LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

2.1 なぜ政治が国民にとってあらゆる社会制度の中で最も重要な制度なのか

この程、アメリカ合衆国の大統領選挙が行われました(11月3日)。しかし、三日経った今も、僅差による票の再集計等の理由により、トランプとバイデンの両候補のどちらが大統領になるか決着はついていません。というより、本当に決着がついて大統領が正式に決まるまでには、どうやら、まだだいぶ紆余曲折がありそうです。

しかし、今回の選挙でも、このことは改めて世界の人々に知らしめたのではないでしょうか。選挙、それも国民による自由で平等な選挙は、民主主義を実現し、それを維持するための手段・手法としては、いろいろな問題点はあるとはされながらも、今の所は、少なくとも最善の方法であると。

そこで言う民主主義とは、その語源である「デモ(民衆)+クラシー(権力)」との合成語から成る「デモクラシー」という語源からも判る通り、民衆が権力を持つ、それも最終的な権力は民衆が持つのだという考え方に基づく政治制度のことです。また、そこでの権力とは、「他人を押さえつけ支配する力」(広辞苑)のことです。つまり民主主義とは人民が支配するという考え方に基づく政治制度だということです。

その場合、権力にはいろいろありますが、ここで特に重要となるのは政治権力です。政治における権力です。

では、政治とは何か。これは新聞でもテレビでも、一年を通して耳にしない日は一日としてないほど一般化した言葉ではあリます。しかし、その言葉の持つ意味については、果たしてどれだけの人が、どれほど正確に理解した上で用いているのでしょうか。実はこのことはこの国の「政治家」についても、彼らの言動を見ていると、まったく同様に言えます。ほとんどの政治家すらも判ったつもりで使っているだけのように私には見えます。

しかし、既述したように(11月11日、14日、18日のブログ)、ますます混迷の度を深める今日の世界と日本にあって、国あるいは社会という共同体の構成員である私たち一人ひとりにとっては、今ほどがこの政治という言葉が持つ意味を正確に理解して用いることが求められているときはないのではないか、と私は考えます。曖昧な理解であったなら、そこには恣意や勝手な解釈が入り込み、ますます社会の混迷を深めるだけだからです。

そこで、ここでは、その政治について、私の現在の思考の及ぶ限りで考えてみようと思います。

まずはその第一として、「なぜ政治が国民にとってあらゆる社会制度の中で最も重要な制度なのか」ということについてです。

 

第2章 この国の全政治家を一旦辞めさせ、官僚制度をも全面的に創り換える

2.1 なぜ政治が国民にとってあらゆる社会制度の中で最も重要な制度なのか

結論を先に述べたいと思う。

政治こそが私たちの国や社会を成り立たせているあらゆる制度や仕組みを公式に決定しうる人間の営みだからである。その制度や仕組みの中には、たとえば教育制度、経済制度、医療・介護・看護を含む広義の福祉制度、文化文芸諸制度、科学や技術の制度、選挙制度、公務員制度、さらには、外交・防衛・軍事の制度、国会の制度、政府の制度、裁判所の制度等々が含まれる。さらにその制度や仕組みの中には、これらの諸制度や仕組みを実現し維持するために、国の中の誰からどのような税を取り、それを誰のために使うかということをも決める仕組みである租税制度も含まれる。そしてこれらすべてを、公式に、あるいは公然と定められるのは唯一政治家と呼ばれる人たちだけなのだ。

そしてその政治が目指すことは、あるいは政治家に課せられた役割と使命とは、いかなる時、いかなる状況下でも、自国民の生命と自由と財産をより安全に守ることなのだ。言い換えれば、「近代」+「民主主義」+「国家」では、その政治が目指すこととは、自国民一人ひとりの、人間としての尊厳と権利を守りながら、最大多数の最大幸福を実現することなのだ。

私たちは誰も社会の一員である。一国の構成員である。そしてその社会も国も人々の人々による人々のための人間共同体である。その共同体からはみ出しては私たちは生きることはもちろん生活することもできない。また私たちが安心して暮らして行けるためには、その共同体を共同体として維持するための規則や仕組み・制度がどうしても必要となる。そうでないとその共同体は一定の秩序を維持できないからだ。

その規則や仕組み・制度をつくるのが政治なのだ。

政治とは、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み」と定義される所以である(広辞苑第六版)。

 

私たちはよく新聞やテレビで、外国、それもとくに欧米社会において、あるいは中東や北アフリカにおいて、そして今はとくにアジアの香港や台湾において、人々が自分たちの要求を訴えたり、抗議のための街頭デモ行進をしたりしている光景を目にする。また、人々がそうした行動に出ているところへ、警察が取り締まりのために抑え込んで来たり、かと思えばいきなり催涙弾やゴム弾を発射したり、ときには実弾を発砲したりして、鎮圧しようとしている光景をも目にする。また、それによって市民の側には多数の犠牲者、ときには死傷者が出ても、市民はひるまずに勇気を持って自分たちの主張を訴えつづけている様をも目にする。

では、なぜ人々はそうした行為に出るのであろうか。なぜそこまでして自分たちの声を訴えようとするのか。そして彼らは誰に向って訴えているのであろうか。

私は、ここには、人間としてというよりは生物としての、それもあらゆる生物に共通で、一点の矛盾もない本能が現れているのではないか、と考えるのである。

その意味はこうである。

ヒトに限らずあらゆる生物は、自分の生存や子孫の存続のためには、それを脅かす何かが目の前に立ちはだかっていると感じ取ったならば、自分の命の危険など顧みることなく、どんな犠牲を払ってでも、目の前の脅威と対峙し、それと対抗し、あるいはそれに抵抗し、それを押しのけ、あるいは亡き者にしようとするものなのではないか、そしてそれはヒトを含む生物一般の持って生まれた本能の表現形態なのではないか、と。

だから、その本能が表現できないところ、あるいはできないような状況が続いたなら、その生物は、人に限らず他生物でも、精神的にも肉体的にも、必然的になんらかの異常な状態を呈するようになるのではないか、と————ところがこの国では、少なくとも明治期からは、その本能を表現することを政府によって意図的に抑えられてきた。「政治には無関心であることが望ましい」として、あるいは「巷での政治的な議論はしない方が良い」として。————。

日本では、昔から———少なくとも室町時代から———、とくに農民は、年貢米(今で言う税金)の負担を少しでも軽くしてもらおうとして、あるいは徳政を求めて、心を一つにして支配者に対して自分たちの意思を訴えて来た。それは、土一揆あるいは百姓一揆と呼ばれた。そうしたとき、一揆の中心人物は大抵、時の支配者によって、農民への見せしめのために首謀者として磔(はりつけ)という極刑に処せられてきた。

明治期以降になると、それが「お上に陳情する」という言い方に換わった。その「お上」とは、天皇のシモベとされた役所の役人のことである。その訴え方と言い方が今日もなお日本国民一般の間に続けられているのである。

ところがその「陳情」については、そのような訴え方や訴える相手は、本来の民主主義政治制度の観点からから言えば間違っている、と異論を唱える人は、テレビを見ていても、政治学者や政治評論家を含めて、私には皆無に見える————というより、そういうことは考えていないし、気づいてもいないのかもしれない————。

実際、民主主義の実現している欧米社会では、市民(シティズン)と呼ばれる人々は日本のように役所に陳情するというようなことはせず、つねに政治家たちに訴えるのである。あるいは政治家たちの活躍の場である議会に訴えるのである。

ではその場合、なぜ役人ではなく政治家なのか。

それは、市民から見れば、国の主権者として、政治家こそが自分たちが選挙で選んだ自分たちの政治的代表であるし、その代表こそが自分たちの日々の暮らしや将来の暮らしそして国のあり方に関わるさまざまな法律や制度を代表として決めることができる立場にあり、また、彼らにそれができるための権力を負託したのは自分たちなのだから、と考えているからである。

そしてそういう行動に出るのは、多分、小さいときから、親から、そして学校で、自国の歴史の学習の中で教えられて来ているからなのではあるまいか、と私には想われるのである。

だから民主主義の国の人々は、自分たちの日々の暮らしで困っていることがあって、関係する法あるいは制度や仕組みを変えればその困り事をいくらかでも解消あるいは解決できると考えるなら、自分たちの政治的代表である政治家にそれを叶えて欲しいと訴えるのである。

あるいは民主主義の国の人々は、自分たちの国の政府が自分たちが合意していることとは違ったことをやっていると思ったり、憲法違反や法律違反を含めて間違ったことをしていると思ったりしたときにも、同様に政治家や議会に抗議の意思を表したりするのである。

それも、できるだけ効果があるようにと、人々は思いを共有する者同士で少しでも多く連帯して訴えるのである。

そしてその時特に大事なことは、民主主義の国の人々は、自分たちがそうした行動に出るのは、そうすることが母国の自由と民主主義を維持し守るための、自分たち自身と国家への義務とも考えているからなのである(イエーリング「権利のための闘争」村上淳一岩波文庫

このことから判るように、民主主義の国の社会においては、国民が———その場合には、正しくは「市民」と言うべきであるが———自分たちの暮らしや社会の状況を変えて欲しいと願う際には役所の役人ではなく政治家こそが訴えるべき相手とみなすのである。それは、政治家こそが、その彼が立候補したとき掲げた公約を実現して欲しいと自分たちが望んで自らの一票を投じた自分たち国民の代表だと考えているからだ。

実はこの、「政治家こそが私たちの代表である」という認識を持つこと、また持てることこそが決定的に重要なことなのである。役所の役人は決して私たち国民の代表でも何でもない、彼らはあくまでも公務員試験という官吏任用試験にパスしただけの立場に過ぎないからだ。

その彼らの勤める役所は、本来、私たちの代表が法律や政策を決める議会という議決機関が決めたことを決めたとおりに執行することだけを使命とする執行機関なのである。したがって「公」務員とは、国民の代表が国民に代わって、国民の意思に基づいて決めたことを決めたとおりに執行することを主たる役目とする人々、という意味なのである。

したがって「公」務員とは、主権者である国民の「僕(シモベ)」、すなわち公僕(パブリック・サーバント)、もっと平たく言えば、もっぱら主権者である国民に奉仕することを役割とする「召使い」のことだ———実はこのことからも、官僚を含む役人一般に当てはまる公務員に権力が与えられることはあり得ないし、実際、日本国憲法も、どの条文を見ても、公務員には権力は与えてはいない————。ただし、「公」務員は主権者である国民の「僕(シモベ)」であるとするのは、もちろん役所における仕事上での立場であって、身分が召使いだと言っているのではない。自裁、公務員も、自宅に帰れば、彼も国民一般のうちに入り、主権者一般に入る。

こうした立場上の相違から明らかなように、私たち国民は、社会の現状を改善して欲しいと望むときには、役所に、あるいは役所の役人に「陳情」という形で訴えるということは通常はあり得ないし、むしろ私たちは主権者としてそうしてはならないのである。

それには2つの理由がある。

1つは、私たち一般国民が役人に陳情してしまうということは、主権者でありながら、民主政治のシステムに沿わない行為に出ることだからである。もう1つは、主権者である私たち一般国民が自らそれをするということは、それだけ、本来公僕である役人をして彼らの社会的政治的立場を勘違いさせてしまい、“自分たちが主権者の要求を聞いてやる立場だ”と錯覚させてしまう可能性が高いからである。つまり私たち国民の側のその行為自体が、官僚主導政治を生み出し、またそれを助長してしまう可能性があるからだ。

そうでなくても、実際、この国は、欧米の政治制度を取り入れたはずの明治期はもちろん、戦前と戦後の今日までずっと、実質的には、民主主義政治、つまり民あるいは国民または人民が主人公で主権者である政治、あるいは民衆が支配する政治(デモクラシー)が行われて来たことは一度もなく、官主主義政治、すなわち官あるいは官僚が主人公あるいは主権者であるかのような政治が行われて来ているのである。そして、この国に今なお陳情という制度や言葉があるという事実自体、これもこの国が近代には至っていない一つの証拠でもある。実際、この「陳情」という制度は、明治期の官僚が作ってきた制度だと私には推測されるのである。

産業界が豊かになって経済大国と呼ばれるようになった日本ではあるが、私たち国民がどれほど長いことその経済大国に見合う豊かさを実現も実感もし得ないままに来たか、そして海外からも、この国がどれほど「打ひしがれた人々の国」と見なされてきたか、その本質的理由はここにある。そしてそのような状態のままにしてきた最大の責任者はこの国の全ての政治家だったのだ———それについては後に詳細に述べるつもりである(2.5節、5.2節、7.1節)———。

とにかく、民主主義政治の下では、私たち国民にとっては、政治的に何かを解決して欲しいと望むときには、つねに政治家だけが唯一の頼みの綱なのである。政治家を通じて、政治的に事態を動かす、状況を変える、ということが要として重要なのである。

このことは、私たち国民は、とくに主権者として、片時も忘れてはならないことなのである。

逆に言えば、政治家は、政治家になった以上、役人に追随するのではなく、つねに国民の声にしっかりと耳を傾け、国民の望む社会の諸制度づくりをしなくてはならない。それこそが政治家の最大使命と責任なのだから。

選挙で当選して政治家になれたのも、「あなたの掲げる公約を是非政策として実現して欲しい、それを実現するために必要な権力をあなたに負託する」、という有権者からの信任の結果なのだ。

そして選挙をするとは、そのような意味を持っているのだ。ただ一票を投ずることではない!

それだけに政治家になったからには、負託された権力を公正に行使して自らが掲げた公約は何としても実現してみせねばならない。その意味でも、議会は質問する場ではないし、そんなことをしていられるような場でもないのだ!

もしその公約を果たさなかったなら、有権者を裏切ったことである。その場合には、負託された公権力は主権者によって剥奪され、政治家としての立場を失っても文句は言えないのである。

 

以上のことは、言い方を変えると次のようにも表現できる。

私たち国民一人ひとりが、“自分の運命はなるようにしかならない”と考えたり、“仕方がない”と諦めるのは嫌だとして、 “自分の運命は自分で切り開くのだ”、と考えるのならば、またそのためには、“自分の住むこの国はこういう国にしたい”と考えるのならば————一人ひとり、是非、主体的にそう考えるべきであると私は思うのであるが————、それは、イコールの関係で、政治を、そして政治のあり方を考えるしかない、ということなのである。なぜなら、本節の冒頭で述べてきたように、政治こそその願いを可能とし、現状を自らが望む方向に変えられるようになるからである。

そしてこのことからさらに言えることは、政治に関心を持つことは、母国を愛することでもあると同時に、自身に対してのみならず国家・社会に対する義務でもあり、ひいてはその国家と社会を正しく成り立たせる正しい法の生成と発展に貢献することでもある、と。

 

再度強調するが、私たち国民が頼りにすべき相手は、常に、そしてあくまでも政治家なのであって、断じて役所の役人ではない。全く同じように、私たち国民から選ばれた代表である政治家が頼りにする相手も役所の役人ではない。政治家はあくまでも、主権者の声に耳を傾け、役人を国民に代わって公僕としてコントロールしながら主権者の要求を実現しなくてはならない。それなのに、主権者から付託された権力を役人に委譲するという断じてしてはならないことをしては政治を役人に任せ、その上彼らに追随するなどもってのほかで、そのような政治家は政治家の資格も能力もないのだから、即刻辞任すべきなのだ。

なお、このことに関連して、さらに明確にしておかねばならないことがある。それは、「公」とは、「私」に対する言葉であり、公共のことであり、それは広く国民のことであって(4.1節での定義を参照)、決して役所のことでもなければ、役所の役人のことでもない、ということである。

ここで言う「役所」とは、最も身近には地方政府としての市町村役場と都道府県庁のことであり、中央政府としての内閣を司令塔とする全府省庁のことである。

そしてこのことと関連して、私たち国民は、主権者として、次のことをも常に明確に区別しておかねばならない。

それは、官僚を含む役人一般が公務を行う場としての既述の意味での役所のことを、「クニ(国)」、「ト(都)」、「ドウ(道)」、「フ(府)」「ケン(県)」、「シ(市)」、「チョウ(町)」、「ソン(村)」と呼ぶのは明らかに間違いだということである。また役人らにも、そう呼ばせてもならない、ということである。

なぜなら、国と中央省庁とはまったく違うものであり、同様に、都も道も府も県も市も町も村も、都庁や道庁や府庁や県庁や市役所や町役場や村役場とはまったく違うものであるからだ。

国も都も道も府も県も市も町も村も、私たち主権者である国民そして風土や文化から成るものであって、決して役人から成るものではないからだ。そして役人が国や都や道や府や県や市や町や村を代表しているのでもないからだ。

それに、国際的にもよく知られてもいることだが、この国の役所内部の組織は、どこも当たり前のように「縦割り」となっていて、一つの役所でも、各部署は互いに隣の部署が何をしているか知らないほどにバラバラだ。つまりこの国は統治体制に決定的な欠陥があって、今もってまともな国家でさえないのだ。だから何をするにも時間がかかる。災害発生時にも、決まって初動体制に遅れが出る。中央政府の首相も、地方政府の首長も、無責任にも、あるいは国家とは何かについて無知なために、それをずっと放置してきている。その上、役人は、自分の損得しか考えずに、自分のしたことに責任を取らず、つねに言い逃れをする(2.5節、5.2節、7.1節)

そんな役人らが役所のことを「クニ(国)」、「ト(都)」、「ドウ(道)」、「フ(府)」「ケン(県)」、「シ(市)」、「チョウ(町)」、「ソン(村)」と呼ぶ場合、それは彼らのやっていることの責任の所在をうやむやにしてしまっていることでもあるのだ。そして役人のそうした呼び方に対して、主権者である私たち国民が異議を申し立てずに受け流してしまうということは、国民の側が、特に政治家や政治学者そして政治ジャーナリストたちが、共に主権者でありながら、民主主義政治を実現させる上で、少なくとも2つの過ちを犯していることになると、私は考えるのである。なおここでも、主権者とは国家の政治のあり方を最終的に決めることができる権利を所持する者のことである、という意味であることを再確認しておきたい。

1つは、主権者が公僕である役人らをして、彼ら役人が国、都、道、府、県、市、町、村という共同体の代表であると認めてしまっていることであり、また役人らをしてそれらを実質的に乗っ取らせていることでもあるからだ。そしてそのことと関連して、もう1つは、それらの共同体のいずれをも、実質的に役人あるいは官僚による独裁を承認してしまっていることでもあるからだ。

とにかく、国と中央省庁とはまったく違うものである、同様に、都も道も府も県も市も町も村も、都庁や道庁や府庁や県庁や市役所や町役場や村役場とはまったく違うものであるという、それぞれの政治的概念を明確にすることが、本物の民主主義政治を実現する上でも、また、この国の混迷をこれ以上深めないためにも、まずは何よりも重要なことなのではないか、と私は考えるのである。そしてこのことは、特に、この国の全ての政治家と公共放送と自認するNHKと、朝日新聞毎日新聞・読売新聞・東京新聞を含むメディアの方々に強調したいのである。

現状は、まるで思考停止の状態にあるからだ。

 

政治の最重要性の根拠はそれだけではない。

政治のあり方は、国民の心や精神のあり方に直接間接に大きな影響を与えるからである。

政治そのものは、目には見えないし直接的に感じることはないが、政治が私たちと私たちの国の今と近未来のあり方に決定的影響をもたらすということを理解している者にとっては、政治を行う人つまり国民の代表であるはずの政治家の行動と物言いによって、私たち国民の多くは、日々の生活に、また将来に対して、希望や展望を感じたり、逆に失望を、場合によっては絶望を感じたりするのである。

そしてそれによって、社会に活気が生まれたり、逆に不安が漂うようになったりするのである。またそうなれば、それだけ社会は安定性を欠き、秩序は乱れ、人々の倫理観が衰え、犯罪が多くなったりするのである。

言い換えれば、政治(家)のあり方はその国の国民の理性の規範と倫理的な生き方の規準のあり方、それに国民の自国に対する現状認識から世界認識に至るまで重大な影響をもたらし、国民の愛国心を高揚させ得るか否かにも密接に関係しているのである。

つまり政治家の行動の仕方とものの言い方は、政治の世界とは直結していない生活領域にも、広範で、きわめて重大な影響をもたらし(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」p.42)、それだけに、ある意味では、国民の品位を決める、と言うことさえできるのである。

政治家の品位を見れば国民の品位も判る、とされる所以であろう———そういう意味で、たとえば「森友学園問題」で、佐川理財局長(当時)の指示に従って公文書改竄に手を染めた赤木氏が自責のあまり自殺したことに対する、日頃「政府の長としての責任」を口にする日本の首相としての安倍晋三と、副総理兼財務相としての麻生太郎の行動の仕方ともの言い(2020年3月23日)は、彼らのよく口にする「美しい日本」どころか、日本の中枢から、「醜い日本」、「腐った日本」にさせてしまっているのである———。

 

政治の最重要性の根拠はさらにある。

それは、政治が形作る社会における秩序としての仕組みや制度が私たち国民の今と近未来の暮らしの質や善し悪しや安全性をも決定し、それが国民の品位にも影響をもたらすだけではなく、私たちを人類誕生以来ずっと生かしてくれて来ている自然の有り様も決定してしまうからである。

あるいはその反対に、政治が、その時々において、作るべきしくみや制度をタイムリーに作らないことによって、同じく私たちの環境である自然の有り様も左右されてしまうからである。

 

こうして、実際、だれでも少し考えてみれば判るように、政治は、個々人の暮らしのあり方のあらゆる面に直接間接に影響をもたらし、したがって、たとえ自分は政治に無関心であると思っていても、そんなことはおかまいなしに、政治の方から、ドカドカと、規則を引っさげ、拘束力をもって個々人にやって来ては、それに服することを否応なく迫ってくるのである。

つまり、政治という制度は、国家あるいは社会という共同体を平安のうちに維持する上で不可欠で決定的な制度であるがゆえに、政治は、社会の秩序維持のために、つねに活動を続け、絶えず物事の規則を設け、新しい仕組みを形成し、あるいはそれまでの規則や制度は解体してはやって来るのである。そうしては私たち共同体の各構成員に対して、その結果を守り従うよう迫って来るのである。それが「統治」ということであり、私たちはそのとき服従を迫られるのである。

もちろんその場合には、私たちは、その集団の一員として、その統治に対して、好むと好まざるとにかかわらず従わねばならない義務がある。なぜならその規則や制度は私たち一人ひとりが選んだ私たちの代表が定めたものだからだ。代表を「選ぶ」とはそういうことなのだ。彼らに社会のルールづくりを任せることだ。だから、そのルールに従わなかったなら、規則破りあるいは制度破りということで、その場合も、その場合に合った規則が私たちを拘束し、自由を奪いに来るのである。そしてその場合も、私たち国民は、拘束され自由を奪われることを、予め合意していると見なされているのだ。

そもそも政治とは、本節冒頭でも記したように、辞書的に表現すれば、「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み」であると同時に、「権力・政策・支配・自治にかかわる現象」(共に、広辞苑第六版)となる。

これから判るように、政治は、各人がその意志に基づいて集住し、社会を取り結んだその時から生まれ、始まったのである。そして私たちが住む今の社会は、過去の時代がどのように変遷を経て来ようと、その延長上にある社会なのだ。

このことから、一人ひとりは、理屈の上でも、また現実の上でも、そこに集住して互いに社会を形成している限り、誰も、「私は政治には関心ない」などとは言っていられないことになる。

なぜなら、政治とは、すでに明らかなように、自分が社会という共同体の一員であることを望み、またその一員であり続ける限り、否応なく関わらなくてはならないものだからである。そしてそのことは、これも既述のように、母国を愛することでもあり、自身と国家・社会に対する義務でもあり、ひいてはその国家と社会を正しく成り立たせる正しい法の生成と発展に貢献することでもある

以上のことから判るように、私たち国民にとっては、政治こそがあらゆる社会制度の中でもっとも重要な制度なのであり、経済制度や教育制度や医療・介護・看護を含む広義の福祉制度はもちろん、租税制度、文化文芸諸制度、科学や技術の制度、選挙制度、公務員制度、さらには、外交・防衛・軍事の諸制度等を変えなくてはと思うのならば、まずは政治に関心を持ち、関心を持つだけではなく、それを言動に表わさねばならない。

 

こうして、私たち国民一人ひとりは、次の認識に到達するのではないだろうか。

“それだったら、私たちが積極的に政治に参加し、政治のあり方、つまり「共同体における秩序の形成と解体」の仕方に主体的に関わった方がいいのではないか”、と。“その方が、私たち国民一人ひとりの意思で国家共同体の秩序のあり方を決められるようになるのだから”、 と。

“オレは政治には関心がない”とする態度をとったり、 “政治は信頼できない”としながら政治に背を向けていたりするよりは、その方が自分の人生に後悔しないで済みそうだ、いうことになるのではないか”、と。

それに、政治に無関心であったり、政治や政治家など信頼できないなどと言っていたり、あるいは政治を他人任せにしていたり、政治家の言っていること、権力保持者たちのやっていることに十分に注意を払っていなかったりしたなら、知らないうちに、国を自分たちに都合のいいように動かそうとたくらむ輩に、彼らのみに好都合な憲法や法律そして諸制度をつくられてしまい、気がついたときには、私たち社会共同体の大多数にとっては不利益どころか取り返しのつかない不幸と破滅をもたらしてしまう事態に陥ってしまっている、ということにだってなりかねないのではないか、と。

実際、そうした危惧が現実化した例が、日中戦争からアジア・太平洋戦争へと突き進み、アジアにおよそ2000万人、自国におよそ320万人の犠牲者を出して完敗した、とりわけ昭和8年(1933年)から20年(1945年)までの日本である。その時、「治安維持法」という法が、幾度かの改悪を経ながら、人間の内面を勝手に邪推しては拘束し、さらには拷問にかけ、人間から完全に良心・判断力・理性を奪う、狂気とも言える社会的空気を作り出したのである。

なお、ここで私の言う政治に参加する、あるいは政治のあり方に主体的に関わるとは、具体的には次のことを意味する

それは必ずしも街頭に出てデモ行進するということではない。先ずは自分を含め、人々の暮らしとその質に関心を持つことであり、自分を含め、人々が、現状、幸せであるかどうかに先ず関心を持つことであろうと思う。なぜなら、政治がいつでも実現しなくてはならないことは、人々の「生命・自由・財産」を安全に守ることであるが、最終的に実現を目指すのは、最大多数の最大幸福だからだ。そこで言う幸せとか幸福とは必ずしもお金や経済の面でのことではない。

そしてそれらを安定的かつ恒常的に実現するには、やはり、私は順序があるように思う。

それは、人間にとっては、誰にとっても、諸価値には階層性があるということを先ずは認め、守らねばならない幾つかの原理と原則もあるということをも認めることから始まるのではないか、と私は考えるのである。

実はそれが、本拙著の副題にもある《エントロピー発生の原理》であり《生命の原理》である(第3章)。また、人間にとっての基本的な諸価値は階層性を成しているという考え方であり(4.3節)、人間が集住する都市や集落にはある原則が働いているのではないか(4.4節)、ということである。

つまり私は、これらがまず満たされていないようでは、人は、人間として、あるいは人間集団として、最終的で最高の価値である「幸せ」を安定的かつ恒常的に実現することは不可能と見るからだ。

だから、政治に参加する、あるいは政治のあり方に主体的に関わるとは、先ずはこうしたことへの理解と認識を持つことが必要なのではないか、と思うわけである。

その上で、今度は政治に直接関係する次のような諸概念を理解するのである。

例えば、政治とは何か、法とは何か、から始まって、権力・統治・支配・服従自治・民主主義・議会・政府・主権・国家・三権分立憲法・等々。

次には、現実はこうした基本的政治的諸概念は、現実には正しく行われているか、社会における秩序の形成と解体はどのような手順を経て行われているか、またそこに政治家は具体的にはどのように関わっているか、政治家は官僚を含む役人をどのようにコントロールしているか、そしてその際、正義が行われているか、透明性や公正性は確保されているか、等々を注意深く監視することであろうと思っている。そしてそのことは「公共」と銘打った事業が行われようとしているときには特に、そこにはどのような人が関わり、また彼らはどのような客観的で公正な基準に基づいて誰によって選任され、どのような「手続き」を経て、いつ、どこで開発や計画が決定されて来たのか、その際、正義が行われているか、透明性や公正性は確保されているか等々も注意深く監視することであろうと思っている。

重要な政治的諸概念を正確に掴まないまま、何となく“政治とはこんなものなのだ”と自分流に勝手に解釈したり、また既成の先入観や固定観念あるいは慣例に惑わされたりすることは、結局はその人自身が政治のあり方をどんどん歪めてしまうことになるし、また法律等の規則は曖昧なままであった方が好都合だとする、とくにそれを恣意的に運用したい人々によってどんどん歪められてしまう土壌を醸成してしまうことになる。

もちろん私がここで言う政治とは、主権を堅持する独立国の国家としての民主主義政治あるいは民主主義議会政治のことであって、独裁政治や専制政治のことではない。

 

国民の圧倒的多数が政治と政治家をこのように捉えることができるようになれば、少なくとも、次のような輩が政治家として登場して来られる余地などはもちろん、生き残れる余地も全くなくなるだろう。

それは、一国の基本法である憲法を、憲法自身が明確にしている改定手続きを踏まず、解釈だけで変えたことにしてしまうような、みんなで決めた規則を勝手に破るような輩、国会を国権の最高機関とは見ずに、閣議を優先するような輩、人が心の内に思ったこと・考えたことだけで罰するような、本来の法ではない法を法と見なすような輩、過去の失敗から教訓を引き出さず、失敗から学ぼうとはしないどころか、失敗を認めず、むしろ失敗をもたらした時代に引き戻そうと画策する輩、責任という言葉を口にしながら実際には何の責任も取らない輩等々のことである。

言い方を変えれば、自己に甘く、怠惰で、無責任で、役人に依存するばかりで、立法能力および政策決定能力などからっきしないのに権力欲・名誉欲・自己顕示欲そして金銭欲だけは旺盛な輩のことである。

あるいは、一年中、街や自然の景観を乱しながら、そのことに気づかずに、次のようなスローガンを自らのポスターに掲げて平然としている輩のことでもある。

「確かな実現力」民主党 後藤斉)、「一つひとつ乗り越えていく」民主党 野田佳彦)、「日本を取り戻す」、「日本の明日を切り拓く」自民党 安倍晋三)、「暮らしを守る力になる」民主党 海江田万里)、「闘う改革」みんなの党 渡辺喜美)、「安定は、希望です」、「希望が行きわたる国へ」公明党 山口那津男)、「日本を前に進める風になる」「ふるさとを強く豊かに」自民党 中谷真一)、「明日へのチカラ」、「真実一路」自民党 中谷真一)、「日本大変革」日本維新の会 橋下徹小沢鋭仁)、「日本と山梨の未来を示す政治」、「本気の改革」日本維新の会小沢鋭仁)、・・・・・。

ここには、「政治家の存在価値は具体的な政策とその実行力だ」という認識などまるで見られないのだ。

 

とにかく、こうした似非政治家あるいは政治屋が全て退場し、本物の政治家しか生まれ得ないような国民的政治状況になれば、その時こそ、人々は、この国に生まれ、暮らし、生きることに希望を感じ取れるようになり、展望を見出せるようになると同時に、誇りを感じ、そして幸せをも自ずと感じられるようになるのではないか、と私は想う。

そしてその時には、人々は、政治を、それも民主主義による政治を、これまでになく身近に感じられるようになり、政治という仕組みを頼るに値するものと思えるようになっているだろうし、この日本は、主権を堅持しうる本物の国家、それも真に民主主義が実現した、持続可能な独立国家となっているだろう、と私は確信する。

いずれにしても、そうした政治を実現しようにも、その出発点となるのは選挙なのだ。投票所に自らの足を運び、自分の頭で候補者を十二分に吟味することであろう。

そこで言う「吟味」とは、公約として掲げる政策とその中身であり、その実行性、つまりその公約をどのように実現しようとしているか、その方法がどこまで考え抜かれて公約として掲げているのか、ということにまで目を配ることである。

政治家として最も重要なことはあくまでも掲げる政策とそれの実現能力であって、人格とか容貌容姿はもちろんのこと、弁舌の上手い下手も二の次、三の次なのだ。「格好いいから」とか、「頼まれたから」あるいは「好きだから」一票入れるなどと言っている間は、政治というものを依然として全く理解できていないということであり、主権者としての義務と責任を果たしてはいないということでもある。