LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.4 便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの————————その1

 

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今回に先立って4.5節では、「人間にとっての豊かさ感」について、私の考えを述べてきました。そこでは、経済が発展すればするほど、そして金銭も含めて、物質的に、あるいはそれらが量的に豊富になればなるほど、時代も、人も、精神面あるいはこころの面では貧しくなる、ということを仮説として結論としてきました。あるいは経済が発展すればするほど、人は、目に見えて、数えられて、計量できる物を持つことに拘り、目に見えないもの、数えることも計量することもできない、しかし確実に存在していて、「人間」を土台から生かしてくれているものを失って行ってしまう、と仮説として結論づけてきました。

今回は、果たしてこの仮説としての結論が、正しいかどうか、本当にそう言えるかどうかを、この節にて検証してみようと思います。

なお、ここでのことも、私たち日本国民が、主権者として、真の意味で持続可能な本物の国家を創建しようとするとき、予め確認しておかねばならないことではないか、と私は考えるのです(2020年8月3日公開済みの、拙著タイトル「持続可能な未来、こう築く」の目次をご覧下さい)。

 

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7.4 便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの————————その1

私たち日本人の大多数は、否、今日を生きる世界の大方の国の大方の人々は、これまで、学校で、より良く、より高い教育を受けるのは、社会に出たとき、より多くの収入を得られる仕事に就けるようになるためであり、より多くの収入を得る目的は、それをもって自分や家族の生活を支えられるようになるだけではなく、さらには自分の生をより充実させ、生活の質をより豊かなものにすることができるようになるため、と当たり前のように、つまり少しの疑問にも思わずに、考えて来た。

では、そのように教育を受け、職に就き、働いて、お金を得ることを通じて豊かな生活の実現を求めて来た私たちは、本当に心から実感できる豊かさ、「本当の豊かさ」と言えるものを手に入れられたのだろうか。

私ははっきりと「ノー!」と言いたい。

もっともここで私が言う「本当の豊かさ」とは一体どのような豊かさで、どのような状態、何についての状態を言うのかとなると、その捉え方には個人差もあるだろうし、その定義は今持って公式にはなされてはいない。しかし、少なくともそれは、自分がかねがね欲しいと思っていた物やお金が手に入ったときの心の状態とか、生活をより便利にし快適にしてくれる物の種類や数がよりたくさん手に入った時に感じられる状態のことではないのではないか。そのような物を取得した時に感じる心の状態というのはいずれも、その時だけの、はかない心の有り様でしかないだろうからだ。

たとえば、どんなにお金を持っていても、一度健康を害したり、不治の病にかかったりしたなら、そのお金は治療には役立っても、それまでの豊かさ感はたちまちにして崩れてしまうだろうからだ。場合によっては、その後長く、不自由な人生を孤独のうちに生きなくてはならなくなるかもしれない。

またどんなにお金や物を持っていても、自然大災害に遭えば、あるいは不慮の事故や事件に巻き込まれれば、その豊かさが我が身の命を救ってくれる訳ではないからだ。

そこで、ここではさしあたって、「本当の豊かさ」とは、私なりに次のように定義しておこうと思う。

「本当の豊かさ」=自分の心にしみじみとした満足感をもたらしてくれると同時に、

自分を人間的に成長させてもくれたと実感できる状態のこと

 

では、その本当の豊かさとはどういうものであろう。何がどのようになったらそうした本当の豊かさを感じられるようになるのだろう。

私は、その本当の豊かさとは、少なくとも、自分が孤立した状態の中で感じられるものではなく、つねに自分と他者との関係、自分と社会、あるいは自分と自然との関係のあり方の中で感じられるものであろうと思う。そうでなくては、自分が人間的に成長し得たかどうかは自分には感じ得ないだろうからだ。

そして、本当の豊かさとは、社会そのものが、その社会を構成する一人ひとりが、「人間」として成長してゆけるような制度や法律が、あるいは社会資本がきちんと整備されている中で感じられるものでもあろう、とも思う。

 

では、人間として成長するとはどういうことだろうか。

私はそれを判断する際のヒントは、日本語において、「人の間」と書いて人間(ニンゲン)と読ませるその言葉そのものにあると考える。それは、「人」と「間」という二文字から構成されながらも、それらが合わさってその意味を的確に示唆している実に見事な言葉だと私は思うからである。

 この「人間」という言葉が表しているのは、人は誰も決して一人で生きているのではない、大勢の人、それも互いに皆、生い立ちも、性格やものの考え方や価値観も、肌の色も、言葉も、宗教も、文化も違う人たち、つまり多様な人々の集合の中で生きているということである。そしてその人たちは皆、そこで共に住み、共に働いているということである。だからその集合体は人々の共同体と呼ばれるのである。また、その共同体のことを私たちは社会とも呼ぶのである。

このことを前提とすれば、「人間として成長する」とは、既述して来たように(4.3節)、人間誰にとっても最高の価値と考えられる「幸せ」、それも自分だけではなく他者も含めての幸せの実現のために、自分がどれだけ役立つ人間になれるかを常に考えながら行動できるようになることであり、また、複数の選択肢のある中で、そのために何を選択すべきかを常に考えられるようになることなのではないか、と私は思うのである。

しかし私は、既述して来た三種の指導原理、特に「新・人類普遍の原理」を念頭におくとき、ポスト近代=環境時代においては、「人間として成長する」だけでは不十分であり、「人間としてさらに成長する」ことが時代から求められているのではないか、と思うのである。

それは、人間に対してだけではなく、自然界における他生物に対しても、それも、自分の目に見えるものや数えられる物にだけではなく、見えないもの、見えにくいもの、数えられないものに対しても、そこの場に生きる多様な他者の存在を自分と同等の存在として捉えられるようになること。「彼らも、自分と同じく、必死で生きているんだ」、「共に生きているんだ」、「共に生きる権利と価値があるのだ」と、共存の気持ちで認められるようになること。というよりもむしろ自分は彼らによって生かされているのだ、彼らがいて自分は生きられているのだ、と感じ取れるようになること、等々を言うのではないだろうか。

 

こうして考えてみると、本当の豊かさとは、言うまでもなく「自分さえよければいい」とか、「誰にも先んじて我先に叶えばいい」という自己中心的充足感に基づく豊かさとは対極をなす豊かさであることがはっきりする。

私は第1章では、既に「近代」という時代は終ったと見ると記して来たが、実はその近代という時代を貫いて人々を虜にして来た価値観が「豊かさ」あるいは「豊かになること」であったのではないか、と考える。そして、その豊かさ観を支えるもう1つ下の価値観の1つが「便利さ」であり「快適さ」であった、と見ることができるように思う。

もちろんそこでの「豊かさ」あるいは「豊かになること」の意味は、先に私が定義したような意味ではないし、むしろ曖昧で、漠然としたものだったように思う。

とは言え、その「便利さ」と「快適さ」がもたらしてきたものが何であったかを考えるということは、結局のところ、近代文明は私たちに何をもたらしたかということを考えてみることでもあるのである。

そこで以下では、そのことを、近代文明がつくり出した代表的産物の幾つかを例にとって考察してみようと思う。

ただしその場合、「便利さ」を追いかけることと、「快適さ」を追いかけけることは一応区別し、さらに、前者と後者についての考察の仕方も変える。

前者の「便利さ」についての考察の仕方、すなわち、「便利さ」をもたらすモノを追い求めることが意味することを明らかにする方法としては、先ずは、多くの人々に「便利さ」をもたらしてくれたと思われて来た物が実際にもたらした面をプラス面として具体的に考察する。

一方、その物が普及することによって同時にもたらして来た、いわば予期しなかった不都合な面をマイナス面として、これも具体的に考察する。

後者の「快適さ」についての考察の仕方、すなわち、「快適さ」をもたらすモノを追い求めることが意味することを明らかにする方法としては、便利さについて採るような、個々の代表例を取り上げて、それらについて個別に得失をとり挙げるという方法は採らず、誰もが毎日利用し、その中で一度は実感したことがあるであろうある真実を直視することによって明らかにしてみようと思う。

ただしここでは、「自然」がもたらしてくれる快適さについては除き、あくまでも人工的に創り出された物、それも工業的に大量生産された物がもたらす快適さを追い求めることの意味、ということについてのみ考えてみる。

そこで、先ずは「便利さ」を追いかけることが意味するものを明らかにする。

それを考察するために、ここでは、近代文明がもたらした代表的産物としての、自動車、テレビ、インスタント食品、インターネット、農薬と化学肥料、AI(人工頭脳)そして最後にお金について取り上げてみようと思う。

 

1.自動車

実現された便利さ:

・渋滞が無い限り、道路のある限り、自分の行きたい所へ、行きたい時に、比較的容易に行ける。・手に持てないような重量物でも運搬できる。・自分だけの、動く密室空間を持てる。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:・歩かなくなるので足腰が衰える。体の衰えが早まる。・運動神経や反射神経を衰えさせてしまう。

・運転中、雨天時でも、また横断歩道でも、歩行者や弱者(高齢者、身障者、他生物)に対して横柄になりやすい。・交通事故死者を生み、それを増大させ、結果として、他人の人生や家庭を破壊するだけではなく、悲惨な交通遺児を増やしてしまいやすい。その結果、加害者も、生涯を罪の呵責に苦しめられるようになりやすい。・運転時、自動車というマシーンの中にいるため、あるいはその状態で互いに行き交うため、同じ土地に住む人間どうしでも、人との目と目を合わせた交流、言葉と言葉を交わした交流がどんどん減り、お互いの人間関係をますます希薄にさせてしまいやすい。

・運転時、自分の思うように操れるマシーンを扱っていることから、心の穏やかさを失いがちになり、ちょっとしたことで他者とトラブルになりやすい。

・他者の持っている車の性能やかっこよさが気になり、欲望をいっそう膨らませ、物にいっそう執着するようになりやすい。

・自動車メーカー側も、企業を成り立たせるために、次々とモデルチェンジしては大量製造しなくては企業として成り立たないために、そしてその規模をどんどん拡大させて行かねばならないために、掛け替えのない地球資源をますます大量収奪し、大量消費しては、未来世代に遺すべき分をどんどん枯渇させてしまう。

・また、自動車に乗る者にも、そのことに配慮する心を失わせてしまいやすい。

・また自動車は、それが普及すればするほど、半ば必然的にそれが走る道路を、それもますます「便利」で「快適」なコンクリートアスファルトで舗装された道路を人々も産業も求めるようになるため、一般道路、高速道路、農道、生活道路等々、いたるところにさまざまな道路が建設されるようになり、それが、さまざまな悪影響をさまざまな分野にもたらすようになっている。たとえば、森林や田畑の激減という生態系破壊。森林の立ち枯れの主原因の一つとなり、酸性雨の原因となるSOX硫黄酸化物)やNOX(窒素酸化物)の大気中への大量廃棄に因る局所的大気温暖化。自動車がとくに集中する都市空間のヒートアイランド化。もともと他生物の棲息域であった領域の分断あるいは消滅。その結果としての、人間に対する鳥獣被害の誘発とその増加。都市の無秩序な拡大に因る住民の行き交う町並み・商店街の破壊と消失。そして歴史的街並の破壊と消滅。そして道路建設を望む人たちも、その建設を望む人々に限ってその道路を建設するに当たってますます増大する借金に対して、それを自分たちで返済するという覚悟をもたないで、未来世代に返済を肩代わりさせることを当たり前としてしまいやすいために、ますます社会に分断を生じさせてしまいやすくなっている。

・こうして、結局のところ、自動車は、運転する者自身の心身の衰退と劣化、交通事故の激増あるいは慢性化、人間関係の希薄化、環境破壊と他生物の生存権の剥奪、再生不可能資源の浪費、異常気象と気候変動をもたらし、一人ひとりをして自らますます孤立化させ、社会から危機に対する耐性を失わせ、一人ひとりをますます不安あるいは危険な状態へと自ら追い込んでしまうと共に、人間集団である社会を、当初望んだはずの、あるべき人間共同体としての姿からますます遠ざけて行ってしまっている主要因の一つとなっている、等々。

 

2.テレビ

実現された便利さ:

・音声だけではなく映像としても見ることが出来るので、物事をより現実味をもって知ることが出来る。

・記者さえその現場にいれば、新聞などの紙面に拠る情報伝達手段と比べて、とにかく圧倒的に早く出来事を人々に知らせることが出来る。・居ながらにしてさまざまな娯楽や芸術や演劇を臨場感を感じながら楽しめる。

・各種のTVゲームが手軽に楽しめる。

・選ぶ番組によっては考えないで見ていられるから、あるいは気分転換のために見ていられるから、息抜きや暇つぶしにはうってつけとなる。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:

・テレビ画面に映るものに気をとられ、画面にあるものがすべてと思ってしまいやすく、見えないモノ(たとえば人の心、空気、極微と極大の世界)を見る力、見ようとする意思力を衰えさせやすい。

核家族化現象、個室化現象の中で、テレビを自分だけの部屋で見ようとする傾向の中、家族同士の孤立化にますます拍車をかけてしまう。

・姿・色・形といった視覚を通じて訴える面が強いことから、見る者に、ラジオよりもはるかに強烈な印象や刺激を与えることになり、その結果、神経がすり減り感覚が麻痺し、繊細な刺激や微妙な味わいといったものには今度はかえって感じにくくなってしまい、ありきたりのものでは満足できなくなり、ますます強烈な刺激を求めやすくなってしまう。

・ラジオなどと比べると、顕著に想像力を衰えさせ、また想像する楽しさをも奪いやすい。・人間の大脳と身体の自然な反応を分断してしまう。

・とくにテレビを通じた情報の大量伝達の結果、実体験がほとんど伴わないまま知識だけが頭に蓄積されて行くようになるため、現実での生活体験の乏しい者ほど、現実とん画面の中野虚構の世界との区別や識別が出来なくなりやすい。このことは時として、事の重大さを判らずに簡単に犯罪を犯させてしまう大きな原因ともなる。

・これはテレビその物がもたらものではなく、テレビを自己の経済活動に利用するこの経済社会の仕組みがもたらすものであるが、とくに民放では、「視聴率」に拘るスポンサーに満足してもらえる番組制作をつねに求められるため、視聴者に考えさせ、判断させる番組よりも面白おかしい番組制作を優先させるようになることから、視聴者をして、知らず知らずのうちにものを考える力、判断する力、批判や評価する力、論理的に思考する力等を失わせて行く。

・大量情報を提供する画面が次々と代わるため、見る者の思考力や判断力がついて行けなくなり、結果、ますます見る者は考え判断することをしなくなる結果、思考力や判断力を消滅させて行ってしまう。

・直接的でありのままでありインパクトが非常にに大きいことから、制作者側あるいはスポンサー側の意図によって視聴者をコントロールする「心理操作」「情報操作」の道具に使われる可能性がきわめて大きい。このことからまた、視聴者の購買欲を煽るための道具として使われたり、政治的にも世論を誘導操作する道具にも使われたりしやすい。そのことは、結局、社会そのものを安心できないもの、信頼できないものとさせて行ってしまうことであり、また大量消費、大量廃棄を促進させて行ってしまうことでもある、等々。

 

3.インスタント食品 

実現された便利さ:

・時間がないときでも手っ取り早く一応の栄養を取ることができる。

・現地でそれを食べられるように加熱できる設備さえあれば、あるいはそれを用意して行けば、どこへでも持って行くことができる。

・工業的にそのように加工してない普通の食品や食べ物に比べて、はるかに長い期間、保存が利く。

・子どもでも誰でも、容易に食べる準備をすることができる。

だから便利である。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:

・「料理をする」というのは、たんにたべるためというだけではなく、とくに母親の家族の健康を気遣う愛情表現の一つだったはずだが、ただかって来て家族にあてがうというだけでは、あるいは電子レンジか何かで暖めるだけで食卓に並べるというだけでは、その家族間、親子間の絆をますます薄れさせてしまう。

・それに、そのような状態をしょっちゅう繰り返していたなら、それを見ている子どもは、家庭で食事をするということはそういうことかといつしか思い込んでしまい、家庭で食事をすること、食べることの意味を考えたり理解したりすることのないまま自分もいつか人の親になってしまう。

・そうなれば、その家にはその家独特の料理の種類、料理の味が伝承されて来たものなのに(そういう意味で典型的な「文化」である)、インスタント食品はそうしたその家の秘伝を子に伝えて行くことを不要とさせてしまうものであるため、親から子へ、そして子から孫へと、これまで伝承されてきたその家の食文化=「我が家の味」をそこで途絶えさせてしまう。

・そしてそのような食生活をその地域の多くの家庭がするようになれば、それは、その地域の社会から、かつてあったその地域固有の食文化そのものを廃れさせてしまい、先人たちの長期にわたる多くの努力や知恵は、書物か何かに記録されて残されない限り、そこで消滅してしまう。

・「食べる」「喰う」ということ自体、生物としてのヒトの最も基本的な行為であるが、それに対して料理というのは、ただ食べるためというのではなく、また、どこかの料理の本に載っているもの、あるいはテレビで紹介されたり新聞で紹介されたものをそのまま作ればよいというものでもなく、いま手元にある材料、新鮮な材料、合成添加物や農薬が入っていない材料等々を前にして、それぞれの食材の持っている栄養をどう組み合わせれば自分と家族の健康にとってよりよいか、どうすればよりおいしい味を創り出せるかという工夫を要求するものであると同時にそこにまた面白さを感じさせる、人間の、きわめて創造的な行為である。だから、それを止めさせてしまうインスタント食品は、人間に、最も基本的な行為に対する創造性や独創性を萎えさせてしまう。

・インスタント食品の包装紙に書かれたアニュアルに頼るだけで食べることができるし、自分で工夫するということをも必要とさせないから、必然的に、他者の作る料理、土地の料理、他所の料理、世界の料理、・・・というものへの関心を薄れさせてしまう。

・それが手に入る入らないは、また食べることそのものが、食品メーカー任せ、輸送力・流通任せになる結果、その土地の材料を使ったその土地独特の料理(郷土料理)というものは生まれにくくなるし、育ちにくくなる。

・料理に対してなおざりになる結果、「美味しい料理はレストランで、あるいは料亭で」という安易な態度になりやすく、その人の「味」に対する味覚は衰えて行きやすくなる。

食品添加物の多く混入したものを食う機会が多くなる結果、健康を害しやすくなる。

・同じものを繰り返し食う機会も多くなるため、それも健康を害する原因となる。

・そしてそれはそれで、国家の国民医療費を増大させ、結局国民の税負担を増やすことになる。

・メーカーはその種の商品を大量に製造し、運搬するため、そのこと自体が再生不能な資源を大量に消費させ、環境を汚巣ことになるが、その他に、石油でできた包装紙や食べ残った食品を大量に廃棄することにより、いっそう自然環境や生態系を汚しあるいは破壊するだけではなく、都市や集落等の共同社会の美観・景観を損ねやすくなる。

・既述の自動車やテレビや各種の電化製品、その他の文明の利器もそうであったが、インスタント食品もそれを多用することによって、自分自身の健康や家族の健康を害しながら、同時に、個々の人間を心身ともに虚弱にし、ますます怠惰にし、そういう人間が増えることによって社会そのものも、当初、社会を取り結ぼうと決意した人々が望んだ姿の社会ではない、住みにくく、暖かみややさしさのない、そして先人の知恵と努力が尊敬されない社会へと一人ひとりが変質させて行ってしまう。等々。

 

4.インターネット

実現された便利さ:

・ネット上に発信された情報でありさえすれば、世界中からきわめて容易に集められる。・それも、出版物とは比較にならないほど早く入手できる。

・相手がホームページやアドレスを持っていてそれをこちらが知ってさえいれば、世界中の誰とでも、瞬時にアクセスできるし、交信も出来る。

・交信をする気があれば、交信を通じて多様な国々の多様な人々と知り合うことができ、相互理解をも深められる。

・一国内にとどまらず、世界中に知って欲しい情報や訴えたい実情を、文書の内容であれ動画であれ肉声であれ、それらを一瞬にして発信できる。

・そして正にこのことに拠り、世界中の同じ考えの人々を結びつける効果的な手段となる。・実際にあちこち店を探し回らなくとも、ネット通販等により、それが本当に自分が欲していた物かどうかはともかく、それに近い物は容易に手に入れられる。

だから便利。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:

・伝えたい情報が伝えたい特定の人にだけ伝わり、それがその特定の人だけに留め置かれるなら問題は少ないが、伝えようとする人の意思や思惑一つで、特定の相手の個人情報を入手した際、もしそれを広めようという気になれば、一瞬にして社会の圧倒的不特定多数の人々にその情報を匿名で流してしまうこともできる。

・しかもその行為を誰も制止あるいは阻止できない。

・またそれとは反対に、社会に対して権力を持つ者が、社会や国家の「安全保障」あるいは「セキュリティの必要性」という名目の下で、それこそ世界規模で世界中の一般人や普通の人々の自由とプライバシーを無差別に奪うことができるようにもなってしまう。つまり超監視社会を生み出してしまう。実際、インターネットのシステムに関するそれなりの知識があれば、いわゆる「サイバー空間」の中で、他人のプライベートな情報も、公的・私的機関の秘密・機密情報も、誰にも判らないように盗み出すこともできるようになり、また盗んだそれを個人の監視や社会全体の統制に利用することもできるようになる。その結果、社会から「個人の領域」や「プライバシー」という概念を消滅させ、人々あるいは国民が自分の領域を守りながら安心して暮らすことを、また人々が互いに信頼し支え合うことをますます難しくさせ、むしろ互いに監視し合うことでしか平安や秩序を維持しえないようになる。

・そしてそれが世界規模で行われてしまうと、一国のみならず世界全体を恐怖に陥れるだけではなく世界中から反発を招き、それまでの世界秩序をめちゃくちゃにしてしまう。

・その結果、「プライバシーは保護されるべきだ」などといった掛け声や法律はほとんど無意味とさせてしまう。

・また、特定の個人の情報を流しても、流した本人が特定され得ない、したがって責任を問われることもないという安心感により、特定の人間を、その者がどこにいようと、あるいは顔の見えない人間を、精神的に窮地に追い込むこともできるようになり、果ては、それにより、直接手を下さずとも、自殺へと追い込むこともできるようになる。

・これと同様に、これを流したなら多くの人々にインパクトを与えうると判っているウソのニュース(フェイクニュース)を、一つはお金儲けのために、一つはプロパガンダのために不特定多数に向けて発信し、その社会を混乱に導くということも簡単にできてしまう。その結果、こうした通信手段が発達すればするほど、情報というものの信頼度を低めて行ってしまい、人々の共同体としての社会をますます壊して行ってしまう。

これを大規模にした実例がたとえば次のものだ。インターネットのシステムを悪用すれば、盗み出すのではなく、「サイバー空間」の中で「攻撃」あるいは「戦争をしかけること」さえできてしまう。とくにこの攻撃の対象が特定の企業や国家の政府あるいは社会基盤であるような場合、そこに不正に侵入しデータの破壊や改竄などを行うことができてしまうために、そのものの社会的機能を麻痺させてしまうこともできる。しかもその場合、攻撃して来た者を特定することができないために、撃退あるいは防衛という対処もきわめて難しいのである。

・そもそもインターネット上に掲載されあるいは提供されている情報については、一般に提供者に不利益をもたらすものや不都合なものは避けられているために、得られる情報は必ずしも信頼できる情報ばかりとは限らないし、また、提供者はその情報について責任を負うことが法的にも義務づけられてはいないために、インターネット情報は、どれが真実で、どれがウソなのか誰も正しく判別できない。そのために、それらがネット上に氾濫すればするほど、そしてその情報を鵜呑みにする人が増えれば増えるほど、社会そのものを信頼性の乏しいものにさせてしまいやすい。たとえば、インターネット上に掲載されている情報を信じて自分の生活の中に取り込んで、その結果、自分の身に予期せぬ不利益な事態が生じても、その情報をインターネット上に掲載した人物を特定できないことが多いために、責任を問えなくなり、泣き寝入りせざるを得なくなることが多くなる。

・またインターネットによれば、欲しい情報が、真偽のほどはともかく、それなりのものを、自分がどこにいてもすぐに手に入れられて見ることができることから、これまで人類が長い歴史の中で生み出し培って来た文化———事実を紙に記録して、あるいは人の思いを書物として残す、また残された書物から先人の知恵を学ぶ、またそうした書物を整理して保管するために図書館を設けるといった文化———そのものを衰退させてしまいやすくなる。

・と同時に、情報を求める人は、ネット上で検索して見る情報だけで自然や社会が判ったような錯覚に囚われがちとなる。つまり、自ら足を運んで現場に赴き、自分の目と耳と肌で確かめながら信頼できる情報を集めようとはしなくなりがちとなる。現実の自然や社会に目を向けようとはしなくなりやすい。実体験が乏しく、裏付けの乏しい知識だけを頭に詰め込むようになるため、本人は自身の想像力や共感力をますます弱め、創造力をも弱めて行ってしまいやすい。その結果、現実に対する適応力や対応力をも弱めてしまい、イザというとき、自分の身を自分で危険から守ることを出来なくさせてしまいやすい。

・またインターネットに繋がっていれば、いつ、誰から、どんな情報が入って来るか判らないため、また一方で、間近で人間と人間とが互いに表情を見ながら交流するということが激減し、孤独化が進む現実の社会の中で、いつも誰かとつながっていないと不安という意識もあると、いつも、どこかから何かの情報が自分のところに入っていないかと気になり、神経はインターネットから離れられなくなり、インターネット依存症に陥りやすくなる。

・こうして、インターネット情報あるいはインターネット交信が気になる人ほどますます情報を入手することや周りの人の状況が気になるようになり、精神的にも心理的にも落ち着かなくなり、自からのアイデンティティを失いがちになる。

・インターネット上のたとえばオンラインゲームに打ち興じることにより、家族や友人と会話して一緒の時を楽しんだり、互いに議論をして一緒に同じ物事や出来事を考えたりすることをしなくなり、家族や友人とのふれ合いや心の結びつきを希薄にさせてしまいがちとなる。つまり、インターネットに熱中することにより、顔も姿も見たことのない遠く世界の人とはつながりながらも、イザッという時、互いに支え合わねばならない人や最も身近な人との関係の方は希薄にさせてしまうということになり、人類史の中で一貫して維持されてきた地域社会のあり方を根本から崩してしまいかねなくなる。

・またそのことが既述のインターネット上での他者からの嫌がらせ行為などと重なれば、「ニート」や「引き籠り」といった社会から遠ざかった生き方をする若者をますます多く生んでしまう一原因にもなる。つまりそれだけ本来その構成員である一人ひとりをして、社会を共同体ではない状態にさせてしまう。

・自分の意志や思いあるいは情報を伝達するのに「メール」等による伝達手段の方が手紙や葉書によるよりもはるかに手っ取り早いために、そしてそれは普通、限りなく話し言葉に近い表現で伝えることができるために、無作法や不躾をなくし唐突感を出来るだけ避けるための知恵として人間の長い歴史の中で生み出された一定の様式とか作法が伴った意思伝達手段としての書き言葉や書簡の様式というものを、それも美しい書体の文字をもって文章の行間に伝えるという伝え方の文化も、自分の考えや主張を論理明解に相手に伝えるという伝え方の文化も、たとえそれらを知っていてもいつしかそれに沿うことを億劫にさせ、この面からも物事を円滑に行う上での一定の様式として考え出された伝統の文化全体を衰退させ、消滅させてゆきかねない。それだけ社会における人間関係を軽薄で唐突でガサついたものとさせて行ってしまう。

・その結果、いよいよその人が社会に出て、然るべき場に臨んで、一定の様式で他者や企業とやり取りをしなくてはならなくなったとき、どうしたらいいのか判らなくさせてしまう。

・日本古来の、人と人との出会いとその一瞬を大切にする「一期一会」という精神風土をも急速に社会から失わせてしまう。

・情報を瞬時に世界に広められるだけではなく、瞬時に世界中からの情報を入手できることから、これまで世界の各地にあったその地域固有の文化までも情報として世界中に飛び交うことになって、各地域の文化の意味や特殊性は深く理解されないまま次第に「近代文明」という一つの文明の下に均質化され画一化されて行ってしまいやすい。

・その結果、世界各地での人々をして、その地域の人々として育み支えて来たその地の先人たちの知恵の結晶ともいえる掛け替えのない文化の持つ個性や特性は失われ、同時に、人々の文化への関心をも薄れさせ、各地の文化を消滅させてもしまいやすい。

・インターネットはデータがカネになる市場そのものであり、私たち一人ひとりはもはや顧客ではなくデータなのである。情報の対価としてカネを要求し合う企業間での商品でしかなくなる。もちろんそこでは、私たち一人ひとりは、感情や理性を持ち、尊厳を持った人間としても扱われない。

・こうして、インターネットに依存する人々が増えれば増えるほど、社会全体に無責任な傍観者を増やすことになると同時に、インターネット上で交信し合う人々をして、健全な社会を構成し維持させる上で古来大切にされて来た価値観や智慧を、急速に、留まるところなく失わせて行ってしまう。

・その結果、人々は、個人として信頼でき頼れるものをますます失って行き、地に着いた生き方が出来なくなり、むしろ一層不安に駆られるようになって行ってしまう。

・こうして、インターネットは、人々に、自由を失わせ、相互に信頼し助け合おうという精神をも失わせ、むしろ猜疑心を深めさせ、かつて先人たちが構成員一人ひとりの「生命・自由・財産」を安全に守るためにと望んで集まり相互契約を結んでつくりあげて来た社会という共同体をして自ら崩壊させ、当初の理念からますます乖離した状況をつくり出してしまっている。等々。

 

5.農薬と化学肥料

実現された便利さ:

・除草や虫駆除のための労働の必要性から著しく解放される。

・病虫害が激減する。

有機質肥料に比べてはるかに軽量で扱いやすい。

有機質肥料で栽培する時に比べて、成長が著しく早い。

・一時的には、反収の増加が期待できる。

だから便利である。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:

・それを用いることによって、農薬中毒を含めて、農業に従事する人自身の健康を害する危険性が極めて高い。

・食物を農薬で汚染してしまう。

・とくに農薬を用いることにより、自然環境(とくに土壌)の生態系を破壊してしまう。つまり土壌中の微生物やバクテリアを死滅させて、生き物のいない土壌にしてしまいやすい。

・農薬、とくに枯れ葉剤などに含まれるサリンの2倍の毒性をダイオキシンは、その土地の空気や土壌や地下水を長期にわたって汚染してしまう。

・地下水が汚染されれば、井戸水を飲料水とすることは出来なくなる。

・それだけでなく、地下水汚染は、やがては河川をも汚染し、したがって海をも河口域から汚染し、結局は、すべての水生生物、海洋生物、海産物をも農薬で汚染してしまう。

・土壌にまかれた農薬や化学肥料は、ダイオキシンも含めて、食物連鎖を通じて小さい虫から大きな動物や鳥類に至るまでの間に、あるいは海のプランクトンから大型海洋生物に至るまでの間に、何百倍、何千倍にも濃縮され、それがやがては広く人体内にも摂取され、軟組織肉腫、悪性リンパ腫、呼吸器癌などを発症しやすくしてしまう。

・農薬の多用・多投によって、虫や菌の耐性現象を誘発させ、顕在化させて、これまで効いていた量あるいは種類では効かなくなり、投入農薬量を次第に増やさざるを得なくなったり、新農薬を用いなくてはならなくなったりして、ますます土壌生態系をだめにしていってしまうようになる。

・畑や田んぼの中で微妙にバランスを保って共生する多様な生物の中で、農薬は互いの天敵をも殺してしまうために、かえって特定の虫や生物だけを異常に繁殖さ、特定の病気を発生しやすくさせてしまう。

・化学肥料を連続的に投入することにより、土壌が硬くなり、病害虫を発生しやすくし、そのままでは作物栽培に次第に適さなくさせてしまう、等々。