LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件 ——————その2

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今回公開する内容は、前回の同名のタイトルの節の下での「その1」に続くものです。

 

3.2 《エントロピー発生の原理》が教える人類の存続を可能とさせる条件——————その2

では第3の問いに対する答えはどうなるのか。

これに答えられるためには、まずは第1の問いが答えられていることが前提となる。

しかし、今のところその答えは、既述のとおり私には不明である。

そこで、ここでは、見方を少し変えて、地球の表面上にて発生させることが許される最大のエントロピーの量とは一体どれほどか、ということを考えてみようと思う。

なぜそれを考えようとするか。それは、これまで地球は、その誕生以来、何十億年と地球としての機能を維持してきたわけで、それはこれまで述べてきたエントロピー的観点から見れば、地球表面上で発生してくるエントロピーの総量は地球の機能を維持する上ではまだ十分な余力があったということであり、そしてそれだからこそ地球上には豊かな自然が育まれ、またその中で様々な生命が営まれてこれたのであるということなのであるが、そこで、では、地球としてのその機能を維持しうる範囲内で、地球上に存在することが許容される最大量のエントロピー量とは一体どれだけか、ということを考えてみることは、次の意味で、十分意義があることだからである。それは、人類が地球上に生き続けられる限界の地球表面上でのエントロピーの総量はどれだけかということを考えることでもあるからだ。

つまりこれを考えることこそが、「地球に生命が今後とも存在し続けられるための条件とは何か」を考えることであり、「人類存続可能条件とは何か」を明らかにすることでもあるのである。

言い換えれば、それは、この広大無辺な宇宙にあって、地球は、スペースシップ・アース(宇宙船地球号)として、人類が人種や民族を超えて運命を共にする、今のところ多分唯一の運命共同体」と言ってもいい天体なのであるが、その「運命共同体としての存続可能性を考えることでもある。

そしてその条件こそが、人類が今後の文明のあり方を考える上では、何にも優る、そして何にも増して重視しなくてはならない、客観的で科学的な判断材料となり、また制約条件ともなるのである。

ところで、それが計算できるためには、エントロピーはつねに廃熱や廃物に付随して廃熱や廃物とともに移動する物理量であるということから判るように、地球の温度そのものではなく、地球と宇宙との熱の出入り、または収支が判っていなくてはならない。

そこで現在判っているその熱の収支を基に、地球の表面上にて発生させることが人類にとって許される最大のエントロピー具体的な量を計算してみようとは思う。

先ず、地球上における人間の経済活動を含むあらゆる生命の営みと非生命の活動によって、地球上で毎年生成されている総エントロピー量をGt、地球がその表面から、同じく毎年、宇宙に向けて捨てることができている総エントロピー量をGsとしたとき、その両者の差(Gt−Gs)について考える。この差(Gt−Gs)が、地球上に存在し続ける総エントロピー量、ということになる。

その際、考えられる場合の数は以下の3種類である。

一つは、(Gt−Gs)<0の場合。

この場合には、人間の経済活動を含む、地球上におけるあらゆる生命の営みと非生命の活動によって発生するエントロピーの総量には、エントロピー的にはまだ発生余裕がある。地球が宇宙に捨てているエントロピー量の方が地球上で生み出されるエントロピー量より大きいからである。

もう一つは、(Gt−Gs)>0の場合。

この場合には、地球上におけるヒトを除くあらゆる生命の営みと非生命の活動にさらに人間の諸活動が加わることによって生じたエントロピーの総量の方が、地球が宇宙に捨てることができているエントロピー総量より多いので、地球表面上には、エントロピーが溜まり続けているということになる。言い換えれば、地球上には「汚れ」が溜まり続けているということだ。

これでは、前回公開した、同節の「その1」での例を挙げて述べてきたことからもわかるように、地球はどんどん「病んでゆく」ことになり、これを放置しておいたなら、早晩、「死に至る」、ということになる。

そしてもう一つは、(Gt−Gs)=0の場合。

この場合には、人間の経済活動を含む、地球上におけるあらゆる生命の営みと非生命の活動によって生じる総エントロピー量が、そっくり宇宙に捨てられるようになっているということになるので、地球上でのエントロピー収支はバランスを保っていて、エントロピー量の増大はない、ということになる。

以上のことから、地球の表面上にて発生させることが許される最大のエントロピー具体的な量とはGsとなる、ということが判る。すなわち「人類存続可能な限界条件とはGsである」となるのである。

あるいは、Gtは地球上における人間の経済活動を含むあらゆる生命の営みと非生命の活動によって、地球上で毎年生成されている総エントロピー量であり、Gsは地球がその表面から、同じく毎年、宇宙に向けて捨てることができている総エントロピー量であるということを踏まえるとき、Gs≧Gtでなくてはならないということは、人間の経済活動を含まないGtとGsの関係は、地球誕生以来(Gt−Gs)<0の関係を満たしてきたことを考えれば、少なくともGtに寄与する人間の経済活動が生み出す総エントロピーは、それを加えても、Gt としてはGsを下回っていなくてはならない、となる。

ではGsとはどんな値となるのであろうか。

そこでそれを槌田の書に拠り計算してみようと思う。

そのためには、便宜上、Gsを地球の単位表面積当たりについて考える。それを今、gsとする。

ただし槌田はその際、次の3つの仮定を置いている。

1つは、地球を、作動物質の1つである「養分」を除いた、化学変化のない、内部で熱の高温部と低温部を生じる物理変化のみの「熱機関」として考えている。

熱機関と考える根拠は次のとおりである。

地球表面上での作動物質とは「大気と水」であり、「高温部分」とは地表面を指し、「それよりも高温の熱源」とは地表面に降り注ぐ太陽光によってもたらされる「熱源」のことを指しているからである。また「低温部分」とは地上から「上空へ、およそ5000m地点」のことを指し、そして「低温部分よりも低温の熱源」とはその上空からさらにその外側へと続いて広がる「宇宙空間」のことを指すとしているからだ槌田敦氏の前掲書p.126〜129)

2つ目の仮定として、地表面の温度を15℃、地表面での太陽光の熱的大きさを257kcal/cm2/yearとしている。

これは、1975年当時の地球の平均熱収支(日本気象協会報告書(1975)に片山が加筆修正したもの)に基くものである。

3つ目として、地球への熱の入力については、1975年当時の地球を取り巻く空気の温室効果に因り、地球の位置では太陽光の熱的大きさの30%となる、としている。

 

そこで、q1を地球熱機関への熱入力、q2を地球熱機関からの熱出力、T1を地表温度(15℃)、T2を上空5000mの温度(−23℃)とすると、地球熱機関としてのエネルギー収支は

q1=q2

エントロピー収支は、

q1/T1+gs=q2/T2

と数式表現できる。ただしgsは余分のエントロピー量である。

ここに「余分の」とは、(q1/T1)で表わされる“太陽熱を15℃で引き受けて地表面上で発生する熱エントロピーの他に”、という意味である。言い換えると、それは、地表面上の物質循環により処理されるべきエントロピーは既に処理されているから、ここではその未処分の「残り」、という意味である。

そしてこのgsこそが、今、求めようとしているエントロピー総量となる。

これらから次式が得られる。

          gs=(1/T2−1/T1)q1           (※)

ここで地球への熱入力q1は、地球の位置での太陽光の大きさをq0とすると、その30%であるから、

q1=0.30×q0

 ここに、地球の球面に注がれる太陽光のエネルギーq0は、平均257kcal/cm2/yearである。

これらの値を(※)式に代入すれば、地球が宇宙に捨てている余分のエントロピーgsは41cal/(deg・cm2・year)ということになる。

ただしT1=15+273=288K°、T2=−23+273=250K°とする。

この数値「41カロリー/k°・cm2・年」こそ、上記仮定に基づく「人類存続可能な限界条件」となる。

つまり、大気と水のみを作動物質と仮定する地球という熱機関において、その大気循環と水循環とが順調に働いていれば、この「41カロリー/k°・cm2・年」という量の余分のエントロピーは、地球熱機関によって、いつでも、宇宙にそっくり捨てられるのでる。

このことはまた、もし、地球上における人間の経済活動によって生じるエントロピー総量がこの範囲に留まっているならば、その時には、地球には“エントロピーの増大”、つまり“汚れ”の量が増えるという事態は生じず、その限りでは、地球上に存在するすべての生命はその存続を保証される、ということを意味している。そしてそのことはさらに、生命にとって必要な資源はつねに自然が生み出してくれてきたことを思い浮かべる時、地球が地球の機能を維持し続けられるということは、人間にとって必要な資源も、自然の循環が保証し続けてくれる、ということをも意味しているのである。

しかし、である。人間社会におけるさまざまな活動によって、地球が熱化学機関として機能する上での養分という作動物質をも加えて計算した場合にはこの限りではなくなるだけではなく、さらにはこうした大気と水と養分という作動物質の中で、とくに水と養分の循環が途中で遮断されたり破壊されたりした場合には、事情はこれとは大きく異なってくる。

それに、ここで求められた数値は、あくまでも1975年当時の地球の平均熱収支に基づくものであるということを忘れてはならない。

したがって「人類存続可能な限界条件」と言える最新の、そしてより正確なgsを求めるには、やはり最新かつ、より正確な「地球の平均熱収支」に基づいて計算し直す必要がある。

参考までに記せば、この年1年間の世界における人為的に排出された、“温室効果”という観点に基づいて炭酸ガスに換算した総排出量はおよそ300億トンであったIPCC AR5 WGⅢ SPM.1)

実際、同上IPCCの資料によれば、2010年1年間のCO2に換算された温室効果ガス総排出量は490億トンとなり、1975年時の1.6倍強である。

こうなるのは、とくに2000年以降は、地球上での人間の経済活動は、とくに新興国や途上国においてとくに急速に拡大していること、それに伴って電力需要も急増して、燃やす化石燃料の量も莫大な量に急増しているなどの理由に拠るものと推測される。

したがってそのことから、宇宙に向って熱が捨てられる地上面からの高さもはるかに高くなっているだろうことが推測されるし、その層を通した熱の授受およびその層による地球に対する温室効果も変化し、その結果地球の平均の熱収支も大きく変動しているだろう、ということも推測される。

こうして判るように、「人類存続可能な限界条件」を決める上で重要な要素は、温度そのものではない。温室効果ガスを含めた地球を取り巻く大気がつくる層と地球表面との間で出入りする熱量の大きさとなるのである。

ところで、ここまでは、こそ、上記仮定に基づく「人類存続可能な限界条件」としてのgsは「41カロリー/k°・cm2・年」であるとは判ったが(1975年時)、ではそれを地球上の人間一人ひとりから見たとき、個々の人間としてはどれだけのエントロピー量を生じさせることまで許されるのか、ということは未だはっきりしない。それがはっきりしないと、各自にとってのエントロピーの制限数値が判らない。

そこで、つぎに、それもきわめて概略的にではあるが求めてみる。

その際、これまでgsを求めるにあたっては、地球上での経済発展の程度による先進国とか新興国とか途上国という区別はせずに地球全体について考えて来てことに注意しながら、さらに次のような大胆な仮定を設ける。

仮定① 地球人口は70億人とする。

仮定② gsはすべて、地球表面上の陸地部分での人間の経済活動のみによって生じるものとする。

その場合、陸地と海との面積比は、1995年版理科年表によると、

148.890×106km2:361.059×106km2=1:2.42

結局、このとき、人類がこの地球上に存続できて行くために、地球上の人間一人当たりが一年間に発生させることを許容されるエントロピーの総量は、

87.207×10kcal/K°

となる。

この値は、地球上の現在世代の一人ひとりが、将来世代や未来世代から生成を許容される一年間での総エントロピー、と解釈することもできる。

ところで、それが87.207×10kcal/K°となるとは、具体的にどういうことを意味するのだろうか。

それは、任意の物体の温度がT、その物体に流れ込む熱量をQとしたとき、その両者からなる比Q/Tの一年間当たりの最大値、ということである。

したがって、87.207×10kcal/K°=Q/Tと置くと、

温度が年間平均して仮に20℃、すなわちT=20+273=293K°の環境下にいるとすれば、Q=(87.207×10kcal/K°)×T=87.207×10(kcal/K°)×293K°=25551×10kcal

灯油1kgの燃焼による発熱量は12,000kcalである。したがって、25551×10kcalを生じうる灯油の量は、25551×10kcal kcal/12000(kcal/kg)=2.1×10kgとなる。

これから、「どこの国の人々も、灯油だけをエネルギー資源としたとき、一人当たり、年間、210トンの範囲内まで灯油を使用することが許容され、その範囲で使用している限り、人類は存続できる(1975年時)、ということになる。

なおここで忘れてならないことは、ここでの結果はあくまでも地球を熱機関と見なし、「養分」の循環を無視しての話であるということである。

またこの灯油210トンの中には、人間個々人の日常生活面においてだけではなく、その個々人のあらゆる経済活動やあらゆる移動に伴って消費され、燃やされるあらゆる種類の燃料を、その発熱量に依って灯油の量に換算している、ということは忘れてはならない。

たとえば自動車等による地球上のあらゆる陸上交通・輸送のために燃やされる燃料(ガソリン、軽油等)、あらゆる船舶による海上交通・海上輸送のために燃やされる燃料、あらゆる航空機による空の交通や輸送のために燃やされる燃料、地球上のあらゆる火力発電所が発電のために燃やす燃料(石炭、液化天然ガス等)、さらにはあらゆる宇宙ロケットを飛ばす際に燃やされる燃料等々のすべてについてである。

 

以上で、本節のテーマについての考察は終えるが、これまでの考察の過程からも判るように、人類の存続可能性を考える場合には、「エントロピーを捨てる」、あるいは「エントロピーを捨てることができる」ということが特別に重要な意味を持ってくるのである。

そこで、本節の最後に、「エントロピーを捨てる」ということの意味と、これに関連して、「もしエントロピーを捨てられなかったなら」ということの意味を、私なりにもう少し掘り下げて考えておこうと思う。

既に私は、熱化学機関とみなせるそのシステムの空間に生じたエントロピーをそれを取り囲む外の空間に捨てることが困難となって来た時、人間も生命一般も生態系も社会も地球も「病気」にかかり———具体的にどのような種類の病気にかかるかはともかく———、エントロピーをその外の空間に捨てられなくなったとき「死」に至ると述べ、結論として、「物質循環、とくに作動物質の循環が持続できることこそが、物理学的には熱化学機関とみなせる人間・生命・生態系・社会・工場等々そして地球が存続できるための条件となる」と述べて来た。そして、そもそも熱化学機関は孤立しては存在し得ない、とも述べてきた。

この両者を考え合わせることによって、「作動物質の循環が維持されている」ということは、その熱化学機関の中に生じたエントロピーをその熱化学機関の外に「捨てることができている」、ということと同義である、ということも判るのである。

その観点から、地球について考えてみる。

地球の作動物質は「大気と水と養分」である。

果たして、今日、この日本という国に限ってみても、この作動物質の循環は、国土の中で、あるいはそれぞれの地域の生態系の中で、十分に維持されているだろうか。

私は、はっきり「ノー」、と答える。むしろ至る所で、その作動物質の循環は遮断され寸断されて阻まれている。

遮断し、あるいは阻んでいるその最たる例は、私は大都市と高速道路だと考えている。

なぜか。

大都市、それは、熱力学的に見れば、莫大な数と巨大な建築物が林立し、また莫大な数の住宅も密集して、人口が極度に集中しているために、そこから昼夜を分かたずに莫大な量の廃熱や廃物(排ガス)が発生している人工空間である。当然そこは、廃熱や廃物に付随して同じく莫大な量のエントロピーも発生している空間でもある。

つまりそこでは、廃熱も廃物も、そしてそれに伴うエントロピーも、巨大な固まりとなっているのである。

その上、これは決して大都市に限った話ではないが、中小の都市という都市も、ほんの一部を除けば、その地表面のほとんどはコンクリートまたはアスファルトで皮膜のように覆われていて、都市が熱化学機関として機能する上で必須の作動物質としての大気と水と養分が地中部と地表面との間で行き来できない、つまり循環できない状態にもなっている————もし、地表面が大気と水と養分が通える構造になっていれば、例えば集中豪雨のたびに下水道が溢れ出たり、家屋が浸水したりするという事態も、ほとんど解消されるのだろうが————。

それだけではない。都市の圧倒的な面積は、オフィスビルや住宅で占められているがために、緑は圧倒的に少ない。あっても、そのほとんどは背丈の低い灌木からなり、それだけに、その根が到達している深さは浅く、また根を張る面積も狭い。つまり、地中深く、また広く根を下ろす樹木からなる林や森林ではないということだ。そのことは、都市は、地中深くから水を吸い上げて、地表面から高い位置に蒸散させうるようにはなっていないということであるし、葉で作られた栄養が地中深くに運ばれるようにもなっていないということだ。

さらに大都市に林立するビル群は、高層になればなるほど、上部構造の安定を維持することを目的にして基礎部分はかなり深くまで構築されているがために、高層ビル群はそれ自体が、地下水脈を含め、地中での作動物質の流れを妨げてしまっているのである。

さらには、各住宅やオフィスあるいは工場等から出る排水自体にも、循環を考えるとき重大な問題を含んでいる。

そこには、人の排泄する屎尿だけではなく、さまざまな種類の化学合成物質や薬物が混入している。決して循環させてはならない毒物をも含んでいる可能性も高い。それは、例えば、有機塩素化合物(たとえば塩化ビニール)と有毒重金属、毒性金属元素そして放射性物質である。

その化学合成物質の中には、界面活性剤の入った洗剤、食品に添加された保存料(防腐剤)、着色料、人工甘味料、さらには抗生物質等が混ざっている。

そうした排水が、無数に張り巡らされた下水道管を通じて汚水処理場に集められては、そこで、塩素を添加して「消毒」したことにされ、また莫大な電力を用いて「浄化」したことにされて————実際には、化学合成物質は分解もされず、ほとんどそのままにされて————、結局は河川に大量放出されるのである。

これらのことから容易に判るように、都市は、大都市になればなるほど、作動物質は循環するどころか至る所で遮断され、また寸断されてしまう構造となっているのだ。つまり、大都市になればなるほど、その空間にはエントロピーが充満し、溜まる一方となっているのである。

私は、つい先ほど、「作動物質の循環が維持されている」ということが、その熱化学機関とみなすことができる空間の中で生じたエントロピーを滞ることなくその熱化学機関の外に「捨てることができている」ことであると結論付け、またそのことこそが、その空間が熱化学機関として持続しうることである、とも記してきた。

このことを踏まえるならば、都市生活者の方が田舎暮らしの人よりは概して病弱な人が多いとか、心身を害してしまう人が多いとはよく言われてきたことだが、このことも、これまで述べてきた《エントロピー発生の原理》から、定性的にではあるが、説明できるのである。

いずれにしても、日本のみならず世界中にこういう都市を作ってきたのは、「近代」という時代に生まれた土木技術であり、それに基づく都市づくりの考え方なのだ。

最近はあまり聞かれなくなったが、一頃、よく「都市はヒートアイランド(熱の島)」などと呼ばれてきた時もあった。しかし、以上のことからもわかるように、むしろ「都市はエントロピーアイランド(エントロピーの島)」と呼んだ方が熱力学的にはよっぽど適切な表現のように私は思うのである。

高速道路についてもその理由は都市の場合と同様である。

高速道路は、何十メートルもの幅で、延々何百kmから、延べ何千kmにもわたり、表面がコンクリートまたはアスファルトで覆われていて、道路の両側の生態系を完全に分断する遮断帯を構成している。

それ自身が野生動物の行き来を遮断しているのである。またその表面自身が、作動物質である大気や水や養分の通りを帯状に、何百キロメートル、何千キロメートルという距離にわたって、循環を遮断している。

それは、雨水の地下浸透を遮断し、水分蒸発のできない帯を形成していることでもある。

それだけではない。高速道路は、都市と同様、昼夜を分かたずに、膨大な数の自動車が総量にして莫大な量の排熱と廃物(排ガス)を吐き出している空間であり、アントロピーが滞留している空間でもある。その上、とくに夏場などは、路面からの照り返しによる大量の熱の帯をも形成してしまう空間でもある。

 

こうして判るように、都市も高速道路も、国土が、そして地球が熱化学機関として働き続ける上での作動物質である大気と水と養分の循環を大規模に妨げ、あるいは遮断してしまい、元々は1つの連続した広大な生態系であった自然をいたるところで分断し、またバラバラにしてしまっているのである。つまり、ますますエントロピーを捨てることができない自然や国土や地球にしてしまっているのである。

なお、都市と高速道路について具体的に述べてきたが、実は、程度の差こそあれども、その他、貯水ダム、河口堰、砂防ダム、法面を覆うコンクリート、トンネル等々の大規模土木構造物も全て、作動物質である大気と水と養分の循環を妨げるものとなっているのだ————そういう意味でも、後々言及するが、E.Fシューマッハーの主張する「スモール イズ ビューティフル」という考え方が、人類の存続を願う私たちに極めて有益な示唆を与えてくれるのである————。

なおここで、蛇足とも思われるかもしれませんが、読者の皆さんにも考えてみていただけるとありがたいことがあります。

近年、日本国内では気象が至る所で、それも頻繁に、局所的であったり、局時的であったりするという現象に出会ったりすることが多くなりましたが、皆さんはそういう体験はありませんか。例えば、雨が降る際の降り方にしても、車で走っている時、さっき通った場所ではどしゃ降りだったのに、ここに来ると、すぐ隣なのに、嘘みたいにまるっきり降ってはいないといった現象とか、あるいは、さっきまで晴れていたかと思うと、急に曇ってきて、雨が降り出したという現象のことです。

あるいは「ゲリラ豪雨」と呼ばれる、文字通り奇襲するような雨の振り方がそれです。

実は私は、こうなる理由は、既述した近年ますます都市化が顕著になってきている都市づくりや高速道路造り、あるいはその他の作動物質の循環を妨げる構造物の影響なのではないか、と推理するのです。

つまり、こうした循環を大規模に妨げる土木構造物あるいは建築構造物によって、大気や水(地下水も含む)の循環が妨げられたために、あるいはそれらから吐き出される排熱や廃物(排ガス)があまりに巨大であるために、いつまで経っても周囲の空間と混ざり合って均一化することができなくなり、その結果、風が吹いてもいつまでも均一にならずに、固まりのまま移動するために、そこに温度や気圧の変化も加わって、気象現象が局所的になったり、局時的になったりするのではないか、と。

読者の皆さんは、気象のこうした局所的現象、局時的現象はどうして生じると考えますか。

ですから私は、こうした現象はあまりにも変化が激しいために、気象予報が不可能な状況となっているのではないか、とも思うのです。

 

ところで近代において科学や技術が「発達」するとは、科学については、科学がその時の技術を使って次々と新たな諸法則を発見できるようになることであり、技術については、科学が発見した諸法則に基づいて、技術がそれを法則的に応用することでこれまで自然界や社会にはなかったものをより次々と創り出すことができるようになることであった。

一方、経済が「発達」するとは、科学や技術が生み出した物やシステムを用いることにより、人や物品や情報がより広範囲に、より多く、より早く「行き渡る」−−−これは「循環」とは異なる———ようになることであった。

しかしそこで言う科学や技術が生み出し、経済によって行きわたる物は、そのほとんどは、熱化学機関である生命体が維持される上で必須の、既述の意味での「純」なる大気と水と栄養の循環を促すものではなかった。生命活動にとって必須なものでもなかった。食い物も、食料「品」とも呼ばれていることからもわかるように、純な栄養ではなかった。というより、生命体にとってはほとんどが異物の加わった食い物でしかなかった。

実際、スーパー・マーケットに食材を買いに行くたびに、私は石油からできたシートによって一個一個ラップされて並べられている商品を手にとってその裏底を見るのだが、なぜこれほどの種類と数の材料を加えて食料品という「商品」を作る必要があるのだろうかと考えさせられてしまう。

中には、一つの商品の中に、保存料・着色料・化学調味料・PH調整剤から始まって、グリシン、酒精、リン酸塩(Na)、ソルビット、凝固剤、乳化剤、酵素、加工澱粉、水酸化Ca等々が加えられ、混ぜられている。しかもそれらの添加物の一つひとつだって、実際には何を混ぜて、どのようにつくられているのかさえ、それを使用して店頭に並べる者にとっても不明なのだ。

つまり資本主義経済システムとは、たとえば「価値とは何か」としてその意味をも明確にしないまま、「付加価値」と称して、つまり価値が付加されているとして、結局は、本物をどんどん駆逐してしまうしかないシステムなのだ。ここでいう「本物」とは純なる物と言い換えてもいい。

そのシステムの本質は、結局のところ、いかにコスト(費用)を抑えて商品をつくり、それをいかに短時間に多く売るか、そしてそのことによりいかに多くの利益を上げるかということだけに関心を持ち、売ってしまった後のことは一切感知しようとはしないことだ。したがって文字どおり利己的で無責任なものであり、もっぱら生産者の側、売る側の立場に立ったシステムなのだ。

だからそこでは、宣伝文句はどうあろうとも、また安全と安心をどんなに謳い文句にしようとも、消費者の健康といったことは二の次、三の次であって、商品を売ることでしかない。

しかしその場合、私たち人間は、ここで、いつでもきちんと頭に抑えておかなくてはならないことがある。それは、ヒトを含むあらゆる生物は、それまでに体内に取り込んだモノによってその体が出来ている、という真理である。

つまり、異物をより多く、より頻繁に体内に取り込む程、その異物の量がどんなに「許容量」の範囲といえども、それを取り込んだヒトを含む生命体の体は、これまでの《エントロピー発生の原理》が教えてくれているように、余計な量のエントロピーを蓄積させてゆき、その結果、次第に不健康にし、病気になりやすい体にさせてしまう、と言えるのである。

熱中症」を防ぐには「水」をこまめに摂るようにとはよく言われるが、また健康を維持するには、適度の運動が良いとも言われるが、その本当の理由についても、《エントロピー発生の原理》がわかりやすく説明してくれる。

体内に生じた廃熱や廃物に付随するエントロピーを拾い、移動させ、対外に捨てさせてくれるのは主に体内を巡る血液の流れである。その血液は大部分が水である。その血液中の水の量が少なくなって行ったなら、流れが鈍化し、廃熱や廃物、すなわちそれに付随するエントロピーをも捨てにくくなってしまう。

それを防ぐためにはどうしても「水」を、それもできるかぎり異物の混入していない純な水を、そして循環をより促進してくれる適量の養分を含んだ水を、外から絶えず補い摂る必要があるのである。

適度の運動をし、適量の水を補給するのがよいとされるのは、それが体内での循環を促進し、廃熱や廃物と共にエントロピーをどんどん対外に捨ててくれるようになるからである。

こうしたことから判るように、本当に怖いのは「脱水症状」つまり水分が少なくなることではない。水が血液中に少なくなって体内の循環が順調に行われなくなること、循環する量と勢いが減って行くことそのことなのである。そうなれば、エントロピーを体外に捨てることを難しくさせてしまうからである。

 

ここから先は本節の主題から離れてしまうので簡単に留めるが、以上の論理に基づく推論がもし正しければ、人類が、今後は、できる限り薬というものに頼らずに、みんなが等しく少しでもより健康になるためにはどうしたらいいのか、という問いを発した場合、その答えとしては、直ちに次のことが提案できるのである。それも《エントロピー発生の原理》に依るものなのである。

 それは、地球を含むあらゆる生命体を熱化学機関とする作動物質である大気と水と養分を、至る所で、すなわち国土生態系においても、地域生態系においても、人体においても、可能な限り、純な、あるいは異物の混入していない大気と水と栄養からなる循環を積極的に促すことである、と。

なぜなら、これまでのような薬に頼った対症療法によるのではなく、みんなが病気にならないように環境を整えることこそ、最も苦しみも少なく、コストも安く済むのだからだ————そういう意味では、まずは身近な川を汚さないことであろう————。

私は、この回答の日本版としての具体化の一例を本書の12.6節において、今後この国において行われるべきであると考える「真の公共事業」として示すつもりである。

とにかく、その空間からエントロピーをその外に捨てることを難しくさせてしまったり、難しくなって行くような状態をつくり出したりしてしまうことこそが真に怖いことなのである。

資源がなくなることも、それ自体はそれほど恐ろしいことではない。「大気と水と栄養」の循環が順調であれば、人間が必要とする資源は自然がもたらしてくれるからである。

そういう意味では、もうこれからの戦争の意味も仕方も軍備の考え方も、すべて考え直さなくてはならないと私は思う。こちらが軍備を増強すれば、相手もそれに負けまいとして、それ以上の軍備をする。それではイタチごっこで、際限がない。それで喜ぶのは「死の商人」だけだ。資源を求めて他国の領土を侵略したり、また侵略したそこで人々や自然を搾取したりするなどということはもはや意味はない。それに、そうした戦争観はもはや「近代」の遺物でしかない。

エントロピーを外界に、そして究極的には宇宙に捨てること、そのことこそが人類が永続的に生きて行けるためには最も重要なことなのである。それだけに、それができなくなることの方がはるかに恐ろしいのである。そしてそうなった時には、もはや科学も技術も無用で無意味で無価値になってしまうのである槌田敦p.160)。

科学や技術はけっして無制限に発展しうるものではない。その限界は厳然とあり、それはエントロピーの限界によって決まってしまうのである。

(→ここに、槌田敦「熱学外論」朝倉書店p.161の図8.3の(a)を転載させていただく)

 

私は、20年この方、一貫して、一滴も農薬を使わず、一握りの化学肥料も使わないで野菜を栽培し米を栽培して来ているが、それらは、食する際、せいぜい塩(NaClという食塩ではなく、精製塩でもなく、ミネラルの種類をより多く含んだ塩、いわば海水から水だけを蒸散させた塩)、醤油、食用油(ただしサラダ油ではなく、オリーブオイルかごま油)、そして上記の塩と麹と無農薬栽培の大豆から造った味噌といった天然材だけからなる基本調味料を加えるだけで、ときにはそこにハーブを少し加えることもあるが、それだけで十分に美味く喰えるのである。

本物の食材とはそういうものなのではないか、と私は常々考えている。