LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

7.6「人類存続可能条件」が私たちに要求する生き方とは何か。そしてそれを私たちはどうしたら受け入れられるか

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 スエーデンの若干16歳の環境活動家グレタ・トウーンベリさんに触発されて、2019年、数百万人の若者が世界の路上や広場を埋め尽くしました。止まらない地球の温暖化に因る気候変動に危機感を抱いたがためです。それも、あらゆる手段を尽くして、既存のあらゆる社会システムを変えさせようと、政府や企業に訴えるためです。

その運動の中心にいたのはフランスはパリの若き環境活動家たちでした。彼らがそうした抗議行動に出る根拠とした主張はこうです。

“これは私たち人類が、地球で尊厳を持って生きるための闘いです。”(ポリーヌ・ボワイエ)

BS1スペシャル「クライメート・ジャスティス パリ“気候旋風”の舞台裏」2021.1.3NHK

BS1

 彼らはその環境活動の拠点を「ラ・バーズ」と命名しています。

 思えば、あの「ベトナム戦争」を契機にして起り、それが瞬く間に全世界(ロンドン、サンフランシスコ、ローマ、サンパウロ、ベルリン、ハノイ、ワシントン、東京)に広がった、1968年の学生を中心とした運動も、やはりフランスから起りました。

 パリ郊外のナンテール大学の学生たちからでした。それは、既存の社会システムに対して抗議し、それの全面的変革を迫る運動でした。その運動はその後、フランス全土に拡大してゼネスト状態をも現出し、「5月革命」とも呼ばれるようになったのです。

 しかし、それよりもはるか230余年を遡れば、長く続いた近世絶対王政の社会を打ち破ろうとして、「自由・平等・友愛」をスローガンに掲げて立ち上がり、世界に先駆けて「市民大革命」を起こし、近代という民主主義の時代の幕を開けたのもフランスでした。フランスの都市市民でした。

 では果たして、「近代」を超えて、ポスト近代、すなわち私の言う「環境時代」を到来させる上でも、世界をリードし、世界に先駆けて環境時代先進第1号国の名乗りを上げることになるのもフランスなのでしょうか。若者を中心とする市民に導かれたフランスなのでしょうか。

そしてその時、そのフランスとは対照的に、「先進国」と呼ばれながらも、世界で最も恥ずかしい振る舞いをするのは、やはりこの日本なのでしょうか。

 それは、国民一人ひとりが相変わらず自分の頭では考えず、またかつての「江戸時代」には、世界に誇ることのできる世界の最先端を行く「自然と社会の持続を可能とさせる文化」があったことを顧みることもせずに、またこの国には他国にはない地形的な特質があるのにそれを生かそうともせずに、さらには、環境時代に移行すべき意味も目的も深く考えずに、ただ世界の趨勢に乗り遅れまいとして、よその国がやることと同じことを真似しては、「金魚の糞」のごとくにくっついて行こうとする様を意味します。

 もういい加減にそんな情けない状態は返上しようではありませんか。

自分自身と祖国の将来に対して、責任と覚悟を持って立ち上がろうではありませんか。

 

7.6「人類存続可能条件」が私たちに要求する生き方とは何か。そしてそれを私たちはどうしたら受け入れられるか

 

 表題のこの問いに答える前に、私たちが先ずはっきりさせておかねばならないことがある。それは、3.2節にて明らかにして来た、人類存続可能条件としてのエントロピーの総量とは、私たち現在の地球上の人口およそ77億人にとって、平均すると一人当たりどれほどのエントロピーを生じさせることまでを許されることを意味するのだろう、ということである。さらに言えば、その量とは、たとえば石油を燃やす場合を想定したとき、一人当たりどれだけの石油を燃やし、消費することを意味するのか、ということである。

 ただし、3.2節では、私はその概略の数値を計算してはみたが、その計算法方法が本当に正しいのかどうか、計算に入る際の仮定が本当に妥当なのかという点も含めて、世界の関係科学者の協力の下、全世界に共通に通用する、より詳細で信頼できる数値を算出することがどうしても必要であると考えるのである。

 そうすれば、少なくとも、あらゆる個人にとっても、また団体にとっても、そこで定まるある制限値を守ればいいことになるので、2015年の「パリ協定」の三つのポイント(①産業革命前からの気温上昇を1.5℃に抑える努力をする。②21世紀後半には、温室効果ガスの排出量を実質ゼロに。③5年ごとに削減目標の見直しを義務づける。)を守るよりもはるかに判りやすくなるのではないか、と私は考えるのである。

 その際重要なことは、そこで得られた結果は、私たち地球人のすべてに平等に適用される、ということである。先進国の人間だからとか、新興国の人間だからとか、途上国の人間だからという区別や差別はされないものだ、ということである。

 そこで問題となるのは、そうしたことを、特に先進国の人々はそのまま受け入れられるか、ということだ。

 それだけではない。そこで得られた結果は、もはや経済社会が資本主義経済社会であることを、さらにはグローバル経済システムの社会であることを否定し、言葉だけではない、本当の意味での物質循環型経済社会を要求するものであるはずであるが、それをも、特に先進国、ついで新興国の人々は受け入れられるか、ということである。

 このことが意味することは、要するに、もはや地球人類である私たちにとって最も重きを置かれなくてはならないことは、万人が等しく生きて行けること、それも、子々孫々にわたって生きて行けるということなのである。それもできれば、誰もが「幸せ」と感じられて生きて行けることである。決して一部の人、例えば金持ちだけが生きて行ければ良いとか、先進国だけが、新興国だけが生き永らえられればよいということではない。

 だからと言って、私は「共産主義」の社会が望ましいと言っているのでもない。

 そして万人が等しく、永続的に生きて行けるようになり、それも、子々孫々にわたって生きて行けるようになるためには、好むと好まざるとにかかわらず、多様な他生物との共存を実現しなくてはならない。多様な他生物が永続できるためには、それが可能となる自然を人間が回復し、人間が維持しなくてはならない。それは、大気と水と栄養が大地をあまねく循環する自然のことだ。

 こうした関係が維持されていなくては人類の存続は間違いなく不可能となる。

実はそうした関係を図式的に示したものが、4.3節で述べて来た「人間にとっての基本的諸価値とその階層性」の図である。その図において、生命一般にとっての普遍的原理が一番土台の位置を占めているのはそのためである。その原理がまず実現され、しかも常に実現されていることが、万人が等しく永続的に生きて行けるようになるための前提条件となるからだ。

 この図が意味している真理には、多分議論の余地はないであろう。なぜならヒトは、自分(の力)だけで、それも一人で生きているのではなく、常に、必ず、他生物の命をいただくことで生きることが出来ているのであるのだからだ。そういう意味で、私たち人は、「万物の霊長」などと言われてはきたが、実際は、とんでもない。紛れもなく、他生命に生かされて来ているのだ。そのことは、普段、私たちが食べているものは、植物動物あるいは魚介類を含めて、すべて、他生命であることを思い出していただければわかる。そしてそれらを生かしているのも、無数の種類と数の昆虫であり微小生物でありバクテリアまたはプランクトンである。

それらは土壌という生態系あるいは海または水系という生態系に生きている。

 こうしたことを知ってしまえば、当然ながら、そんな人間に、他生物に対して、生殺与奪の権利などあるはずはない。存続しうる他生物の種類を選定できる権利などもあるはずはない。そういう意味では、雑草、雑魚、害虫、害鳥、害獣とみる見方も同類だ。

そもそもそうした他生物に対する見方が、あるいは、自然は人間が豊かになるための手段であるという見方が、今日の生物多様性の消滅の危機を招いてしまったのだからだ。

 こうしたことを考えると、本節表題のテーマである、「『人類存続可能条件』が私たちに要求する生き方とは何か。そしてそれを私たちはどうしたら受け入れられるか」との問いは、私たち日本国民にだけ突きつけられるべきものではなく、むしろ、全人類に共通に突きつけられたものと捉えるべき問いなのである。なぜなら、《エントロピー発生の原理》も《生命の原理》も一国だけで実現できる原理ではないし、『人類存続可能条件』も一国だけで実現できる条件ではなく、いずれも全世界、全人類が協調し、協力し合わねばならないものだからである。

 

 では、全人類に共通に突きつけられたものと捉えるべきその問いに対して、私たちは、まず日本国民として、どう答えるべきなのだろう。

その場合、重要なことは、私たちは誰かの出した答えを真似するのではなく、それぞれが、自分で、自分の責任において出すべきだと考えます。それも、地球市民の一人として。

 では各人が自分に向けられたと考えるべき問いとはどのようなものなのだろうか。

 それは、例えば次のようなものではあるまいか。

 一つは、“ 今、目の前の経済あるいは経済システムを直視しながら、あるいは今、当たり前とされている世界の主流ないしは支配的とされる価値観を直視しながら、このままのシステムそしてこのままの価値観を持ち続けて、このままの暮らし方を続けて行ったなら、自分たちの子どもたちや孫たちの10年後、30年後、80年後の暮らしは、またその彼等の子どもたちの暮らしは、どうなって行くのだろうか。彼らを等しく窮地に追い落とすことになりはしないか。”

 一つは、“そもそも「消費」することが経済活動の唯一の、あるいは主たる目的なのだろうか。消費は目的などではなく、人間が幸福を得る一手段に過ぎないのではないかシューマッハー「スモールイズビューティフル」講談社学術文庫 p.74)。”

 一つは、“多くを消費する人は少なく消費する人より「豊か」なのだろうか。

 そもそも「豊かである」とはどういうことか。私たちが求めて来たのはどういう種類の、どんな中身の豊かさだったのか。それは量の豊かさだったのか、質の豊かさだったのか。”

 一つは、“人間は、生きる上で、「お金」は、いつでも、どこでも、必要なものと思わされ、信じさせられて来たが、とくに前記の二つの問いを考慮するとき、それは真実か。

お金を得る目的のほとんどは、「消費」することを煽られてのものだったのではないか。

 そもそも人が人間として「幸せ」と感じられるようになるために、お金があることは不可欠なのか。何を消費するために「お金」が要るのか、そしてその消費は、本当に自分を幸せにしてくれるのか、それこそが考え直されねばならないのではないか。

なぜなら、その過剰な消費こそが、今日、地球人類が直面している、その存続を危うくしているあらゆる大問題————例えば気候変動問題、生物多様性消滅問題、化石資源のみならず海洋資源・森林資源等すべての資源の枯渇問題、核兵器の拡散と核戦争の脅威の問題————の根源的原因となっているからだ。”

 一つは、“そもそも人間にとっての「幸せ」、それも一時的な幸せだではなく、永続しうる幸せ、しみじみと感じられる幸せとはどういうものなのか。

 今の経済社会、すなわち資本主義経済社会、正確に言えば、一人ひとりの人間を競争に駆り立て、人間を一個の歯車、それもいつでも取っ替えられる安価な歯車としてしか扱われない経済社会、貧富の格差を激化させ、人間同士を分断し、人間同士を切り離してゆく経済社会においては、そんな本当の「幸せ」や「豊かさ」は果たして手に入れられるのか。”

 一つは、“それに、そもそも私たちは、人間として、何のために生きているのか。その目的や意義とは何なのか。また「進歩」とはどういうことなのか。何がどうなることか。

果たして、その資本主義競争経済は私たち一人ひとりにそうしたことを教えてくれたことがあったか。否、資本主義競争経済はそのようなこと、人間に教えられる経済なのか。” 

 一つは、“私たちの子どもたちや孫たちに、私たち以前の大人世代が破壊してきた自然を、温暖化する一方の地球を、多様な他生物がどんどん消滅して行くばかりの地球を残したまま、逝っていいのか。その上、「便利がいい」、「快適がいい」と言っては化石資源を浪費しながら無用な道路や公共事業をはびこらせては、自分では返済する気もない超莫大な借金を国に残したまま逝っていいのか。”

そしてもう一つは、次のような前提に立っての問いである。

 今、人類の存続を脅かしている既述の種類の問題は、どれも、一国だけで対処できる問題ではなく、どうしても全世界が協力し合わねば、実効ある対処も克服もできない、しかし喫緊の問題である。

 ところが今や、「世界のリーダー」としてのかつてのアメリカはない。共産党一党独裁権威主義的政権が続く限り、中国も、どんなに経済力を増大させても、世界のリーダーにはなり得ない。ロシアも同様だ。なぜなら、人間は、誰も、本能的に、自由と尊厳が守られることを欲するからだ。

 また、今、世界では、国のあり方や社会のあり方において人類存続が可能となる模範を示し得ている国はない。

 日本は、「先進国」とは言われるようになっても、国際社会の中で、それにふさわしい責任ある行動をとってきたことは一度もなかった。いつでもアメリカに追従し、アメリカの傘の中で行動して来るだけだった。つまり、こと国際政治の中では、日本はいてもいなくてもどうでも良い国だった。

 そこで、問いである。

 “世界と人類のこうした現状を直視し、それを認識して、日本が本当の意味で、世界平和に貢献でき、人類的課題の解決に貢献できるようになることを望むならば、その時、日本国の主権者である私たち日本国民は、まず私たち自身、これまでのものの考え方や生き方の何をどう変えて行ったらいいのか。またその時、どのような価値観を重視し、どのような社会のあり方をビジョンとして描き、世界のあり方をビジョンとして描き、その実現に向けて、どのような責任ある行動をとってゆけば良いのか。” 

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