LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.4 便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの————————その2

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7.4 便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの

                    ————————「その2」

これは「その1」に続くものです。

7.4 便利さ・快適さを追い求めることが意味するもの

                       ————————「その2」

これは「その1」に続くものです。

 

ⅵ.AI(人工知能

 AIは正に、今、発展途上にある技術で、結果は未だはっきりとは出ていないし、評価も固まってはいない。しかしそれが目ざしていることが「自ら学習することによって、人間がすること、できること、考えることが人間に代わってできるようにすること」であるとしていることである以上、今後どういうことになって行くかは大凡ながら推測は付くのではないだろうか。

そこで、ここでは、その推測の結果、どういうことになるか、ということをも含めて、検討し、また推察してみる。

人間にとって実現されるであろう便利さ:

・問われたことに対する回答が内容的にも、また文法的にも、適切で正しいかどうかはともかくとして、つねにそれまでに習得した知識や情報そして学習した事柄に基づき、その知識や情報あるいは事柄が多かろうとも、事実上瞬時に分析し、判断して何らかの答えを見出してくれる。・そしてその速さは、人間の比ではない。・それだけに、その時だけは、目的を素早く達成できたと思え、効率も上がったと思える。

その便利さを実現するとき不可避的に同時に招いてしまうであろう負の事態:

・仕事の進め方がいつも定型化している職業分野・産業分野においては、多くの人から職を奪い、その方面での失業者を増やしてしまう。・資本主義の社会である以上、その宿命として、生産性や効率化が優先され、ますますコストが削られて行くことになるから、労働者は、いずれ自分の今の職もAIによって奪われてしまうかもしれないという恐怖を抱くようになり、今の仕事に全身全霊を持って打ち込めなくなる・また、職を持っている人々は、その職を失いたくないがために、賃金の高低には目をつむる傾向が現れてきて、結局今まで以上に自分で自分を無理させ、心身の健康を害しがちになるのではないか。つまり、人生に時間的・精神的ゆとりなどとても持てなくなってしまう人を多く生み出すことにもなるだろう。・否、そのレベルに留まらず、多くの人々は仕事で人生を燃焼し尽くしてしまうか、それまでの職場での人間関係上でのストレスの上にさらにAI によるストレスが増し加わって、精神に異常をきたす人が今まで以上に続出するようにもなるであろう。・仕事を持てている人とAIのために失職した人との間でも分断や分裂が生じ、それは社会的格差を一層拡大させ深化させ、それだけ社会全体は不安を増し、緊張を激化させてしまう。・一方、AIを導入した企業の経営者や、その企業に投資している資本家は、利益が上がれば上がるほど、そこに働く人々に比べてはるかに多くの所得を手にすることができるようになる。つまり「持てる者」だけがますます多くの富を独占できるようになる。・しかしまた、そうなると、社会の購買力を左右する中間層は全体として賃金が伸びないために購買力がつかないから、企業がAIを導入して効率性を上げて生産性を向上させて物を作っても、売り上げは伸びないどころか、却って落ち込んで行くことにもなる。それは結局のところ、企業そのものの首を絞めることにもなる。・つまり、AIは、それがどんなに発達しても、最終的には、社会に分断や格差の拡大による不安や緊張を高めてしまうことにしかならないだろう。・またAIは、それを支えるコンピューターが今後ますます記憶容量を増やそうとも、また計算速度を今後どれほど速めてゆこうとも、人間の必要に応じて物を「創造する」ということもできなければ、人間の良心を「信じる」ということもできないだろうし、人間的な感情を持てないために、他者の苦しみや悩みや痛みを「思いやる」ことなどもできないだろうし、未来を「計画する」ということもできないだろうから、人間の社会の中で大切にされて来た倫理や道徳、あるいは「真・善・美」の意味も価値も失われた、殺伐とした社会しか生み出さないだろう。・さらには、このAIという自律的自己発展型技術は、例えば兵器システム、とりわけ核兵器に搭載されたなら、そのAIは兵器として殺戮の効率性しか考えないだろうから、またその時AIがどのように判断しているかについては誰もわからないし、したがって誰も制御できないから、AIが行動した結果は、核戦争を引き起こし、人類を滅ぼすという最大に悲惨な結果しかもたらしかねない・もちろんその時でも、AIは倫理観も人間的な感情も持たないであろうから、自らの犯したことに「責任を取る」ということもしないだろう。・また、AIが間違った判断をした時、誰が責任を取ればいいのかをも判らなくさせる。・かといって、戦争も常にルールに則って行われなくてはならず、民間人と戦闘員は区別しなくてはならないという戦争を行う場合のルールがあるが、AIは、その場合、何をどのように判断して攻撃対象を決めているかは誰にもわからないから、戦争犯罪とか国際法違反ということを無意味化させてしまう・要するに兵器にAIを搭載することは、殺人を自動化させることであり、人間の生死をAIの意思決定に委ねることでしかなく、これも人類が長きにわたって築き上げて来た人道とか人権という概念、さらにはその行為は正義か悪かという区別をも無意味化させてしまう。・こうしたことから、武力行使の決定に関して、実際にどのような形でそこに人間が関わり、コントロールしてゆく責任を維持するのか、そこを極めて難しくしてしまう。・また、兵器にAIを搭載するということは、国家の責任ある行動とはどのようなものであるべきか、それを明確にすることをも極めて困難にする。・同じく、そもそも人としての判断とは、どういうことを意味するのか、そのことを明確にすることすらも困難とさせてしまう。・こうしたことから、AIは従来の戦争の概念や戦争の形そのものを変えてしまい、誰の目にも明らかな武器や兵器を用いた、これまでの流血の伴う戦争とは違い、そこに特にサイバー攻撃も加わったりすれば、戦争がすでに生じているのか否かさえ、すぐには判断できないような形での攻撃さえ可能とさせてしまい、人類の長い歴史の中で繰り広げられて来た全ての戦争や争いの概念を根本から変えてしまい、人間に対処の方法を失わせてしまう。例えば、敵国内を混乱状態に陥れるために、偽りの動画(フェイク動画)をその場その場で瞬時に作っては、それを敵国内に拡散させて撹乱する、あるいは敵国内のインフラストラクチャーライフラインを機能停止させるという仕方で大混乱に陥れる、という形での戦争をも自在に起こし得るようになる〔7〕。また、生成AIは、その時はそれを活用する者に対しては至って便利という快感をもたらし、その時は効率をも格段に上げるだろうが、しかし、それも結局は、長い目で見れば、それを活用する者や企業の真の能力や実力を停滞させ、さらには劣化させることにもなり、「急がば回れ」という真理を思い知らされることにもなるだろう。・このように、AIは「便利さ」をもたらしてくれる物あるいは技術といった次元をはるかに超えて、人類を滅ぼすという結末すらもたらしてしまいかねないのである。

 

ⅶ.お金

 ただしここでは、実体ある物の交換手段としてのお金というものだけに着目する。したがって、たとえば、証券(債券)、株券あるいはその他の金融商品あるいは金融派生商品については考えない。なぜなら、それらは既に、当初、それを持って誕生した「交換手段としてのお金」という意味も役割も果たさず、むしろ社会構成員間の格差を拡大し、実体経済そのものを撹乱し、社会に賭博(ギャンブル)的性格を蔓延させ、社会の健全性を失わせるだけの存在でしかなくなっているからである。つまり、もしそれらの得失をも検証しようとすれば、その存在自体が既に社会的にはマイナス(負)の面をもたらすだけのものになっているからだ。

実現された便利さ:・その地あるいはその国が貨幣経済の社会である限り、どこででも、その所持金以下の金額の物ならばそれをもって何でも買える。・人間固有の能力の1つである労働の対価として支払うのに手軽である。・銀行あるいは金融機関に預けておくだけで、普通は、利子がつき、元金を増やすことができる。だから便利で都合がいい。

便利さを実現したとき不可避的に同時に招いてしまう負の事態: ・上記「便利さ」の理由により、お金を持てば持つほど自己の物質的欲求を満たしやすくなると考えがちになることから、ますます「お金を持つこと」、「物を持つこと」に執着するようになりやすい。その結果、お金さえあれば幸せでも人の心でも手に入れられる、何でもできるという錯覚に陥りやすくなり、それが社会の秩序を乱す原因となりやすい。・また、お金を貯めることや貯める方法には関心は持っても、持ったお金・蓄えたお金を何か社会のために生かして遣うとか、有効な使い途あるいは意味ある使い途については考えようとはしなくなりやすく、「持つこと」、「貯めること」それ自体が目的となってしまいやすくなる。その結果、持つことや増やすことにますます執着しやすくなり、そのために時には自己の理性を失わせ、自制心を効かなくさせ、社会の弱者や自然界の他生物をも含めた意味での他者の生存の権利や自由の権利を侵すことに鈍感になりやすくなる。・また所持金を預貯金銀行に預けることで、あるいは投資銀行に預けることで利子や儲けを生む経済社会では、ある程度まとまった額のお金を持っている人は、自らは働かなくとも預けるだけで財産・資産を殖やせることになることから、生きるためのお金を稼ぐ他者の大変さや苦労を次第に理解し得なくなりやすい。・さらにこれが高じると、持っているお金をもっと増やそうとするために、より高い利子を支払う借り手に危険を承知で貸せること、より手っ取り早くより多くの儲けを期待できる投資先に危険を承知で投機することに心を奪われてしまい、自己の本来持っていたであろうと思われる人間性あるいは理性をいっそう失って行ってしまいかねなくなる。・そのようにして次第により大きな資産・富を形成してくると、それにも飽き足らなくなって、ひたすらより多くの富を蓄えることのみが目的となる。そのために、そのような野心を抱く者たちが裏で結託し、自分たちの持っているお金にものを言わせて、政治献金や賄賂という形で特定の政党の有力と見られる政治家に働きかけ、政府を動かして、社会の既存の税制・金融・経済システムそのものを自分たちのみに好都合なように変更させてしまおうとする。そのことによって、本来「最大多数の最大幸福」をもたらすはずの民主主義政治を歪めてしまうと同時に、国家の構成員の間に経済格差を一層拡大させてしまっている。・そしてそれ自体、「真面目に働けば報われる」とされてきた社会的約束を裏切っていることでもある。・こうして、「儲けることは自由だし、またそれは善である。その際、道徳は無用」という考え方を当然視する経済社会となってゆくのであるが、そこではお金は、当初それに課せられた交換手段としての役割の比重は軽くなり、持つこと・貯めることそのことが目的化してしまい、またその使い途を問われることもなくなって来て、むしろ社会の中で滞留してしまいかねなくなる。その結果、お金はますます当初の交換手段という役割とは矛盾する性格と機能を持つようになり、社会構成員一人ひとりの暮らしを支えるという役割を軽くもしてしまっている。・持てる者は他者の苦しみや傷みを理解しにくくなり、持たざる者は、お金を得ることが最大の関心事となってしまい、社会を成り立たせている人々相互の支え合いや助け合いの精神をかえって失わせてしまっている。・こうして今やお金そのものが、私たちの先人たちが築き上げて来た社会共同体を衰えさせ、自然環境を破壊し、個々人の心から他者への思いやりや寛容の精神を失わせ、結果として、社会の中に正義が行われにくくさせてしまっているとともに秩序をもますます乱し、かえって人々の暮らしの上での不安を高める直接間接の最大要因となっている。等々。

 

 以上の考察から判ることは、近代という時代を生きてきた私たちが、その近代を貫く価値観としての「豊かさ」を成立させる要素の一つとして来た「便利さ」という価値観とは、結局のところ、次のように定義できる概念だった、ということだ。

 

「便利さ」:

 人間の行為と関連する概念であって、ある物事の目的を達成あるいは実現するために、本来ならば最初から最後まで自分の頭で考え、自分の手足を動かして対処しなくてはならないものを、その全行程あるいはその一部を利器あるいはシステムに代行してもらえることであり、またその時に味わえる気分ないしは境地のこと

 

 次に「快適さ」についてである。

もちろんこの場合の快適さをもたらす物についても、それは、自然がもたらしてくれるそれではなく、あくまでも人工的に創り出された物、それも工業的に大量生産された物についてである。たとえば、それに該当すると思われる物にはクーラー、エアコン、水洗トイレ、抗菌グッズ、消臭剤、除菌クリーナー、等々といったものが考えられる。

 しかしここでの検討方法は、既述したとおり、具体的工業産物を取り上げて、そのそれぞれについて検討するというのではなく、「快適」という快感の持つ一般的特性についてである。

そしてその場合も、ここでは、誰もが毎日利用し、その中で一度は実感したことがあるであろうと想われる真実を直視するという方法によってである。

それを、ここではトイレを例にとって検討する。

 そこで、今、読者のあなたには、所用を催して、ある場所の、あるトイレに入ろうとしているという状況を頭に思い描いてみていただきたいのである。

ただしそのトイレは水洗トイレではなく、昔ながらの、いわゆる「ぽったんトイレ」である。そしてそのトイレには消臭剤も芳香剤も置かれてはいないし、換気扇も置かれてはいないし、開いた窓もない、とする。

そしてその場合、あなたは今入ろうとしているトイレは、誰か他の人が利用した直後だと仮定する。もちろんあなたは普通の嗅覚の持ち主とする。

 すると、あなたは、入った瞬間、どうだろう。他者の残した特有の「匂い」を感じるはずだ。そしてそのとき、あなたは多分それを「不快」と感じるのではないだろうか。

でも、その時、それでも少し我慢してそこにいるとどうだろう。いつのまにか、入った直後に感じた匂いは気にならなくなり、不快感もいつの間にか消えてなくなっているのではないだろうか。

 そうやって、用が済めば、あなたはその密室空間から出るわけである。

 ところが、今あなたは用は済んだと思ったのだが、その日はたまたま腹の調子がよくなくて、しばらくしたらまたトイレに行きたくなったとする。そしてそのとき入るトイレはさっき自分が利用したばかりのトイレとする。

 ではそのときは、どうだろう。たとえ自分の残した匂いでも、なんらかの不快感というか違和感を感じるのではないだろうか。でも普通の嗅覚を持っているあなたには、それはごく自然のことで、いつものことだとして受け流すのだろう。

 つまりこうした経緯は、一般に「快適」とか「不快」、あるいは「快適感」とか「不快感」という言い方で表現される刺激に対する人間の反応の仕方、つまり感覚についてのある真理を表している、と私には思われるのである。

その真理とは次の3つからなる。

 1つは、その物によって醸し出された状況または環境が同じ程度あるいは同じ状態で続くならば、しばらくすると、最初感じた「快適感」とか「不快感」といった感覚は必ず薄れてゆき、やがては感じなくなってしまう。つまり麻痺してしまう。

 2つ目は、しかし、同じ場所において、最初感じた「快適感」を持続させようと思ったら、その状況あるいは環境をより刺激の度合いの強い状態に変化させなくてはならない。

 3つ目は、でも、さっき浸っていた状況や環境から一旦抜け出て、しばらく時間経過した後、もう一度その状況や環境の中に戻れば、当初感じたと同じ「快適感」とか「不快感」といった感覚が蘇る。

 以上のことから、同じく近代という時代に生きる私たちが「豊かさ」を実現するもう一つの価値観としてきた「快適さ」とは、次のように定義できる概念だったことが判る。

 

「快適さ」:

 その人がいる状況や状態によって生じる気分と関連する概念であって、その人があるモノによって醸し出された一定の状況や状態の下に置かれ続けたなら、その人が最初に感じた気分は必ず麻痺してゆかざるを得ず、もしも当初感じた気分と同じ気分を持続させたいのなら、その状況や状態を醸し出すモノの量を増やすか、あるいは一旦その状況や状態から離れて、間を置いてから元の状況や状態に戻るかしなくては感じられないという特性を持つ気分であり境地のこと

 

 なお、この定義からも明らかなように、この「快適さ」という気分あるいは境地は、「快適感」だけではなく「不快感」という気分や境地についても、またその他のたとえば「満足感」や「幸せ感」、さらには一般に「○○感」と表現できる気分あるいは境地についても同様に当てはまる、と言えるのである。

そしてまた、このことから、この「快適さ」という気分あるいは境地というのは、それを持続させるためには、何人に対しても、「飽くなきまでに」、あるいは「際限なく」それを求め続け、その状態や状況の度合いを増し加えていかなくてはいられないような心の状態にさせてしまう、ということも判るのである。

 

4.検討から判ったこと

 以上の検討結果だけからでも次のことは明確になる。「近代」の資本主義の中で科学と技術が生み出したそれらの産物は、どれも、例外なく、その産物によって「実現された便利さ」や「実現された快適さ」という正の面よりも、「負の面」、すなわち「便利さや快適さを実現したとき不可避的に同時に生じさせてしまう不都合で望ましからぬこと」の方が、内容的にも種類的にもそして規模的にも圧倒的に多いということである。しかも、人間に「便利」あるいは「快適」と思わせ、感じさせる度合いや規模が大きい工業産物であればあるほど、実は、それらが人間や社会や自然に対してもたらす「不都合で望ましからぬこと」の度合いも規模も、桁違いに大きくなる、ということである。

 このことは、私たち人類に、今後の工業産物のあり方を考える上で、極めて重大な教訓をもたらしてくれる。それは、せっかく人類が科学を発展させ、その科学を法則的に応用した技術によって生み出した産物は、いずれをとってみても、正の意味で効果があったと言えるのは人間に対してのみであり、それも、負の面との間で差し引きすれば負の意味での効果、つまり不都合で望ましからぬ状態を招いてしまっていたということの方が圧倒的に多く、その上特に、人間の集合体である社会や人間を生かし社会を成り立たせて来た自然に対しては、正の面は全くなく、ただそれらを害するだけのものでしかなかったということである。

 もっと言えば、「便利な物」あるいは「快適な物」と喧伝されてきた物とは、つまるところ、ヒトが生物として生きてゆく上ではもちろん、人間として生きてゆく上でも不可欠な物では決してないどころか、せいぜい「あれば便利」、「あれば快適」といった程度の物でしかなかった、並行して生じさせられた負の面からすれば、まったく取るに足らないほどのものでさえあった、ということなのである。

 

 それだけではない。近代のその科学と技術が生み出したそれらの産物のうち、特に「便利さ」をもたらしたとされる工業産物は、それを用いないで自力で行為した場合に比べて、はるかに早く目的を果たし得るために、その結果として、それを用いる人間をして、次のような様々な事態や状況を生じさせることになったのである。

 それを用いれば、他者の手を借りずに、いつでも好きな時に目的を果たせるようになるために、利己的あるいは自己中心的になりやすく、互いに助け合い励まし合うという精神を失わせてしまい、結果として互いに孤立させてしまう。またそれを用いないで人力だけで対処する他者に対して、その苦労を思いやることもできなくなり、共感力を失ってゆく。また、それを用いれば、他者の手を借りずに、状況に左右されずに、いつでも好きな時に目的を果たせるようになるために、何かと自分の頭を使って工夫することをも忘れさせ、先人たちが築き上げてきた偉大な功績を評価することも忘れがちにさせるとともに、先人たちの人智や人力を超えた存在への畏敬の念や謙虚さをも忘れさせてしまう。

 

 さらには、それを用いる人には、一般に次のような状態をも生じさせてしまっているのである。

例えば、根気の要ることや手間のかかることを「めんどくさい」として敬遠しがちになる。物事を継続して努力したり、物事を自分で工夫しては創造したり思考することを苦手とさせてしまう。好奇心や探究心をもますます失わせてしまいかねなくなる。我慢することや待つことをなかなかできなくさせ、物事の過程や経緯を問うことなく結果のみをすぐに求めるようにもさせてしまう。さらには、その地の気候風土や歴史の中で培われて来た、人間関係を円滑に保ち、団結させるための智慧とも言うべき伝統の行事や生活文化に対しても無関心とさせがちになる、等々である。

そしてそのこと自体、かつてあった人々相互の間の強い絆や信頼関係を弱め、あるいは失わせてしまうことであり、それは忘れた頃にやってくるとされる災害に対して、そうした人たちからなる地域社会を、脆弱な社会にしてしまうことを意味し、かえって自分たちを危険に陥らせてしまうことをも意味するのである。なぜなら、つねに、科学技術が生み出した利器が手元になかったなら自力で対処することもできないようになっているからだ。

 要するに、現代に生きる私たちは、「便利さ」や「快適さ」をもたらすと喧伝されている物を手に入れることに拘れば拘るほど、また、それを多用すればするほど、自分自身を肉体的に衰えさせるだけではなく精神的にも虚弱にさせ、また一人ひとりを互いに孤立させたり、本来、互いの欲求を満足させるために共に住み共に働いては成り立たせてきた社会をも脆弱な社会にしてしまい、その上、人類誕生以来、人も社会をも生かしてきてくれた自然をも汚したり壊したりしてきてしまったのである。

 このように、「便利さ」や「快適さ」をもたらすと喧伝されている物を手に入れることに拘る一人ひとりは、結果として、図らずも現実社会を生きにくくし、住みにくくにもしてしまっていると同時に、広大無辺の宇宙の中で、あらゆる生物が共存できる条件を備え、人間が裸でも生活できる唯一無二の奇跡の星である地球をも、そこで生物が生き続けて行くことをますます困難とさせてしまってさえいるのである。

 そこで、以上のことから、次のような教訓が、いわば箴言として得られるのではないだろうか。

  “人間、誰でも、楽(らく)すると、それは、必ず、いつか、どこかに、楽(らく)した分の何千倍、何万倍、否、取り返しのつかないツケとしてその人に回ってくる。”

 

 では、これまでの便利さや快適さを止揚する便利さや快適さとは何か。

 私はそのことをも、後の章で展開してゆこうと思う。

それらも、全て、これまでの25年間の農業生活の中で考え続けて来たものである。