LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その1

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 第1章のこれまでは、私は、混迷の度合いがますます深まっている世界の現状について、特にアメリカに焦点を当てて見て来ました。そしてそこでは、世界がますます混迷の度合いを深めているその本質的な原因は、近代の黎明期に生まれ、その後支配的となってきた諸々の思想がもはや世界の現状に合わなくなって来たからというだけではなく、むしろそれらの思想と現実との乖離がますます顕著になり、それらが却って発展の足かせとさえなって来ているからであろう、と私は考えました。それは、言い換えれば、世界はもはや「近代」という時代をとうに終えているということを意味するのではないか、ということです。

 しかし、日本が混迷をますます深めている主たる理由は、世界のそれとは大きく異なっていると私は見ます。それはどういうことか。

 1.4節では、その理由の説明を私なりに試みてみようと思います。

なお、本節も結構長いので、2度に分けて公開してゆこうと思います。

 

1.4 しかし日本は未だ「近代」にも至ってはいない——————その1

 私は、前節で述べてきた現状説明が当てはまるのは日本を除く外の世界の国々についてである、と思っている。私たちの国日本について言えば、そこで述べてきた意味での近代という時代は終わっていないどころか、未だその近代にも至ってはいない、と私は考えるからである。

 確かに日本は、世界からは先進工業国と見なされて来たようだし、今も見なされてもいる。日本国民の間でも、とくに政治家や財界人などは、日本は明治期以来近代化を目指し、それを実現させてきたと誇らしげに言う者が多い。国民のほとんどもそう思っているように私には見える。

 しかしそれは本当だろうか。そこで私が問う「本当だろうか」の意味は、「日本は本当に欧米社会が言うような意味での、あるいは歴史の過程に見られる意味での近代化がなされ、そして今、日本は近代という時代に至っているのであろうか」ということである。

 私は決してそうではないと思う。そう見られ、またそう思われて来たのは、日本はただ経済面についてだけ突出しているから、そしてそれはGDPなどの数字として表しやすいから、外部からもそう見られ、自他ともにそう思って来ただけなのではないか、と私は思う。

 普通なら、近代化が進み、本格的な近代という時代に至れば至るほどに、政治のあり方も知的先人たちが描いた意味での民主政治になり、経済とそのシステムのあり方も「自由」と「責任」の伴った競争が浸透したものとなるのではないか。また、それによって人々は物質的に豊かになるとともに、半ば自動的に教育面や福祉面そして文化芸術面といった面での仕組みや制度も充実してゆくようになるものなのではないか。私にはそう思われるのだが————実際、先進民主主義国ほどそうなっているように私には見える————、この日本という国はこれら全ての面でそうはなっていない。本節で後述するように、突出していると見られている経済とそのシステムでさえ、その実体は欧米の近代化を達成した国々のそれとも著しく異なるものとなっているのである。

 つまりこの国は、こうしたことからも知れるように、未だ本当の意味での近代に至ってはいないのである。と言うより、これまでのところ、日本は、他国、とくに欧米諸国には見られない極めていびつな発展の仕方をしてきた、異常な国なのだ。

 そのことを以下では見ていこうと思うのであるが、そこでここでは、そのように言う根拠を、私は前節と同様の論法をもって説明する。

すなわち、時代が変わるとは、それまでその時代を主流となって支えて来た、あるいはその時代を土台において支配して来た思想と、その思想に基づいて築き上げられて来た経済制度を中心としたさまざまな社会的諸制度と、その社会経済諸制度を土台から支えて来たエネルギー資源の3つまたはそのうちのどれか1つでも、それに関する矛盾や不都合あるいは問題を次々と露呈させて来て、それに対する有効な克服手段を誰も見出せなくなり、そのため、その時代の大方の人々が今後の社会や時代の行く末に不安を抱くようになって来たときである、としてきたその論法である。

 ただしここでは、それを、「その国が、その時代の世界の主流のあるいは支配的な既述の3つの条件(思想と経済社会制度とその社会を駆動させる支配的なエネルギー資源)あるいはそのうちの1つにでも至っていなければ、その国は未だその時代には至ってはいないと判断される」、という論法に読み替える。

 その場合も、その3条件のうち、第3の条件———化石資源、とくに石油とウラン———については日本でも実現されているということについては大方の人は同意されるのではないかと考えられるので、前2者について、それらが果して日本では、「近代」のそれに相応しく実現されているかどうか、ということについてのみ見てみる。

 そこで第1の条件である思想について。

なお、ここでは、その思想については、とくに近代という時代を特徴づける「人間個人としての権利」を中心に着目し、それらがいわゆる欧米先進国並みに保障されている国となっているか、あるいは国民に対してそれを保障しうる政府の国になっているか、また国民の側もその「人権」の意識がしっかりと身に付き、つねにその観点から現実の社会生活ができているか、という点に焦点を当てて検証してみようと思う。

それは、「経済社会と政治社会との未分離、『私』と『公』の一体性を前提にして、その中に諸々の封建的支配関係を含む封建社会を打ち倒したのが市民革命であり、これによって成立したのが『近代』の市民社会」なのであるからだ(渡辺洋三「法とは何か」岩波新書p.94)。

 以下、主に同上書を参考にさせていただく。

 そこで私は次のような問いを発してみたいのである。

人は誰もかけがえのない命を持つがゆえに人間として生きる権利があるし、人間としての尊厳が認められなくてはならないという自覚を国民の一人ひとりは持てているだろうか。

そして私たち日本国民は、いつでも、どこでも、人は皆、能力も、個性も異なっていて多様なのだという認識が「当たり前」に持てているか。その能力とは、例えば、計算が得意であること、記憶力に優れていること、運動能力に優れていること、芸術的感性に優れていること、指先が特に器用であること、創造力に優れていること、人の心を優しくしたり和ませたりする能力に優れていること、言語能力に優れていること等々の全てを指す。

そしてそれらの能力は決して一片の、しかも画一の内容のペーパー試験で測れるようなものではないという認識が「当たり前」に持てているか。また、その画一内容のペーパー試験の点数がいい者だけが優秀であるとか能力があるとかいうわけではないという認識を「当たり前」に持てているか。そしてさらにその上に立って、その一人ひとりは誰も、一個の人間として自由であると同時に互いに平等でもある、という自覚に立てているか。そして私たち日本国民は、その自由の中には、人は誰も、自分の思うことや考えること・感じていることを、他者の迷惑にならない限りで表現できる自由も含まれているという認識を当たり前のように持てているか。そして一人ひとりのそうした権利や尊厳や能力や個性は誰もが互いに認め合わなくてはいけない、という認識を持てているか。そしてこれらのすべてを、単に認識するだけではなく、日常的にそれを言動に表しているか。

 先ずはこうした基本中の基本の人間としての権利感覚が、国民一人ひとりに十分に備わっているかどうかについて私は問いたいのである。

しかし、現状を見るに、残念ながらそれらの問いの答えはほとんどの場合、「ノー」と言わざるを得ないように思う。

 

 ではこうした基本思想を土台にして、近代が確立させてきた次のような社会的・政治的・経済的諸概念についてはどうだろうか。

例えば、社会的なものとしては市民、契約、約束、合意、手続き、義務、権利、政治的なものとしては民主主義、権力、議会、選挙、政府、国家、主権がそうである。そして経済的なものとしては自由競争、利益を得る自由といったものがあるのではないか。

 果たしてこうした社会的、政治的・経済的基本概念を私たち日本国民は、きちんと理解し、それを行動で表して来ただろうか。また政府は政府で、国民がこうした基本概念をきちんと理解し、実践できるような学校教育をしてきただろうか。

 もちろんこれらの問いに対する私の答えも「ノー」である。

 

 同様なことは、上記基本概念に基づく社会的政治的経済的制度を支え維持するために設けられてきた規則一般についても言える、と私は思う。

私たち日本国民は、市民として、ルールとは何か、憲法をも含めて法とは何か、憲法と一般法との違いは何か、ということについても積極的、主体的に考え、その考えたことを積極的に言動として表してきたことがあっただろうか。

あるいは、法とは何かということを含めて、法とは権利のことであり、それは自分たち国民が自らの手でつくるものとの捉え方をできるようになっただろうか。国とは、また国の運命は自分たちで決めるものという捉え方をできるようになっただろうか。同様に、地域社会は自分たちの手でつくるもの、という考え方ができているだろうか。

 契約、約束、合意、手続き、という重要な概念についても同様に言える。

私たち日本国民は、市民社会における人と人との結びつきを決めるルールは、市民が自分の意思で決める契約=合意の他には存在しない、という捉え方ができているだろうか。だから、市民社会は何よりも合意が支配する社会である、という捉え方ができているだろうか。

契約は守られねばならない、契約は拘束する、という捉え方ができているか。契約の持つ拘束力を神聖なものと考え、責任をもってそれを守り、他者にも守らせる、という捉え方ができているだろうか。約束を守らないということは非常に恥ずべきことである、という捉え方ができているか。約束をした以上、どんなにしてでも責任をもってこれを守る、という捉え方ができているか。契約は力の弱い者の利益を保障するもの、という捉え方ができているか。

 また、手続きもまた一つのルールである、という捉え方ができているだろうか。法を重んじるということは手続きを重んじるということである、という捉え方ができているか。

どんな組織や集団においても、その組織や集団としての意思が決まるまでには一定の手続きを踏まなければならないという捉え方ができているだろうか。能率と手続きは必ずしも相反するものではなく、むしろ踏むべき手続きが守られていないから能率が上がらなくなる、という捉え方ができているだろうか。

 手続きは、話し合いや説得の場を設定するルールである、という捉え方ができているか。「初めに決定あり」あるいは「最初から賛成か反対か」を問題とすることは手続き的正義を無視することである、という捉え方ができているか。手続き無視あるいは手続きがいい加減によるやり方で通った法律は無効、という捉え方が国民の間にできているか。とくに特定の人に不利益な決定をする場合には、その人にその弁明や説明を全部させた上で判断する、という捉え方ができているか。人権保障にとって公正な手続きはどんなに大切なことか知れない、という捉え方ができているか。国家権力の行使は、それが一定の手続きに従ってなされる場合にのみ合法的であり、手続き無視の権力行使は、ただ手続きに反したというだけの理由で非合法とされる、という捉え方ができているか。権力の行使を手続き的ルールに服せしめることは、国民の人権保障にとって何より大切なこと、という捉え方ができているか。

 こうした問いが意味することに対しても、私たち日本国民一般は、わたし自身を含めて、未だ、常に「イエス」と答えられる状況にはないのではないか。

 

 それに、これらのことは、この国の政治家と呼ばれる人たちのほとんど全ての人たちが見せる姿を見ても明らかだ。

後述するが(2.2節)、彼ら政治家は、主権者である国民から選ばれていながら、官僚あるいは役人に依存し追従するばかりだ。それは明治期以来、依然としてそうだ。真の近代国家の意味も、また近代民主主義議会政治を理論的に確立する上で要になって来た政治的諸概念すらも知らない。「法の支配」という近代法の極めて重要な原理も知らないのだ。

 「法の支配」とは、法の内容そのものが合理的なものでなくてはならないことを要求すると同時に、恣意的な支配を排斥して、権力の行使を法によって拘束し、恣意的にではなく客観的なルールに従わねばならないとする世界の民主主義国共通の政治原則である(山崎広明編「もういちど読む山川政治経済」山川出版社p.8)。それは、政府も国民も、法とは、権力を持たない国民の権利を保障するために、権力を持つ国家の権力行使が一方的・恣意的・主観的にならないよう、これをルールをもって拘束する必要があるという考え方を根底に置いている。つまり「法の支配」とは権力よりも法が優位であるという考え方である。同じことであるが、国民の意思が権力者の意思を拘束するのである、という考え方なのである。ところがそれが国民の間から出た政治家、特に政府の政治家にはきちんと理解されてもいないのだ。

また、行政権の行使には法律の根拠が必要であるという考え方である「法治主義」についても同様な状態だ。特にこれは政府の政治家と役人は常に意識していなくてはならないものであるが、それが、意識されているようにはほとんど見られない。それは、法治主義の下では、政府の行為が法の拘束の下にある以上、政策の変更は法の変更を前提としなければならないとなるが、それが彼らはそうはせず、法の変更なくして政策を変えてしまうことから判るのである。

その実例は例えば、新型コロナウイルス禍の下では頻繁に見られた。首相や首長を含めたこの国の政治家という政治家が、法に基づかずに、あるいは法の変更を待たずに、そしてそのことに全く無頓着なままに、中には「法とは何か」すら知らずに(西村経済再生担当大臣)、「要請」や「お願い」という形での恣意的な権力行使を幾度となく平気で繰り返してきたことである。

 しかし、そうは言っても、そこは、あえて公平を期すために言えば、前代未聞の事態が国民に生じたとき、つまり在来法では対応できない大事に陥った時、国会議員が、国民の要請に応えられる新法を臨時国会を開いてでもタイムリーに制定してこなかったからであるし、また地方議員も同様に、新法の成立を待たずに、住民の要請に応えられる新条例を臨時議会を開いてでもタイムリーに制定して来ずに、どちらももっぱら政府に任せ、傍観してきたからだ。つまり議会の政治家という政治家が自分の本当の役割と使命を知らないのである。いかなる時でも、主権者たる国民・住民の生命と自由と財産を何よりも優先して守ることこそが自分たちの最も重要な役割なのだということすら知らないからなのだ。

 つまり国民の間から出たこの国の政治家は、政治家の役割すら知らないのだ。

そして実はこの事実こそ次の真理を体現していると見ることができるのではないか。

それは、国民の間から出る政治家の政治的レベルは、その国の国民の政治的レベルを超えられるものではないという真理を、である。言い換えれば、それは、国民の一般的政治意識、広く言えば国民の思想のレベルが、近代の「市民」のレベルと民主主義のレベルからは程遠いところにある、ということである。

 

 あるいは次のような問いを発することもできる。

正義とは何か、何が正義か、という問題意識を、国民も政治家も役人もつねに持ち続けているか。法の世界と、宗教や道徳そして文化の世界とは自ずから別個の世界に属する、という捉え方ができているか。法的正義と道徳的正義とは別物、という捉え方ができているか。法的には責任を問われなくても、道徳的には責任を負わなくてはならない場合がある、という捉え方ができているか。反対に、法的に責任を問われる違法な行為であっても、道徳的には責任を負わなくてもいい場合がある、という捉え方ができているか。

 現行日本国憲法に従うなら、軍隊である自衛隊を持ってはならないし、軍隊を持とうとするなら、法治主義の観点からも、憲法を改めるべきなのである、という捉え方ができているか。憲法の条文を、それもその憲法は改正の手続きを明記しているにも拘わらず、それを無視して、憲法の運用・解釈を変えることによって、事実上、憲法を変えたことにしてしまう政府の態度は、法治主義を否定するものであると同時に、憲法そのものを無きものとする態度に等しい、という捉え方ができているか。一方で自衛隊の存在に賛成しながら、他方では軍隊を持つことを禁止する憲法の存在にも賛成するという国民の態度は矛盾している、という捉え方ができているか。軍隊を持たないで平和を実現・維持するという態度と、軍事超大国アメリカと安全保障条約という軍事同盟を結ぶことによって平和を実現・維持するという態度とは相反する、という捉え方ができているか。裁判の判決は白か黒かのどちらかしかなく、その中間はないと同じように、とくに政府の行為については、国民の側は、法治主義を守るという観点に立って、何事につけ、合法か違法かのけじめをつけなくてはならないという捉え方ができているか。これと同様、国民は、本来公務員の権力の行使に直面したとき、それが法律的根拠の有ることかどうかをつねに確かめるだけの法常識を持つ必要がある、という捉え方ができているか。法律に反する契約は無効であると言ってみても、それは当事者が裁判所に訴え出れば無効になるというだけのことであり、当事者が訴えなければ、現実の社会では、無効な契約もまた堂々とまかり通る、という捉え方ができているか。これと同じく、契約においていかに立派な法律であっても、市民がそれを知って、日常生活の中でこれを活用するのでなければその法律は無きに等しい、という捉え方ができているか。

企業や国家は、国民の具体的生活利益を侵害してはならないというだけではなく、それを積極的に実現するための義務を負っているのであり、その義務違反に対しては、国民はそれを追究するだけの権利を持っている、という捉え方ができているか。

法規をつくるに当たっては、立法者は、文章の言葉の意味を、できるだけ具体的かつ客観的に確定しておく必要がある、という捉え方ができているか。

司法は、誰からも、どこからも独立していなくてはならない、という捉え方が国民と政治家と役人にできているか。裁判官は、殺人犯に対して、死刑を宣告することもできるし、無期懲役にすることもできる。死刑を宣告した裁判官は、彼の主体的な意思で被告の生命を奪ったのであり、法の適用の結果そうなったのではない、という捉え方ができているか。戦時中、治安維持法体制に加担した裁判官は、戦後、戦争責任を問われなかった。他の分野では戦争責任を問われたのに、司法界ではそれが問われなかった。しかし、法律家は、法の名において、その責任を回避してはならない。裁判官は、治安維持法を縮小解釈することによって、無罪にすることもできたはずであるからだ。安保条約や自衛隊違憲訴訟をはじめとして、重要な幾つかの問題について、裁判所は、統治行為にわたる政治問題には立ち入らないとしてその判断を放棄して来た。裁判所が、立法府や政治の問題に介入すべきでないことはいうまでもない。しかし、裁判で争われているのは、立法議会が定立した法や国会の議決、政府の政治的決定等が憲法に違反しないかどうか、という法律問題なのである。その法律問題に答えることは正に裁判所の仕事なのである。その仕事を放棄したのでは、裁判所の存在理由そのものが問われることだ、という捉え方が国民の間にできているか。行政庁が裁判所の決定に介入し得るとする現行の行政事件訴訟は、三権分立の原則から極めて奇妙なことだ。違法な行政処分に対する裁判所の執行停止を、さらに内閣総理大臣が覆すことができるという今の行政訴訟法の制度(27条)は、国民の権利無視もはなはだしい、という捉え方が国民の間にできているか。つまり、裁判所の決定より行政権の決定を優越させることは、法の支配と権力分立の原則を否定することを意味する、という捉え方が国民と政府の政治家と役人にできているか。

真実は公正手続きに従ってのみ発見されなければならない、という捉え方ができているか。

権利のために闘うことは、自身のみならず国家・社会に対する義務である、という捉え方ができているか、等々と。

 

 では、近代という時代が普遍的価値としてきた「自由と民主主義」の中の「自由」という思想に対しては、この国の人々の認識はどうであろうか。

それを、特に、言論の自由、さらには表現の自由と最も深い関わりを持っているはずのジャーナリスト、特に政治ジャーナリストについて見てみよう。

 それについて考える際に最もふさわしいのは、この国の新聞や放送という報道に携わる、いわゆるジャーナリストと呼ばれている人々の間で当たり前となっている「記者クラブ」だと私は思う(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞 双葉新書」)。

 その記者クラブには、幹事業務を輪番制で担当する会社が許可を与えた外国人記者以外の外国人記者は排除して群がり、クラブ主催の定例会見の場では、情報提供者の言ったままを記事にし、それを垂れ流している。つまり、情報提供者の言っていることの真意を分析することも、自己の能力と手段の限りを尽くして市民の知るべきニュースをできうる限り正確を期した上で読者に伝えるということもしていない(K.V.ウオルフレン「システム」p.304)。否、それ以前に、市民が本当に知るべきニュースとは何かを吟味している風も見えない。むしろ、彼ら自身がニュースと情報の管理と統制をし、政府あるいは権力者を監視するどころか、むしろ彼らの至近距離に近づき、ネタ欲しさに迎合さえしている。だから、日本のジャーナリストたちは、その大多数が、誰がどのような権力を非公式に行使しているか、それを追いかけて分析して国民に伝えるということもしていない。また、国民の多様な声に耳を傾けてそれを読者や視聴者に正確に知らせるということもしないで、国民の声を社の方針に基づいて取捨選別しては自分たちで「世論」をつくり、社会の正義を重んじることもなく、むしろ社会の秩序維持を図る政府の協力をしてさえいる。

 つまり、おしなべて日本のジャーナリストには、自由、それも言論の自由とか表現の自由は自分たちの当然の権利であるという認識もなければ、それを言動という形で表現する勇気もない。

ところが、そうした記者クラブに出入りする彼らのジャーナリストもどき態度が、結果として、この国の社会制度も政治制度も経済制度をも、未だ前近代のままとさせてしまう決定的な影響をもたらしているのである。

 

 以上のことからだけでもわかるように、フランス「市民」大革命が起こって早く230年余になるというのに、この国はいまだもって「市民」の国、「市民」の社会にもなり得てはいないのである。政府も民主政府にはなり得ていない。もっぱら官僚に任せた官僚主導政府だ。

その官僚たちはと言えば、国民・関係住民の意見や要求を真摯に聴き入れ、それに基いて事業をするかしないかを決定するということもなければ、それに基いて計画を練るということも、過去、一度としてきた試しはない。それでいて実質的な立法者だ。そしてそれを政治家、特にこの場合、その官僚らを監督し、コントロールしなくてはならない担当大臣(閣僚)は、事実上傍観し、また彼らに追随してくるだけだったのだ。

つまりこの国は、既述の意味での「法治主義」の国でもなければ、「法の支配」の下に行政が行われてきているのでもない。公共事業ないしは開発行為という国家権力の行使も、それが一定の手続きに従ってなされる訳ではなく、最初から事業の実施ありきで、手続き無視、あるいは見せかけの手続きだけで行われて来ただけなのだ。つまりこの国では、法律は、官僚の国民に対する恣意的統治の手段でしかない。彼らは憲法でさえ日常的に無視している。つまり「公務員は全体の奉仕者」と明記する条項(第15条第2項)をだ。

 正義と秩序の区別も、法と道徳の区別も明確ではなく、秩序が語られることはあっても正義が重視されることはない。また、法的正義と道徳正義についても同一の「正義」という言葉で語られ、混同して使われて来ただけだ。自民党の政治家が憲法に道徳を持ち込もうとして来たのはその典型例だ。そもそも彼らは道徳と倫理の違いも理解できていない。

 またこの国の政府には、また大方の国民にも、主権の理解もなければ意識もない。とくにアメリカに対しては、むしろ自発的に隷従さえしている。

 たとえば次の2表を見ていただきたい。 

 

 

   表 − 日本とドイツとイタリアの地位協定の主たる内容比較

 

日本

ドイツ

イタリア

国内法の適用

原則不適用

適用を明記

国内法遵守義務を明記

基地の管理権

米軍に排他的管理権。

日本側に基地内立入り権の明記なし

連邦、州、地方自治体に立入り権。緊急時は事前通告なしで

米軍基地もイタリア司令部の管理下。基地立入り権を明記

訓練・演習への関与

既成権限なし。詳細情報も通報されず

ドイツ側の許可、承認、同意等が必要

イタリア軍司令官への事前通知、調整、承認が必要

警察権

基地内のすべて、基地外の米軍財産に日本は捜索、差押え、検証の権利を行使せず

警察による基地内での任務遂行権限明記

基地へのイタリア司令官の立入り権を明記

                                                    (赤旗日曜版2018年9月23日号)



      表 − 米軍駐留国における経費負担状況

 

日本

ドイツ

イタリア

米軍施設整備費

分担

米側負担

米側負担

従業員労務

分担

米側負担

米側負担

光熱水費

分担

米側負担

米側負担

負担割合

約75%

約30%

約40%

                (2019.6.27 TBSテレビ)

 

 以上の実態から明らかなように、日本は、近代西欧が獲得して来た基本的価値や社会を成り立たせている主要な概念が、未だにまったくと言っていいほどに身に付いてはいないのだ。

つまり、それは明らかに近代以前の様相そのものだ、ということである。 

 そもそもこの国では、次のような数々の「格言」が、未だに、巷でも、学者の間でも、ジャーナリストの間でも隠然とした説得力を持っているのである。とくに役所の役人の間では、それが日々、堂々とまかり通ってさえいる(5.2節を参照)。

 波風は立てるな。長いものには巻かれろ。寄らば大樹の陰。勝てば官軍。触らぬ神にタタリなし。臭いものには蓋をしろ。見て見ぬ振り・聞いて聞かぬ振り・知って知らぬ振りが大事。本音と建前を使い分けろ。もっと大人になれ。丸くなれ。もっと現実的になれ。理想だけじゃ喰っては行けぬ。水に流せ。村八分にされるぞ。足を引っ張られるぞ。批判するより協調。自分を主張するより和が大切。人の噂も75日、等々。

 ここには、例えば、自由、平等、友愛、自主、自立、自律、独立、連帯、共感、寛容、公正といった近代の主導的な価値観あるいは思想を窺わせるものは何一つなく、あるのは、むしろ、強者への卑屈、迎合、忖度、隷従であり、周囲への同調、馴れ合い、雷同であり、自身への不誠実、不忠、裏切り、諦めだ。 

 

 では第2の条件であるところの、この国が世界から「先進国」とされてきている唯一の根拠である経済制度については、世界の本物の近代諸国のようになっているだろうか。

言い換えれば、この国は近代という時代を経済制度の面で特徴づけられる「資本主義経済」の国に本当になれているのだろうか。「自由主義市場経済」の国になれているのだろうか。

 なお、このこと以下は、次回に譲りたいと思います。