LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その1」

 

 今回から、題名が「持続可能な未来、こう築く」の拙著のいよいよ第11章を公開してゆきます。それは、「《三種の指導原理》に基礎を置く環境時代の『経済』の具体的な姿」についてです。

 私は、ここに描いた「経済の具体的な姿」こそ、そこに至るまでには多くの紆余曲折があるでしょうけれども、私たち人類(サピエンス)が心底から、子々孫々に至るまで、というより人類がこれまで生きて来られたと同じくらいの長きにわたってこれからも生きて行けるようになることを望むのなら、その時、選択すべき経済の仕組みは多分これしかないのではないか、と自身の20余年間の農業生活を通じて予想するものです。

 第11章の最初の節は、3回に分けて述べてゆきます。

 

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11.1「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済——「その1」

 かつてBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)と称し、経済新興国と呼ばれた国々はもちろん、アジアやアフリカのいわゆる途上国と呼ばれた国々も、今は、アメリカのような豊かな国になることを目ざして目覚ましい発展の過程にある。

 しかしどの国も、急速に発展すればするほど、その国の中では矛盾もいっそう表面化し深刻化してもいる。その矛盾の代表的なものが経済格差、すなわち貧富の差の拡大であろう。

世界中があこがれをもって眺め、それと同じようになることを目ざして目標とされて来た、世界で最も豊かな国とされているアメリカでさえ、というよりそのアメリカこそ、国内には極端と言えるほどに、世界最大の格差を生んでいる。

 因に、アメリカ中間層の男性労働者について見てみると、1978年、平均的年収はおよそ4万8千ドルであり、それに対して上位1%の年収は39万ドルであったのに対して(その比は8.1倍)、2010年には、その平均的年収はどんどん下がって3万3千ドル、上位1%(およそ300万人か)の年収は逆に110万ドルドルと2倍以上に増大している(その比は33.3倍)。

そしてそのわずか一年後の2011年には、上位1%の最富裕層が下から90%を合わせたより多くの富を持つようになり(オリバー・ストーン「もう一つのアメリカ史」第10回)、その翌年の2012年には、上位1%どころか最富裕者400人の資産の合計は、底辺に位置する1億5000万人の資産総額を上回るまでになっている。つまりわずか400人の超富裕者が、人口の半分の人々の持つ富の合計よりも多くの富を握っていたのである(ロバート・ライシュ「世界のドキュメンタリー」2016年2月15日「みんなのための資本論」より)。

 以上はアメリカについての状況だが、こうした格差状況を世界について見たらこうなる。

 世界の人口を74.3億人とすると、世界でもっとも豊かなわずか8人が所有する富は約4,268億ドルと言われ、それは世界人口のおよそ半分に当たる36億人の資産の合計とほぼ同じだというのだ(出典はオックスファム・ジャパン(2016年度調べ)BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」)。また2017年には、上位1%の富裕者の持つ富の合計は、世界の富の82%を占めるまでになっているという(TBS TV 2019年1月6日)。

 こうした結果をもたらしたのは、直接的には、一言で言えば、1980年代、アメリカをはじめ各国の間で市場経済のあり方についてのルールの書き換えがなされたからだ。ますます不平等を生むようなルールに書き換えられたのである(BS1スペシャル「欲望の資本主義2017 ルールが変わる時」NHKBS1)。その結果生じたのがグローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)といった経済の世界的潮流であった。そこでは、今、本来決済の手段であった「お金」に対して、「記号商品化」されて「マネー」と呼ばれるものが共存しながら、世界の実体ある物の貿易額の数百倍の、実に5兆ドル(500兆円)もの数字上の「お金+マネー」が、パソコンを通じて、毎日、国境を越えて動くまでになっているのである(福田邦夫「グローバル経済が溶かすもの」東京新聞2014年9月13日)。

 国によっては金融危機や財政危機を生み、そして世界中に、既述のような極度の格差社会を生むことになったのである。貧しい者はますます貧しくなるだけではなく、そこへ絶対的貧困をも生み、金持ちはますます金持ちになっている。そこで言う絶対的貧困とは、喰う物もない、喰う物を買うお金もないという状況に置かれていることで、単に誰かが誰かに比べて生活が貧しいという意味での貧困ではない。

 

 こうした潮流を先導したのはアメリカであり、とくにウオール街である。そしてそこに協力したのは、アメリカが中心となって第二次世界大戦後設立して来たIMF国際通貨基金)であり、世界銀行(正式名:国際復興開発銀行)であり、FRBアメリ連邦準備銀行)であった。

そして、こうした傾向が、結果的には、地球温暖化に伴う気候変動に因る影響と共に、先進国のみならず途上国や新興国の間でのテロ(テロリズム)を頻発化させてもいるのである。

間接的には、幾多の国々の内部での反政府暴動、部族間闘争、宗派対立、民族対立等を含めた内戦や紛争の原因ともなっているのである。

 

 実はこうした現状をTVなどで見ていて、知れば知るほど、私には根本的な疑問が沸き起こって来たのである。人は一体、何のために、あるいは何を求めて働いているのだろう、と。

人は、多分、一人の例外もなく皆、豊かな生活を望み、幸せになることを望んで生きているはずなのに、なぜ今の世界では、その大多数の人々には、それとは反対に、こうした不幸な事態や現象が次々と生じてくるのか、そしてそうした状況は解消するどころか、反対に、なぜますます拡大するのか、その根本的な理由とは何なのか、と。

 私は、この問いの答えを見出すためには、どうしても近代という時代の世界の人々のものの考え方や生き方を支配してきた「近代の」資本主義という経済の体制とそのシステムについて真剣に考えてみる必要があると思ったのである。

 以下では、その資本主義について、いちいち「近代の」とは断らないで論をすすめる。

 資本主義、それは全てのもの———“人間の命は地球より重い”、などとは言われるが、実際にはその命までも含めた文字どおりすべてのもの———が「お金」あるいは「貨幣」によって支配される経済であり、そのお金を資本として際限なく投じては、お金というものの増殖を飽くなきまでに求めてゆくことを本質とするシステムのこと、とされてきた。そしてそこには、道徳や倫理は不要とされて来たのである。

 そのシステムは、現実の産業社会の中では、雇用する側と雇用される側とに二分される。

雇用する側から見れば、その会社を経営し発展させて行くために、株主あるいは投資家からのその会社への評価を高めることだけが最大の関心事となる。それだけに、雇用主は、いかにしてより多くの「収益」や「利益」を生み出すかということを最重点的に考える。そのためには、一方では、働いてもらう者への賃金は極力抑え、他方では、自社が生産した物(商品)は極力多く、そして少しでも早く売りさばくことである。雇用される側にとってみれば、その企業が「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかということだけでその人の企業内での「評価」が決まり、給料等の待遇も決まり、企業の中で「出世」ができるか否かも決まってしまうことを意味した。

 こうして、資本主義経済システムの中では、雇用する側もされる側も、共に、必然的に、厳しい競争環境の中に置かれることになる。

 そしてそのようなあり方が企業内では常識とされ、またそうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されているかのように人々に思われているこの現実の社会では、各企業が利益を上げるためには、たとえ人があるいは人々の共同体が生きて行く上で不可欠な水や空気や土壌といった一次財を台無しにしても、その行為は「近代」の経済と経済学から見る限り「経済」的と見なされて来たのである。むしろ反対に、一次財を守り環境を維持する行為にコストがかかるとなれば、結果的に企業の収益を下げることになるから、それは「不経済」だと見なされて来たのだ(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.57)

 つまり資本主義が支配する社会というのは、その中の個々の人間の人間としての多様な側面、例えば誠実である、正直である、他者に思いやりがある、あるいは芸術・芸能面やスポーツ面に優れている等々といったことは、直接的にはまったく評価されない社会なのだ。

ただ、今言った「収益」「利益」を上げることにどれだけ貢献したかという観点からのみ評価される。そしてその観点からのみ「出世」できるか否か、「待遇」が良くなるか否かが決まってしまう。そうして、一つの組織の中にあって、頂点に上り詰めた者がいわゆる「成功者」と評価される。

 それだけに、そうした競争原理に基づいた企業群が中心となって構成されていると信じられてきている資本主義社会では、今言った意味での成功者や出世者だけが過大なまでに評価されてしまう。

 その結果、その社会の圧倒的多数者には、あたかも「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」だけが人生において最も価値あること、価値ある生き方、賞賛されるべき人間であるかのような価値観あるいは人生観を知らず知らずのうちに植え付けて行き、それを強迫観念にまでさせてしまうのである。

 あるいは、その結果として、昇進し、出世して、待遇が良くなればいい生活ができるようになるという意識が世の中の常識となって行くことによって、「会社に利益をもたらしうる人間」、「会社の中で出世できる人間」にならねば人間としての価値を認めてもらえないのだ、という錯覚した強迫観念すら知らず知らずのうちに植え付けさせてしまう———ただし、とくに日本の公務員の世界では、民間企業のように、社長以下社員一人ひとりが汗水流して働いて、より多くの収益を上げ、その収益によって自分たちに給料が支払われたり、翌年の事業をどのように展開するかということが決まってしまったりする仕組みにはなっていないために、というより俸給の原資も事業の資金も全て、税金という形で毎年自動的に入ってくるために、公務員の頭には、民間企業のような競争原理や「経済」的とか「不経済」的といったコスト意識は働かない。そうではなく、公務員の世界では、既述したように(2.5節を参照)、組織に縛られた強迫観念が常に働いているのである———。

 しかし民間企業の世界であれ公務員の世界であれ、共通に働くその強迫観念とは、結局のところ、「お金」に縛られた利害関係であり人生観であり、「お金こそすべて」という価値観である。

 たとえば、公共放送と自任するNHKでも、毎日、それも日に何回となく「為替と株の値動き」を報道するが、こうしたことが公然とあるいは疑問の余地がないかのごとく、まるで当たり前のように報道されること自体、そしてそれを聞く側も当たり前のように受け取ってしまうこと自体、現代に生きる私たちが、道徳や倫理を抜きにして、また道理を忘れて、文字どおり「お金」に無意識・無自覚に支配されて来たことを裏付けるのである。

なぜなら、「為替と株の値動き」が報道され続けるということは、それを聞いて、為替や株を売買することでより多くの私的利益をお金という形で得ようとする人がいる、それもこの社会にはかなりの数の人がいるということを意味しているのだからである。

 しかしそこには、少なくとも次の問題意識が欠落している。

1つは、「為替と株の値動き」など個人の利益に関わることであり、果たしてそのようなことに、

「公共」放送と自任するNHKが関わるべきことなのか、という問題意識だ。

もう1つは、為替の変動にしろ、株の値動きにしろ、それは株や外国為替を持っている人にとっては自分に降りかかる損得を計る上で大きな関心事ではあろうが、たとえそうだからとしても、それらの値動きは、それらを所持している人自身の具体的な労働や社会的貢献によって変動するものではなく、むしろその人のまったく与り知らぬところで、与り知らぬ人々の努力と犠牲の上で変動するものであるゆえ、ましてや為替も株にも無関係、無関心な視聴者もいる社会で、そのようなものをいちいち報道する必要性があるのか、という問題意識である。

というより、そのようなものをいちいち報道するということは、国民の支持に拠って成り立っている放送局自身が企業の非人道的側面に目をつむり、持てる者と持たざる者との間の格差を公然と助長していることでもあるのでは無いか、という問題意識だ。

 それは次のような意味である。

社会には、株式も持たない(持てない)人々の方が多い。また、特に小泉政権時代以降、非正規雇用の人々も激増している。その人たちは、正規雇用の人たちと同じ仕事をしているのに賃金は安く抑えられている。性差別によって、同じ仕事しているのに、待遇が男性より差別されている女性も五万といる。残業代も出ないまま過重労働を強いられて居る人々も五万といる。つまり適正な賃金が支払われることはなく、搾取されているそうした人々の存在こそが企業収益をいっそう上げていて、その結果として企業評価が上がり、株価が上がるという面が強いのである。

 確かに、株主にしてみれば、株式を所有している企業の収益が上がって株価が上がってくれればそれで満足な訳で、そのとき、自分が投資家となっている企業の経営者がどのような手段と方法で収益を上げたかなどということには、通常、まったく無関心なのだ。

 そうした、ある意味で企業の非人道的な背景を持つ株の値動きなど、なぜNHKがいちいち報道する必要があろう、ということだ。

 また為替について見ても同様で、それは母国と外国との間で経済的ないしは政治的状況が刻々と変化することによって母国と相手国の通貨の間に相対的価値の変動が生じて為替のレートが変わるわけであって、その場合も為替を所持している人の努力とか貢献とは全く無関係で、むしろ一切与り知らぬ事情によるものだからだ。にも拘らず、為替を持つことで、莫大な私的利益を得る者がいるというのはおかしいではないか、ということである。

 ところが、こうした状況には目もくれずに、庶民の間だけではなく経済学者の間でも、経済低迷が続く中で、ますます“雇用を創出し、経済を刺激する政策が必要だ”という掛け声だけが叫ばれているのである。それはまるで、それしか経済を活性化させる道も、庶民の生活状態を改善する道もないかのようだ。

 こうした掛け声が叫ばれ、またそれが支持されるということは、仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうるという認識が、誰にとっても「常識」にさえなっているからであろう。

 

 しかし、私はここでも疑問に思う。

たしかに仕事あるいは働き口があることでお金を得ることはできるだろうが、ではそれで本当に人は心まで豊かになれるものだろうか。また、しみじみとした幸せを実感できるようになるものだろうか、と。

もちろん仕事のない人、働き口のない人にとっては、とにかくどんな仕事でもいいから仕事に就きたいとは切実に願うだろう。

しかし、人間にとって仕事に就く、あるいは職に就く、もっと広く言えば、肉体労働も頭脳労働も含めて、労働するということの目的は「お金」を得るためだけなのか、ということなのだ。そうではないはずだ、と私は思う。

 ではそもそも人間が労働をする、仕事に就くとはどういう意味を持つのか。

是が非でもここは明らかにされねばならない。

 直接的には、仕事に就いて労働するとは、自分の腕・脚・頭・手をそれ自身我が身に備わっている一つの「自然な手段」として運動させるということになるのであるが、実はこの運動によって、その人は自然に対し働きかけてそれを変化させると同時に、その過程を通じて自分自身の人間性をも変化させるのである。だからこそ、人が仕事に就いて労働することで、生産された物は商品であれ何であれ価値を持つのである。つまり生産物の持つ価値の源泉は人間の労働にあると言うことができるのである。そして正にこのことから、人間の労働こそが富を生み出す、とも言い換えることができるのである。

 実は仕事に就いて労働することにはもう一つ重要な意味がある、とされる。

それは、仕事は、その人の自由意志を正しい方向に向け、人間の中に潜む放縦とか野獣を手なずけて、よい道を歩ませるという面だ。それだけに仕事は、その人の人間性をただ変化させるだけではなく向上させ、活力を与え、最高の能力を引き出すように促すのである。

こうして、仕事と仕事の場は、その人間に価値観を明確にさせ、人格を向上させる上で最良の機会となり舞台となるのである。

 人間は、仕事が全く見つからないと絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではない。いま述べたような、規律正しい仕事だけが持っている、人間を豊かにし、活力を与える要素が失われてしまうからである(E.F.シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫p.72)。

 こうしたことから、その人の人間性は仕事を通しても培われる、とも言えるのである。

 なお、仕事の役割については、仏教経済学の観点からも同じようなことが言われていて、そこには少なくとも三つあるとされている。

1つは、人間にその能力を発揮させ向上させる場を与えること。1つは、仕事を他の人たちと共にすることを通じて、自己中心的な態度を捨てさせること。そして3つ目は、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すことである(シューマッハー「スモール イズ ビューティフル」p.71)。

 だから、仕事がない、仕事に就けないということは、最初から、こうした機会を失わせてしまっていることを意味する。

と同時に、雇用する側が仕事というものを労働する者にとって無意味で退屈でいやになるような、ないしは神経をすり減らすだけのようなものにすることは、せっかく各人の人格を向上させうる機会と可能性を奪い、あるいは潰してしまうことを意味する。ましてや自殺ないしは過労死に追い込むなど論外だし、犯罪行為とさえ言えるのではないか、と私は思う。

 しかしそうなってしまいがちなのは、雇用する側が、人間よりもカネに執着するからであり、労働する者への人間的思いやりを欠くからである。

しかしそれも資本主義の本質がもたらすことなのである。

 実際、資本主義が支配してきた現実の社会では、仕事あるいは労働は、すでに「人間の人格を向上させる」という役割を持たされてはこなかったし、仕事場(職場)はそれができる舞台になってもこなかった。

むしろほとんどの人間は、全体システムの中の単なる一歯車となって動き回るだけで、職場で働くことを通じて、かえってその精神を病み、健康を害してさえいる。

とくに日本では、既述のカロウシ(過労死)という日本語が世界の公用語にまでなっている事実がそれを証明している。職場の重労働による自殺が増えているというのも同様だ。

 それだけではない。日本の場合、仕事や労働は家庭にまで悪影響をもたらしてきたし、今もいる。

家族関係を希薄にさせ、親子間の愛情を薄れさせ、愛情豊かな子育てを困難にさせ、人生の余暇を犠牲にせざるを得ないものとさせているからだ。

 また日本の労働あるいは仕事は、打ち込めば打ち込むほどに自然に対してはより大きな負荷を与え、それを汚し、あるいは破壊する性質のものとなりがちだった。

 以上の事情を考慮すると、「仕事が生み出されて雇用が創出されれば、あるいは仕事が増えて雇用が拡大されれば、それだけより多くの人々は仕事に就くことができ、お金(現金)を得ることができ、したがって生活できるようになり、それもより豊かになって、幸せになりうる」という理由付けは、もはや過去のもので、ほとんど通用し得なくなっていることを知るのである。

 実際、今、日本における非正規雇用の労働者や派遣労働者そして請負労働者については、代わりはいくらでもいて、いつでも「使い捨て」のできる労働者ということで、企業収益を絶対とする資本主義市場経済の犠牲にされているのだ。

 過労死そして自殺という悲惨な死について私はいつも思う。もし、当人が、働くこと、働いている内容に意義を見出せ、心からの誇りをも感じられていたならば、よほどの過酷な労働環境の中でも、「生きがい」が精神も体をも支えてくれて、なんとか過労死や自殺にまで追い込まれることはなかったのではないか、と。

 こうした状況は、たとえば、世界の「幸福度ランキング」を見ても頷ける。

日本は世界の中で58位だ(2019年)。G7、主要7カ国の中で最下位、アジアの中でも、台湾、シンガポール、韓国よりも下回る。1位はフィンランド、2位はデンマーク、3位はノルウェー、4位はアイスランド、5位オランダと、北欧勢がずらりと並ぶ(10.2節をも参照)。

 ただし、その際の判定条件は、GDP健康寿命、腐敗のなさ、社会の自由度、他者への寛大さ、そして社会的支援の6項目である。

 こうして次のことが結論づけられるのである。

労働の意味については、哲学者の考えるそれも、仏教経済学の観点からも、人間を人格的に向上させるという点において共通しているのである。そのいずれからも、労働の意味と価値は単に「お金」を得るためだけではないことがはっきりした。

であれば、なおのことこれからの環境時代において雇用を考えるときには、ただ雇用の創出あるいは増大を考えるのではなく、まずは労働をもたらす仕事の質、またその仕事を仕事として成り立たせる経済とそのシステムをも同時に考えなくてはならない、となる。