10.3 学校教育の究極の目的 ——————「その1」
10.3 学校教育の究極の目的 ——————「その1」
以下は私の子どもが通っていた高等学校の校則のほんの一部である。
2012年時点でのものである。
1.服装・規則面での確認事項( 部を含めて、そのままを転記する。)
①スカート丈は膝です。基本的に膝の皿の中心にスカートの下端が来るように。あまり短くしている場合には厳しい指導があります。切って加工してしまった者は、全員買い換えてもらっています。
②頭髪は自然で清潔感のある状態にして下さい。頭髪違反(加工による茶髪)には、継続指導のチェックがされています。頭髪は一切手を加えないで下さい。もみあげは耳たぶの下のラインまで。横は耳をすべて隠さないこと。
女子は髪留めは黒・紺・茶で目立たないもの(シュシュは禁止です)。髪の長いものは束ねるように。
なお、天然の赤毛・天然パーマの場合は、登録することにより服装検査のたびに指摘されてイヤな思いをすることがなくなります。ただし、すでに加工してしまった人はたとえ天然でも登録はできません。完全に地毛に戻ってからの登録となります。
服装違反者は再検査や定期的チェックを受け、良くならない場合やさらに加工した場合は、保護者の方にも来校していただき指導します。
③ピアスやネックレス、指輪など装飾品は付けない。化粧・マニキュア禁止。
ピアスについても、継続指導のチェックがされています。
④ブレザーの袖まくりや、シャツを堕して歩く、ネクタイリボンを緩めて着用するなど、だらしない服装は当校生の品位に関わる問題です。シャツの色は白になっています。また、制服調整期間は6/1〜6/10です。この期間は夏服を原則としますが、冬服を着用することも可能です。
男女とも夏服は、半袖開襟シャツで、リボン、ネクタイはつけません。(女子はベスト着用)。
長袖ブラウス(ワイシャツ)の場合はリボン、ネクタイを必ず着用します。ネクタイを加工しないように、その場合は買い換えてもらいます。
ここにあるのはあまりにも瑣末な校則だ。そしてこれは、教師が、あるいは学校が、どれほど“人間を育てる”ことを教育目的として掲げていようとも、生徒一人ひとりを結局は信頼してはいないとしか言いようのない校則だ。
ところがこうした規律を乱せば厳しい罰則が待っている。そして校則はますます恣意的に厳しくなる。
これから判るように、この国では、学校教育現場そのものが、頑固で、強情で、かつ冷笑的な態度を児童生徒という人間に植え付けている。そこで育つ生徒には、いつしかその内面に、本人も気付かないうちに、大なり小なり、社会や体制に対する憎しみや反抗心を育ててさえいる。それゆえに、非行を誘発しかねない状況をも生んでいる。そして一見もの静かで「普通の人」と思わせる当人の態度の裏側に、社会に対する、あるいは人間に対する激しい怒り、欲求不満、憎悪を隠し持つようにさせてしまう。(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.103,126)。
私は、先の10.1節では、この国の政府の文部省・文科省は、自国民を信じず、また自国民が大挙して民主主義的に覚醒することを恐れて、自由や多様性の大切さを児童生徒に教えることを敢えて避けてきたということを、その根拠を示しながら述べた。教えてきたことは、そして今もなお教えていることは、そのほとんどが、誰にとっても、社会に出てどんな職に就いても、直接的にも間接的にも、全くと言っていいほど役立たない知識ばかりであった、ということも述べてきた。
つまりこの国の文部省そして文部科学省は、本来、どの国にとっても、最大で最良の人的資源であるはずの国民に対して、人間としての人格を最高度に育て、また生かすという教育行政をして来なかったのだ。本当は、とりわけ資源の乏しいこの国であればこそ、そうした政策が最も必要であったはずなのに、である。実際やって来たことは、人生の中で、人格の基礎を形成する最も大切な時期である彼らの幼少期と青春期に、「画一化」の中で「競争」を強いるという抑圧環境の中で、彼らをして頭脳の無駄遣いと時間の浪費をさせてきたのだ。結果として、その影響を外に表わすか表わさないかは個人差があるが、そうした教育行政による環境の中で育つことを余儀なくされて成人となったこの国の国民のほとんどには、その精神面で、大なり小なり、社会に対する敵意・不信感・憎しみ等々といった感情が植え付けられて来てしまっているのではないか、と私などは推測するのである。
今日、この国では、他国、特に民主主義が実現した本物の先進国では見られない陰湿なイジメや独善的な虐待や引きこもりそして不登校という現象がますます増大しているが、それらの現象は、どれをとっても、根本のところでは、児童生徒一人ひとりをそれぞれ異なった人格と個性を持った人間として育てようとはしてこなかった文部省と文科省の教育がもたらしたものだと私は確信する。そしてとりわけ近年は、“誰でもよかった”、“誰でもいいから殺したい”などという動機に拠る殺人も目立つようになってきているが、その動機などは、正に、社会とか既成の秩序あるいは現体制に対する憎しみの発露以外の何物でもない。
ところが、である。そうした悲しい事件が頻発しているというのに、この国の教育評論家や教育学者は、そういう状況が起こる根本的な原因までは決して踏み込もうとはしない。つまり知識人としての勇気や良心がないのだ(6.4節)。保身のためなのであろう、極めて上っ面なことで対処しようとしているだけだ。
つまり、そうした「専門家」たちは次の真理を無視している。
————人間は誰でも、いや、人間だけではない、どんな動物でも、自由が抑えられ、いつも精神的に圧迫されていたり、強迫観念にとらわれていたりしたなら、その人間あるいは動物は、精神的にあるいは性格的に正常には育たず、それはいつか、どこかで、必ず、なにがしかの歪んだ言動という形で表面に現れてくるという、心理学ではとっくに明らかにされている真理だ。
10.2節では、今やこの国は、様々な面で世界には通用し得ない国、世界の常識では考えられない国となってしまったが、そうなってしまったのも、結局は、10.1節で述べてきたこの国の政府の文部省・文科省の学校教育と教育行政と教育システムそのものがもたらしてしまったのだと、これも根拠を示しながら結論づけてきた。
そこで本節では、では本来、学校教育とはどうあるべきなのか、学校教育の究極の目的とは何かということについて、これも私なりに考えてみようと思う。
結論的にいえば、それは、児童生徒一人ひとりが、たとえば、自ら人間として生きて行く上で次のような根源的な問いを自身に向けて発し、その答えを自ら見つけ出して行こうとし、また見つけ出せるように、教師が教え導くことであり、教え導ける内容のものであること、となるのではないかと私は考える。
————「自分とは何者なのか」、「その自分はどのようにして形成されて来たのか」、「自分は、他者と、社会と、自然と、どのように関わって生きているのか、また一個の人間として、どのように関わって生きて行けばいいのか」、そもそも「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」、等々である。
こうした問いと答えを自ら見出せるようになることこそが、本来あるべき教育であろうし、学校教育における究極の目的と言えるのではないか、と私は考えるのである。それを自ら見出せるようになれば、たとえば、「なぜ、学校に行く必要があるのか。なぜ勉強する必要があるのか」という問いも自ら引き出せて、自ら答えられるようにもなるのではないか。そうなれば不登校を自然消滅させる。それだけではない。いじめること、虐待すること、引きこもることをも、自らそれを無意味と知り、自ら気づけるようになるのではないか。
ところで、こうした問いを、自身で、自身に発し得て、教師の手助けを受けながら、自ら納得しうるその答えを導き出せるようになるには、一足飛びには無理であって、私は、せめて、私たち人間を生かしてくれている自然のことや、私たちが生かされている社会のこと、そして人間とは何かということをも、段階を踏んで理解を深められるようになっていることがどうしても必要なのではないか、と考える。そしてそれも学校教育の中で進められることが必要なのだ、と。
そこで問題となるのは、それを、どのような考え方に依拠して、どのように進めるか、ということだ。
そのとき、私たちが思い出さなくてはならないことは、既述したように(4.3節)、人間にとっての世界の諸価値は、どれをとっても、決して同じレベルの上にあるのではなく、あるいは同じ重みを持っているのではなく、階層性を成しているということである。
ここで言う「世界」とは、いわゆる地球儀で見るような世界、国の集合体としての世界というものとは違い、自然も社会も人生も含めた、人間個人が生きて行く上で関わりを持つすべてのものという意味である。人間個人が関わりを持つ諸概念の全体のことである。
階層性を成していると主張する根拠は、もし、反対に、世界の諸価値が、人間のそれぞれにとって、ただ漫然と無秩序にあるだけとするなら、あるいはそれらがすべて同一のレベル、同一の重みを持っているとするなら、私たちは、世界を、またその成り立ちを、正しく理解することはできないという真実に拠る。自然という対象の価値と社会という対象の価値の重みが人間にとって同じだったら、自然という対象の中にも、社会という対象の中にも、人間というものを位置づけることも定義づけることも不可能になる、という真実による。
このことは卑近な例で言えば、たとえば次のような場合と似ている。
太陽も見えず、周囲が見渡す限り真っ白い大雪原の中に我が身を置いていたなら、そのとき、自分には大地の起伏も識別できないし、自分が今どこにいるのかさえ判らなくなるのである。また、光が全く差し込まない真っ暗な空間に身を置いたなら、東西南北も判らなくなるだけではなく、直立し続けていることさえも難しくなるのである。
また、次々と生じるどんな物事・現象・事件についても、人間にとってそれらの間に重要度や緊急度において違いがなかったなら、人間は、適正に判断することも、適性に対処することも出来なくなってしまうのである。
4.3節の階層図をもう一度ご覧いただきたいのである。
では、世界の諸価値は人間にとって同一レベル上にあるのではなく、階層性を成しているということを理解する必要があると言ったとき、子どもたちあるいは若者たちは、何をどのような段階を踏んで行ったらそのことを理解できると考えられるのだろうか。
たとえばということで、私の考えるそれを示してみる。
次表が、自然と社会が人間にとってどういう関係、どういう位置付けにあるかを理解する上で欠かすことの出来ないと私には思われる基本的に重要概念を、単語あるいは用語をもって階層的あるいは段階的に配列してみたそれである。
主題 |
具体→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→抽象 |
|||
自然 |
「いのち(生命)」 「自然」とは |
いのちの「多様性」「共生」「循環」とは |
「部分」「全体」 とは |
「一物全体」 とは |
「理解する」「判る」とは |
「分析」「綜合」とは |
「論理」「科学」 「知性」「理性」 とは |
「原理」「真理」 「法則」とは |
|
社会 |
「異なる者どうしが共に生きる」 「社会」とは |
「言論の自由」 「表現の自由」 「自治」「権利」 「義務」「民主主義」「責任」「市民」 とは |
「議会」「政府」 「権力」「国家」 とは |
「近代」「法」 「法の支配」 「主権」とは |
「言葉」「知識」 「知恵」「宗教」 とは |
「自由」「平等」 「思いやり」「共感」 「私」「公」とは |
「豊かさ」「幸せ」 「調和」とは |
「真実」「事実」とは |
|
人間 |
「生かされている自分」「掛け替えのない自分」とは |
「愛」「尊厳」 「知性」「理性」 とは |
「真・善・美」 「人間」とは |
「生きる」 「死ぬ」 とは |
「物を食べる」 「労働する」とは |
「肉体」「心」 「魂」「精神」とは |
「文化」「文明」 「伝統」とは |
「価値」とは |
|
|
小学校 |
中学校 |
高校 |
大学 |
なお、上表に基づいて学習して行く際、次のことは常に念頭に置くようにする。
それは、これらの諸価値諸概念を、先入観や常識に囚われず、しかもそれらを互いの間の関連性や類似性などに注意を払い、統一的綜合的に捉えてゆこうとすることである。
そうすれば、学んでゆくことすべてが有機的に結びつき、一体化して頭の中に整理されてゆくようになる。そしてそうなってこそ、その後の人生において、どんな場面に遭遇しても、学習したこれらを生かせるようになるのではないか、と私は想うのである。
本来、知識というものは、どんなに多くを記憶したところで、それらが互いにバラバラでは何の役にも立たないのである。役立たないどころではない。そんなことに頭を使わせ、時間を浪費させること自体、罪悪だとさえ私は思う。その好例が、この国の文部省・文科省が戦後ずっと全国の学校に対して支配的に実施して来た学習指導要領に基づく教育内容であり教科内容だ。そしてその一結果が、10.2節に述べて来たことだと思う。
しかしこれだけではいくら何でも児童生徒には、“一体これは何だ”ということになってしまいかねない。そこで、上記の表を構成する、単語で表わされる諸概念の意味をより正しく理解するために、いえ、正しく理解するだけではなく、これらを内的な関連性をもって統一的に理解できるようになるためには、やはり教師によってどうしてもきちんと教えられるべきものは何かとなると、教科としての「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」ということになるだろう。
そこでこれらを必修科目とするのである。
それに対して、現行教育制度で言う数学・英語(あるいはその他の外国語)・理科(物理・化学・生物・地学)・社会(地理・公民)・技術家庭科・体育、そしてその他の実技的な音楽・美術・工芸・民芸・芸能等はすべて選択科目とするのである。
これらの選択科目は、児童生徒が、先の根源的な問いに対する答えを自ら導き出し得るようになったそのとき———それはたとえ学校を卒業した後でもいいのである———自分の将来にはどうしてもそれを学習することが必要と感じたなら、そのとき自由に履修できるようにすればいいのである。そのような教育システムを構築すればいいのである。
学問でも技術でも芸能や芸術でも、自分が心からそれを学習したい、学習することが必要と感じたときにそれに取り組むのが最もよく吸収され、身に付くものだということは、私たちが体験的にも知っていることである。むしろ、現行学校教育制度のように、本人がその必要も興味も感じないのに、外から無理矢理教えようとするのは、かえって本人の内心の反発を招き、逆効果としかならないのだ。
大事なことは、自ら必要と感じ、望んだ時に、学校も、社会も、いつでもそれを後押しし、実現可能となるような社会的経済的なシステムや制度が整っていることだろう。そしてそれを自分で納得行くまで学んだ後は、いつでも元の社会的立場に復帰できるようになっていることであろう。それを社会全体で受け入れられることが保障されていることであろう。
ところで、ではなぜ「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」を必修科目とするか。
その理由は次のように説明できる。
国語について。
それは、日本国籍を持つ私たちが、日頃、ものを考え、推論し、判断し、あるいは自分の考えをまとめ、それを表現して人に伝えて行く上で不可欠な手段だからだ。そしてその国語は、その人が生まれた際に母親から耳元で愛情を持って語りかけられる瞬間から死の床に就くまで、文字どおり生涯を通じて片時も頭からも耳からも離れることなく、伝達手段や表現手段として用いられるものだからだ。
そもそも人間は、頭の中でものを考えるときには、論理的にであれ、感情的にであれ、つねに言語をもって、言語を駆使して考えていると考えられる。
それだけに国語は、その人のものの考えのレベルを高め、深め、あるいは幅に広がりを持たせて行く上でも決定的な役割を為す。その際必要になるのは、まずは自分が言いたいこと表現したいことの輪郭あるいは概要を定めることであり、その後に、その定めた輪郭ないしは概要を聞く者読む者によりわかりやすく表現するために、より適切な言葉を駆使して筋道立てることであろう。すなわち論理的に組み立てる力である。その際必要となるのが語彙力である。
より豊かな語彙力があれば、それだけ、聞く者読む者にとってより正確に伝わるからだ。
例えば雪は白いものだが、場合によっては、あるいは情景、あるいは見る位置、光の加減によっては、ただ白いというだけではなく、無数の姿を見せる可能性があるからだ。それを表現しなくてはならなくなる。
このように、国語を学ぶとは、母国語を正しく使えるようになって、表現したいことを、多様な表現を通して、相手により的確に伝えることができるようになることなのだ。
そして言語を正しく使え、多様な表現ができるそうした語彙力豊かな人が増えれば増えるほど、この国の言語文化も豊かで多彩になり得るわけである。
反対の言い方をすると、一人ひとりがその正しい意味も捉えずに、安易に外来語をカタカナ表現するだけであったり、流行語だけを追いかけていたりしたならば、もっと言うなら、自分の頭で考えることをせずに受け売りばかりをしていたなら、語彙がますます乏しくなり、言葉をますます正しく使えなくなり、言語感覚をますます衰えさせてしまう。そしてそのことは、その人をして、ますます思考力を低下させてしまうことにもなる。
つまり、語彙の豊かさや表現力の豊かさは、思考力の豊かさ、観察力の豊かさ、感性の豊かさと一体でもあるのだ。
ちなみに昨今、メディアでも頻繁に聞かれる言葉とはこんなものだ。
なんでもかでも「やばい」。かと思えば「半端ない」。「めっちゃ、・・・・だ」、「すごく」ではなく、「すごい、・・・・・だ」、といったものだ。
そして、例えば、せっかく母国語には「尊敬する」という立派な表現があるのにリスペクトと言ったり、伝説をレジェンド、遺産をレガシー、復讐をリベンジ、意欲・やる気をモチベーション、共同作業をコラボレーションと言ったりと、母国語が全く粗末にされている。
かと思えば、道徳の崩壊をモラルハザード、警報をアラートと言ったりする。あるいは緊急時、避難する場所をお年寄りでも誰もがわかるように示さなくてはならない地図を、ハザードマップなどとも言わせる。
その他、エビデンス、ファクト、アーカイブ、トリアージ、フェイク、サプライズ、リスク、等々、挙げればきりがない。
果たして、こういうカタカナ文字を連発する人は、先人が長い時間をかけて洗練させてきた母国語による言語文化を自ら貧困にしていることに気づいていないのだろうか。なんのつもりで、こうしたカタカナ語を使うのだろう。私は非常にその人の浅薄さを感じてしまうのである。そしてこの姿勢は、私は、祖国の伝統の文化や正しい歴史への無関心さと無関係ではないのではないか、とも思っている。
以下に必須とする歴史でも哲学でも宗教でも、またその他の選択科目でも、それらの内容を自ら考え、それの理解を深め、幅を広めるときにも、頭の中でのその作業を手助けしてくれるのはやはり国語なのである。
こう考えて行くと、私たちが国語力を高めることは、結局は、地域力を高め、国力を高めることになり、反対に、国語力を劣化させ、貧弱にすることは、地域力を弱め、国力を低下させて行くことになる、ということが理解できるのである。
なおその際、せっかく身に付けた語彙力を、文章を書くときなどに、それを読む人に、より強く、より良い印象を与え得るようになるために、日本語の文字を、漢字をも含めて、より美しく書けるようになること、そのためには小中学校の時代から、国語を学ぶということだけではなく、同時に書をも必修科目として習う(習字)ということも、よき言語文化を後世に残してゆくという意味で、私はきわめて大切なことなのではないか、と考えるのである。
歴史について。
私たちが今をより良く生き、未来に向かってもより良く生きようとする時、そこには、普通、誰にも羅針盤はない。それだけに不安である。そんな時、その不安を少しでも解消してくれるだけでなく、むしろ指針なり行くべき方向を見出させてくれるもの、それこそが歴史だからだ。 私たち誰もがこれを学ぶ意義はそこにある。
学校においても同じだ。むしろ学校においてこそ、若者たちが未来に展望を見出して生きるには歴史を学ぶことがどうしても必要なのだ。
ただし、その時、間違った歴史、ウソの歴史、事実無根の作り話である神話などを聞かされると、若いだけに、脳裏に刻み込まれたその記憶は生涯消えることはないため、その影響はヘタをすると聞かされた本人にだけではなく、そうした歴史を学ばされた世代からなる社会にも、挙げ句の果ては国にも、悪い影響を与え、場合によっては個人や社会や国の行くべき道を誤らせてしまう可能性すらある。
たとえば既述して来たこの国の「建国」にまつわる話がその好例の一つだ(2.2節)。このでっち上げた神話が、今もなお、日本国民に真のアイデンティティを持つことをどれだけ妨げ、また真の愛国心を持つことをどれだけ妨げていることか。
このことから判るように、学ぶ歴史はつねに正しい歴史であることが絶対に必要なのだ。
だからといって、後ろ向きに、あるいは過去に向って生きるということではない。そうではなく、いつでも、正しい過去を知り、そこから教訓を引き出し———このことがとくに大事なことなのである———、それを糧にしてその延長線上にある今を力強く生きるのだ。またそれでしか、未来に向かっては、安心できる生き方はないのである。
過去を忘れたり、うやむやにしたり、あったことをなかったことにしたり、今を過去を切り離したり、あるいは、今だけあるいは目先だけを見ているということではいけない。それを続けている限り、今自分は過去と現在と未来の時間軸の中のどの位置に立っているのかも判らなければ、そこに自分が立っていることの意味も、自分という存在が何なのかという自己認識についても、見い出せないままとなる。
そうなれば、自分の行くべき方向も道も、たとえば自分はどうあらねばならないか、何をすべきなのかということも見えてくるはずもない。
このように、歴史は、とくに自身と自国についての真実の歴史を知れば知るほど、自身にきわめて有用な指針や示唆を、そして確信を与えてくれるようになるのである。
実際、これから人類は、と同時に自分を含めた一人ひとりはどういう方向に生き方の舵を切ったらよいのかを見出そうとするときにも歴史はきわめて有効だ。「物的豊かさ」を求め続ける経済活動により自然環境を著しく劣化させあるいは破壊してしまい、その結果、他生物を巻き込む形で人類そのものの存続が危ぶまれて来ている人類のこれまでの生き方を過去とし、その延長線上に今を位置づけ、さらにその延長線上に未来を位置づけてみれば、明解な答えを指し示してくれるのである。
哲学について。
これを必修とするのは、哲学は人に、ヒトが人間になるとはどういうことか、人間は何のために生きるのか、どう生きるべきか等々について、その根本のところを教え導いてくれる学問だからだ。
周囲の人々の言動やメディアに軽々に乗せられることなく、物事の価値についての判断基準や世界観を自分の中に自分のものとして持てるようになるためには、とくに現実世界との間で利害関係を持たない時期に、可能な限り先入観なしに、あらゆる物事を、じっくりと、何が正しく、何が間違っているか、何が必要で何が不必要か、何が本物で何がそうでないか、また、何が美しく何が醜いか、何が真実で何が偽りか、何が善で何が悪か、等々といったことを考えてみることが、その人のその後の人生をより確信を持って生きられるようにするために、どうしても必要だと私は考えるからだ。
既述して来たように、この国の文部省そして文科省の教育行政が劣化し続けているのも、あるいは政治家が劣化し続けているのも、結局は、その行政を司る官僚自身や国民の生命・自由・財産を守るべき政治家自身が哲学を学ぶことをしなくなって来ていることが大きな理由の一つになっている、と私などは考えるのである。そしてその悪影響は、今、この国の全体に顕著に蔓延しているのである。
哲学は決して時代後れの学問ではないし、時代後れになるはずもない。その先鞭をつけたのは、古代ギリシャのソクラテスである。
それだけに、いつの時代、どんな社会にあっても、と言うより、先行き不透明で、混沌とした社会になればなるほど、哲学は威力を発揮する。もしも自らを人間として自信を持って生きられるようにしたいと望むなら、哲学は絶対に必要な学問なのだ。
宗教について。
ここで私の言う宗教は、いわゆるご利益宗教とはもちろん違う。あるいは特殊な霊感や霊能力を持った特定の人間の下に信者が結集して成立する宗教とも違う。また、特定の何かを信じれば救われると説くような宗教とも違う。
ここで言う宗教、それは、人間の能力や知力をはるかに超越して、この広大無辺の宇宙を含む悠久の自然界に貫徹されているであろうしくみの体系———それは無矛盾の秩序と言うこともできるし、法則と言うこともできるし、あるいは摂理と言うこともできるもの———の存在を認め、それに文句なく頭を垂れて従おうとするところに生まれる人間の心のありようのことであり、そうした理解の下での人間の営みのことである。
その宗教は次のようにも説明できる。
たとえば身近な例で言えば、人間とは何か、生命とは何か、死とは何か、から始まって、大きくは宇宙とは何か、そしてその中で成り立つ法則や原理までも含めて、そのようなものは一体どのようにして、あるいはなぜ成り立つのか、とにかく考え出せば果てしなく疑問は広がり、また深まるばかりであるが、その宗教とは、しかしそこには、人間の小賢しい知恵などものともせずに、それを超越する何かが厳然としてあるであろうことを認め、またそのことに確信を持つところに生まれる人間の心のありようと人間の営みのことである。
別の言い方をすると、その宗教とは、私たち人間が生きる上で、それもより良く生きようとすればするほど切り離せなくなるこれらの根本問題は、いずれをとっても、またどんなに人間が科学を進歩させたところで、人間がその完全解を得ることなどは永久に不可能であり不可知である、つまり、最終的にその成り立ちや意味の全体が判ったと言えるところまで到達することなど絶対にあり得ないと認めるところに生まれる人間の心のありようと営みのことである。
そしてそうした人間の心のありようと営みの中でこそ、人間は、自然界に対しても、社会に対しても、また人間としての自身に対しても、他者に対しても、自ずと謙虚にもやさしくもなれるのである。
「人間の小賢しい知恵などものともせずに、それを超越する何かが厳然としてある」とは、たとえば次の例からも理解していただけるのではないだろうか。
犯罪とはそれを罰する実定法があり、それに照合してみて初めて言えることであるが、しかしたとえそのような実定法がなくても、人間共同体である社会で、あるいはその社会そのものを成り立たせている自然の中で、自分一人だけが得を得ようとして、他者を騙し、あるいは他者を傷つけ、場合によっては他者を殺めたりしたなら、その「しっぺ返し」は、いつかは必ずあるものだ。それがいつ、何がきっかけで、どのような形で現れるか、それは誰にも判らないが。肉体的なしっぺ返しという形で現れるかもしれない。あるいは精神的なしっぺ返しという形で現れるかもしれない。
それは、人間は、どんな人でも、100%の悪人と言える者などなく、また反対に100%の善人と言える者などもなく、程度の違いはあれ、必ず幾らかの良心が備わっているものだからだ、というのも一つの根拠になるだろう。
しかし、こうした現象は、私はもっと広く一般的に捉えるなら、物理学で言うところの「作用と反作用の法則」の表れの結果なのではないかと考えるのである。つまり、生物一般について、あるいは動く物質全てに言えることであろうと思うが、人間に限って言えば、どんな人間のどんな行動も、それは社会に対する、また自然に対する「作用」と考えられる。したがってその作用は、程度の違いはともかく、その作用が及ぼされる直前までその社会や自然を成り立たせてきたあるしくみあるいは秩序から成る状態に働きかけ、撹乱をもたらすことになる。
ところが社会や自然は、元々は多様な無数の構成要素から成っていて、それらの均衡の上にある平衡を保って来ているものである。とくに自然は無矛盾の秩序を保ちながら成り立って来ているものである。それゆえに、そこには法則が成り立ちうるのである。
そんな状態にあるところに、人間による新たな撹乱という作用がもたらされたなら、その作用に対して、それまで無矛盾で成り立ってきた自然はもちろん、その自然の中で成り立ってきた社会も、その撹乱に対して反作用を及ぼし、元の均衡のとれた自然そして社会に戻そうとする。
なおこれはちょうど、静まりかえった池に一石を投じた時に生じる現象に似ているのではないだろうか。
静まりかえった池に一石を投じる行為は、その静寂な————ということはそこではあらゆるものが均衡の取れた状態にあるということであるが————池に撹乱という作用を及ぼすことだ。そうなれば、その作用により表面の均衡状態は破られて波立ち、それは波紋となって周囲に同心円状に広がって行く。そしてその波紋は池の全体に及び、端にまで到達すると、今度はそこからさっきの波紋は跳ね返って最初一石を投じた地点に狭まり集まって来る。そしてそれは、一石を投じられたことによる撹乱を打ち消すように働くのである。
そしてこの現象も一つのしっぺ返しだし、作用反作用の結果なのである。
私は、これこそが、人間の行為に対する「しっぺ返し」の本質なのではないか、と見るのである。そこでは、自分だけのこと、自分だけの得を考えた行動であればあるほど、もっと一般的に言えば、人間の小賢しい知恵に基づいた行為であればあるほど、社会から、そして特に自然からは、なおさら大きなしっぺ返しが来ることは容易に想像できるのである。
なお、私がここで言う宗教とは、アリフィン・ベイが定義してみせる「政治も経済も文化もすべてがその中でそれぞれの位置を占めているような包括的な世界観」としての宗教(アリフィン・ベイ「アジア太平洋の時代」中公叢書 p.144)と結局は同じものなのかもしれない。
私は、世界宗教と呼ばれるとくにキリスト教、イスラム教、仏教については、それぞれの教典は聖書、コーラン、仏典と異ってはいても、また表現方法は異なってはいても、それぞれが究極的に目ざすところ、目ざす世界、目ざす人間のありようは、同じなのではないかと信じて疑わない。それらが訴えているところは、結局のところ、共通していて、人生には、人間がどう抗ってみたところでどうにもならないことがあり、秩序があること、そしてそれが厳然たる真理であるとして謙虚に認め、受け入れるよりないとしている点のように思えてならないのである。
そこで、もし、これらの世界宗教が、宗教とは、既述の意味での自然界での摂理・法則を謙虚に受け入れようとするところに成り立つ人間の心のありようとそれに基づく人間の営みのことであるとすることを共通に受け入れられたならば、そこではもはやキリスト教とかイスラム教とか仏教とかいう区別もなくなり、それらは統一されながら一段と高い次元での宗教となり得るのではないか。そしてそれこそが、世界人類を共通に包むこれからの宗教ということになるのではないか、と私などは考えるのである。
そうなれば、歴史上数えきれないほどあったイスラム教世界とキリスト教世界との対立も、キリスト教内部やイスラム教内部での宗派戦争も止揚されうるのではないか、またとくに最近多くなって来ている宗教的テロ活動も減って行くのではないか、と、期待もできる。
それだけではない。もし、世界が既述の意味で宗教を宗教として理解し受け入れられたなら、ますます深刻化し、人類全体の存続さえ脅かすようになっている地球温暖化や気候変動、さらには生物多様性の消滅という広義の環境問題をも自ずと解決へと導いて行ってくれる導き手になるのではないか、とも考えるのである。
なぜか。それは、今日の環境問題とは、その大本を辿れば、「自然は人間の豊かさ実現のためにあり、そのための手段である」としてきた自然に対する近代市民の無知と傲慢さから成る近代の価値観がもたらしたものだからである。
とにかく、ここで学習が必須とされるべきと私が考える宗教とは上記のものである。
こうした宗教の捉え方を含めて、これからの宗教のあり方までを児童生徒が学校で何の先入観も固定観念もなく考え、それらを本音で互いに議論できる教育のあり方を児童生徒に提示することは、きわめて大きな人類的意義があるのではないか、と私は考えるのである。
核戦争の脅威が米ソ冷戦時以上に高まりながらますます混迷を深めている現在の世界にあって(ぺりー)、若き彼らこそが、世界平和を呼びかける力強い使徒になってくれるのではないかと、私は信じるからだ。
以上が、なぜ「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」を必修科目とすべきかとする私の考え方である。
こうして、児童生徒一人ひとりが、教師の導きによって、世界を階層性を持った諸価値から成るものと見て、その中で、自身の立ち位置を歴史的にも文化的にも見極め得たならば、そのとき初めて、各人は、自分の人生には深い意味があることに気付き、生きる意義、生きる目的を自らはっきりと掴めるようになるのではないだろうか。そしてそこからさらに、自分には自分だけの意味深い生き方や目標のあることにも気付けるようになるのではないか。それは自らの潜在能力にも自ら気付き得るようになることでもある。
それに自ら気付けば、それを花開かせる道を自ら選び執ることもできるようになり、持って生まれた可能性の存在よりも高い「次元の存在」、高い「意味の段階」へとたどり着くことができるようにもなる。そうなることによって、彼らは、一人ひとり、それぞれの達成段階で、達成した歓びを自らしみじみと感じ味わい、人間として最も意味のある「幸せ」をも感じ取れるようにもなるのである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.123)。
以上の文脈から、今や明確になったように、学校に行く主たる目的は、何もスポーツをするためではない。就職するためでもない。ましてや一流企業や大企業に就職するためではないし、条件のより良い職に就くためでもない。また人生を生きる上で何の役にも立たない断片的知識を頭に詰め込まされるために行くのでもない。画一的枠の中に押し込められて、理不尽さに対してものも言えない従順な人間に仕立て上げられるためにゆくのでももちろんない。嘘の歴史を真実であるかのように教え込まれては、愛国心を強要されるためでもない。
学校に行く第一の目的は、どんな人間個人にとっても根源的な、既述のさまざまな問いを自らに向って発し、その答えについて自ら考え、自ら見出しうるようになることである。
その意味で、学校に行く大目的は、物事を疑問に思って「問うこと」あるいは「問うことを学び、問い方を学ぶ」ためである、と言うこともできる。文字どおり「学問」をするために学校に行くのである。私はそう考える。
————————————以下は、「その2」に続く。