LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

1.1 ますます混迷の度合いを深めて行く世界————————————その3

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1.1 ますます混迷の度合いを深めて行く世界————————————その3

これまでの「その1」と「その2」では、世界はなぜ混迷の度を深めてゆくのかという私の疑問の下に、その最大の元凶であるアメリカを中心にして、政治面と経済面と環境面に焦点を当てて、その具体的な様について見てきました。

この「その3」では、では日本は主にどういう理由から、国内での混迷を深めて来たのか、ということについて、ここでも私なりに考察してみようと思います。

 

では翻って日本の深まり行く混迷状態は何からもたらされ、何が原因となっているのであろうか。

それを考える場合にはっきりさせておかねばならないことは、もちろん日本の場合も、世界の他国と同様に、というより、政治、経済、軍事の面では特に、最終的には常に主権を投げ出してアメリカの言いなりになってきたのであるから、他国以上にアメリカの影響を強く受けて混迷を深めてきたと言えることである。が、しかし、日本の混迷とその深まりは、決してそれだけに因るのではないと私は考える。というよりそれらに因る影響よりももっと卑近な理由によってこそ他国には見られない混迷ぶりを見せ、それを深めて来たと私は考えている。

ではその、この国自身が抱える、この国が混迷を深める卑近な理由とは何か。

それは、一言で言ってしまえば、政治家の政治家としてのあり方である。

それはどういうことを意味するのかというと、1つには、この国の政治家は、中央でも地方でも、そのほとんど全員と言っていいほどに、本物の民主主義国の政治家に見られる、政治家としての使命や役割を全く果たして来てはいない、というより政治家としての使命と役割は何かすら知らないで政治家をやっているつもりになっているということである。もう1つは、この国の政治家は、政治用語や法律用語についてさえ、その意味内容をとかく曖昧なままに使ったり、あるいは国権の最高機関であるとする憲法をも無視しながら、憲法や法律に定められた手続きを踏まずに、三権分立の原則に言う執行機関に過ぎない政府内の内閣での閣議決定だけで憲法や法律の条文の持つ意味を変えたことにしてしまったり、ということを頻繁に繰り返して来ているということである。

前者の実例の一つが、この国の政治家は、政治家として為すべき最も重要な使命である、国民との約束としての公約を、条例をも含めて自ら立法するということを全く果たしていないことであるし、また、主権者である国民から選ばれた代表として、官僚を含めた広い意味での公僕である役人をコントロールするということもしていないことである。というよりも彼ら政治家らは、役人をコントロールするどころか、逆に、実質的には、役人の操り人形と化してしまっていることである。

こんないい加減なことをしている国は世界中どこにもない。少なくとも本物の立憲民主主義の国では。

これでは、国民の代表であり、それだけに国民のリーダーでもある政治家自身が、法があらかじめ定めている「手続き」を無視し、あるいは「手続き」を無視する官僚を放任したままであり、国と社会の秩序を維持するための法を乱しているわけだから、それを常に見せつけられている国民の側も“政治家がやっているんだから、オレたちだってそうするんだ”として、国も社会も混迷を深めて行かないはずはないのだ。

後者の実例としては、象徴的に言えることは、政治家としては当然知って、理解していなくてはならない重要な言葉あるいは概念を知らないで、あるいは知らないのに知ったつもりで使っているということである。

例えば、権力だ。主権だ。国家だ。民主主義だ。三権分立だ。議会だ。あるいは選挙についてだ。

前者の例については後に詳述するとして(2.2節)、ここでは特に後者の実例が意味することについて考えてみようと思う。

政治家は、自分に付託された権力が何に依っているかを知らない。というより、そもそも権力とは何か、それすら正確には知らない。だから、その権力を他人、特に執行権に属する役人に移譲して平然としている。つまり、有権者あるいは国民から自分に付託された権力は他者に移譲してはならない、ということも知らないのである。それでいて、「政治は権力だ」ということだけはよく口にするのである。

また政治家は、それぞれ、日本は独立国であると、あるいは主権国家とは気持ちの中では思っているかもしれないが、実態は日本は独立国ではない。少なくとも本物の独立国ではない。日本が独立国あるいは主権国家と言えるためには、どこの国に対してもいつでも主権を行使できなくてはならない。ところが大国、特にアメリカに対しては全くそれができないでいる。というより、アメリカに対する姿勢は、迎合し、卑屈そのものだ。言うべきことすら言えないのだ。

そんな状態だから当然この国には主権はない。主権をいつでも行使できる国ではない。

こんなことだから、この国の政治家という政治家は国家の意味も知らない。

なぜなら、辞書を引いてみればわかるように、国家を成り立たせる要素は三つあり、その一つが主権であるからだ。他の二つは国民と領土である。

つまり主権を行使できないこの日本という国は国家ではないのだ。少なくとも真の国家ではない。

例えば憲法第9条を見てみよう。そこで言う「交戦権」は主権の一部なのである。ところがその憲法9条はそれを否認ないしは放棄している。これでは、万が一、この国が外国から侵略あるいは攻撃された時、一体どうするというのか。交戦権を放棄しておいて、私たち国民はどうやって国土と自分たちの生命と自由と財産を守ろうというのか。

そもそもこんな大切な交戦権を否認ないしは放棄した状態だから、自衛隊違憲だとか、専守防衛だとか、これまでは憲法は個別的自衛権しか認めていなかったがこれからは集団的自衛権を容認する、と憲法を、正規の変更手続きを踏まずに、解釈を変えるだけで改憲したことにするという、世界の立憲主義に立つどこの国もしていないような、国民にはまともに説明もできないような暴挙を政府はしてしまうのだ。

こうした一連の経緯自体、ますますこの国を混乱させてしまうことではないか。そしてこの場合、日米安全保障条約など無関係なのである。

それに、国が国家と言えるためには、もう一つ重要な条件がある。それは、政治的説明責任の中枢が存在していることだ(カレル・ヴァン・ウオルフレン)。あるいは社会の全構成員をいつでも統合できる、合法的で最高な一個の強制的権威を持った人または集団が存在していることだ(H.J.ラスキ)。ところがこの国では、事実上政治家よりも官僚あるいは官僚組織の方が力があり、政治家はほとんど常に官僚の作文を読んでいることからもわかるように、あるいはそれを読まねば状況説明ができないことからもわかるように、政治的説明責任の中枢も、社会の全構成員をいつでも統合できる、合法的で最高な一個の強制的権威を持った人または集団も未だ存在しない。すなわちその面でも、この国は、今のところ国家ではないのだ。それでいて、政治家は平気でこの国は国家であるような言い方をする。要するに、国家とは何かを知らないのだ。それでも、総理大臣や閣僚を含めて、どの政治家も平然としている。

そしてそれ自体、この国を混乱させていることなのだ。

民主主義についても同様だ。政治家らは国民から付託された最大の権力である立法権を役人らに移譲して、官僚(役人)に独裁を平然と続けさせている。総理大臣も閣僚も「閣議決定」をよく口にするが、実態は、閣議の議題設定の仕方も官僚と官僚組織に乗っ取られた形だ。それは、国民から選ばれた政治家自身が民意を無視し、つまり民主主義を無視して官僚主導という官主主義を放任していることなのである。

このことも、どれほどこの国の混迷の度合いますます深めているか知れないのである。

三権分立についても同様だ。だいたい、なぜ三権、すなわち、立法権と執行権と司法権とを分立させなくてはならないか、その理由すら知らない。「国権の最高機関」と憲法が明記する国会を含む地方の全ての議会という議会でも、議会が議決したことをその通りに執行することを本来の役目とする政府の者を議会に招き入れては、しかもその彼らを自分たちよりも高い位置に座らせて、もっぱらその者らに質問することを以って議会の役割と錯覚している姿がそれだ。

そしてそれは、政治家が、議会とは何かを知らない姿でもある。

選挙についても全く同じだ。彼らは、選挙は誰のためにあり、何のためにするものなのかも知らない。そのためにこの国の選挙は、どこもかしこも決まって儀式だ。そんな状態だから、何のために公約を掲げるのか、その意味も知らない。だから、当選してしまえば、自らが掲げた公約を実現させる責任が国民に対してあることなどケロッと忘れてしまう。それとも忘れた振りをしているだけなのか。そしてそのことに少しの自責の念も示さない。

実はこうした政治家の状況は、政府・憲法・法律・自由・正義・多様性・公正・公共といった言葉あるいは概念等に対しても全く同様の状況なのである。

それだから、議会と政府との関係のあるべき関係も知らない。したがって政治家と役人との関係のあり方についても、本来どうあるべきかを知らない。

私がそのように言う1つの根拠を示す例が次のものである。

この国の首相は「閣議決定した」ということを、よく、そして平然と口にする。しかしそれは、日本国憲法が明記する「国会は国権の最高機関」(第41条)を全く蔑ろにしていることに他ならない。

それはこういう意味である。憲法がそこで言う「最高」とは、これ以上の権力を持った機関はないという意味であって、したがって、内閣は国会よりも権力順位が低いということを言っていることでもある。それは当然であろう。内閣の権威は国会の権威に由来するものだからだ。だからこそその内閣が最高機関である国会に先んじて政策を決定してしまうというのは、次の2つの意味で間違っているのだ。

一つは、本来内閣は、国会が議決した政策を、その通りに「執行」することを主たる役目とする機関なのであって、「政策」を決定できる機関ではないという意味においてである。つまり内閣が閣議において決定できるのは、あくまでも国会が議決して公式の政策となったものを、つまり国民が合意した政策をいかにして効率よく、ということは、最少の財源と最小の時間とコストをもって実行し、最大の効果を上げるかという方法上のことであるのだからだ。そしてそれは三権分立の原則から必然的に言えることなのである。もう一つは、最高機関である国会に先んじて、あるいは国会を無視または軽視して、内閣が政策を決定しているという点においてである。

そしてこの2点が意味していることは、内閣が議会制民主主義を無視して「独裁」をしているということなのだ。

もう一つ重要な例を挙げよう。

それは、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」ということが、まことしやかにまかり通っていることについてである。

それについては、例えば今は総理大臣となった菅義偉官房長官時代から、平然とそれを口にしていた。

そこで私は、その辺を内閣府の法制局に聴き確かめてみた。すると、その根拠は憲法第7条と69条だと言う。ところがその両条文をどう読み返してみても、その根拠とやらを正当化できない。「衆議院の解散権は首相の専権事項である」ということがそこからは読み取れないのだ。というより、両条文は衆議院の解散権とは全く別のことを言っているのだからだ。

要するに、現行日本国憲法には「衆議院の解散権は首相にある」ということなど、どこにも言ってはいない。言い換えれば、歴代のどの自民党政権の誰が最初に言い出したのか判らないが、「衆議院の解散権は首相の専権事項である」ということを自分たちの都合で主張したいがために、かと言って現行憲法内では他に持ち出せる条項がないから、仕方なしに憲法第7条と69条を持ち出してきて、でっち上げたに過ぎない、と私には考えられるのである。

そもそも権力順位が最高でもない内閣が、というより自分の権力や権威はそれに由来するという、自分よりも権力順位が上位にある国会(の中の衆議院)を解散することができるという理屈など、論理的に考えてみれば直ちに判るように、成り立ちうるはずはないではないか。

ところが、それを、政治家や政治ジャーナリストはもちろん政治学者すら気づいている風はない。あるいは気づいていても、それを堂々と意見具申する勇気がないからなのか。

いずれにしても、こうしたことも、どれほどこの国全体の混迷の度合いを深めさせてしまうか、明らかなのだ。

そもそも、国民から選ばれた議員からなる衆議院であれ参議院であれ、それを解散することができるとかいうことは、国民の意思を無にするか否定することなのだから、民主主義的にみれば、この上なく重大なことなのである。それだけに、その辺のところが憲法に明記されていないということ自体、私はやはり、この面から見ても、現行憲法は欠陥憲法だと考える。

尤もそうなったのも、元はマッカーサーが作った憲法だからであろう。アメリ連邦議会には、上院であれ下院であれ、「解散」はないからだ。

さらに言えば、中央政府と地方政府————地方政府とは都道府県庁であり市町村役場のこと————の間での権限の違いやそれぞれの管轄事項は何なのか、言い換えれば日本国を構成している主体は何なのか、そしてそれらの法的地位や権限は何なのか、ということも、是非とも憲法条文として盛り込まれるべきことなのではないか、と私は考える。

この国では、阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも、あるいはすでに何回もあった各地方での集中豪雨による災害でも、その都度決まって「初動体制の遅れ」という言い方がなされ、救われるべき命が救われないままにされてきてしまったが、これも、地方政府と中央政府との間での権限の違いやそれぞれの管轄事項、またそれぞれの法的地位が憲法によって明確化されておれば、「初動体制の遅れ」など解消され、犠牲者も最小限に留めることができたのではないか、と私などは考えるのである。

しかし実態はそうしてこなかった。それも、紛れもなくこの国の政治家という政治家の怠慢と無責任のもたらした状況なのだ。

憲法9条を問題とし、自衛隊をどうみなすかという議論もいいが、この国が「近代」という時代を超えて、前途多難な新時代を生き抜いてゆく上で、世界の中でどのような立ち位置を占め、どういう航路を歩み、どのような国づくりを目指してゆくのかという、もっともっと大局的で長期的な見地に立って、新憲法のあるべき内容を、国民全体で議論する必要があるのではないだろうか。

衆議院の解散権は首相にある」という条文を憲法に加えるべきか否かということも、その議論の中には当然含まれてくるのではないか、と私は考えるのである(16.3節)

 

政治家の用いる経済用語にしてもそうだ。

この国の政治家は、しょっちゅう「資本主義」、「自由主義」、「保護主義」等々といった言葉を発するが、それらも、聞いていると、全くその意味を正確に捉えて使っているとは思えない。いや、それ以前に「経済」という用語についてすら、その正確な意味、あるいは本来の意味を捉えて使っているとは思えない。しかも、政治家によって使い方や理解の仕方は互いにバラバラに見える。

そもそもこの日本という国は資本主義の国なのか、自由主義の国と言えるのか。

確かに表向きはそう呼ばれてはいるが実体は違う。この国は本物の資本主義の国ではなかったし、今もそうではない。自由主義の国でもない(第11章)

政治家の用いる用語で、曖昧なままにしている用語はまだある。

その意味はここではいちいち明確にしないが、例えば、「自然」、「社会」、「自由」、「平等」、「愛国心」、「個人主義」、「国家主義」等がそれだ。

 

最後に、私はここで、日頃、ますます気になって来ていることについて触れておこうと思う。それは、やはり言葉の誤用についてであり共同体である社会というものを民主主義的に成り立たせ、それを維持させる上でカナメとなる言葉ないしは概念の用い方についてだ。

それは、政治家も、また政治評論家もメディアも、ほとんど全てと言っていいほどの人が、中央政府、都庁、道庁、府庁、県庁、市役所、町役場、村役場のことを、国(クニ)、都(ト)、道(ドウ)、府(フ)、県(ケン)、市(シ)、町(チョウ)、村(ソン)と呼んで平然としていることだ。それぞれ対応する両者の言葉も概念も全く異なるものであるのに、である。

それが誤用であることは、たとえば、「あなたのクニはどちらですか」と言った時のクニは中央政府のことを指しているのではないことをちょっと考えてみただけでもすぐに判断できるからだ。また、「ケン内での感染状況は」と言ったときのケンは県庁を指しているのではないこともすぐに判断できるからだ。

前者の中央政府、都庁、道庁、府庁、県庁、市役所、町役場、村役場はあくまでも執行機関を指す。もっと言えば、そこは、いずれも、役人と一般には呼ばれる公務員が、国民の代表である政治家が議会で定めた政策を、政治家の指示とコントロールの下で、執行する機関であり、通常、役所と呼ばれているところなのだ。

それに対して後者の国(クニ)、都(ト)、道(ドウ)、府(フ)、県(ケン)、市(シ)、町(チョウ)、村(ソン)は国民や国土・郷土や文化等を含めたその全体を指す。両者は互いに明らかに異なるのだ。

ところが、この国の中央政府と地方政府の役人はもちろん政治家という政治家も、いや政治家のみならず政治学を専門とする政治学者も政治ジャーナリストという、それはもうほとんど全てと言っていいほどの人々が、この違いを意識せずに用いている。公共放送と自任するNHKを含む全メディアもだ。その状態は、もう、国民全体が思考停止となって、ただただ惰性に流されている状態だ。

これでは、この国の社会を成り立たせる統治の体制が曖昧にならないはずはなく、結果として、国全体が、混乱を深めて行かないはずはないのだ。

 

ところで、ではこの互いに似通った両者の言葉の意味の相違を明確にして用いることが私たち国民にとってどうして重要なことなのか。

それは、私たち国民は「国会の政治のあり方を最終的に決める権利」を持った主権者であり、役所に働く役人は、公僕として、その国民全体に奉仕することを主たる役割とする人々だからだ。

それだけに私たち国民はそうした自覚を常に持たねばならないと同時に、国に対して責任を負っているのだ。

なお役人は公僕であるとの意味は、決して身分を言っているのではない。社会における役割の違いを言っているだけなのだ。だから、役人も、それぞれ公務を離れて地域に戻り、家庭に戻れば、主権者の一員なのだ。つまり、役所にいる限り、あるいは公務を行う上では、という意味である。

そしてこの、国民の主権者としての自覚と、役人の公僕としての自覚とそれぞれの区別は、国を民主主義の国として成り立たせ、またそれを維持してゆく上で、絶対に必要なことなのだ。

それに、役所を、あるいはそこに働く役人を国民や国土・郷土や文化等を含めたその全体を代表しているかのような表現のままに放置しておくことは、この国を、都を、道を、府を、県を、市を、町を、村を、そこでの主人公は、日本国憲法が主権者と認める国民ではなく、役所あるいはその役所の役人であるかのような誤解ないしは錯覚を国民に与え、それを根付かせてしまうことを意味するからだ。そしてそれは、この国は、明治以来、実質的には官僚独裁の国で来たのであるが、今もなお、その延長線上にあることを国民自身がそれを意識するしないに関わらず、認めてしまうことでもある(2.2節、2.5節、5.2節、7.1節)

一国にあって、統治システムの中での主権者と奉仕者との関係が、現状、実質的にこれほどに逆転してしまい、そしてそのことに国民の圧倒的多数が依然として何とも思っていない、あるいは何とも思わなくさせられたままでいるということは、それ自身この国の危機であると同時に、真の民主主義を実現させる上で、これ以上の障害はないのではないか。

社会を成り立たせているこのような重要概念や基本的諸概念の意味が正しく理解されず、また共有化もされずに、むしろこのように誰も疑問にも思わずにしょっちゅう当たり前のように誤用されて行ったなら、人々の共同体としての社会は、その秩序も仕組みも混乱を深めて行かないはずはない。そしてこのような事態が継続されて行ったなら、小学校、中学校、高等学校や大学でも、あるいは学界でも議会でも、言語の共通の理解の上に立った議論などできなくなり、したがって、たとえ結論が出たとしても、その結論に対する理解も人それぞれ違ったものになってしまう。それでは、議論が大切だからと言ってどんなに議論しようとも、その議論が社会をよりよくする実効的な力にはなり得ないどころか、そのような議論は不毛で、時間の無駄でしかなくなる。あるいは表層的で、形式的なものにならざるを得なくなる。

 

こうした実態を見るとき、私たちは改めて次の事を、一人ひとりしっかりと脳裏に焼き付ける必要があるように私は思うのである。

それは、私たちが今当たり前に考えているこの国の政治体制を成り立たせている諸概念やその組み立てのすべては、他所の国々の人々、具体的には近代西欧諸国の人々の命がけの体験によって創り上げられて来たものであって、私たちの先人が考え出したものでもなければ掴みとったものでもない、ということだ。

それを私たちは、何の苦労もなく使わせてもらって、日々の暮らしを安全に成り立たせようとして来ているのである。それは、彼の国の人々に対してどんなに感謝しても感謝しきれるものではないほどに有り難いことだと私は思う。

したがって、それらを使わせてもらっている以上、用いているそれら一つひとつの用語の意味を曖昧に済ませるわけにはいかない。一人ひとりがきちんと理解し、消化し、血肉にする必要がある。それが、そうした諸概念の体系化を成し遂げてくれた彼の地の先人たちに対する礼儀であるし、義務でもあるのではないか、と私は思うのである。

その上で、もし、ある特定の概念について、疑問なり矛盾なりを感じたり、あるいはより適正な概念を見出し得たりしたなら、その時こそ、既存の概念の修正を社会に堂々と問うたらいいのである。