LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————その1  

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本当ならば、今回も第4章の続きとして、その章の最後の節である4.5節を公開すべきところなのですが、今回はその予定を変えます。

それは次の理由によります。

どうも「新型コロナウイルス」に対する中央政府の対応、特に、そこでのこの国の公式的には最高責任者であり、また日本国の舵取りでもあるはずの菅首相以下各閣僚の国民に対する一連の対応の仕方をじっと見ていると、やはり私がもう20年以上前から抱いてきたある危機感が改めて、それもいっそう確信をもって蘇ってきたからです。

実はこの拙著「持続可能な未来、こう築く」も、その時の危機感がこれを著さねばということを私に決意させたのですが、改めて感じたこの度のその危機感とは、“この新型コロナウイルスの問題程度のことで、明確な大方針を示せず、国民を統制のとれた方向に統治もできず、うろたえてばかりいるような首相からなる中央政府では、つまりこの程度のことで事実上無政府状態に近いような状態を露呈してしまうようでは、近い将来起ってくるであろうと私には推測される、これよりもはるかに規模が大きく困難で長期化するであろう全般的危機の時には、一体私たち国民はどうなるのか”、というものです。

しかもその全般的危機をいっそう深めてしまうのではと私には考えられるのは、首相以下、スポークスマンである官房長官を含む全閣僚は、国民に物を語るときには、誰も、あたかも政府内の統一見解であるかのように語ってはいるが、実は彼らは誰も、彼らの背後にいる官僚の筋書き通りに動いているにすぎない、つまり官僚および官僚組織の操り人形(ロボット)にすぎないと思われることです2.2節2.6節を参照)

そのことは、例えば次の事実を思い浮かべてみていただければ、頷けるのではないでしょうか。彼らが国民の前で少し込み入った政治状況を説明する際には、とにかく官僚の作文を読まなくては、筋の通ったことは何も語れないことを。原稿なしで説明しようとしたらたちまち無知と不勉強をさらけ出してしまって、ボロが出てしまい、後で “失言でした”と謝らなくてはならなくなるようなことを、これまで、一体、どれ程繰り返してきたかということを。

この事実自身、私たち主権者である国民にとっては、彼らは選挙で政権すなわち政治権力を獲ったことになってはいますが、そんなこと以前に、国民の「代表」として振る舞えないのだから政治家失格と言うよりない、と私は見るのです。

ところが私たち国民にとってそんな事態をさらに深刻にしているのは、そうした政府の政治家たちを裏で動かしている官僚たちは、実は、歴史的にも、その職業的本性において、国民に対して極めて冷酷かつ狡猾だということです。

そのため、首相をはじめ、政府の政治家たちが打ち出してくる政策は、国民から見れば、そのほとんどが、“これが本当に国民のことを考えての政策なのか”と思えるようなものばかりです。時期を失したものであったり、本当に困っている人を救済するような細やかなところまで配慮するものではなかったり、主権者である国民よりも特定産業界を優遇するものであったりするわけですから。

この国の中央政府の政治家たちのこうした情けない姿を、この度の新型コロナウイルス禍の中でも目の当たりにすると、この国の中央政府の首相以下全閣僚はなぜこうなるのか、私なりに考えられるその理由を、先に公開済みの2.2節(8月11日、13日、16日公開)と2.6節(9月6日、8日公開)と関連させて、この際、是非とも読者の皆さんにはお伝えしなくては、と思ったのです。

そのために、今回公開するのは、先に、私がそのことに関して既に書いておいた原稿です。

それが第7章の1節、すなわち7.1節です。

実はこの7.1節は、2.2節と2.6節と共に、「この国の政治家は、この国を本物の国家とはなし得ていない」、「この日本という国は本物の国家ではない」ということとも不可分に関係しているのです。

そして、新型コロナウイルス禍の中で、この国全体に今起っている大混乱は、「国が国家ではなかったなら、その時、国民は一体どうなるのか」ということを文字通り象徴的に表している、と私は確信を持つのです。

なお、2.6節の方は、後から読み返してみると、どうも文章が判りづらいので、今、書き直しているところです。

今回も、読者の皆さんには、この7.1節が、「持続可能な未来、こう築く」の「目次」(今年8月3日に公開済み)の中でどういう位置を占めているかご確認の上、お読み下されば幸いです。

なお、4.5節は後日、公開します。

itetsuo.hatenablog.com

 

 

 

7.1 国民に冷酷かつ狡猾なこの国の官僚はどのようにして生まれたのか——————————「その1」                     

 この国では、どうして次のようなことがしょっちゅう起こるのだろうか。

以下に羅列的に挙げる実例はそのほんの一部である。

 ◯経済大国と目されているこの国で、前代未聞の阪神淡路大震災が起こって多くの国民が被災した時に、それまで、政治家に代わって実質的に立法をして来た官僚たちは、およそ70年前の昭和22年(1947年)に制定された「災害救助法」を一部改正しただけで根本は何も改正もせずにそのままにしてきた。このこと自身、本当の公僕とは言えない姿だが、その結果、阪神淡路大震災よりもさらに大規模な3.11(東日本大震災発生時)が起こった時も、70年前の「災害救助法」で対応せざるを得なくなり、そのために、それから丸6年経ってもなお3万5000人に仮設住宅住まいを強いたままとするようなことになり、12万人余に避難生活を余儀なくさせたまま、となっていること。

こうした状態を生んだのは、実質的な立法権を閣僚らから委譲されてきた、主に国土交通省厚生労働省の官僚だ、と私には思える。

 なおこうした官僚の態度は、その後の九州北部豪雨災害でも、西日本豪雨災害でも全く同じ状況を生んだのだ。

 ◯東日本大震災直後、東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融による大爆発を起こして、自国民は何十万人と死の灰を被り、またその事故は世界中の原発保有国をして震撼させ、中には即刻原発行政を根本から見直した国もいくつもあったというのに、この国では、その事故発生原因に関するまともな調査も検証もせずに、その大事故で犠牲に遭った31万人の人々を事実上見捨てた状態のまま、国内の他の原発の再稼働を決めたこと。

 こうした状態を作り出したのは、主に経済産業省の官僚だ。

 ◯日本の教育制度、それは子どもたちに最良の環境を願う親たちの要求や知恵を結晶させて作ったものではなく、高度に官僚主義化したビジネス社会において、賃金が安くても従順に仕え、そしていつでも取っ替えることができる労働力商品としての人間を大量に生産するための制度として考え出したものであること。

 こうした状態を作ってきたのは、主に文部省と文部科学省の官僚である。

 ◯この国は、国連のILO(国際労働機関)やOECD経済協力開発機構)から、子どもの人権や女性の人権について再三注意勧告や警告を受けているのに、子どもの人権や女性の人権を積極的に擁護する法律を一向に作ろうとはしないこと。

 こうした状態を作っているのは、主に文科省厚生労働省と外務省の官僚だ。

 ◯「女性が輝く社会」とか「働き方改革」を掲げる安倍政権ではあるが、それは表向きのことであって、その真の狙いは、教育制度と同じく、人間にとっての労働の真の意味を考えた、人権尊重を土台にしたものではなく、人間を労働力を持った商品と見なした上で、女性を産業界の発展のために、いかに安くこき使うことができるようにするか、またどんなに働き過ぎて過労死してもそれが「労災」として認定されることがないようにする、ということを真の目的として立法したこと。

 こうしたことを仕組んだのは、主に経済産業省の官僚だ。

 ◯母国での弾圧や迫害から逃れて日本に来て難民申請する者に対して、「難民の地位に関する条約(1951年)」と、同じく、「議定書(1967年)」を全く無視して、難民認定申請者の抱える本国での事情をまともに調査もせずに、0.4%という、G7各国中、最低も最低で、桁が3桁も4桁も違う難民認定の仕方をしていること。

 また、それだけではなく、難民の収容の仕方も、国際条約と議定書を無視したもので、期間も理由も説明せずに「収容」するという仕方であること。それはかつての太平洋戦争前夜に成立させた悪名高き「治安維持法」以上に人権を無視した拘禁の仕方であり、定まった法律によるのではなく、「難民認定制度の運用の見直し」とそれのさらなる「見直し」に基づくだけの、恣意的な運用を入国者収容所長に放任しているだけのものであること。

 実際その収容の仕方は、日本国内で犯罪を犯した訳でもないのに次のような状態なのだ。

収容部屋は6畳で、そこには国籍も宗教も違う者が4〜5人詰め込まれる。外部者との面会時間は30分だけ。家族ですらアクリル板越しの面会で、互いに手や体を触れ合うこともできない。窓には黒いシールが貼られ、外の風景を見ることもできない。病気になって医療受診申請をしても、受診できるのは早くて3日経ってから。ひどいと一ヶ月も待たされるという始末だ。

 そこでは、放免される希望も持てず、絶望感に襲われ、自殺する者、ハンガーストライキする者等々が続出しているのだ(樫田秀樹「死に追いやられる難民申請者」、および児玉晃一「先ず、人間として迎えよ」岩波「世界」第927号)。

 人間に対してこんな扱いをしているのは、紛れもなく、戦前の「統制派官僚」の記憶を受け継ぐ法務省の官僚だ。

 ◯法務省の官僚の冷酷さや非情さを示す実例の中で、極めつけは次のものである。

死刑判決を受けて28年間獄中にあった死刑囚を、途中、一旦は無期懲役減刑し、その後、差し戻した控訴審でまたも死刑判決に戻し、それを執行する、ということをしたことだ。

 これがなぜ人間として冷酷で情け知らずかというと、死刑判決を受けて28年間も執行日に脅えて獄中で過ごしてきた当人の心中というものは、法務省官僚はそれを自分たちに置き換えて想像してみるだけで容易に察することができるはずなのに、組織を挙げて判決を二転三転させ、最後は、「国家」の名において死刑を執行したからだ(1997年8月1日 K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社p.207)。

 死刑を執行させたのは形の上では法務大臣だが、そのように持って行ったのは法務省の官僚なのだ。

 ◯国家の政府債務残高の対GDP比が、財政破綻に喘ぐ世界のどんな国と比較してもダントツに悪化していてもなお、各府省庁の官僚たちはそんなことには一向に構わずに、自分たちの組織の既得権益や組織の規模を縮小させられることを避けるために、予算を減らすどころか、むしろ何かと理由をつけては予算規模を増やし、結果として毎年の国家の予算の一般会計は過去最高を続け、政府債務残高を増やし続けていること。

 しかもそうしてますます増える借金の返済については、自分たちの代で返済する覚悟などさらさらなく、次世代や将来世代に返済してもらうことを当たり前にしていることだ。

つまり自分たちの身の安泰を考えるだけで、国の将来や、これから国を背負って立ってゆかねばならない若者や子供達にのしかかる負担の大きさなど全く眼中にないことだ。

 これをしているのは、全府省庁の官僚だし、各府省庁の官僚が出してきた予算を取りまとめる財務省の官僚だろう。

 ◯ところがその官僚らは、国の借金をそのように天井知らずに膨らませながら、これまでどおり、特に「高級」官僚は「天下り」や「渡り鳥」を続けては、格安の公務員宿舎に今までどおりに住み続けている。民間のサラリーマンに比べて、生涯賃金の面でも、退職金の面でも、年金の面でも、福利厚生の面でも、休暇の取得日数面でも、仕事への責任意識の面でも、「死ぬまで安心な老後を送れる特権」(「週刊ポスト」2017年9月22日号)の幅を膨らませているのだ。そして、国家公務員と民間サラリーマンとの老後の格差を、いつのまにか2倍以上へと広げていることである。

 こうしたことを率先してやっているのは、多分、主に総務省の官僚だ、と私には思える。

 ◯国民年金基金についても、その運用のためと称してギャンブル市場に曝し、その結果、17兆円もの損失を出してはその国民年金基金の運用を危機に陥れながら、一方の官僚を含む公務員一般が加入している共済年金基金の運用については、ギャンブル市場には曝すことなく、ガッチリと守っていることである。

 これも主に総務省の官僚の仕業と思える。

 ◯何百万人分もの国民の年金記録を消滅させても国民に公式に謝罪もしないこと。

 これは直接的には社会保険庁の官僚のやったことだが、本質的にはこれを下部組織に持つ厚生労働省の官僚の仕業であろう。

 ◯公文書である森友学園の決済文書の改竄および国会や会計検査院への虚偽報告を自分が指示しておきながら、その指示に忠実に従ったがゆえにその後罪悪感に苛まれて自殺した部下に対して、指示した当の佐川理財局長(当時)は遺族に正式に謝罪もしなければ、良心のひとカケラも見せなかったこと。

また官僚組織の上職者は、その文書改竄に関った官僚を、その後、皆、要職に就かせるという人事評価をしたこと。さらには、その問題を捜査した大阪地検特捜部の官僚は官僚で、自分たちの仲間である佐川ら38名を不起訴にするという結論を下したこと。

 これをしているのは財務省の官僚であり、彼らと同調して動く法務省の官僚であろう。

 ◯新型コロナウイルスの拡散に因って自分たちが後れに後れて作成した「緊急経済対策」(2020年4月7日)では、所得が急減した人々への援助支給額についての本人申請制度を、今すぐにも援助資金を必要としている人の立場など全く考慮もせずに、11枚もの書類を提出しなくてはならないような煩雑を極める支給手続きを決めたこと。

また、そんな煩雑な申請制度でも、やむなくそれに従って申請しても、実際に支給されたのは申請日より1ヶ月も2ヶ月も後になるような支給の仕方をしたこと。

 これは、財務省の官僚たちの仕業だろう。

 ◯そして新型コロナウイルスの感染拡大を抑えながら経済活動を維持しうるために最も有効な手段の一つと感染症の専門家の間でも考えられているPCR検査について、それを受けることを希望する人には誰もが受けられるようにして欲しいと国民の多くが切実に望んでも、「保健所を通せ」の一点張りで、今日に至ってもなお、自分たち省庁の縄張りを守りながら、既得権益の維持を国民の生命の安全以上に位置付けていること。

 これをしているのは紛れもなく厚生労働省の官僚だろう。

 ◯またこれと同様に、医療機関が、コロナウイルスに対応するのに防護服が足りない、マスクも足りないとして、至急供給して欲しいと政府に懇願しても、また、経営が逼迫しているから、緊急にもコロナ交付金を回して欲しいと願い出ても、いつまで経っても届かないこと。

 こうした事態を長引かせているのは、主に厚生労働省経済産業省財務省の官僚であろう。

 

 以上の実例は比較的最近のものであるが、しかしこうしたことは、最近に限った話ではない。

 もっと古くはこうしたこともあった。

 昭和の頃のことだ。

国体の変革を目的とする結社活動や共産主義運動を抑圧する策として、違反者には極刑主義をもって臨もうとした「治安維持法」を制定したのも政府の官僚だ。中心となったのは、内務省の官僚だ。

 米英を主要敵国とするアジア・太平洋戦争を開始する際、開戦理由も開戦に至った経緯も国民には一切説明せず、戦争状態に入ったことをいきなり国民に告げたのも政府の官僚だ。

 そして以後、国民には無条件に戦争協力を強い、国民を「一銭五厘赤紙」一枚で駆り集めては戦場へ送り出したのも政府と軍の官僚だ。

国民一般には、戦争協力に消極的な者には「非国民」と呼ばせ、戦争に異を唱える者には「国賊」と呼ばせて来たのも政府と軍の官僚だ。

 日本陸軍の上層部の官僚の自国民に対してこの上なく冷酷で非情、そして無責任であることを世界にまざまざと知らしめたのは「インパール作戦」だ。

 それは、牟田口簾也中将を始めとする日本陸軍の上層部の官僚たちが、誰がその作戦実施の最終意思決定をしたのかも判らないまま、したがって最終的な責任者も判らないまま、自国の兵士を人間とも思わずに、途中、大河あり、山あり、沼ありの470kmという長距離を、戦略も全くなく、戦場への兵站もない中、たった三週間で踏破して敵の陣地を攻略するというその無謀極まりない計画を強行し、当初9万人いた将兵のうち実に3万の兵士を、戦闘によってではなく飢えと病気によって文字通り無駄死にさせてしまうという、日本の戦史上最悪で最低の、作戦とも言えない作戦のことである。当然それは大失敗に終わった。

 ところがそんな作戦を指揮した牟田口を始め、その作戦を許した陸軍の上層部は、大本営を含めて、戦後になっても、皆、自らを正当化するばかりで、責任を取ろうとする者は皆無だった。それどころか、後に首相になった東條英機は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残さず」との「戦陣訓」を作って、兵士には、投降して捕虜になる自由も認めず、死を強制していたのである。

 そんな軍官僚だから、戦場において、上官による「教育」ないしは「指導」の名の下での、兵士に対する「殴る蹴る」の扱いは日常茶飯事だった———この風潮は、その後、つい最近まで、この国の様々な分野で、原形となって、深い影響をもたらした、と私は考えている。1つは、教育現場において、教師が生徒を「教育」ないしは「指導」の名の下で殴っても平然と見過ごされる風潮だ。1つは、家庭において父親が子どもを「躾」と称して殴ることを当たり前とする風潮だ————。

 そしてこれも、今や、成人した日本国民だったら誰もが知っていることだが、戦時に設置された国の最高統帥機構であり、当時エリート中のエリートとされた軍官僚からなる陸軍の参謀本部と海軍の軍令部とから成るいわゆる大本営は、自国民に対して、戦況について、真実を隠し、嘘ばかり伝えていたことだ。

 このように、この国では、政府の官僚と軍の官僚こそが、社会の隅々にまで、「上」の者が「下」の者を見下すことを当たり前とする風潮をつくって来たのだ。

 国民に嘘を言いながら、また国民を捨て石として利用するだけ利用しておきながら、敗戦が決定しても、国民に経過報告もしなければ謝罪もしないで済ませて来たのも政府と軍の官僚だ。

日本はただ負けたのではない。無条件に降伏したのである。にも拘わらず、それも認めようともしないのも政府と軍の官僚だ。世界が認める日本の終戦日=敗戦日は9月2日なのに、戦後70余年経ってもなお8月15日を「終戦」記念日として国民を騙し通しているのも政府の官僚だ。

 また、誰が見ても無謀きわまりないと思われる戦争を引き起こしておきながら、戦後いつまでたっても、戦争の顛末を公式に総括しようともしなければ公式の戦争記録として残そうとしないのも政府の官僚だ。

 戦場に駆り出しておきながら、戦場で死んでいった自国兵士の、少なくとも120万体以上の遺骨を未だ収拾もせず、野ざらしにしたままでいるのも政府の官僚だ。

 敗戦後は敗戦後で、今日まで、世界からも「富める国の貧しい国民」と揶揄されながらも(K.V.ウオルフレン「システム」p.16)、国民の幸せは二の次、三の次にして、国民の税金を使いながら産業界を税制上でも最も優遇してはその発展をつねに最優先にしては、その引き換えに「天下り」や「渡り鳥」による優雅な暮らしを続け、各府省庁とも、組織の維持、そして既得権の拡大に最もこだわって来たのも政府と財界の官僚なのだ。

 

 以上が、ほんの数例ではあるが、この国の政府の官僚、軍の官僚、財界の官僚の、自国民に対する対応の仕方である。

そこには、人間的な思いやりなどひとかけらもない。「自由と民主主義は人類普遍の価値だ」と首相は言うが、官僚たちにはこの国に自由と民主主義を実現しようなどといった意識は全く見られない。常に自分たちの利益が最優先なのだ。それが日本の国の公務員=「公僕」とされる官僚の実相なのだ。

 

 ではこの国の官僚は、自国民に対してどうしてこのように冷酷かつ非情になったのであろう。そして、それはいつ頃からなのであろう。またどういう経緯を経てそうなったのか。 

 その第1の問いの私の答えは、一言で言えば、直接的には国民に対する「恐怖心」であり、その恐怖心を国民には悟られまいとしたためであろう、ということである。つまり恐怖心の裏返しなのだ、と思う。

第2の問いの答えは、幕末から明治初期に掛けて誕生した薩摩藩長州藩の下級藩士からなる薩長政権からであろうと思う。具体的には、西郷隆盛大久保利通木戸孝允桂小五郎)、伊藤博文井上馨山県有朋森有礼そして下級公家だった岩倉具視等によって成る政権からであろう。

 では第3の問いである、何を契機にそうした恐怖心を国民に対して抱くようになったのか。

それは、最も重要な問いだ。そしてその答えは、一言で言えば、日本国の改革を断行していた彼らに、いつもつきまとっていた不安だ、となる。

“自分たちに国を造り換えるだけの権利が本当にあるのか”、というそれだ(K.V.ウオルフレン)。

 それは、幕末、開国を迫る列強の使者たちが日本を訪れるたびにもたらした列強の文物に触れたり、欧米列強への大規模長期視察をして民主主義や民主主義議会政治の行われ方をつぶさに見たりして来た薩長政権の寡頭政治家らは、政府というものは国民から支持され合意されてこそ政府として成り立ちうる、ということを知ってしまったからだ、と思われる。

 ところが、明治政府の実際は、「大政奉還」により政治権力が徳川幕府から朝廷に返還されるはずだったところ、それでは薩長の下級武士達としては、これまでの自分たちの倒幕の苦労は無意味になるとして、その政治権力を武力をもって横取りして(戊辰戦争)、成り立たせた政府に過ぎなかった。そのことを、すなわち自分たちの打ち立てた政権には正統性がないということを、上記寡頭政治家らは十分に判っていたからだ。当時の庶民も、明治政府を、「勝てば官軍さ」、皮肉を込めて見ていた。それは、横車を押してでも、勝ってしまえば、世の中の人々には文句を言わせない存在になるのだ、という揶揄を込めた言い方だった。

 だから政府は不安だった。その「正統性がない」ということに国民がいつか気づくのではないか、と。

 それだけに彼らは、自分たちの政権の安定を図るために、何とかして、国民の前で、自分たちの政権は正統な政権であるというふりをする必要があった。

 実際、政権発足後数年して、板垣退助らは、「市民」的蜂起として、民選議院の設立へと動き始め、反政府運動を展開し始めたのだ。「自由」や「民主主義」に目覚める民衆による一連の「自由民権運動」の中でも「秩父困民党事件」が特に有名である。だが、それらのどれをも、薩長政権の後継官僚は、過酷なまでの弾圧をして鎮圧してきた。

 そんな中で寡頭政治家たちの後継官僚たちが政権を正統化するために思いついたのが、「天皇を、以前より目に見える形の公式の権力者として復帰させ、その天皇に、『天皇の意志』はこうあるべきだとそっと耳打ちする」という方法だった(K.V.ウオルフレン「人間を幸福にしない日本というシステム」毎日新聞社 p.336)。つまり天皇を巧妙かつ狡猾に利用し、その裏で、自分たち官僚が実権を握る、という方法だ。

 だから官僚たちは、国民の前では、自分たちを、天皇に忠実に仕えるシモベであるということにした。そこには、官僚は天皇の意志を体現する役柄という意味をも込めていた———庶民が、役人のことを「お上」と呼ぶようになったのはそのときからだったのではないか、と私は推測する————。

 こうなれば、役人らは、“自分たちのすることはすべて天皇の意志に基づき、天皇の御名において行われるのだから、不正や間違いなどあるはずがない”、という態度になる(K.V.ウオルフレン「なぜ日本人は日本を愛せないのか」毎日新聞社 p.240)。

 彼らはさらに、自分たちの政治権力をより強固にするためにより巧妙な策をも思いついた。よく知られた、あの、国民に対しては「知らしむべからず、依らしむべし」という秘策である。ここで言う庶民をして「依らしむ」べき相手とは、もちろん天皇である。あるいは天皇の意思を体現する役柄を負った官僚である。

 実はこの秘策は、1825年、当時水戸藩国学者であった会沢正志斎が「新論」を著して次のように説いたことに拠るのである。

 「一般庶民には国家のルールが厳然と存在することを認めさせ、そうしたルールが彼等にとってよいものであることを理解させよ。だが、そうしたルールがいかなる内容のものであるかは彼等に知らせるべきではない」(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないのか」p.85)。

 新論なる書物、それは、明治の後々の権力保持者たちに、徳川幕府には民を愚かに保つことでその民の力を抑える伝統があったことを思い出させるための書物だった。

 自分たち統治者・支配者の立場を安泰にさせようと思ったなら、とにかく国民には、物事、とくに政(まつりごと)や自国の歴史の真実を知らせるな。そして国民同士で団結しないようにし、むしろ国民には「お上」を頼るようにしろ、というわけである————そして、ここから、国民には、さらに、「政治には無関心でいるのがいい」という策が、やはり官僚から生まれてきたのである————。

 この秘策がその後、今日に至ってもなお、この国の官僚主導政治の中で巧妙に活用され、国民の知る権利の実現を含む民主政治の実現をどれほど阻んで来たか、それは今さら言うまでもないであろう。

 なおこのことは、国民に対しては、自分たち役人のすることは神である天皇の意思に基づくものなのだから間違っているはずはないし、したがって一旦始めたことを途中でやめたり変更したりすることなどもあり得ない。だから、自分たち役人のすることに反抗したり批判することは絶対に許さないという姿勢を示していることでもあった————そしてこの姿勢や態度は、その後、今日まで、公共事業であれ、国の政策においてであれ、官僚たちの間で「組織の記憶」として、脈々と受け継がれてきているのだ。————

 

 ともかくも、こうして官僚は、「天皇の官吏」となり、国民をおさえつける仕方、つまり権力の行使の仕方を知り———もちろんそれは定まった法に基づく仕方ではない———、いかなる時にも罰せられないしくみを編み出したのである。その上、その後、軍官僚によって、天皇には「統帥権」と「統治権」からなる「大権」があり、それは議会といえども、また政府といえども、一切口出しのできない絶対権力とされたのだ。

天皇制」という、結局はこの国を滅ぼすことになる統治体制も、こうした流れの中で、天皇に忠実に仕えるシモベとしての官僚によって創り出されていったのである。

 官僚らはさらに、自分たちの地位をより安泰にするために、天皇を神格化することをも画策した。

そのために打ち出した政策が、「日本は、慈悲深い天皇を家長に仰ぐ大家族主義の国家だ」、それも、当時のアイヌ、ウイルタ、ニブヒ、沖縄、小笠原の人々、そして帰化人である「元」朝鮮・韓国人であった人々の存在をも無視して「単一民族の国だ」とするものだった。

実際そのことから始まる「一民族・一言語・一文化」というウソで固められた政策により、こうした人々がその後、つい最近になるまで、どれほど長い間虐げられることになったかは、既に私たちの知るところである(網野善彦「『日本』とは何か」 講談社学術文庫 p.320)。

 しかし、「単一民族の国だ」どころか、正確に言うのなら、元々、この国には、「日本国籍所有者という意味以外では、日本人なんてものは、ない」、すなわち日本人などという民族はいないというのが真実なのだ(森巣「無境界家族」集英社p.212)。

 余談だが、この国の中央政府の文部省と文科省が「検定」という憲法違反(日本国憲法第21条第2項)をしてまで、とくに日本史については細かく教科書をチェックしては行なっている歴史教育と、「検定」不要なお手盛りの道徳教科書によって行なっている道徳教育においては、今なお母国の歴史の真実を教えず、また国民一人ひとりの個性を育て多様性を尊重するという世界ではとうに当たり前となっている道徳教育もせずに、もっぱら画一教育を続けることに固執し続けているという背景には、実はこうした歴史的事実が厳然としてあるのである(第10章)。

 この国の実質的統治者が、つねに正統性と正当性に不安を持ち続けたのには、彼らにしてみれば、多様な民族によって構成され、多様な生き方をする国民の社会よりも、単一民族の社会、画一の生き方をする国民の社会としておいた方がずっと統治しやすいし、統治しやすいからだ。それにその方が、彼らの地位も安泰である、というわけだ。

 こうした一連のウソを国民に真実らしく思わせるために、さらにでっち上げた話こそが、実は今日、私たち「日本国民」としての意識をあらゆる面で漠然としたものにさせてしまう、あるいは明確なアイデンティティを持ち得なくさせてしまう契機となった「日本の建国神話」であった。

それは、かつて幾内において建国したとされる初代天皇の統治の時代にこの国を戻さねばならないとする「王政復古」という考え方や、そのために自分たちは徳川政権より権力を武力で奪ったのだ、とする薩長政権の考え方と軌を一にしていたである。

 その建国神話とは、出雲国風土記(733年)に伝わる神話を結合吸収しながら、しかしそれを改竄し、古事記(712年)と日本書紀(720年)に伝わる神話の方を圧倒的優位に置いた話のことである。在位76年、127歳で没したとされ、実際にはどのような政治を行ったかも判らない神武天皇を建国の祖とし、以来、「諸事、神武創業の始め」にもとづく、とするものである(岡本雅享「建国神話と日本の民族意識週刊金曜日2015年2月6日号)。

 実際、このような欺瞞に満ちた統治策は世界中どこの国の歴史を見ても、多分例がないだろう。

 

 なお、ここで、私は、次のことをも思い出すのである。

それは、この国の政府が2013年12月に成立させた「特定秘密保護法」、そして2017年6月に政権党が中心となって強行可決した、共謀罪の趣旨を含んだ「改正組織犯罪処罰法」、通称「テロ等準備罪」法についてである。

 前者の法は、そもそも「何が秘密なのか」ということ自体も秘密にし、曖昧なままにし、その上「何が特定」なのかも秘密あるいは曖昧なままにした法律である。それは文字どおり「会沢正志斎」の授けた教えのとおりだ。秘密かどうかの判断、そして何を特定とするかの判断はすべて省庁の官僚の自由裁量に委ねられている。したがって、政府(官僚)が「これは秘密事項だ」「国家機密だ」ということにすれば、あるいはそう宣言すれば、その瞬間に議論もできないように封じ込めることことができ、しかもその秘密を漏らした者への罰則が伴うために、情報源をも萎縮させてしまう代物の法律だ。

 後者の法も同様で、この法律を成立させる重要な用語の定義と適用条件が曖昧なままなのだ。たとえば、「組織的犯罪集団」の定義も、取り締まりの条件とする「準備行為」の定義も、である。しかもこれらいずれも判断するのは官僚から成る捜査当局なのだ。

 実は、こうした定義や適用条件を曖昧なままにして、しかも、犯罪を実際に実行に移した段階ではなく、準備行為をしたと判断された、あるいは推測されただけでこの法が成立してしまうという、まさに過去のあの暗黒時代の「治安維持法」と同様の法律を国会の政治家が成立させてしまった事実それだけをとって見ても、この国の総理大臣を含む政権政党の政治家たちがいかに現行日本国憲法第19条【思想及び良心の自由】を理解できていないかということと法の概念に対して無知であるか、そして官僚を指揮しコントロールする自信がないか、ということ、一方の官僚たちも、国民統治に対していかに自信がないか、等々の現れだと言ってよい。

 

 K.V.ウオルフレン氏は、こうした日本の状況に対して次のように言う。

 「人々に対するこの(官僚の抱く)恐怖心と、その結果としての人々へのあしざまな扱いこそが、多分、今日の日本につながった深刻な筋立ての核心部分であろう。それが、日本の政治的欠陥の根本にある。」(K.V.ウオルフレン「システム」p.335〜337)。

 

 ざっと、以上が、今日にまで続く、この国の官僚がどうして冷酷非情、そして狡猾になり、またその延長上で、傲慢にもなってきた理由ではないか、と私には思われるものである。

 ところで、官僚たちがどうして自国民に対して冷酷になり、また狡猾になるのか、その理由はおおよそは判ったが、では、その官僚たちは、自分たちが組織を守り、組織として実現させようと決めた野心を貫徹させるために、国民の前にとってきた常套手段としての手口とはどんなものなのであろう。

 最後にそれについても考察してみる。

ただし、以下は、本節同名のタイトルの下での「その2」に譲りたいと思います。