますます加速させてしまう、という行動様式についてだ。

 あるいは、今、地球規模で温暖化が進み、気候変動が進み、このままだと今世紀末には4度ないしはそれ以上高温化すると言われ、そのときには、人間はもはやこの地球上には住めなくなっているかも知れないとその方面の専門家のほとんどが警告しているのに、国民も、政治家も、ほとんど無関心なままでいる、という行動様式についてである。

 

 あるいは、人が人間として生きてゆく上で絶対に欠かすことのできない物を常備することを軽視したり疎かにしたりするものの考え方であり生き方についてである。もう少し具体的に言うと、それを食わねば生きてゆくことさえできない喰い物を自国内で自給しようという空気がほとんど見られないことであり、また、それがなくては日常の暮らしの中で、喰う物を食べる際の煮炊きもできなければ、寒いとき暖をとることもできないエネルギー資源を自国内で何とかして賄おうとする空気もないことである。そしてそれについては、日本人の生命と財産と暮らしを第一に守るべき使命を負っているはずの政府も全く同様であることだ。

 実際、この国の食料自給率はせいぜい38%前後のままだし、エネルギー資源の自給率は実に8〜11%程度のままなのである。

 では、そんな状態で、食料危機に直面した時には日本人はどうしたか。

例えば1993年の冷夏の時がそうだった。冷夏がたたってその年の秋には凶作で米が穫れず、不足に陥ったのだ。その時、日本国民、また国民の命と暮らしと自由を守るべき政府はどうしたか。

特に都市住民の多くは“食う米がない”と言ってはうろたえ、政府は政府で慌ててカリフォルニア米やタイ米を緊急輸入したのだ。幸い、翌年は例年並みにコメは穫れた。したがって前年緊急輸入した米は余ってしまった。すると日本国民はそれをどうしたか。家畜の豚の餌にしたのである。カリフォルニアの人やタイの人が誇りを持って育て、彼らも主食としている食糧を、である。

 エネルギー危機に直面した時はどうだったか。

 1973年のオイルショック時がそうだった。その時日本国民、また国民の命と暮らしと自由を守るべき政府はどうしたか。

国民はうろたえるし、時の総理大臣田中角栄は、三木武夫を特使として中東に派遣したのである。その時、三木はなりふり構わぬ、つまり恥も外聞もなく、「土下座外交」をしたのである。結果、見事に相手国にいいようにあしらわれたのだ。

 しかしである。その当時はまだそれでも日本に輸出してくれる国々があったからよかった。

でも、これからは、それも間違いなく期待できなくなる。温暖化が加速していることによって、それまで農業大国として穀類を輸出していた国々、例えば、ロシア、ウクライナ、オーストラリア、カナダ、アメリカといった国は近年、干ばつや大洪水等によって収量は年によって激減するようになっているからだ。そうなれば、必然的に、とても外国に輸出などしていられずに、「自国民を食わせるのが先」となる。となれば、これまでの「足りなくなったなら外国から買えばいい」という発想はもう通用しなくなるし、実際、その可能性はますます高まっているのである。

 

 世界において、日本人を知る上での最高の著書の一つと数えられるようになった「菊と刀」の著者ルース・ベネディクトも日本人についてこう書く。

その著書が書かれたのはおよそ70余年前の太平洋戦争中である。書くきっかけとなったのはアメリカ政府からの依頼だ。アメリカ政府は、日本はこれまで国を挙げて戦ってきた敵の中で最も気心の知れない敵と思ったのである。そこで、対日戦を有利に運ぶために、敵である日本人の性状を知る必要を感じ、彼女に調査研究を委嘱したのである。それで出来上がったものがこの書というわけである。

 彼女は、その著書の中で、日本人の行動の仕方について、矛盾の数々を明らかにしながらも、その不可解さに当惑さえしているのである。

“日本人は最高度に、喧嘩好きであるとともにおとなしく、軍国主義的であるとともに耽美的であり、不遜であるとともに礼儀正しく、頑固であるとともに順応性に富み、従順であるとともにうるさく小突き回されることを憤り、忠実であるとともに不忠実であり、勇敢であるとともに臆病であり、保守的であるとともに新しいものを喜んで迎え入れる。彼らは自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気にかけると同時に、他人に自分の言動が知られないときには罪の誘惑に負かされる。彼らの兵士は徹底的に訓練されるが、しかしまた反抗的である。そしてこれらはいずれも真実である。”(「菊と刀講談社学術文庫 p.12)

 実際、第二次大戦中、日本兵は、ルース・ベネディクトからでなくとも、欧米からも次のように見られていたのだ。

“身の毛がよだつような相手でも、ヨーロッパでは敵は人間だった。しかし太平洋戦線では、日本人がまるでゴキブリかネズミのように見られていると判った”(従軍記者アーニー・パイル)

“思慮分別のないジャップは、人間らしさを示すものは何一つない”(雑誌TIME)

アメリカ人は日本人を人間以下の害虫とみなしている”(ワシントンのイギリス大使館

“日本人ほど忌み嫌われていた敵はいなかった”(歴史家アラン・メリンズ)

(以上、「BS世界のドキュメンタリー オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史(第3回)」より)

 そしてこれに近い見方は、あれから70年余を経た今もなお、形を変えて、今度は世界から見られているのだ。

たとえば、フリードマン・バートウは「嫌われる日本人」(NHK出版)という書を通じて、田麗玉は「悲しい日本人」(たま出版)を通じて、M.K.シャルマは「喪失の国、日本」(文芸春秋)を通じて。日本人である谷本真由美も「世界でバカにされる日本人」(ワニブックス新書)の中で同様なことを述べ恥じている。

 

 また以下のようなものの考え方や生き方も外国人をして唖然とさせるか、首を傾げさせてしまうものではないだろうか。

 その代表的で、一つの特徴的な性質を示すものの一つが、それまでのものの考え方や生き方そのものが、自身が生み出したものではなく外国から移入したものであったのに、ある出来事を契機に、それをも文字通り一夜にして捨て、新たに移入した生き方に切り替えて平然としている姿である。つまり全とっかえしてしまうものの考え方と生き方である。かと思えば、移入文化を取り入れるにも、それが自分たちのそれまでの文化とどこがどう調和しうるのかとか、それまでの文化とどう融合させたらいいのかということも考えないで、ただ取り入れようとする姿である。そこでは、既存文化に移入文化をただ混在させるだけだから、文化はごちゃごちゃになる。

 こうした生き方の具体例の一つが、幕末における「尊皇攘夷」論を唱えていた者たちが、西欧機械文明に屈服させられると、明治新政府下では、侍たちは髷(まげ)を落として「散切り頭」し、文字通り一夜にして、西洋風の建物である「鹿鳴館」では連日のように舞踏会に酔い痴れては、「文明開化」を謳歌した姿だ。

 次の例もそうであろう。同じく明治新政府は、国を統治するのに、江戸時代の制度や習慣から学びながらそれを止揚するというのではなく、最初からそれとは全く異質の西欧の文物そして法制度や社会制度の取り込みを図ったことであり、しかもその場合、その取り込み方は極めて御都合主義的で形だけのものでしかなかったことである。つまり、そこでは、「市民革命」によって近代をもたらした近代西欧にとってはその肝心要とも言える、例えば、自由、平等、人権、民主主義そして「法の支配」といった概念などには全く無関心だった。というより、それらは、これから大至急「殖産興業」、すなわち産業を興してこの国を富ませ、「富国強兵」、すなわち軍事力を備えて欧米列強に屈しない国にしようとする明治新政府にとってはむしろ不都合で厄介者でしかなかったのである。なぜなら、そのために「一民族・一言語・一文化」政策を採ろうとしていた明治政府にとっては、自由、平等、人権、民主主義そして「法の支配」という概念や考え方は邪魔物以外の何物でもなかったからである。

実際そのことは、その後すぐに国のあちこちに起こった「自由民権運動」に対する明治政府の苛烈なまでの弾圧の状況がそれを証明している。

 あるいは次の例もそうであろう。それは明治新政府がとった、いわゆる「廃仏毀釈」だ。

これは、いわば毛沢東のやった「文化大革命」と同じ類のもので、神道を国教化しようとするもので、この政策の結果、全国各地では、神道家などが中心となって寺院・仏像・仏具を破壊したり仏典を破棄したりし、さらには僧侶を強制的に還俗させたりしては、聖徳太子の時代以来、大々的に移入した仏教によって成る社会を否定したのである。

 次の例も、その顕著な事例であろう。それは、アジア・太平洋戦争の無条件敗北前後に見られた日本人のものの考え方と生き方である。

1941年、日本は、それも、陸軍大学校海軍大学校という超難関学校の卒業生の中でもとりわけエリート中のエリートからなる「作戦部」が、工業生産力が日本とは比較にならないアメリカを相手に戦争を挑んだのだが、その時、軍部は、ひたすら “鬼畜米英”を叫び、“大和魂”を叫び、反戦を唱える自国民を“国賊”、“非国民”呼ばわりしながら、突入して行ったのである。だが、その戦争もいよいよ敗北が決定的になってくると、今度は、軍部も政府も国民も、かつての威勢の良さはどこへやら、 “一億玉砕”を叫び始めたことである。

 それだけならまだいい。広島と長崎に原爆が投下され、同時にソ連軍が満州北方四島に怒涛のごとくなだれ込んで来ると、とうとう天皇は「敗北」宣言を発し、日本帝国の「無条件」の降伏を認めるのであるが、ところがその直後、マッカーサー連合国最高司令官として占領統治のために進駐してくると、今度は、つい先日までは「鬼畜米英」だった態度を、これも文字通り一夜にして豹変させて 、「アメリカ様々」、「マッカーサー様々」、「これからは民主主義の時代」と、大歓迎したことである。

 この時の日本人が晒した様を、戦後の日本の偉大な政治家となった重光葵はこう述懐している。“はたして日本民族は、自分の信念を持たず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強い者にただ追随していくだけの浮き草のような民族なのだろうか”(孫崎享著「戦後史の正体」創元社 p.41の『続 重光葵日記』)

 しかし私は、今もなお、大多数の日本人の生き方はその当時とは少しも変わってはいないと見る。生き方において、同じく信念も自尊心も見られない。調子のいい時には国を挙げて大騒ぎをするが、調子が悪くなると途端にみんなで意気消沈してしまう。失敗から学ぶこともせず、自分で自分の生き方を変えることもできず、自分より強者と見る者にいつも迎合し隷従する、無節操な生き方をする姿がそこにあるだけだ。そうなれば、時流にただ流されて、根無し草として、あるいは風見鶏として生きるよりなくなる。

 言語に関する次の事例もここでの具体例に含まれるのではないか。

それは、厳然と、立派な日本語があるのに、それをカタカナ言語にして表現して平然としている姿だ。それも特に、私の見るところ、TVによく登場するような、これも日本語で「評論家」「批評家」という立派な言葉があるのに、それを「コメンテーター」とあえてカタカナ表現で言われる人たちに頻繁に見られるのである。例えば「尊敬する」を「リスペクト」と言い、「共同する」を「コラボ」と言い、「分かち合う」を「シェアー」、「申し出る」を「オファー」と言う。また「危険」を「リスク」と言い、「使命」を「ミッション」と言い、「現実」を「リアル」と言い、「合意」を「コンセンサス」、「精神」を「マインド」、「証拠」を「エビデンス」、「技術革新」を「イノベーション」等々と。とにかく挙げたらキリがない。というより、最近は、公共放送と自称するNHKさえも、母国語をないがしろにしてザッピング、アーカイブ、ワーケーション、さらには「操業開始企業」を「スタートアップ企業」等々と平然と使う。もはやカタカナ言葉をもって母国語を占領させている感すらある。

 ところがこういう人に限って、私の経験では、書く書体は小学生以下、日本人として恥ずかしいような字を書く。果たして、こうした言い換えを好んでする人は、視聴者にはかっこいいと思われるんじゃないか、とでも思っているのだろうか。それとも、自分の英語知識をひけらかしたいからなのだろうか。少なくとも、言語とは、どんな言語も、自分の意思や感情を相手に伝達するための手段であることを考えるとき、そしてその場合、相手にとってより判りやすい言葉であることが求められることを考えるとき、相手がわからない言葉や知らない言葉を使ったらその目的を果たし得ない。そう考えたとき、どんなに国際化の時代だからといって、視聴者の中には、例えば高齢者で、日本語しかわからない人がいるかも知れないとは想像しないのだろうか。むしろ、安易にカタカナ表現をするよりは、それをなんとかして的確な日本語に翻訳して用いたほうが、相手にはより判りやすく伝わるのではないか、それにそうした方が、日本語そのものが一層豊かになるのでは、とは考えないのだろうか。それは、ある意味では、相手に対して無責任で、無神経な態度ではないか、と私などは思う。

 では果たして、例えばアメリカ人は、あるいはイギリス人は、フランス人は、ドイツ人は、イタリア人は、彼らが自国内にいるとき、日本の評論家たちと同じように、ちゃんと母国語言葉があってそれを知っていながら、あえて外国語に置き換えたものを混ぜて表現するだろうか。

私は、多分、それはないだろうと思う。それは、彼らは、おしなべて自国の歴史を知ると共に自国の文化を愛し誇りを持っていて、それが故に正しい自己認識とアイデンティティも明確のようだからだ。ただし、その場合彼らだって、その国固有の言葉、例えば「寿司」とか「柔道」「相撲」といった類のものは、そのまま使わざるを得ないだろう。

 

 もう一つの性質の異なる象徴的なものの一つが次のものであろう。

 それは、歴史を振り返るとき、私たちの国が成り立ち、文化的に、あるいは文明的に発展してくる経過で、筆舌に尽くしがたく多大な恩恵を受けてきた国々に対して、イザッとなれば、その時だけの自分たちの利益や損得の判断だけで、恩を仇で返すようなことをしてきたことである。

 この日本という国は、日本という国号が定まるよりずっと以前から、というより、卑弥呼の時代よりもさらにずっと前の縄文時代の終期(約2400年前)から、隣国の中国には筆舌に尽くしがたい恩恵を受けてきたのである。その一つが、中国からの水田稲作の伝来である。弥生時代以降は、その水田稲作が本格的に始まったとされている。

それだけではない。聖徳太子の時代には、大陸から仏教という文化を取り入れ、それを全国的に普及を図ってきたのである。そのことによって、当時の人々はどれだけ心に平安を見出し得たかしれないのだ。

 文字にしてもそうだ。この国にはもともと固有の文字はなく、中国から入ってきた漢字が中心であり、またそれを変形してひらがなを作り出してきたのである。

 また、聖徳太子以降、本格的となった律令制という制度も、この国が独自に考え出し生み出したものではなく、古代中国において発達して、隋や唐の時代に完成したものだった。なお、律令の律とは刑法に相当し、令とは行政法に相当する。

その律令制は、時の権力者がこの国を中国を模した中央集権による統治体制の国とするために、中国から取り入れた基本法典としての大宝律令養老律令に基づいて制度化したものなのである。

 このように、この国は、国を成り立たせる上でその土台となる制度や文化のほとんどを中国から移入し、その恩恵に与って国を発展させて来たのである。

 ところがそんな中国に対して、日本は近代に入って、中国を侵略した。それも専ら日本の都合だけによってである。日清戦争日中戦争がそれである。特に日中戦争では、日本の関東軍は、「天皇の軍隊」であると自称しながら、天皇直属の統帥部である大本営の中の陸軍を統括する参謀本部の指示にも従わずに独断専行して、南京大虐殺を含む様々な蛮行を繰り返したのである。

 そして今、この国は、この国の政府は、そして国民の大多数も、歴史も文化も国民性も全く違い、かつての敵国だったアメリカに主権すら譲り渡すようにして、そしてそのことにはほとんどの人は何の疑問も違和感も感じないかのように、政治、経済、社会、科学技術分野等々、ほとんどあらゆる分野で、対等に交流しているのならともかく、もっぱら追従しているのである。

 このように、日本人の、多分、世界からは決して本当には理解されることはなく、むしろ哀れみを持って見られ、軽蔑さえされかねないと思われるものの考え方と生き方を特徴として示す事例は挙げたらきりがないのである。

 

 そもそも、文化とは、その時代のその土地の気候風土の中での人々の集団としての共通の生き方の様式のことである。そのことを考えるならば、異文化の取り入れ方がいつも既述のような仕方である、あるいは仕方となるということは、文化そのものの持つ意義や大切さについての理解がない、と言っていいように私は思う。その意義や大切さが理解できないから、

移入しようとしているその文化が彼の地のどのような季候風土や歴史の流れの中で生み出され、どのように伝承されてきたのかということにはほとんど関心が向かないのであろう。

また、文化の持つ意義や大切さについての理解がないということは、自分たちの両親や祖父母、さらにはそれを遡った祖先たちの生き方にも関心を持たないということでもある。例えば、その人たちは何を大切にして生きてきたのか、どんな時にどんな知恵を絞って困難を乗り越えてきたのか、そしてそうした知恵はどう伝承してきたのか、等々ということについてである。

そしてその態度は、言い換えれば、先人の存在やその生き方に敬意を払わない、ということでもある。ということは、翻ってみれば、自分たち自身が、自分たちの今の生き方について、誇りを持って真剣に生きてはいない、ということでもある。

 ではそういう人たちは何を最も大切に生きているのだろうか。多分「お金」であり、「損得」であり、卑近な意味での「経済」なのであろう。そしてそういう人々からなる社会では、例えば文化遺産と言えるものや歴史的建造物と言えるものをアッという間に消滅させては、その前の物とは似ても似つかない今風の物に置き換えてしまっても何の苦にもならないのであろう。つまり、記憶や思い出を消し去ることを。

しかしそれは、過去を捨てて、あるいは否定し、未来も考えずに、今だけに生きる、それもその時だけのご都合主義に生きる、無節操で根無し草の生き方そのものとは言えないだろうか。

 こうした生き方をする限り、他方で、自分たちの言動に責任を持つこともせず、それをきちんと記録することもせず、公文書を改ざんしたりあるいは破棄したりし、失敗した時も、そこからは何も学ばず、不都合なことはむしろ無視したりなかったことにしたりしてしまうという生き方をするのも、ごく必然の成り行きなのではないだろうか、と私は思う。なぜなら、全ては同じ根っこから生じていることだと思うからである。

その根っことは、「親があり先祖があって自分は今ここにいる。自分は一人で生きているのではない。関わりを持った人々はもちろん国々もそうであり、見えない多くの人や他生物、ひいては自然そのものに生かされているのだ。そのお陰で生きていられるのであり、その恩は決して忘れてはならない、ましてやその恩を受けたものに対して仇で返してはならない」、という基本認識のことであり、それを欠いていることだ。

 

(2)人格を歪め、日本人を世界に通用し得なくさせてきた迷言

 では私たち日本人は、どうしてこのようなものの考え方や生き方をするようになったのか、何がそう仕向けてきたのだろうか。

 多分それは一朝一夕にしてそうなったのではなく、例えば以下に述べるような契機を通じて、日本の長い歴史の中で、身につけてきたものなのであろう、と私は推測するのである。

 その第一は何と言っても、日本に水田稲作という文化が入ってきたときではないか、と思う。その当時の稲作の仕方は今とはだいぶ違っていたとは思うが、それでも水田稲作は、基本的に、季節の移り変わりとか気候や天気の移り変わりの中で、制約された時間の範囲の中で一定の作業を終えなくてはならないことが多く、そのためには、今のように機械を使って作業することはもちろん、牛や馬といった家畜の力を借りてすることもなかったであろうことを考えると、どうしても集団で助け合わねばならなかった、ということが考えられる。そうなれば、そこでは「私」とか「個人」という意識は生まれようはなかったし、むしろそうした意識を持つことは邪魔でさえあったと思われる。したがってそうした社会では、必然的に、「全体との和を保つこと」、あるいは「全体と協調すること」というものの考え方や生き方こそが大切にされた訳である。

 もう一つは、聖徳太子が、権力闘争で乱れていた世の中に平安をもたらすためにということで制定した日本最古の成文法とされる「十七条憲法」による影響であろうと思う(井上茂「法の根底にあるもの」有斐閣 p.220)。特にその憲法全体を貫いている「和を以て貴しとし、忤うことなきを宗とせよ」という、今日もなお、至る所で聞かれるし、額にも用いられる「和」という一文字に象徴される精神である

そこで重要なことは、聖徳太子は「和」の大切さを説きながら、同時に、「忤(逆)らうな」と戒めてもいることである。今日、その和がどの程度聖徳太子が意図したように人々の間に理解され、また伝承されているかどうかについては疑わしいところであるが、ともかくその和が、雰囲気として私たちにもたらしている影響の大きさについては計り知れないものがある。

 もう一つ考えられるのは、室町時代に出現し、江戸時代には法的には廃止されたが、慣習法としては残ったとされる「喧嘩両成敗」という政策である。これは、武家の刑法の一つで、喧嘩をした者に対し、その理非にかかわらず、双方ともに制裁を加えるとしたものである。これはもともと戦国大名が領内の治安維持や家臣団の統制強化を目的としたものだが、こうなれば、武士のみならず庶民の間でも、善悪や正邪の判断などしてもしょうがないということになり、善悪をつけようとすること自身が無意味とされる空気が出来上がってゆくのは必然であったろう。物事が曖昧にされてゆく契機になったと考えられるのである。

 もう一つが、明治維政府の岩倉具視が発案したとされる「錦の御旗」という手口がもたらしたものであろう。その「錦の御旗」とは、どのようにしてそれを手に入れたのかはともかく、正統とされている者を後ろ盾を持てば、たとえ人々がどう思っていようとも、人々をして有無を言わせずに従わせることができる、ということを人々に学ばせた多分最初の印のことである。

 なお、人々一般に対してこれと同等の役割を持たせた格言に「勝てば官軍」がある。

これも、たとえどのような仕方によってであろうとも戦に勝ってしまえば、勝った者はその言い分を押し通せるし、人々はそれに従わねばならなくなるのだ、ということを人々に教えるのに大きな効果をもった格言であろうと私は思う。

 実はこうした「錦の御旗」や「勝てば官軍」と同じ手法を日常的に用いては自分たちの目論見や野心を実現させているのが、今日の日本政府の各府省庁の官僚たちである。それは彼ら官僚が、そんなことができる権力や権限など国民から負託されていないのに、自分たちが実現しようとしている法律や政策といった目論見に対して好都合な意見を述べてくれる者を「専門家」あるいは「有識者」として恣意的に選任しては————この行為自体が「法治主義」や「法の支配」を破っているのであるが————彼らを委員として立ち上げる審議会や各種の委員会がそれである。

その審議会や委員会では、各委員を担当官僚たちの仕切る方向でまとめてくれる座長あるいは委員長をあらかじめ選任しておくのである。

 そうしておいて、担当官僚は、自分たちの望む「答申」を出させるのである。そしてその答申をもって、彼ら官僚のボスである大臣に「お墨付き」が得られたとして、自分たちが兼ねて実現しようと目論んだ事業や政策あるいは法律の案を正当化して報告するのである。

 ここまでくれば、もう官僚たちの目論見はほとんど成就したも同然となる。なぜなら、この後は、こうして作られた各府省庁の案が事務次官会議に持ち寄られて諮られ、全員の合意が得られたものだけが「閣議」に諮られるのであるが、しかし閣議は、名ばかりのもので、事務次官会議が提出したものはそのまま閣僚たちに追認される。追認された事業案や政策案あるいは法律案は「閣議決定」されたとして、「国会は立法機関として国権の最高機関である」という憲法の原則を当然のごとくに無視して、総理大臣から発表され、それが公式の事業や政策あるいは法律となってしまうのだからだ。

 つまり、官僚たちにとっては、審議会や各種の委員会の「答申」は、「錦の御旗」と同様の意味を持つのである。その「答申」を以って官僚たちは「閣議決定」を通過させて「公式」の政策とさせてしまえるからである。

 このようにしてこの国では、官僚たちが、総理大臣と閣僚を操っているのである。しかしその事実は、官僚たちが組織を挙げてこの国を乗っ取っていることに他ならない。そしてその結果として、この国では、今もって「民主主義」も「議会制民主主義」も形だけで、真の意味では実現し得ず、真の国家にもなり得ずに、官僚独裁の国のままなのである。

 

 なお、製作者の真の意図はどこにあるのか私は知らぬが、「錦の御旗」や「お墨付き」とほぼ等々の意味と役割を持たせて、次々と主人公の配役を変えては、今なおこの国の多くの人々をして、その脳裏に「ものの考え方と生き方」について、大きな影響をもたらし続けているのが、TV番組の「水戸黄門」ではないか、と私は思うのである。もっと具体的に言うと、筋書きは毎回ほとんど定型化しているその番組の最後のいよいよというところで、格さんが “この紋所が目に入らぬか!”と言っては葵の紋が刻まれた江戸幕府の元副将軍の印籠を懐からおもむろに取り出しては面前のすべての者にかざして見せる場面ではないか、と私は思う。それを見せつけられた人々は皆、瞬時に平身低頭するのである。それはちょうど 「錦の御旗」と同じで、その「葵の御紋」は、それを目にする者すべてに有無を言わせぬ力を持って迫るのである。すなわち、その番組の製作者あるいはそのスポンサーは、視聴者に向かって、とにかく権威や権力には楯突くものではないと暗黙のうちに警告しているのである、と私は見るのだが、果たしてそれは考え過ぎなのだろうか。

 

 以上のような経過の中で生まれてきた生き方の格言が例えば次のものなのではないか。

————「波風は立てるな」、「長いものには巻かれろ」、「触らぬ神(お上)には祟りなし」、「臭いものには蓋をしろ」、「見ても見ぬ振りしろ、聞いても聞かぬ振りしろ、知っても知らぬ振りしろ」、「見ザル・言わザル・聞かザルが大事だ」、「出る釘は打たれる」、「本音と建前を使い分けろ」、「もっと大人になれ」、「うまくやれ」、「丸くなれ」、「もっと現実的になれ」、「理想だけじゃ食ってはいけぬ」、「勝てば官軍」、「理想と現実は違う」、「理屈だけじゃ世の中通らない」、「きれい事だけじゃ通らない」、「清濁、合わせ持て」、「水に流せ」、「村八分にされるぞ」、「足を引っ張られるぞ」、「寄らば大樹の陰だ」、「内輪の恥は外にさらすな」、「内と外を峻別しろ」、「人の噂も75日」、「のど元過ぎれば熱さも忘れる」、「批判するより協調が大事」、「自分を主張するより、まず和」、「自分が我慢すればすべて丸く治まる」。そして比較的最近の「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、・・・・・————

 明らかにここには「個人」とか「個性」とか「自由」とか「人間の尊厳」とかいう概念や考え方を感じさせる表現は一切ない。それどころかそのようなものは全否定してさえいる。“とにかく周りの「みんな」と同じようにしなくてはいけない”、“「みんな」と対立してはいけない”、“良いことでも悪いことでも「みんな」がやっていることや言っていることに合わせなくてはいけない”、“たとえどこかおかしい、あるいは理不尽と思ってもそれを口に出してはいけない”、“批判してはいけない”、“逆らっては損、逆らっても無駄”等々という生き方をそれが強迫観念となるくらいまで諄々と言い諭している。それは、個とか個人とは無関係に、とにかく「全体との和を保つことが何より大事」、あるいは「全体と協調することが何より大切」という型あるいは枠にはめた生き方だ。

 このことからも、明治維新政府は、西欧の「自由・民主主義・人権・民主政治・議会政治」等々を移入したことにはなっているが、そしてアジア・太平洋戦争に無条件敗北して後の昭和の政府は、「個人を尊重」し、「個人の幸福追求権」を認め、「主権在民」の「民主憲法」を取り入れたはずなのだが、それらはいずれも単に「体裁」を整えただけのことで、それでもって「欧米に追いついた」「欧米並みの国になった」としてきたのである。それらの異文化の底辺に流れている彼の地の人々の精神や思想を汲み取ろうとする姿勢などは全くなかったのだ。だから、彼らがそうした地点に到達するまでにどれほどの困難に直面し、どれほどの犠牲を払ったのかということへの配慮も共感も示し得なかったのは当然だし、ましてや彼らが生み出したそれらを導入し使わせてもらうことへの感謝の気持ちなどを表わすこともなかったのも当然だと私は思う。そして、彼らが確立した諸概念をも全く自分勝手に解釈しては理解したつもりになって用いている、というのも必然の姿だと思う。

 

(3)この国に見られる「リーダーシップ」論

 ところで、この国では、「日本国の失敗の本質」などというテーマと関連づけてリーダーシップということが識者や専門家の間で議論されることがしばしばある。特に「失われた10年、20年、30年」ということが巷で話題になるようになってからは顕著だ(猪瀬直樹戸高一成、小谷賢、他「日本国の失敗の本質」中央公論 2012年1月号別冊)。関係書籍も「リーダー(指導者)論」として、次々と出版されている。

 リーダーシップとはそもそも「指導者としての地位または任務あるいは指導権のことであり、指導者としての資質・能力・力量、統率力のこと」であるが(広辞苑)、そこで問題とされる資質・能力・力量、統率力とは、具体的には、先見性、戦略を立てる能力、情報収集能力、情勢分析能力、判断力、決断力、説得力、責任感に関するものであるはずである。

 しかし、日本のリーダーシップ論を耳にするたびに私は思う。

そのような資質や能力や力量としての統率力がたとえ求められたとしても、現実にそうした資質のすべてを満たしうる人物など、とりわけこの国では、明治期以来、果たして一人としていただろうか、と。否、それ以前に、そうした人物を育てようとする社会環境や教育環境など、この国に、今日まで、たとえ一時期なりともあっただろうか、と。

指導者を育てるとまではいかなくとも、例えば、確かな判断力を育てる教育、一人になっても孤独の中で物事を事実に基づいて理性的に判断し決断できる能力を養う教育などされて来たことがあったろうか。
溢れんばかりの情報が行き交っている中で、それらに溺れることなく、それらの中から真実と思われるものを適切に選択しては、それを自身の能力や人格の成長の糧にする能力を養う教育など、なされて来たことがあったろうか。自分の考えること、思うこと、信じることを誰はばかることなく主張でき、またそういう姿勢を互いに尊重し合っては、互いの言い分を本音で議論し、互いの思考や思想を高め合ったりまた深め合ったりする教育など、たとえ一時期なりともなされて来たことがあったろうか。いつでも「みんな」一緒で事を為し、ある一定の枠からはみ出すことも許されず、その中で秩序に従って従順であることが良いこととされてきたのではなかったか。
 だから、むしろ強烈な個性の持ち主は「はみ出し者」と見なされ、異端児扱いされて来た。質問ばかりする者は「厄介者」扱いされてきた。みんなの前で反対を意思表示することは「和」を乱す行為で、協調性のない態度だとされて来たのだ(第10章)。

 実際、この国の明治以降の文部省そしてその看板を架け替えただけの文部科学省の学校教育を振り返ってみても私はそう思う。

とくに国民一人ひとりが正しい自己認識を持てるようになるには正しい歴史教育がなされることが必須であるが、この国の政府文部省と文科省の官僚による教育は、かつて一度としてそうした教育ではなかった。むしろ彼ら官僚は、この国の正しい歴史の流れを系統的に因果関係の中で正しく教えることをあえて避けてきたのだ。特にこの国の明治以降の近代史においてはその傾向は際立っていた。歴史を単なる知識として、それも出来事の羅列や寄せ集めという形でしか教えてこなかった。だから生徒には、過去が整然とした流れの中で捉えられるようになることなどほとんどあり得なかった。その結果、生徒たちには歴史を敬遠させてしまい、無関心にさえさせて来た。自分の中で心理的な葛藤を起こすことなく、日本の歴史を受容できるようには教えられては来なかったのだからだ(K.V.ウオルフレン「愛せないのか」p.162)。多分、生徒たちの目には、この世界はいつも、広大な混沌の状態にしか見えないのではないか。

 それに、たとえ卓抜した能力あるいは資質や力量を兼ね備えた人物が組織や集団の中にいたとしても、その人物のそれを公正に認め遺憾なく発揮しうるような仕組みや体質を持った組織や集団が、かつてこの国のどこに存在しただろうか。

様々な分野での組織の長の選任方法についても、中枢あるいはその側近による情実人事であったり、派閥や学閥や閨閥、あるいは同郷の人間を依怙贔屓で抜擢したりするといったことが当たり前のように行われて来たではないか(「戦慄の記録 インパール 完全版 2017年12月10日 NHK BS1)。また「金権政治」がそうであるように、カネで権力を売り買いするようなことも当たり前のように行われて来たのではなかったか。そこには公正性も透明性もなかった。

 果たして、そのような実態を直視せずにリーダーシップ論を繰り返すことに一体どれほどの意義があるのだろうか。それはまるで、ありもしない架空の社会でのリーダーシップ論を交わしていることでしかないのではないのか、と私はつくづく思う。

 ところがこの国のその方面の識者たちは、そんな議論を大真面目にやっているのだ(「戦後70年と失敗の本質」2015年12月15日BSフジ)。