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大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

6.6 政治ジャーナリストに求められる使命と責任

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6.6 政治ジャーナリストに求められる使命と責任

 本節では、次の順に問いを発しながら、それに対する私なりの理解に基づく考え方を述べるという形で論を進めようと思う。

⑴ 政治ジャーナリズムとは何か?

⑵ 政治ジャーナリズムの使命と責任とは何か?

⑶ 日本の政治ジャーナリズムはその使命と責任を果たして来たか、また果たしているか?

⑷日本の政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たしていないとすれば、それはなぜか?

⑸政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさなかった時、何が起こるか?

また実際、歴史上、何が起ったか?

⑹ 政治ジャーナリズムがその本来の使命と責任を果たせるようになるには、どうすればいいか? またそのためには、私たち読者や視聴者は、というより国民はどうすればいいか?

 

 まず第1の問いについてである。政治ジャーナリズムとは何か?

 ジャーナリズムとは、一般に、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどで時事的な問題の報道、解説、批評などを行う活動のこと。また、その事業・組織のことであるとされる(広辞苑第六版)。その範疇はきわめて広い。

具体的には、政治ジャーナリズム、経済ジャーナリズム、新聞ジャーナリズム、テレビジャーナリズム、放送ジャーナリズム、出版ジャーナリズム等々といったものがあるからである。かと思えば、分類の仕方により、生産者ジャーナリズム、消費者ジャーナリズムというものもあり、あるいは発表ジャーナリズム、結果ジャーナリズム、事件ジャーナリズム、原因追及ジャーナリズム等々というものもある。

そしてジャーナリストとは、「新聞・雑誌・放送などの編集者・記者・寄稿家などの総称」である(同上広辞苑)。要するにジャーナリズムの世界で働く人々のことである。

 本節ではとくに、このうちの政治ジャーナリズムと政治ジャーナリストに焦点をあてて考えてみようと思う。

それは、先ずは、既述のとおり(2.1節)、政治というものが、どの国でも、国民にとって最も重要な社会的制度であるからということが根幹にあり、その政治の世界で起こっていることを、報道や解説あるいは批評を通じて、真実を伝えてくれる役割を担った分野であり、またそこで働く人々であるからだ。

 政治ジャーナリズムの中には、その代表的なものとして新聞と放送がある。後者の中には、とくに自らをよく「公共放送」と呼ぶ日本放送協会、いわゆるNHKも当然含まれる。

 なお、ここで明確にしておかねばならないことがある。それは、新聞社も放送局も、実際にはたとえば、政治部だけではなく、経済部、社会部、文化部等々といったいろいろな分野を手分けして担当する組織の集合体であろうとは思われるが、ここではその中のとくに政治部という組織を念頭においてゆく。

 

 そこで、第2の問いである。

政治ジャーナリズムの使命と責任とは何か?

 かつて、日本を代表するジャーナリストの一人と目されていた田勢氏は、その著書の中で、政治ジャーナリズムの真髄とはとしてこう述べていた。

「鋭い批判を通じて、権力をつねにチェックするところにある」(田勢康弘「政治ジャーナリズムの罪と罰」新潮社p.7)、と。

 しかし、果たしてこの表現は、政治ジャーナリズムの真髄を本当に的確かつ過不足なく言い表し得ていると言えるだろうか。

 この表現に現れる権力とは、書名からして当然ながら政治権力を指すのであろうが、ではその権力とは誰がどのように行使する、どのような種類の権力のことを言うのであろうか。また、権力をつねにチェックするとは言っても、それは誰のために、また何のためにチェックするのであろう。そもそもチェックするとは、どういうことを意味するのであろう。

 しかし田勢氏はそこは明確にしていない。

 実は既述してきたように(2.2節、2.5節)、私たちの国日本は、明治期以来、今日に至ってもなお、民主主義は未だ実現しておらず、実質的には官主主義、つまり官僚が政治を主導する、あるいは官僚があたかも主権者であるかのように振る舞う官僚独裁の国である。

しかもそれは、民主憲法下になっても、相変わらず、政治家たちによって野放しになったままだ。

官僚たちは所属する府省庁ごとにバラバラだ。公式には、本質的に公僕でしかない官僚あるいは役人をコントロールする役割と使命を負っているのは、主権者である国民から選ばれた国民の代表である政治家である。特にこの場合、執行機関である政府に関しては、その府省庁の大臣である。それは、いわば、国家における主人公である国民の代理と僕(シモベ)あるいは召使いとの関係にあるのだから、と言ってもいい。

 しかし、そうした役割と使命を負っているはずの大臣たちは決してコントロールなどしていない。だいたいが「縦割り」制度それすらも止めさせられてもいないのだ。内閣のトップである総理大臣も、特に安倍晋三などは、自分ではよく「行政の長」などと嘯くが。

むしろ総理大臣も閣僚も、実質的には、官僚組織全体の「操り人形」になっている。それも、大臣は、いずれまたすぐに姿が消え、代わりの誰かが来るまでの「お客さん」でしかない。総理大臣も、官僚組織からみれば、一応いてもらわないと何かと格好がつかないという意味での「お飾り」扱いだ。

 だから、政府とは言っても名ばかりの政府でしかない。ちなみに英語で考えてみればすぐにも判るように、政府も統治も共にgovernmentと表現される。つまり、政府も統治も同意語なのだ。したがって、名ばかりの政府ということは、統治もまともにできていないということである。それはそうだ。総理大臣も名ばかりの総理大臣なのだから。

 ところが、この国のジャーナリズムは、こうした権力構造の実態、統治体制の実態については、私の見るところ、全くと言っていいほどに、報道も解説も批評もして見せない。

むしろ「派閥の力学」とか「永田町」いう言葉が頻繁に聞かれることからも判るように、派閥間の関係やら政界の噂話だ。

となれば、田勢氏が説く政治ジャーナリズムの真髄をより厳密に説明しようとする場合、「鋭い批判を通じて、権力をつねにチェックするところにある」をどのように修正したらいいのであろう。

 それは、特に官僚独裁が政治家たちによって放置されたままの日本においてはこうだ。

政治ジャーナリズムの真髄とは、政治権力機構と統治機構の本質を分析し、すなわち真の政治分析を行い官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発すること。

 ここで言う真の政治分析とは、特定の政治体制の土台となっている不文律を疑問視し、その不文律から結果的に生じる権力関係の編み目を調査することなのである(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.143)。

 しかし私は、日本の現状を見つめるとき、とくに日本のジャーナリズムには、もう1つの大きな使命もあるように思う。

 それは、一言で言えば、民主主義の擁護者」、あるいは「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官になることであり、「日本の良心の守護者」になること、である。

 具体的には、今日的諸問題ともいうべき問題———たとえば、イジメ、引きこもり、自殺、男女の平等、性差別、LGBT(性的弱者)、過労死、貧困、難民、移民、人口減少、自然破壊、温暖化、生物多様性の崩壊、農業の衰退、政府債務残高、日米地位協定、インフラの老朽化、憲法———をつねに幅広く取り上げ、それらの現象を分析し批判するだけではなく、より大きな視野の下で、より大きな関係枠の中での因果関係を徹底的に分析し、読者や視聴者に個々の問題相互の関係性と全体との関わりを示すと共に、いまの日本は全体としてどのような状況にあるかが誰もが理解できるように示すことであろう(K.V.ウオルフレン「日本の知識人へ」窓社p.8)。

 

 第3の問いである。

日本のジャーナリズムはその使命と責任を果たして来たか、また果たしているか?

 ごく一部のジャーナリスト個人を除いて、その答えは明らかに「ノー!」だ。

 これまでの日本のジャーナリズム、とくに大新聞とNHKは————民放はもちろんのこと————既述の通り、国民の前に、政治権力構造の実態を解明してみせることも、「民主主義の擁護者」、「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官」、「日本の良心の守護者」になることもまったくなかったし、今もない。

むしろ官僚とともに、ひたすら現状維持や秩序維持を図っては、批判的な政治分析を邪魔立てしたり、社会の変革につながる新しい動きを敢えて黙殺したりして、民主主義の実現を阻んで来たのだ(K.V.ウオルフレン「システム」p.301)。

そうした傾向が最も顕著なのが「公共」放送と自任するNHKである。公共という概念を人民・住民・国民あるいは市民と呼ばれる政治的主体からなる社会一般のことと定義するなら(第4章の再定義を参照)、NHKは決して「公共」放送ではない。むしろ実態は、政権のスポークスマンだ。

 大新聞については、記者たちは、情報を得ようとする思いに余りにも固執するために、政治権力に近過ぎるほどに接近しては、政府、とくに内閣に忖度し、かえって政府のメッセンジャー役になっている。そして、国民の多様な声を実際に聞き集めようとはしないまま、自分たちで勝手に頭の中で「世論」や「民意」を創造しては、それをあたかも自分たちが代弁しているかのような論調で社説を書き、人々を誘導し、社会秩序の維持を図ろうとさえして来たし、今もそうしている。

 その意味では、読売新聞や産經新聞はもとより、朝日新聞毎日新聞も大同小異と言える。だからそれらは、ジャーナリズムと言うよりは単にメディア、すなわち媒体にすぎない。

 そこでは、特定の政治家個人の醜聞を取り上げたり、派閥間の抗争の実態を暴こうとしたりすることが政治ジャーナリズムの役割と考えている風でさえある。

 そうかと思うと海外情報、とくにアメリカと微妙な関係にある諸国、たとえばヨーロッパ、ロシア、中国、北朝鮮などとの関係の出来事については、ほとんどもっぱらアメリカから入ってくる、アメリカのフィルターを通したニュースを鵜呑みにして国民に伝えているだけのように見える。それを当該各国から入ってくる情報と照合したり、自社の記者を当該諸国に派遣しては彼らからの情報と照らし合わせたりして、自国民により正確で真実な情報を伝えるという努力をしている風にはとても見えない。

 要するに、伝える相手である国民にとっての、真実に基づく価値の優先順位の判断に拠るのではなく、伝える自分たちの側の一方的な功利的かつ保身的な天秤に掛けた上での情報伝達媒体になっているだけに過ぎない。

結局のところ、真実への勇気、正義への勇気がないのだ。いや、共になさすぎる! それにジャーナリスト魂も余りにもか弱い。それだけじゃない。世界が普遍的価値としている自由も民主主義も、言葉として知っているだけで、その意味も価値も知らない、と私は断言する。だから当然ながら「言論の自由」についても、その意味も価値も知らない。

 そんな状態だから、彼らは当然「民主主義の擁護者」ではないし、「人権の擁護を含んだ社会的弱者の護民官」、「日本の良心の守護者」でもない。なれるわけはない。過去の悪しき差別意識や伝統や習慣を打ち砕こうとする覇気もない。

 それは、例えば、日本の男女格差が150カ国中121位、政治分野での男女格差が同じく150カ国中144位、報道の自由度の世界ランキングは66位だ(2020年)という状態であっても、日本のジャーナリストには、それを本気で返上しようという意気込みすら見られないところに現れている。

 

 第4の問いである。

日本の政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たしていないとすれば、それはなぜか?

考えられるその理由とは何か?

 その最大の理由は、彼らの大多数が、その意識や価値観が相変わらず前近代のものだ、ということであろうと私は考える。

つまり、相変わらず、「長いものには巻かれろ」、「触らぬ神にタタリなし」、「波風を立てるな」、「和して同ぜよ」、「もっと大人になれ」の精神レベルを脱しきれていない、超え得てはいない、ということであろう、と私は考える(1.4節)。

その象徴的実例がいわゆる「記者クラブ」だ。100年経った今もなお、そんな制度を自己清算できていないことだ(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」双葉新書)。

 記者クラブ、それはこう説明される。

「現在、省庁や国会、政党に始まり、警察、裁判所など、全国津々浦々の官公庁や役場、業界団体内に至るまで記者クラブが設置されており、加盟社は取材対象と非常に近い距離で日常的に取材を続けている。記者の連合体を『記者クラブ』と呼ぶと同時に、彼らが常駐する詰め所そのものが『記者クラブ』と呼ばれる。この詰め所には記者クラブ加盟社以外の記者は原則的に入ることはできず、当局から配られるプレスリリースなどは加盟社が独占する。記者クラブ主催の会見には、幹事社の許可が下りない限り外部の記者が参加することはできない。」(マーティン・ファクラー「『本当のこと』を伝えない日本の新聞」双葉新書p.52)

 要するに、記者クラブとは、有り体に言うと、日本のとくに朝日、毎日、読売新聞といった大新聞や「公共放送」を自任するNHKを含めた、いわゆるメディアに働く人たちが、互いに「仲間」と認め合う者たちだけで群れを成して、決められた時刻にその場に集まってはそのみんなで揃って口をあんぐりと開けて待っていさえすれば、自分の足で苦労して探し歩かなくても、「メシのタネ=記事のネタ」を口の中にポンと放り込んでもらえる、旨味と便利さと快適さにおいては堪えられない巣窟のことであり、またその制度のことだ。

 そしてそれは、本来、権力を気紛れに行使する者たちを鋭くチェックすべき者たちがそれをせず、むしろ情報提供者となるその気紛れ権力者と一定の距離を保てずに、擦り寄り、馴れ合いになりながら、その相手と「懇談」を繰り返しては、その一方で、「仲間」とは異質の外国人記者や彼らが異端者とみなす国内記者たちは特別な許可を得なくては同席させてももらえない、傍聴するだけで質問させてももらえない排他的馴れ合い集団だ。

 それは、そんな記者クラブを成り立たせている各メディア会社はもちろん記者も、多分気づいてはいないだろうが、この国で長いこと深刻な社会問題となりながらも解決し得ないできた、というより近年ますますひどくなっている「イジメ」を生み出す社会構造と全く同じものだ。

同質の者だけで群れを成し、異質な者はみんなで排除しようとするアレだ。

 この国のジャーナリストを任じている者たちは、自分たちの姿がまるで見えなくなっているのだ。一方では、平気で虐待やいじめ問題を扱っているからだ。

 それは、もう、同質集団の中の一員であることに居心地の良さを覚え、そこに集えば労せずしてネタという飯のタネを与えてもらえる安易さに、ジャーナリズム精神を云々する以前に、人権という意識が麻痺してしまっているのだ。

そんな彼らが、権力(者)を見張る番犬になどなれるわけはない。むしろ情報提供者に忖度したり、ポチ化したりするのは必然であろう。

 またそんな彼らだから、リリースされた情報が真実かどうか、さらにはそれが真実の全貌であるかどうか、何がしかの意図がそこに隠されていないか、本当に国民に伝えるに値する情報かどうかなど、真摯に検討したり、ウラを取ろうとする努力を払ったりするはずもない。

 どの新聞も、どの放送局も、「ニュース」の扱い方や中身は同じになり、同様の論調になるのはそのためだ、と私は思う。

 論説委員の書く社説も、広く世界の現状を自分の眼で見たものに拠るのではなく、頭の中で書いただけのものであろう。それはもちろん「公共」放送を名乗るNHKも同様だ。通り一遍のもので、深みがあって説得力ある報道など、できる訳はないのである。 

 

 第5の問いである。

政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさなかった時、何が起こるか。また実際、歴史上、何が起ったか?

それを考える上では、まず次のことを確認しておくことが極めて重要なことだし、また判りやすくなる、と私は思う。しかしそれらはいずれも、すでに明らかにしてきたことである。

3つある。

 先ずその1つは、権力の意味あるいは定義の明確化であり、それは、他者を押さえつけて支配する力のこと、であること。

 1つは、その権力が権力として成立する根拠についてであり、それは、①そうした性格を持つ権力を与えられる人というのは、つねに、選挙によって主権者によって選ばれた人であること、②そして、その人は、その権力を無制約に行使できるわけではなく、その人が権力を行使できるのは、その人が、選挙時、主権者の前に掲げた公約を実現しようとする場合のみであること。なぜなら、その人は、その公約を実現することを条件にして主権者から選ばれたのであるからだ。

なおこの権力行使の制限については、ジョン・ロックはその主著の中でこう言う。「ある目的を達成するために信託された一切の権力は、その目的によって制限されており、もしその目的が明らかに無視された場合には、いつでも、信任は必然的に剥奪されねばならず、この権力は再びこれを与えた者の手に戻され、その者は、これを新たに自己の安全無事のために最も適当と信ずる者に与えうるのである」、と(「市民政府論」岩波文庫p.151)。③それだけに、その権力という特別な力は、その権力を与えられた者がさらに他の者に譲り渡すことはできない、ということ。なぜなら、その力は、主権者から委任されたものに過ぎないからである(ジョン・ロック同上書p.145)。

そして最後の1つは、政治ジャーナリズムの最大の使命と責任についてであり、それは既述した通りのものである。

 したがって、政治ジャーナリズムがその使命と責任を果たさないということは、この3つの要点が、国の内外の政治の世界で、きちんと行われているかどうかチェックもされずに、つねに曖昧なままにされてしまうということである。

 そうなったらどうなるか。容易に想像はつく。

 なぜなら、一旦権力を手にした者は味を占めて、その後は、勝手気ままに行使したがるものだからだ。一方、その者の取り巻きたちも、人間の性(サガ)として、その者に忖度し、また自己の利益のために隷従しようとしがちだからだ。

「権力は必ず腐敗する」という真理もここから生まれるのである。

またクーデターということも起こりうるようになり、その結果独裁政権が誕生する、ということにもなりかねないのである。もちろんその時には、政治からは透明性は失われ、次々と民主主義とはかけ離れた政治が行われるようになる。

 1930年代から1940年代半ばまでの日本に起こった事態がまさにそれだった。

中国を含む東アジアに侵略する戦争を止められず、さらには、勝てないことが最初から判っていたアメリカとの戦争を軍部にさせてしまったことだ。

 確かにその時代、「天皇制」の下で治安維持法が暴威を振っていた時代であったから、軍部を批判するのは命がけだった。天皇と政府の官僚と軍部の官僚との間の権力関係と統治関係の真実を掴み、それらの関係の本質を分析して、官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発することはもちろん、それらの三者の間の関係の真実を掴むことすら至難の技であったろう。

しかし、そんな時代でも、尾崎秀実や戸坂潤、三木清石橋湛山桐生悠々のような本物のジャーナリストがいたのだ。彼らこそ軍国主義ファシズムを憎み、国民の平和を心から願う本物の愛国者だった。本当に自国を愛していればこそ、理性を失った権力と命がけで闘ったのだ。

 もしこの時、彼らのような本物のジャーナリストがもう少しいたなら、軍部の官僚も政府の官僚も、その意識は少しは変わり、戦争の開始の仕方も、戦争の進め方も、終結のさせ方ももう少し変わったのではないか。

 実際、たとえば、この国がアジア・太平洋戦争に突入する前夜の出来事となったいわゆる満州事変勃発の際(1931年9月18日)、関東軍の破壊工作をうすうす感じ取っていた当時のジャーナリズムが、その真相をいち早く究明し、勇気を持って国民に報道していたならば、この国を含め、アジア各国民のその後の運命も大きく変わっていたに違いない、とさえ言われているのである(原寿雄「新しいジャーナリストたちへ」晩聲社p.54)。

 しかし、実際は、朝日新聞毎日新聞も読売新聞もNHKも、ウソばかりの「大本営発表」をそのまま国民に垂れ流しては、侵略戦争を側面から支持し、国民には戦争協力を煽ったのだ。

その結果が、無条件敗北による国の破滅だった。

 ところがこうした経緯の真実を、敗戦後70余年経った今もなお、朝日新聞毎日新聞も読売新聞もNHKも、公式に反省も悔恨も国民の前に示してはいない。

そればかりか、それらの大メディアは、世界も認めている、次のような決定的な真実すら認めようとはしない自民党公明党からなる現政権を批判もできないでいる。

それは、あの戦争が侵略戦争であったこと。あの戦争では日本軍は、大陸で、「南京大虐殺」をはじめ数々の人道に反する残虐な殺戮行為をしたこと。そしてその戦争の結末が無条件敗北であったことだ。

 では、今日のそれら朝日新聞毎日新聞、読売新聞そしてNHKの実態はどうか。

それについては、今や日本の代表メディアとはされているが、実態は単なるメディアでしかなくなっている。時に、政権のスポークスマン、権力側のポチ、社会秩序維持の役割を果たしながら。

それは、1つに、文字通り「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に、同質の者の「みんなで」いまだに「記者クラブ」存続させていることから判る。1つは、選挙を通じて国民から信託された特別な力である権力を正当に行使して公約を立法化するという政治家としての最大使命は相変わらず全く果たさずに、その立法権力を官僚に丸投げしては官僚独裁を招いている実態には目もくれないでいる姿からも判る。そして1つは、政治権力機構と統治機構の本質を分析し、すなわち真の政治分析を行い、官僚独裁主義が持っている国民に対する冷酷さや非人間性を告発することはおろか、権力者たちに近すぎるほど接近しては、彼らを忖度した記事ばかりを流している実態からも判る。

 そんな状態でいて、朝日新聞毎日新聞も読売新聞もNHKも、中国やロシアや香港の、あるいはサウジアラビアの、それこそ命がけで権力と闘う愛国者人権派弁護士・若き政治的リーダー・真の政治ジャーナリストの姿は、己の臆病さを謙虚に振り返ることもなく、報道しているのである。あるいは、平和の尊さや人権の尊重、ジェンダーの平等、言論や表現の自由の大切さを説いて見せている。それも、それらを一応は報道しないと格好がつかないから、という風にさえ私には見える。

 つまり、日本の政治ジャーナリストにとっては、彼の国の勇気ある人々の活動や、人間にとっての基本的価値は、どれも「他人事」なのだ。日本には、真実を報道しても、また政権批判をしても、暗殺されたり拘束されたりするというようなことはないことは知っているにもかかわらず、である。というより彼らには、この国には「集会・結社・表現の自由」を保障する憲法(第21条)があるということの深い意味すら理解できてはいないのだ。あるいはその憲法の精神を自ら実践しようという気力もないのだ。また、そんな風だから、憲法が「解釈改憲」されても特に気にもならないのであろう。

 そんな臆病で、すぐに権力に迎合する政治ジャーナリストこそ、あのアジア・太平洋戦争の時と同様、今後も、この国がイザッ非常時というとき、いつでも権力者の言いなり報道をしては、国と国民を破滅へと導く勢力へとたちまち変節してしまうのは明らかだ。

そしてそんな彼らの存在こそ、この国を官僚独裁の国にさせ、民主主義を実現できない国にし、国民が依然として幸せになれない国にしている最大の原因となり続けているのだ。

 

 では、第6の問いである、ジャーナリズムがその本来の使命と責任を果たせるようになるには、どうすればいいか? またそのためには、私たち読者や視聴者は、というより国民はどうすればいいのだろうか?

 先ずは、私たち国民はどうすればいいのだろう?

その場合も、やはり次のことは明確に押さえておく必要がある、と私は思う。それは、私たちは、自国の憲法でも明記している主権者だということである。主権者であるとは、国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持している者である、ということだ。

「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利を所持」とは大変重い責任の伴った権利なのである。

 そこで問題となるのは、私たち国民は、その所持している「国家の政治のあり方を最終的に決定できる権利」をいつでも、どこでも行使するには、あるいは行使できるようになるためには、何がどうなったらいいのか、あるいは何が必要かということであろうと私は思う。

 その時、まず第一に必要となってくるのが、誰が、どのような種類の権力を、どのように、また誰のために行使しているか、ということの実態をできるだけ具体的かつ正確に知ることではないか。

そうなると、その時にどうしても必要となるのが既述のような役割と使命を持っている政治ジャーナリズムなのである。

 だから、私たち国民は、ジャーナリストを自任する彼らにこう伝える必要があるのではないか。

 本来の政治ジャーナリズムの役割と責任を勇気を持って果たせ、と。

そのためには、まずさしあたっては記者クラブを廃止せよ、と。もし、朝日・読売・毎日の新聞そしてNHKの記者たちに真の愛国心とジャーナリストとしての矜持があるのなら、率先して記者クラブから抜け出よ、と。そして知識人としての勇気を持て、と(6.4節)。

排他的で、閉鎖的な「記者クラブ」を継続し、またそれに所属しつづけることは、ジャーナリストとしての自殺行為だからだ。記者クラブ活動を続けることは自由と民主主義の実現を望む購読者や視聴者を裏切っているだけではなく、ジャーナリストを職業として選択した自らの初志をあざむいていることにもなるのではないか、と。

 それに、自分に何かと情報をくれて助けてくれる人々と、その人々にまつわる人脈関係を損なわないようにと自己検閲・自主検閲をして矛先を緩めることは、結局のところ、この国の政治を堕落させることにつながり、それは既述したように、結局は国の行くべき方向を誤らせることにもなるからだ。

 政治汚職を「構造的なもの」と言いながら、それをもっぱら政治家のせいにして真の政治分析を怠り、さらにはそこに人物評価をも加えて、彼らを批判しつづけることは政治ジャーナリストであるあなた方のすることではない、と。

 むしろ政治ジャーナリストの役割と使命は、私たち国民や市民の利益代表は官僚や役人ではなく政治家だけなのだということを国民ないしは読者に明確に伝えることだ、と。

その際も、自分の立場、自社の立場を明確にし、そして真実を伝えることには手を緩めないことだ、と(K.V.ウオルフレン「日本という国を、・・・」p.218)。

 そして、少なくとも、一人ひとりは、自己検閲するのではなく、自らに次のような問いを発しながら、ジャーナリストとしての自身の姿勢を厳しくチェックしてみる必要があるのではないか、と。 

———政治家たちは、自己の立候補時の選挙公約を実現するための政策を、法律を、条例を議会で成立させているか。政治家たちは、国民から納められたお金の使途をきちんと自分たちの責任で決めているか。この国は国連に加盟してはいるが、この国は主権国か、独立国と言えるのか。それ以前にこの国は国家と言えるのか。戦力も持たず、交戦権をも放棄して、この国は国家と言えるか。自衛隊は「戦力」ではないのか、軍隊ではないのか。総理大臣は本当に国の舵取りをしているか。国務大臣は配下の官僚をコントロールし得ているのか。とくに防衛大臣はシビリアン・コントロールを為し得ているのか。もしも自衛隊がかつての軍部のように暴走したとき、国会も政府も、その暴走を押さえられる二重三重の体制を考えて法整備をしようとしているのか。この国は民主主義の国と言えるのか。国会は本当に国権の最高機関としての役割を果たし得ているのか。そもそも国会は国権の最高機関とはどういう意味か。それを考えたとき、執行機関でしかない政府の内閣が「閣議決定」などと言っては政策や法案を議決できるのか。立法権に属する内容であっても、内閣は閣議決定できるのか。官僚は憲法や一般法をきちんと守って行政をしているか。衆議院の解散権は本当に総理大臣に所属しているのか。というより、そもそも衆議院に解散ということがありうるのか。またあったとしても、それを解散できるのが行政府の長であるというのは、議会制民主主義の観点からおかしいのではないか。なぜなら、行政府あるいはその長よりも、国会あるいは衆議院の方が権威が上なのだから。国会は国権の最高機関なのだからだ。官僚が発する「通達」や「行政指導」は法に基づかない権力行使ではないのか。各府省庁の官僚が「審議会」を立ち上げること自体、民主主義を装った非公式権力の行使ではないのか。審議会や各種委員会はその構成委員の顔ぶれで討議内容の方向がほぼ決まってしまうものであるが、それを取り仕切る官僚は、どのような客観的で公正なる基準に基づいてその委員となる「学識経験者」あるいは「専門家」を選任しているのか。そしてそうした選任方法を所管大臣はその都度きちんとチェックしているのか。政治家と役人(全体の奉仕者)のそれぞれの役割や使命は明確に区別されているか。この国は国家と政府を明確に区別しているか。政府は本当に国家の代理者となり得ているか。国家の目的とは何か。この国は、本当に三権分立が実現されているか。とくに司法権は本当に行政権から独立し得ているか。政府はすべての国民に対して法の下に平等の行政をしているか。それ以前に、この国には「法の支配」と「法治主義」が厳然と守られているのか。とくに法務省の官僚と検察は「政治資金規正法」をすべての政治家に対して公平に運用しているか。各省庁の官僚の人事評価は本来誰がすべきか。・・・・・。

 もちろんその時、私たち国民一般も、自身が、権力をつねに疑い、己の権利のために闘い、政治的主体として自由と民主主義の実現のために行動できる本物の市民になることが求められている、と私は思う。

 

 ところで、私は、本書の冒頭にて、「近代」という時代はすでに終わり、時代はもはや「環境時代」とでも呼ぶべき時代に入っているという認識の下でいる、と述べた。それは、「資本の論理」を最優先する時代ではなく、生命、それも可能な限り多様な生命が循環によって共生することが最優先される、「生命主義」が主流とされるべき時代であると。

 その観点からすれば、今、政治ジャーナリズムがチェックしなくてはならない政治の領域は「近代」の「民主主義」の時代より格段に広がっている。

そこでは、これまでの人間あるいは「市民」だけではなく、可能な限り多様な生命が共存できる政治のあり方までが問われてくるからだ。

それは、人間社会での弱者———子ども、病人、老人、困窮者、国内の外国国籍の人々、あるいは日本国籍を取得した外国からの移住者等々———の権利だけではなく、地球上の生命一般の生存の権利とでも言うべき「生命権」までも、政治ジャーナリズムの対象となってくることを意味する。

 こうしたことを考えなくてはならなくなっている背景には、今、人類全体が、気候変動の激化とそれに伴う異常気象の常態化とともに生物多様性の劣化と崩壊によりその存続の危機に直面している、という事実がある。

 だから「環境時代」では、これまで述べて来た「近代」におけるジャーナリズムとジャーナリストの観点からだけではなく、たとえば、「たった一つの生物種の生存権と自然益」の視点にまで自らの視野を拡大し、役割と使命の枠を広げ、「そのたった一つの生物種の中の一個の個体の生存権を考えることこそ真の人類益」となる、との観点に立てるジャーナリストでもなくてはならないことを意味するのではないか。

したがってそこでは、単に権力とその行使のされ方を監視し批判するとか、また、よりよい民主主義の実現のためにとか、人権と国益という観点から権力機構・統治機構の真実を国民の前に明らかにするということだけではとても足りなくなる。

 こうして、これからのジャーナリズムとジャーナリストに求められる使命と責任の最終的な姿とは、民主主義よりも質的にはるかに高いレベルの生命主義の実現を見据えながら、同時に、目先では、人間世界での権力構造の真実を国民の前に勇気を持って明らかにする護民官となり日本の良心の守護者になることなのではないか、と私は思うのである。

 私は、そうした姿勢を貫けるジャーナリズムとジャーナリストをこそ、「新しいジャーナリズム」、「新しいジャーナリスト」と呼びたいと思う。

そしてこれからの時代は、そんな姿勢を堅持するジャーナリズムとジャーナリストこそ、国民にとってはもちろん他生命の立場になって想像してみても———それはすなわち人類の将来にとっても———最大の「希望」の星となるのではないだろうか。