LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

9.1 新しい選挙制度  —————————— その1

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9.1 新しい選挙制度  ————————————— その1

 

 日本では、政治家になるためには、また政治家であり続けるためには、「カネ」がかかりすぎるのである。それは戦後から今日までずっとそうだった。それも特に公明党共産党といった組織で選挙に臨む政党を除いては。

 例えば二世議員について見ても、どうやらこんな調子だったのではないだろうか。

 最初は、父親から引き継いだ金銭的財産は莫大だからとして安心してしまうことが多い。ところが、親の後を継いで政治の世界に出るにあたっては、自分にはまだ政治の世界の事情などさっぱりわからないから、そのため、まず、親から引き継いだ「選挙地盤を守る」ためにカネが出てゆく。その場合も、政治家は互いに政敵が多いことから、引き継いだその地盤を守るためには「票を金で買う」しかない。

 では首尾よく政治家になったらなったでどうか。その場合には、「派閥」や「会派」に入らなければならなくなる。それも政治家として「何がしかのこと」ができるようになるためにはできるだけ大きな派閥や会派に入らなければならない。そうでなくては「メディア」も注目してくれないし、ちやほやしてもくれない。ところがその派閥や会派に入れてもらうためには、やはりそれなりのカネも要る。

 入れてもらったならもらったで、その派閥や会派の中で「地位」を上げるためには、またその「派閥や会派の中でカネ」が要る。

 ところが今度は地位が上がれば上がったで、「部下・手下・子分・子飼い」が増える。その「部下たちの面倒」を見るのにもまたカネだ。

そうしているうちに親から譲り受けた財産などたちまちなくなってゆく。そこで、否応なしに家や土地を売ってカネを作らなくてはならなくなる。また、いろいろなことに「不正」とわかっていても、手を染めていかなくては政治活動資金を維持できなくなる。それも、自分に言い訳をするような「大義」を見出して。・・・・・。

 そうやって、政治家は、大きくなればなるほど、また有力政治家と言われるようになればなるほどカネが要るものらしい。

 しかし、それは、一般の私たちから見たら、どう考えても、解せない話だ。

そもそも国民の要求を容れて、その命と自由と財産をより安全に守り、福祉を向上させることを第一の使命とする政治家になるのに、またその政治家を続けるのに、どうしてそれほどの金が要るのか、と。実際、最もよく耳にする政治家同士の資金集め手法が「パーティー」券を互いに買っては資金集めに協力し合うというアレだ。

 頻繁にそうせざるを得なくなるというのは、この国の政治の仕組みがどこか歪んでいるからではないのか、と。事実、政治家の起こす大小様々な贈収賄事件はこの国では後を絶たない。

 適当に便宜を図ってやったり、「口利き」をしてやった相手から金品を受け取る買収事件。尤もらしい「公共事業」の必要性を説いては、その工事を特定業者に受注させたりして便宜を図っては、その業者が得た利益の一部を政治家が懐に入れる収賄事件。

 そしてそんな時、よく表面化しては、ニュースのネタとなり、社会を騒がせてきたのが、政治家のいわゆる「政治資金管理団体」による、いわゆる「政治資金規正法」違反、あるいは「政治とカネの問題」だ。

 果たしてこうしたことが、この国では、中央政治でも地方政治でも、一体どれほど繰り返されてきたことか。そしてその度に、いったいどれほど、国民の政治あるいは政治家への信頼を失い、政治家が国民全体のモラル低下に拍車をかけてきたことか。

 ところが、である。そのたびに、メディアも関係専門家の間でも、大騒ぎはするが、問題の本質をえぐりだすというところまでは決して行かず、表面的な議論だけでいつも終わってしまう。結局は、「政治にはカネがかかるんだ」という言い方で幕引きがされてしまう。

 

 ではそのように頻繁に犯罪を犯す政治家たちは、政治の場面では政治家としての本分、すなわち使命と役割を果たしているのであろうか。答えは「ノー!」だ。

その実態は既述(2.2節)して来たとおりである。そしてその実態は犯罪を犯すような政治家だけではない。与党政治家であれ野党の政治家も全く変わらない。

とにかく国会を含む議会の政治家すべてに共通していることは、誰もみな、それぞれ自分が選挙時以来掲げてきた「公約」を実現させるなどケロッと忘れて、ただ議場に席を並べ、時折、自分の支持者へのパフォーマンスなのであろうか、いかにも自分は今、“議会でこうして活躍をしているんです”と言わんばかりの態度で、「質問」して見せるのだ。

 それも、質問は、同じ議場の他政党の政治家に向かってではない。本来、三権分立なのだから、立法機関であるそこにいてはならないはずの、執行機関である政府の者に向かってなのだ。

つまり、この国の政治家という政治家は、議会は質問の場ではなく立法の場であるということすら判ってはいないのだ。いや、そんなはずはない。知っていて、無視しているのだ。

なぜか。多分その方が楽だからだ。

 つまり、この国の特に国会を含む議会の政治家という政治家は、完全に国民の信頼と期待を裏切り、税金泥棒あるいは詐欺師と化しているのだ。

 

 となれば、政治というものがいかに国民の幸不幸に直接関わる重要な社会制度であるかということを考えるとき、上記して来たような、国民にとって極めて深刻で不幸な政治家の事態を解消するには、もはや、「政治資金規正法」違反を云々して済むような話では断じてないことがわかるのである。

むしろ、政治のあり方やその質を左右し、そして民主主義議会政治を実現させうるか否かを左右する、政治の出発点である「公職選挙法」そのもののあり方を問わねばならないことがはっきりするのである。それを抜きにしては、この国の「政治とカネの問題」は果てし無く続くことになるからである。

 しかし、ここで少し考えてみればすぐに判ることであるが、そんな「税金泥棒」あるいは「詐欺師」とまで私たちが言わねばならないようなそんな政治家を選んだのは、他でもない私たち国民自身なのだ。この国の政治家の上記したような、あるいはこれまで随所で述べて来たような、目を覆うばかりの惨憺たる状況、情けない状況を生んだのは、私たち国民の、民主主義政治の出発点である選挙に対する理解の浅さと関心の低さ、そして、政治そのものに対する理解と関心の低さと言っていいのである。

「政治家のレベルは、その国の国民のレベルを超えられるものではない」とはよく言われることであるが、私たちの日本にもそれはそのまま当てはまるのである。

 主権者とは、「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持する者」という意味であるが、「主権在民」とは言うものの、主権者である私たち国民が主権者としての義務と責任を果たして来なかったのだ。

 したがってそのことを私たち国民一人ひとりが先ず自覚しないことには、ここで述べようとする選挙制度改革を含む現行の政治状況の変革などできるわけはないのである。ということは、言い換えれば、私たち国民は、いつまで経っても真の幸せはおろか、安心できる暮らしも手にすることもできない、ということなのである。それはまた、この国は、世界では当たり前となっている、人並みの民主主義国にさえ、いつまでたってもなれないままとなる、ということなのである。

 

 ところで、これまで、この国で行われてきた選挙は、どこの地域の選挙でも、いつの選挙でも、単なる「儀式」あるいは形式的なものとしか言いようのないものだった。

そこで言う儀式あるいは形式とは、それを行うことの意味を深く問うことなど一切なく、決められた時に、決められた事を、決められた通りにただするだけとした行事、との意味だ。それだけにその選挙は、この国に真の民主主義を実現させることのできる本物の政治家を選び出す制度でもなければ、また育てられる制度でも全くなかった、ということでもある。

 現行の選挙制度については、投票する側の私たち有権者も、また選挙戦に臨む国会議員候補も地方議会議員候補も、いずれも、「選挙」について目的と手段とを履き違え、その意味を理解して来なかったのである。

 本来、選挙とは、この国の最大多数の国民が最大に幸福になれるようこの国の現状を変えてくれる、また変えることのできる能力と変えなくてはとの強い意志を持った政治家を選び出すことなのだ。選挙はそのための手段に過ぎない。したがって、選挙は投票することが目的なのではない。つまり、投票すればお終い、なのではない。

また、投票すること、すなわち私たち一人ひとりが有権者として持つ一票を投じるということは、それを投じる相手である候補者に、その候補者が掲げる約束、即ち公約を実現して欲しいと期待するとともに、公約を実現することができる力としての権力を託すことでもあるのだ。したがって、自分の持つ一票を投じた結果政治家となった者については、彼のその後について、付託された権力を公正に行使して、その公約をきちんと果たそうとしているか、また果たしているかを主権者としてチェックし続ける義務を持っているのである。

 だから、“投票してしまえばお終い”では決してない。むしろ自分が投じた候補者が当選した後の方が、私たち国民の主権者としての義務、国家と社会に対する義務の履行が待っているのである。そしてその義務を次の選挙の結果が出るまで貫き通す態度こそ、この国に民主主義を実現させ、私たちの日々の暮らしを安心できるものにする最も早道になるのである。

 一方、もちろん候補者から見ても、当選することが目的なのではない。目的としてもならない。むしろ当選することは、政治家としてのスタートラインに立つことでしかない。だから、“当選すればお終い”なのでは断じてない。当選して後こそが、自己の愛国心と国と国民への忠誠心の有無を含めた形での、政治家としての能力と資質が試されるのだ。

 そこで、こうしたことを有権者である私自身にも戒めとして言い聞かせながら、以下に、私の考える、この国の、これまでとはまったく違う、これからの新しい選挙制度のあり方について提案してみようと思う。

 

 動機については既に明らかであろうが、それでも、ここで改めて明確にしておきたいと思う。

 これまでの日本の選挙制度は、国政レベルでも、また都道府県および市町村の政治レベルでも、選ばれたはずの者は、国民が納得しうる意味での代表とはとても言えるものではなかった。どこの選挙でも、投票率が50%を割るような状況は常態化しているからだ。

国政レベルでも、最大多数党となったとは言っても、全有権者からの得票率は50%に遠く届かない。

 実際、現在の安倍政権などは、政権を執ったとされる2017年の総選挙についてみても、自民党だけについてみれば、比例代表選挙での得票率は33%、小選挙区制の下では有権者の2割にも満たない支持で「当選」とされた者から成る政党に過ぎない。それでいて議席占有率は61%にもなってしまうのだ(赤旗日曜版2017年12月17日号)。

 これでは国民を代表する政権とはとても言えない。代表していると言えるためには、常識的に考えても、全有権者数からの得票率が最低でも50%、いや政権を執れたと言えるためには、憲法改正必要議員数と同様に、全有権者数の三分の二以上が必要であろう。

 それなのに、安倍晋三も、安倍に任命された閣僚も、当然のように総理大臣をやり、閣僚をやっている。それに、この国の現行憲法はそうした状態を無効ともしていないし、司法もそうした判断を避けている。しかも、ひとたび当選してしまえば、議席占有率61%にモノを言わせて、憲法違反の法律を強行可決したり、憲法上の正規の手続きを無視して、解釈を変えるだけで改憲したことにしたりと、もうやりたい放題だ。

ところがこの国では、首相および政権政党の政治家たちのこうした行為に対して、それを権力の濫用だ、憲法への冒涜だ、と真っ向から論難する政治家もいなければ政党もない。

 そもそも安倍晋三は、憲法を“国の理想を語るものだ”などというとんでもない認識でいる。国民が生きてゆく上での原器あるいは物差しであることも知らない。

こんなところは、例えば、アメリカ合衆国大統領が就任時に、神の前にてなぜ次のように宣誓するのか、その深い意味を、この国の総理大臣になるような者はきちんと考え直すべきだ。

“ 私は 合衆国大統領の職務を忠実に執行し 全力を尽くして合衆国憲法を維持し 保護し 擁護することを厳粛に誓う ”

 さらには、一人一票しか与えられていない投票権の重みが、地域によって2倍から3倍もの差が出てしまうような状態にもなっているのに、政権はそれも放置したままだ。裁判所もその状態を明確な「違憲」とはしない————実はこうなるのも、私は、この国では、司法権が行政権、とくに法務省の官僚から独立し得ていないがためであろうと見ている————。

 そんな中、政権政党を中心に、「合区」だとか「△増▽減」といった、形式的で小手先の「数合わせ」だけで済ませてしまっている。

 したがって今のままでは、この国では、儀式の選挙によって、名ばかりの政治家が選び出され、形ばかりの議会が開かれ、名ばかりの総理大臣が選ばれ、またその総理大臣によって名ばかりの閣僚が任命され、形ばかりの政府、形ばかりの組閣がなされ、軍事超大国に追随しては主権を放棄し、総理大臣を含む全閣僚は、官僚たちがはるか昔に設けた「縦割り組織」に相変わらず一様に依存し続け、名ばかりの国家が形作られてゆくことになる。

 しかも、こんな名ばかり政治家を生み出すだけの選挙制度なのに、その制度は、既述の通り、出馬するだけでも、また当選した後にも、あまりにも無意味な金がかかりすぎる制度なのだ。

それに、ある程度の得票を確保できなければそれを没収するといった供託金制度という制度が設けられていることにも、政治家の誰も異議を唱えない。政治を誠実に志す者は誰もが自由に出馬できていいはずではないか。

 これでは、この国は、首相が誰に変わろうが、政権政党がどこに変わろうが、その政治状況は本質的には何一つ変わるはずはない。むしろ、明治期以来の、民主主義など全く理解しようとすらしない、そして本来公僕でしかない官僚による実質的な独裁が維持されてゆくことになるだけだ。そしてその結果として、この日本という国は、主権者であるはずの国民は、いつまで経っても、何をするにも、またどんな矛盾を目にしても、 “どうしようもないのだ”、あるいは“仕方がないのだ”、“長いものには巻かれるよりないのだ”として、精神的に「打ちひしがれた民の国」(ウオルフレン)のままとならざるを得なくなる。

それだけではない。大惨事が生じても、その度ごとに、この国は事実上無政府状態に陥り、多くの国民の命が救われることなく、いたずらに失われてしまう無情の国のままとなってしまうことも間違いないのだ。

 以上が、私が新選挙制度を提案する動機である。

 

 そして以下が私が新選挙制度を提案する目的である。

それは、一言で言ってしまえば、第8章で述べた、《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》とを二大指導原理とする新国家建設の理念と目的と、その国家としての形を実現できる能力と決意を持った政治家を、国民が国民の手で生み育てられるようにすることである。

 そしてその目的は次の3つの事項から成っている。

⑴ 国会を含むこの国の立法権を持つ議会という議会を、文字どおり「議論の殿堂」、「言論の府」としながら、国民の要求する問題に迅速かつ機動的に対処してはそれに応えられる法律や条例を独自につくることのできる真の立法機関として機能させ、もって名実共に「国権の最高機関」とすることができる本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること。

 そこで言う法律や条例には、政策や、これまでは政府に作らせてきた予算も含む。国民のお金の使い道は、国民の代表が自らの手で作るのである。

  また、これまでは、議会は、執行機関に過ぎない政府から提案された案件に対して、“議会のチェック機能を果たしている”などといった弁明と詭弁の下に、肝心の立法はせずに、「質問」するだけの場でしかなかったが、それを改めさせるのである。

中央政府を含むこの国の執行権を持つ政府という政府を、議会が制定した法律や条例を、官僚や役人をコントロールしながら、政府内組織のこれまでの「縦割り制度」を壊し、必要ならば官僚組織の在り方あるいは公務員制度を国会(議会)に諮ってでも抜本的に変えて、執行させられる、国民の立場に立った本物の政治家を生み育てられる選挙制度にすること。

 言い換えれば、政権を執った多数政党の政治家たちが、選挙時以来各自が掲げてきた公約————それは議会で多数を占める政党が可決して公式となった政策であり法律でもある————を、民主主義実現のために、各府省庁の官僚をして、主権者から負託された執行権力を公正に行使しながら、“こうしなさい”、“あーしなさい”と指示命令し、確実に執行させうる、国民の代表としての本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること。国民の代表である総理大臣あるいは閣僚の指示命令に逆らったり、抵抗することは、国民の「シモベ」としての公僕としてふさわしくないので、その場合には、憲法15条の第1項に則って、人事権を持って躊躇なく罷免または降格すればいいのである。その場合の人事権も選挙当選時に国民から付託された権力に含まれているはずだからである。

最高裁判所を含むこの国の司法権を持つ裁判所という裁判所を、官僚たちの気まぐれな独断による支配ではなく、つねに社会の誰もが平等に扱われる「法の支配」の下で公正な裁判が行われるようにするために、裁判所の人事の任免権や評価権に関しても、行政権を持つ政府の官僚から、あるいはその彼らに操られ、彼らに同調した首相および閣僚からも完全に独立した司法機関と為しうる本物の政治家を生み育てられる選挙制度とすること

 

 これから判るように、私が新選挙制度を提案する目的は、この国を、三権分立が真に確立され、民主主義が本当の意味で実現された国家となしうる政治家を生み育てられる制度とすることにあるのである。言い換えれば、政府の官僚のこれまでのような独裁をことごとく封じ、この国を、真の民主主義議会政治の国、「法の支配」と「法の下での平等」を実現した真の法治国家にすることでもある。

 

 ではその新選挙制度とは具体的にはどういうものか。

それは、以下に順を追って示すが、その要点だけを言えば、選挙運動資金がゼロでも、知名度などまったくなくても、また背後に大支援団体などが存在していなくても、後に示す「6つの条件」さえ満たせば誰でも選挙戦に出られ、またそのための必要資金も公金から支給され、そこで有権者の支持を得られれば政治家になることができ、その後の本来の政治家としての活動ができる必要十分な活動資金も、やはり国民のお金から定期的に支給されもする、とする制度である。

 逆に言えば、その「6つの条件」を満たさなければ、どんなにカネがあろうと、どんなに知名度が高かろうと、どんなに巨大な団体をバックに持とうと選挙戦には出られず、したがって政治家には決してなれないとする制度である。

 それは、選挙戦に臨めるための条件を、金持ちであろうとなかろうと、著名人であろうとなかろうと、そういうことには関係なく、あくまでも公平で公正なものにするためである。

 そしてその「6つの条件」とは、以下に示すような6種のうちのいずれかの公約を掲げられることである。

 

1.日本という国を、政治的舵取りのできる真の指導者を持ち、官僚とその組織をコントロールしながら、また現行のいわゆる「政府組織の縦割り」の打破を含めて、必要に応じて、官僚組織を大胆に変革しながら、議会が決めた政策や法律を速やかに執行しうる真の政府を持った、真の国家とするための具体的な方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約

2.とくにこれまで、この国の政治家が取り上げることを敢えて避けて来たがために事態をいっそう深刻化させて来てしまった、この国あるいはその地域にとっての最重要・最緊急課題を取り上げ、その課題の解決に、立候補希望者なりの具体的解決方法を示しながら取り組むことを決意した公約

3.《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を国家の二大指導原理とすることに国民の合意が得られるように計らいながら、日本に真の民主主義を実現させるだけではなく、さらにそれをも超えた生命主義をも実現させ、この国を真に持続可能な国にする具体的な方法を示した公約

4.日本という国を、国民の生命と自由と財産の安全、そして人権の擁護と福祉の充実がつねに最優先される国にするための具体的な政策案あるいは方法論を取り上げ、その実現に向けて取り組むことを決意した公約

5.不安定化と複雑化を増し、分断化が進む世界に対して、日本が、協調外交を通じてその世界の真の平和と安定に貢献できる具体的な策を示し、それらの実現に努力して行くことを決意した公約

6.今、世界が直面している人類存続の可否がかかった4つの大問題である「気候変動問題」、「生物多様性の消滅問題」、「化石資源のみならず海の資源と山の資源の枯渇化の問題」と「核兵器の即時全面廃棄問題」の解決に向けて、日本としての具体的な策と方法論を世界に向けて示し、それを率先して実行して行くことを決意している公約

 したがって、もしこれらの「6つの条件」とは反対に、あるいはそれとは無関係に、たとえば「安全で快適、災害に強い県土をつくります!」、「人生100年時代。安心な暮らしを支えます!」、そして「時代を担う若者に思いっきり投資します!」といった類いの、抽象的で、単にその時の社会の受けを狙っただけの思いつき程度のものとしか思えない公約を掲げた者や、自分の選出母体や選挙地盤に利益誘導することを公約として掲げているような者は、候補者となる資格はないとしてその場で失格とされる制度である。そのような態度は、民主政治の出発点である選挙を冒涜し、有権者を愚弄し、愛国的態度ではないからだ。 

 振り返ってみれば、当選しても、自分が掲げてきた公約を議会で実現するわけでもなく、とにかく議会でただ質問すること、それも三権分立の原則を自ら破って、議会に役所の者を入れてはその者たちに質問することを政治家の役割と考え来たのは、そうした輩ではなかったか。

 また、当選しても次期選挙で当選することばかりを議員活動の主目的とするがあまり、特定支持者から頼まれて口利きをしたり、選挙地盤の住民の慶弔行事に祝電や弔電を送ったり、また地域の行事や学校行事に顔を出したり、地元民のエゴに応えて利益を誘導したり、はたまた中央行政府からより多くの税金を補助金として分捕って来ることにばかり専念して来たのは、そうした輩ではなかったか。

 とにかくそのような輩は、官僚独裁をはびこらせ、日本の民主主義の実現を阻み、次代を担う若者たちや子どもたちに「政治とはそういうものか」と誤った捉え方を植え込ませ、害毒をまき散らすだけの存在でしかない。

 

 なおここで特に注目していただきたいことがある。それは、この新選挙制度提案目的からも、また選挙に臨める「6つの条件」からも推測がつくと思われるが、ここで私が提案する新選挙制度は、もはや必ずしも政党政治あるいはその存続ということは重視していないということである。

 それは、この国のこれまでの与野党政治の歩みや議会でのやり取りを見ればはっきりする。

 もはや政党政治は実質的にほとんど機能し得ていないからだ。少なくとも、昨今、特にこの国では、マイナス面ばかりが目立つようになってはいないだろうか。

 例えば、各政党の代表からなる国会対策委員会など、実質的に議会を進める上での談合の場となっている。しかもその議会は、既述のように、立法もしないで、事前通告形式で、質問と答弁は一回限りで、答弁者はどうにでも逃げられる全くの儀式だ。それに、当選しても、一旦特定の政党ないしは会派に所属してしまえば、党議拘束によって、かえって自身が本当に実現したいと思っている政策が否定されたり歪められたり、あるいは自分としては賛同しかねる政策案や法案に賛同を強要されたりする。もしそれに逆らったりすると、除名ないしは除籍処分にされたり、次回の選挙から公認候補とされなくなったりして、何かと不自由を強いられるようになる。かといって、まるっきり無所属では、何の存在感も示せない。また反対に、それまで政治などほとんど無関係の分野に生きて来た例えばスポーツ界や芸能界の者が、たまたま有名人だからということで担ぎ出されて当選した者などは、政党の頭数を満たすだけの存在価値しかない。国民にとっては、それこそ税金泥棒で、有害無益だ。

 では政党政治の利点とは一体何だったか。

 私にはほとんど見当たらない。むしろ、自民党公明党がやってきたことを見ても判るように、数に物を言わせて、憲法を無視しながら、質疑はそこそこにして違憲の法制度の裁決を強行するという「代表の原理」や「審議の原理」(山崎広明編「もういちど読む山川の政治経済」p.12)を無視した行為に出ては、憲法を破壊し、立憲主義を踏みにじってきたのだ。

それに、政党、それも大政党になればなるほど、特定企業や産業界からの政治献金という、見返りを期待しての実質的な賄賂が公然ともたらされ、その結果、法が献金業界に有利なように歪められ、社会の不平等や格差を拡大させてきてしまった。

 また政党というものがあるから、それに所属する政治家は、選挙時、票をカネで買うという不正行為も大胆に行ってこれたのだと私は思う。

 また、国会議員についてみるとき、政党というものがあるから、一人当たり2000万円を優に超える歳費を享受しながら、その上さらに、一人当たり4500万円余にも上る、国民からしたら理不尽この上ない「政党助成金」という金が公然と政党に支給されるのである————ただし、共産党だけは、その金を受け取ることを辞退している————。

 また政党というものがあるから、そこに所属してさえしまえば、後はそこに名を連ねているだけで、政党が面倒を見てくれて、政治家然としていられるのである。

 とにかく、これからは、そんな有害無益な政党政治制度速やかに廃止するのである。

 実際、今や、世界各国、特に先進国と呼ばれている国ほど、社会の格差の拡大や、人々の分断の進化に政党は対処し得なくなって来ているように私には見える。それに、地球の温暖化や生物多様性の消滅にも有効に対処し得なくなっているようにも見える。

 そんなことから、これからの政治家は、政党や会派という集団に縛られず、またそれに埋没することもなく、一人であっても、先の「6つの条件」に基づいて行動する政治家こそが、国民から本物の政治家として切実に求められるようになってゆくだろうし、実際、もうそうなって来ているのではないか、と私は思われるのである。

 それは、主権者である国民の声には絶えず真摯に耳を傾け、その要望に応えうる政策案を自らの政治的哲学に由って独自の「公約」として練り上げ、議会においては、自らの弁論術を磨き、他政治家を弁論をもって説得しては、それを公式の政策なり法律なりへと実現してゆこうとする政治家のことである。

 

 では、その新選挙制度は具体的にどのような流れによって構成されるか。

それについては、「その2」にて、詳述したいと思う。