LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

はじめに ——— 今のままでは、早晩、日本はもちろん世界人類も生きてはいかれなくなるという私の危機感が本書を書かせた

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itetsuo.hatenablog.com

 

 できたら紙の本にしたいと思い、タイトルを「持続可能な未来、こう築く」として書き溜めてきた原稿を、私の息子の手を借りて、これまで私は30数回にわたって公開してきました。

単行本にしようとしたその内容は《第1部》と《第2部》とから成っています(2020年8月3日公開済みの「目次」をご覧ください)。

《第1部》は、持続可能な未来を築いてゆく上でのこの国と国民のあり方として、土台に据えるべきではないかと私が考える一連の基本的な考え方を明らかにしたものです。

《第2部》では、《第1部》の考え方に基づいて、この日本という国の仕組みや制度を含めて、その具体的な姿や形を明らかにしたものです。

IPCC(気候変動に関する国連の、政府間での専門家集団によるパネル)が幾度にもわたって全世界に向かって警告を発していることからも判るように、人類には今、これからも存続し売るか否かの危機が迫っています。私もそう考えます。しかし、その危機の中で、特に最も早くそれが現実化し、大混乱に陥ってしまうのは、多分、私たちの国日本であり、私たち日本国民であろう、とも私は推測します。

 だからこそ、私は、「持続可能な未来、こう築く」というタイトルの下で、《第1部》と《第2部》の原稿を書き続けてきました。

そして《第1部》の内容はまだ全て公開し終えたわけではありません。《第2部》に至っては、1節も公開してはいません。

 しかし、私は、この辺で、なぜ私が今から20余年も前に「持続可能な未来、こう築く」を書くことを決意したのか、それをより明確にする必要を感じます。それは、本ブログを書き始めた2020年7月27日で述べた内容よりも詳しいもので、この拙著の「目次」における「はじめに」として当初から書いていたものです。

 

 

はじめに

——— 今のままでは、早晩、日本はもちろん世界人類も生きてはいかれなくなるという私の危機感が本書を書かせた

 本書は、もうすぐそこまで迫っていると私にはずっと感じられてきた、日本のみならず地球人類にとっての有史以来最大の危機に対して、その回避策、できれば克服策を、私の考えの及ぶ限り具体的に表わしたものである。

 私が最初にこうした危機の到来を予感したのはサラリーマン時代だった。しかしその時には、私にはまだ世界人類に対する危機感はなく、日本の近未来に対する危機感だけだった。

しかしその後の世界の状況の変化を見渡すと、日本ばかりではなく世界全体にも、それも一部の危機ではなく全般的危機が迫っていると感じられるようになった。

 本書は、私の単なる思いつきの書ではない。当時私の勤務する企業内でのある出来事をきっかけにサラリーマン生活に途中で見切りをつけ、家族を引き連れて思い切って農業へと転向し、その生活と格闘しながら20余年にわたって思索を重ねて来たその結果である。

 具体的な経緯を概略的に記すと次のようになる。

 私は当地に移住する一ヶ月前までは、都内に本社を持つ某ゼネコンに勤務していた。

そこでの在籍期間の大部分は構造力学関係の研究ないしは技術開発の部門で過ごした。

二十数年間勤めたその会社では、多くの有能な上司、人間的に魅力を感じる先輩や同僚に恵まれ、仕事にも、日々、大いにやりがいを感じてもいた。

 しかしその私に、ある大きな決意をさせる出来事があった。

 それは、この国がバブル経済の全盛の時で、日本中が、文字どおりバブルに浮かれ、踊り狂っていると言ってもいい時でのことだった。

 私は、所属長から、これから社内で立ち上げようとしていた研究プロジェクトについてやってくれないかとの打診を受けた。それは、「これからの首都東京の将来像を描いてもらいたい」というものだった。

 それは、それまではずっと構造力学や熱力学また流体力学に関係する分野の研究を主な仕事として来た私だったが、しかし、ちょうどそうした打診を受ける少し前頃から、日本の都市がますます無秩序化して拡大してゆく様を目にする度に、そして全国的にも、それぞれの地域で、かつての特徴あった地方都市の姿が失われて行くのを目にする度に、残念な思いやら淋しい思いを感じていた時であった。と同時に、心のどこかで、果して都市がそのように急速に変貌してゆくことは果たして正しい姿なのか、そもそも都市とはいったい何なのか、どうあるべきものなのか、そしてその時建設会社はどう関わるべきなのか、ということをもしきりと考え始めていた時でもあった。

 だからその時の打診は私にとってはまたとないチャンスに思えたのだった。不思議な偶然を感じた。それまでの問題意識を突き詰められる機会がやって来たと思えたからだ。

 いずれにしても、そのとき私は2つの事象の行方をも考えていた。1つは、今、目の前に展開するバブル経済についてである。こんな異常な事態がいつまでも続くわけはない、しかしそれが破綻した時、この国は一体どうなるのだろう、ということについてである。いま1つは、これからは地球規模での「温暖化」を含む環境問題が、早晩、人類全体にとっての最大の脅威になってくることは間違いないと想われるが、そのときこの国はどうなるのだろう、というものだった。

 それだけに私は、そのプロジェクトをやってみることは、自社の社会的な使命と責任を世に知らしめる絶好の機会にもなるのではないかとの思いもあって、その打診を受け入れた。

むしろその後は、これまでの研究とはまた違う熱の入れようで、そのプロジェクトにのめり込むようにして全精力を傾注したのだった。

 ところが、である。最終報告書を提出したとき、そこに盛り込んだ研究の成果は会社からはまったく評価されなかったのである。少なくとも私の目にはそう見えた。

その報告書は、私たちプロジェクトメンバーの次のような結論を示したものだった。

これからの首都東京のあり方は、これまでのような精緻な人工空間ではなく、環境、とくに生態系との共存を実現させ、人々が人間らしく持続的に暮らして行ける空間でなくてはならないし、そうあってこそ都市なのだとして、その具体的な姿を例示していたのだ。

 ところが、会社側が私たちのプロジェクトに期待していたのはそういう都市ではなかったのだ。バブルがますます盛り上がる中で、文字どおりの超々高層ビルが林立する姿だった。

 実は私はそのことにはプロジェクトを進める途中で薄々気付いていた。そしてそれには私はプロジェクトリーダーとして、どう対処したらいいのか、とひどく葛藤してもいた。

 しかし結局はこう判断したのである。

———こんな狂気じみたバブルがいつまでも続くはずはない、必ずはじける。それにこれからは温暖化はもっともっと加速して行く。そのとき、人々は思ってくれるはずだ。自然と共生する首都で良かった。仮に、あのとき超超高層ビルが林立する都市を造っていたなら、都市市民は取り返しのつかないものを造ってしまったと後悔することになるだろう、と。

 そこで私は、結果については自分が全責任を負うからと前置きし、我々が信じる都市の姿を描き、それを報告書としよう、とプロジェクトメンバーを説得し、決断したのだった。

ところがそのようにして生まれた報告書が見事に無視されたのである。

 私はそのとき思ったのである。「もはやここは、自分のいるところではない」、と。

しかし、その時同時に、私の頭をよぎったものがある。それは、私がこの会社に就職する時、全く初対面かつ突如目の前に現れた某大学院生を信頼して下さり、私が入社できるよう社内で奔走してくださったF氏(後述)の顔だった。

 その方は、その時は既に定年を迎えられて退職され、奥様共々、東京の雑踏を嫌って遠くに引き込まれてしまっていた。

 私は迷った。あの方は、今の私のこんな気持ちをどうお思いになるのだろうか。あの方だったら、こんな時、どう判断されるのだろうか、と。またあの方には、今のこの自分の気持ちをどう説明したら理解していただけるのだろうか、とも。

 しかし、いく日か迷い、葛藤した挙句、私はこう思った。

“結局のところ、これは自分で決断するよりない。あの方に相談したところで、こうした方がいいとか、あーした方がいいと、あの方が言うわけはない。”

 ただ、そこで、私は、最終決断を下すとき、自分にこう言い聞かせたのである。

“あの方にはあれだけのお世話になっておきながら、会社在籍中はその期待に十分に応えることはできなかった。だが自分で決めたこれからの人生ではきっとあの方の期待に応えられるだけの生き方はしてみせる。それが唯一、あの方のご恩と信頼に報いることのはずだから。”

 私はそれからというもの、連日、日中の日常業務が終了して、周囲の社員が三々五々、帰宅し始める頃から自分の第二の進路を定めるための検討を始めた。

それは終電車の時間帯近くまで続くこともしょっちゅうだった。しかし一日の中で、その検討に割ける時間はわずかだったので、遅々として進まなかった。土曜日に出社して、一人、広いオフィス空間で机に向うことも幾度あったろう。

 そうしている中、バブルはやはり崩壊した。そしてそれ以後は、案の定というか、この国は、全体として、急坂を転げ落ちるように転げ落ち始めた。ついこの間までの国を挙げて見えていた勢いは嘘のように消え、産業界や金融業界そして不動産業界はとくにひどく、政府も打つ手なしという感じで、誰もが自信をなくし始めていた。

 私はそのとき思ったのである。このまま行ったらこの国の近未来はどうなるのだろう。それを予測してみれば、その中に自分の第二の進むべき道は見えてくるのではないか、と。

 幸い、その予想を立てる上では、先の都市研究プロジェクトを進める中で集めた様々な資料やデータが手元にあり、それが大いに役立った。

 ところがそれらを綿密に見つめ、照らし合わせながら総合して見てゆくうちに、そこに驚愕すべきというか、震撼させられる日本の近未来の姿が見えて来たのだ。

“今のまま行ったらこの国と国民は、地獄図を見ることになる”、と思えたのである。

 その地獄図とは、この国のあらゆる政治的行政的機能や法制度だけではなく、交通・運輸・物流等ほとんどすべての社会的機能も停止し、人々も何をどうしたらいいのか皆目見当がつかなくなって、日々の生活どころか喰い物すらもほとんど手に入らなくなり、そんな中、もう日常的に略奪や窃盗、さらには殺人が横行するようになって、人々は絶望状態に置かれたままになっているこの国の社会の姿だ。つまり、事実上の無政府状態に陥ったこの国の姿だ。

 私はまたそこで思ったものだ。そんな状態を少しでも回避しうることに貢献できるようになるためには、自分は一体どの方面に進んで行き、そこで何をしたらいいのか、と。

 とにかくその時点までに私がはっきりと認識し始めていたのは、この国は、景気がいい時とか調子がいい時には国民みんなが威勢いいが、一旦予期せぬことが起ってそれまでの状態が続けられなくなると、一気にそれまでの元気をみんなで失ってしまい、狼狽え、誰も新たな方向を見出そうとはしないまま崩れて行ってしまう国だということだ。それは正に、この国は、集団ヒステリー的で情緒的で、冷静に先を見通せない、あるいは起こりうる事態を論理的かつ理性的に想像することもできなければ想像しようともしない国民気質の国であり、それだけになおのこと脆弱ぶりを露呈してしまう国だということだった。

 その脆弱ぶりをもたらしてしまう要因は少なくとも5つあるのではないかと思えた。

1つには、いつもみんなで群がり、同じことを同じようにするだけで、いろんな意味で、多様な人が育っていないことだ。2つ目は、何か事が起こると、その問題の解決を自分たちで議論して図ろうとするのではなく、他者、とくに「役所」に依存してしまう体質が骨身に染み付いていることだ。3つ目は、それだけに一人ひとりは物事を自分の問題として深く考えようとしないし、それに、それぞれが、自分が置かれた状況を冷静に、客観的に知ろうとしないことだ。そして4つ目は、自分が日々暮らして生きている地域社会において、互いに深い信頼関係も連帯感もなく、むしろ互いに孤立している。したがって一旦事が起これば、みな右往左往するばかりとならざるを得ない。5つ目は、都市と田舎は完全に乖離している。都会はもっぱら消費地で、生産地とはかけ離れていることだ。

 そういろいろ思案しているうち、私の頭の中で次第に重みを増して来たのは農業への道だった。農業こそ、いろいろな意味で、自分が家族を引き連れて生きてゆくにはふさわしい道なのではないか、と思えたのだ。

確かにそのとき既に私は、“日本では農業では喰って行けない”ということが巷ではほとんど定説になっていることは知ってはいた。そして実際、地方ではとくに、農業後継者ですらどんどんサラリーマンになって行っているという話も聞いてはいた。

 でも、私はそんな話を耳にするたびに不可解に思ったものだった。農業は人が生きて行く上で不可欠な喰い物をつくり、それを提供してくれる、国の基幹産業のはずだ。そのことは、多分誰もが頭では知っている。なのに、なぜ、そんな大事な農業で人は食ってゆけないのか、と。要するに、そもそも「喰い物」をつくっているはずの農業で、この国では、なぜ「喰っては行かれない」のか、という根本的な疑問だ。

 そこで私はさらに思ったのである。

なぜそうなるのか、自分で農業に飛び込んでみて、そこで生きてみれば判るのではないか。また自分が実際に飛び込んで体験してみれば、喰っては行けないとされる今の農業に代わる新しい農業のあり方というものもひょっとすれば見えてくるかもしれない、と。

それに、我が身は安全地帯に置いていながらただ論評をしているだけの評論家に、日本の新しい農業のあり方が確信を持って見出せるはずもない、と。

 これが私が農業に進むことを最終的に決意した理由であった。それは文字どおり、“虎穴に入らずんば虎児を得ず”の心境だった。

 しかし、そこでもまた疑問と不安が浮かんで来た。

農業とは言っても、どこで、どんな農業をしたらいいのか? そしてその農業で、儲けることは考えなくとも、せめて家族を喰わせて行けるのか? 家族を、とくに幼い子どもたちを路頭に迷わせることになりはしないか?

 しかし、ともかく少なくとも自分が進んでゆこうとしている農業における農法については、農薬も化学肥料も一切用いないものであることには迷いはなかった。とくに農薬は、人間の土地の乱「開発」行為と並んで、否、それ以上に自然環境や生態系を最大に駄目にしてしまうものだという点については、すでに会社時代、私は最後の仕事で十分に知っていたからだ。そしてその農業は、畑一面に単一作物を栽培して、収穫するときには人手を使って一気に収穫しては大消費地にその収穫物をその日のうちに送って生活するという、機械化大農経営というものでもないことも心には決めていた。それは、人間は、自然の中で、自然の力を借りて多様な喰い物をつくり、それを摂取することで生きて行くことがもっとも理に叶っていることであるし———だからこそ人類はこれまでの何万年も生きて来れたのだ————、それに、人を含むいかなる生命体も、たった一種類の他生物を喰うだけでは自己の生命体を維持して行くのに必要十分な栄養素は確保できず、絶えず多様な他生物を喰わねば生きては行けないからである。

 こうして私は、この後は、農業の営み方の具体的な計画に入って行ったのである。

そして、こうした計画がほぼ出来上がったところで会社に「退職願」を出した。西暦1998年2月1日のことである。2ヶ月間の猶予を見て、3月末日で辞めようと考えていたからだ。52歳、定年まで8年を残していた。

 そして退職して一ヶ月後、引っ越しを決行し、私たち家族は当地の住人となったのである。

 

 私は農業を始めてからというもの、会社時代とは違う意味で、一心不乱に農作業に打ち込んだ。少しでも早く農業を確立させ、生活を成り立たせねばと思ったからである。

 しかし、農業を始めると、これまで見えていなかったこと、余り深く考えたこともなかったことが、それも農業分野以外のことが、気になり始めた。とくに政治(家)に対してである。

そして気付いた。この国の政治家という政治家は、その本来の役割・使命を果たしてはいない、その結果、この国の政治全体が機能していないなんていうレベルではなくもはや麻痺している、と。それだけではない。この国は、実態を知れば知るほど、どういう観点から見ても、またどの分野について見ても、既に実質的には崩壊している、と。

たとえば、憲法を含む法制度、経済制度、教育制度、福祉や年金を含む社会保障制度、政治制度、選挙制度、租税制度、公務員制度、科学技術および職人養成制度等々についてである。

またそうした中、政治家はもちろん、その政治家が依存して来た官僚・役人も、これからの時代、何をどうしたらいいのか、もはやさっぱり判らなくなって来ている、とも感じた。だから、これまでやって来たことと同じことを、やって来たとおりにただやっているだけなのだ、ということにも確信を持った。

 そしてこうも思った。本当はこんな時こそ、たくさんいるこの国の各分野の専門家と呼ばれている人たちが、それぞれの立場から、それまでに得た知見を生かして、現状を打開する意見を勇気を持って政治家に向って発言すべきなのではないか。そして、このまま行ったなら近い将来、コレコレしかじかの事態に直面するといった警鐘を鳴らし、だから現状を今のうちにこう変革すべきだ、と提言すべきではないか。そしてそれこそが日頃国民の税金で研究ができている専門家と呼ばれている人たちの、自身と自国民への義務なのではないか、と。

 しかし残念ながら、それぞれの分野の専門家は、大学など公的機関の人も含めて、多くの書物を著してはいるようだが、私の知る限りのそれらの著作物のほとんどどれもこの国の全体状況の中の一部について論じているだけで、目ざすべき方向を語るにしても、抽象的な説明に終始しているだけで、「では具体的には何をどうしたらいいか」、あるいは「こうすればいい」という、現状を変革する上で最も肝心な具体案を示しているものは、ほとんど見当たらなかった。

 しかし、その時も私は思った。もはやこの国は、政治的、経済的、あるいは社会的な諸制度の中のある特定の一部の制度を手直しすれば済むというような状態ではとっくになくなっているのであって、そのような一側面だけを、それも他分野との関連性も考慮せずに、自分の専門分野だからと言って提案したところでいったいどれだけの意味や実現性があるというのか、と。

むしろ、その提案内容が斬新であればあるほど、あるいは画期的であればある程、既存の諸制度との間にはギャップあるいは乖離が生じ、整合性が取れなくなる可能性が高くなることが予想されるわけで、その場合、そこをどうやって調整して行こうとするのか、と。

それと、既往の関連制度の中に旨味を感じていたり既得権を所持していたりする人々や集団にとっては、提案されているその新しい内容は歓迎できないとされる可能性は十分にある。そうなれば、その人たちは改革や変革への抵抗勢力となるであろう。そこをどう考えているのだろうか、と。

 そうでなくても、私が知った限りでも、この国は、戦後ずっと、国民から選ばれた代表である政治家が政治を行っているのではなく、現状維持に固執し、既得権益を守ることを最優先する官僚が事実上独裁して実質的に国を運営してきているのだからだ。つまり現状を変えられることは、現状の制度の中で既得権益を保持して来ている官僚と官僚組織にとっては至って不都合なのだ。

 こうして、私は、世の中に提言された現状変革の構想が受け入れられ、それが実現にまでこぎ着けられるためには、どうしても、一部分だけではなく、あるべき全体あるいは全貌を描いて提示しなくてはダメだ、それにそのようにして全貌を示せば、それを目にする人は、少なくとも次のようには感じ取ってくれるかもしれない、とも思ったのである。

 ある人は、これだったら賛成できる、あるいはできない、と。またある人は、描かれている全貌の中の一部あるいは大部分には同意できかねるが、残りの部分には自分なりの新たな利益と立脚点を見出し得るから賛成できる、と。またある人は、現状の日本を見ると難しい面が多々あるが、長い眼で見たなら、その全体は自分だけでなく自分の子々孫々のためにもなるかも知れないから賛成し得る、と。またある人は、この構想だったら、これが早期に実現されたなら、この国の来たるべき全体的危機は避けられるかもしれない、よしんばそれに近い事態に直面しても、この構想に基づき、本物の国家指導者の下で国民が結集して総力を挙げれば、事態を克服できるかもしれないから賛成しうる、と。またある人は、こんな社会が日本に実現し得たら、日本人全体がこれまでのような閉塞感から脱して、希望と展望を実感できるようになるかもしれないから大いに賛成だ、等々と。

つまり、専門家の書いたものは、その内容は、言ってみれば、森を見ないで、あるいは森との整合性を考えないで、特定の木ばかりを見るような内容になるのであろうと予想されるのに対して、私の書く内容は、各部分は稚拙で未完成ではあっても、全体は一貫した筋が通り、全体を矛盾なく見通してもらえるだろう、と。

 私が本書を書こう、書かねばと決意したのは、こうしたこと諸々を思案した結果だった。

 ただその場合にも大きな問題はあった。

それは、全体像を示すことで、目指すこの国の姿と形、そしてそこに至る道については、これをきちんと読んでもらえる限り、大方の人には判ってもらえるだろうが、では、この国が時々刻々、これまでの制度や体制によって現実に維持されている中で、その制度や体制を根本的に転換させることになる私が描いてみせるこの構想をどうやって実現させてゆくのか、という問題である。

 ここから先は、私には、純粋に方法論の問題となった。

それは、この国は、もはや財源はまったく余裕がないこと、動ける人もきわめて限定されていること、しかも達成しなければならない残された時間は、多分世界中のどこの国よりも短いと想われるということを考慮しなくてはならないからである。

そのため、最大の効率をもって最大の効果を上げ得ると考えられる方法を考え出さねばならない。

 だからと言って「革命」とか「クーデター」というのはこの国には相応しくないし、第一、それでは国民の真の支持を得られないだろう−−−150年前、薩摩長州藩の下級武士が中心となって起こした明治維新は、国づくりの明確な計画もビジョンもないままの、天皇を人質にした上での軍事クーデターだった(原田伊織「明治維新という過ち」毎日ワンズ)———。

とは言え、「世直し」というのは、歴史上、どこの国でも、どうしても一時の大混乱、場合によっては動乱ということも避けられないものだ。

それだけに、その混乱を最短で最小限のもので済ませるためには綿密な計画と戦略が必要となる。

と同時に、まずは国の主権者である国民の大多数に理解してもらえ、協力してもらえるよう、国の指導者となった者から、事前に十分な説明を尽くすことが何と言っても大事なことだ。

その際特に重要となるのは、何のために現状のこの国を大変革するのか、そしてそれは誰のためにするのか、さらには、どのような段階あるいは過程を経て、遅くともいつまでにこの大変革をやり遂げようとしているのか、ということを簡潔明瞭に説明することだ。

言い換えれば、脆弱なこの国を変革し、真の国家、それも持続可能で真の意味で民主主義が実現した耐性のある国家を創建するのだということである。

 なお、ここで、本書の本文の中で、これから頻繁に用いられることになるであろう「持続可能」なる疑念の元になった「持続可能な開発」という言葉の意味を正確に表現しておこうと思う。これは、国連総会の決議の下に設けられた「環境と開発に関する世界委員会」が1987年に国連総会に提出した報告書「Our Common Future(私たちの共有の未来)」のキーワードとなっている重要な概念である。

 持続可能な開発(Sustainable Development):

未来の世代が自らの必要を充足しようとする能力を損なうことなく、しかも現在の世代の必要をも満足させることができるような開発。

 これをもっとわかりやすく表現すると、「われわれの世代だけでは終わりにならない、そして子孫の世代までいつまでも続くことができる開発」、もっと簡潔に言い直せば、「地球の有限性を自覚した開発」となる(林智、西村忠行、本谷勲、西川栄一著「サステイナブル・ディベロップメント」法律文化社 p.23)。

 ともあれ、そんなこんなの経緯をたどりながら書き綴って来たのが本書である。

 なお私は、この本の原稿を書き進める過程で、いつも自分に言い聞かせたことがある。

それは、既存のいわゆる「常識」や「通説」と言われるものには極力惑わされずに、むしろ可能な限り疑ってかかること、というものだった。

それは、それを示して見せてくれたのがデカルトだった。彼はそうすることで、「近代」という時代の幕を明ける上で最大の貢献をしたのである。それがあの「我思う、故に我あり」による、「個」の発見である。

私も、つねに、本当にそれで正しいのか、本当にそれは必要なのか、必要だとしても誰にとって必要なのか、本当にそれがあるべき本来の姿なのか、もっと別の相応しいあり方があるのではないか、等々という姿勢を貫いて来たつもりである。

 そしてこうなるともう、本書を書き進めるに当たって、私には、無関心でいられるモノやコト、ただ漫然と見過ごしていられるモノやコトはなくなったのである。

 本書の内容の全体を、副題にあるように、2つの原理に貫かれた一貫したものにするにも膨大な時間がかかった。

それは「目次」の構成に現れた。

当然ながらそれは一度では定まらないため、幾度も構成し直した。

アッチコッチと部分を執筆しながら書き進めるのであるが、その場合、目の前に私には本の内容と関連する重要な出来事だと思われる出来事が生じると、それをきっかけにして、“この項目も加えねば”、“あの項目も加えねば”と、付け加えるべき新たな項目が頭に浮かんできた。

ところがそれらのほとんどは、それまで自分としてはまったくと言っていいほどに関心を持たずに来たこと、考えてみたこともなかった分野だった。

そんなときには、将来いずれ必要になるだろうと思って買い求めておいた書籍を自分の本棚から引っ張り出して開いてみたり、外国のニュースに登場する人たちのものの考え方や言動を注視したりして自分の考え方を広げようとしてみたのであるが、それでもいつまで経っても自分が納得行くようには内容をまとめらない状態が続いた。そんなとき、“やはりこんな作業、自分には無理なのか”と何度落ち込んだことか知れない。

 やっと書いても、それを全体構成の中に組み込むと、今度は部分的にこれまで書いてきた内容や流れと整合性が取れないところが出てくるのである。そうなるとそれまでせっかく組み立ててきた全体の流れが乱れてしまうので、その場合には改めて全体の流れを再構成しなくてはならなくなったのである。

 こういうことを繰り返しては、全体の流れ、すなわち「目次」を組み立てて行ったのだった。

しかし、幸いにしてその作業は、それまで私の頭の中でゴチャゴチャになっていたこの国にとっての諸問題・諸課題を重要度・緊急度の観点から整理する上で、きわめて役立った。

 結局、こうして目次の全体構成が定まるまでには、少なくとも2年は要したように思う。

 しかしそれが定まると、後は、ひたすら執筆に取りかかるだけだった。

 とはいえ私の場合、専業で農業をしていたから、そして幼い子ども二人を抱えていたから、執筆に避ける時間は、1日の内でも、朝起きた直後のせいぜい2時間程度であった。大部分は家事、育児、そして農業に費やさなくてはならなかったからだ。その日の農作業が終わって、夕食の準備をし、子供たちと夕食を済ませると、もう体も頭も疲れて、執筆どころではなかった。

それだけに、自分で決心したことであるとはいえ、先のことを考えると、果たしてこんな大それたことをやりきれるのか、と、気の遠くなるような思いに襲われることも幾度もあった。

 その上、私は物書きではないし文章力がない。果たしてこんな拙文、人は読んでくれるのだろうか。そんな思いにも幾度駆られたか知れない。そのため、少しでも読んでもらえる文章にしなくてはと、時間をおいては幾度か見直してみたり、またより適切と思われる言葉や表現を捜したりもした。また、寝ていても、ふと新しい発想が浮かんだり、こっちの方がより適切だと思われる表現を思いついたりすると、慌てて寝床から起きて電気をつけ、紙と鉛筆を枕元に持ってきて、忘れないうちにそれをメモしては、朝になってから、これまで書いてきた原稿に反映させる、ということも幾度あったことか。しかし、それとて私には自ずと限界があった。

 そんなことをし、そんなことを思う間にも、私には、この国は崩壊の速度を早めているだけではなく、どんどん世界に後れをもとっている、と感じられるようにもなって行った。それだけに、“一刻も早くこの本を完成させて世に出さなくては”、という焦りも一方ではますます募って行った。

 本当はこんなこと、私のような者がすることではない。この国の政治家という政治家が、とくに国の指導者であり最高責任者でもあるはずの内閣総理大臣が、いわゆる知識人あるいは専門家と呼ばれていて、人格的にも優れた人たちを結集させ、その人たちの手で、言って見れば「救国の書」とでも言うべき提言書をまとめて欲しかった。なぜなら総理大臣こそ、国の舵取りのはずだし、公的研究機関の専門家こそ、国民の税金を受けて、それを為すべき社会的使命と役割を担っている人々のはずなのだからだ。

 だが、この国では、石橋湛山を除く歴代の総理大臣はもちろん、メディアに登場してくるような著名人を見る限り、真の知識人としての役割を果たしている人、この国の危機的状況を真に認識し得ていると思える人は————それに近い人はいたが————、私にはついに一人として見出せなかった。

それだけに私は、“こんなことをしているのは、日本中で自分一人だけなのではないのか”、と思うようにもなって行った。

 考えてみれば、専門家(スペシャリスト)の宿命なのであろう、そう呼ばれている人ほど、その分野の知識や情報は誰よりも詳しくまた豊かであろうが、その専門分野に隣接する分野あるいはそれから遠く離れた分野にはあまり関心がなさそうな人が大部分なのである。

ましてや全体を見渡して、その中に自分の専門分野を位置づけようとしている人などは皆無に見える。

 しかし特に今日の日本にとって本当に必要なのは、全体を俯瞰できる目を持ったゼネラリスト、あるべき国の全体の姿を描き出すことのできる人なのではないだろうか。それも、自然と調和した持続可能な国の全体の姿と形を、抽象的にではなく、具体的に示すことのできる人なのではないだろうか。

そう考えれば、「群盲、象をなでる」の諺が示すとおり、専門家による専門分野の知識の単なる和では、それを示すことは多分無理なのだ。少なくとも一つの考え方で貫かれた全体を示すことは。何故ならば、一国の諸制度や諸要素というのは、互いにバラバラなものではなく、むしろ互いに内的な関連をもって全体を構成しているものでなくてはならないからだ。

 そう考えると、かえって、「農」をすべての土台にして今後の国の全体としてのあるべき姿を捉え直してみようとして農夫になった私のような者こそがこうした本を書くべきではないか、否、私のような立場の者にしか、こうした書は書けないのではないか。

そう思うようにさえなった。そして書いているうちに、誰も私のやっているようなことをやっている人はいつまでも現れて来る風も見られないところから、さらに私は、ひょっとすると自分は、これを書くために生まれて来たのかもしれない、とも思うようになって行った。

 幼い時から、学校から帰ると、毎日のように友と暗くなるまで外で遊び、いたずらもし、またしょっちゅう川(千曲川)や山や池でも遊んで過ごして来た。中学や高校での記憶中心の勉強は楽しいと思ったことは一度もなかったが、大学に進学しては物理学を学び、先輩の影響もあって、そこで本当の意味で物理学を学ぶことの楽しさや面白さを知った。大学院では航空工学を専攻した。しかしイザっ就職しようと思ったら、日本では国際線を飛ぶ大型旅客機を作っている会社はないと知って愕然とした。だからと言って、私は人殺し兵器である軍用練習機の設計に関わるつもりはなかった。結局、考え抜いた末、総合建設業へと進んだ。“破壊のあるところ、つねに建設あり”と信じたからだ。

 そこで、私は大学院在学中、上京の折に、某会社を飛び込み訪問したのである。その時、対応して下さった人事課長Kさんが、“自分は技術的なことはわからないから”と言ってある建築設計部長Fさんを呼んでくれた。実はその方こそ、その後、私が「生涯の師」と仰ぐ人となったのである。

私はその方が社内での仕事上のことを熱く語ってくれている姿を見ているうちに、自分がその方にどんどん惹きつけられてゆくのを感じた。そして思った。“こんな方のいる会社なら、思いっきり、仕事ができるのではないか”と。後で知ったことだが、その方は社内でも「万年青年」の異名をとっておられたのだ。

 結局、その方の人間的魅力に魅せられて、私は、その場で、決意し、なんとかして採用してくれるようその方に強く懇願した。ガッカリするから考え直すようにと一旦は諭されたが、食いつく私を見てか、終いには、そこまでの思いならばと、F部長さんが社内で責任を持って私を紹介して下さるとのことになった。

 私は入社してすぐに研究所に配属され、力学関係の研究を中心とする仕事をすることとなった。上司や人間関係にも恵まれて、仕事も会社も本当に楽しかった。仕事は本当にやりがいがあった。

 なお、サラリーマンとしての最後に携わった仕事は、環境技術の開発だった。

 私は、一度離婚をして再婚した。しかし退職後、当地に来て再び離婚。“農業では喰って行けない”というのが伴侶の言う理由だった。その後は一人で幼児二人の育児をし、家事をしながら農業をした。その農業は、春先、2月に農作業が始まれば、年末のクリスマスまでは、事実上、年中無休だった。

 確かにそれは大変だったが、でもそれを続ける中で、私は実に重要なことを学んだ。

人間が日々を生きるためには少なくともどれだけのことをし続けなくてはならないか、その全体を知り得たことだ。子どもをある年齢にまで育てるということがどういうことであり、どうすることか、何があるか、についてもその全体を知り得たことだ。

 そうしたことの体験のすべてが、そしてその過程で考えてきたことのすべてが、今のこの執筆に直接間接に役立っているからだ。

 実際、その他のことでも、本書に表現されている私の考えは、そのほとんどが、畑や田んぼといった農作業の現場にて、気象や気候の変化を肌で感じ取る中で、成長過程における種々の野菜の姿の変化を観察し、また野菜の種類によって違った棲息の仕方をする虫たちの姿を観察し、気づいたものであるし、思いついたものである。家に帰っては育児・家事をする中で気づいたことだった。

 それらをその都度、忘れないようにと、その場でメモし、帰宅してはパソコンの中にメモした内容をバラバラに書き貯めていって、後々、それらを論理的に組み立て直したのである。

 それだけに本書は内容と論理の厳密さが要求される学術書ではない。あくまでも現状のこの国を変革するための概略的な考え方と具体的な方法を示した提言書である。それに、本書は、現状の行き詰まった国のありようを根本から変革するためには、せめてこの程度のことは事前に考えておかなくてはならないし、この程度の視野で先を見て考えておかねばならないと思って認めたものである。

 だから本書は、たとえば、人間にとって労働することの根本的意義を問わないままの、すなわち「人間」そのものを相変わらず考えないで、単に産業界発展のための安い労働力商品を大量に確保するためだけの安倍晋三の「働き方改革」に見るように、あるいは打ち出す政策すべてが場当たり的でしかもバラバラで、長期的視野に基づくものなどまったくなかったと言っていいこれまでの政策に見るように、これまでの日本政府の事業の提示の仕方や進め方とは、あらゆる意味で対極を成す内容の書である。

 それに、この国は、少なくとも明治以降、国づくりをするにも、戦争をするにしても、目ざすべき目的と目ざすべき姿を明確に描き、それを実現するための戦略を明確にした上で実行に移すということをしたことは一度もなく、また何か事を起こすにも、現場の実情をよく把握した上で論理的に詰めてするということも一度もなく、どちらかといえば常に情緒的気分的で出たとこ勝負といったあり方だったが、本書は、そうした観点からも対極を成すものである。

 したがって読者の皆さんには、本書を読み進められる際には、できるかぎり、絶えず、次の諸点に着目して読み進めていただけるとありがたいのである。

 ①論理的整合性が取れているか。②情緒に流れず、客観的であるか。③誰のため、何のため、といった目的が明確であるか。④細部よりも、まずは大局的な見方や方向性は妥当か。⑤自分だったら、これに代わるどんな新国家を具体的に構想するか。⑥そしてその時の実現手順はどのようにするか。

 

 とにかく本書が、とくに明治政権以来植え付けられて来た私たち日本人のものの考え方と生き方を根本から見直してみるきっかけとなってくれると共に、この日本という国が、惨めな末路を回避しうるようになるというだけではなく、真に持続可能な国へと生まれ変われるための国民的本音の議論が巻き起こるきっかけとなってくれたら嬉しい。

またその際、本書が「カーナビ」ならぬ一つの羅針盤として、議論の方向を指し示し得る一冊の「たたき台」となってくれたなら、私としてはこれ以上の歓びはない。

 そしてその国民的議論の結果として、この国の老若男女一人ひとりが、それぞれの立場で、もはや「自分のできるところから」とか「みんながやっているから」という姿勢ではなく、祖国のために、また愛する子孫のために、「自分として為すべきこと」を自分の頭で考えて見出し、日本国民全体で真摯な議論を起こし、連帯して総力を結集し、この日本が、世界に先駆けて新時代の先頭を行くという意味での真の「先進国」となり、世界に範を示しうる国になって行ったなら、私として万々歳なのである。

そうなったなら、この国は、どんなに希望と活力に溢れた国へと変貌し得ていることだろう。

 

 今、私が何とか本書をここまでの形にし得たのは、何と言っても次の5人の方々に支えられて来たお陰と思っている。その人たちは、そのそれぞれの辿った生き方により、私をいつも無言のうちに、私の信じる道を行けばいいと、励まし導いてくれた。

 その一人が、真下真一先生である。

この方は、私には、先生としか言いようがない方だ。

先生は私が学生時代から私淑して来た、もっとも尊敬する哲学者である。

一度でいいから、先生の講義をお聴きしたかった。

私にとっては、先生は、今もなお、道に迷ったときには決まって、人間としての生き方、立ち返るべきところを教えて下さっている、文字どおり「生き方の師」なのである。

 もう一人は、E・F・シューマッハー氏である。

 私は同氏も直接は存じ上げない。あくまでもその著書を通じてその存在を知っただけである。しかもその著書はたった一冊である。

 でもその書は、私に、思想の面で、そしてとくにこれからの経済のあり方をまとめる上でこれ以上にないヒントを与えてくれた。

 もし同氏の著書に巡り会うことがなかったなら、本書は生まれることはなかったかもしれない。

 もう一人は、K.V.ウオルフレン氏だ。

 この方にも、その著書を通じて私が知ることがなかったなら、本書は確実に生まれてはいなかった。

 同氏は、日本にもすでに何十年と住まわれ、日本のことを、それも日本の現状と将来について、心から案じてくれている著名な国際的ジャーナリストである。

私が同氏の言わんとしていることのどれほどを正確に理解できていたか疑問ではあるが、それでも、書くべき方向を見失うことなく書いてくることができたのは、ひとえに同氏のお陰である。同氏が半世紀以上にわたってオランダと日本に掛け持ちで住みながら、日本を愛し、その二十数冊にわたる日本に関する著書を通じて日本の現状と将来を心配してきてくれたその事実一つを取ってみただけでも、私は、日本人の一人として、同氏の存在と貢献に心から感謝するのである。

 そしてそれと同時に、同氏は、私に、一個の人間として、誰にとっても母国を愛するということはどうすることなのかということをも、身をもって教えてもくれた。

 そしてもう一人は世界中で知らない人はいないL・V・ベートーヴェンである。

 自らの音楽的才能を認めながらも、聴覚を失って行く自分に絶望して、一旦は自分の命を自分で断つ覚悟まで決めた彼ではあるが、彼の音楽的そして人類愛的使命感がその決行を許さなかった。

 そして絶望から蘇った後の彼の生き様こそが私を支え、導いてくれたのである。

 具体的には、着想を得てから40年近くをかけて完成させた彼の人生の集大成とも言える交響曲第9番はもちろん、交響曲第3番、5番、6番、7番。ピアノソナタ第14番、17番、23番、31番、32番。ピアノ協奏曲第4番、5番。そして第9交響曲の直前に作曲された彼の最大の自信作でもある作品123の荘厳ミサ曲。そして最晩年の弦楽四重奏曲第14番と15番。

 作品のどれをとっても、聞き込めば聞き込むほどにそこに現れるベートーヴェンの、自らの運命を鷲掴みせんとするような強固な意志と生き方に圧倒されてしまうのであるが、しかし、私にとって彼から何よりも学ばせてもらったのは、人類愛に基づく音楽的使命感を持って、作曲を重ねる度に、人間精神が昇華して行く階段を上って行くその姿であった。最期は、世界中の苦しみ病める人々に向って、自らの生き方を振り返るようにして、「苦しみを貫いて歓喜に至れ」と呼びかけるその精神の気高さは、もう私には言葉もなく感動的だった。

 一人、身をもって示して生き抜いて見せてくれたその生き方は、ともすれば次々と目の前に展開する現実に挫けそうになる私をどんなにか励まし、勇気づけ、支えてくれたか知れないのである。“自らの信じる道を行け”、“自らの運命に挑め”、と。

 そして5人目は高木史人氏である。

彼は私のサラリーマン時代からの親友である。私が入社し、配属された研究所には既にその部署にいた人物だ。互いの会社時代も、そして私が既述したように先に中途退職した後も、その後、彼が定年退職した後にも互いにずっと家族ぐるみで交友を続けさせてもらって来た親友である。それは、「カイシャ」という営利集団の中にあって、きわめて得難い出会いだった。

 その彼は4年前に物故したが、農業生活に入った私と私の家族を経済的にも精神的にも支え続けてくれた。

 本書をここまで書き続けて来ることができたのも、その彼の存在と励ましを抜きにしては考えられないのである。