LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

4.2 全地球的・全生命的指導原理としての三種の原理

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これまでは、当初、紙による本にしようかと考えていた書名「持続可能な未来、こう築く」についての「目次」(2020年8月3日に公開済み、以下にリンク掲載)の中の第1章の全ての節と、第2章の1節、2節、3節そして6節、第3章の全ての節、第5章の全ての節を公開してきましたが、今回公開するのは、第4章の2節です。

itetsuo.hatenablog.com

 

それを、「目次」で表現される本書の全体構成の中に位置付けてお読みいただければ幸いです。

なお、公開済みの章の中には未だ公開していない節のある章もありますが、その節については、今後、世の中の状況を見て、できるだけタイムリーに発信してゆこうと思っています。

 

ここで述べる三種の指導原理は、本書の中で最も重要な位置を占め、それだけに全編を貫いて、本書に現れるすべての考え方や判断の仕方の規準となっているものである。

そもそも原理とは、前節でも定義して来たように、あらゆる現象と矛盾のないことを言い表していて、真なることを証明する必要のない命題のことである。本書では、それを、「社会」あるいは「自然」の中を貫いてそれらを成り立たせている、人智・人力を超えた理(ことわり)であり掟である、としている。

したがってそれは、人間の側の気分や都合あるいは利害関係とは一切無関係なものであり、したがってそのようなものによって影響を受けることは一切なく、不変不動のものであるとする。であるからそれは、たとえば、既存の社会制度の中で何がしかの既得権を得ている人にとっては不都合なものと感じらようとも、また反対に、大多数の人々にとってはむしろ好ましいものと思われようとも、そういうこととも無関係な規準なのである。

なお、規準とは規範であり標準とするものとの意味であり、比較して考えるための拠り所としての基準とは異なる。

そういう意味で、ここで言う原理は、人間がものごとを考えたり判断したりする際には、いつでも、どこでも、公平で公正な規準となり、それ自身が拠り所となり得るものなのである。

そしてここで言う三種類の原理とは、その一つひとつが、そういう位置づけを持ったもの、と私は考えるのである。

ではその三種の指導原理とはどのようなものを言うのか。

そのうちの一つは、私が「生命の原理」と呼ぶものである。

それは結論から言うと、生物一般について成り立ち、その生物生命の多様性と共生と循環の三つの要素からなる原理のこと。

その三つの要素のうちの1つが「生物の多様性」であるが、それは、前節の定義にも記したように、人でも他生物でも、命あるものはどんなものでもすべて、互いに生き方は異なってはいるが、そのどれも自然界にあって存在価値がある、と言うよりも、多様であることで初めて互いの生物は安定して存続できる、とする考え方を言う。

それが意味していることを人間だけの社会に狭めて当てはめてみれば、次のようになる。

互いに生き方が異なっていて当たり前である、と言うより、互いに生き方が異なっていてこそ各々の人間としての生命はその存在意義をより明瞭に確保でき、かつその人々の社会は安定して維持できる、とすることである。

すなわち、「生物の多様性」とは、人間社会に限ってみれば「自由」という概念に相当し、したがって「生物の多様性」を尊重するとは、人間社会では、どんな人でも、互いの自由を尊重するということである。逆の言い方をすれば、人間にとっての自由とは、生物一般の生存する自然界における「生物の多様性」の特殊ケースに過ぎないということである。

また、その三つの要素のうちのもう1つが「生物の共生」であるが、それは、人でも他生物でも、命あるものはどんなものでもすべて、互いにその存在をもって自然界におけるそれぞれの役割を担いながら生きてこそ、互いの生物は安定して存続できる、とする考え方を言う。

これも、それが意味していることを人間だけの社会に狭めて当てはめてみれば、次のようになる。

個々の人間は互いに分け隔てなく支え合ってこそ存続でき、かつその人々の社会は安定して維持できる、とすることである。

すなわち、「生物の共生」とは、人間社会に限ってみれば「平等」という概念に相当することが判るのである。逆の言い方をすれば、人間にとっての平等とは、生命一般の生きる自然界における「生物の共生」の特殊ケースに過ぎないということである。

三つの要素のうちの3番目が「生物の循環」であるが、それは、一見、相矛盾しているかに見える「生物の多様性」と「生物の共生」との関係の間にあって、その両者を、個々の種の間での「喰って喰われて」という関係を通して成り立たせている状態、と言うよりも、「喰って喰われて」という関係が成り立っていてこそ、互いの生物は安定して存続できる、とする考え方を言う。

これも、それが意味していることを人間だけの社会に狭めて当てはめてみれば、次のようになる。

一見対立しているかのように見える自由と平等という概念の関係にあって、その間の架け橋となって両者を成り立たせる「友愛」という概念に相当し、それがあってこそ自由と平等は共に安定して成り立ちうる、とすることである。

すなわち、「生物の循環」とは、人間社会に限ってみれば「友愛」という概念に相当することが判るのである。逆の言い方をすれば、人間にとっての友愛とは、生物一般の生きる自然界における「生物の循環」の特殊ケースに過ぎないということである。

こうして見ると、この三つの要素が揃っての生物の「多様性・共生・循環」とは、近代以来の人間の、もっと狭めれば市民だけの指導的価値観であった「自由・平等・友愛」を超える、生物一般に当てはまる普遍的な価値原理であるということが判って来る。逆に言えば、「自由・平等・友愛」は人間社会、もっと言えば市民社会にだけ当てはまるもので、それは生物一般における「多様性・共生・循環」という捉え方の特殊的なケースに過ぎないものだった、となるのである。

実はこのことは、「近代」においては、今日に至ってもなお、地球上において、一貫して圧倒的支配力を発揮して来たニュートン力学ではあるが、その力学は、いわば、地球と宇宙とを一体に考えなくてはならなくなったこれからの時代にこそ威力を発揮するであろうアインシュタインの相対性原理の特殊解に過ぎなかったということとちょうど同じ関係にある、と解釈することができるのである。

以上のことから判ることは、人間にとっての自由と平等と友愛の三要素が一式揃って近代の指導原理(パラダイムとしての意味を持って来たように、その近代という時代が終焉を見たと考えられるこれからの時代においては————私はそれを「環境時代」と名付けるのであるが————、生物一般についての多様性と共生と循環の三要素が一式揃ってこそ意味を持ってくるということである。

だから、今後、環境政策を考える場合も、また生態系の蘇生を考える場合も、例えばこの国の政府(環境省)が唱えるような共生だけではほとんど意味をなさないし、また循環だけでも意味をなさない。つねに三要素を一体にして統一的に捉え、それらを同時に実現するようにしなくては意味をなさない、ということである。

ということで、私は、この三つの要素を一体とした、生物の「多様性・共生・循環」のことを「生命の原理」と呼ぶことにするのである。

三種の指導原理のうちの二つ目は、私が「新・人類普遍の原理」と呼ぶものである。

それは私たちの日本国憲法の前文に登場する「人類普遍の原理」の中身を普遍化した原理である。

憲法前文を見ていただきたい。そこにある「人類普遍の原理」とは、そしてその中身とは、大雑把に言えば、近代市民個人の「生命・自由・財産」は国家によって保障されねばならない、というものである。つまりこれを守ることが、近代においては、国家の使命となるのである。

しかし私がここで言う「新・人類普遍の原理」とは、日本国憲法が言う原理を人を含む生物一般にまで拡張したもので、生物一般の「生命・自由・財産」は、やはり環境時代の国家によって保障されねばならない、とするものである。

なお、「新・人類普遍の原理」には、生物一般の生命が含まれていることから、これ自身、ある意味では先の「生命の原理」をも包含している原理、と見ることができる。

そしてそのことから直ちに判ることは、この「新・人類普遍の原理」が国家によって実現されるということは、破壊され汚染されて崩壊しつつある生態系が蘇ることでもあるのだ(4.1節)

三種の指導原理のうちの三つ目のものは、エントロピー発生の原理」である。

それは、既述(3.1節)したように、「一人ひとりの人間も、産業も、また個人の集合体である社会も、国も、つまりどんな社会的存在といえども、日々の暮らしや経済活動、その他なにがしかの活動をすれば、活動したそのときには、『エントロピー』という用語で表現される物理的状態を表す量が、そのときに発生する物(廃物)と熱(廃熱)に付随しながら必ず増える。同時に、それだけ『汚れ』も増える」とする原理である。

 

以上が私の考える三種の原理であるが、もし今を生きる私たち人類が、私たちの子々孫々どころか、これまで500万年にわたって人類がこの地球上に生き続けてくることができたと同じくらいの時間的長さをこれからの人類も生き続けて行って欲しいと心から願い望むのならば、その時は、好むと好まざるとに拘らず、言い換えればどんな経済システムを持った社会を望もうとも、上記三種の原理こそが私たち人類が、つねに、また無条件に従わねばならない原理であろう、と、私は考えるのである。

したがって、例えば、今後、私たちの国日本を「環境時代」にふさわしい国家として根幹からつくり直して行こうと考える時、上記の三種類の原理こそは、とくに国家として、あるいはその代理者である政府として、また地方政府としても、そして国会を含むあらゆる共同体の議会としても、何をどうすべきか、何をしてはならないかと判断する際には、いつでも、明確な方向づけを与えてくれる拠り所となりうるものである、と私は考えるのである。

そしてそれは、環境を再生させる仕組みを考える場合はもちろん、経済的仕組みのあり方を考える場合も、また教育制度のあり方や福祉制度のあり方、そして税制のあり方等々を考える場合にも、大きくその方向を間違えることはない解決の基本的な方向づけを与えてくれる羅針盤となりうるのである。

そういう意味で、私は、以上の「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」と「エントロピーの原理」の三種の原理こそが、環境時代に生きる人類を根源から救う、人類の、人類による、人類のための指導的スローガン、あるいは全地球的・全生命的指導原理となるものであろう、と考えるのである。

なお、上記三種のそれぞれの原理が持つ意義を考えると次のように説明できるのではないか。

三種の原理のうちの前二者は、人間の理屈や弁明など一切通用しない、人間が生きて行く上での指針とすべき原理である。三番目は、もし人類が存続を望むのなら、人間の経済活動を含むあらゆる活動をする際、これ以上のエントロピーを地球上に発生させてはならない、あるいはこれ以上のエントロピーを地球上に貯めてはならないという意味での、全地球人にとっての足かせを明確に提示する原理なのである。

以上の考察により、私は、今後、本書の中では、一貫して上記の三種の原理のことを指導原理と呼んで行こうと思う。

念のために、上記三つの原理のうちの前二者について、対応する近代の原理と比較して示すと、それぞれ次のようになる。

 

表 近代の「市民の原理」と環境時代の「生命の原理」との関係

近代における「市民の原理」

環境時代における「生命の原理」

「市民」個人の自由

生命の多様性

「市民」個人の平等

生命の共生

「市民」個人の友愛

生命の循環



表 近代の「人類普遍の原理」と環境時代の「新・人類普遍の原理」との関係

これまで(近代)

これから(環境時代)

近代の市民中心の価値原理

人類の存続を可能とさせる

全地球生命的な価値原理

「市民個人」の生命の尊重

「市民個人」の自由の尊重

「市民個人」の財産の尊重

「多様な生物」の生命の尊重

「多様な生物」の自由の尊重

「多様な生物」の財産(生態系)の尊重

人類普遍の原理

新・人類普遍の原理

 

なお、上記2つの表を見比べると気づくのであるが、自由と多様性という概念を介して、生命の原理と新・人類普遍の原理とは重なっている。

このことから、その都度両原理を区別するのも煩わしいので、今後は、本書の中では、この両原理、つまり「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」とを一緒にして「生命の原理」と呼んで行くことにする。

したがって、人間がものごとを考えたり判断したりする際には、いつでも、どこでも、公平で公正な規準となり、それ自身が拠り所となり得るものと考えられる全地球的・全生命的指導原理は実質的には「エントロピー発生の原理」と「生命の原理」の二種類となる。

ところで、この両表からも明瞭なように、そもそも近代の人間には、市民にとってさえも、彼等の価値観や自然観の中には他生物という存在は入ってはいなかった。したがって、他生物の自由などといった概念も、当然ながら念頭にはなかったのである。

 

なお、ここで、この国の国会と中央政府の「自然環境」や「生態系」等に対する考え方が今後とも大きく変わらなかったなら、上記二種の指導原理のうちの最初の生命の原理の方は実現され得ないままに終るのではないか、と危惧される根拠を2つだけ指摘してこの節を終えたいと思う。

その1つは、環境省が定めているこの国の「環境の憲法」とも言うべき環境基本法に見られる問題点であり、もう1つは、文科省が全国の小中学校の生徒に配布している文科省の官僚のお手盛りの「検定」不要の道徳の教科書「心のノート」(第10章に詳述)に見られる問題点である。

具体的にいうと、前者については、環境省は、環境の総合的かつ計画的な施策を推進するためにということで「環境基本計画」(1994年12月16日、閣議決定。以下、「基本計画」と言う。これについても、国会は関わってはいなかったのだろうか?!)を定めてはいるが、これが、これまでの文脈からすると、致命的欠陥を持っていると言える環境基本計画だからである。

この基本計画は、聞けば、環境庁(当時)内での「中央環境審議会」の答申に基づき、そこの官僚がつくったもので、それを当時の内閣がわずか15分程度の閣議で決定したものだという。

基本計画が閣議決定された1994年当時と言えば、既に国連でも日本でも、生物種の激減あるいは特定生物種の絶滅が叫ばれていたし、したがって「中央環境審議会」の委員となるような「有識者」であったなら誰も生物種の「多様性」の大切さについて知らないはずはなかった。

ところが、である。この基本計画には「多様性」という最も重要なキーワードが含まれていないのである。基本計画がキーワードとしているものは「循環・共生・参加・国際的取組」の4つだけ。

では、「多様性」がキーワードとして含まれていないのは果たして偶然なのか故意なのか。

私は確信を持って言う。これは間違いなく「中央環境審議会」を実質的に取り仕切って来た官僚の故意に因るものだ、と。

そもそも環境をよくするためには、活動に「参加」するのは当たり前のことだし、また参加しなければ何事も始まらないのだから、そのような文言は、とくにキーワードとしては全く不要なものだ。それに、この「参加」はキーワード「国際的取組」と同質同類のものでもある。

むしろ自然にとって最も重要とも言える多様性を基本計画の中から欠落させてしまったなら、それに基づいて人々がどんなに循環と共生を心がけ、また国際的取組みに参加したところで、実効は上げられないどころかかえって自然を壊してしまう結果になるのは目に見えている。

なぜなら、多様性がなく、同一の生物種の個体数をどんなに数増やして共生させても食物循環は成り立たず、自然の循環も成り立たず、生命を主要な要素として成る自然は早晩、維持できなくなるからだ————先に私が、人間にとっての自由と平等と友愛が一式揃って意味を持って来たように、生命一般についても、多様性と共生と循環の三要素が揃っていてこそ意味を持ってくると強調したのはそのためである————。

つまり、この国の政府が掲げるこの「環境基本計画」のままでは、日本では「生命の原理」は実現され得ない可能性が高いのである。それでは、日本が、世界の環境行政の足かせになるだけではなく、逆行しかねないことを意味する。

実はこれと実質は同じことが、文科省が全国の小中学校の生徒に配布している文科省の官僚のお手盛りの、「検定」不要の道徳の教科書「心のノート」にも見られるのである。それが後者の問題点である。

その内容そして構成は、一見、非の打ち所がないように見える道徳の教科書ではあるが、その中身を何回熟読しても、人間個々人にとって最も大切と思われる文言が一カ所たりとも見当たらないのである。

それは、児童・生徒一人ひとりの人間としての自由の尊重、ということに関する文言だ。

ではそれは、うっかりミスによる欠落なのか。絶対にそんなことはない。そんな重要な文言をうっかり落としてしまうことなど考えられない。いやしくも学校教育を司る文科省なのだ。それは、文科省の官僚が意図的に省いた結果なのだ。私はそう確信するのである(後述の5.2節および10.1節を参照)。

人間一人ひとりの自由には言及しないということは、これまでの論理からすれば、それは生命一般に置き換えてみれば明らかなように、自然界における生命の多様性を認めようとしないことに等しいのである。

そしてそのことは、実際、この国の文科省の統制下にある学校教育が、どこの小・中・高等学校でも、公立学校である限り、例外なく、正義よりも集団の中での秩序を重んじ、個性を育くむよりも均質化・画一化した児童生徒を教育することに重点を置き続けている現状と符合するのである。

この国では、政府自身が、明治時代から、琉球民族アイヌ民族、その他にも異民族がいたのにも拘らず、一貫して「一民族・一言語・一文化」政策を国民に対して強制してきた歴史がある。それは人間相互の自由と多様性を認めようとはしてこなかったことでもある。そして今また、人類がその存続危機に直面している中で、1992年6月には、157カ国が署名して生物多様性条約」が国際条約として採択され、同年12月末に発効しているのに、この国の似非国家としての政府は、環境時代に臨むに当たって、生物一般の多様性も認めようとはしていないのである。

なお、このことは、今(2015年現在)、欧米社会は「移民」や「難民」を何万人〜百万人という規模で受け入れているのに対して、日本は、経済大国を自認しながらも、その数は欧米と比べたら実質ゼロに等しいという状態となっていることと、根底の理由は同じだと私は思う。

要するに、政府、それも実質的に政策を決めている官僚は、統治に自信がないのだ。国民が多様であること、多様になることに、明治期以来、恐怖しているのだ。

私はそう確信する。

しかし、である。

こうなるのも、結局は、政治家たちが、国民から自身に課せられた役割や使命をほとんど果たさずに、そして国民の声に耳を傾けずに、また国の現状に注視せずに、付託された権力をもっぱら官僚に委譲し、立法も放任し、むしろ官僚に追従して来たからであろうと思う。

以上が、このままでは、この国では、「生命の原理」「新・人類普遍の原理」が実現されることはほとんど期待できないと私が考える根拠である。