今、世界では、特に先進国になればなるほど、人々は、「人間の疎外化」という状況が深まる中に置かれています(7.4節)。疎外化、それは、人間が、それぞれ、統一的、全体的視野が失われて一面化あるいは断片化し、互いの関係がバラバラになる孤立化を招き、そして内面的空洞化あるいは人間として浅薄化してゆく、この三つの現象をひとまとめにした言い方です。
そしてその結果として、社会は壊れつつあること、同時に自然も人間の手によって壊れつつあること、さらにその中で、気候変動は半ば必然的に進み、生物多様性の消滅も進んでいること等々についても、すでに述べてきたとおりです。
そんな状況であるからこそ、私たちは、改めて、「人間とは何か」、それは「生物としてのヒト」とは何が違うのかということを真剣に考えてみる必要があるのではないか、と私は思うのです。
なぜならば、資本主義経済に支配されたがゆえにそんな状況をもたらして来てしまった近代という時代は実質的にはとうに終わっていて、すでに「環境時代」に突入してしまっていると私は観るのですが、そしてそうした見方をもし読者の皆さんも少しでも受け入れていただけるのであれば、なおのこと、一人ひとりがそうした問いを発し、一人ひとりがその答えを見出しておくことがとても大切なことになるのではないかと考えるのです。
これからの環境時代においては、近代のそうした失敗を二度と繰り返さないようにして、今度こそ私たちは皆、本物の幸せを実感できるような時代にしなくてはいけないと思うからです。
7.5 生物としての「ヒト」と社会的存在としての「人間」
古くから問われて来たことではあるが、改めて人間とは何であろう。とくに社会的存在とされる人間とは? 一方、生物としてのヒトとは何であろう。両者の間では何が違うのか。
そもそも、ヒトはどうやって人間になれたのであろう。あるいは、どうなればヒトは人間になったと言われるようになるのだろう。
いずれにしてもこれらは難しい問いだ。とくに「人間とは何か」については、古代ギリシャの時代から今日まで、哲学者だけではなく、どれほど多くの人が問い続けて来た問いであることか。それでいていまだに最終的に統一された見方には至っていない。というよりもむしろ、この「人間とは何か」という問いについての答えはますます判らなくなっているというだけではなく、むしろその答えを真剣に求めようとさえしなくなって来ているのではないか、とさえ私には思われる。一方では科学はますます進んでいると言われながら、である。
それほどに、これは難問なのだ。何せ、人間とは何かを問う以前に、「自分とは一体何者なのか」さえ、自信を持って答えられる者はほとんどいないのだ。
それだけにここでは、私は、その問いの答えについて一般的に考えるのではなく、これからの「環境時代」における社会や国家のあり方を考える上でのヒントになるのではないかと思われる範囲に限定して、その範囲内で、生物としての「ヒト」と社会的存在としての「人間」とは何か、について考えることにしようと思う。
それは、これを考えておくことは、これからますます「人間」にとってその是非や扱い方について判断することが難しくなると推測されるバイオ・テクノロジー(生物工学)やAI(人工頭脳)のあり方を考える上でもとくに意義があるのではないか、と私は考えるからである。
ところで、生物としてのヒトとは何かについては、ヒトも生物そのものであるという意味で生命一般の中に括れるのではないかと思うので、それは4.1節で明らかにして来た「生命」の定義の範囲に納めて理解しておこうと思う。
その定義を改めて確認すると次のようになると私には思われる。
「生命」:外界から取り込んだ水と栄養(物質あるいはエネルギー)をその個体の内部の全域に分配し、その結果生じた廃物と廃熱と余分のエントロピーを外部に捨てるという循環過程を持続させることによってその個体としての全体を維持してゆく熱化学機関としての物質的実在であり、さらに、性的に相異なる雄と雌という個体の「調和」的合体により、その雌雄の存在期間を超えて行く新たな個体を生み出す能力を持った物質的実在のこと。
なおその物質的実在としての個体は、その内部と外界との関係が、内部での循環と外界への廃棄ということを通して調和して連結し得ているときには「健康」であり、内部に溜まった廃物・廃熱・余分のエントロピーを外界に捨てることが困難になったときには「病気」になり、それらを捨てることができなくなったとき、あるいは外界との関係が遮断あるいは分断されたとき、さらには外界に捨てる場所・空間がなくなったときには、内部の循環も止まり、全体を維持できなくなって「死」を迎えることになる。
そこで本節では、人間とは何か、とくに「社会的存在としての人間とは何か」に主眼をおいて考えてみる。それも、ポスト近代の、すなわち環境時代における「社会的存在としての人間とは何か」についてである。
そこで先ず、ポスト近代ということに拘らずに、いつの時代においても、社会的存在としての人間になる一歩手前の段階において、つまりこのような能力や特徴を備えていたから社会的存在としての人間となれたと言える特徴とは何かということについて考えてみる。
それは、いくつかの書籍を参考にすると、少なくとも次のようなことが言えるように私には思えるのである。
立って歩く生物である。
考えることができる生物である。
目的を持つことができる生物である。
集団で目的を共有できる生物である。
道具をつくる生物である。それも、ただ単に道具をつくるというだけではなく、加工のための道具をもつくり出すことのできる生物である。
物事を事前に計画することができる生物である。
時を選ばずに食欲を持つ生物である。
時を選ばずに性欲を持つ生物である。
愛の感情を持つ生物である。
つまり、この限りでも、人間とは、必ずしも本能が主導的にはならない生物、少なくとも本能だけでは動かない生物である、と言えそうである。
では、「社会的存在としての人間」となるとは、こうした基礎的な生物状態である上に、さらにどうなることであろうか。
それについては私は、一人ひとりが集団を構成する中で、その集団の中でのそれぞれの体験を通じて、考え、迷い、判断しながら、次のような行動グループに分けられる段階を経て、能力面でも感情面でも豊かになってゆくことなのではないか、と考えるのである。
(段階Ⅰ)
信じること、予想すること、ができる。
思い出すことができる。過去を記憶できる。
孤独を感じたり、淋しさを感じたりすることができる。
他者の感情に共感できる。
(段階Ⅱ)
個としての自己の存在を認められるようになる。
自己の存在を認められようとする。認められたいと思うようになる。
誇りを感じられるようになる。
悩んだり、不安になったりもするようになる。
他者を憎んだり、嫉妬したり、羨んだりするようになる。
他者の物を盗んだり、嘘をついたり、他者を殺したりするようになる。
(段階Ⅲ)
他者と約束を交わし、それを守ることができるようになる。
規則を作り、それを守ることができるようになる。
未来に向かって計画したり、目的を設定したりできるようになる。
みんなで一つのことを信じ、その信じたものの下で、集団を構成することができるようになる。
過去と現在と未来を連続させて考えることができるようになる。
物事の意味や価値を考え、判断することができるようになる。
自分の行動に責任を持てるようになる。無責任とは何を意味し、どういう結果をもたらすかを判断できるようになる。
自分の言動に反省できるようになる。良心を持てるようになる。
恥を恥と感じられるようになる。良心の呵責を感じられるようになる。
美しいものを美しいと感じ、醜いものを見にくいと感じられるようになる。
他者のために自分が役立ち、自分の存在を他者に認められることに喜びを感じられる。
嘘をつくことは集団の秩序を壊す最も悪いことだと判断でき、真実を大切にし、善なること誠実であることを大切にし、美しいと思えることを大切にできるようになる。
結局、ヒトが人間になる、より正確には、「生物としてのヒト」が「社会的存在としての人間」になる、あるいはなれたということは、私は、「生物としてのヒト」が上記したような幾つもの段階からなる過程を経て、最終的な段階と私には考えられる(段階Ⅲ)へと進みゆく状態を言うのではないか、と考えるのである。
なおその場合、「社会的存在としての人間」になる上でとくに重要だったのは、集団を構成しうる契機になる要素としての、信じるものを共有し、意味や価値を考え、未来を考えて計画することが出来たことであり、また、計画したその方向にみんなで行動できるようになったことだったのではないか、と私は考える。
そしてその場合、人と人との間で、関係を急速かつ飛躍的に深め合って行く上でだけではなく、互いに深い信頼関係で結ばれるようにもなってゆく上でも欠かすことの出来なかった要素が、他者を思い、他者への尊敬と愛を土台にした「自由」、とくに「表現の自由」を互いの間で価値として共有したことだったのではないか。それによってこそ人間は、「社会的存在としての人間」に留まらず、互いに初めて「人格的存在」にもなり得たのではないか、と私は考えるのである。
ここに、人格的存在とは、明日の約束ができる存在、昨日の言動について責任をとれる存在、現在の言動に統一性のある存在、ということである(高田求「未来への哲学」p.41と47)。
なお、ヒトが人間になる上で、さらには人間が人格的存在となる上での表現の自由、すなわち、自分の信じるところや思うところを自由に表現できることがどれほど大切なことか、その意義については、6.4節を参照していただきたい。