6.4 知識人に求められる使命と責任
6.4 知識人に求められる使命と責任
ここで私が言う知識人とはどういう人のことを意味するか、それをまず明らかにし、その上で、その彼らに求められる使命と責任とは何かを考えてみようと思う。
先ず、知識人とは、真実あるいは真理の追究をこそ何よりも大切であると考えることができる人である。同時に、その追究で知り得た真実あるいは真理を、たとえそれが世間の通念、世の中での主流の見方や支配的な見解、あるいは学界の定説とは相容れないようなものであっても、それを怖れずに、どこまでも自己の学問的良心に忠実であって節を曲げない人のことである(真下真一「学問・思想・人間」青木文庫 p.171)。だからそれは、金銭を得ることや地位を守ることや名声を博すること、また、利害を共有する者同士で互いに擁護し合うような人々のことではない。
したがって知識人とは、真実と真理への勇気ある人々(同上書p.170)、と言い換えることも出来る。
別の言い方をすれば、知識人とは、自分にどんな結果が降り掛かろうとも、それを覚悟の上で、あくまでも筋を通して考えることを自らの責務としている人々のことである(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社 p.4)。さらには、国民や弱者の真の利益を第一に守ることを考えて、自分が発言したことについては、あるいはその発言の結果もたらされた事態に対しては、言い訳をせず、最後まで責任を負う覚悟を持っている人々のことである。それこそが本物の知識人と言えるのである。そしてそれができる人とは、独立不覊の思索家であり思想家でもある、ということだ。格好や肩書きだけの人ではない。
この国では、これまで、知識人と言った場合、一般的にはいろいろなことをよく知っている博識・博学の人とか、自分の頭を使って仕事をする人としての科学者や研究者を含めた専門家・学者・文筆家もしくはジャーナリスト、あるいは教育者や宗教家を含めた文化人とかを意味することが多かった。
たしかにこうした人々はみな、ある特定の分野については、普通の人々が持っている以上の知識を持っているし、その人たちはみな自分の頭を使って仕事をしている。
しかしこれらの人々は、とくにこの日本という国では、そのほとんどが、自分がそれまでに得て来ている知的な成果に対しても、そして自分自身に対しても、偽ることなく誠実であることよりも、いつも、あるいは最終的には、保身的観点から、損得あるいは打算で判断することを最優先する人々でありがちだった。そしてこういう人たちは、当然ながら、そのほとんどが例外なく、とくに政治的権力に対しては臆病な人たちであった。
私がここで言う知識人はそれとは明確に違う。というより、むしろそれとは対極に立つ人々のことだ。
ではなぜこうした知識人が必要とされるのか。
私は先に、私たち国民にとって「政治」というものがあらゆる社会制度の中で、人々の日常の暮らし全般とその将来に対して決定的な影響をもたらし、私たちの今と近未来の幸不幸を決定的に左右する最も重要な制度であると記して来た(2.1節)。実は、なぜこうした知識人が必要とされるかということについては、このことと関連している。
その政治において、権力というものの行使のされ方に関連する問題を、それぞれの知識人が、上記の意味での本物の知識人の観点から、知的誠実さと知的勇気をもって取り上げた見解ほど国民にとって価値あるものはないからだ。
その意味で、本物の知識人の存在は、それ自体が私たち国民一般にとっては、政治面における最大の希望であり、彼らの見解は、私たち国民一般が政治の有りようや権力行使の有りようを判断する上で最良の道標となるのである。
また、それだけに、本物の知識人が多方面に存在し、その数が多くなればなるほど、政治の有りようは国民にとって望ましいものになって行くのである。
ところがこの国では、こうした知識人、つまり、真実と真理への勇気ある人々、独立不覊の思索家であり思想家と言える人々は、今や、テレビや新聞、雑誌などを見ていても、まったくと言っていい程にいなくなっている。
中国やロシアという中央の権力者あるいは政権による言論統制の厳しい国でさえ、たとえば拘束されたり投獄されたりしても、あるいは暗殺されそうになってもなお、国民に真実を命がけで伝えようとしている人が絶えることなく現れて来ていることについては、読者の皆さんの多くもご存知だと思う。
しかしこの国日本では、今のところ、幸いにも彼の国ほど言論や表現の自由が厳しく統制されているわけではない。ところが、それにもかかわらず、国民が、とくに政治問題についての知識人の本当の声や見方を必要としているとき、政治権力に臆することなく自らの知的誠実さと知的勇気を持って発言してくれ、国民に確かな情報やものの見方、あるいははっきりとした判断の仕方を示してくれる者がいないのである。メディアで仕事をする人々についても、ほとんど同様だ———マーティン・ファクラー「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」双葉社————。
では、いったいその人々は何を怖れているのだろう。
その点、むしろかつての方が本物と言える知識人はいたのである。
たとえば幕末における中江兆民、福沢諭吉がそうだった。大正時代にあっては吉野作造。昭和に入っては、治安維持法下にありながらも、京大事件の時の滝川幸辰教授、天皇機関説を唱えた美濃部達吉博士などがどうしても思い浮かぶ。また第二次世界大戦前、戦争反対を唱えて獄死した戸坂潤、そして「小日本主義」を唱えて自由主義的論陣を張った石橋湛山、また軍部や戦争批判を続けた桐生悠々も。また比較的最近では丸山真男の存在も思い浮かぶ。
しかるに20世紀末から21世紀に入ってからは、日本での本物の知識人は絶無といった状態だ。
たとえば、阪神淡路大震災が生じたとき、またオウム真理教の一連の事件が生じたとき、湾岸戦争が起ったとき、3.11直後に東電福島第一原発がメルトダウンして水素大爆発を起したとき、あるいは、安倍晋三が憲法を無視して解釈改憲したとき、同じく安倍政権が違憲法律を強行可決させ憲法を破壊し、理論上この日本を無憲法で無法の状態にしてしまったとき、あるいは政府が、上記東電福島第一原発が大爆発を起した原因を公式に検証もしないまま既存の原発の再稼働を決めたとき、等々がそうだ。
つまり、国民が、「こんな時こそ、政治家あるいは議会や政府の事態への対応とはどうあるべきか」を知りたいと切実に思ったとき、普段、知識人あるいは専門家と目され、また自身もそれをもって任じていて、メディアにしょっちゅう姿を見せるような者の一体誰が、冒頭で述べた意味での本物の知識人としての姿を示してくれただろう。
あるいは、日本政府の主権なき対米追従外交について、従軍慰安婦問題について、北朝鮮による日本人拉致問題の政府の対応について、地球温暖化問題に対する政府の対応姿勢について、日本の主権を無視したトランプ外交に対して、またそれに迎合して自国の主権を主張し得ない安倍晋三首相に対して、メディアにしょっちゅう姿を見せる者の誰が、冒頭で述べた意味での本物の知識人としての姿を示してくれただろう。
とにかく、「森友学園」「架計学園」問題において、政府の首相と閣僚と官僚にあのような対応をさせ続け、国民の暮らしにとっても最も大切な政治を空転させたことこそが、「日本には知識人不在」の真実を、世界に向かって何よりも雄弁に証明して見せたのだ。
それは単に安倍晋三の首相としての資質の欠如、閣僚の怠慢・無責任・倫理観の欠如、官僚の思い上がりと遵法精神の欠如だけの問題ではない。
とにかく、人は、平時には、あるいは順風満帆の時には、何とでも言えるものだ。どんな立派なことも言える。
しかし、問題はイザッという時だ。その時こそが、その人の真価が問われる時だ。本来、社会的に言うべき立場の人が、言うべきことを、きちんと言えないようなならば、何の存在意義があろう。見せかけの知識人、似非知識人としか言いようがないではないか。
なぜ日本の「知識人」と目される人々のほとんどは、政治権力に対してかくも臆病になるのか。
それは、結局は、そうある方が我が身の安泰、地位の安泰、いわば我が身の安全保障になると考えるからであろう。そしてそちらを優先するということは、結局のところ、近代という時代が獲得したはずの「個」が依然として確立されておらず、「自由」、とりわけこの場合「言論の自由」さらには「表現の自由」も血肉となってはいないということなのだ、と私は思う。
言い換えれば、明治独裁政権以来、その政権の特に官僚らによって事あるごとに植え付けられて来た生き方から今なお本当の意味で抜け出ることができていない、ということなのであろう————そういう意味でも、やはりこの国は、総じて、未だ近代にも至ってはいないのだ!(1.4節)————。たとえば「長いものには巻かれろ」、「触らぬ神にタタリなし」、「波風を立てるな」、「和して同ぜよ」、「もっと大人になれ」等々といった生き方だ。あるいは、科学や大学は、本来、誰のためにあるのか、何のためにあるのか、ということが、関係者の間でも、曖昧にされたままできたためなのではないか、と私は思う。
とは言え、少なくともこの国では、仮にこうした過去の遺物的生き方からはみ出したところで、あるいはそれを無視したところで、法を犯したことになる訳ではないし、まして生命が危険に曝されたり、暗殺されたりする訳ではないのである。
となればなおさらのこと、この国の、今の知識人は、いったい何を怖れて、言うべきことも言えないのか、あるいは言わないのだろう。
私は、それは、相手の正体を知らないからであろう、と思わざるを得ない。
言い換えればそれは、幽霊を怖がるのと同じ心理、あるいは「得体が知れない」と思ってしまうところから生じる心理と同じで、そうした心理が無意識のうちに恐れを抱かせてしまうのではないか、という気がする。要するに、無知が恐怖をもたらすのだ(浜矩子「『幸せ』について考えよう」NHK 別冊100分de名著 p.67)。そしてその恐怖は、得てして、単に、漠然とした、あるいは曖昧模糊としたものから生じているだけではないか、と私は想像する。つまり「知らない」から恐怖するのだ————実は、幕末から明治期において、政府の官僚が国民を統治する上で用いた「(国民には)知らしむベからず、依らしむべし」という秘策も根本はこれと同じで、知らないことには人は恐怖する、という心理を巧みに応用したものなのだ————。
逆を言えば、その正体の何なのかを知ってしまえば、全く、“どうってことなかった”となるのではないか。
となれば、恐れを抱くその正体が何かを勇気を持って突き止めることこそが、不安や恐怖を解消する最良の方法となる、ということが判るのである。
以上のことから、これからの日本の知識人に特に求められる重い責任を伴った使命とは、次のように言えることが判る。少なくとも二つはある。
第1は、彼らに対してだけではなく、これまで国民一般にももたらして来た、政治権力がもたらす漠然とした、あるいは曖昧模糊とした恐怖の源を明らかにすることだ。
それは結局のところ、政治のシステムの実態、とくに権力構造そのもの、言い換えればどのような権力が、誰によって、どのように行使されているか、そしてその権力の行使は正当なものなのか否か、を明らかにすることなのだ。なぜなら権力とは、何回でも言うが、「他人を押さえつけ、支配する力」のことだからだ。そしてその場合、とくに重要となるのは、国民の代表であるはずの政治家と一方は公僕でしかない官僚(役人)との間の本来あるべき関係(2.3節)と、その両者の間の実際の関係との乖離についてである。
その場合、制約付きの権力を公式に負託された政治家が、その制約された範囲内での権力を正当に行使している限りは国民にとっては何ら問題はないし、また問題も起らない。官僚(役人)も、「法の支配」の下で、既存の定まった法律に基づき、あるいは政治家のコントロールの下で権力を行使している限りは、それは国民の了解のもとでの権力行使になるのだから、国民にとっては何ら問題はないし、また問題も起らない。
それは既述の、「権力の成立根拠は合意にある」との政治的原則に沿っていることに他ならないからだ。より正確に言えば、人々に対して、権限を得た人々————すなわち政治家————の意志に服従を強制する権力を与えるのは、権限を得た人々に支配される人々の同意である、と(H.J.ラスキ「国家」岩波現代叢書p.9)。
考えてみればそれは当然のことである。同意もしていないような権力を私たち国民が政治家に負託するはずもなければ、そんな権力の行使に対して、どうして私たちは服従する義務などあろうか。行使を同意している権力とは、政治家が選挙の際に国民の前に掲げた公約を実現してみせるためにのみ行使するものなのである。
では政治家であれ、官僚(役人)であれ、どういう場合に、国民にとって問題が生じるのか。
それは、権力の行使の仕方やあり方が国民の合意に基づかないものであるときだ。
つまり私たち国民が服従することを同意もしていない種類の権力を、しかも同意もしていない仕方で行使するときである。
言い換えれば、法律に基づかない、法律にもないことを、あたかも法律に基づいているかのごとき振りをして、服従せよと強制して来るときなのである。すなわち非公式の権力を行使して来る時、ないしは闇の権力を行使する時なのである
したがってこんな時にも、そうした振る舞いを見せる政治権力に対して、国民に毅然とした対応が政治権力に対してできるように促すには、こんな時こそ、知識人は、臆病にならずに、そうした時の政治家ないしは官僚たちの非公式権力の行使の仕方やその時の非公式権力を行使しようとするもの同士の関係を国民の前に解明して見せることなのだ。
もちろんそうした行為は、非公式権力の行使者たちからは望ましくないことであり、不都合なことだ。解明され、暴かれたなら、恐怖への神通力あるいは魔法は効かなくなるからだ。隠されていてこそ、あることを目論む当事者らは本来は許されない権力を恣意的に行使できるのだからだ。
逆に言えば、だからこそ、その分析と解明行為は、知識人の知識人たる本領を発揮すべき分野でもあるのである。
そして知識人がそれをして見せることこそが、日本の社会が、国民の誰もが、誰を怖れることもなく、何を恐れることもなく、「法の支配」と「法の下での平等」という原則の下に、自分の言いたいことを、誰憚ることなく「本音」で言える社会になることなのである。
そしてそれでこそ、この国は「言論の自由」さらには「表現の自由」が真に実現された国ということになるのである。
またそうなれば、この自由は、政治システムに限らず、この国の経済システム、科学や教育のシステム、福祉のシステム、軍事のシステム、行政のシステム等々、すべてに波及してゆくようにもなるであろう。それこそが、この日本という国が、真の民主主義が実現した国に一歩近づくことなのだ。
これからの日本の知識人に特に求められる重い責任を伴った使命の第2は、この国に「言論の自由」や「表現の自由」という自国の憲法も保障する基本権————第19、20、21、23条————を社会的に実現させることに己の全存在をかけることであろう。そのためには、自らが、政治権力に臆することなく、いつでも、どこでも、堂々と「言論の自由」や「表現の自由」という基本権を行使して見せることである。
ではなぜそうすることが知識人にとって不可欠と言えるか。
それは、歴史を振り返れば判るように、言論の自由は民主主義の根幹を成す権利であり、言論の自由から民主主義に必要なものすべてが生まれるからである。
反対意見を言う権利、反対派を組織する権利も、である。いかなる政治的組織も、民主的な変革も、すべては言論の自由から始まるからなのだ(NHK BS1 2017年11月3日放送の「BS世界のドキュメンタリー選“自由をめぐる僕の旅”」の中でのハッカー ロップ・ゴングライプの言葉)。
ところで、「言論の自由」と「表現の自由」とは何が違うのだろうか。
前者の言論の自由は、文字通り、自分の主義や思想を自由に述べ、また発信することができるとする権利である。もちろん、その場合、相手がいることが前提となる。つまり陸の孤島で言論の自由を主張しても意味はない。
一方、表現の自由も、相手がいることが前提となる。
したがって、その意味では、「言論の自由」も「表現の自由」も共に、私たちがコミュニケーションを取り合う自由を形成している。そしてその場合重要なことは、私たち人間は、互いにコミュニケーションを取る能力を持っていることなのだ。
その場合も、両者の間で違うのは、前者はあくまでも言論という限定された行為を通じて互いにコミュニケーションを取り合う自由を言うのに対して、後者は言論だけではない、芝居であれ、演劇であれ、映画であれ、絵画であれ、また音楽であれ、表現方法の全てを含む点である。
しかし、いずれにしても、コミュニケーションの自由こそがあらゆる権利を可能にする基本的な権利なのである。
だから、もし私たちのコミュニケーションを取る権利である「言論の自由」ないしは「表現の自由」が抑圧されれば、それは自分の考えを表現する権利だけでなく、その他さまざまな権利も抑圧されることになる。
というより、権利という言葉そのものも、コミュニケーションの結果として存在しているわけである。
そういうわけで、言論の自由も大事だが、それ以上に表現の自由こそは、あらゆるもの、あらゆる社会構造、あらゆる考え、あらゆる他の権利、あらゆる法を下支えする基本的かつ根本的権利といえる。
すべてを支えるこの土台を崩したら、他のすべてをも崩すことになってしまう。
だからこそ表現の自由には、いかなる制限もあってはならないのである(同上番組の中でのウイキリークス創設者ジュリアン・アサンジの言葉)。
「個」の概念とともに「権利」の概念こそは、「近代」という時代が見出し、また獲得した最も重要な概念の一つなのである。そしてそれを土台から支えているのが、「言論の自由」であり「表現の自由」なのである。
私は、この国にそうした本物の知識人がアッチからもコッチからも輩出して来ることを願う。そしてそのことによってこの国に「言論の自由」はもちろん「表現の自由」も実現されれば、民主主義も実現し、そうなれば、現今の、この国に長いこと蔓延している精神の面での閉塞状態は瞬く間に克服され、人々の中に鬱屈している精神も解放されるだろう。さらには、この国が近い将来、特に直面することになるであろうあらゆる困難な事態をも、国民自らの力で乗り越えられる国と社会になるであろうと確信するのである。
とにかく、何事も、誰もが、本音で語れること、また他者が語るそれがどんなに自分の考えと異なろうとも、彼にはそれを語る権利があるとして認め合える社会であることが何より大切なのだ。
そしてこの国の社会がそうした社会となることは、とくにこの国の若者に、本来の若者らしい自由闊達さと溌剌としたエネルギーをもたらすことにもなるだろう。
知識人の、自身と国民に対する使命と責任は限りなく重いのである。