LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

1.3 世界における「近代」は既にとうに終わっている

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今回公開する節も、本章の表題「世界はなぜ混迷の度合いを深めてゆくのか」に関する著者の見解の一つです。

今回も、一回で全部を公開します。

 

1.3 世界における「近代」は既にとうに終わっている

これまで、私は、1.1節では、ますます混迷を深めている世界について、世界がそうなる上で最も大きな影響をもたらしているのはアメリカであるとして、その考えられる政治的・経済的・軍事的・環境政策的理由について私なりに述べて来た。また、続く1.2節では、主にアメリカによってもたらされていて、世界に現れているその混迷と深まりというのは、実は表面に現れた現象に過ぎず、その背景には、それらを現象として表面化させている本質的な原因があるはずだとして、それをも、私なりに明らかにして来た。

結局のところ、その混迷をもたらしている本質的と考えられる原因とは、近代という時代の黎明期に確立された思想、あるいはそれが持っていた欠陥であったのではないか、としてきた。

つまり、今、特に先進国を中心にして世界中がさまざまな問題を矛盾として現象させて来ているが、それは、より深いところに目を向ければ、近代の黎明期に確立されて来た、総じて思想と言うべきものが、それらが内包していた欠陥ゆえにもはや通用し得なくなっているということなのではないか。そしてその結果、それらの思想が時代の転換と前進にブレーキをかけ、人類のさらなる進歩にとっての足かせとなっているのではないか。

今日、世界の圧倒的多数の人々は、日々の現状の中で、自分は二進も三進もゆかない状況にはまり込んでしまっていて、希望も展望も見出せなくなっている、活路もなかなか見出せなくなっていると感じているように私には見えるのだが、そうなってしまっているのもそのためなのではないか。であるとすれば、そんな状況は、全人類にとってこの上なく不幸なことだ、と私は思うのである。

 

ところで、歴史家が命名するそれぞれの時代というのはどうして移り変わって行くのであろうか。なぜ歴史は一定不変の時代を保てないのだろうか。

それについては私はこう考えるのである。

それは、各時代の黎明期につくられた、その時代を特徴づけるものの考え方や世界観・価値観に基づいて定められたさまざまな社会的諸制度が、いつしか産業のあり方と人々の暮らしのあり方に適合し得なくなり、行き詰まってしまうからである。

神ならぬ人間の思想に基づいて創られた仕組みや社会制度には、たとえ当初、どんなに考え抜かれてつくられたと見える仕組みや制度あるいは物であっても完全無欠なものなど何一つなく、その中には必ず欠陥がある。ところが最初のうちはその欠陥も見えず、それだけに誰も気付かずに、それらが社会に適用されてその社会は動き始め、運用されて発展して行く。だから初めのうちは順調に進展しているように人々の目には見えるのである。

ところが、そのうちに、その仕組みや諸制度のあり方は固定されたままであるため、それらが持っていた矛盾や問題点の幾つかは、いつしか発展しつつある産業のあり方や人々のものの考え方と適合し得なくなり、それが不具合・不都合として次第に人々に感じられ始め、また目にも見えてくるようになる。そのため、その適合し得なくなったり行き詰まったりした仕組みや制度については、為政者は改善・改良・改修・改革を試みては人々の不満を和らげようとしたりするのであるが、その不具合の範囲が広がり不都合が至る所で生じるようになると、もう改善・改良・改修・改革では追いつかなくなる。そうなるといよいよ人々は不満や怒りをあらわにするようになる。そして社会の秩序そのものも保てなくなる。

かといって社会の制度や仕組みを成り立たせているものの考え方を根本から変えたり廃止したりすることはできない。なぜなら、その制度や仕組みをつくる元となったものの考え方や価値観、つまり思想こそが為政者のそれを反映したものであり、その時代を特徴づけるものだからだ。それを換えてしまったなら、その時代ではなくなってしまうのである。それに、そんなことをしたら、それまでそれらの仕組みや諸制度に乗っかって権力を振るい、利益を得て来た者たちの地位は危うくなってしまう。

とは言え、もはや矛盾がアッチコッチから吹き出してくると、どんなに強大な権力を持った為政者でも、ちょうど潮が満ちて来るのは誰も止められないのと同じように、その不具合の拡大、そしてそれに伴う不平や不満の拡大という大きな流れはもはやくい止めることはできなくなる。

しかしそれでも、為政者あるいは権力者そしてその権力者に隷従して支えることで利益を享受して来た取り巻きたちは、必死でその動きをくい止めようとはする。

そのとき権力者や為政者が活用する仕組みや制度というのが、今様の言い方をすれば「公安」当局とされる、情報機関・諜報機関であり、警察であり、機動隊であり軍隊という実力組織である。

しかし初めはそれで何とか押さえられていたとしても、社会は止めどなく変化し発展しているのだから、いずれはどうにもならなくなってしまう。

 

実はこの現象は、たとえば次の現象に酷似している。

人間を含むあらゆる動物あるいは生物は、その体内に、遺伝子(DNA)として、将来なにがしかの病気を含む特定の現象を発症しやすい要因を抱えて誕生してくる。というより、その生命体なりの将来への設計図あるいは可能性を秘めて誕生してくる。

そしてその設計図ないしは可能性は成長過程において環境を含む何らかのきっかけに触れたとき、触発されて実現化へと動き出し、目に見える形で表面化して来る。

その場合は、最初は、表面に現象した症状をその生命体自身が何とかしようと対処するが————それが、いわゆる免疫力あるいは抗体というものなのであろう————、しかしそれとて、所詮は限界があって根本的治癒に至るものではない。根本の設計図ないしは可能性の方は手つかずだからである。

だから、そうした表面に現れた症状にだけ対処してたとえば不具合箇所を除去したとしても、その間、内部では、その設計図に従ってその生命体のいろいろな部位で症状として現象させて行くことになる。結局、ある時点で、もはや対症療法は追いつかなくなってしまう。

こうした現象に酷似していないだろうか。

あるいは、この現象は、私たちが日常的によく経験する次の現象にも似ている。

マッチ箱の側面にマッチ棒の先端を当て、ゆっくり、しかし同じ強さで連続的にこすり続けてゆくと、あるところまでくると、突然、火がつく。これは、マッチ棒の先端が擦られることによって摩擦熱という物理的な量がマッチ棒の先端に蓄積されて行った結果、目には見えなかった摩擦熱が、マッチ棒の先端に質的変化を生じさせ、それが目に見える炎という現象を発生させたのである。

こうした生命体や自然が示す例からも判るように、人間の歴史のどの時代についてみても、その時代にあって、不具合や不都合の拡大する速度や人々の不平や不満の程度と範囲がある量的段階を超えたとき、もはやその時代は、実質的には、当初のその時代ではなくなってしまっているのだ。言い換えれば、そのとき、時代も社会も、実質的にはこれまでの時代や社会とは質的に変化してしまっているのである。そしてそのときには同時に、それまでのその社会には見られなかったまったく新しい状況あるいは動きが、あちこちで芽生え、見かけられるようにもなっているのである。

私は、これが新しい時代の到来ということであろうし、一つの時代が終わって新たな時代が誕生したということの意味なのであろう、と考えるのである。

そしてそのとき、それまでの支配者・権力者・統治者はこれまでの被支配者・被統治者に取って代わられるか、これまでの社会の中から新しく生まれて来た新しい勢力に取って代わられるかするのである。

要するに、社会や時代が、そして自然が、質的変化を呈するようになったときには、もはや誰が、どんなにしても、それを押しとどめたり、元の状態に戻そうとしたりすることは不可能となるのである。そしてその状況は、放っておいたならますます混乱や混迷をもたらし、収拾のつけられない事態になるのだ。

だからそのときには「改善」「改革」「改良」「改修」ではなく、いっそのことそのような事態を招いた社会的諸制度や仕組みを根本から変えた方が早くなる。

 

しかし、それをするには、現行のその社会的諸制度や仕組みを創り、成り立たせてきた思想そのものをも思い切って転換する必要がある。

そうでなかったなら、いずれまた矛盾を、それも今までよりももっと深刻な矛盾を生じるようになってしまうだろうからだ。

しかしその転換には、一定程度の混乱はどうしても避けられないであろう。が、旧制度に因る混乱をそれ以上長引かせないためにも、またそれ因って苦しめられる人々をそれ以上増やさないようにするためにも、その一時的混乱は覚悟するしかないのではないか。「産みの苦しみ」の瞬間と捉えるべきだろう。むしろそれを克服することによって、人々はそれまでの無意味な苦労から解放され、混乱や混迷による停滞を脱し、質的に変化した新時代を迎え、展望や希望を見出せるようになり、新たな飛躍に向けて発展を始められる、と言えるのである。

あのベートヴェンも言うではないか。「苦しみを貫いて、歓喜に至れ」と。苦しみから逃げようとしたって、逃げ切れるわけはないのだから。

それについては、たとえば日本の歴史の中の例でいえば、江戸時代のいわゆる三大改革とされる享保の改革寛政の改革天保の改革が好例と言えよう。

それらはいずれも、その当時の庶民の誰もが逆らえない、時の絶対権力者が断行したものだった。

しかし、結局は、もはや時代の元祖家康を含む将軍三代の世に戻すことはできなかった。封建時代という時代が持つ本質を変革し、あるいはそれを打破または否定し、明治という質的にまったく異なった時代を迎えざるを得なかった。そしてそうなって初めて、それまでの停滞を脱し、社会は飛躍的な発展を始め得たのである。

 

以上が、そもそも時代が変遷するとはどういうことか、ということの説明となる。

時代の変遷、それは、それまでの時代がその歴史的使命を終え、代わって別の新たな時代が始まるということなのである。

 

では、具体的には、何をもってその時代は終ったと言え、何をもって新時代は始まったと言えるのだろうか。どうなることがそれまでの時代が終わり、どうなることが新時代が始まったということになるのだろうか。

その点については、私は、これまでは、漠然と、総じて思想と言うべきものがもはや通用し得なくなってきたからであり、それらが時代のさらなる発展のためにはむしろ足かせとなってきたからであろうとしてきた。

ここではその意味をもう少し掘り下げ、具体的に考察してみる。

私は、その前段の「何をもってその時代は終ったと言えるのか」については、次のように言えると考える。

それは、世界の中で、それまでの時代を主導的な立場で影響をもたらして来た国あるいは地域において、またその国あるいは地域が影響を及ぼして来た国々や諸地域において、次の三つの要素の内のいずれか一つでも、それがもはや通用しなくなるか通用しえなくなったと感じる人が次々と現れ始めた時点である。

その三つの要素とは、第1に、自然観・世界観・社会観・人間観・価値観というものの見方・考え方、つまり時代の思想であり、2つ目は、そのものの見方・考え方に基づいて定められた経済的あるいは社会的諸制度である。3つ目は、その経済的・社会的な諸制度を支配的に駆動させて来たエネルギー資源である。

「三つの要素の内のいずれか一つでも」という言い方をしたのは、その三つの要素は、実は内的には互いにいつも密接なつながりを持ち、相互に作用を及ぼし合っていて、一つが変化したときには、そのことに人々が気付こうが気付くまいがそれとは無関係に、他の二つも、連動して、実質的に変化してしまっていると考えられるからである。

ではこの三つの要素の中になぜ自然観・世界観・社会観・人間観・価値観というものの見方・考え方が、しかも三つの要素のうちの真っ先に入ってくると私は考えるのか。

それは、それらが前節および本節の冒頭でも述べた「思想」という言い方で括れるもので、私たち人間の個々人を究極においてコントロールし、結果、世界をも支配するものだからだ。

人間は、文明国あるいは先進国と呼ばれている国の人間であれ、途上国あるいは後進国と呼ばれる国の人間であれ、どこの国のどの個人も、日々の暮らしをするとき、そしてその暮らしの中でどんな行動をするときにも、無意識に、ある「ものの見方・考え方」を規準にし、それを拠り所にして判断し行動しているものである。ところが、おもしろいことに、誰も、自分はいつもそのように無意識にある「ものの見方・考え方」を規準にしてモノを判断し、選択して行動しているということには気付いてはいない。あるいは自分は今こういう「ものの見方・考え方」を規準にしてモノを判断し行動しようとしている、などとは意識していない。気付いてはいないし意識もしていないけれど、でも確かに、その都度、その、ある「ものの見方・考え方」をしてはそれに基づいて行動してしまっているのである。行動だけではない。生き方においてもそうである。

それは言ってみれば、その「ものの見方・考え方」に縛られ支配された状態なのだ。そのときには、普通、それ以外の「ものの見方・考え方」もあり得るなどとはまったく考えていないし、考えられもしない。

このように、あるとき、あることを通じて、その時代の主流となって確立された「ものの見方・考え方」というのは、確立されたそのとき以来、その時代の大多数の人々の脳裏には、何ら疑う余地のない永遠の真理であるかのように感じられ、その時代の人々の行動様式や生き方に無意識ながら決定的な影響をもたらしてしまうのである。

その場合、そこで言う「ものの見方・考え方」の「もの」が自然であればそれを自然観と呼び、世界であれば世界観と呼び、社会であれば社会観と呼び、人間であれば人間観と呼び、ものの価値であれば価値観と呼ぶ。

そうした「ものの見方・考え方」の集合が時代をますます確固たるものとして形成し、それが土台となってその時代のあらゆる諸制度を形成し、その「ものの見方・考え方」に応じた質をもった文化を形成してゆくのである。その諸制度の中には経済制度、教育制度、福祉制度、法制度、税制度等々のすべてが含まれ、普通はそれぞれがそれぞれの法律ないしは規則や規範を伴うのである。

時代の移り変わりを判定する要素の中に、しかもその第1に、私が自然観・世界観・社会観・人間観・価値観を含めるのはそうした理由による。

なお、2つ目の、そのものの見方・考え方に基づいて定められた経済的あるいは社会的諸制度と、3つ目の、その経済社会的な諸制度を支配的に駆動させて来たエネルギー資源については、それらが時代の変遷を決定づける要素であることは、現状の世界を見ても判るように、もはや多くの説明は要しないであろう。とくにアメリカにおいてはそのことは既述のとおり(1.1節)最も顕著に現れている。次いでヨーロッパのいわゆる先進国、そしてもちろん日本においても、である。

実際、科学と技術を人間の進歩と発展のための道具として「豊かさ」や「幸福」の実現を目ざしてきたはずの人間とその人間からなる諸国家は、近代以降、自然は人間が豊かさを実現するための手段としてしか見て来なかったため、人類だけではなくすべての生命の共有の財産であるはずの地球の資源の争奪をめぐって戦争を繰り返して来た。それは、産業を発展させることによって国は富み、人々も豊かになるとともに幸福にもなると信じたからである。と言うより、そうすることで権力者・支配者はその地位を安泰にできると考えたからだ。

その過程で生まれて来たものが資本主義であった。しかし資本主義はマルクスの言うその本質ゆえにバブルを生み、またそれがはじけて恐慌を生むということを繰り返した。そしてその度に貧富の差を拡大して来た。

そうした中、その解決策の一つとして、社会主義共産主義という考え方も生まれて来た。

でもその社会主義も今や形の上では消滅したことにはなっている。一方、生き残った資本主義は、表向きは「貧困の撲滅」を謳いながら、その本質である「より多くの利益」を追求するという考え方に立った人々の策謀によりグローバリゼーション(経済の世界化)やネオ・リベラリズム新自由主義)を生んだ。しかしそれらも、結局は、世界的に財政破綻金融危機を招きながら、人々の間でより極端なまでの格差を生じさせることにしかならなかった。

その結果、社会には分断と対立を生み、人間相互の間には孤立化を生み、またその中でテロリズムを生み、ポピュリズム(政治における大衆迎合主義)をも生み、世界はいっそう混迷度を深めてしまった。

つまり、自然を人間のための手段とみなし、より多くの利益を生み、産業を発展させることで人間は豊かになるとして、そのために生まれた資本主義ではあったが、それが今やそれを生んだ人間自身を完全に疎外してしまっているのである。いえ、疎外しているだけではない。個々の人間そのものを破壊し始めてすらいる。その端的な現れの一つが、“誰でもいい、ただ人を殺したかった”という動機による無差別殺人の頻発化だ。あるいは、我が身の安全を守るためには銃の所持は絶対必要だと、それしか考えられないことだ。

そしてその資本主義下における労働も、その意味を問うことのない、ひたすら消費を維持するためのお金を稼ぐためのものでしかなくなっている。その結果、自然は人間が豊かさを実現するための手段であるという見方と相まって、自分たちを生かしてくれている地球の自然を加速度的に破壊し汚染している。その自然破壊は、地球規模の温暖化を進め、気候変動に拍車をかけ、異常気象の頻発化をも生じさせ、その一方で生物多様性の消滅の危機を招いている。

その結果、近代資本主義経済システムを土台から支えて来た化石燃料ではあったが、それも、使えば使うほど温暖化をもたらし、人類の存続を危うくさせてしまうという理由から、もはやたとえ残存埋蔵量があってもそれらは使えないということになり、かつて幾度となく繰り返されてきた石油という資源を獲得せんがための侵略戦争————第1次世界大戦、第2次世界大戦がそれである————さえも、もはや無意味で無価値とならざるを得ないというまでになってきている。

また、近代の知性に支えられた科学は核兵器を生み出したが、冷戦時代に考え出されたいわゆる「核によって相手に核兵器を使うことを思いとどまらせる」という核抑止論も、「核保有国間だけの取り決めで核の拡散を抑える」という核拡散防止論も、もはやことごとく破綻している。その結果、とくに米中間での覇権争奪を巡る新たな冷戦が始まろうとしている中、意図的にであるか偶発的にであるかはともかく、核戦争勃発の危機もますます高まっているのである。

 

以上のことから、もはや近代という時代はその歴史的使命をとうに終えてしまっているのは明らかである。ということは、その近代を特徴づけ、また支配的となった思想に基づいて制度化されて来た資本主義を巡る経済のあり方も、その他の社会的諸制度も、その歴史的使命を終えたのだ。

ここからはっきりするのは、資本主義も、永遠不滅のものではなく、しょせんは人間の歴史の中で現れては消えてきた諸制度の一つに過ぎなかったということである。

では反対に何をもって新時代は幕を開け、到来したと言えるのか。

その問いに対する答えについては、もはや明らかであろう。

それは、上記の「自然観・世界観・社会観・人間観・価値観」と「経済制度」と「エネルギー源」の三つの条件について、それまで主流・支配的であったものが「量」的な面において行き詰まり、あるいはそれが適合し得ない事態がますます顕在化してくると同時に、これまでとは「質」的な面でまったく異なる新たな兆候が次々と現れ始め、またその兆候がその時代の世界と各地域の大方の間に主流となって行きつつあることが、あるいはそうなることが必要であるということが誰の目にも明確に認識されるようになって来たとき、と言っていいのではないか。

こうして、今、近代とはまったく異なる新しい時代がすでに始まっているのである。

したがって、今を生きる私たち地球人類が、私たちの愛する子々孫々のこれまでの人類の歴史に匹敵する長きにわたる存続を本当に心から願うのなら、先ずはこの認識を共有することが何よりも重要ことなのではないか、と私は考えるのである。とくに、それが可能となる時代や社会を築くことを決意する上で、あるいは、これから目ざすべき方向、目ざすべき目的地を定める上ではそれが求められる。

ただしその場合、私たちは心しておかねばならないことがある。それは、たとえどんなに「近代」に郷愁を感じることがあろうとも、“その時代よ、もう一度!”と望んでもそれは無理な望みであるということである。時間の流れは不可逆だからだ。

そのことは後述する《エントロピー発生の原理》も真理として明らかにしている(第3章)

すなわち、新しい時代は、私たち地球人類に不退転の決意を求めているのである。

以上をまとめると本節の結論は次のようになると私は考える。

人類が歩んできたこれまでの「近代」という時代は、主として「知」、「知識」、「知性」に導かれての産物であり、またそれらが支配する時代だった。そこで創られて来たあらゆる政治制度や経済制度そして社会制度は、すべてがそうだった。また近代以前にも資本主義はあったが、「近代」のそれは特に「お金」への偏愛を生んだ資本主義でもあった。

今日、人類が直面している地球温暖化も、生物多様性の危機も、そして核戦争の危機も、よくよく突き詰めれば、それらは「知」、「知識」、「知性」、そして「お金」への偏愛がもたらしたものだと言っていいように私は思う。

しかしこれからの時代はこれとは明らかに違うし、違わねばならない。「理」であり「智慧」であり「理性」の時代だ。これらが「知」・「知識」・「知性」をリードし支配して行かねばならない時代ではないか、と私は考えるのである。

ここに知性とは、ものを客観視した上での理論的な分析の力のことであり、したがって直接的には価値を判断しないままの現象理解力であり、事実を事実としてはっきりさせるという力のこと。それだけに知性の本質は、思想のない明晰さであり、要(カナメ)の取れた扇のようにバラバラだということである。だから知性は、そのままで智慧であるわけはない。そしてそれはある意味では「冷たさ」をもたらす。

このような質の知性が、いわゆる「科学」なるものの直接の担い手となってきたのである。

一方理性とは、全体的な統一と綜合の力であり、理想を立てる力、この理想へ向けて現実を整え、導いて行く力と言ってよい。智慧の力、あるいは精神の力とも言える(真下真一「学問・思想・人間」青木書店p.14)。