LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

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10.4 教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む

 前節では、私は、学校教育において、児童生徒に最も重点を置いて教えなくてはならないこと、すなわち学校教育の究極の目的とは何かについて考え、また述べて来た。そこでは、児童生徒一人ひとりが、「人間とは何か」から始まって、「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」ということについて、自身に向って問いを発することができるようになるとともに、その答えをも自ら見出しうるように教師が教え導くことであろうとして来た。

そしてその答えを一人ひとりが見出す上で役立つと思われる重要概念にはどのようなものがあるかと考え、さらにはそれらを互いに関連づけて児童生徒一人ひとりが真に深く理解できるようになるにはどうしたらいいかとも考え、その結果として、それらを「人間」と「社会」と「自然」という3つの大きな枠組みの中でのキーワードにして表現して来た。

それらを学年が上がるにつれて、具体的段階から抽象的段階へと思考を広げて理解できるよう配列したものが先の表である。

 そして児童生徒一人ひとりが、その3つの枠組みの中に含まれるキーワードで示される、人生を社会と自然の中でより良く、そして人間らしく生きる上での重要諸概念の意味を、互いに関連させながら統一的により正しく理解できるようになるためには、教科としての「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」は必修科目とされるべきであろう、として来た。そしてその私なりの理由も述べてきた。

 それに対して、数学・英語(あるいはその他の外国語)・理科(物理・化学・生物・地学)・社会(地理・公民)や技術家庭科・体育・音楽・美術・工芸・民芸・芸能等は選択科目の範疇に入れるべき、として来た。なぜならば、それらの教科は、児童生徒がこれからの人生を生きて行く上で、「国語」、「歴史」、「哲学」、「宗教」の重要度に比べれば、はるかに軽くまた限定的と思われるからである。それらの選択科目は、児童生徒が、自分にとって必要、あるいは特に履修し習得してみたいと思ったならば、その時選択すればいいのである。またその方がはるかの効率は上がるのである。そしてその際、教育委員会をはじめ学校側も、その選択が自由に叶えられるような態勢を準備しておけばいいのである。

 とにかく、これからの学校教育のあり方については、もはや従来の文部省ないしは文科省の学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないと私は考えるからだ————と言うより、次節(10.5節)にて詳述するように、これからの教育は地域化され、各地域の自治に任されるべきだと私は考える。それは、各地域には各地域固有の歴史も文化もあるからだ。それを知らない中央政府(の官僚)が、自分たちの野心で全国を統括的に教育しようとするのはそれ自体無理がある。そんな無理を通そうとするから、必然的に画一教育とならざるを得なくなるのである————。

 そこで私が学習指導要領はもとより、文部省・文科省の教科書には縛られてはならないとする理由は次の2つだ。

 1つは、歴史教科書がその典型であるように、文部省ないしは文科省が認可した教科書は、すべて、「表現の自由」を保障する日本国憲法第21条に違反する「検定」という名目の検閲をした教科書だからである。

 つまり、本来なら、文部省も文科省も、自国の児童生徒たちには自国の憲法を守るよう、政府として率先して維持し、保護し、擁護して見せねばならないのに、実際にはその反対に、憲法違反を常習化した上での教科書だからだ。

日本政府が戦後ずっと追随してきたアメリカ合衆国の大統領さえ、就任時には、「私は、合衆国大統領の職務を誠実に遂行し、全力を尽くして、合衆国憲法を維持し、保護し、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓しているのである。

 文科省の官僚自身が憲法違反をして教科書会社に作らせた教科書を、なぜ日本の児童生徒がそれを教科書として用いなくてはならないのであろう。

 もう1つは、実際、そうした学習指導要領と教科書と教育システムによって、既述したように(10.2節)、この国の児童生徒の個性や能力は却って大量に殺されてしまい、大なり小なり、人格も価値観も歪められてしまい、その結果、この国は世界に通用し得ない国にさせられてきてしまったのだからだ。

 そもそも児童生徒に押し付けてきた文部省・文科省のその教育とは、児童生徒一人ひとりを規格化し、国の経済発展に貢献できる安価で従順な労働力商品として大量生産するために、主として政府と財界の官僚たちによって作られてきたものなのだ。

 

 ところで、私は、本書では一貫して、近代という時代は既にとうに終り、私が名付けるところの環境時代に入っているとして来た。

その環境時代とはもはや人間中心の時代ではない。ということは、自然は人間の幸せ実現のためにあるとして来た時代でもないということである。人間中心の時代ではないのだから、人間の「自由」と「平等」と「民主主義」だけを普遍的価値とする時代でもない。「資本の論理」、「市場経済」を至上とするギャンブル経済の時代でもない。もちろん資本主義の最後の形態であるグローバリゼーションやネオ・リベラリズムの時代でもない。また化石資源や化石燃料がその経済を主力となって支える時代でもない。

 とにかくその経済は、人々に大量消費を煽り、貧富の格差を必然的に拡大し、分断をもいっそう進めるだけでしかないものだった。その結果、それ自体が生命であり、その表面上にあらゆる生物が生きるこの地球の生態系をも汚染し、また破壊するだけでしかない経済だった。

 新しい時代には新しい時代の思想の体系が要るのである。新しい経済のシステムが要るのである。またその新しい経済を支える新しいエネルギーのシステムが要る。

そうでなくては前時代の矛盾や行き詰まりを超えられないし、飛躍的な発展は望めないからだ。

 そしてそれら全てを根底から支える原理が要る。それを私は《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》である、としてきた。

 こうした原理の下で、新思想と新経済システムと新エネルギーシステムの3種が一式揃って初めて、人類と他生命が現在直面している存続の危機、絶滅の危機を根本から解決または回避することが可能となる道が開けるのではないか、と私は考えるのである。

温室効果ガス排出を削減ないしはゼロにするというだけでは、《エントロピー発生の原理》を満たしてはいないがために、そしてその原理が教えてくれる科学の限界、技術の限界をも指し示し得ないがために、温室効果ガス排出を削減することの効果によって人類にとっての全面危機の到来は幾分かは向こうに送られるかもしれないが、しかし早晩、全生命にとっての母なる地球の自然のメカニズムを駄目にしてしまうと私は考える。

 本節が主題とする「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」という発想はこうした考え方を背景に導かれるのである。

 先の文部省も今日の文科省も、その教育は、この国の児童生徒を、母国の歴史からだけではなく、ほぼ完全に母国の自然からも切り離して来た。

これでは、人は誰も過去の歴史を背負い、過去からの帰結に関わって生きているという真理を理解できないし、人は誰も、自然によって、それもその自然の中に生きる他生命を喰ってしか生きることはできないという厳然たる真理も理解できないままとなる。

 また歴史をつながりの中で正しく教えないのだから、自分が今、歴史の過程のどこにいるのかさえ理解もできない。であれば、自分はどうして今の自分になったのかも判らなければ、これから自分はどこへ向かおうとしているのか、どこへ向かうべきなのかも、当然ながら、皆目、判らない。

 そうなれば、“自分らしくありたい”、“自分の居場所を見つけたい”との願望は抱いても、アイデンティティすら持てるはずもなく、精神的には根無し草になって、漂流せざるを得なくなる。

 実は多くの人々をして精神的に根無し草として、漂流せざるを得ない状態にしてしまっている原因はそれだけではない、と私は考える。

それは次のような状況も手伝っているのだ。

 今日、日本を含めて世界の人々は、誰もが、到底消化しきれないほどの莫大な量の情報が高速で飛び交う高度情報化の中で暮らしている。しかもその情報のほとんどは、人が人間として生きて暮らして行く上では不必要な情報ばかりだ。本当は、人が人間として生きてゆく上で不可欠なもののほとんどは、すでに、大方の人には備わってさえいるのだからだ。

 それに、その飛び交う情報は、どれが真実でどれがウソなのか、またどれが作られた話なのか、誰も識別もできないものばかりだ。つまり、誰もが、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことか判別もつかない情報に振り回されながら生きているのである。

 これも結局は、人は、自分で自分の精神を根無し草にし、自身を漂流させてしまっているのである。

 

 しかし、これは少し考えてみれば誰もがすぐにも気づくように、国にとっても、また国民一人ひとりにとっても極めて危険な状態だと私は考える。

それでは、危機、それも本当に生き延びられるか否かという危機に遭遇した時に、うろたえるしかなく、全くの無力にならざるを得ない状況だからだ。

 IPCC気候変動に関する政府間パネル)も全世界に警告を発しているように、特に今後は、気候変動の激化や生物多様性の消滅等の現象、あるいはそれらが重なって生じるであろう現象によって、地球人類は、人類史上、かつてない大惨事に遭遇してゆくことが想定されるからである。

 つまり、目の前に、自分の生死を分けることになるかもしれない事態が生じたとき、普段から、真実か否か、現実世界のことか架空の世界のことかの判別もつかない情報に振り回される暮らしをしていたのなら、目の前の現実に対処できるわけはないからだ。

そのとき、スマホがあればいい、というわけにはいかない。SNSという手段があるからいい、などとは絶対に言ってはいられない。その人がどんなに最新のデジタル通信手段を使いこなせたところで、多分、その時には、ほとんど役には立たない。

それは「お金」とて同様だ。その時、どんなにたくさんお金を所持していても、そんなお金は自分の命を救うことにはほとんど役には立たない。

 むしろそのような時に本当に役に立つのは、自分はどうしたらいいか、どこに逃げたらいいか、どう対処したらいいかを瞬時に判断しうる力だ。

 ではその力はどうやったら身につけられるのか。

それは、可能な限り、それもできるだけ幼い頃から、自然の中で色々な体験をすることである。

それもできるだけ友達と一緒に、である。

例えば川遊びでもいい。林や森で遊ぶのもいい。山や丘で遊ぶのもいい。

そうして、そんな遊びの中で、自分たちが必要とするものを自分たちだけで、自分たちの手で、手元にある道具を使いこなして、作ってみることである。

 実は、こうした遊びこそ、教科書では決して学ぶことのできないこと、すなわち真の「生きる力」というべきものを学ばせてくれる。

 人間は誰も、頭で覚えたことは、どんなに記憶力の優れた者でも、いつかは忘れる。でも、体で覚えたことは違う。特に幼い頃のことであればなおさらだ。“三つ子の魂、百までも”とはそういうことである。そしてその体験は、必要に応じていつでも思い出せる。

 

 これからは、本当に、こうした「生きる力」を身につけることこそが求められる時代になってゆく、と私は確信するのである。そして、こうした身体で体験した遊びは、どんなにお金を叩いても買えない、価値ある財産をもたらしてくれる。

なぜなら、その体験こそ、その人を生涯にわたって、支え、守ってくれるからだ。

 そこで、これを学校で、たとえば自然体験制度(以下、単に体験制度と呼ぶ)と位置づけて、できるだけ早い時期から実践するのである。できれば、幼稚園・保育園の時からの方がいいだろう。なぜなら、幼い時ほど、何の抵抗もなく自然と交われるだろうからだ。と言うより、本来人間も自然の一部なのだからだ。

 ここで言う「自然体験制度」とは、都会に住んでいる子どもも田舎に住んでいる子ども、ある一定年齢に達した順に、自然豊かな環境、できれば山の中腹の森林や渓流のある地域内に設けられた寄宿舎での生活を共にしながら、自然経験豊富な指導者の下で、一定期間、自由に遊び、自由に暮らしてみるというものである。

 こうした制度を、文科省の全面的財政支援の下で、あるいは各各地方公共団体自治の下で、本物の知識人の助言の下に、柔軟に制度化するのである。

 ただし、この場合特に大切なことは、児童生徒の親、特に母親は、そうした遊び体験を“危険だから”と言って止めないことである。我が子の将来の安全無事を祈り、自分で自分を助ける力を身につけて、たくましくなって欲しいと願うなら、親自身が、ぐっと自分を抑え、子供達の自由な判断に任せることである。

 確かに、その時、子供は怪我をするかもしれない。重大な事故を起こすかもしれない。そんな時、子供は「痛い思い」や「辛い思い」を強いられるかもしれない。

でも、命を落とすことさえなければ、その体験こそが、児童生徒一人ひとりに、教科書では決して学べない、お金でも決して買えない、次に列挙するような絶大な教育効果をもたらしてくれると、私は信じるからである。

 1つは、児童生徒が、突然、まさかの事態に遭遇した時、その体験が蘇り、「こんな時には何をどうすればいいのか」、あるいは「こんな時、どうすれば危機から回避できるか、どうすれば危険に陥らないで済むか」を体が瞬時に教えてくれるようになるからだ。

 1つは、既述した、学校教育の究極の目的である「生きるとはどういうことか」、「生きる意義、生きる目的とは何か」、そして「人間とは何か」の問いに対する答えを、自分で掴み取ることができる助けになるからだ。

 それは、子どもたちが、自然の中での生活を通じて、野生の動植物や鳥類・昆虫・菌類そして水生生物等々の生態をよく観察し、それらが互いにどう生きているかをも現地でありのままに観察し、気象の変化を体験し、星々を含む天体の動きを体を通じて観察することにより、自然とは何か、生命とは何か、またその生き方の真実とは何かを知ることで、上記の問いの答えのヒントを自分で見出せるようになると考えられるからだ。

 1つは、現実世界と仮想世界との確かな識別眼を養ってくれて、それは大人になっても仮想世界に惑わされることのないように導いてくれるという点である。

 1つは、自然の偉大さを理解できるという点である。

 自然界には、厳密な意味で、色と言い、形と言い、二つとして同じ物はない。一つのものでも、時間の経過とともに絶えず変化して行き、さっきの姿をとどめない。だから自然は見飽きるということがない。いま目の前に見えているその姿を見逃したなら二度と永遠に見られなくなるということ、あるいは、自然は全体の中のどこの部分について見ても、全体と寸分の隙間も狂いもなくつながり、果てしなく広がっている、・・・・、ということも含めて、自然は、注意深く見ようとしさえすれば、限りなく多様であることに気づかせてくれると同時に、人が人間として生きる上で大切ないろいろな知恵に気づかせてくれる。その意味で、自然はつねに無矛盾で完全無欠の体系を成していて、それだけに、あらゆる意味で最良で最高の教師であることを気づかせてくれる。

そしてそのことを通じて、自然に対して尊敬と謙遜を抱けるようになる。自然を傷つけてはならない、としみじみ思えるようになる。

 そしてもう1つは、この体験制度を通じて、児童生徒が自分たちの国日本はすばらしい自然によって成る美しい国であると実感できるようになる。そしてそれは、口で“母国を愛せよ”などと言葉で教えなくても、自然な形で、「愛国」の心が育まれるようにもなる。

 

 近年、日本の自動車業界でも家電業界でも、そこには大勢の「優秀な」技術者がいるはずなのに、自社製品について莫大な数の「リコール」がしょっちゅうニュースになる。

また、建築の分野でも、例えばかつての大工職人だったら当たり前にできた家の建て方の一部である、曲がった材を曲がったなりに組んでゆく木組みを今の大工はほとんどできなくなっている、ということもしょっちゅう耳にする。

 私は、こうした事態が起こるのも、突き詰めれば、彼らは、断片的な知識を数多く記憶することにおいては優秀でも、また、真実か否かもはっきりしない情報を素早く扱ったり、取り込んだりする能力においては優れていても、つまり知性において優秀でも、幼いときからの自然体験が極めて乏しく、自然がどうなっているか体で知り得てはいないし、全体を全体として見通して判断する力を養って来てはいないから、というのが最大の理由なのではないか、と私は推量するのである。

 しかし、そうなるのも、これまでの文部省と文科省の教育では無理はない。

 要するに、「教育の中に“自然と遊ぶ”を組み込む」は、某元首相の提案する「働き方改革」や「生産性革命」を云々する以前の、教育においては本質的な問題なのだ、と私は確信を持つ。

 とにかく、物事何であれ、無知であることほど危険を招くことはない。