LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

4.5 人間にとっての「豊かさ」感についての仮説

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国連のIPCC気候変動に関する政府間パネル)、その他の科学者集団によると、地球温暖化が加速し、生物多様性の消滅も加速度的に進んでいる今、人類が存続をかけて対策の手を打てるために残された時間はもうほとんどない、とされています。

そんな中で、持続可能な未来に向けて、私たち日本国民の全てが、世界の人々と共に、それぞれが希望と展望の持てる新しい国づくりに挑戦しようとするとき、失敗したり手戻りしたりすることなどはもちろんなく、最も効率の良い、そして確かな道を歩んで行けるようになるためには、私たちは、少なくとも、本節で取り上げるような問題をも、きちんと、それも事前に考えておかなくてはならないと考えるのです。

本節で考察するのは、産業革命以降、世界の大多数の人々を、強迫観念のように虜にしてきた価値観としての「豊かさ」感についてです。

そしてここでの考察内容も、私のオリジナルです。

 

 

4.5 人間にとっての「豊かさ」感についての仮説

特に産業革命以降、人は経済を発展させればさせるほど豊かになれると信じて、その豊かさを求めて、文明を発展させてきた。その先頭を走ってきた国々がいわゆる先進国と呼ばれる様になった。そして比較的最近その先進国に近づいてきた国々は新興国と呼ばれる様になった。一方、先進国のようになることを目指して、その新興国の後を追いかけている国々は(発展)途上国と呼ばれている。

 

しかし、ここでまず問題としなくてはならないことがある。それは、先進国と呼ばれている国ほど、つまり経済を発展させればさせるほど、第1章で考察してきてわかったように、その社会では貧富の格差も並行して確実に増大しているし、それだけにその社会では人々相互の関係にも分断が進み、個々の人間についてカール・マルクスが言う「疎外」と呼ばれる現象が同時進行しているように見えるのである。疎外とは、「人間が自己の作り出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況」を言う。それは、哲学者真下先生に言わせれば、次の3つの現象から成るとする真下信一「学問・思想・人間」青木文庫p.35)

1つは、人間個々人の断片化あるいは一面化、さらには「かたわ」化と言ってもいい現象。つまり人間としての統一的、全体的な視野を失ってしまう現象。1つは孤立化、すなわち人間たちのバラバラ化、別の言い方をすると人間的な連帯性の分断。そしてもう1つは、人間としての浅薄化とも呼んでいいであろう内面的空洞化、過疎化、あるいは底が浅くなった状態である。 

その結果、先進国と呼ばれる国になればなるほど、そこの人々は、概して、安定的な平和、安らかな社会、人々が互いに他者を思う優しい社会を実現し維持することがますます困難になってしまっているのではないか、ということである。

言い換えれば、先進国と呼ばれる国になればなるほど、社会の混迷状態をますます深めてしまい、社会の諸矛盾をいっそう露呈させるようになってきて、“これが自分たちの望んだ社会のありようなのか”と誰もが思い感じるようになっているのではないか。

実際、先進国になればなるほど、人々の間の格差の拡大が果てしなく続く中で、核家族化も進み、詐欺、窃盗、殺人、暴力、テロ、自殺、イジメ、鬱症状、肥満、引きこもりという現象が増大している。

それに対して、途上国では、物やお金はなくとも、人々は、おしなべて心はやさしく、思いやりがあり、穏やかで、互いに助け合い、家族を大切にし、自然を大切にしているように見える。そしてそのことは、人々一人ひとりの表情にも現れている。とくに子どもたちの瞳の輝きや笑顔は、物に溢れて満ち足りた先進国の子どもたちにはもはや見られないものだ。

 

では、近代が既に終焉を見たと私には考えられる今、振り返って、言葉として一般化した「豊かさ」ではあったが、その言葉の概念に私たちが意味を持たせて来たものとは一体何であり、どんな豊かさだったのだろうか。

その答えを求めて私は本書の7.4節で具体的に考察するが、そこで得た結論から言えばこうなるのである。

その「豊かさ」とは、私たち人間をして、本来備わっていたはずの「人間」としての特性の数々を失わせるか劣化させるか退化させてしまうしかない質の豊かさだった。

具体的には、忍耐力あるいは持久力を失わせ、想像力を失わせ、他者への共感力を失わせ、肉体的にも精神的にも虚弱にさせ、利己的で自己中心的にさせてしまい、その結果、一人ひとりを孤立化させ、孤独にさせてしまうしかない質の豊かさだった。それだけではない。人々が互いの「生命と自由と財産」を安全に守ろうとして集住し築いてきた共同体としての社会をも瓦解させかねない事態を生んでしまう質の豊かさであり、私たちが動物のヒトとして生きることをずっと可能とさせてきてくれた自然の環境を自ら汚染し、また破壊してもしまう質の豊かさだった。

さらには、私たちの先人たちが築き上げ洗練させて来た、人間相互の関係をより円滑に維持するための智慧として人々の生活の中に根付かせてきた文化をも次々と衰退させ、あるいは消滅させてしまう質の豊かさだった。

したがって、その豊かさとは、私たちをして、人間として豊かにさせてくれる性質のものであるどころか、かえって、私たちの人間性を衰えさせることになるだけのもの、私たちと私たちに続く子々孫々が生きて行くことを不可能とさせてしまう質のものであった、ということだ。

そしてこのことは人類史あるいは人類の歩みから見れば、「一体何のための豊かさだったのか」という意味で、あるいは「一体、どうしてこんなたちの豊かさを私たちは追い求めてきてしまったのか」という意味で、決定的な矛盾であり、また悲劇でもあるのだ。

が、しかし、これこそが近代の私たち人間が一途に追い求めてきた「豊かさ」の正体だったのだ。

 

では、なぜ、こうした結果になってしまったのか。人類はなぜこうした結果を招いてしまったのだろうか。

私は、それについては、決して結果論から言うのではないが、こうした結果になるのはむしろ必然だった、成るべくして成ったこと、と言えると考える。

そう考える根拠は主にデカルトにある、と私は考える。

近代合理主義は、ガリレオデカルト、ベーコンを経て確立されたとされているが、その中で、ものの見方や考え方において後世にもっとも大きな影響を与えたのはデカルトだった第1章

その彼の世界観の中には、宗教的なものはもちろん、精神的なもの、感覚的なものは省かれていた。それは彼が教会の権力を恐れたがゆえだった。彼は、自分に先立つジョルダノ・ブルーノが宗教裁判にかけられ、自説を撤回しなかったために火あぶりの刑に処せられことを知り恐怖した。また、ガリレオが教会権力の前に自説を撤回してしまうのも見たのである。そのため彼は、神には触れないように自分の世界観と理論を組み立てた。それは、「個」である自分を中心にして、あくまでも見える世界について、そして量的に測れる世界についての理論であった。

その詳細は第1章を見ていただくとして、彼は物事の認識方法として要素主義と呼ばれるものを示して見せた。

ところがその要素主義は、少なくとも次の二つの大きな欠陥を内に含んでいた。

第一は、彼がキリスト教会の権力を恐怖した経緯から判るように、人間の精神面のように、人間の眼には見えないもの、数えられないもの、計量できないものを彼は最初から認識の対象から除外してしまっていた、ということからくる欠陥である。

しかし、現実の自然や世界というものは、今日の時代に生きる私たちは、すでに人間の眼に見える物と見えないものとからその全体が成っていることを知っている。むしろその眼に見えるものは、その眼に見えるものよりも圧倒的に多くを占める見えないものに拠って支えられていることをも知っている。ところが、その見えないものを認識すべき対象から最初から除外してしまっていたということは、自然や世界を成り立たせているものの半分以下の部分しか見ようとはしてこなかった、言い換えれば自然と社会と人間のあり方の全体のうちの半分以上の面を、最初からあえて見ようとはしてこなかった、ということになるからだ。

欠陥の第二は、さらに3つの理由から成っている。これについても、第1章を見ていただきたい。そしてこの欠陥がその後の世界に、とくに科学の世界や、自然や社会や個々の人間を統治する役割を負う政府・役所の世界にもたらした影響には計り知れないものがある、と私は考える。

つまり、もともと連続して一つの統一体を形成していた自然と社会と人間を互いに切り離し、切り離してはそのそれぞれの中を細分化してしまい、その細分化した部分それのみを他から切り離して観察あるいは統治して来ただけだからである。そこには細分化した部分から得た知識や知見を綜合するという考え方も視点もなかった。

そして、その無数に細分化された各部分を研究する者が「科学者」あるいは「専門家」と呼ばれ、何か特別な知識を持ち、特別なものの見方や特別な知識を提供してくれる人として重用されて来たのである。もちろんその彼らは、自然を、社会を、人間を綜合するという視点を持たなかった。

こうなるのは、元を辿れば、デカルトの要素主義に支配されて来た結果だった、と私は推測するのである。

もしこの推測が正しいとすれば、私たち人類は、既述の決定的な矛盾を克服するためにも、ここから次のことを自然界の真理として謙虚にかつ誠実に受け入れなくてはならないのではないか、と私は考えるのである。

なお、それは、後述の7.4節の結果を受けたものでもあるため、そちらをもご覧いただきたいのである。

それは、便利さも快適さもどちらも、それが実現されると、その時は、その人には“豊かな”気分、“満ち足りた”気分をもたらしてくれはするが、実はそうした自分だけの気分を求めようとする人が増えれば増えるほど、そしてその物が、それを手にした人々にもたらす「便利さ」感や「快適さ」感が大きければ大きいほど、その物は作られる過程で他の何かを犠牲にしてきているものだけに、犠牲にさせられたその何かは、犠牲にさせられた分、否、その分の何百倍、何千倍、何万倍もの代償、あるいはそれでも償いきれないほどの代償を、いつか、必ず、その人に求めてくる。その時、もしその人がその代償を支払いきれなければ、その物は、償われなかった分を後世の世代や他生物にツケとして回すことになる、ということである(7.4節を参照)

このことは実際、私たちはよく目にする。

たとえば、自然界や社会の中に生かされている私たちは、たとえ法律条文のように明文化された規約はなくとも、自然の中での役割や社会の中でそれぞれがそれぞれの責任や義務を負っているが———たとえばゴミを捨てるな、社会の秩序を乱すな、他者のものを盗むな、人を騙すな、というのもその一つ————そのとき、特定のある人が、負っている自分の責任や義務を果たさなかったなら、果たさなかった分のツケは、集団内の他のある者や周辺の自然界に必ずしわ寄せとなって降り掛かかってくる、というのがそれである。

あるいは、自然界や社会の中に生かされている私たちは、たとえその社会が資本主義の経済社会であろうとも、商品を作るメーカーが極力コストを削って、より多く儲けようとして商品を安くつくろうとすればするほど、その行為は、周囲により大きなツケとなって降り掛かってゆく、というのもその一例だ。

たとえば作る商品が食品である場合、それを買う消費者は安くて一見助かったような気分になるかも知れないが、長い目で見れば、健康を害する可能性は高くなる。それだけではない。消費者から排泄された物も自然により大きな負荷をかけることになり、土壌を汚染し、河川を汚染し、またその中の生物の棲息可能性を奪うことにもなりかねない。また、より安い物を買って消費者が病気がちになれば、それだけ国民医療費を増大させることにもなる。それは結局、当初、極力コストを削って、より多く儲けようとして商品を安くつくった者に、負担増という形で跳ね返ってくるのである。・・・・。

なぜこうなるかというと、そうならねば、人と社会と自然、すなわち個人としての人間とその集合体である社会とその社会を取り囲む自然という三つどもえの複合体と、さらにはそれを大きく取り囲む全宇宙は、科学で言う法則、つまり大いなる自然界の摂理や秩序というものを維持し得なくなるからであろうと、考えられるのである。

しかし、社会の中で犯される秩序撹乱の度合いや、自然の中でもたらされる負荷の大きさがある程度の範囲内であれば、社会も自然も、自己治癒や自己修復ができる。それはちょうど、人の体を例にとって見たとき、何らかの原因によって体の一部分に不具合が生じたとき、体そのものがその不具合を直して元通りにしようとする自然治癒力を働かせることに似ている。あるいは、それはちょうど、静寂の池に一石を投じたなら、それによって生じた乱れあるいは歪みが波となって現れ、それが同心円状に池全域に広がり、境界に達するとそこで反射して戻って来ては一石によって生じた乱れあるいは歪みを修復し、そしてそれが繰り返されてやがては元どおりの静寂な姿が復元される、という現象に似ている。

実際、人と社会と自然と宇宙とは一体を成し、連続した複合体であり統一体を成していることについては《エントロピー発生の原理》が明らかにしている。人が発生するエントロピーの捨て場は社会が引き受ける。社会が発生するエントロピーの捨て場は地球上の自然が引き受ける。その地球上で発生するエントロピーの捨て場は最終的に宇宙が引き受けるというように、それらは互いに連続した関係を維持して成り立っているからである。それはすでに第4章で見て来たとおりである。

 

以上のことから、近代が求めてきた「豊かさ」とは、既述のとおり、人間にとっては実は幻想でしかなかったとなるのであるが、そこでその結論に基づき、最後の考察課題として、次の問いを発してみようと思う。

それは、果たして洋の東西を超え、そしてポスト近代にも通用しうる「人間」一般にとっての「豊かさ」という概念はありうるのか、ありうるとすればそれはどのように定義できるのか、そしてその豊かさの概念は時代とともに変わりうるものなのか、それとも不変なものなのか、という問いである。

その場合、これまでの文脈から既に判るように、人間一般にとっての豊かさを定義できるとするならば、それはもはや、デカルトの世界観や認識方法論を超え、近代の価値観を超えた中に見出せるものとなるはずであるということである。同時にそこでは、物質的満足度だけではなく精神的満足度をも同時に考慮しなくては意味がないということになり、それも、その両者を足し合わせた結果において吟味しなくては意味がないということになる。

では、足し合わせたその和とは時代によって変化するものなのだろうか、それとも一定と見なすことができるものなのだろうか。

それについて私なりの結論を先に言えば、その和は時代を超えて一定である、となる。

もちろんそれは、あくまでも私の仮説である。

それを数式で表わせば次のようになる。

〈物質的豊かさ〉+〈精神的豊かさ〉=一定

つまりこれは、物理学の分野などに現れる、いわゆる「保存則」が成り立つとしていることに他ならない。

物理学の分野では《エネルギー保存則》や《質量保存則》がよく知られている。

例えば、《エネルギー保存則》とは、摩擦がないという条件の下では、位置エネルギーと運動エネルギーの和は一定である、とするものである。


今、こうした関係が成り立つと考える背景には2つの仮定がある。

1つは、肉体と精神は不可分の関係にあり、肉体の状態と精神の状態は互いに連動し、作用を及ぼし合うという仮定。

2つ目は、もともと生物としてのヒトは社会という集団の中で、すなわち人の間で、初めて「人間」になる。また、その人間は社会の中でしか生きられないし、その社会の中でしか人間性は磨かれないし、発揮もできないという真理からくる仮定である。

つまり、その真理の上に立ってなお上式が保存則として成り立つということは、個々人の人間性を磨いたり発揮したりすることを阻んできたのは、実は、人間が生み出してきた生産物であり諸制度が人間を疎外してきたからだ、ということが暗黙のうちに前提となっているのである。

 

ではここで、上式の右辺の一定値とはどういう値になるのか。

それについては、そもそも「豊かさ」とはどのような単位で表されるのか、それすら今のところ曖昧どころか判らないままだから判らないが、少なくともその値は、左辺のいずれか一つの項をゼロとしてみれば判るように、その時の残りの項の持つ値である。

そこでこの式を人類史を例に当てはめてみると、次のように言えそうであることが判る。

人類誕生の頃、すなわち今からおよそ500万年前、人間がアフリカの森の樹上生活を止めて草原に降り立ち始めた頃は、今の時代と比べてみれば、人々の間には経済という概念もなければ損得という概念もなく、他者と比較しうるような物質的な面だけから見た豊かさは実質的にゼロに等しかった、と見ることはできるのである。

とすれば、右辺の一定値とは、500万年前の人類が平均的に持っていたであろう〈精神的豊かさ〉のこと、と見ることができる。

多分それは、次のような生き方・暮らし方からくるものであり、またそうしたあり方に裏付けられたものだったのではないか。

————いつでも、みんなで協力しあって獲物を捕らえ、捕らえた獲物はみんなで等しく分け合って食べ、みんなで協力しあって住処を作り、みんなで協力しあって身に付ける物をこしらえては、みんなで協力しあって自分たちの住んでいる場所の安全を守る。そしてそれらを行うことにつけては、誰彼分け隔てなく、いつでも、支え合い、助け合う。そして嬉しいことがあった時にも悲しいことがあった時にも辛いことがあった時にも、みんなで共感し合う————という。

そしてそれは、言ってみれば、純真無垢で、汚れなき〈精神的豊かさ〉とでも表現しうるものだった、となるのではないか。

そこで先の式を次のように書き換える。

〈物質的豊かさ〉+〈精神的豊かさ〉=〈物質的豊かさ〉+〈精神的豊かさ〉

ここに、添字の1と2は、それぞれ1という時代、2という時代と読んでもいいし、同じ時代でも、1という人間、2という人間の場合、と読むこともできる。あるいは両辺は同じ人間について、1という境遇の時と2という境遇の時、と読み替えてもいい。

そこで、上式において、添字1が過去のある時代の人間について、添字2が現代の人間について表わしているとすれば、既述の考え方に基づいて、明らかに

〈物質的豊かさ〉 < 〈物質的豊かさ〉

であるから、

〈精神的豊かさ〉 > 〈精神的豊かさ〉

となる。

つまり、このことから、大雑把には、現代に生きる私たち人間の方が、添字1で表わされる時代の人々よりも「精神的」には貧しくなっている、と言えるであろう、ということになる。

そしてまたこのことから、金銭も含めて、物質的に、あるいはそれらが量的に豊富になればなるほど、時代も、人も、精神面あるいは心の面では貧しくなる、ということも言えるであろう、ということになる。

これを言い換えると、目に見えて、数えられて、計量できるものを持つことに拘り、そして実際それを持てば持つほどに、目には見えない、数えることも計量することもできない、しかし確実に存在していて、「人間」にとって不可欠で大切なもの、人間を実質的にそして土台から生かしてくれているものを失って行ってしまうということが、普遍的に、すなわち時代を超えて言えそうだ、ということにもなる。

 

次の言葉は、今は亡き写真家星野道夫氏の言葉である。

 

アラスカのめぐる季節。そしてその半分を占める、冬。だが、この冬があるからこそ、かすかな春の訪れに感謝し、あふれるような夏の光をしっかり受け止め、つかのまの美しい秋を惜しむことができる。

 

 

今を生きる私たちがこれを読んで多くの人が感動するのは、そこに、現代では誠に得難い、純真無垢で、汚れなき〈精神の豊かさ〉を見、また感じるからなのではないだろうか。