LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

10.2 日本政府の文部省・文科省の教育は日本を世界に通用し得ない国にしてしまった

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10.2 日本政府の文部省・文科省の教育は日本を世界に通用し得ない国にしてしまった

 私はTVではBS放送による海外放送局の番組をよく見る。もちろん日本の放送局のも見る。その場合、よく見るのはどちらの場合もニュース番組だ。

 そしてそれらを見る度に、ほとんどいつも次のことを感じてきた。海外各放送局が伝えるニュースの中での問題の捉え方と伝え方ないしは語り口は、たとえ日本がそれと同じものをピックアップして後追いで伝えるにしても、その日本の伝え方とは何かが違うな、と。

 どう違うかというと、海外の人たちは———たとえばアメリカであれ、イギリスであれ、ヨーロッパの国々であれ、日本を除くアジアの人々であれ、中東の人々であれ———、私の見るところ、その時キャスターに語らせる文章は表には現れない編集部の人が多分書くのであろうが、それにしても、ほとんどどこの国の放送局のどのキャスターも、キャスター自身がどの問題に対しても広く関心を持っているだけではなく自分なりの考えを明確に持っていて、それを、決まり文句によるのではなく、自分の言葉で語っているのではないかと思われる、という点においてである。市井の人がその時、世の中で話題になっている問題について語る場合も同じだ。よほど言論の自由が抑圧されている国、あるいはしゃべることでその人に国家からの圧力や拘束が及ぶ可能性がある場合にはともかく、そうでない場合には、誰かが言っていたような言い方によるのではなく、そして誰はばかることなく、自分の言葉で自分に正直に語っている。起っているその問題についてメディアから尋ねられたときも、少なくとも笑って済ませたり、曖昧な答え方で済ませたり、情緒的に語ったり、他人事にしたりする、ということはない。必ず自分なりの考えを持って、それを答えるのだ。

 政治的問題でも宗教的問題についても同じだ。それらについて自分の考えを語ることをタブー視したり、臆したりすることはない。むしろそれらを率直に語ることを当たり前とし、それは市民としての義務だと感じている風でさえある。そして自分の意見を言うその場合も、ほとんどつねにその問題の渦中にある人物の人権を思いやり、共感をも示す。しかし、批判すべきと自身が考える相手には、事実と推測の区別を明確にしながら、躊躇することなく批判する。

 そしてものを語るときには、つねに自由と民主主義を土台に置いている。というより、それこそを大切にして日々を生きているといった感じだ。そのため、議論し合ったり、批判し合ったり、あるいは反論し合ったりすることを避けない。むしろ本音でそうすることこそが本当の意味で相手に敬意を払うことであり、互いに相手を理解し合うことに繋がり、それが結局は相互の信頼や絆を深めることになることだと考えているようにさえ見える。つまり、誰もが一様に言論の自由表現の自由の権利を我が物にし、また相手も同様の権利を持っていると認め合っているのである。

 それだからこそ、彼らは、困った問題や自分に不都合な問題が発覚したときには、それがなかったことにしたり、問題をうやむやにしたり、解決を先送りしたり、あるいは無関心を装ったりしてしまうことはしない。むしろそうした問題に真正面から立ち向かう。それがなかったことにしたり、問題をうやむやにしたりして、秩序とか協調性ということに気遣うより、とにかく問題をオープンにすること、事実を明らかにすることの方をつねに大切にする。すなわち透明性と公正性を大事にしながら、秩序よりも正義そして真実を優先する。

 またそれだからこそ、そういう国では、首相も大統領も、まずは憲法を擁護し、法律を守り、そして「法の支配」を尊重する。日本の安倍晋三のように、自国の憲法を否定したり破壊したりはしない。「法の支配」、「民主主義」ということを口先だけにはしない。また国民は国民で、国の指導者が国民との約束を破ったなら、市民としてそれを決して許さない。自分たちの自由が侵されたり制限されたりし、人権が侵されたり、理不尽と感じることに対しては、敏感に反応し、直ちに行動へと出る。問題から目を背けたり、無関心を装ったりはしない。

そしてそのような時はほとんど決まって思いを共有する人々同士で連帯する。つまり共感を大切にする。またそうすることが、一人ひとり、社会共同体に対する自身の責任と義務でもあると感じている風でさえある。

 こうして一人ひとりは、いつも、どこにいても、互いに共同体の中に生きているという意識を共有している。

 だから、たとえば、誰かが理不尽な経緯で命を落としたときには、それを聞き知った者はすかさずその場にみんなで駆けつけ、その死を悼む。同時に、たとえば “私はあなたと共にある”と死者への連帯の意思を表示する。また、自分たちの親兄弟や祖父の関わった過去の忌まわしい歴史に対しても、それがたとえ100年経とうが、とくに欧州では、関係国どこも、その日を忘れずに、亡き犠牲者に黙祷を捧げ、歴史を記憶の中で引き継ごうとする。

 それだけに彼らは社会への貢献にもきわめて積極的である。つまり社会の問題や世界の出来事に関心を持ち、それらをつねに自分の問題として引き寄せて捉えようとする。無関心を装うことはしない。

 しかも、人々は、民族が違っても、人種が違っても、また社会的弱者であろうと社会的少数者であろうと、多様性こそが大事だとして認め合っている。誰もが、自由であることを何よりも大切にし、自分の生き方は、他者に流されずに自分で決めることが出来るとして、そのことを互いに大切にしている。決して干渉したりしないし、干渉されることも望まない。

 また他者がある事で立派な功績を上げたりすると、第三者の判断や専門家の判断を待たずに、自分の判断だけで率直に賞賛の声を上げ、評価する。

 自分の興味や関心の赴くところや方面にはたとえ一人であっても、また辺境の地であっても、異文化の世界であっても、躊躇なく飛び込んで行く。そしてそこでは自らの身体を通じて納得ゆくところまで試みようとする。そうした態度は科学の世界においても同様だ。一匹狼になることをまったく意に介さない。流行のテーマにはこだわらない。安全圏に身を置こうなどとも考えない。そして自分で納得行くまで挑戦する。

 彼らは、そうした行動を、生きる意義を見出すためであるとし、自分自身の存在証明のためでもあるとしている。そしてそうした行動を周囲の人々もほとんど例外なく理解を示し、積極的に支援もする。その支援の姿勢はたとえば寄付や献金という形などで表わす。

 それに彼らは歴史や文化をも大切にしている。自分たちの両親や祖先の生き方を評価し、尊敬してもいる。自分たちの育った街や村を誇りにし、またそれを心から愛してもいる。それゆえ、それを壊してしまう経済活動には大きな抵抗を示す。経済活動と、歴史や文化を大切にすることとは別だとしている。したがってたとえば、経済か環境か、という二者択一的態度はとらない。そして自分たちの周りの自然も大切にし、その中で自分たちの生活も大切にし、楽しんでもいる。つまり、自分たちの起源(ルーツ)を明確に捉え、アイデンティティを明確にし、その中で自分たちの文化を大切にし、またそれを育て、そこから物事を発想しては生きている。決して経済活動一辺倒の思考形態にはならない。

 私は、TVに映る人々のそうした姿を見ていると、それが彼らの「人間」として生きようとする当たり前の行動様式になっているような気がするのである。そして実際、私は、それが人間としてのあるべき本来の姿なのではないか、とも思うのである。

 

 では、ひるがえって、こうした彼らのあり方に対して、私たち日本人————ここで言う日本人とは、人種のことを言っているのではなく、あくまでも日本国籍を有する人、との意味である。それに、第一、もともと「日本人」などという人種は歴史的に存在しないのだ————の生き方や行動様式はどうであろう。

 私は先に、この日本人の「ものの考え方」と「生き方」について、その中でも特徴的というより特異であり、そのようなものの考え方をし生き方をしていたならかえって自ら危機を招き寄せることになると私には思われる「ものの考え方」と「生き方」について述べて来た(5.1節)。

 さらには、この日本人の「ものの考え方」と「生き方」という一般論的な見方に留まらず、もう少し限定して、いわば外に向って日本人を代表するような立場の人々の実態についても、私なりの見方を述べて来た。

たとえば、公的な場でものを言うことを仕事とする政治家(2.2〜2.4節)について。

広く人々に向ってものを書いたりすることを仕事とする知識人(6.4節)と政治ジャーナリスト(6.6節)について。そして公的な場で奉仕活動をすることを仕事とする官僚(2.5節)等々についてである。

 そこから概して共通に見えてきた彼らの多くの姿は、本物の民主主義国あるいは先進国と呼ばれる国々で同じ種類の仕事に就いている人々とTVを通じて見比べてみても、やはり際立って違うということだった。

 何が違うか。

 先ずは、人はみな多様なのだ、自由なのだという意識を含めての人権意識が極めて乏しいことだ。自分というものがなく、個(人)として確立していないことだ。物事の価値に対する自分なりの評価の物差しを持っていないことだ。自分の信じていることを正直に口にする勇気においても極めて乏しい。いつもどこかの誰かの判断に依存して判断し、評価に依存して評価しているだけなのだ。つまり他者に追随することに平気なのだ。主体的に物事に関わろうとはしない。だから必然的に、自分がしていることや関わっていることに対する責任感も極めて乏しくなる。そして共感力や連帯力、そしてそれに基づく行動力も実践力も乏しい。他者が動くとそれにつられて動く。つまり自分の行動基準は自分の中にあるのではなく他者にある。それでいて、他者の存在、他者の行為、他者の権利を認める寛容性、他者を受け入れようとする受容性にも極めて乏しい。

 そして日頃話題にすることと言えば、ほとんど決まって経済のこと・金のこと・損得のこと、あるいは人の噂話だったり、流行あるいは話題となっていることだったりする。何の目的で自分は生きているのかとか、人間としてどう生きるのか、とは考えない。自分のルーツとか、自分は今どこにいるのか、自分のアイデンティティーとは何か、ということにはほとんど関心を示さない。

 だから、自身の生き方に自信を持てないし誇りも持てない。愛国心も持てない。

 とにかくどれを取っても、こうした生き方や物の見方から見えてくる特徴と、それを特徴たらしめている動機は、ほとんどの場合、共通に、“みんながやっていることだから”というもの、あるいはその反対に、“あの人は変わっていると見られたくないから”であるように見える。だからどうしたって煽動されやすい。あるいは“他者に後ろ指を指されないように行動する”というものであるように私には見える。その人が自分で主体的に考え、判断し、決断し、その結果において行動しているわけではない。だから信念に基づいてやっている訳でもない。

 ということは、周囲の状況によってどのようにでも行動の仕方を変え、態度を変えるということだ。特に、他者が見ている場合と見ていない場合とでは、極端に変える可能性がある。

実は、日本人の場合、特にこの傾向は強いようだ。とにかく他人が見ていればそれを気にして、一応、ルールや秩序に従うが、見ていなければ、あるいは外部からのチェックや監視の眼が入らなければ、極めて衝動的かつ気まぐれ、あるいは無軌道に動く。そしてその傾向は、個人でも組織あるいは集団でも同じだが、特に組織あるいは集団となると、集団心理と日本人固有の他者に煽動されやすいという特質が加わるためであろう、その振る舞い方は一層タチが悪くなる。実はその最も象徴的で最悪なのがこの国の中央省庁の官僚組織だと私は見る。

彼らは、法律を運用する立場にいながら、法律の弱点を知り尽くしているからなのであろう、法律は愚か憲法でさえ、平気で無視するのである(2.5節)。一人ではとてもそんな大それた事をする勇気はないのに、組織となると、みんなで止めどなく堕落し腐敗して行く傾向が強いのだ。つまり、自浄作用も自主的ブレーキもまったく利かなくなる。

 とにかく、その辺を物の見事に言い表しているのがビートたけし氏の言葉だという“赤信号、みんなで渡れば怖くない”だ。

したがって、物事に向かう姿勢がこんな調子だから、自分のしていることに対して明確な責任感を持てるわけもない。だから、言い訳も巧みになる。

 

 実際、ではこの国は世界とどれほど違うか。

 世界では常識になっている民主主義を成り立たせている土台であるところの基本的人権の中での男女の平等の達成度を世界における男女平等の程度のランキングという観点で見てみよう。

2017年には、調査対象国144カ国中日本は114位だだった。

2019年には、総合では、153カ国中121位である。

それをもう少し細かく政治と経済の面で見ると、政治では144位。そのうち、国会議員の男女比では135位。閣僚の男女比では139位(「グローバル・ジェンダー・ギャップ指数」2019年版(世界経済フォーラム))という順位だ。日本の議会に占める女性議員の割合は10.1%で、世界順位は162位(出典はIPU列国議会同盟)。

経済では、115位。そのうち、勤労所得の男女比では108位。管理職の男女比では131位だ(出典は同上)。

 要するに “人間は生まれながらにして自由で平等”と謳ったフランス人権宣言(1789年)から、230年余経っても、日本はこんな状態なのだ。この国は、未だ「近代」という時代にも至ってはいないのだ、と私が主張する根拠の一つである(1.4節)。

 では子どもの人権についてはどうか。

子どもはどの国でも、その存在自体が「希望」なのである。それを受けて、国連が「子どもの人権条約」を定めたのは1989年。ところがこの国がそれを批准したのはその5年後の1994年である。その国際批准順位は、国連加盟国195カ国中、158番目である。

 実際、この国では、子どもへの「虐待」や「イジメ」そして「自殺」は減るどころか年々ますます増えている————なお、以下に述べる内容は、そのほとんどが、結局はこの国の中央政府の一省庁でアル嘗ての文部省、そして今の文部科学省の、子供たちの特に「自由」と「平等」という基本的人権を無視し、集団主義の中で瑣末な校則を押し付け、一人ひとりの個性や能力を育てようとはせずに、画一的な枠の中で育てようとしてきた学校教育システムが結果としてもたらしてきたことだ、と私は考えるのである。前節の10.1節を参照————。

そのことでも日本はしょっちゅう国連からもOECDからも注意勧告を受けていて、国連の「子どもの権利委員会」は、日本では虐待を罰する法律さえ設けていないことを懸念し、政府に対策を求める勧告を公表してさえいる(2019年2月7日)。それどころか、驚くなかれ、この国の民法では、いまだに、明治政府が決めた、親の子に対する「懲戒権」、すなわち親が子を懲らしめることのできる権利を認め続けてさえいる(第822条)のだ。

 国としてこんなに恥ずかしい状態であるのに、たとえば、小泉純一郎などは、首相当時、身の程も弁えず、国連の常任理事国になろうとさえしたのである。

 なお、これは世界のデータがないので国際比較はできないが———というよりこれは日本固有の現象なので、世界的データなどあるはずはない、と言えるのではないか———、「引きこもり」と「不登校」についても触れておく。

 今日、いわゆる「引きこもり」と呼ばれる人々の数も推計で100万人を超えると見られている。その内、15〜39歳までの引きこもりが54万1000人、40〜64歳の中高年が61万3000人とされていて、その7割以上が男性だ(2019年3月内閣府発表)。 

 一方、不登校の数は、「隠れ不登校」の生徒数も含めるとおよそ44万人に達しているとされるのである(2019年5月30日NHKスペシャル シリーズ 子どもの声なき声(2)「“不登校”44万人の衝撃」)。国の総人口に対してこれだけの割合で引きこもりや不登校がいるという国も、多分世界にはないのではないか。と言うより、そもそも引きこもりという現象自体、日本固有の現象なのではないか。

 そしてこうした事実は、日本は国連に加盟していながら、国連憲章が冒頭に掲げる「基本的人権と人間の尊厳および価値と男女および大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、・・・」という70余年も前に明らかにした、世界が共有している考え方や精神を未だに共有もできなければ満足に守れてもいないということを証明しているのである。

 当然ながら日本固有の、文科省による悪しき教育システムは、若者や子どもたちからは自由な思考とか創造性あるいは独創性を奪い、はつらつさを失わせている。決まりきった思考やみんなが考えそうなことしか考えなくさせている。それはこの国全体を硬直化させ、活力を失わせ、ますます世界から後れをとる国、世界には通用し得ない国にさせてしまうことだ。もちろんそれは同時に、この国の将来をますます危険に陥らせてしまうことでもある。

 それがはっきりと眼に見える形で現れているのがこの国の経済力の相対的落ち込みだ。

 一国の経済力を表わす指標とされて来たGDP(国内総生産)にはっきりそれが現れているのである。

1997年実績から2018年までの名目GDP (国際総生産)の世界の上位30カ国の成長の推移は30位だ。それもその他の29カ国すべての伸びの推移はどこの国も最低でも1997年比で61.2%なのに、日本だけは何と2.8%だ(IMFの2019年10月時点での統計。2019年11月17日号 [しんぶん赤旗日曜版]より)。

 考えてみれば、日本が、1980年代、「ジャパン アズ ナンバーワン」などと呼ばれ、アメリカに次ぐ世界第2位の「超経済大国」になり得たのも、それの真似をし、改良していさえすれば良かった先行モデルがあったからだ。日本人の、とくに政府の経済関係省庁の官僚の独創性や能力がもたらしたものでは断じてない。強いて言えば、大蔵省を中心として通産省建設省(共に当時)、その他の府省庁の官僚が国民の利益と福祉を二の次にして、本来の自由主義市場経済という資本主義経済の原則を守らず、自分たち府省庁を頂点とする「業界」と「系列」という仕組みを巧妙につくって来た結果なのだ。

 毎年、国連が発表している世界の「幸福度」ランキングにも日本はもはや世界に通用し得ない国になってしまったことがはっきりと現れている。

2019年度は、1位がフィンランド、2位がデンマーク、3位がノルウエー、4位アイスランド、5位オランダ、6位スイス、7位スエーデン、10位オーストリアと続く。そして日本は58位だった。それは主要7カ国(G7)中、最下位。

2013年には43位だったものが、ほぼ毎年順位を下げ、2019年はこの結果だ。

 なお、この幸福度を測る項目は6つあって、GDP健康寿命、腐敗のなさ、社会の自由度、他者への寛大さ、そして社会的支援の度合いについて、である。

 

 日本政府のこうした、世界が定めた約束事、あるいは世界で共有することにした価値を無視あるいは軽視する姿勢は、男女間や子どもの人権問題に限らない。

 たとえば、9月2日を日本が公式に無条件敗戦を認めた日だということを国民に向けて公式に認めようとはしないで、つまり9月2日を「敗戦記念日」とはせずに、相変わらず8月15日を「終戦記念日」と言っては国民を騙し続けている姿勢もその1つだ。

 当時の日本政府がポツダム宣言を無条件に受け入れたからこそ、終戦日が確定して、北海道がソ連の統治下に置かれるような事態にまでならなくて済んだのにも拘らず、その政府の今のトップ安倍晋三が、「ポツダム宣言はつまびらかに読んだことはない」とシャーシャーと言う姿勢もその1つだ。

 議長国として京都議定書をまとめておきながら、その対世界公約を自ら破った姿勢もそうだ。

 パリ協定を批准しておきながら、そこで決まった2050年には温室効果ガス排出を事実上ゼロにするというカナメになる国際的約束事に対しても、2030年にも依然として火力発電の全電源に占める割合を56%にするなどといった「エネルギー基本計画」を経済産業省の官僚が作ったそれをそのまま閣議決定する日本政府の姿勢もそれだ。

 さらに言えば、これは先ほど触れたことと関連することであるが、この国は表向きは資本主義で民主主義の国とされてはいるが、日本政府のやっていることの実態は、この国は本来の資本主義の国でもなければ民主主儀の国でもない、というのもそれだ(1.4節)。

 

 そして、文部省と文科省が、政府の一省庁でありながら、自国を世界に通用し得なくしてしまったもう一つの実際例も、どうしても挙げておかねばならない。

 日本が経済超大国にのし上がり、実際、そう呼ばれたのは1980年代の特に後半である。

1960年代からはすでにアジア諸国からは注目される経済発展を「所得倍増計画」の下で始めていた。

1991年、バブル崩壊によって、それ以後は経済「超」大国ではなくなったが、それでも一応は経済大国と呼ばれ、またこの国の政府もそれをもって任じてきた。

 経済大国、それは経済を通じて世界に大きな影響をもたらしている国、ということだ。

 では外交面で、それも特に人権外交の面で、経済大国と呼ばれるにふさわしい貢献を世界にして来たと言えるだろうか。

 私の答えは全くの「ノー!」だ。日本政府は、この場合も、一度としてそれができた試しはない。

むしろ、経済大国として日本は何かをしてくれるであろうと期待する当事国にとって、ここぞという時、そして同じ理由で日本に期待する世界は、むしろ失望させられてきた。そして世界には、“いったい日本は何を重視する国なのか、何をしたいとしている国なのか判らない”とさえ思わせて来てしまった。

 その失望感とは、日本について、日本国民を代表する日本政府の次のような姿を目撃した時だ。

 言うべき相手に、言うべきことは判っているはずなのに、“内政干渉になるから”という言い訳の下に、いつもどっちつかずの、あるいは相手に対して当たり障りのない言辞だけを並べて済ませてしまい、「ノー!」、即ち、“それはしてはならない、こうすべきだ”とは明確に言えなければ、要求も批判も明確にできない日本政府の不甲斐ない姿を見た時。同じことだが、総理大臣と閣僚の人権意識そのものが余りに低いために、迫害に遭っている当事国の市民に共感も示し得なければ、彼らの人権を擁護しようとする意識も余りに欠如している政府の姿を見た時。また、自国独自の理念や判断の物差しそして価値基準を持ち得ず、経済的軍事的超大国に追従するばかりで、主権国としての矜持も持ち得ない日本政府の姿を見た時。

 要するに、普段は“自由と民主主義は人類の普遍的価値だ”などと口にしながら————特に安倍晋三がそうだ————、そういう時になると、言うべき相手は判っているのに、言うべきことを毅然とした態度で言えない、勇気も人権意識も共感力もない日本政府の姿を見た時である。

 では、その“ここぞ”というのは例えばどんな時か。

一党独裁を強める鄧小平の中国共産党政権が天安門事件を起こし、何千人もの学生と市民を虐殺した時。カンボジアポルポト政権が何百万人もの自国民を大量虐殺した時。ロシアのプーチン政権が反対勢力のリーダーやジャーナリストを暗殺したり毒殺を謀ったりした時。習近平中国共産党政権が新疆ウイグル地区の民族を300万人以上、強制収容所に押し込めて自由を奪っては、漢民族(中華)思想と言語を押付けたりしては同化政策あるいは浄化政策を進めると共に、共産党への礼讃と支持を強要している今日この時。同じく習近平が、台湾の自治を無視して力で併合しようとしていたり、英国との「50年間」との約束を破り、「一国二制度」の原則を破って、香港市民の言論の自由を奪い、迫害している今日この時。同じく習近平中国共産党が、国際法を無視して、自国の都合・意思・要求をごり押し、力で領土拡大を図ろうとしている今日この時、である。

 なおこれは間接的外交とでもいうべきものであるが、「難民」に対する日本政府(法務省)の対応についても全く同様のことが言える。

生命の危険を避け、迫害から逃れて、外国に保護を求めて、国籍を持つ国の外に移り住もうとするいわゆる「難民」を、難民として認定する日本政府の基準が国連のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民認定指針よりはるかに高く設定されていることと、その上、認定手続きが公正かつ適性に行われているか否かを判断する基準も曖昧だし、それが実際には適正に行われているかどうかも怪しいという状態の中で、日本が難民と認定した人の数はこれまでに合計、たったの44人、認定率は実に0.4%という実態に対してである。

 参考までに記せば、ドイツは53,973人(25.9%)、米国は44,614人(29.6%)、フランスは30,051人(18.5%)、カナダは27,168人(55.7%)、英国は16,516人(46.2%)。

 カッコ内数字は認定率(出典はUNHCR Refugee Data Finder、法務省発表資料)。

 政治家と言われる者、法を運用する公僕とされる役人を含めて、私たち日本国民の大多数が、世界が「人類の普遍的価値」として共有する「自由と民主主義」を未だ血肉とし得ず、したがってその価値観に基づく言動も未だできずに、こうなるのも、つまる所、私は、文部省と文科省のこれまで述べてきた明治期以来の、その中身は近代にも至ってはいないと言える、国民の覚醒を怖れた学校教育がもたらしたものである、と確信するのである。

その学校教育とは、「自由」と「平等」を含む人権とその価値の尊さを教えない教育。言論や発言の自由、そして民主主義の価値を教えない教育。正義が行われることよりもむしろ、秩序を守らせ、校則を押し付けるばかりの抑圧的教育。和だとか協調性、あるいは道徳を強制するばかりで、個々人の個性や能力を育てることと、互いの異なる個性や能力を認め合うことの大切さを教えない教育、等々のことである。

 

 本節の最後として、日本人とノーベル賞ということについても、私なりに考えておこうと思う。少し長いが、日本の科学技術の世界的レベルの今後のありようを見通す上でも参考になるのではないか、と私は思うのである。

 最近、日本は、科学技術立国の危機ということに関連して、「日本人はもうノーベル賞を獲れない」ということがしきりと国内外のメディアでも取り上げられるようになった(週間ダイヤモンド 2018年 12月8日号、Newsweek2020年10月20日号)。ただしここで言うノーベル賞は、自然科学分野や医学分野でのものについてであって、平和賞や経済学賞は除いての話である。

 研究者自身の間でもそう見られ、そうささやかれるようになった主たる理由は、どうやら、この国の政府は、大学等の公的研究機関に対して、研究費、とくに基礎分野への研究費を大幅に削減しているからだというものだ。その結果として、研究者は雑務に追われて、本来の研究に集中する時間がなかなか獲れず、日本から発表される論文数が急速に減っているのだ、という。

確かに、本来高度の教育と同時に研究を果たす役割を負っている大学を、利益を上げることを至上とする企業内での経営法と同様に独立採算制の法人とすること自体、文科省の官僚およびその彼らにただ追随するしか能のない文科相の教育と研究の何たるかがさっぱり判ってはいない浅はかさと愚かさを証明する何ものでもないとは言える。それに、今日の研究は、紙と鉛筆だけでもかなりのところまではやれるというような時代ではなくなり、どの分野でも、実験装置にしても観測装置にしても巨額の費用を必要とするようになっているから、研究費が削られることは研究者・科学者にとっては研究遂行上、大きな痛手となっていることも事実ではあろう。

 しかし、私は、今日のこの国についてみるとき、「日本人はもうノーベル賞を獲れなくなる」理由としては、研究費が削られるという問題もさることながら、それ以上にもっと本質的な問題がそこにはあるように思う。それはノーベル賞を獲る獲らないの問題ではなく、広く科学技術に向き合う以前の問題がそこにはある、と思うからである。

 それはどういうことか。 

今の子どもたちはもちろん若者たちは、小さいとき、どれだけ自然の中で過ごし、どれだけ自然を相手に遊んで育って来ているだろうか、ということに関連している。

かつてノーベル賞を獲って来たような人たちは、その多くが、幼少期から自然の中で遊び、自然をよく見、その一方では、多くの文学や音楽等芸術あるいは芸能にも親しみ、知的裾野を広くして来た人たちのように見受けられる。実際、時代も、そういう風潮だった。たとえば湯川秀樹博士や朝永振一郎博士の著作を読むと、つくづくそう思うのである。

 そうした人たちは、必然的に、自然を含めて、ものを見る目は広く、また深くもなる。また一人そうした分野で自分なりの思索を続けてくると、想像力も広がるし、批判力もつくし、辛抱強くもなり、孤独にも強くなる。ノーベル賞を取るような人たちは、そうした視野を持ちながら、孤独な中にありながらもそれに耐えて、知的好奇心を持ち続けて研究に没頭して来た人たちなのではないか、と私は推測するのである。

 では、今の若者たち———そこには若い研究者たちも含む———は、そうした土台づくりをどれだけしているだろうか。また今の文科省による学校教育は、小学校の時から、児童生徒一人ひとりに、どれだけそうした広い視野が身につく教育を、人間として豊かになる教育をしてきたと言えるだろうか。既述のとおり、かつて一度でもして来たことがなかった。むしろ、画一と従順を求めるその教育は、個々人からますます精神の自由を奪い、各々がせっかく持って生まれていたであろう潜在的能力を芽生えさせるどころか、その前に殺してしまうようなカリキュラム内容であり教育システムだったのではないか。

 私は、実はこのことこそが、「日本人はもうノーベル賞を獲れなくなる」どころか、日本の科学技術力をどんどん押し下げ、科学技術で国を立てて行くことなどいよいよ困難にさせている根本的な理由なのではないか、と考えるのである。

 つまりこうした自然体験や文学芸術体験が乏しく、自由で伸び伸びとした精神の下での幅広い教養が身についていなかったなら————なおここで明確にしておかねばならないことは、教養と知識を身につけることとは違う、ということである————、あるいは確かな倫理観と人道の精神が身についていなかったなら、たとえどんなに知的好奇心が旺盛であっても、またどんなに潤沢な研究費があてがわれ、高価な研究装置や観測システムが備えられようとも、そしてその結果として、たとえ自分ではどれほど画期的な成果と思える結果が得られたとしても、それだけでは却って次のような事態を招いてしまうのではないか、とさえ私は危惧するのだ。

 それは、その時、名声を博することに囚われてしまったり、また功利的に走ってしまったりするばかりで、その成果が本当に人類の幸福と進歩に貢献しうるものかどうかとの理性的判断もできなくなり、却って人類の将来を危険に陥れてしまいやしないか、と。

 科学というより技術あるいは工学の歴史におけるその象徴的代表例が原爆開発でありゲノム編集ではないか、と私は考える。

 前者については、もう原爆は必要ではなくなったと判明しても開発し続けて開発し、しかも実験成功によってその威力はすでに十分に確かめられていたのに、あえて日本に投下して、アメリカの軍事力の絶対的優位性を世界に知らしめたのだ。でも、それもすぐにソ連に追いつかれた。そしてその原爆と水爆を持つことで米ソ冷戦が始まり、今、その核を持つ北朝鮮が世界の脅威となっている。

 後者については、自分自身が自然から生み出された生命であるにも拘らず、その自分とは何者か、どこからきたのかを知ろうとはせずに、自然界には存在しうることの決してない生命をその時の自身の知的好奇心だけに基づいて生み出しては、自然界の生命秩序を取り返しのつかないまでに撹乱してしまいかねない技術だからだ。

 

 そこで、私は、学校教育の内容と質こそが、ノーベル賞に限らず、個人の能力向上と国力等の向上のすべての面に決定的な影響をもたらすものであるということを明らかにするために、ノーベル賞受賞個数を例にとって、ここでも私なりに考察してみようと思う。

 そこで、予め、世界の主要国の1901年から2018年までのノーベル賞受賞総数を各国別に確認しておく。

ただし、ここでは物理学賞、化学賞、医学・生理学賞と経済学賞のみを対象とし、文学賞と平和賞は除く。またロシアについては、旧ソ連の時の受賞個数も含める。

 次表は各国別の2018年末までの実際の受賞総数である。

 

スエーデン

スイス

日本

ロシア

オランダ

イタリア

カナダ

デンマーク

オーストリア

イスラエル

316

88

70

34

19

16

22

15

16

7

11

9

9

7

 

ベルギー

ノルウエー

オーストラリア

南アフリカ

スペイン

アイルランド

アルゼンチン

インド

エジプト

ポーランド

中国

ハンガリー

フィンランド

その他

6

6

6

1

1

1

3

2

1

0

1

2

1

8

 

 ここで上表を次のような仮定の下に、換算する。もし、上記表中のどの受賞国も、人口がみな日本と同じであったとしたら、その場合、各国別受賞総数はどう変化するであろうか、と。

 そのようにして上記表を表現し直したものが次のものである。

ただし、その際採用した各国の人口は2018年時点でのものである。

また、個数を表す数字がゴシック体で表示されている国は、2018年現在、EUに加盟している国である。

 

スエーデン

スイス

日本

ロシア

オランダ

イタリア

カナダ

デンマーク

オーストリア

イスラエル

121

167

109

66

239

236

22

13

118

15

37

197

131

104

 

ベルギー

ノルウエー

オーストラリア

南アフリカ

スペイン

アイルランド

アルゼンチン

インド

エジプト

ポーランド

中国

ハンガリー

フィンランド

その他

66

140

30

2

3

26

8

0

1

0

0

26

23

 

 

 実際の受賞総数を示す元の表とこの換算表とを見比べたとき、果して私たち日本人にそれらは何を教えてくれているだろうか。

 まず直ちに言えることは、日本の「国としての」ノーベル賞受賞総数は、元の表ではすべての受賞国の中で上から五番目であったのに対して、換算後では、下から数えた方が早い順位の総数となる、ということだ。

そして、実際の受賞総数ではそれほど目立たなかった国々が、換算後は、そのほとんどが、受賞総数において日本を追い抜き、一躍際立つようになっている、ということだ。

そしてそうした国々のほとんどは北欧の国々でもあるということである。

たとえばドイツ、スエーデン、スイス、オランダ、デンマークオーストリア、ベルギー、ノルウエー、アイルランドハンガリーフィンランドだ。そしてイスラエルも顕著に増えている。

増えはするが同じ桁数の範囲に留まっているのは、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアといった国々だ。

 その反面、大国といわれて来たアメリカ、ロシア、中国そしてインドは、軒並みその数を減らしている。

 では、ここで一躍際立ってくる国々というのは、概してどういう国、どういう特徴を持っている国と言えるのだろうか。

 先ず、ほとんどがいわゆる「環境先進国」だ。

そして「福祉先進国」であることも知られている。それは既述した世界の「幸福度」ランキングに明らかだ。

 このことは、それらの国々は、「人間」あるいは「人権」を大切にしている国だということでもある。それはすなわち人間の多様性を尊重している国でもあるということだ。

 さらにこれらの国々は、概して、自分たちのアイデンティティをしっかりと持ち、しかもオープン・マインド、その上歴史と文化を大切にしながら、その時々の経済的風潮には流されず、個性に溢れ、景観や風景、そして伝統を大切にした都市づくりや農村づくりを主体的に進めて来ている人々の国でもある、ということだ。

それは、一度でもこうした国々のいずれかでも旅したことのある日本人だったら、そのことに気付き、感動させられた記憶があるのではないだろうか。

 そしてさらに注目したいのは、それらの多くの国々は、共に、過去の大戦からしっかりと教訓を引き出し、その教訓に基づき、経済統合を果たし、さらには政治統合をもめざすという世界史でも前例のない道を、これも世界に先駆けて挑戦している人々の国でもあるということである。

 つまり、それらの国々は、おしなべて、人間として生きて行く上で本当に大切にしなくてはならないものは、お金や損得勘定ではない何かを、人真似ではなく、つねに一人ひとりが自分の頭で考え行動して来たし、今も行動している人々の国なのではないか、ということである。

 そこで私は思う。換算表において、ノーベル賞受賞個数が際立って多くなっているというのは、決して偶然ではなく、こうした生き方をし、またそれができる人々だからなのではないか、と。

そしてその生き方をもたらしているものこそ、実はそれらの国々の教育のあり方なのではないか、と私は考えるのである。

 たとえばそれをOECD経済協力開発機構)が実施している世界的な子どもの学力テストPISA(生徒の学習到達度調査)で幾度も世界第1位を獲得しているフィンランドの教育法について見てみれば判る。

 以下は、小林朝夫著「フィンランド式教育法」青春出版社と、庄井良信・中嶋博著「フィンランドに学ぶ教育と学力」明石書店に拠る。

 まず気づくことは、フィンランドには日本で言ういわゆる「学習塾」はない。同じ年齢の日本の子どもと比較して、フィンランドの子どもは400時間も学習時間が少ない。

それだけ、フィンランドの子どもは、日本の子どもたちと比べて、400時間も多く、友達と一緒に外で遊んだり、親と過ごしたり、自然の中で過ごしている、ということである。

 教育法における大きな特徴は、とにかく、自分で、自分の頭で考えて、答えを見つけられる子どもになることに重点が置かれていることだ。そして子どもの自由な表現力や創造力を育むことに積極的である。そして早期に英語を教えるのではなく、母国語の力をまず身に付けさせることに力を注いでいることである。その際、徹底的に話をすること、論理的に考えることの大切さをも教えている。他方、どうやって論理と感情のバランスをとるかその方法も教えている。

その際も、積極的に思考することが心の豊かさに繋がることをも信じて教育している。

 幼児期から自己効力観を育てようとしている。そして、自然に感謝し、神に感謝し、人々に感謝することの大切さをも教え、自然と接することの大切さを教えながら、人は自然に生かされていることをもしっかりと教えているのである。

 一方の親は親で、子どもの夢を育て、才能を伸ばすために、つねに「努力すれば、何でもできるようになる」と教え、励ましながら、親自身も、高い教育観を持って、頑張る姿を子どもに見せている。また親自身も、ものを語るときに語彙量を豊かにするよう心がけているのである。

 では教師はと言えば、徹底的に多様性と個人の尊厳を尊重すると同時に、子ども一人ひとりが安心でき、共同で学ぶことを大切にすると同時に、教師自身、学び方そのものを真剣に学び続けてもいる。

 そして政府は、多文化社会の言語的人権を保障する教育にも力を注いでいるのである。

 

 他方、日本のこれまでの学校教育はどうであったか、それについては既述して来たとおりで、その内容は、北欧の教育に対する考え方、教育の内容、そしてそれの実現方法等とはほとんど対極に立ったものとなっている。

もはや繰り返す必要はないと思われるが、それは、一言で言えば、子どもたちの多様性や個性を本当の意味では認めようとはしない。つまり人間個人としての存在を互いに認め合おうとはさせない。徹底的に自由に考えさせ、自由に質問させることをしない教育だったし、今もそうだ。

そこにはつねに「競争」があり「管理」があり「統制」があり、「費用対効果」、「投資対効果」という「効率」を最も重視する国家的思惑が支配して来たし、今もそうだ。

 だからそこでは、各人の個性はもちろん、創造性や独創性が積極的に育まれることなどあり得なかったし、今後もあり得ない。むしろ「画一化」、「平準化」重視の中で、それらの能力を抑え込み、ひたすら無批判的あるいは従順にさせてしまう教育なのだ。

 もちろんそこでは、善悪の判断力も養われない。自己を確立もできない。孤独にも耐えられない。一人で敢然と事に挑む勇気も育たない。むしろあまりにも些末な校則を押し付けられ、ある一定の枠の中にはめ込まれ、その中での従順を強いられるために、一人ひとり自信が持てない中、内面では社会や体制への憎しみや不信感だけが増幅されて行ってしまう。

 教師は教師で、そういう政府教育行政の中にあって、多くはその教育行政のあり方に疑問を感じながらも序列と保身のためにモノも言えず、言う勇気もなく、自己規制してしまう。

そうなれば教師の方も、本当に自分として児童生徒にしたい授業もできない中、多くは、精神をも病んでしまう。それでも児童生徒たちへの愛情に支えられ、日々の管理に疲れ果てながらも、自らの日々の暮らしの維持のために教壇に立っている(朝日新聞教育チーム「いま、先生は」岩波書店)。

 こうしてこの国は今や、政治家や官僚はもちろん、知識人も、ジャーナリストも、教育者も、宗教者も、軒並みと言っていいほどに、人間として劣化している。それは、人によって範囲も程度も異なるが、総じて、判断力も正義感も勇気も誇りも使命感も倫理観も、そして愛国心も衰えさせてしまっていることを意味する。一般国民は国民で生気を失い、希望を失い、自己防衛の余り人間関係をも希薄化させ、一人ひとりは孤立化を深め、内面を空洞化させ、かつ浅薄化させている。

 こうした現象は一体何を意味するのか。

私は、それは、社会も国も、音を立てて崩壊し始めているということだ、と考える。

そしてそれを最も根本のところでもたらしているのが、皮肉にも、この国の中央省庁の一つ、文科省だと観るのである。

 そして日本がこうした惨憺たる状況になったのは、文部省、そして文科省がこれまで述べてきたような教育内容と教育システムを続けている限り、極く必然だったと私は確信する。

成るべくして成ったのだ。つまり、時間の問題だったのだ。