LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

6.7 僧侶と神主に求められる使命と責任

 

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6.7 僧侶と神主に求められる使命と責任

 昨今、この国では、「終活」とか「人生の終い方」というような奇妙な言葉が世の中を飛び交っている。

その言葉の意図するところは、人間は、一人ひとり、いよいよ自身の人生が大詰めという段階を迎えたなら、自分で自分の最期をどうまとめるべきかということを考え、その時を迎えた方がよい、ということなのだろう。

 しかし私は、それはまことに奇妙なことだ、と思う。

なぜならば、この国では、実社会ではもちろんのこと、とくに社会に出るための土台を築くべき学校時代でも、生きることの意味についても生きる目的についてもきちんと教えてきた試しはないからだ。またそれを考えさせる教育をしてきた試しもないからだ———勉強する本当の目的、究極の目的はそこにあるはずだと私は思うのだが————。

つまりこの国の政府文科省は、一貫してそうした学校教育をしてきたのである。むしろ、一人ひとりの個性や能力を生かしまた伸ばそうとするのではなく、人生を人間らしく生きる上では全く役にも立たない知識を、これもあれもと覚えさせるだけの画一教育をしてきただけなのだ。そして圧倒的多数の日本人は、そんな状態で現実の利害渦巻く社会に出て、生きてゆくのである。

 人々にはそうした生き方をさせておいて、死を間近に控えたときになって、人生の終い方を準備せよ、最後のゴールをどう迎えるべきか心しておけ、と言うのはオカシなことだと私は思うからである。

 もちろん自己の人生の終い方を考えておくことは重要なことではあろうが、それだったら、やはり人生のスタートに当たって、せめて人生の基礎を築く時期に、「人は何のために、誰のために生きるのか」を先ずしっかりと自分の頭で考え、判断することのできる教育を、国家として行うべきではないか。そうした教育がなされ、その教育を土台にして人生を生きたとき、その最後の段階で、「人生の終い方」を問うのであったなら、それはそれで意味も位置付けもはっきりするからだ。

 いずれにしても、ここで私たち日本国民は、宗教家ももちろん、仏教という宗教も神道という宗教も、またキリスト教やその他の宗教についても、宗教とは本来何なのか、と根本から問い直してみる必要があるのではないか、と私は思う。

なぜなら、宗教は、どんな宗教であれ、つまるところ、人間としての生き方を教え導いてくれるものではないか、と私は思うからだ。

 ある特別な能力のある人、難行苦行の修練を積んだ人でなくてはそれは判らないものだとするとしたら、それは本来の宗教のあり方としては間違っているし、それは宗教家の傲慢さだとさえ私は思う。

そしてその態度は、宗教そのものを社会一般から引き離し、私たち一般人の日常生活と切り離してしまうことを意味するのである。

 それに、そもそも、子供が誕生した時には神社で、結婚式はキリスト教会で、葬式はお寺でという発想そのものが、すでに宗教を、その何かを考えずに、形骸化していることではないのか。そしてその態度こそ、本来あるべき宗教を汚しているのではないか。

最近、よく、「癒し」「ヒーリング」という言葉が聞かれるが、果たして宗教をその程度に見ていて、それで、人は、本当に心は癒され、また救われるものなのだろうか。

 

 ところで、自分の親の葬儀を出した時もそうだったし、また自分の兄、親戚、友人、知人そしてお世話になった方々の葬儀に列席あるいは参列させていただいた時もそうだったが———ただしそうした葬儀は、すべて仏式で行われたものであるが———、そうした葬儀に臨む度に、私は、そこの葬儀場で疑問に思わされ、感じさせられて来たことがある。

それは、お坊さんたちが次々と種類を換えて唱えてくれるお経の文言そのものが、少なくとも私には難しすぎて、何を言っているのか、何を意味しているのか、さっぱり判らないと感じられたと同時に、なぜこのようなそれを聴く者にはさっぱり意味のわからない文言で読経をするのだろう、果してそのような読経をすることにどれだけ意義があるのだろう、ということである。

 そしてさらにこうも思った。聞くところによると、それが正確かどうか自信はないが、葬儀でお坊さんが読経する目的は、故人の魂が、行くところなくさまよっていることなく、済度して、「この世」から「三途の川」を無事に超えて、「あの世」=「黄泉の国」=「冥土」へと心安らかに旅立てるように「引導」を渡すことだとのことであるが、それからすると、お坊さんが読経しているのは、故人のために、その故人に向って語りかけているということになる。

 しかし仮にそうであったとしても、永遠の眠りについた故人はその読経を聞いてその意味がわかるとでもお坊さんたちは言うのであろうか。

 

 そもそも、お坊さんを除いて、あの経文の意味が判っている人、理解できて聞いている人は、過去、葬儀に参列したことのある人のうち、何パーセントいるだろう。

 確かにその読経に対して、“有り難い”と思って聞き入っている人も中にはいるかもしれない。

でもその場合も、その文言の意味は多分わかってはいないのではないか。

つまり、ほとんどの人はそのお経の文言の意味も判らないままに、厳粛なその場の雰囲気を乱さないようにと静かに聞き入っているだけなのではないか、と私は思ったのである。

 このように考えてくると、結論として、そのような読経は、誰にとっても、ほとんど意味はないのではないか、と私には思えてくるのである。つまり、いかに葬儀は儀式であるとは言っても、まったく形式的なことをしているだけになってしまうのではないか、と。

 もちろん、お坊さんにしてみれば、その読経あるいはその経本に書かれている文言には、在家である私などには窺い知ることなどできない深い意味があるのかもしれないが、それにしても難解だ。

 

 そこで私は改めて思ったのである。

そもそも葬儀というのは、死者のために執り行われるものであると同時に、亡き人の死を悼んでそこに集う人々のためにも執り行なわれるものであるべきではないか、と。

そして、そこで唱えられるお経の文言については、死者がもしそれを聞いているとすればその死者にとっても、そしてそこに参列する人にとっても、言葉として、充分に理解できるものであることが必要なのではないか、と。

なぜなら、特に、どんな経本でも、そこに盛られている内容は、人間としての生き方を求めて、特別な修行を重ね、自己に厳しい生活を送る中で掴み取った人々による、生き方の極意あるいは智慧とでも言えるようなものであろうと想像するので、それだけに、そこで語られる文言は、いっそう、それを聞く者の誰もがわかる平易なものであることが望ましいのではないか、と私は思うからである。

 

 ところが現在、この国で一般に行われている仏式の葬儀での読経は、あるいはその読経で表現されている文言はそうはなっていない。したがって参列者は、もちろん喪主を含めた故人のご親族の皆さんも、葬儀の間は、ただじっと坐って、あるいは腰掛けて聞いているしかないものとなっている———それはとりわけ病弱の人や足腰に故障を抱えて参列している人にとっては、大変な苦痛の伴うことであろう———。

 それでは、せっかくその場に集い、亡き人を見送ろうとする人には、葬儀とは、故人と対面できる最後の機会となるということにしか意義を見出せなくなり、葬儀そのものはただ苦痛と忍の一字を強いられる場でしかない、ということにもなりかねないのである。

 

 果たして日本の葬儀のあり方はそれでいいのだろうか。何のために人は葬儀を出すのか、またそれに参列するのか、その深い意味を一人ひとりが考えずに、またその深い意味を知らずに、ただ葬儀が行われるからということだけで参列しているのだとすれば、日本の伝統の宗教による大切な儀式を、心の通わない、文字どおり形だけのものにしてしまうことになりはしないか。

 少なくとも、葬儀とは、故人と会える最後の機会としてそこに集う人々にとっては、ただ一時の時間を亡き人と共有するためだけのものではない、と私は思うのである。

 

 そう思っている私は、長い読経が終った後、お坊さんから、ほんの少し、もはや故人からは聞くことの出来ない、故人の在りし日の姿や故人が生前大切にして来たことが説明されると、そこで初めて葬儀に参列してよかった、と感じるのである。

それを聞かせてもらうことにより、故人が生前どのように生きたか、自分の知らなかった面を改めて知ることができるからだ。そしてそれを聞き知ることで、故人と接した、あるいは過ごしたほんの一瞬かも知れないその時を思い浮かべ、改めて故人の存在の意味あるいは自分との関係における意味を再確認できるのである。と同時に、故人の生き方から、自分は少しでも学ぼう、という気持ちにもなるのである。

 私は葬儀の主たる目的や意義とは、故人の魂が永久に安らかなれと祈るためであることはもちろんであるが、むしろ自分がその故人と人生のある時期、関わり得たことの意味と幸せを、故人と顔を合わせながら噛み締められる最後の機会、ということにこそあるのではないか、と思う。

 

 以上のことから、私は、葬儀の行われ方、その場合もとくに読経の仕方、読経の意味、読経の文言、文言の意味とその伝え方等については、今や再考されていいのではないか、と考える。これまではあまりにも「形」だけの「儀式」でありすぎた、と考えるからである。と同時に、宗教を信じるとはどういうことか、なぜ人間が宗教を信じることが大切なのか、ということについても再考されていいのではないか、とも考える。

そしてそうしたことを考え直してみることは、日本の伝統の宗教の一つである仏教に帰依する人々の使命でもあり責任でもあるのではないか、とも私は考えるのである。

 それは、今後、私たち地球人類は、温暖化・気候変動と生物多様性の崩壊等が主たる原因となって、かつて見たことも聞いたこともなかった出来事に頻繁に遭遇してゆくことになるのではないかと私などは推測し危惧するのであるが、そんな時、科学技術がどんなに進んだ世の中であっても、一人ひとりが正しい宗教心を持つことはどうしても必要になるのではないか、と私は考えるからでもある。

 

 ところで、今日、この国の仏教は、明らかに衰退傾向にある。人々の仏教への関心も理解もどんどん失われている。私は、そのことは、仏教は日本の文化そのものを土台から支えて来た宗教であっただけに大変残念に思う。

 しかしそうした事態となっていることについては、私は、ただ“時代がそうだから”といった説明だけでは済まされることではないと思っている。実際、仏教の国で、お坊さんが今もなお、市井の人々の尊敬を集めている国はあるのだから。

 この国での仏教の衰退は、この国の仏教界そのものにその大部分の原因があるのではないのか。

既述した、葬儀におけるお坊さんたちのただ難解な読経だけで済ませてしまう姿もその1つだと思う。そしてますます人間らしく生きることが難しくなってきているこの世の中にあって、積極的に仏教の教えを巷に広めようとしていないこともその1つであるように思う。むしろ仏教を隔離した世界に閉じ込めているようにさえ私には感じられる。

 確かに、坊さんになるには、誰も、大変厳しい修行を積んでおられるであろうことは、私も時折TVなどに映るその修行風景を見て承知し、また推察もしてはいる。

そしてそうした修行は、人間としての生き方やあり方を求める上で、ある人にとっては確かに必要で有意義なことかもしれない。しかし私は、そうした人間として生き方を求める修行は、必ずしも「お寺」とかいわゆる「修験場」と言われる場でなくとも、たとえば「娑婆」とも呼ばれる現実の社会でも十分にできるのではないか、と考えるのである。というより、むしろ娑婆での方が「生きた修行」ができるのではないか、とさえ思う。 

「お寺」とか「修験場」は修行のためのいわば特殊な場、理想化された場であり、娑婆とは隔絶された空間であるのに対して、娑婆はそうではなく、様々な人間関係の中で、様々な利害渦巻く場でもあり、それだけにそこは苦しみや悩みが多く、様々な誘惑のある場でもある。修験場のように、修行一点に集中できる静寂な場ではない。

 しかし私は、それだからこそ娑婆は、むしろ最適で理想的な修験道場でさえある、そんな風に考えるのである。

 むしろ修験場は、いってみれば、私がかつて歩んできた科学や技術開発の分野における「実験の場」と同じに私には見える。

その実験は、ある定まった目的を達するためには無関係なこと、あるいはそれがあることでかえって求めようとする関係は撹乱されてしまうのではないかと推測される因子は予め可能な限り排除し、しかもほとんどの実験は、時間の影響のない中、つまり静的で、いわば時間が止まった状態の中でなされるのである。

 確かにその結果、成功すれば、目的は達せられる。しかし、そこで得られたことは、もちろん条件付きでしか適用できない。汎用性を持たないのである。

 私は、「お寺」とか「修験場」での修行を通じて掴みとられた成果としての「人間としての生き方・あり方」というのは、それと同じで、ある制約された状況の中でしか適用できない成果なのではないか、と思えて仕方がない。つまり、その修行の場であり空間の中でしか有効性を持たないものではないか、と。

 実際、私は、仏教界で「高僧」と言われている坊さんが、寺を一歩出た現実社会では、娑婆の人々の生き方よりもはるかに俗物的な生き方をしていたという実例を多く耳にして来たし、私自身、実際にそういう人物を知ってもいる。

 そういうことを考えると、むしろ、人間相互の利害関係の渦巻くこの娑婆という現実の社会において、そこでの矛盾や理不尽さから目を背けず、また逃避することもなく———もちろんそこには押し潰されてしまいそうな葛藤があるだろうが———その中で人間としての生き方・あり方を追い求める方が、どれほど生きた修行、応用力を身に付けられる修行になるかしれないのではないか、と私は考えるのである。そしてそこから得られた結果ほど、悩み迷う他者に対して説得力あるものはないのではないか、とも思う。

 しかし私は、だからといって、理想の場での修行を否定したり、無意味としたりするものではない。それは、そうした中で掴みとった真理、あるいは古の師が難行苦行の末掴みとった真理は、それはそれで娑婆で掴みとった真理とはまた別の意味で意義あるものとなろうし、それだけにそれはそれで、積極的に市井に出て、庶民の悩みや苦しみを聞きながら、庶民にとって判りやすい言葉に変換して語りかけ、伝えてもらえれば、聞く者には、よりいっそう深遠なる真理や箴言に近づき得るようになるのではないか、と私は考えるからである。

 そうすることで、私たち一般民衆は宗教の意味やその果たす役割をより正しく理解できるようになるだろうし、宗教家は宗教家で、現実から遊離しない形で、宗教の真髄をより深められるようになるのではないか、とも考えるのである。

 少なくとも、人が死んだらとにかく葬儀はやらねばならないものだ、といった形だけのもの、形だけの発想はもう止めるべきだと私は考える。それでは、そこに関わる仏教は、葬式仏教、すなわち葬式という儀式をするためでしかない仏教、と言われるようになってしまっても仕方がないからだ。

 なお、これまで述べてきたことは、この国のもう一つの伝統宗教である神道にとっても、ほとんど同じことが言えるのではないか、と私は思うのである。