LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

4.3 人間にとっての基本的諸価値とその階層性

 

f:id:itetsuo:20201207230703j:plain


前回は「全地球的・全生命的指導原理としての三種の原理」について、私なりの見解を発信してきました。

今回は、人間にとっての基本的価値というものと、それらは階層性をなしているのではないか、ということについて、やはり私の見解を述べてみようと思います。

前回の三種の原理といい、今回の人間にとっての諸価値の階層性といい、こういうことも、「持続可能な未来」を着実に築いてゆく上では、決しておろそかにしておいてはならないことだし、曖昧なままにしておいてもならないことではないか、と私は考えるのです。

とにかく、この国では、明治期以来、こうした原理原則論については、特に本来はそれを考えなくてはならない立場の政治家という政治家は全く考えてはこなかったのですから。

もちろん彼らは、国のゆくべき方向も、あるべき姿も、つまり明確なヴィジョンも示すことさえなく、常に目先のことだけでした。

なお、この節の内容も、今年の8月3日に発信しました「持続可能な未来、こう築く」という具体的な構築シナリオを示す「目次」の中に位置付けてお読みいただけましたなら幸いです。

itetsuo.hatenablog.com

 

4.3 人間にとっての基本的諸価値とその階層性

つぎに人間にとっての基本的諸価値とその階層性ということについても述べてみようと思う。これも私なりの考え方である。

人間には人間に固有の掛け替えのないさまざまな価値がある。たとえば、自由、平等、友愛、民主主義、公正、健康、幸せ、便利、快適、あるいはお金、・・・・・、というように。

ではそれらの価値は、特定の個人にとってということではなく、人間一般にとってという観点から見た場合、たがいに同じ重みを持っているものなのだろうか? そしてそれらは互いに何の関係もなく、バラバラな価値としてあるものなのだろうか?

これがそもそも私のこの節の表題である「人間にとっての基本的諸価値とその階層性」という問題の出発点となった疑問である。

そしてその疑問に対する私の答えは、そうではないのではないか、というものだ。

そう考えさせる第一の根拠は、人間は誰も、生まれも育ちも違い、したがってその過程や境遇の中で身につける価値観も皆違うはずだ、というものである。しかし、とはいえ、自由、平等、友愛、民主主義、公正、健康、幸せ、便利、快適、あるいはお金とかというものは誰にとっても価値あるものであることには変わりはないであろう、というものである。第二の根拠は、人間誰も、一人で生きているのではなく、誰もが社会および自然に属している、という事実に拠る。すなわち、社会や自然から離れては、誰一人生きてはゆけないし、暮らしてもゆけないだろう、というものである。第三の根拠は、ところが人間を生かしてくれているその社会も自然も、実はそれら自体が規模と質の違う無数の部分からできているという事実に拠る。

人間は、誰も、生まれついた時に直面する共同体は家族だ。そしてそれが最も小さい規模の共同体であろう。しかし長ずるにつれて、規模と質の違うさまざまな社会という共同体の中に生きることになる。あるいはそれぞれの中で生かされて行くことになる。

その社会とは、たとえば、規模の小さい方から言えば、近隣地域であり、小中学校であり高校であり、市町村であり、都道府県であり、国である。もっと広く活躍する人にとっては世界もある。そしてそれと並行して職場という共同体もある。

しかしそのさまざまな社会という共同体は、いずれも、自然の中にあって初めて共同体として成り立ち得ているし、存続できている。ところがその自然自体も規模と質の異なるさまざまな自然から成り立っている。身近な所としては、川、林、森、丘、高原、山、湖、海等があるだろう。

また見方を変えれば、規模と質の異なる自然については、その成り立ちをこう捉えることもできる。

現在のところ最も小さな規模と見られているのは素粒子の世界である。その次は、原子核の規模の世界である。次は原子や分子の規模の世界。次は人間を含む生命の規模の世界。次はその生命を含む生態系の規模の世界。次は地球の規模の世界。次は太陽系の規模の世界。次は銀河系の規模の世界、そして宇宙の規模の世界、・・・・というように、である。

この事実は、つまるところ、人間あるいは生命体一般も、また社会や自然も、それらの間で階層をなしているが、それら一つ一つ自身もその内部では無数の階層から成っている、ということを私たち人間に教えているのである。となれば、そうした無数の階層からなる社会や自然の中に生きる、というより生きなくてはならない人間にとっては、先に挙げた人間にとっての諸価値はもちろんその他の諸価値も、そうした階層に対応して、同様に階層をなしていると考えざるを得ないし、また見ざるを得ないのである。

つまり、個々の人間、その人間の集団である社会、そしてそれらすべてを内に含む自然界には、人間にとって、「存在の次元」とも言い換えられる規模の階層的秩序とか、「意味の段階」とか「価値の階層」とも言い換えることのできる質の階層的秩序が存在していると考えられるのであるシューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 p.123)。

したがって、反対に、規模であれ質であれ、それらのそういう階層的秩序の存在を認めないことには、私たち人間は、自分自身が今どこにいるのかという位置も、なぜここにいるのかという意義も、自分で納得できるようには認識できないのである。

そのことは例えば、自分が、ちょうど周囲には何も見えない、どこまでも平たくだだっ広い大海原にいるとした場合とか、あるいは自分が辺り一面銀世界の大雪原の中にいて、そこには家も樹木も何も見えない状況の中にいるとした場合を想定してみればわかるはずだ。

つまり、私たち人間は、そのような階層的秩序があり、それを認識できて初めて、自分の人生にはより大切にしなくてはならない価値より意味深い仕事より重点を置いて為さねばならないことがある、ということを確信を持って判断することができるようになるのである。

実際、たとえば「自由」という価値一つとってみても、その中には質の異なる無数の階層的レベルがあることが判る。

「我がまま」という言葉が象徴する、他者のことなどおかまいなく、何でも自分の好きなことを好きなようにできることが自由の意味であると捉えるレベルから、自分の欲しい物をいつでも手に入れられることが自由の意味であると捉えるレベルもあるし、自分が正しいと信じていることを誰に阻まれることなく表現できることが自由であると捉えるレベルもある。さらには、自分の欲望に縛られたくはないとすることも含めて、自らの精神が他のものに囚われたり支配されたりせずに、つねに自らの判断と納得に基づいて選び取れるようになることが自由という意味であると捉えるレベルもあるだろう。さらにはそのようにして選び取った結果において生じる全ての結果を自ら引き取る覚悟を持てることまでも含めて自由であると捉えるレベルもある。これらはいずれも同じ「自由」という言葉で表現されるものではあっても、その価値のレベルまたは質のレベルは、その人個人にとっても、また社会にとっても、決して同一ではないことは明らかであろう。

未来に向かって私たちが何か行動を起こそうとする時、そのときの方法は過去の経験から得た知識や情報によって導かれるものである。そしてそのとき私たちは、その過去にあったことをより正しく、しかもできるだけ整然と整理された形で理解していればいるほど、それを拠り所にして、より自信を持って前に向って歩み出せるものである。

反対に、人間にとって、あるいは個人にとっても、すべての知識や情報が同じ価値と重みを持つ事象のごちゃ混ぜの集合体であったりしたなら、あるいはすべてが同じ価値と重みを持つ事象であるかのように信じさせられ、また思わせられたなら————私は、日本の文部省や文科省の学校教育における児童生徒への知識の植え付け方は本質的には正にそれだった、と思う————、そのとき人は誰も、それぞれの事象に対して合理的な説明をできなくなるだけではなく、事象全体の流れの方向も見出せず、先の未来をより正しく見通すことはできなくなってしまう。それでは不安をもたらすことにしかならないのだ。

こうしたことから、たとえば、歴史を時間の流れに沿って正確に知って理解することがどれほど大切か、その意義も明確になるのである。

私たち人類は今後、好むと好まざるとに拘らず環境時代という前人未到の困難な時代を生きて行かねばならなくなると私は思うのであるが、その時、一人ひとりが少しでも確信を持って前に進んで行くことができるようになるためには、既述のように、個々の人間、その個々の人間の集団である社会、そしてそれらすべてを含む自然界との間には規模の階層的秩序とか質の階層的秩序があることを認め、かつ、人間一般にとっての諸価値の間にも質的階層があることをも認め、それらを規準あるいは公準とすることがどうしても必要なのではないか、と私は考えるのである。

それを、私なりに表わせば、次の図のようになる。

 

f:id:itetsuo:20201207230522j:plain

この階層図の見方はこうである。そしてその図は、私たち人間に次のことを教えてくれるのではないか、と思うのである。

もっとも下層の位置には、ヒトあるいは人類を含む地球上のすべての生命が存続できるための、しかし人間の力ではどうにもならない、いわば「絶対」条件としての原理が占める。

それは、既述のエントロピー発生の原理》であり、《生命の原理》そのものである。

そしてその原理が実現されている限りにおいて、それから上に位置する人間にとっての諸価値は実現しうるし、また意味を持ちうる、とするのである。すなわち、その絶対条件が成立している限り、人間が生きて行く上での基礎的な価値も、人間の意思いかんにより持続的に成り立たせ得るし、また意味をも持ち得るのである。

そして人間にとってのそうした基礎的な価値あるいは条件が持続的に成り立ち得て初めて、人間集団としての社会も社会として存続し得、そこでの価値も意味を持つようになる、とするである。すなわち、人間にとっての社会的価値も成り立ち、またそれが持続し得るようになるのである。

逆に言えば、「絶対」条件としてのこの原理が成り立っていなかったなら、その上に来る基礎的価値も社会的価値も実現し得ることはない。たとえいっとき実現し得たとは思っても、たちまちにしてそれは崩れ去り、砂上の楼閣に終わるのである。

こうして、上記階層図は、各階層とその各階層に属する諸価値が土台から順次、着実に実現されて行って、初めて、社会や自然に属する人間は、それぞれ、ただ生きている、あるいはただ生かされているというのではなく、自分自身の存在の意義・役割・自分の為すべきより意味深い仕事とは何かというものがはっきりと見えてくるようになるし、さらには、人間として目指すべき至高の価値とは何かということも、ぼんやりとではなく、はっきりと理解できるようになる、ということを表しているのである。

 

しかしここで、これらのことをもっと深く考えてみると、私たちはこの図から、さらに重大な真理気付かされるのである。

それは、人間が人間にとっての至高の価値と考えられる「しみじみとした幸せ感」を手に入れられるようになるのには、贅沢品はもちろん、「あれば便利」「あれば快適」という類いの物品の類いも全く不要だった、という事実である。それは、この階層図の中には贅沢品も「あれば便利」「あれば快適」という類いの物品の類いも、何1つ登場して来ないことから判る。と言うよりもむしろ、この階層図に載ってくるようなモノ・条件・しくみは、そのほとんどが「お金」では買えないものであるということだ。実際、この階層図には「お金」すらも、直接的にはどこにも現れては来ない。

このことから私たちは次の、真理あるいは箴言と言ってもいいであろう重要な結論を導き出すことができるのである。

それは、人間は、社会の中に「人間」として生きて行く上では、必ずしも「お金」は必要ではない、ということである。

と言うよりも、お金や贅沢品や「あれば便利」「あれば快適」という類いの物品の類いは、またそれらへの欲求・欲望・拘りこそが、個々人をして、時には、人間にとって本当に大切な、意味のある価値を見失わせて来てしまったのだし、社会に無用な、あるいは不幸な事件を頻発させて来てしまったのだ。

この真理を噛みしめることの意義は、いま、日本国内を見渡しても、また世界を見渡しても、とくにアメリカ並の生活レベルの実現を目指して経済発展を遂げようとしている途上国や新興国を見ても、どんなに強調してもし過ぎるということはない。そしてそのことは、「資本主義経済」とその「システム」はこれからも人間にとって本当に必要なものなのか、という問いの答えを示唆してもいるのである。

実際、地球温暖化も、生物多様性の消滅の危機も、核戦争の危機も、その最も根本のところでは、世界の圧倒的に多くの人々が、いつの間にかこの「お金に頼らなくとも、あるいはお金(貨幣・紙幣)など社会に流通させなくとも、この階層図にあるような条件・状態が自然や社会において不断に実現されてさえおれば、それで人間としては十分に生きて行けるし、むしろ生きて行く上での至高の価値をも見出せ、感じ取れる」という真理を、あるいは箴言を忘れてしまっているところから生じていることなのではないか、と私は思うのである。

 

これまでは「お金がなくては生きては行けない」、「お金さえあれば何とかなる」という強迫観念をいつも抱かされてきた私たち近代の人間であるが、それゆえにほとんど反射的に、資本主義も、市場経済も、グローバル経済も、新自由主義も必要と人々には信じられ受け入れられては来たのだが、よくよく考えてみれば、それは虚構あるいは作られた話に過ぎなかったということが判るのである。そして実際、その虚構に踊らされて来たがために、世界では、これまで、一体どれほどの数の人間が、また社会あるいは国が、そして自然が傷めつけられ、壊されてきたことか。

それゆえに、この真理———人は、人間として生きて行く上では、「お金」は必ずしも必要ではない———を明晰に認識することこそ、私は、現在の全人類をして、「近代」との決別を果たし、「環境時代」という真に持続可能な時代へと歩み入って行く勇気と決意をもたらしてくれる原動力になるのではないか、と思うのである。

そしてこの認識は、政治においてはもちろん、後述する経済システムのあり方や税金の使途とその優先順位を決める上でも、決定的に有益な示唆を与えてくれるのではないか、とも考えるのである。

それは、この階層図が示すように、政治諸課題に「優先順位」をつけ、それらを、その底部から上層に向って一つひとつを着実に実現させて行くことが、遠回りのようでいて、あるいはまどろっこしく感じられるようでいて、結局は様々な難題を次々と解決させてゆく上で、最も確実で、最短コースとなるだろうからだ。

しかし残念ながら、現実のこの日本では、最高の立法権を持つ議会という議会の政治家という政治家も、執行権を持つ政府という政府の政治家という政治家も、そうした優先順位など少しも考えないで、茶番の議会ごっこをしたり、場当たり的な行政を続けているだけなのだ。

それでは、この国全体は、早晩、世界に先駆けて、“万事、休す”という事態を招き寄せることになるのは明白なのに、という危機感すらないのだ。否、「自己の保身」だけが彼らの唯一至高の価値なのかもしれない。