LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

9.2 この新しい選挙制度の実施により期待される効果

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9.2 この新しい選挙制度の実施により期待される効果

 この新しい選挙制度が国民の総意としての決意により実現され、真に公正に実施されたなら、それによって得られると期待される効果は以下に記すように、大方の人々が考えるであろうと思われるそれよりはるかに多くのものがあるのではないか、と私は考えるのである。

それは、これまでとは違い、今度こそ、私たち国民が、私たちの手で、真に「俺たちが選んだ俺たちの代表」と言える人物を「本物の政治家」として、生み育てられるようになるからである。

 その効果を具体的に、そして順不同にして記せば次のようになる。

◯この国を、ようやく、本当の意味での国家と成しうるようになる。

それは、この国が、真の「国民の代表」たちによって、議会が本来の議会となり、「本物の政治的な指導者」————ここでは、大統領————とその彼によって任命された閣僚たちによって政府が本来の政府となり、この国の中央から地方に至る統治の体制が整った本物の国家と成しうる、ということである。

議会が本来の議会となるとは、国会を含む議会という議会が議会独自に法律・条例を定め得る真の議決機関となるということであり、政府が本来の政府となるとは、議会が議決して公式のものとなった政策や法律を、整えた統治体制の下で、最高度に効率良く迅速に執行する真の執行機関となる、ということである。

 このことは次に述べるような多くの重要なことが実現されることを意味する。

それは、国会を含む議会という議会が、この国でも、ようやく真の意味での「言論の府」となり、特に国会は名実共に国の唯一の立法機関となり、真の意味での国家権力(国権)の最高機関となる、ということである。

それは、これからの議会が、これまでのような「三権分立」の政治原則を破っては内閣相手の「質問」という名ばかりのそれも「儀式」としての「論戦」ばかりをして来た場ではなくなり、つねに国民と国家に対する忠誠心の下で、主権者の「生命・自由・財産」を最優先に守るための真の議論を展開させる場となることを意味する。

 このことはまた、これまで国会内において行われて来た、密室での、あるいは報道陣を排除した形で行われて来た特定の政党間だけの「国会対策委員会」という事実上の「談合」も自動的に消滅させられることをも意味する。

それは、この新制度そのものが、前節で述べて来たように、国会を本来の国会とする上では、政党ないしは派閥というものをもはやそれほど大きな存在意義があるものとはみなさなくなるからだ。

 それにこの国会対策委員会こそ、国会を本会議前に議論の行方と決着のさせ方を決定してしまい、それゆえに議会を儀式会場化させてしまうために、国権の最高機関である国会の権威を損ない、「言論の府」であることを名ばかりのものとしてしまう最大の要因の1つともなって来たものだったのである。

 なお、既述の政府が本来の政府となるとは、言い換えれば、政府が、特に中央政府の場合、その中枢である内閣が、これまでのような、国会を無視した「閣議決定」をするような政府ではなくなる、ということでもある。

 それはさらに言い換えると、政府の中枢である内閣の議論の場である閣議が、まともな議論もせず、各府省庁の官僚のトップである次官たちの全員一致になる合同提案案件の追認儀式の場でしかない、ということももはやなくなるということでもある。

 ということは、この国は、明治期以来およそ150年間、延々と続けられてきた「官僚独裁」を、ここへきて、ようやく、国民の手でやめさせられるようになる、ということを意味する。

このことの意味は、国民にとって、計り知れなく大きい。

なぜなら、官僚たちは、独裁を維持するための権力をもはや行使し得なくなるからだ。

憲法上からも明らかであるが、本来は公僕である公務員には与えられてはいない、また与えられるはずもない権力を、これまではしょっちゅう闇で行使して来たが、そしてそれを総理大臣も閣僚も放置して来たが、それがもはやできなくなるからだ。またたとえその権力を行使しても、それは全く意味をなさないものとなるからだ。というのは、これからは、政府の政治家すなわち国民の代表である大統領と、大統領に任命された閣僚らが、これもこれまで延々と慣例として続けられて来た「政府内組織の縦割り」をも突き崩しながら、官僚らをきちんと国民の代表としてコントロールし、また官僚の勤務状態をチェックするようになることから、各府省庁の官僚たちは公務を、それぞれの責任を明確にしながら、勤務しなくてはならなくなるからだ。

 とにかく、政府という政府が、真の政府となる、とはそういうことなのだ。

 そうなれば、これまで巧妙に続けてきた狡猾な手法、すなわち、自分たちに好都合な専門家を選任しては審議会や各種委員会を立ち上げ、座長や委員長をも自分たちで決めては、立ち上げたそれらを自分たちの望む方向に仕切っては、自分たちの所属する府省庁に利益をもたらす答申をさせては、それをもって自分たちの担当ボスである閣僚に立法や制度設計を促すという仕方がもう取れなくなるからである。

 なお、官僚独裁政治を止めさせられるということは、いうまでもなく、それだけこの日本という国を、ようやく国民の悲願でもある本当の意味での民主主義(政治)をも実現しうる下地ができるということでもあるのだ。

 いずれにしても、もはや議会での政治家は、三権分立の原則を破って、議会で「質問」ばかりしていることはできなくなる。政府の政治家も、官僚組織の「お飾り」であったり、「操り人形」であったりしていることも、もうできなくなるのである。 

 

 ところで、私は、先に、この国の官僚たちは、少なくとも明治期以来この方、事実上の独裁を維持するために、本来彼らには国民から与えられてもしない権力(=ヤミ権力、あるいは非公式権力 K.V.ウオルフレン)を、政治家がそうした権力行使の仕方をチェックしないことをいいことにして行使しては、それを果たしてきた、と述べた。

 実はこのことに関しては、例えば朝日新聞毎日新聞も、もちろん讀賣新聞も、そして自ら「公共放送」と自任するNHKも私の知る限り一度も取り上げたことはないし、国民に情報として流したことはないのではないかと思うのであるが、官僚のこうした狡猾な手法は、私たち国民は、絶対に知っておかねばならないことだと、私は考える。

それは、一言で言えば、それは「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」と言えるものだからだ。

 なお、ここで言う官僚には、政府の官僚だけではなく、軍の官僚も、財界の官僚も含まれる。

 実際、昭和10年代における日本は、軍の官僚らによって乗っ取られ、動かされ、その結果、国民は、何も知らされないまま、アジア・太平洋戦争に引き摺り込まれて行ったのだ。

 では、その「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」とはどのようなものを言うのか。

 もちろんもともと公僕たる官僚たちには、特に民主主義の国では、そんなことは絶対に許されてはいないのであるが。いわゆる「シビリアン・コントロール」もそのためにこそあるものなのであるが。

 それは、表向きは、頂点あるいはトップに公式上の権力者・権威者を立てながら、自分たち官僚は、裏に回って、つまり黒子となって、その権力者・権威者を言いくるめ、あるいは説得しては、自分たちが実質的な権力を握り、公式上の権力者・権威者を自分たちの思う通りに操り動かすという手法のことだ。

 最も象徴的な例は、明治期、天皇を「現人神」として統治機構の頂点に立たせ、「建国神話」と「万世一系」を捏造してはそれをまことしやかに流布させ、その統治機構に「天皇制」と命名しながら、特に天皇は自分の意思をはっきり表明しない傾向があったことを一層幸いとして、その天皇を自分たちの思い通りに操ってきたことだ。

 戦後においても、その手法は基本的には続けられてきたと言えるのではないか。

総理大臣や閣僚を国民の前面に立たせながらも、実際には、官僚たちがその裏で、筋書きを作っては、それをもって総理大臣や閣僚らを操りながら、結局は自分たちの思うように国を動かしてきた、と。とにかく総理大臣も、閣僚も、皆、官僚の作文を読まねば、国会でも、メディアの前でも、政治と行政の状況をまともに説明もできないのだからだ。

言い換えれば、総理大臣も閣僚も、いわば、官僚組織のメッセンジャーに過ぎないのだ。

 もちろん、上述した、審議会や各種政府内で、自分たちがヤミ権力を行使しては、自分たちが立ち上げた全ての会議体を、表向きは座長なり委員長なりを立てながらも、実質的には自分たちが自分たちの思惑通りにその会議体全てを仕切っては、自分たちに好都合な立法なり政策実現へと結びつける答申を出させてきた行為もそれだ。

 とにかく、この国の官僚たちの手口は限りなく狡猾で汚い。そして国民に対して冷酷だ(7.1節)。

 ともかく、こうした官僚たちの一連の「この国を乗っ取るための官僚たちの手法」、あるいは「この国を自分たちで動かそうとする官僚たちの手法」に拠る行為が政治家のチェックなしでまかり通ってきたということ、また今もまか通っているということは、これまで幾度も明確にしてきた民主国家の定義の中の「合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合された社会」(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.6)の一字一句、きちんと照合してみれば、この観点からも、この私たちの国日本は、これまでは本当の意味では国家ではなかったし、今もなお国家ではない、と断言できるのである。

 今、東京は霞が関の府省庁に働く官僚たち、また全国に出向している官僚たちは、その官僚になりたての頃は、多分誰もが高邁な志を持っていたのであろうが、「朱に交われば赤くなる」で、また明治期以来の「組織の記憶」も手伝う中で(7.1節)、本人たちも気づかないうちに、人格的にも思考的にも、こうした、みすぼらしく、醜く、人間として最低とも言えるレベルにまで堕ちてしまうのであろう、と私は推測するのである。そして日本の政府の府省庁は、おしなべて人間一人ひとりをそのように変えてしまう体質を明治期以来、ずっと持ち続けている組織なのであろう、とも私は思う。

 何れにしても、こんな欺瞞に満ちた統治体制をとってきた政府というのは、先進国、新興国、途上国の全てを含めても、つまり世界で唯一日本だけであろう。

 とは言え、こうなるのも、結局のところ、何と言っても国民が政治に無関心で来たからなのだ。国民一人ひとりが、祖国と自身に責任を持たずに「あなた任せ」で来たからだ、と私は確信する。嘆いても始まらない。自業自得なのだから。

 

◯この選挙制度が実現されたなら、これまで続いてきた、弊害ばかりが目立ったいわゆる「政党政治」を事実上消滅させられる。少なくとも「政党」というものは、これまでほどの意味はなくなる。

それは、既述したように、この新選挙制度は、立候補者がどの政党に属しているかいないかということはほとんど関係なく、あくまでもその立候補者自身が公約として掲げる政策案がより多くの有権者によって支持されるか否かで政治家になれるか否かが決まる選挙制度であるからだ。つまりこの新制度は、政党本位ではなく立候補者が掲げる政策本位で全有権者から選ばれる方式の選挙制度であるからだ。

 だからこの新選挙制度は、民主主義の根幹を壊すことになる「一票の格差憲法違反」(2012年12月、最高裁判決)などといった事態をも、最初から起こりえなくする。

 実際、選挙区は、国政選挙であったなら国全域が一つの選挙区となり、地方政治レベルの選挙であったなら、州あるいは地域連合体の面積的範囲の全域が一つの選挙区となる。

 なお、政党政治が終わることは、以下に挙げる効果をもたらす。

①これまで数え切れないほど繰り返されてきた贈収賄事件という「政治とカネ」の問題、あるいは「金権政治」をここへ来てようやく止めさせられる。

それは、政党がなくなれば、あるいはあっても大して意味もなくなれば、政党があったればこそ意味を持ち得た「企業または団体からの献金」という名の事実上の賄賂も意味を持ち得なくなるからだ。

かといって、企業や団体は個人には献金しないであろう。献金しても意味はないからだ。

なぜなら、議会では法律も政策も、個人からなる政治家同士の議論の結果としての多数決で決まるものだからだ。

②ということは、言い換えれば、これから作られてゆく法律や制度は、その内容において、社会の様々な階層に対して、これまでよりはるかに公平な内容のものとなることが期待できるということである。

 なぜなら、「企業または団体からの献金」が意味を持った政党政治の時代には、その献金は、少数政党にも寄せられはしたが、額の面では圧倒的に数の力で勝る政権政党に寄せられてきたわけだし、その結果、とくに税制面や金融面等では献金をした特定の産業界や社会の富裕層に有利な法律の成立を可能ならしめ、そのために社会には不平等あるいは貧富の差や格差を拡大させてきたが、もうそうした状況は生まれ得ないからだ。

 したがってこのことは、次のようにも言い換えられる。

政治が産業界(財界)や特定の圧力団体によって歪められ、また支配もされて来た歴史が、これでやっと終ることになる、と。

 

◯もちろんこの新選挙制度は、自動的に、これまではむしろ当たり前とされてきた「一票の格差」をなくし、かつこれもこれまではほとんど顧みられることはなかった、膨大な「死票」が生じることをもなくしてくれる。

これまでの小選挙区比例代表並立制による選挙制度は、既存大政党に圧倒的に有利な制度でしかなく、その上大量の「死票」を生んでしまう選挙制度でしかなかった。

それ自体「法の下での平等」に違反していることだし、“一票の重みが憲法違反の状態にある”ということを云々する以前に、この選挙制度自身が民主主義の実現を阻む制度となってきたということなのだ。

 実際、たとえば、得票率が比例代表で28%、小選挙区で43%という過半数をはるかに下回る得票率でも、全議席の8割の議席を獲得できてしまうなどということは、見方を変えれば、比例代表で72%、小選挙区で57%に上る票を投じた人々の意思が無視されたままでも政権が執れてしまう制度であるということである。

 このこと自体、いやしくも政治家を志す者だったなら、当然「異議」をとなえるべきことなのではないか。それを放っておいて、平然と政権(政治権力)を執ったつもりになっているということは、それだけで、選挙の意味も目的も知らなければ、民主主義そのものすら知らないということがはっきりする。なぜなら、そのような政権は国民を代表しているとはとても言えないし、国民の信任を得ているとも到底言えないのだからだ。

したがって、それに目もくれず政権についていることは、それ自体、卑しい目的で政治家になっていることの証左だ。

 そもそも小選挙区で落選した者が、つまりその地域では支持されなかった者が比例選挙区で復活当選してしまうなどということそのものを「オカシイ」と判断できないこと自体、政治家になる資格もないのだ。

 ところがこれまでは、そんな政党が、数の力に任せて、議会で横暴を振るい続けてきた。

でも、もう、これからは違う。

 

◯ この新選挙制度が実現されれば、政治家のコントロールの下、役人(官僚)は国民の真の「全体の奉仕者」となり、真のシモベ、真の公務員となる。

 これは、これまで述べてきたことから明らかであろう。

議会の決定を受けた政府の政治家は、議会制民主主義の実現のために、議会が決定したその政策を決定されたとおりに執行しなくてはならなくなる。

そこでは、官僚はもはや、ヤミ権力という法律に拠らない権力を行使している余裕など全くなくなるのである。

それに、これからは、官僚は、必要に応じて閣僚によって、役人のやっていることを国民にありのままに説明させられるようになる。そのとき国民から、“何故それを、そのようにするのか?”、あるいは、“何故、こうしないのか?”、“誰のためにそれをやっているのか?”、“何のためにそれをやっているのか?”等々と厳しく問われ、チェックされるようになる。

 また、これからは、これまで「当たり前」に行われてきたたとえば「行政指導」あるいは「通達」というヤミ権力の行使も、政治家のチェックの下で、厳禁となる。

もちろん、公文書を改竄したり廃棄したり、あるいは政策決定上の判断基準となる統計処理を誤摩化したりするのは、公僕としてすべからざることとして、直ちに「罷免」に結びつくことになるのである。

 

◯ この新選挙制度は、選挙が行われる全地域にとっては、地域連合体であれ、州であれ、連邦であれ、公平で、全地域に政治家の目が行き届いた政策が期待できるようになる。

 このことのもたらす意義も限りなく大きい。

 これまでは、国政選挙でも、都道府県選挙でも、市町村選挙でも、選挙区割りがされていて、そこから立候補してくる誰かを選ぶという方式の選挙だった。またそれしか選択肢はないという方式の選挙だった。そしてこれまでの選挙では、立候補者を選ぶ際の有権者の選択根拠は、概して、当選したとき、自分たちの区域にどれだけの額の補助金中央政府から分捕って来れるのか、どれだけ利益誘導が出来るのかということであった。そしてそれが、立候補者の政治家としての「能力」や「手腕」を評価する基準となって来た。

 一方立候補者の方も、そうした有権者の期待や要求に応えることが自身の主たる「政治活動」と錯覚するようになっていた。

 つまり、政治家も、市町村全体とか、都道府県全体とか、国全体という視点で政治を考えるのではなく、選挙地盤とか選挙母体あるいは選挙後援会のみに配慮するような政治を行うようになり、またそれが当たり前と考えるようになっていた。

 しかしこの新選挙制度は、基本的には連邦全域、または州の全域、あるいは地域連合体の全域が自分の政治活動域となるのであり、それだけに、有権者の側も、政治家に対して地域エゴや住民エゴを主張し、要求しても大して意味を持たなくなる。

 それは、政治がそれだけ広域性をもち、政治家は選挙範囲の全域に公平に行き届いた政策を展開せざるを得なくなるということである。

 これが、この新選挙制度がもたらす意義の第1である。

 意義の第2は、そうなれば、各政治家も、限られた時間と公的に支給された活動資金の中で、必然的に優先順位を考えて政治活動しなくてはならなくなるので、政治課題の重要度と緊急度ということをいつも考えるように習慣づけられるようになる。

 そして有権者も、自分たちのエゴを通すことよりは地域全体の利益や福祉を日頃から考えるようになると期待されるのである。

 これは、国民全体の民主主義政治に対する理解と意識が高まることであり、「経済は一流だが、政治的には三流、五流」と評価されてきたこの国全体の政治的レベルが向上することでもある。

というより、今日、先進国ほど選挙のあり方が形骸化してきていて、ポピュリズムだとか、白人至上主義だとか、移民排斥主義だとかが大きな勢力となってきている中で、ここに提案するような選挙制度を世界に先駆けて実施できれば、一躍世界から、注目されるようになり、政治面でも見直されるようになるのではないだろうか。

 

◯この新選挙制度は、間接的に、官僚・役人たちの税金の巨大な無駄遣いをも止めさせられる。

それは、これからは、官僚・役人たちが自分たちの所属組織の利益実現のために好都合な立法したり、政策を決めたり、また予算を組むということが、実質的にできなくなるからだ。

その「予算を組む」ということの中には、一般会計だけではなく特別会計をも含む。

それらは、これからは、国会を含む議会の政治家たちが主体となってそれをするようになるからだ。

 そのことは、これまで明治期以来ずっと「公共」なる言葉を冠しては、官僚・役人が、彼らの既得権益確保のために実現させてきた類の事業を行うことは全て不可能となることを意味する。

これからは、前節(9.1節)で述べてきた、各政治家が立候補する際に有権者の前に掲げてきたA種とB種から成る公約の中のいずれかが基本となって議会を通過したものが政府の「公共」事業となって執行されるようになるからだ。

そしてそうなれば、国民から収められた税金は、今度こそ、真に国民の「生命・自由・財産」を守り、国民の福祉と健康を守ることを最優先にして有効利用されるようになるからだ。

 そしてその時は、税金が真に国民の福祉のために最大限に効果的に使われるようになることから、国民が納めるべき税金も、これまでよりも格段に減らせられるようにもなることが期待されるのである。

 

◯官僚たちによって続けられてきた「天下り」や「渡り鳥」をもやっと止めさせられるようになる。

 それは、この新選挙制度が実施され、国会での政治家たちが国民から支持された公約に基づき自ら立法するようになれば、官僚たちは、産業界を最優先的に優遇する立法あるいは政策を思い通りに作ることができなくなるからだ。またそうなれば、特定の産業界にとっても、もはやその官僚はこれまでのような存在価値はなくなるからだ。

 別の言い方をすると、これからはこの新選挙制度によって生まれてくる「本物の政治家」によって、これまでの実質的な官僚独裁は崩壊させられるからだ。当然その時、官僚による業界支配と既得権益保持ができてきた時代は終わる。

 そもそも「天下り」とか「渡り鳥」とは、官僚たちが実質的に立法権を持ち————それは、政治家が官僚に立法権を丸投げしてきたからなのであるが————、国民よりも産業界をつねに優遇する政策や法律を作る中で築いてきた、官僚とその官僚組織が専管範囲とする産業界との間での暗黙の「持ちつ持たれつの関係」、あるいは「互いにWIN・WINを維持する互恵制度」のことで、官僚を厚遇を持って受け入れてくれた特定産業界あるいは企業に対して、その官僚が、その見返りとして、元所属していた政府内の府省庁の動向を情報としていち早く提供することで成り立つ、産業界の官僚受け入れ制度あるいは官僚の特定産業界への売り込み制度のことだ。

 その天下りには各府省庁によって様々なものがあるが、その中でも、官僚にとって最高に「うま味」のあるのは、多分、経済産業省原子力行政に関わっていた官僚が電力会社に天下ることであろう。その場合には、年俸が、億単位になるとされるからだ。

 なお「渡り鳥」とは、天下って後、二、三年すると、その間、億単位の年俸を手にしながら、また別の企業に移り、さらに二、三年すると、また別の企業に移るという、まるで渡り鳥のようにして、第二、第三、第四の人生の送り方をする元官僚のことを言う。

 

◯これも言うまでもないことであるが、これまでの政治家の無責任・無能・放任をいいことに官僚たちが好き勝手に作り続けてきた、たとえば特殊法人、財団法人、社団法人、そして政府の外郭団体等の、業務内容をでっち上げては官僚の雇用を拡大あるいは確保することを主目的とするいわゆる「公益法人」も、この新選挙制度から誕生してくる「本物の政治家」によってすべて解体または廃止されることになる。

 この場合、国民生活にとって本当に必要な仕事をしている公益法人もあるが、それらも、一旦はすべて解体され廃止されることになる。

それは、これまで幾度となく話題に上っては、結局は、官僚たちによって骨抜にされて終わってきた行政改革であったが、今度こそ、「本物の政治家」によって、根源的かつ全般的な公務員制度そのものに関する大改革が行われることになるからだ。

 とにかく、自分たちが何の苦労をしなくても、そして黙っていても、「税金」というお金が入ってくるために、そしてそれが「当たり前」という感覚であるために、官僚・役人には“人様のお金をありがたく、そして有効に使わせてもらう”という感覚、「コスト意識」がまるでないのだ。だから、その税金を、まず自分たちの利益確保のために使う。

 もう、そんな公務員はいらないのだ。というより、有害無益なのだ。

そのことによって、中央政府も、地方政府も、無用な公務員を一体どれほど削減できることか!

またその結果、どれほど税金が助かり、その分、「本物の政治家」たちはどれほど有効な使い方ができるようになることか!

 

◯ この新選挙制度は、政治と行政に機動性を持たせられるようになる。

 政治、すなわち議会においては、政治家の定数をこれまでよりも格段に減らすことが出来、そうした状況の中で、議会の政治家同士だけで集中的に徹底した議論ができるようになり、また議決できるようになるからだ。しかも、それでも、国民の政治的要求には十分に応え得るようになると考えられるからである。

なお、その議論の際、必要ならば、関連分野の信頼できる専門家や知識人を必要数、招聘しては彼らの適切な助言を求めればいいのである。

 何故それで国民の政治的要求に対応できるかというと、各政治家が、国と国民にとって早急に解決されるべき重要な課題の幾つかとその実現方法を公約としてすでに携えて立候補し、それが支持されて政治家となって登場して来ているからである。

 そうでなくても、これまでの国会を見ても、本会議であれ予算委員会であれ、衆議院参議院いずれも、議論しているというのではなく、一方はただ質問し、他方はただ答弁しているだけというものである上に、衆議院の場合には480人いるというのに、また参議院の場合には242人いるというのに、質問に立っているのはいつもただ一人、答弁しているのはいつも政府側の人間という関係で進められてきた儀式にすぎないものだった。

しかもその答弁内容は、いつも、国民の代表でもない官僚の作文によるものだ。

 しかもその場合、質問している者以外の議会側の者はその間何をしているかというと、その質疑応答というやりとりに注視している者もいれば、ただ席に腰掛けているだけの人、中には居眠りをしている人さえいる。

 つまり、その質疑応答の中には他者は入ってゆけない仕組みになっている。儀式だからだ。

したがって、目の前の一つの問題をそこにいるみんなで共有して、その問題に関してみんなで丁々発止の議論をする、ということができないのだ。

これは、他の政治家の考えや知恵が活かされないという意味で、極めてもったいない議会の過ごし方だ。

 しかしこれからは違う。各政治家が掲げてきた公約を、議会では、優先順位をつけた上で、その一つひとつをみんなで共有し、適宜専門家の助言の下、みんなで本音の議論を徹底的にしては、みんなで一致点を見出し、それを議決するのだ。

 そうすることで、議会としては、それぞれの公約について十分な議論を尽くしながら、次々と国民の要求に対応しうる政策を打ち出してゆくことができるようになる。

つまり、小回りのきく議会と成しうるわけである。

 ちなみに、連邦議会議員の数は、現行の722名(衆議院480人、参議院242人)の十分の一ぐらいにまでは激減させられるのではないか、と私は考える。

そうでなくても、たとえば前章(第8章)で提案した新しい国家(=連邦国家)の形態を国民が選べば、連邦として負わねばならない政治と行政の分野は、たとえば連邦全体の国土・食・環境の安全保障、外交、防衛、通貨、鉄道、郵便の分野と、中央と地方の各政府間の権力間の調整だけとなって、役割範囲は激減するだろうからだ。

州や地域連合体に関わることについての権限や財源は、州や地域連合体に移管されるからだ。

 また、そうなれば、それに連動して、中央政府での公務員の数も、「一般職」について見た時、今のおよそ28.8万人(令和2年度)を3万人くらいまでは減らせられるようになるのではないだろうかそうでなくても、政府内の組織間の「縦割り」がこれからの本物の政治家たちによって解消されれば、それだけでも、これまでのような、互いの組織内での重複業務の必要はなくなるのだからだ。

そしてこのことは同時に、これまでかかっていた莫大な人件費も大規模に減らせるようになることをも意味する。

 一方、行政、すなわち政府については、連邦政府についても、州政府についても、そして地域連合体政府についても、各レベルでの全政治家の協力の下で、これまで官僚・役人らによって作られてきた組織の「縦割り」は解消され、統治の体制は整えられ、この国は、本物の国家となり得ているから、議会が議決して公式となった政策や法律を国民の代表である政治家の指揮監督の下で、国民から納められたお金(税金)も最大限有効活用されながら、しかも情報はつねに政府内全組織に共有されながら、官僚たちに最大限速やかに、かつ効率良く執行させることが可能となる。

 

◯ 国民の政治への関心と期待が格段に高まり、政治への信頼も格段に高まるようになる。

 これまでの選挙制度では、有権者は、たとえばこんなことを実現して欲しいと切実に思っていても、それを掲げる候補者が出て来なかったなら、とにかく立候補した者の中から選ぶしかなかった。それがイヤだったなら白票を投じるか棄権するしかなかった。

 またこれまでの選挙制度では、有権者は候補者の掲げる政策案上の手直しや拡張には直接は関われなかった。そのため、選挙制度そのものが有権者にとっては受け身の制度でしかなく、それだけに選挙への関心も、候補者が掲げる公約次第、選挙の際の「争点」次第、となることが多かった。それだけに投票率も安定したものとはなり得なかった。

 多数を占めた政党の内部だけで決まった代表が実質的には自動的に総理大臣になってしまっていた現行の議院内閣制の下では、国民は国の公式の最高指導者を自分たちで選んだという実感を持てなかった。多数党内部での「派閥の論理」で決まってしまっていたからだ。オレたちの与り知れないところで決っただけだ、というどこか白けた感覚しか持てなかったのだ。

 しかし新選挙制度では、有権者は政治家を選ぶ過程で、候補者の政策討論会や意見交換会に参加でき、政策案決定にも直接関わることができるようになる。

 それだけではない。

この新選挙制度は、私たち国民が直接私たち国民の最高指導者を選ぶことができるようになるのである。したがって、“○○○はオレたちが選んだオレたちの最高指導者なのだ”という誇りをも持てるようになる。同時に、選んだ最高指導者に対して国民は親近感をも抱けるようになるだろう。それだけ国民にとっては政治が身近なものになり、政治への関心が今までになく高まることも期待できるのである。

 また新選挙制度は、政治家に対して、国民の代表であり、指導者であり、それだけに模範的な言動を明確に要求する。そのため、政治家は自分の持てる全能力と全人格をもって政治に当たらなくてはならなくなる。そしてその姿は絶えず主権者のチェックと評価を受けることになる。陰での不正も出来なくなる。もし不正が発覚したなら、その者は、もうほとんど二度と政治家になる資格を失うからだ。こうして、これまでの“政治家は信用できない”という見方は変わってゆくことが期待できるようになるだろう。

 一方、私たち国民も、政治家の真摯な姿を見ることで、徐々にではあるが政治への信頼を取り戻して行き、物事を政治的に解決を図ることの必要性と重要性を学ぶことになるだろう。

 

◯なお、言うまでもないことであるが、この新選挙制度は、官僚組織の既得権を脅かし、官僚独裁体制を終らせようとする有力政治家を、法務官僚とも一体となって、「政治資金規制法」という法律を恣意的に運用しては潰して来た、官僚らの有力政治家の政治生命を葬ろうとする常套手段をも、もはや使えなくさせ得る。

 物事、特にルールは、それを作る時、中身を曖昧にすればするほど、それを適用する際、運用する立場の者は、そこには恣意を介入させ得るようになる。

「政治資金規制法」という法律はまさにそれだ。そしてその法律は、政治家が官僚に依存し、立法権を丸投げしては追随している隙に、官僚によってつくられた法律だ。

 その法律は、法律ではあっても、内容は、どこまでが政治家に許されて、どこから先は許されないのかが強いて曖昧なままにされてできている。まさにその曖昧さを、政府官僚は、これまで、戦後築き上げて来た官僚独裁体制を守り維持するため、幾度も利用して来たのである。

その法律の犠牲になってきたのは、すべて有力政治家と目されていた人だ。

 しかし、この新選挙制度が施行されたなら、「政治資金規制法」という法律そのものが存在意義を失うことになるのである。

それは、官僚らは、彼らを脅かす政治家を意図的に葬り去る手段を失うことを意味する。

 しかし、官僚によるこのような行為は、もともと、絶対に許されてはならないことなのだ。それは、「主権者である国民すべてに奉仕する立場の者」が、「国民から選ばれた国民の代表」を葬り去ることだからだ。言い換えれば、シモベがご主人を亡き者にする行為だ。そしてそれは、公僕たる者が、この国の民主主義政治体制という、いわば今様の「国体」に反逆する「国賊」としての行為でもある。

 したがって、そのような行為に及ぶ官僚に対しては、国家公務員法の有無、その内容の如何を問わず、「公務員を選定するのも、罷免するのも国民固有の権利である」とする憲法第15条の第1項に従って、所轄大臣は躊躇なく罷免すればいいのである。