LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

6.3 すべての政治家に求められる使命と責任と特別の覚悟

 

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6.3 すべての政治家に求められる使命と責任と特別の覚悟

 第6章では、既に述べてきた抽象的な日本国民一般とは別に、政治家、知識人、科学者および研究者、政治ジャーナリスト、そして宗教者といった具体的な職業人あるいは具体的な社会的立場の5種類の人々を取り上げようとするが、その中でも、「覚悟」が求められる、それも「特別の覚悟」が求められると私が強調するのは政治家だけである。

 なぜか。その理由は二つある。

 一つは、なんと言っても彼らは、「国民の代表」だからだ。ここは、他の4者とは決定的に違う。それをもっと正確に言えば、彼ら政治家は、とくに国民から選ばれることを自ら望み、そのための公約を掲げて立候補し、その公約が支持された結果政治家になれた人であって、「国民の、国民のための政治的利益代表」だからだ。その国民に対する使命と責任の重さは、他の4者とは比較にもならない。もちろん、単に国家公務員試験ないしは地方公務員試験という官吏任用試験にパスしただけの官僚ないしは役人とも呼ばれる公務員のそれらと比べても、問題にもならない。そうでなくとも、すなわち、自ら進んで選ばれることを望んで代表となったという点を除いたとしても、政治家の活動はそのまま、私たちの国の国土の安全と、全ての国民の生命と自由と財産の安全に直接関わるものだからである。

 二つ目は、これから政治家になろうとする者の全てには、困難で、厳しく、しかももはや絶対に避けては通れない最重要課題を大至急解決させねばならないという問題が待っているからだ。

 この国の中央と地方のこれまでの政治家という政治家の実態は既述して来たとおりである(2.2節)が、ここで言う最重要課題とは、そのほとんど全てが、そうした2.2節で述べてきたような無責任・無知・無能・無策、国民に対して不忠で、しかも己には甘え切った政治家たちが、巨額の議員報酬・特典・特権は享受しながら、手を付けることを避け、先送りしてきたものなのである。

 その問題とは、たとえば、この国を国家とは言えない状況のままにし、「政府組織の縦割り」を含む統治体制の欠陥を抱えたままにしてきたこと。未だ真の民主主義は実現せず、事実上、官僚による独裁の国のままとしてきたこと。少子化と高齢化は少なくとも50年以上も前から人口統計的には判っていたことなのに何ら手を打たないできたこと。低すぎる食料自給率と農業がどんどん衰退していること。経済大国などと言われながらも、100%近く、エネルギーを外国に依存してきていること。同じく経済大国などと言われながらも、温暖化対策や生物多様性の消滅対策を含めて、この国は環境対策後進国でしかないこと。政府債務残高の対GDP比は、世界のどんな財政危機の国よりも高く、それも増える一方であること。日本の教育行政は世界に通用する人材を育て得ず、福祉行政は国民にますます不安を与える貧困なものでしかないこと。都市部と農村部での人口分布が極端すぎ、今後ますます頻発するだけではなく激化するとみられている自然災害に余りにも脆弱であること。同様に、温暖化と気候変動の進行の中で、これまでの特に旧建設省、今の国土交通省の国土づくりがあまりにも脆弱であること、等々である。

 実際、私は、難問ではあるが、こうした日本にとっての最も急がれる最重要課題を解決させるか解決の目処を明確に立てておくことこそが、私たち国民が、この国の前途に希望を持てるようになり、展望を見出せるようになることではないのか、と思うのである。

なぜなら、それこそが、この国を真の意味で、つまり単なる言葉だけではなく、持続可能な国にすることだからである。そしてそれを実現して見せることこそが、この国の真の安全保障となるのだからである。

日米安全保障条約だけが安全保障ではない。

 そういう意味では、例えば、安倍晋三の祖父(岸信介)の頃からこだわって来て、また孫の安倍晋三もこだわっている憲法改正問題、特に第9条問題などは、二の次、三の次の問題であると私は考える。もし、憲法改正を言うなら、憲法として欠陥や不備だらけ、曖昧だらけの現行憲法を、全面的に見直した新憲法に取り替えることの方がはるかに重要なことだし、また急がれてもいることであろう(16.3節)。

 そこで、以下では、上記の最重要で、解決が緊急に求められているこれらの問題を一括して、私は「日本の最緊急最重要課題」と呼んでゆく。

 

 ではこの「日本の最緊急最重要課題」を解決してゆくには、あるいは解決の目処や方針を明確にしてゆくには、あるいは行けるようになるには、これからの政治家は何を、どのような手順で、どのように対処してゆくことが求められるのだろうか。

 それを私なりに整理してみると、次のようになる。

手順その1.先ずは政治家という政治家は、民主主義政治を行う上で絶対に知っていなくてはならない政治的基本概念の全てを、それも、それらを体系的に我がものとすることである。

 それは、例えば次の諸概念だ。

国家、国、政治、政治家、権力、議会、最高権、政府、内閣、執行権、三権(分立)、民主主義、議会制民主主義、立憲主義憲法、法律、主権、独立(国)、自由、平等、共同体、市民、権利、人権、統治、首相、閣僚、自治、公務員、独裁、そして法の支配と法治主義、等々。

 実際、これまでのこの国の政治家という政治家は、私からみると、これらの諸概念をいい加減にし、また曖昧なままにしながら、しかし自分では“知ったつもり”になって政治家をしてきただけだ、と思う。というより、代々、一人ひとりが自分で近代民主主義政治の成立過程を学ぶというのではなく、自ら閉ざした日本の政界あるいは井の中の蛙的政界で、先人がやってきたことを、やってきた通りにただやって来ただけだし、また今もやっているだけだ、と私は断言する(2.2節)。

 もし、近代民主主義政治の成立過程をきちんと学び、その中で上記諸概念をきちんと理解していたなら、今、この国は、世界から見て、政治的にこれほど情けなくまた恥ずかしい状態の国にはなってはいなかったはずだからだ。

 なお、上記諸概念を理解する上で特に重要となるのは、私は、国家、権力、民主主義、議会、政府、法の支配と法治主義であろうと思う。

 またその中でも、国家については、「国家と国との違い」、権力については「権力は何に拠るか」、したがって「権力は移譲できるか」、「権力は、誰によって、どのように行使されねばならないか」、また「どのような権力行使は許されないか」ということの理解と、議会と政府について、「その両者のあるべき関係」ということの理解であろう、と思っている。

 とにかく、何回でも言うが、国会を含む議会は決して「質問」の場ではない。それも三権分立の原則を侵して、政府に向かっての。議会はあくまでも立法の場なのだ、というより、議会こそが立法の場なのである。政府、つまり内閣ではないし、ましてや官僚に立法を放任するなどもってのほかだ。

 なぜなら、「立法」ということは法律を作るということであり、法律というのは国民すべてを拘束力を持って一様に規制するルールな訳だから、最高度の権力行使ということになる。

 したがって、政治家がその立法を官僚に放任するということは、そして官僚の作った法律に追随するなどということは、彼に選挙当選時に権力を付託した国民の信頼を裏切る最大の行為であると同時に、国民の代表であるはずの者が、国民の公僕でしかない者に国の運営を放任するということであり、もっと言えば、国民の代表であるはずの政治家自身が、官僚(役人)独裁を推し進めていることでもある。

 したがってその行為は国民への裏切り行為であり、その意味するところは、考えられる通常の犯罪、例えば、窃盗、詐欺、強姦、放火、ひき逃げ、飲酒運転、また止むに止まれない事情による殺人、等々とは比較にならないほどの重罪だ。もちろんそれは、「政治資金規制法違反」とも比較にもならない。なぜなら、立法されたそれは、すべての国民の生命と自由と財産に直接影響をもたらすからだ。窃盗、詐欺、強姦、ひき逃げ、等々は国民すべてには影響をもたらさない。影響の範囲も、一時的だし、一地域に限定される場合がほとんどだからだ。 

 むしろその立法権力移譲行為は、民主主義議会制度あるいはその政治体制そのものへの裏切りであって、その意味では国体への反逆罪に相当する。したがって、本来だったら、そのような立法権力移譲行為を働いた政治家は極刑に処せられるべきなのだ。もし、そのような法律があったなら————もちろん己の甘い政治家たちが、そのような法律を制定するはずはないが。そうでなくても官僚に依存しているのだから————。

 なお、議会の政府への質問は、決して「議会の執行機関へのチェック機能」を果たしていることでもなんでもない。

 なお、国が国家と言えるためには、当然、政府内の組織は「縦割り」となっていてはならない、ということの理解も含まれなくてはならない。

なぜなら、「縦割り」が温存されたままであったなら、政治的説明責任の中枢などあり得ないし、

社会のあらゆる個人や団体が、合法的に最高な一個の強制的権威によって統合されることなどあり得ないからだ。

 また憲法とは、「国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法。国家存立の基本的条件を定めた根本法」(広辞苑)であることを理解するなら、もちろんそれは安倍晋三が言うような「国の理想を明らかにするもの」ではないことは明らかであって、例えば、中央政府の法的地位・管轄事項・権限の範囲と、地方政府の法的地位・管轄事項・権限の範囲、そして両者による共同管轄事項をも明確にされねばならない、という理解も含まれるはずだ。

つまり、この点だけを見ても、現行憲法は、不備である、あるいは欠陥を抱えている、ということが判るのである。

 実際、こうしたことどもが憲法上において明確化されていなかったがゆえに、この度の新型コロナウイルス感染対策に当たっては、中央政府と地方政府の間で、その対応の仕方のズレ、あるいは調整に手間取り、その結果、一体どれほどの人をしてコロナウイルスに感染させてしまい、また死に追いやってしまったかしれない。

 また統治ということを理解するなら、政府が国民に向けて発することはすべて、既に公布されて確定した法律に拠ってのみ行われるべきで、臨機の命令や指示によって為されるべきではない、ということである。それが「法の支配」ということでもあるのだから。

もちろんその場合、国民にとって必要な法律は、議会の政治家たちが、あらかじめ議会で議論して、法律として定め、公布しておく必要がある。

 

手順その2.政治家が、特に一国の政治的最高責任者が、あるいはその者が公正に任命した一人の人物が、この国の「日本の最緊急最重要課題」のそれぞれについて、余すところなく、正確、かつ論理的に————「丁寧に」、ではなく、また「情緒的に」でもなく————全国民に向かって説明することである。

 そもそも、物事を「説明する」とは、客観的事実あるいは客観的真実のみを用いながら、必要なことを、隠すことなく、なぜそうなっているか、なぜそうするか、いつまでに何をどうするか等々、相手が知りたいと望んでいること、相手に理解してもらいたいと思うその全貌を、論理をもって述べることなのだ。

 そして説明後、国民から質問があるなら、その質問がなくなるまで、政府は、あるいはその政治的説明責任の中枢となる人物は、それに誠実に答える。

 そして最後に、国民には多大な負担をかけることになるが、自分たちが先頭を務めるゆえ、なんとか協力してもらいたい、と不退転の決意を持って、心を込めて訴える。

 

手順その3.上記の国民への状況説明と協力依頼を国民から受け入れられたなら、後は、政治家たちは、全員が、次の手順に沿って、自分たち政治家の使命と責任を果たしてゆくだけである。

 まずは立法機関である議会の政治家について。

①一人ひとりは、「日本の最緊急最重要課題」について、その中の個々の問題について、秘書の力を借りて、あるいは秘書を通じて、しかるべき科学者あるいは専門家に尋ね、教えを請いながら、徹底的にデータと情報を集め、実情を把握する。

②一方、選挙の時以来、各々の政治家が国民の前に掲げてきた公約の中身を再検討し、「日本の最緊急最重要課題」の中のどれかと関連づけられないかと吟味し、検討する。

③もし関連づけられるものがあったなら、それらを一緒に解決する方法や手段を秘書とともに、あるいは科学者専門家と共に検討する。

④その検討結果を携えて、議会内で議論し、相手を論破したり、説得したりして、最終的には多数の賛同を得ながら、多数決を通じて、一つひとつ、公式の政策や法律と成してゆく。

 なおここで特に重要なことがある。

それは、ここでの立法については、既存の法体系との間で齟齬が生じ用途も、それには全く構うことなく独自に立法すればいい、ということである。

なぜなら、とにかく時代にあった法律、この国を持続可能とする法律を定めることこそが大事なのだから。

それに、法理論の観点からは、新たに作られた法が旧法や在来法よりも優先されるのである。

そしてその在来法は、おそらくその大多数は、官僚の作った、国民のためというよりは官僚たちの利益に貢献する、官僚組織に好都合な法律であろう。そのような法律は、躊躇なく廃棄処分とすればいいわけである。

 したがって、もうこれからは、例えば「内閣法制局」など一切気にすることなく、政治家が政治家同士で、議会において、どんどん立法してゆけばいいのである。そしてそれは、それだけ官僚独裁を消滅させることでもあり、新しい日本に生まれ変わらせることでもある。 

⑤なお、その間、突発的に、国民の「生命・自由・財産」に関わる大事が生じた際には、すべての政治家は、ある者は市町村議会議員として、ある者は都道県議会議員として、そしてある者は国会議員として、速やかにその現場に自ら秘書とともに足を運び、状況を克明に調査し、また被災された方々の訴えにも誠実に耳を傾け、そこで掴んだ事実の全体を個々人として、あるいは政治家同士で互いに協力し合いながら、大至急まとめる。

 そしてまとめたそれらを携えながら、対処方法を決める上で助言をしてくれそうなその分野の専門家や科学者を訪ねて、一緒に対処方法を練る。

 そこである程度の見込みある対処方法が定まったなら、各政治家はその対処方法を携えて、今度は、臨時議会を開く。それは臨時市町村議会、臨時都道府県議会、臨時国会である———通常議会を待ってなどといった形式張ったことを言っていないで———。

 その臨時議会で、目の前に起こっている大事件にベストな状態で対応しうる新しい条例なり法律なりを制定するのである。もちんその場合、必要な予算をも思い切って付ける。

 

 次に、執行機関である政府の政治家について。

そこで言う政治家とは、中央政府では、総理大臣であり、閣僚である。地方政府では、首長、すなわち、市町村長であり、都道府県知事である。

①議会が、上記の手続きを経て議決した法律なり政策を受け取る。

②政府は、それを忠実に、そして迅速果敢に執行するのである。

それを可能とするために、中央政府では、その中枢である内閣において、その執行方法を、最大の効果を上げる方法とするための議論をする。それが閣議である。それが本来の閣議のありようなのだからだ。

③そしてその執行にあたっては、すべての不省庁が、連携して協力する。

もちろんそこでは府省庁間の「縦割り」は、各閣僚全てが協力しあって敢然と打破する。

その時、抵抗したりサボタージュを決め込む官僚は、憲法第15条第1項に基づき、閣僚は、人事権を正当に行使して、躊躇なく罷免するか降格する。

その人事権という権力は、もともと国民の代表は、政治家になった時から主権者である国民から与えたれているのだからだ。

④閣僚は、議会が決めたことの執行にあたっては、公僕たる官僚に適切に指示を下してはコントロールして、最高度の効果を上げるよう、効率を上げて、執行をやり遂げる。

 

 以上の経緯から読者の皆さんはただちに気付かれると思うが、この国のこれまでの政治家は、国政レベルであれ、地方政治のレベルであれ、明治以来この方、以上のような行動をとったためしはたったの一度もなかったのである。

 「言論の府」であり立法機関であるはずの議会では、政治家がして来たことと言えば、幾度でも言うが、ただ質問だけだった。

 そんな状態だから、前例のない大災害が起っても、議会としては一向に動かず、被災者への対応は基本的にはいつも政府に任せっ放しにしては、自分たちは傍観して来ただけだった。

 ところがその政府は政府で、その中枢を占める内閣の政治家(首相と閣僚)の態度は、官僚組織の「タテ割り」状態を放任したまま、その役人らが、国民の命や幸福を第一に考えるというのではなく、彼らが所属する府省庁の既得権益を守ることを最優先にして出して来た政策にもっぱら従い、操り人形となって来ただけだった。

したがって、大災害時にはよく言われてきた「初動体制の遅れ」は、その本質は、すべて、政治家の官僚(役人)依存によるものだった。というより、普段から官僚(役人)に依存し追従することに慣れてきてしまっているために、イザッという時、総理大臣も閣僚も、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ————このことに関連して、心配されるのは、政治家の「シビリアン・コントロール」の能力の問題だ————。

 こうしたこの国のすべての政治家の使命放棄という無責任の結果、つまり議会の怠慢と政府のそうした官僚依存と追従姿勢に因って、大災害のたびに、被災者となった国民は、決まって翻弄され、いつまで経っても希望も展望も見出せない中、精神を患ったり、絶望のあまり自殺する者も出たりするという悲惨な状態を繰り返して来たのだ。

 実際、「3.11」による被災者は、丸9年経った今もなお、1万人以上の方々が仮設住宅住まいを強いられ続けている。未だ実態が公表もされていないが、新型コロナウイルス禍の今、果たしてどれだけの人々が、「自助・共助・公助」ばかりを建前とする自国政府によってすら、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をも保障されずに、自ら死を選んでいることか。