LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

第8章 創建を目ざす国家の「理念」・「目的」・「形」

 

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第8章 創建を目ざす国家の「理念」・「目的」・「形」


 この国は、明治維新以来これまで、「殖産興業」・「富国強兵」という公式の国策の下で、戦後は「果てしなき経済発展」・「工業生産力の果てしなき増大」を公式にではなく暗黙の国策としてきた。そして、確かに、1980年代後半では、世界も目をみはるほどの、アメリカに次ぐ、というよりこのまま行ったらアメリカさえ追い抜くのではないかと思われるほどの経済超大国となった。

 本当ならばその時、私たちは「もう、明治からの国の目的は達したのだから、ここら辺で、方針を変え、考え方も変えて、新たな目標に向かって歩みを進めよう」とすべきだった、と、私は思う。

でもそれを言う政治家は誰もいなかった。知識人もいなかった、少なくともメディアによく出てくるような知識人の中には。

 その後、「バブル経済」の崩壊で、この国全体は、今度はそれまでとは打って変わって、急坂を転げ落ちるように勢いをなくし、誰もが自信を失って行った。もうあれから30年が経とうというのに、いまだに立ち上がれてはいない。世界的に温暖化が進んでいるというのに、行くべき新たな道も見出し得ていない。何を重視し、どのような価値観の下で歩んで行くべきかということについても、政治家も知識人も、誰も明確には打ち出し得ていない。

 そういう経過をたどってきたこの国であるが、その中でも、私たち日本国民は、確かに、おしなべて物質的には豊かにはなった。欲しい物は、だいたいの人が手に入れることができた。

 そこで疑問を発したくなる。では、果たしてそれで、私たちは一人ひとり、本当に幸せになれたのだろうか。人間として、他者を大切にしながら、成長し得たのだろうか。

 その答えは、私には、今日の人々一般の物の考え方や行動様式、そして生き方に見事に現れているように見える。あるいはその答えは、多くの人が、自分の将来や国の将来に不安を抱いていて、むしろ昔を懐かしんでいるその世相に現れているように見える。

 

 これまでの《第1部》では、私は、もはや「近代」という時代はどういう角度から見ても終った、否、既にとうに終わっていて、実際には新たな時代に突入してしまっているとの認識を示して来た。もちろん近代が終ったということは、その時代の主流を占めて来た資本主義経済あるいはそれにまつわるグローバル市場経済が通用する時代も終わった、またその経済を支えて来た化石資源を土台としたエネルギーシステムが通用する時代も終わった、近代を主流として支配して来た価値観や思想が通用する時代も終わったということをも意味する、とも述べてきた(1.3節)

 したがってこれらをワンセットとする時代支配要素をこれ以上継続することに執着することは、結果として、人類は、今度は自分で自分の首を絞めてしまう、言い換えれば、経済を発展させられるどころか、経済を発展させようとする行為そのものが却って発展のための足かせとなってしまい、生きて行くこと、存続させて行くことさえ自分で不可能とさせてしまうことを意味する、とも述べて来た。

 それは、今この地球に生じている気候変動を、引き返すこともできないほどに激化させてしまうことになるだけではなく、人間がその恩恵によって生かされて来た生物多様性をも決定的に消滅させてしまい、その結果として、極めて深刻な食料危機や資源不足を招くことになるということがかなりの確率をもって言えるということでもある。またそれは、多分先進国と言われてきた国ほど、その社会には格差と分断がいっそう激化し、社会はいっそう不安定化し、本来共同体であったはずのその社会を崩壊させてしまい、それこそ、ホッブスが言うところの、万人の万人による闘争状態へと突入して行ってしまうことになるということでもある、と私は考えるのである。

 

 以上の捉え方は世界一般に対する私の推測であるが、しかし目を向ける先を日本に限定すると、私は、日本は、世界一般のそれよりはずっと早く、しかも全般的な危機という形で直面するであろうという認識を持っている。それだけ日本は様々な意味で脆弱だ、と見るのである。

そしてその脆弱性を生じさせている最大の根拠は、私は、この日本という国は統治体制が不備であるということ、すなわち真の国家ではないこと、未だに真の国家にはなり得ていないことである、と考えている。

 そのことは、すでに、例えば、阪神淡路大震災でも、その後に起ったオウム真理教によるサリンばらまき事件の時にも証明されていたと思っている。東日本大震災と、その直後の東京電力福島第一原発炉心溶融による水素大爆発時ではそれがもっとはっきりとした形で証明されたと思っている。

 つまりこの国は、イザッ国難というとき、被害者・被災者となった国民はその生命と自由と財産が速やかに救われることはないどころか、むしろ、半ば見捨てられてしまうような国なのだ。

 それが証拠に、「3.11」とその直後の東電福島原発の大爆発が起こってからまる9年が過ぎたというのに、未だに1万3千人に近くの人が仮設住宅住まいを強いられ続けている。200人以上の人が政府の対応の遅さと劣悪さに希望を見出せなくなって自殺しているのである————しかもこうした数字のデータを示して見せてくれたのは、「3.11」の復興のために中央政府内に設けられた「復興庁」ではない。むしろそこでは、そうしたデータは取っていない、とさえ言う。示してくれたのは、福島県庁であり岩手県庁の職員なのだ————。

 しかし、気候変動等がもっと進む今後は、被害状況はそんなものではとても済まない、と私は推測する。そしてその都度、この国の政府は間違いなく「無政府状態」に陥ると予想している————実際、今起こっている新型コロナウイルス感染爆発に対しても、もうすでに、実質的に無政府状態に近い状態に至っているのだ————。

 先に、私は、日本は、世界一般よりはずっと早く、全般的な危機に直面するであろうと言ったが、こうした事実に基づいてもっと先を見ると、この国の私たち民は、このままでは、経済先進国など全く幻想と化し、国民全体が生きてゆくことさえできない惨めな末路を迎えることになる、とも想像するのである。

 そこで、ここでは、この国がそんな惨めな国になるのは何としても避け、いや、ただ避けるだけではなく、もっと積極的に、この日本という国を国民一人ひとりが心から誇りに思える国に変えるには、私たち今を生きる国民は、何をどうしたらいいか、ということについて考える。

それは言い換えると、今を生きる私たちは、この国を、子々孫々に託すに値する国、それも本物の国家としての国を実現させるには、今、何をしたらいいか、ということである。

 その場合、土台に吸えるものの考え方や生き方は、これまで述べてきた《第1部》の内容のものである。それらに忠実に歩みを進めてゆくことこそが、この私たちの国日本を、途中、脱線したり、道を踏み間違えることもなく、そして最短で、真に持続可能な国へと生まれ変わらせられることになるのではないか、と私は考えるである。

 

 そこで、《第2部》のここからは、そうした、真に持続可能な国、そして本物の国家を建設してゆくことを具体的に考える。それは、民主主義を実現した上に、さらにそれよりも高次元の生命主義をも実現した国である。

 もちろんその国づくりは、徹底的に、主権者である国民の総意に基づいて民主主義的に行われる、いわば“人民の、人民による、人民のための新国家づくり”である。断じてこれまでのような、明治薩長政権以来の、そして今日に至ってもなおそれが続いている、“官僚の、官僚による、官僚のための国づくり”ではない。

そしてそれは、文字通りこの国の有史以来初めての、全国民を挙げての大事業である。

 

 ではそうした国づくりと国家づくりに着手しようとする際、私たち国民が、建国事業の主体者として、真っ先に明確にしなくてはならないことは何だろうか。

それは物事を始めるときには何でも、そしていつでもそうであるが、この場合もやはり、どのような理念に基づきそれを進め、最終的には何を実現し、どのような状態の国を目指すのか、そしてそのためには、どのようなしくみや制度から成り立った国とするのか、ということであろう。

つまり、新国家建設の理念であり、目的であり、形をまず明確にすることだ。

もちろんそれらは、新国家建設に当たって、真っ先につくられなくてはならない新憲法の中に明示されるべきものでもある。

 そしてその次に明確にされねばならないことと言えば、そのような国はどうやって、つまりどのような手順あるいは工程を経て、最終的にはいつまでに完成させ実現させるかという全体行程であろう。言い換えれば国家創建のための戦略である。

 

 では新国家建設の理念と目的と形を定め、しかも国家創建のための戦略を定めるにはどうしたらいいか。

そのためには、先ずは、こうした新国家の理念・目的・形を、「たたき台」として誰が作るのか、である。次は、作ったそれを、大至急国民の前に明らかにすることである。そして国民全員にわかりやすい言葉で筋道を立てて説明することである。そうしては、国民各層の率直な意見や要望を汲み上げて、たたき台の中身を修正し、実行可能な内容のものへと高めてゆくことである。

 実は、この国の政府は、日中戦争を起こすときにも対米戦争を起こすときにも、これをしなかった。いかに天皇を絶対視し欽定憲法下にあったとは言え、国民の理解と協力なくしては戦争遂行など絶対に出来ないのに、である。もちろん、開戦に当たって国民の合意を求めることなども一切しなかった。それは、開戦と戦争遂行上の最終的責任を有する統帥権統治権を所持する天皇も、また戦争を実際に遂行する軍部も同様だった。戦争で何を目ざすかについても、誰も国民に説明をしなかった。もちろん、戦争がどうなったら止めるのか、あるいは引き返すかについても、誰も全く考えてもいなかったであろう。

 そうしては、国民を赤紙一枚で戦場に駆り出したのだ。

 無条件敗北を喫した時にも、これら三者———天皇と政府と軍部———は自国民に経緯を説明することなど全くなかった。ましてや国民に謝罪することなども、である。

そのうちに占領軍が入ってきてしまったのである。

 そこで、《第2部》の最初のこの章では、予め明らかにされていなくてはならない前述の2つの事柄のうちの前者である、新国家建設の理念と目的と形について、私なりの考え方を《第1部》に基づいて、「たたき台」として、明らかにする。

本当ならば、国の最高指導者兼最高責任者の公式の命を受けて、本物の知識人・人格の優れた専門家集団がそれを作ってくれるのがふさわしいと私には思えるのであるが、今のところ中央政府にはそうした動きは全く見られないし、またそのような動きを待っている時間的余裕もないからだ。

 なお、新国家建設に先立っての、理念・目的・形等を含む国家存立の基本的条件を定めた新憲法については、後の第16章にて、これも私の考えるものとして示すつもりである。

 また、後者の全体行程あるいは国家戦略については、第14章17章にて明らかにしてゆくつもりである。

 

目ざす国家の理念:

 エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を国づくりの二大指導原理とする。

それは、私たち人間が、地球資源の有限性を前提として、現在世代が人間として生きて行く上で必要なものを満たし続けることができるようにするためというだけではなく、将来世代・未来世代も同様に人間として生きてゆける条件を満たし続けることができるようにするためである。そのために、新国家では、政治制度としての民主主義を実現させながらも、それをも超えた生命主義の実現を目指す。

生命主義、それは、人は本質的には何によって生かされているかという真理と真実の理解の上に立つ考え方である。そしてそれは、これまでの人間中心・市民中心の民主主義を超えるものである。もともと民主主義あるいはそれを考えた市民の視野には他生物の存在は入っていなかったがために、結局は、人間がそれによって生かされて来た地球の自然を汚染し破壊して来てしまったという教訓の上に立つものである。

 さらにその新国家は、世界のいかなる軍事ブロックや軍事同盟にも与せずに、また特定の軍事超大国にも依存せず、国民一人ひとりの“自らの祖国は自らの手で守る”という精神と気概の下で、真の主権国家となる。そこでは、全方位平和外交を主軸としながら中立を維持して、国の平和と安定を維持してゆく。

 その中で、国民が生きて行く上で絶対不可欠な食糧とエネルギーについては、国民自らの手で自前で確保する。

 したがってここで目ざす国家とは、当然ながら、もはや、たとえば明治政府の「富国強兵」と「殖産興業」を国策とするような国家でもなければ、戦後の保守政権が一貫して取って来た「軽武装で、果てしなき経済発展」を暗黙の国策とするような、祖国防衛を他国に任せた、半人前の、しかも国家ですらない国でもなく、国民から直接選ばれた真の指導者の下で、社会の全ての構成員が統合された、統治の体制を整えた本物の国家である。

そして、いつでも、どこででも、堂々と自国の主権を堅持しうる真の独立国である。

 さらには、国際社会の平和と人権そして地球の自然環境の蘇生に具体的に貢献できる国となることを目ざし、支援を求める国と地域に対しても、いつでも相手の立場に立って最大限の支援の手を差し伸べられる国家となることをも目ざす。

 そのためには、私たち国民一人ひとりは、日本国籍を有するという意味での日本人としての自覚と誇りを持ちながらも、もはやその日本人としての意識を超え、アジア人でありながらアジア人としての意識をも超えて、これからは陸続きのアジアとヨーロッパを融合した「ユーラシア」の一員としての意識を持って、国を支え国の発展を図る。

 それは、現状での世界における様々な形での対立や紛争、またそこから絶えることなく生まれて来る莫大な数の難民とその悲惨な暮らしを見るとき、そしてそうでなくとも今、人類の存続の危機が目の前に迫っているという事実を直視するとき、私は次のように思うからである。

 アジアとヨーロッパの中にあって、互いの信教となっている仏教、ヒンズー教イスラム教、キリスト教ギリシャ正教ユダヤ教ではあるが、そして、アジアとヨーロッパの中には実に様々な文化と伝統があるが、これからは、これらを互いに認め合いながら、共に地球人としての意識と自覚を大切にして生きてゆこうではないか、と。

 そしてそうした考え方と生き方を通して、この日本国を、「人間教育」と「福祉」と「文化」の大国、さらに願わくば、「思想」と「実践」の大国となることをも目ざすのである。

 

国家の目的:

 前記した国家の理念を実現できる条件を創り出すことである。

 

国家としての形:

 政治体制としては、民主主義の実現の下に、もはや議院内閣制によるのではなく大統領制をとり、連邦地域連合体よりなる連邦国家とする。

そして日本連邦は、共和制の統治形態をとる、連邦制法治国家とする。

 

連邦国家とは、複数の州や地域連合体を支分国とし、中央政府である連邦政府———この場合、大統領府となる———の下で、それぞれが互いに権限を明確に分ち持ちつつ、全体として統合された国家のことである。

 したがって、新国家では都道府県や市町村は廃止する。

そしてそれは、明治政権でさえ寡頭政治家の下で「廃藩置県」をやり遂げられたことを考えれば、今の時代、可能だ。それが成し遂げられないはずはないからだ。

共和制体とは、主権が国民にあり、国民が選んだ代表者たちが合議で政治を行う体制のこと。その場合、国民が直接・間接の選挙で国の元首を選ぶことを原則とする広辞苑第六版)

大統領制の下では、大統領が元首となる。

 以上が、新国家建設にあたっての私の考える理念と目的と形である。

 

 そこで、以下は、補足説明である。

では、なぜ大統領制とするか。

その主な理由としては3つある。

 一つは、国の政治的最高指導者を国民が選挙で直接選べるようにするためである。

これまでは違った。この国では、公式に最高指導者兼最高責任者とされてきたのは総理大臣または首相と呼ばれる者だったが、しかし、国民にとっては、彼は国民が直接選んだ人物ではなく、むしろ各政党間での権力をめぐる打算の結果でしかなかったがために、“自分たちの指導者”、“自分たちの首相”という気持ちはどうしても持てなかった。だから、“彼の指示には従おう”という気持ちにもさほどなれなかった。

 このこと自身、国民にとっては淋しいことであるし、またそれだけ国民にとっては、政治を身近なものとは感じられないものとしてしまうことでもある。

 一つは、国民から直接選ばれたわけではない首相自身も、当然ながら自分にはいつも国民が直接付いているという自覚も持てないために、国民の福祉や利益のための行政を思い切って行えないからだ。むしろ、自分は各政党間の利害の産物でしかないと考えてしまいがちだろうから、何をするにも、国民の利益よりも先ずは自分を選んでくれた与党政治家の利害を考えなくてはならなくなってしまう。

 それも、国民にとっては、不幸なことなのだ。

 事実、これまで議院内閣制で来たこの国では、国民の意思が首相に迅速に届いたこともなければ、首相が国民のために迅速に決断し行動したこともなかった。

 一つは、さらに、議院内閣制のこの国では、首相が組閣した閣僚たちは、政治家として不勉強・無知・無策・無能・怠慢・無責任、そして愛国心に乏しく、国民に不忠であって、気概乏しく依存心過多であるために、もっぱら官僚に依存しないでは、格好だけでも自分の職責を果たしているかのように国民に見せることはできなかったのだ。

首相自身、実態は、官僚あるいは官僚組織の「お飾り」でしかなかったし、大臣は大臣で、配下の官僚の「操り人形」となるしかなかったのだ。

 そんな首相や大臣が、官僚や官僚機構をコントロールできるはずもなかったし、思い切った行政的的指導性を発揮することもできるはずもなかった。

要するに、この国を国家としてこなかったのは、歴代の首相であり、また閣僚の全員なのだ!

 

 しかし、国民から直接選ばれたとなると、上記3つの事情は全く変わってくる。

大統領は国民に対して直接責任を負うことになり、常に国民の方を向いていればいいことになる。したがって官僚のロボットになる必要もなくなるし、国家としての統治体制も明確になり、それだけ政策執行の機動性も増すことになるのである。

 実際、アメリカやロシアあるいはフランスを見ても判るように、政策は大統領の一声で執行されている。国民の意思も国家のトップに直接伝えやすいのである。

 

 なお、新国家建設の理念と目的と形をより明確にするためにも、またその新国家はどのようなしくみや制度から成り立った国とするのか、それをより明確にするためには、例えば次の諸事項も、ここで具体的に明らかにする必要があるのであるが、しかしそれらの大部分は新憲法の中でも明らかにされねばならないことなのである。

 したがって、以下の諸事項の説明は、後述する連邦憲法の中で行うこととする(第16章)

例えば、国家の義務、国民主権、国民の個人としての基本的権利とその保障、立法権と執行権と司法権から成る三権分立、大統領と首相の役割、国を構成している構成主体間での権力の関係、およびそれらの法的地位と権限と管轄事項との関係、連邦大統領の役割りと権限、連邦大統領の軍指揮権、連邦議会の役割、とくに上院(参議院)と下院(衆議院)の管轄事項、連邦政府の管轄事項、司法権の独立等についてである。

 

 そこで、ここでは、目ざす国家での連邦と連邦構成主体との間の権力の関係、およびそれらの法的地位と権限と管轄事項との関係のみについて、明確にしておく。

それも、本来、憲法上にて明らかにされるべきことと私は考えるが、予め、ここで、私の考えるそれを明確にしておく。

 それは、これまで、この国では、戦後、都道府県や市町村は自治体と呼ばれ、とくに市町村は基礎自治体と呼ばれながらもそれは名ばかりで、実態はとても自治体と呼べるような公共団体ないしは共同体ではなく、むしろ権力を集中させて、財源を自ら確保する権限も手放そうとはしない中央政府への、誇りも気概も見せず、卑屈な従属体でしかなかったことへの反省に基づくものである。

(1)連邦と州との権力関係と法的地位、および権限と管轄事項との関係

 連邦政府は、各州の政府を通してその州の人々と産業に対して、憲法と法律に拠り自立性と自律性を保障すると同時に、各州の人々の暮らしと産業の存続のための財政的かつ人的な助成をしながら、全州にまたがる次の5つの分野の事業とそれにまつわる事務を責任を持って行う。

−−−−外交、防衛(対内外に対する民生と国土の防衛、すなわち国内的には大規模広域災害に対する予防と対策、対外的には国土防衛を担当する)、通貨(ここでは全国通貨であって、地域通貨は除く)、鉄道、郵便(通信は除く)

(2)州と地域連合体との関係

 州は、集落ないしは集落群と都市とから成る多数の地域連合体から成り、その地域連合体は、それぞれがそれぞれの統治機関としての地域連合体政府(地方政府)を持つ。

州政府は地域連合体政府に対して、三種の指導原理に違反する事業と行為、そして国家の基本法である憲法に違反する事業と行為を除けば、ほぼ完全な自治権を承認しながら、各地域連合体独自の後述する12種にわたる事業に関して財政的にも人的にも支援すると同時に、集落単体あるいは単一の地域連合体では負いきれないたとえば広域の安全と保全(森林警備・山岳警備、河川警備等)や、大規模な人的あるいは自然の災害に遭遇した際の救助・救援活動の場合にも、財政的かつ人的支援を積極的かつ速やかに行う。

(3)地域連合体

「都市と集落の三原則」(第4章4節)に基づき、集い住む人々自身の責任において政治・経済・社会の運営面のすべてに対処(自治)できる限り、集落協同体単体ないしは集落群と都市とから成る地域連合体という協同体は、人口面でも面積面でもその規模は互いに隣接する地域連合体相互の協議により自由とされると同時に、ほぼ完全な自治権憲法により保障される。それだけに、責任も伴う。

 反対に、住民になろうとする人々のうち、その規模では自治に責任を持てないという人の数が過半数を占める場合には、責任の持てる規模にまで分割し縮小しなくてはならない。

 集落協同体単体ないしは一つの地域連合体として、自治権(とくに計画権限と財源確保の権限)を持って行える12種の事業の分野は次のとおりとする。

−−−−①食料の自給。②エネルギーの自給。③自然環境(生態系)の活性化と保全。④教育。⑤福祉。⑥産業。⑦都市(街)づくり。⑧文化。⑨芸術と芸能。⑩科学。⑪外交。⑫安全

  なお、これら12種類の事業の具体的内容については、第13章にて記述する。