LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件 ——————その1

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3.1節では人類の存続を可能とさせる条件について考えてきました。
そこでは、私は、人類が存続可能となりうるか否かは、大きくは、核戦争の脅威から人類が解放されるか否かということと、広義の意味での環境問題を克服できるかどうかの二つにかかっているとしてきました。その場合、環境問題も、もう少し具体的に見ると、地球温暖化とそれに関連していると見られている気候変動の問題と自然界における生物多様性が失われてしまう問題とに分けられる、ということも見てきました。

その際、生物多様性が失われてゆくという現象は、一度生態系の中でそのことが生じると、その現象の持つ性質上、その後は加速度的に進むものであって、それはもはや人間の手では止めようがなくなる現象でもあるとして、その理由も考えてきました。しかも、生物多様性が失われてゆくという現象は、災害の多発化や大規模化等を通じて人の目に見える地球温暖化および気候変動とは違って、目にはなかなか見えにくく、また気づきにくいために、それだけに私は、誰もが「まずい」と感じた時にはすでに「万事、休す」の事態になっている可能性も高いのではないか、とも記してきました。

それに対して、地球温暖化と気候変動による危機については、人間の側の決意と覚悟如何によっては制御できる問題であるとしてきました。そしてその場合も、制御するのに、私は、ひょっとすれば「パリ協定」で結ばれてきた温暖化阻止の方法よりももっと具体的で効果的な方法があるかもしれないとしてきました。それは物理学の世界では一般に「熱力学の第二法則」とも呼ばれている法則を応用する方法です。拙著では、参考にさせていただく物理学者が用いている表現を借りて、その法則を《エントロピー発生の原理》と呼んで行きます。

今回は、その原理を応用して、人類の存続を可能とさせる具体的でかつ数値的な条件を、私なりに考えてみようと思います。

しかし、ここで、私たちは、誰もがあらかじめ心に明記しておかねばならないことがあるのです。それは、生物多様性の危機や、地球温暖化・気候変動による危機に対して私たち人間がどんなにそれらを克服しようと努力しても、もし、それもたとえ偶発的にであれ世界のどこかで核戦争が起これば、各国間での利害関係が複雑に絡み合っている今日の世界では、それはたちまち第三次世界大戦へと拡大してしまい、そうなれば、それだけで人類は破局を迎え、そうした努力は全て、瞬時にして水泡に帰してしまうということです。

なお、この3.2節でも、全体は長いので、2度に分けて公開します。

 

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件
——————その1


では、そもそもエントロピーとは何か。

それは物理学では厳密に定義され得るものであって、その場合にも、2通りの定義がある。1つは古典熱力学的な定義、もう1つは統計力学的な定義である。詳しい説明はしかるべき物理学書に譲るとして、いずれの定義においても、物理学的に最も重要なことは、そこで定義されるエントロピーなる量は、現象の起こる方向を与えるもので、その値は常に最大値に向かって変化する、ということである(J.D.ファースト「エントロピー」市村浩訳 好学社)。

それは、普段見かける多くの部分から成る物でも熱でも、その状態をよく観察すれば判るように、自然のままでは、つまり人がその状態に対して何らかの人為的な働きかけをしない限りは、それらは常に拡散する方向へと状態は変化するという感覚的経験を物理学的に厳密に表現したもの、とみなすことができるのである。

しかし、ここでは、エントロピーを生命や人間社会や環境をも扱えるように、こうした本来の近代的定義の仕方を超えて、エントロピーとは物や熱の拡散の程度を示す定量的指標のことである、と定義し直す。
というのは、既述のエントロピーの古典熱力学的な定義と言い、統計力学的な定義と言い、それらはいずれも、少し難しい言い方をすると、平衡系または閉鎖系(孤立系)にのみ当てはまる定義であって、そのままでは生命や人間社会や環境という開放系にはとても適用できないからである。

なお、開放系とは閉鎖系(孤立系)とは反対に、外界との間で物や熱に関する相互作用を持つ体系のことである。
しかしその場合でも、エントロピーとは、物や熱そのものではなくあくまでもその属性であって、物や熱に付随してしか移動することのできないものであるとする(槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.35〜36、94、52)。

では、表題にある「エントロピー発生の原理」あるいは「エントロピー増大の法則」とも呼ばれるそれは何のことであり、そしてそれは人類に何を教えてくれているものか。
その核心部分を、本書の主題に引きつけて説明すると、次のように表現できる原理または法則なのである。
「個々の人間も、個々の産業も、また個人の集合体である社会も、つまりどんな社会的存在といえども、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの動きあるいは活動をすれば、それに応じて必ず熱の拡散ないしは物の拡散が生じるが、そのときには、発生する物(廃物)と熱(廃熱)に付随して移動する、『エントロピー』という用語で表現され、しかも実測が可能な物理的状態を表す量が必ず増える。」

なおここで、熱の拡散とは、高温物体から低温物体へ熱が移動することをいい、物の拡散とは、高濃度の物質が低濃度の空間へ拡散することを言う。そしてその場合の拡散の程度は、日常用語で言い換えると、熱に対しても物に対しても、「汚れ」、それも質的にではなく量的な意味での「汚れの度合い」と言い換えることもできる(同上書p.36)。
このことから判ることは、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、そのとき必ずエントロピーという汚れが発生し、したがってその活動を続ければそれが蓄積してゆき、それが物と熱に付随した汚れであるが故に、発生し蓄積したそれをどこかの過程で、その空間の外に捨てない限り、つまりその空間を浄化しない限り、人も、産業も、社会も、そして自然あるいは地球さえも、汚れが蓄積した結果として活動できなくなり、やがては死に至る、ということである。
このことは、身近な例で言えばこういうことである。

ある閉め切った部屋でガスストーブでも石油ストーブでも燃やしつづけると(たとえ完全燃焼し続けた場合でも)、炭酸ガスという廃物と熱(廃熱)が出て、それが部屋に充満してゆく。だから時々は窓を開けて炭酸ガスや熱を部屋の外の空間に捨てないと、炭酸ガスがどんどん高濃度化し、また出た廃熱によって高温化し、その部屋の中の人は息苦しくなるし、高温に耐えられなくなる。これを我慢していたり、あるいはそこに貯まった廃物と廃熱をたとえば窓を通じて部屋から外に捨てることができなかったりしたなら、その部屋の中では人は活動できなくなり、やがてはその人は死に至る。

人間の小腸は免疫機能を司るきわめて重要な一機関であることはよく知られているが、その小腸で発生するガス−−−それが外に発せられたものが「オナラ」である−−−が体の外に放出されなかったなら、小腸はその免疫機能を継続し続けられなくなり、その場合もその小腸は病気になると共に、やがてはその人も生命が重大な危機に陥ることになる。

尿についても同じで、そこには体の隅々から出た老廃物が含まれているだけに、それを適宜、体の外に捨てないと、その溜まった尿が逆に身体中を巡ることになり、体の諸機関の働きを損ねてしまい、それはそれでその人は生命が重大な危機に陥ることになる。

そもそも人間が日々生活しているということは、同時に、あるいはそれと並行して、ゴミという名の廃物(排水を含む)を出し、汚れという跡を残しながら、また熱も廃熱として出し続けているということなのだ。そうしたものを家庭内から適宜家庭の外に捨てない限り、その家庭内での生活の続行は困難となり、さらにそのままにしていたのでは、精神的にも肉体的にも病み、やがては生きてゆくことさえできなくなる。
あるいは、そもそも人間が生きているということは、外から絶えず酸素と食い物と水を取り込んでは、それを体内で化学的に熱とエネルギーに換えると同時に、外に対して「仕事」ができる体力ある体を維持しながら、その一方で、息を吐くことをしながら、日に幾度か、体内に溜まった廃物(尿を含む)や排熱を排便・排尿という形で体外に捨て続けてもいるということなのだ。その時、溜まった排便と排尿ができなくなったなら、それは体内に溜まってゆき、そのままにしておいたなら、いつかはその体は死を迎えることになる。
このように、人が生きることや生活することを含めて、人が日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、その過程においては必然的かつ不可避的に廃物や排熱が生じるのであり、その活動を続けるためには、生じたその廃物や排熱をそれを生じた空間の外に捨てるということが絶対に必要となる。これは好き不好きの問題ではない。ところが、その際、もし、生じた廃物や排熱を外の空間に捨てることができなかったなら、あるいは捨てることができなくなったなら、これまでの活動は確実に継続することができなくなるのである。

実はこのような事情は、人や家庭に限った話ではなく、たとえば工場においても、さらには社会一般においても、まったく同様に言えるのである。

工場とは、物(製品)を作る場あるいは空間のことであるが、そこがその目的を継続的に維持できるためには、工場の外から資源とエネルギーつまり熱と燃料を空気(酸素)とともに持続的に取り込んで来ることができると共にに、それを燃焼させて機械に「仕事」をさせる能力を生じさせ、その過程で不可避的に出る廃物や排熱をその機械の置かれている空間、さらには工場という空間の外に捨て続けることができることが絶対に必要となる。

つまり、燃料と空気を持続的に取り込めなくなったり、廃物と排熱を工場の外の空間に捨て続けられなくなったりしたなら、工場は製品をつくり続けられなくなる。すなわち操業できなくなる。廃業である。

この場合、資材や材料をどう確保するか、労働力をどう確保するか、コストをどれだけ抑えるか、利益をどれだけ見積もるか等は経営的な話で、ここでの物理化学的な議論では本質的なことではない。
人間の集団として定義される社会についても同様だ。そこが人々の暮らしと産業が成り立つ場であるためには、たとえば行政区のように一定の統治面積で区切られたその面積の中に、先ずはその外から水や食糧、鉄その他の金属といった資源、そして燃料、電力あるいはガス等のエネルギーを持続的に取り込むことができるようになっていなくてはならない。そして、それらが必要な量だけ、各家庭や工場、商店あるいはオフィスに供給され、その各々はそれらを使用しては熱とエネルギーを生じさせながら「仕事」ができるようになっていなくてはならない。しかし、社会が持続的に成り立つためにはそれだけでは不十分で、同時並行的に、その一方で、それらの過程で不可避的に出る廃物や排熱をその社会の外の空間(環境)に捨て続けなくてはならない。それはどんなにコストがかかろうとも、である。

それができて初めて、社会の各構成員はそれぞれの目的を、物理学的には持続的に実現できるようになるのである。すなわち、社会が社会として持続可能となるのである。

以上の事情はさらに、一国全体についても、地球全体についても同様に言える。
国については、その国が一定の領土と人口を抱え、国民が生活でき、産業が成り立ち、国家としての機能を持続できるために満たされなくてはならない必須条件は上記の社会の場合と同じである。

地球についてみても、地球がヒトを含む生物すべてが生き続けられる地球であるためには、人が日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動を通じて生じさせた廃物や排熱を継続的に地球の外の空間、すなわち宇宙に捨て続けられることが絶対に必要となるのである。

なお地球の場合には、他生物の活動による廃物や排熱も、また自然界での諸活動によって生じた廃物や排熱も考慮しなくてはならないが、人類が誕生する前までは、あるいは少なくとも産業革命前までは温暖化問題は問題とはなっていなかったのであるから、他生物の活動や自然界での諸活動による廃物・排熱の処理を考えることは、ここでは本質的なことではないであろう。

とはいえ、要するに、一国全体についても地球全体についても、人が出し、他生物が出した、さらには自然の諸活動によって生じた廃熱や廃物を地球の外、すなわち宇宙空間に捨てることができなくなったなら、その時、一国も持続的には成り立ち得なくなるし、地球の自然も成り立ち得なくなるのである。

以上の具体例は、いずれを取っても、また誰にとっても、経験から理解できることであり、また類推できることであろう。つまりそれらは証明することを要しない真理を表わしているのである。そういう意味で、こうした諸現象を統一的に説明できるエントロピーに関する真理は原理なのである(5.1節の「原理」参照)。

その真理を、つねに廃物や排熱に付随して、廃熱や廃物とともに移動するエントロピーという物理量をもって一般的に表現すると次のようになる。
「人も社会も自然も、またそれらのすべてをその表面上に抱える地球も、すなわち万物は、それぞれの営みないしは活動において絶えず発生し続けるエントロピーを、それぞれが占める空間の外の空間に捨て続けなくては、あるいは捨て続けることができなくなったならば、人も社会も自然も地球も、それぞれが本来持つ機能を発揮させることも維持させることもできなくなる。つまり、それらは、必ず病気になり、いずれ、どれも、死を迎えることになる。」

この真理から、次のことが導き出されるのである。
それは、万物は、そのどれをとっても、それ自身単独で存続して行くことはいついかなる場合にも絶対に不可能であり、つねに外界という空間に囲まれていて初めて存続し得る、ということである。
しかもその時、それ自身が存続あるいは持続できてゆくためには、それ自身とそれを取り囲む外界との間には、それ自身が発生するエントロピーをよりよくその空間を取り巻く外の空間に捨てられるようにするために、あるいは捨てられるようになるために、つねにある条件がついて回る、ということである。
 実は、その条件なるものを明確に教えているのが《エントロピー発生の原理》ないしは《エントロピー増大の法則》と呼ばれるものなのである。

この法則は、ニュートンの発見した「万有引力の法則」と同様、私たちの身の丈の世界———つまり、原子核や原子や分子の世界、および宇宙を除く、現象と変化がすべて非可逆な世界———ではいつでも成り立つ法則である(槌田敦「熱学外論」朝倉書店 p.41)。それも、対象を「熱と物」の範囲内で扱う限り、自然現象についてだけではなく、社会現象に対しても適確な判断を与えてくれる法則なのである(槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.52)。

それゆえ、《エントロピー発生の原理》ないしは《エントロピー増大の法則》は、私たちが人類および生命一般の存続あるいは永続を真剣に考える場合には、だれでも、一瞬たりとも忘れてはならないものといえる。とくにこれからの時代には、それぞれの国において、人々が幸せに、かつ安定的に生き続けて行けるためにこれまでにはなかった大胆な政策を打ち立てて行かねばならない事態に直面して行くだろうことが想定されるが、そのとき、それぞれの国内にて国民の代表として最も重大な使命を負う政治家という政治家は、この《エントロピー発生の原理》をつねにあらゆる政治的発想の根底に据えて行かねばならないものだと私は考えるのである。

そしてその場合、先のいくつかの例からも容易に推測がつくと思われるが、エントロピー発生とその量に最も大きな影響を与えるのは、広い意味で人間の経済活動であるということだ。そしてその経済活動は、いつ、どこにおいても、人間が生きてゆく上で基本的に不可欠な活動である。それだけに、エントロピーは大量に発生しても、経済活動は持続させ得るようにしておかねばならない。そのためには、これまでの説明からも明らかなように、発生するエントロピーをその空間を取り巻く外の空間によりよく捨てられるような仕組みや制度を考え出し、それを実現させておくことがどうしても必要となる。

では、そのような仕組みや制度とはどのようなものなのか。
また、それを考え出し、実現させてゆくためには、予めどのようなことを考えておく必要があるのだろうか。

そのためには、せめて次のような幾つかの問いを発し、その答えを見出しておかねばならないと私は考えるのである。
(第1の問い)

そもそも、個々の人間あるいはその集団である社会は、さらには世界各国では、地球上では、一体どれだけのエントロピーを、これまで、そして今日、平均総量として、1年間に発生し続けているのか?

こうした問いを発するのは、先ずは現状を知っておく必要があるからである。
(第2の問い)
 人間や社会(産業)あるいは自然のすべてをその表面上に抱える地球は、人間や社会あるいは自然の活動から絶えず発生してくる汚れとしてのエントロピーを、これまでは、どのようにして地球の外の空間、すなわち宇宙に捨てているのか。そのメカニズムとはどういうものか?

それは、そのメカニズムが明確に掴めていない限り、新たな経済のしくみや制度について考えようがないからである。
(第3の問い)

では、人間や社会(産業)あるいは自然が発生させたエントロピーのその1年間当たりの総量を、地球は宇宙に捨てることができているのか、それともできていないのか?
できていないとすればそれはどうしてか。また実際に捨てることができている量とはどれだけか?

こうした問いに答えられたとき初めて、私たち地球人は、地球の温暖化あるいは高温化を阻止しようとする場合にそうであったような、単なる「できるところから省エネすればいい」、あるいは「○○年のときと比べて、△△%の温室効果ガスを削減しなくてはならない」といった漠然とした努力目標や削減目標を掲げるしかなかった状態から抜け出すことができるのである。
あるいはまた、“今後温暖化がどう進むかは継続的に観測してみないと判らない”という観測頼み一辺倒の状況や姿勢からも脱しうるようになるのである。それも温室効果ガスの排出量ではなく、またどれだけ温暖化しているかという温度の観点からでもなく、エントロピーという明確な物理量に着目することに拠って、である。

それだけに、地球の温暖化阻止を考えるとき、というより人類の存続の可能性を考えるときには、エントロピーに関する先の3つの問いに対する答えを明確にしておくこと、それは、人類にとってこの上なく重要なことになるのである。
そしてこれを明らかにするのは、まさしく地球温暖化問題を研究している世界各国の科学者やIPCCの科学者の皆さんの役目なのではないか、と私は考えるのである。

とは言え、まるっきりその時まで答えを待っているわけにはいかないので、ここでは、槌田氏の力を借りて、私に出来る範囲での答えを見出してみようと思う。
そこで、先の第1の問いの答えについてであるが、それは今の私には無理である。答えられるだけの資料もデータも持ち合せていないからである。

第2の問いに対する答えはどうなるか。
これについては、地球は物理学的に見れば熱機関であると同時に熱化学機関でもある、ということから得られる(槌田敦の前掲書)。

では熱機関あるいは熱化学機関とは何か。
詳細な説明は槌田氏の書を見ていただくとして、簡単にいえば、次のようになる。

熱機関とは、資源としての燃料と空気が機関内部を「作動物質」となって流れる過程で、高温部分よりも高温の高熱源から熱を取り入れ、また低温部分よりも低温の低熱源に熱を捨てることにより、そしてその際、作動物質が循環的に流れることにより、物理学で言う「仕事」をなし得る能力としての動力を外部に向かって持続的に生み出すことができる装置のことである(前掲書p.103)。

 

一方、熱化学機関とは、基本的には熱機関と同じであるが、熱と仕事の出入りのほか物質も出入りし、機関の内部で作動物質の化学反応を伴ない、その化学反応により自己を循環的に復元する機関のことを言う(前掲書p.112)。
いずれにしても、熱機関および熱化学機関の本質は、作動物質が循環することでサイクル運転が持続し、1サイクルごとに熱を内に取り込み、外に対して仕事をする、というところにある(前掲書p.105)。

そしてここで言う「資源としての燃料」については、人の場合にはそれを「水と栄養」と考え直すことができるものであり、工場の場合には「資材と資源としての燃料」、社会の場合には「水と食糧とエネルギー資源」と考え直すことができるものである。
このことから、人を含む生命一般も、生態系も、そして工場も社会も、そして地球も、その本質は、物理学的に見れば熱化学機関とみなせる、となるのである。
なお、第2の問いに完全に答えるためには、ここで次の問いをも発し、その答えをも見出しておく必要があるのである。
それは、とくに熱化学機関と物理学的には見なせる人や生命一般あるいは人間社会は、どういう条件が満たされたとき動いて働ける活力を持続的に生み出せるのか、同じく、どういう条件が満たされたとき工場は物理学で言う「仕事」あるいは動力を生み出すような活動(操業)を持続できるのか、同じく、どういう条件が満たされたとき生命系の自然と非生命系の自然とからなる生態系や地球はその機能を持続できるのか、ということである。
実はこの答えを得るヒントは、すでに熱機関あるいは熱化学機関というものの本質の中に見出せるのである。
そこで次のように考える。

一般に、循環という現象がうまくいかなくなるのは、循環して巡る物質−−−これまで「作動物質」と呼んで来たもの−−−がその循環経路から流出したり、循環経路内のどこかに固着したり、あるいは循環経路を構成している物質または循環を維持している構造物が壊れたりする場合である。
ところで、先に、エントロピーは物質あるいは熱に付随して移動する汚れであるとしたことから判るように、こうしたいずれかの理由から物質あるいは熱の循環がうまくいかなくなれば、エントロピーも循環しなくなって、循環経路内のどこかに溜まり、かつそこで増え続けて行く。
しかし、流出した作動物質を補充したり、壊れた構造物を修理したりするという作業は、《エントロピー発生の原理》が私たちに教えてくれているその核心部分によって、新たに余分のエントロピーを必ず発生させてしまう。また、どこかに作動物質が固着してしまうと、それが障害となって流れを阻害していっそう作動物質を多く固着させてしまう。

こうして、循環がうまく行かなくなれば、順調に循環が行われていた時に発生していたエントロピーに加えて、補充や修理で発生したエントロピー、固着していっそう増えたエントロピーまでも捨て続けなくてはならないということになるのであるが、そのことは、それだけその熱化学機関にとっては大きな負担となる。

とは言え、この「捨てる」という作業に伴う負担に耐えられている間は、その熱化学機関としての人間・生命・生態系・社会・工場・地球は本来の機能を維持し続けられ、「生き続ける」ことができる。しかし、エントロピーという汚れをその循環システムからそのシステムの外に捨てることが困難になったときにはその熱化学機関は「病気」になったことを意味し、さらに、いよいよそれを捨てることができなくなったときには、熱化学機関は機能不全を起こして「死」を迎えた、ということになる。

こうして、先の第2の問いの答えは次のようになる。
「人間・生命一般・生態系・社会をその表面上に抱える、物理学的には同じく熱化学機関と見なせる地球は、その表面上で発生するエントロピーを、エントロピーはつねに廃熱と廃物に付随して移動しうるものであるだけに、地球表面と宇宙空間との間での物質と熱の循環に乗せて宇宙空間に捨てている。」

このことは、見方を換えれば、「エントロピーを宇宙に捨て続けられるためには、地球上での物質循環は絶やされてはならない」ということになる。

ところで、その物質循環を持続させようとするとき、十分に注意しておかねばならないことがある。それは、毒物を循環させてはならないということである。
それも、自然界において分解されない毒物、あるいは分解されにくい毒物についてはとくに注意を要する。
結論から言えば、そのような毒物———それは物質であれその物質を含む材料であれ———は最初から製造しない方がよい。その毒物に当たるのは、現在の段階では、化学物質、そのうちでもとくに有機塩素化合物(たとえば塩化ビニール)と有毒重金属、毒性金属元素そして放射性物質である。それらは最初から製造しない方がよいとするのは、たとえ単体では毒性がないとされている化学物質でも、現実には、既に自然界には2万4千種類以上の化学物質が入り込んでいるとされる中で(エントロピー学界編「循環型社会を創る」藤原書店 p.149)、それらが互いに反応することでどんな毒性ある物質が新たに生み出されているか、そしてそれがどれほどの毒性をもっているか、検証のしようがないからである。

そのことを考えると、毒物としての化学物質は製造そのものを止め、天然素材に切り替えて行くべきなのである。

とにかく、エントロピーを宇宙に捨て続けられるためには、地球上での物質循環は絶やされてはならないとは言っても、分解されない毒物は循環すればするほど自然界と人間社会に拡散し、またそれが生物濃縮という事態を引き起こしてしまう。それに、ひとたび拡散してしまったものは、「覆水、盆に返らず」の喩えの通り、その後どんな科学や技術の力をもってしてもそれを元通りに集めることは不可能なのである。そこでは、「いずれ、科学技術が解決してくれるだろう」などという期待は絶対に通用しないのだ。

ところで今は先の問いの2番目について、人がその上で生き、生活させてもらえている地球という熱化学機関を考えているのである。

では、その地球が熱化学機関としての機能を維持させるのに必要な作動物質とは何か。また、その作動物質が地球という熱化学機関内部を循環する時に、刻々と生じるエントロピーの発生場所はどこか。

その場合の作動物質は「大気と水と養分」となる。そして、エントロピーの発生場所は、その作動物質が地球表面上を循環する過程そのものであり、人間の諸活動を含む地球上のすべての生物がその営みを行う場と、生物とは違うすべての無機的な自然が活動する場である。
そしてそうしたすべての営みと活動の過程で生じたエントロピーを捨てることのできる場所は、地球にとっては、唯一、「宇宙空間」となるのである。

こうして、地球は宇宙の中で物理学的に孤立した存在となっているのではない、ということを知るのである。そもそも孤立していては熱化学機関として存在し得ないのだ。
宇宙に向かって熱や物質を放出したり、また宇宙から太陽の熱を受け取ったりと、つねに宇宙との間で熱のやり取りをすることでその熱や物質に付随して移動する汚れとしてのエントロピーをも捨てることができ、その結果として地球は生きている、つまり地球は熱化学機関としての機能を果たし続け得るのである。

以上で、先の第2の問いに答えられたことになる。

 

では第3の問いに対する答えはどうなるのか。
以下は「その2」で考えてみようと思います。