LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.4 便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの————————その1

 

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 今回に先立って4.5節では、「人間にとっての豊かさ感」について、私の考えを述べてきました。そこでは、経済が発展すればするほど、そして金銭も含めて、物質的に、あるいはそれらが量的に豊富になればなるほど、時代も、人も、精神面あるいはこころの面では貧しくなる、ということを仮説として結論としてきました。あるいは経済が発展すればするほど、人は、目に見えて、数えられて、計量できる物を持つことに拘り、目に見えないもの、数えることも計量することもできない、しかし確実に存在していて、「人間」を土台から生かしてくれているものを失って行ってしまう、と仮説として結論づけてきました。

 今回は、果たしてこの仮説としての結論が、正しいかどうか、本当にそう言えるかどうかを、この節にて検証してみようと思います。

 なお、ここでのことも、私たち日本国民が、主権者として、真の意味で持続可能な本物の国家を創建しようとするとき、予め確認しておかねばならないことではないか、と私は考えるのです(2020年8月3日公開済みの、拙著タイトル「持続可能な未来、こう築く」の目次をご覧下さい)。

 

7.4 便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの

                    ————————「その1」

 私たち日本人は、否、今日を生きる世界の大方の国の人々は、これまで、学校で、より良く、より高い教育を受けようとする目的については、ほとんど疑問にも思わずに、当たり前のように、次のように考えてきたのではないだろうか。それは、社会に出たとき、より多くの収入を得られる仕事に就けるようになるためであり、より多くの収入を得る目的は、それをもって自分や家族の生活を支えられるようになるだけではなく、さらには自分の人生をより充実させ、生活の質をより豊かなものにすることができるようになるため、と。

 ではそもそも、そこでいう「豊か」とはどういうこと、どういう意味と捉えてきたのであろうか。それについては、ものの辞書によると、「①物が豊富で、心の満ち足りているさま。②財産がたくさんにあるさま。経済的に不足のないさま。富裕。」とある(広辞苑)。

 

 では、そうした目的を持って教育を受け、職に就き、働いては来た私たちではあったが、果たしてその時、その辞書が説明するような豊かさ、すなわち、物が豊富で、心の満ち足りているさまと言えるような豊かさを実際に手に入れられただろうか。

 私は「ノー!」とはっきり言える。その場合、その「ノー!」には二つの意味が含まれている。

一つは、どんなに物が豊富であっても、あるいはどんなに物を豊富に手に入れられても、それだけで、人間、心が満ち足りるなどという状態が得られるわけはない、という意味において。もう一つは、人間、心が満ち足りている状態というのは、物を持つことよりも、むしろもっと別の形でこそもたらされるものであろう、と思われるからだ。

 それに、物を持つこと、それもお金を含めて、より多くの物を持つことによって得られる豊かさ感というものは極めて脆く、また頼りないものであろう。なぜなら、そういう状態にあったとしても、たとえば、ひとたび健康を害したり、不治の病にかかったりしたなら、持っている物は役立たないし、お金も治療費の支払いには役立っても、場合によっては、その後長く、不自由で規則正しい闘病生活を孤独のうちに強いられることになるかも知れず、そうなれば、それまでの豊かさ感などたちまちにして無意味となってしまうだろうからだ。また、どんなにお金や物を持っていても、飢饉や食糧危機を含む自然大災害や大惨事に遭えば、その場合も、豊かさ感など、我が身を、あるいは家族を守る上でほとんど何の役にも立たないからだ。

 

 では、人間一人ひとりにとって本当の豊かさとは、あるいは本当に意味のある豊かさ、価値ある豊かさとはどういうものなのであろう。

それは、少なくとも、その人が、いま例として挙げたような事態に直面しても、無意味化することも崩壊してしまうようなこともない豊かさ、ということになる。言い換えれば、その豊かさというのは、物質的あるいは金銭的な、言って見れば「測ることのできる」量によってもたらされるものではなく、むしろ「測ることのできない」質によってもたらされるものなのだろう、と私には思われる。そしてその質とは、自分と他者との関係、自分と社会、あるいは自分と自然との関係のあり方のことであり、また、その中で誰もが自身の個性やアイデンティティーを大切にして生きられる状態にあることであり、生き方の上での選択肢が多様にあることであり、そして同時に、社会の制度や法律がそうした状態を保障していることではないか、と私は思う。つまり誰にとっても、本当の豊かさ、真の豊かさとは、持続しうる豊かさであり、危機においても耐えられる豊かさであり、むしろ、そんな時でも自分を精神的に成長させてもくれる豊かさのこと、となるのではないか。

 だから、その本当の豊かさとは、「自分さえよければいい」とか、「誰にも先んじて我先に叶えばいい」とか、「自身のステータス感が満たされればいい」とかいう自己中心的に「心の満ち足りているさま」とは対極をなすものでもあることが判るのである。

 私は第1章では、既に「近代」という時代は終ったと見ると記して来たが、実はその近代という時代を貫いて人々を虜にして来た価値観の一つが先に見た辞書的な意味での「豊かさ」あるいは「豊かさ感」であったのではないか、とも考える。そして、その豊かさあるいは豊かさ感を支えてきた価値観の一つが「便利さ」であり、もう一つが「快適さ」であったのではないか、とも見るのである。

 そこで以下では、「豊かさ」あるいは「豊かさ感」を支えてきたと考えられる「便利さ」や「快適さ」を実現してきたとされる、近代文明がつくり出した代表的産物の幾つかを例にとって、それら産物が「便利さ」や「快適さ」を実現することを通じて、上に述べた、個々の人間にとっての「本当の豊かさ」をもたらしてきたのかということについて、検証のための考察をしてみようと思う。

それは、つまるところ、近代文明は私たちに何をもたらしたかということを考えてみることでもあるのである。

 ただしその場合、「便利さ」についての考察の仕方と「快適さ」についての考察の仕方とは区別する。前者の便利さを実現してくれたとされる近代文明の産物については、それが実際にもたらしてくれた面をプラス面として、またその物が不可避的に同時にもたらした面をマイナス面として併記する形で考察する。

 後者の快適さについては、便利さについて採るような、個々の代表的産物を取り上げて、それらについて個別に得失を比較するという方法は採らず、誰もが毎日利用し、その中で一度は実感したことがあるであろうある真実を直視することによって明らかにしてみようと思う。

 そこで、先ずは「便利さ」を実現したされるものについて、その実際について、検証する。

そのために、ここでは、近代文明がもたらした代表的工業産物としての、自動車、テレビ、インスタント食品、インターネット、農薬と化学肥料、AI(人工頭脳)について、そして最後に、これは何も近代文明が生み出したものではなくずっと昔からあったものであるが、しかし、いつの時代も、人々の欲求を持たすものとして、人々の心を虜にしてきたお金についても、取り上げてみようと思う。

ⅰ.自動車

実現された便利さ:・渋滞が無い限り、道路のある限り、自分の行きたい所へ、行きたい時に、比較的容易に行ける。・手に持てないような重量物でも運搬できる。・自分だけの、動く密室空間を持てる。・走りながら、周囲の景色を楽しめる。・自分だけではなく、親しい人(恋人・家族・友人・知人)と一緒にドライブもできる。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:・歩かなくなるので足腰が衰える。体の衰えが早まる。・運動神経や反射神経を衰えさせてしまう。・運転中、横断歩道でも、歩行者や弱者(高齢者、身障者、他生物)に対して横柄になりやすい。・交通事故死者を生み、それを増大させ、結果として、他人の人生や家庭を破壊するだけではなく、悲惨な交通遺児を増やしてしまいやすい。その結果、加害者も、生涯を罪の呵責に苦しめられるようになる。・運転時、自動車というマシーンの中にいるため、同じ土地に住む人間どうしでも、人との目と目を合わせた交流、言葉と言葉を交わした交流が難しく、お互いの人間関係をますます希薄にさせてしまいやすい。・運転時、自分の思うように操れるマシーンを扱っていることから、心の穏やかさを失いがちになり、ちょっとしたことで他者とトラブルになりやすい。・他者の持っている車の性能やかっこよさが気になり、欲望をいっそう膨らませ、物にいっそう執着するようになりやすい。・自動車メーカー側も、企業を成り立たせるために、次々とモデルチェンジしては大量製造しなくては企業として成り立たないために、そしてその経営規模をどんどん拡大させて行かねば企業を維持できないために、掛け替えのない地球資源をますます大量収奪し、大量消費しては、未来世代に遺すべき分をどんどん枯渇させてしまう。・また、自動車に乗る者にも、自動車の便利さを楽しむだけで、そのことに配慮する心を失わせてしまいやすい。・また自動車は、それが普及すればするほど、半ば必然的にそれが走る道路を、それもますます「便利」で「快適」なコンクリートアスファルトで舗装された道路を人々も産業も求めるようになるため、一般道路、高速道路、農道、生活道路等々、いたるところにさまざまな道路が建設されるようになり、それが、さまざまな悪影響をさまざまな分野にもたらすようになっている。たとえば、森林や田畑の激減という生態系破壊。森林の立ち枯れの主原因の一つとなり、酸性雨の原因となるSOX硫黄酸化物)やNOX(窒素酸化物)の大気中への大量廃棄に因る局所的大気温暖化。自動車がとくに集中する都市空間でのヒートアイランド化。もともと他生物の棲息域であった領域の分断あるいは消滅。その結果として他生物とくに野生動物の人里や人家への接近による鳥獣被害の誘発とその増加等々。・都市計画の杜撰さもあって、道路の新設あるいは拡幅等が不必要なまでに強行され、街の通りが人々の行き交う場ではなく、車がスムーズに通り抜けできる道になるだけで、町並み・商店街を廃れさせ、シャッター通りにしてしまっていること。同じく、歴史的街並をも廃れさせ、いたるところ消滅の危機に至っていること。・そして道路建設を望む人たちは、それを造ることがますます財政を悪化させることになることに思いが及ばないだけではなく、その道路を造ることによってできる借金を自分たちで返済するという覚悟もなく、未来世代に返済を肩代わりしてもらうことを当たり前として、道路ができれば便利になって快適になるということしか考えていない者がほとんどなために、自動車そのものが、ますます社会に自分勝手な者を生み出す原因にもなっている。・こうして、結局のところ、自動車は、運転する者自身の心身の衰退と劣化、交通事故の激増あるいは慢性化、人間関係の希薄化、環境破壊と他生物の生存権の剥奪、再生不可能資源の浪費、異常気象と気候変動をもたらし、一人ひとりをしてますます自分勝手にしては孤立化させ、社会から寛容を失わせ、人間集団である社会を、当初望んだはずの、あるべき人間共同体としての姿からますます遠ざけてしまう主要因の一つとなっている、等々。

 

ⅱ.テレビ

実現された便利さ:・音声だけではなく映像としても見ることが出来るので、物事をより現実味をもって知ることが出来る。・記者さえその現場にいれば、あるいは現場からインターネット情報が提供されれば、新聞などの紙面に拠る情報伝達手段と比べて、圧倒的に早く出来事を人々に視覚的に知らせることが出来る。・居ながらにしてさまざまな娯楽や芸術や演劇を臨場感を感じながら楽しめる。・各種の余興を手軽に楽しめる。・選ぶ番組によっては考えないで見ていられるから、あるいは気分転換のために見ていられるから、息抜きや暇つぶしにはうってつけとなる。・スイッチを入れれば、常にそこには誰かが写っていることから、孤独を幾分かは紛らわせる。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:・テレビ画面に映るものに気をとられ、画面にあるものがすべてと思ってしまいやすいから、想像する必要性を感じないし、見えないモノ(たとえば人の心、空気、極微と極大の世界)を見ようとはしないから、想像力や観察力を衰えさせやすい。・その上ラジオなどと比べると、想像する楽しさそのものを奪ってしまいやすい。・大量情報を提供する画面が次々と代わるため、見る者の思考力や判断力がついて行けなくなり、結果、ますます見る者は考え判断することをしなくなり、思考力や判断力を低下させたり失わせたりしてしまう。・人は何かを見たり聞いたりすると瞬時に大脳は反応して体を動かそうとするが、TVは、見ている人はじっとしているだけなので、大脳と身体の自然な反応を分断してしまう。・核家族化現象、個室化現象の中で、テレビを自分だけの部屋で見ようとすればするほど、家族同士の孤立化をますます進めてしまう。・姿・色・形といった視覚を通じて訴える面が強いことから、見る者に、ラジオよりもはるかに強烈な印象や刺激を与えることになり、その結果、神経がすり減り、感覚が麻痺し、繊細な刺激や微妙な味わいといったものには今度はかえって感じにくくなってしまい、ありきたりのものでは満足できなくなり、ますます強烈な刺激を求めやすくなってしまう。・そのことによって、TVから流される特に娯楽性の高い番組の内容は、視聴者の気をひくために、ますますどぎつくなるし、ますます軽薄さを増し、視聴者の判断力や思考力を失わせてしまう。・とくにテレビを通じた情報の大量伝達の結果、実体験がほとんど伴わないまま知識だけが頭に蓄積されて行くようになるため、現実の社会や自然の中での体験の乏しい者ほど、現実と虚構との区別や識別が出来なくなりやすい。・このことは時として、事の重大さや難しさを判断できず、自分でも簡単にできるものと錯覚して、無謀な行為に走らせやすい。・これはテレビその物がもたらすものではなく、テレビを自己の経済活動に利用するこの経済社会の仕組みがもたらすものであるが、とくに民放では、「視聴率」に拘るスポンサーに満足してもらえる番組制作をつねに求められるため、視聴者に考えさせ、判断させる番組よりも面白おかしい番組制作を優先させるようになることから、視聴者をして、知らず知らずのうちにものを考える力、判断する力、批判や評価する力、論理的に思考する力等を失わせて行く。・直接的でありのままであるためにインパクトが非常に大きいことを利用して、TVは制作者側あるいはスポンサー側の視聴者に対する「心理操作」「情報操作」の道具に使われる可能性がきわめて大きい。例えば特的企業の特定商品に対する視聴者の購買欲を煽るための道具として使われることであり、政権の意向に沿う形で、世論を誘導する道具として使われることである。しかしそのことは、結局、人々一般にとっては、安心できない社会、信頼できない社会、落ち着いて暮らせない社会にして行ってしまうことである。・と同時にそのことは、地球資源の大量収奪に始まって、遠距離大量輸送、画一化商品の大量生産、大量消費、大量廃棄を促進させては、かけがえのない資源の浪費を促進し、人間にとっては果てしない宇宙の中でここしか暮らせる場所はない地球の自然環境をますます汚染しては破壊し、温暖化と生物多様性の消滅を加速化させて人類存続の危機の到来を早めてしまうことでもある、等々。

 

ⅲ.インスタント食品

実現された便利さ:・時間がないときでも手っ取り早く一応の栄養を取ることができる。・手軽に運搬できる。・現地でそれを食べられるように加熱できる設備や道具さえあれば、どこへでも持って行って食べることができる。・工業的にそのように加工されていない食品や食べ物に比べて、はるかに長い期間、保存が利く。・子どもでも誰でも、容易に食べる準備をすることができる。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:・「料理をする」というのは、単に食べるためというだけではなく、とくに母親の家族の健康を気遣う愛情表現の一つだったはずだが、ただそれを買ってきて家族にあてがうというだけでは、あるいは電子レンジか何かで暖めるだけで食卓に並べるというだけでは、最も身近な「愛の表現」が見られないため、その家族間、親子間の絆をますます薄れさせてしまう。・それに、そのような状態をしょっちゅう繰り返していたなら、それを見ている子どもは、家庭で食事をするということはそういうことかといつしか思い込んでしまい、家庭で食事をすること、食べることの意味を考えたり理解したりすることのないまま自分もいつか人の親になってしまう。・そうなれば、その家にはその家独特の料理の種類、料理の味が伝承されて来たものなのに(そういう意味で典型的な「文化」である)、インスタント食品はそうしたその家の秘伝を子に伝えて行くことを不要とさせてしまうものであるため、親から子へ、そして子から孫へと、これまで伝承されてきたその家の食文化=「我が家の味」をそこで途絶えさせてしまう。・そしてそのような食生活をその地域の多くの家庭がするようになれば、それは、その地域の社会から、かつてあったその地域固有の食文化そのものを廃れさせてしまい、先人たちの長期にわたる多くの努力や知恵は、書物か何かに記録されて残されない限り、そこで消滅してしまう。・「喰う」ということは生物としてのヒトの最も基本的な行為であるが、それに対して料理というのは、ただ食べるためというのではなく、また、どこかの料理の本に載っているもの、あるいはテレビで紹介されたり新聞で紹介されたりしたものをそのまま作ればよいというものでもなく、いま手元にある様々な食材を前にして、そのそれぞれの食材の持っている本来の味、調理後の味、また栄養をどう組み合わせれば自分と家族の健康にとってよりよいか、どうすればよりおいしい味を創り出せるかという工夫を要求するものであると同時にそこにまた面白さを感じさせる、人間の、きわめて創造的な行為である。だから、それを廃れさせてしまうインスタント食品は、人間に、その最も基本的な行為に対する創造性や独創性を萎えさせてしまう。・インスタント食品の包装紙に書かれたレシピに頼るだけで食べることができるし、自分で工夫する必要もないから、必然的に他者の作る料理、土地の料理、他所の料理、世界の料理、・・・というものへの関心を薄れさせてしまう。・それが手に入るとか入らないといったことや、また食べることそのものが、食品メーカー任せ、輸送力や流通任せになる結果、その土地の材料を使ったその土地独特の料理(郷土料理)というものは生まれにくくなるし、育ちにくくなる。・料理に対してなおざりになる結果、「美味しい料理はレストランで、あるいは料亭で」という安易な態度になりやすく、その人の「味」に対する味覚は衰えて行きやすくなる。・インスタント食品を含めて、保存料・人工甘味料・着色料等の人工的に作られた、人体にとっては本来「異物」でしかない食品添加物を多く含んだ食品を繰り返し食せば食すほど健康を害しやすくなる。・また、そうしたインスタント食品を繰り返し食うことで、それを食した人が健康を害することは、それだけ国家としての国民医療費を増大させ、結局国民の税負担を増やすことでもある。等々。

 

ⅳ.農薬と化学肥料

実現された便利さ:・除草や虫駆除のための労働の必要性から著しく解放される。・病虫害を一時的には激減させられる。・化学肥料は粒の形も大きさも一様化でき、農薬も最終的には液状にして用いるようにできているため、いずれも機械化して使用できるために、施肥にも散布にも、あっという間に済ませられる。また肥料の量や重量も、有機質肥料に比べてはるかに少量で済み、軽量で扱いやすい。・同じ野菜の種類で比べても、有機質肥料で栽培する時に比べて、肥料成分が根から直接吸収されるので、成長が著しく早い。・一時的には、反収の増加が期待できる。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:・土壌表面に散布された農薬は、降雨により、陸上では、細菌であるバクテリアから土壌中の微生物、昆虫類、鳥類、爬虫類から大型動物に至るまでの間に食物連鎖を通じて影響をもたらす。そしてその影響は、土壌中のバクテリア等の細菌や微生物を死滅させて、生き物のいない土壌にしてしまい、それ自体、自然界での食物循環の土台を崩してしまう。・一方では、農薬の多用や多投によって、微生物や菌に耐性を誘発させ、これまで効いていた量あるいは種類では効かなくなり、投入農薬量を次第に増やさざるを得なくなったり、新農薬を用いなくてはならなくなったりして、ますます土壌生態系を破壊していってしまうようになる。・農薬を用いることによって、農薬中毒を含めて、農業に従事する人自身の健康を害する可能性を高めてしまう。・農薬、とくに枯れ葉剤などに含まれるサリンの2倍の毒性を持つダイオキシンは、その土地の空気や土壌や地下水を長期にわたって汚染してしまう。・地下水がそうした化学物質によって汚染されれば、地下水脈中の水は広く汚染され、それはやがては河川をも汚染し、したがって海をも河口域から汚染し、結局は、河川、湖、海の水を広範囲に汚染してしまい、すべての水生生物、海洋生物、海産物をも農薬で汚染してしまう。そして、その農薬の影響は、海の浮遊生物であるプランクトンから魚類や哺乳類を含む大型海洋生物に至るまでの食物循環が進む間に、何百倍、何千倍にも濃縮され、それがやがては広く人体内にも摂取されるようになり、人体にかつては見られなかった様々な病気を誘発しやすくしてしまう。・なお、これは私の仮説に過ぎないが、今日、人類、特に先進国の人々の間で重大な難病になってきている様々な病、例えば軟組織肉腫や悪性リンパ腫や呼吸器癌等の様々な癌、認知症パーキンソン病あるいはトウレット病といった病気や、さらにはLGBTQ等の性的マイノリティと呼ばれる人たちを生んでしまうのも、また発達障害と診断される症状を持った人々を生んでしまうのも、これら全て、たとえ一回一回の摂取量はいずれも許容量以下とされる量ではあっても、農薬や保存料や人工甘味料や着色料等の本来自然に存在している物ではない工業的人工的に作られた、生命体にとっては異物でしかない物の混入した喰い物を長年にわたって、あるいは世代を超えて摂取して来たことによって、人体内の遺伝子が傷つけられあるいは変異したためではないか、と私は推測する。・また農薬は、畑や田んぼという生態系において、絶妙なまでに保たれてきた多様な生物の間での共生関係や拮抗関係を崩し、互いの天敵をも殺してしまうために、かえって特定の生物だけを異常に繁殖させたり、特定の病気を発生しやすくさせたりしてしまう。・また化学肥料を連続的に投入することにより、土壌は硬くなり、病害虫を発生しやすくし、次第に、そのままでは作物栽培に適さない土壌にしてしまう、等々。

 

ⅴ.インターネット

実現された便利さ:・ネット上に発信された情報でありさえすれば、誰でも、世界中から容易く集められる。・それも、出版物とは比較にならないほど早く入手できる。・相手がホームページやアドレスを持っていてそれをこちらが知ってさえいれば、世界中の誰とでも、瞬時にアクセスできるし、交信も出来る。・交信をする気があれば、交信を通じて多様な国々の多様な人々と知り合うことができ、相互理解をも深められる。・一国内にとどまらず、世界中に知って欲しい情報や訴えたい実情を、文書の形であれ動画の形であれ肉声であれ、それらを一瞬にして発信できる。・そして正にこのことにより、世界中の同じ考えの人々を結びつける効果的な手段となりうる。・実際にあちこち店を探し回らなくとも、ネット通販等により、それが本当に自分が欲していた物かどうかはともかく、それに近い物は容易に手に入れられる。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態:

・情報を伝えたいと思っている人は、伝えたい情報を、匿名で発信できるため、その情報を発信したのが誰なのか特定されにくい。・それだけに、その発信行為に対しては、責任を問われることは少ないし、また発信者は、責任を曖昧にできてしまう。・昨日までお互いに全く知らなかった、違う場所にいた者同士が、ある目的のために結託して共同行動を取ることができる手段として使われやすい。特にそのように使われて、社会に犯罪を多発させている。・インターネットのシステムに関するそれなりの知識があれば、国家や社会基盤あるいは企業の情報システムに不正に侵入でき、秘密の情報を盗み出すことができるだけではなく、そこにあるデータの破壊や改ざんなどを行なって、国家や社会基盤そして企業の機能を不全に陥らせてしまうこともできるようになる。・しかもその行為をなしたものが誰か特定が難しいために、容易に制止あるいは阻止ができない。・また、同じように、インターネットのシステムを悪用すれば、「サイバー空間」の中で「攻撃」あるいは「戦争をしかけること」さえできてしまう(これについては、次に検討するAIについての「望ましからぬ面」とも関係している)。・しかもその場合の攻撃についても、具体的な武力による攻撃ではなく、例えばあえて嘘の動画(フェイク動画)や嘘の情報(フェイクニュース)を流すことで相手の国内や社会を撹乱する、相手の社会資本を機能麻痺に陥らせるという方法による攻撃もありうるため、その攻撃を受ける側にしてみれば、一体いつからそうした攻撃が始まっていたのか気づかないことが多く、また気づいた時にはすでに国内も社会も大変な事態になっていたということにもなりかねないのである。・しかもその場合、攻撃して来た者をすぐには特定することができないために、反撃することをも困難とさせてしまう。・これと全く同じく、匿名で情報を流すことができ、しかもその情報を誰が流したのかは特定しにくいというインターネットの弱点あるいは特性を利用して、自分が直接手を下さずとも、特定の相手をイジメる、あるいは精神的に窮地に追い込むという攻撃をして、最悪の場合、自殺へと追い込むこともできるようになる。・社会に対して権力を持つ者が、社会や国家の「安全保障」あるいは「セキュリティの必要性」という名目の下で、文字通り世界中の一般人や普通の人々のプライバシーを無差別に、しかも当人の知らぬ間に盗み出すということもできてしまうし、盗んだそれを個人の監視や社会全体の統制に利用することもできてしまう。つまり超監視社会を生み出してしまう。・その結果、社会から「個人の領域」や「プライバシー」という概念を消滅させ、人々あるいは国民が自分の領域を守りながら安心して暮らすことを、また人々が互いに信頼し支え合うこと、あるいは団結することをますます難しくさせてしまう。・その結果、「プライバシーは保護されるべきだ」などといった掛け声や法律を実質的に無意味化させてしまう。・むしろ互いに監視し合うことでしか平安や秩序を維持しえないような社会にしてしまいかねない。・そもそもインターネット上に飛び交っている情報は、必ずしも事実あるいは真実とは限らないし、また受け手も、一般にはそれが事実か否か確かめようがない。また、それを信じた人が信じたことによって不利益を被ったとしても、その情報提供者が責任を問われることは、余程のことがない限りない。・その結果、そうした情報がネット上に氾濫すればするほど、社会そのものを信頼性の乏しい社会にさせてしまいやすい。・またインターネットによれば、欲しい情報が、真偽のほどはともかく、それなりのものを、自分がどこにいてもすぐに手に入れられるし見ることもできることから、またどんなに遠くの人にも、瞬時にして自分の思いや情報を指先を動かすだけで伝えられることから、これまで私たち人間が、長い歴史の中で生み出し、培い、洗練させてきた生活文化———母国語としてのひらがなや漢字やカタカナという文字を正しく、また美しく書き、その文字をもって事実や人の思いを紙に書き残し、また残された書物から先人の知恵を学ぶといった文化、———そのものを衰退させてしまいやすくなる。・また、情報を求める人は、ネット上で検索して見出せる情報だけで自然や社会が判ったような錯覚に囚われがちとなる。つまり、自ら足を運んで現場に赴き、自分の目と耳と肌で確かめながら事実や実情を確認し、理解しようとはしなくなりがちとなる。というより、そういうことを面倒くさい、億劫、と思うようになる。その結果、実体験が乏しく、裏付けの乏しい知識だけを頭に詰め込むようになるため、自分で自分の想像力や共感力をますます弱め、創造力をも弱めてしまうとなりがちとなる。その結果、現実に対する適応力や対応力をも弱めてしまい、イザというとき、危険から自分で自分の身を守るということを出来なくさせてしまいやすい。・あるいは、自分の意志や思いあるいは情報を伝達するのに「メール」等による伝達手段の方が手紙や葉書によるよりもはるかに手っ取り早いために、そしてそれは普通、限りなく話し言葉に近い表現で伝えることができるために、無作法や不躾をなくし唐突感を出来るだけ避けるための知恵として人間がその長い歴史の中で生み出してきた一定の様式とか作法が伴った意思伝達手段としての書き言葉や書簡の様式というものを、それも美しい書体の文字をもって伝えるという伝え方の文化も、自分の考えや主張を論理明解に相手に伝えるという伝え方の文化も衰退させあるいは消滅させていってしまう。たとえそうした一連の伝統文化を知っていたとしても、いつしかそれに則ることを億劫とさせてしまう。そうしては、社会における人間関係を軽薄で唐突でガサついたものとさせて行ってしまう。・その結果、そういう軽薄でガサツな文化で育った人がいよいよ社会人となり、然るべき場に臨んで、一定の様式で他者や企業とやり取りをしなくてはならなくなったとき、自分ではどうしたらいいのか判らなくなり、その時点で早くも当人には自信を失わせてしまいかねなくなる。・またインターネットに繋がっていれば、いつ、誰から、どんな情報が入って来るか判らないため、いつも精神はそこに向けられてしまい、落ち着いた自分なりの生活をしにくくさせてしまう。・またそんな中、インターネットは、概して若者たちに対して次のようにして、彼らを苦しめてしまう。すなわち、他者には自分のことを認めてもらいたくて、また「いいね」と評価してもらいたくて拡散してくる見せかけの「幸せ」な姿に惑わされ、その姿を羨ましいと思うと同時に、自分もそんなみんなに認められ評価されようとして自分を偽り、無理して輝いているように見せることに夢中にさせてしまうというものだ。その結果、それぞれ、特定のイメージに合わせては作った自分を見せることを繰り返す中で、いつしか自分を失い、あるいは本来の自分を否定するようになり、いつも他人の「幸せ」を閲覧しないではいられなくなり、依存状態にも陥らせてしまう。中にはそれを続けることで、燃え尽き症候群になり、自分を崩壊させてしまう者すらいる〔6〕。恐ろしい仕掛けだが、このように仕組めるのも、ほんの一握りの人間が巨額の利益を得ることを可能にする資本主義による経済なのだ。・インターネットはデータそのものがカネになる市場であり、そこでは、私たち一人ひとりは、感情や理性を持ち、尊厳を持った人間としては扱われず、もはや顧客でもなく、単なるデータとみなされてしまい、情報の対価としてカネを要求し合う企業間での商品でしかなくなる。つまり、インターネットは資本主義の本質を貫徹させるための手段であり道具でしかないのである。そこでは人間は人間扱いされないのだ。

・インターネット上のたとえばオンラインゲームに打ち興じることにより、家族や友人と会話して一緒の時を楽しんだり、互いに議論をして一緒に同じ物事や出来事を考えたりすることをしなくなり、家族や友人とのふれ合いや心の結びつきを希薄にさせてしまいがちとなる。つまり、インターネットに熱中することにより、かえって他者との人間的なつながりや相互理解の機会を自ら失わせてしまい、人との関係の持ち方を判らなくさせ、また人間関係をますます希薄にさせてしまう。・またそうしたインターネットとの関わり方をする人には、「ニート」や「引き籠り」といった社会から遠ざかった生き方をする若者をますます多く生んでしまいかねなくなる。

・インターネットに依存する人々が増えれば増えるほど、伝統の文化を軽んじ、事実や真実や誠実を軽んじ、本当に信頼でき頼れるものをますます失ない、繋がって居ないとますます不安で居られない人々の社会にし、精神の自由と自律を失い、根無し草の生き方をする人々を増やし、それだけ社会を軽薄にさせ、危機に対する抵抗力のない社会、人々をしてますます将来不安を募らせるだけの社会にさせしてしまう。・結果、かつて先人たちが構成員一人ひとりの「生命・自由・財産」を安全に守るためにと望んで集住し、社会契約を結んでつくりあげて来た社会という共同体を、現代に生きる私たち自らが崩壊させてしまいかねないのだ。