LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

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10.5 教育の地域化と教育費の完全無料化

 本章のこれまでは、私は、この国の中央政府の中の、先の文部省そしてその看板を架け替えただけの現在の文科省による教育行政とそれに拠る教育の内容について考察してきた。

そしてその結果とは、批判を怖れずに敢えて一言で言えば、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づける。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だった、と。

それは、この国の子どもたちや若者たちの心身の健全な発達を促すどころか、一人ひとりの個性を殺し、しかも、持って生まれて来たであろう能力をも開花させるどころかそれをも殺してしまい、一人ひとりの内面には———それを外に爆発させるか否かにはその人なりの忍耐力とか精神力あるいは理性の程度等によって個人差があるとしても———、社会に対するはげしい怒り、憎しみ、不信感そして孤立感を植え付け、その人格を歪めて来てしまった、と言えるからである。

 そのことが現象として顕在化して来ているのが、そしてその顕在化度合いがますますひどくなっているのがたとえばイジメであり、虐待であり、また引きこもりであり、不登校なのであろう、と私は推測する。“誰でもいいから、人を殺したかった”、という若者が出てくるのも、その現れだと私は見る。

 逆に言えば、小学校の時から、いえ、保育園や幼稚園の頃から、その頃にはもう既に現れていたであろう一人ひとりの個性や能力を見逃さず、それらをその子一人ひとりの特性と見て、保育園や幼稚園、そして小学校以降も、画一教育などせずに、先生を含めた周囲のみんなでその個性や特性を認め合い、認め合うだけではなく互いにそれを励まし合い育て合っていたなら、各自は、自分の存在が周囲から認められているということを自分で確信できるようになるだけではなく自分の居場所にも確信が持てるようになって、生きることにも自信が持てるようになり、それがその後の学校生活においても、また社会に出て後も自身の支えとなり、他者をいじめようとか、虐待しようとかいうような気持ちなどほとんど生まれようはなかったのではないか、と私は思う。引きこもりについても同様だ。

誰でもいいから殺してみたかった、などという破れかぶれの気持ちなど誰が持とう。

 つまりは、彼らは皆、国民の代表であるはずの政治家が国民の意思を汲み取り、代弁する形で作ったのではなく、自分たちの利益だけしか考えない政府および財界の、過去の組織の記憶の中に生きる冷酷な官僚たちによって作られてきた政府の教育システムのまぎれもない犠牲者なのだ。その教育システムとは、明治期の国策である「殖産興業」「富国強兵」の延長としての「果てしなき工業生産力の発展」という暗黙の国策を実現するためのものだった。

 要するに、明治期と同様————明治期は「お国のために」であったが————、今度は「企業のために」、相変わらず国民を、その一人ひとりの尊厳や基本的権利などは度外視して、既存の秩序に従い、経営者に従順で、ひたすら馬車馬の如くに働く労働者として育て上げるためのシステムだったのだ。「モーレツ社員」とか「社畜」などという言葉は、そういう風潮の中で生まれた言葉だった。

 なお参考までに記せば、これまでのこの国の教育費や学費は、国民から選ばれた代表であるはずの政治家としての総理大臣も文科省大臣も配下の官僚をコントロールするどころか、共に官僚の操り人形となる中で、官僚の思惑どおりに教育費は決められて来たために、教育に対する公的支出の対GDP比は43カ国中40位という状態なのである。

 

 本来あるべき学校教育あるいは学校教育の究極の目的とはこういうものではなかろうかとして、私は私の考えるそれを提案して来た(10.3節と10.4節)。

 しかし、よくよく考えてみると、これからの教育行政のあり方としては、それだけでは到底不十分だと気付くのである。各地域によって生まれも育ちも違う児童生徒を一片の紙っぺらを通じての画一的で単一な能力評価法により評価するというシステムそのものが問題だと思うからであるし、それと、受益者負担という原則、それも最終的な受益者は誰かということを考えてみると、教育費あるいは学費を児童生徒あるいはその親族に負担させるというのは理に合わないと考えるからだ。

 そこで、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかということを根元に立ち返って考えてみようと思う。

 そのためには先ずは、なぜ教育がなされる必要があるのか、そもそも教育は誰のためになされるのか、ということを明らかにする必要がある。

 そこで、人一般を取り上げて、こう考える。

もしその人が自然の中で、ロビンソンクルーソーのように一人で生きているのなら、つまり集団で共同体(コミュニティー)というものを構成していなかったなら、その人は特に教育を受ける必要もないことは明らかだ。一人であったら何かと不自由ではあろうが、それでも、いつでもどこでも、誰に迷惑をかける訳ではないのだし、まったく自分の望むとおりに生きればいいのだからだ。だからそこでは教育とか教養などまったく無用となる。

 ところが、その人が社会ないしは国家という共同体に生きているとなれば別だ。

そこでは教育、またできれば教養も求められるようになるからだ。

 なお、ここで言う教育とは、すでに述べてきた究極の目的としての教育、あるいは真髄としてあるべき教育のことである(10.3節参照)。

 なぜなら、共同体を構成する一人ひとりがそのような教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ。

 できればさらにそこに、一人ひとりが教養をも身につけられるようになれば、その共同体を構成する一人ひとりの関係のあり方はより円滑になり、その共同体はより心地よい共同体になるからである。

 こうして、なぜ教育がなされる必要があるのか、の問いの答えは明らかになった。

 では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか。

 いずれにしても、教育を受ける主体は明らかである。

小中高校では児童生徒である。大学では学生である。

では、その教育は、主体とは異なる誰かが受けさせなくてはならないものなのか、それとも、受けさせる受けさせないに拘らず、主体の意思によって、受けるも受けないも決められることなのか。

 あるいはまた、たとえば、単に「義務教育」と言った場合、そこでの義務とは、誰の、何に対する義務なのか。具体的には、1.主体の教育を受ける義務のことか、2.主体の保護者または親権者の主体に教育を受けさせる義務のことか。3.主体でも保護者・親権者でもなく、社会または国という共同体としての、主体に教育を受けさせる義務のことか。

 私はつい先ほど、なぜ教育がなされる必要があるのかとの問いを発し、その答えとして、共同体を構成する一人ひとりがそのような真髄としての教育を受けることで、その共同体は共同体を営むことを決意したそもそもの動機であり目的でもあるところの、一人ひとりの生命と自由と財産を安全に守り、維持できるようになるからだ、とした。

 もちろんその教育を受ける過程で、あるいはその教育を受けた結果として、教育を受けた一人ひとりは、その人固有の個性と能力を開花させ発展させ、その個性と能力をもって共同体である社会なり企業に貢献すれば、それ相応の対価を得られて、それはそれでその一人ひとりはその生命・自由・財産をより安全に守られる条件は得られるようにはなるだろう。

 しかし、それはあくまでも二義的な効果である。一義的な効果は、なんと言っても、社会あるいは国という共同体を集団で営なもうとしたその当初の目的がよりよく実現されてゆくことである。

しかもその「当初の目的がよりよく実現されてゆく」の中には、単に個々の構成員の生命・自由・財産が守られるようになるというだけではなく、個々人の人格も磨かれ、共同体としての社会や国は道徳的にも精神的にも次元を高めてゆき、結果として社会共同体ないしは国という共同体の総合力をも高められる、という効果も含まれる。

 こうして、これで、「では、その教育は一体誰のために、あるいは何のためになされるものなのか」の問いの答えも明らかになった。

 そして以上の二つの問いに対する答えから、そもそも教育費あるいは学費、つまり児童生徒に教育を行うための費用は誰が負担すべきなのかという問いに対する答えをも確信を持って答えられるようになるのである。

 それは、社会あるいは国という共同体が共同体として教育費あるいは学費は負担すべきだ、それも、社会として、あるいは国としての真の力を高めようとするのであればなおのこと全面的に負担すべきである、と。

 とにかくこの国では、教育についてのこうした原則に立ち返った議論も、教育費あるいは学費は本来誰がどういう理由で負担すべきかという議論も、国家の重大事項だというのに、国権の最高機関である国会で議論されたことはついに一度もなかった。

政治家という政治家は、国民から選ばれることを望みながら、政治家になってしまえば、国民の利益代表であることを放棄し、官僚に一任し、依存しっぱなしで来たのだ。

 とにかく、教育こそ、そしてその中身が普遍的であればあるほど、より多様で、より多くの人材を生み、それは、社会や国を真の意味で豊かにするのである。いや豊かにするだけではない。耐性のある力強い社会や国にするのである。その意味で、教育のあり方こそ、その国の民の興亡を大きく左右することになるのだ。

 

 ところで、この国の学校教育は、明治期以来、文部省、そして現在はその看板を架け替えただけの文科省という中央政府の一省庁によって、全国を統一的かつ画一的に支配され、統治されてきた。

そしてその省庁による教育行政とそれに拠る教育の内容は、一人ひとりの児童あるいは生徒を、人間として育てるという点では完全に失敗だったと私は結論づけてきた。間違った教育行政と教育システムであり、間違った教育内容だったからだ、と。

 したがって、既述のような意味で教育の究極の目的あるいは教育の真髄というものを考えた時、既存の教育行政や教育システムそして教育内容は、学校教育のあり方を正しく導けるはずはない。

 では、その正しい学校教育のあり方とはどういうものなのだろうか。

私はそれを考える上でヒントになるのは、次の問いの答えを考えることなのではないか、と思うのである。

それは、“国があってこそ個人がある”という考え方が正しいのか、それとも、“個人があってこそ国が成り立つ”という考え方の方が正しいのか、というものである。

この国では、明治期以来、ずっと、一貫して前者の立場で個人をとらえ、学校教育を考えてきた。

 しかし、結論から言えば、その答えは、どちらでもないし、またどちらでもある、ということだ。

すなわちそれはちょうど「個と全体」の関係と同様に、その二つは互いに切り離して二者択一的に捉えられるべきことではなく、両者を「調和」の関係にあるものとして捉えるべきであろう、と私は考えるからだ(4.1節での「調和」の定義を参照のこと)。

なぜなら、周りを見渡してみても、生きているのがその人一人だけだったら、規則も必要なければ道徳も必要ない。でも、個人が集まり、その共同体としての社会が出来てゆく過程で、すでにその社会を成り立たせ、あるいは国を成り立たせ、またそれらを維持するためのさまざまな規則やしきたりが同時並行的に必要となって、できてゆくようになるからだ。またそれらができていかなくては社会も国も維持できなくなるからだ。

 つまり、“個人があってこそ国が成り立つ”し、また、“国があってこそ個人がある”のである。

 このように考えると、教育のあり方についても、教育を受ける主体はあくまでも児童生徒あるいは学生ではあっても、そのあり方というのは、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育でなくてはならないと同時に、共同体としての社会ないしは国のためにもなる教育でなくてはならない、ということになる。

 であれば、やはりこのことからも、明治期以来このかた、常に一貫して国の中央政府の省庁である文部省と文科省による、“国があってこそ個人がある”とした考え方に基づく全国を統一的、かつ画一的に支配してきたこの国の学校教育のあり方は間違いだったということが再確認できるのである。

 したがって今後は、これを教訓として、学校教育のあり方としては、国民一人ひとりを個人として見て、その個人のためになる教育も同時並行的になされるべきだとなる。それは個人の個性や能力を尊重し、それを積極的に伸ばす教育のことだ。

 なおここで、国はそれぞれの地域の集合体であるということを考えるならば、そのそれぞれの地域が自身でそれ固有の個性や特性を伸ばし得て活力を高めることができれば、結果的に国としても活力と耐性のある国になりうる訳であるからして、これからの学校教育のあり方については、次のように結論づけることができるのである。

 それは、これからの学校教育のあり方については、各地域に任せるべきだ、と。

言い換えれば、もはやこれからの教育のあり方と教育内容は、中央集権的に、国の中央政府が全国を画一内容で、画一的に統制するというのではなく、各地域に地域化のための自決権を与えて任せるべきなのだ。

またそうであってこそ、その地域が固有に抱える問題を自発的主体的により良く解決しうるようになるだろうし、地域の歴史や文化をより良く継承し発展させられるようにもなる、と期待できるのである。

 そうでなくても、各地方の事情も判らずに、中央の事情と判断だけで統治される、統一的かつ画一的な教育というのは、起こりうる多様な事態に対する対応力や適応力を持てなくする。つまり耐性が持てなくなるのは明らかなのだ。

 

 では、教育の地域化に伴う教育内容とはどのようなものとなるのだろうか、またどのような内容とすべきなのだろうか。

 以下は私が考えるものである。

 それは、次表に示すように、大きくは3種類の内容からなる。

1つは、いうまでもなく、地域や時代によって変わることのない、「教育の真髄」とも言える、既述の、学校教育の究極の目的である。

2つ目は、「各地域固有の自然や文化そして歴史に関わる内容」で、これも必須とするのである。

3つ目は、児童生徒がそれぞれ「自由に選択できる内容」である。

 

表 − 地域化されたこれからの時代の教育とその内容(私案)

教育の究極目的

地域教育の必須内容

自由に選択できる学習内容

10.3節に述べたとおりの内容

・郷土の自然史(郷土の気候風土と生態系)

・郷土の伝統文化とそれの人類史との関係

・母国語の標準語と地元方言の学習

(その中には、毛筆による習字も含む)

・郷土の宗教とその歴史

・郷土の伝統的農業、林業水産業

いずれかの体験

・日本の古典

・外国語

・「近代」科学

・数学または論理学

・諸外国の歴史または地理

古典力学と熱力学

 

 もちろん、ここでは憲法(第21条)が禁止している検閲であるところの教科書検定もまったく無用だし、「学習指導要領」も、少なくとも全国画一のそれはまったく無用となる。

というより、そもそも憲法違反の検定という「検閲」などはしてはならないことだし、ましてや官僚という公務員には国民から与えられてはいない権力をそのような形で行使するなど言語道断だとして、官僚をコントロールすべき立場の文部科学大臣は、憲法第15条第一項を即刻適用して、検定をした官僚は躊躇なく罷免すべきなのである。