LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済————「その2」

f:id:itetsuo:20210401203911j:plain

11.1 「お金」に支配されてきたこれまでの世界と経済—「その2」

 ところで、経済関係の専門家はよく、仕事が生み出されて雇用が創出されるためには「経済を刺激し、活性化させる必要がある」とは言うが、そもそも「経済を活性化させる」、あるいは「経済を成長させる」とはいったいどういうことなのだろう(4.1節の「経済成長」の定義参照)。

 これまでどこの国も、経済成長の度合いを測るのにGDP国内総生産)という指標を用いて来た。しかしこれは不適切な指標であると私も思う。なぜなら、そのGDPには、環境を汚染する人間の経済活動も含まれてしまっているし、資源を乱用する行為も含まれてしまっている。またそこには富の公正な分配ということも社会の持続性ということも考慮しない経済活動も含まれてしまっているからである(ジョセフ・スティグリッツ「欲望の経済史〜ルールが変わるとき」BS1スペシャNHK BS1 2018年4月8日?!)。

 つまりGDPは、経済行動の正の面も負の面も区別なく組み込まれてしまっている指標だからだ。

ところが、どの国も、そんな性質を持つ指標の数値を上げること、それも果てしなく上げ続けることに拘っているのである。それがその国の経済が活性化していること、あるいは経済が成長していることの証なのだから、として。

 しかし、たとえDGPをもってその国の経済の発展度合いを示す指標であるとしても、果たして「経済を果てしなく成長させる」ことなどできることなのであろうか。

それは明らかに不可能だ。それは次の真理を考えただけで容易に、確信を持って答えられる。

1つは、経済を成長させるには、そのための資源が要る。鉱物資源、エネルギー資源、人的資源、等々。しかしそれらは、どこの国であれ、常に有限だ。無尽蔵な国などない。

もちろんそれらを国相互で奪い合うなど、愚の骨頂だ。

1つは、人間の活動、特に経済活動には、《エントロピー発生の原理》により、エントロピーの発生とその増大が伴う。そしてそれが、地球上に、ある一定量以上に増えたなら、全ての生命活動は維持できなくなる(第3章)。

1つは、そこでそのエントロピーを、ある一定量以上地球表面上に溜まらないようにしようとして地球の外の宇宙に捨て続けるためには、あるいは捨て続けられるようにするには、地球表面上での物質循環、とりわけ「大気と水と栄養」の循環を、経済活動を活発化させればさせるほど活発化させなくてはならない。しかし、それには、自ずと限界はある。

 つまり、これらの真理から、GDPの数値を果てしなく増大させようとすることは、そのこと自体原理的に無理なことであるというだけではなく、そのようなことにこだわり続けたなら、どの国も、いえ人類として、自滅に向けて邁進していることに他ならない、ということだ。

 それに、そもそも、雇用を創出するために仕事をつくり出すという発想自体が逆さまだ。

 本来は、あるいは通常は、何かを実現しようとか、あるいは何かを作ろうという目的が先ず発想されるのである。

その目的が定まって後、ではその目的を実現するにはどうしたらいいのか、どうしたら実現できるのかという検討に入るのだ。

その検討項目の中には、普通、鉱物資源やエネルギー資源は確保できるのか、既存の技術でその目的が達成できるのか、それとも新しい技術を開発する必要があるのか、またその新しい技術の開発のできそうな人材は確保できるのか、開発にどれだけの時間をかけられるのか、そうしたことが可能となるだけの資金は確保できるのか、等々が含まれる。

 それらの目処が立った段階で、初めて、新たな仕事が生まれ、その仕事を達成するために、必要な人を必要なだけ雇う、という段取りになるのであるからだ。

 

 私は、先に、資本主義は自然と社会と人間に対して成立当初から本質的で決定的な矛盾をもって生まれた経済の考え方でありシステムだ、と述べて来た(第1章)。

資本主義という呼び名そのものはカール・マルクスがつけたものであるが、実はそう呼ばれるよりもずっと以前から、資本主義は人類の歴史の中に経済のシステムとしてあったのだ。ところがそれは当初から、その経済のあり方の中には本質的で克服できない矛盾と問題点を持っていたのではないか、と私は考えるからである。

 例えば、日本でも、戦後の社会にはすでに現れ始めていたが、それが今日ますます顕著になってきている現象に、人間の疎外の進展、人間性そのものがますます蝕まれるようになっていること、人間の集団である社会さえも崩壊に近づいていること、その上、生命一般をずっと生かしてくれてきたこの地球の自然のメカニズムそのものさえも破壊されるようになっていること、といったことが挙げられるが、それらは結局のところ、資本主義という経済システムが最初から持っていた本質的で克服できない矛盾と問題点がもたらしたものなのではないか、と私は考えるのである。

 では、資本主義という呼び方をされるその経済の考え方とそのシステムの中に当初から持っていたと私が考える本質的で克服できない矛盾と問題点とは一体何か。

それは、一言で言ってしまえば、「お金」である。あるいはそのお金そのものが持っている矛盾であり問題点である。

 参考までに言えば、鋳造貨幣が歴史上初めて用いられるようになるのは紀元前7世紀頃、小アジアのリュディア王国(現在のトルコ)と言われている(「『幸せ』について考えよう」NHK100分de名著 西研p120)。

 お金そのものが持っている矛盾であり問題点とは次のものではないか、と私は考えるのである。

 1つは、お金自身は、金という金属でできていようが、銀という金属あるいは銅という金属でできていようが、はたまた紙でできていようが、それ自身は、例えば、人間はそれを喰って生きられるわけではなし、何の価値もないものだ、ということ。

 1つは、ところが、それが一度貨幣として造られたり紙幣として印刷されたりしたなら、それを手にした人は、それを使うことで実体のある物を手に入れる(それを、私たちは、普通、「買う」と表現するのである)ことができる、としたこと。

 つまり、その交換がなされた瞬間、それまで何ら価値のなかったはずの「お金」が、人間にとってそれなりの価値あるとされる実体のある物に化けることができるのである。

 既述したことであるが、人間の労働とその量こそがそこで生産された物に価値を与えるとした見方(労働価値説)からすれば、それは明らかに、そして決定的な矛盾なのである。

 1つは、上記内容と関連していることであるが、社会のあらゆるモノやコト、自然界のあらゆるモノやコトはそれ自体は何の価値もない「お金」を介して、しかも本来、その性質上、値段など付けようもないものまでも、そんなこととは無関係に、値段すなわち「価格」がつけられれば「商品」となり、それが買い手によって “高い、安い”と評価されるが、しかしその際の価格の高いとか安いとかがそのままその商品の「価値」を表しているのではない、すなわち「価格」≠「価値」、ということ。

 1つは、それ自体何の価値もないそんな「お金」を、人間一人ひとりの暮らしどころか生死にも関わる経済活動の中で介在させ、しかもそれを途中で滞ることなく流通させることを通して、それをより多く得ることが、誰にとっても、経済活動の主目的となった、ということ。

そしてもう1つは、そんな「お金」を手に入れる仕方においては、その過程において、法律に触れない限りは、道徳も不要だ、としたことである————参考までに記すならば、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、この、経済に道徳は不要とする考え方とは反対に、生涯、「道徳経済合一説」を唱えた(NHK BS1スペシャル「渋沢栄一に学ぶSDGs“持続可能な経済”をめざして」2021.4.29)————。

 

 つまり、これらのことからはっきりすることは、人類が長いこと採用してきたこれまでの経済は、「実体の無いお金でも、それを持ってすれば実体のある物が手に入れられる」とする、虚構に過ぎない話の上に成り立ってきたのだ。そんな話が世界中の人々に共通に信じられた結果として、である。

1980年代以降、グローバリゼーションやネオ・リベラリズム新自由主義)が世界規模で急拡大し、これまでの「お金」に「マネー」が加わったことにより、状況は一層矛盾を極めるようになった。これまでの「お金」にまつわる虚構の上にさらに「マネー」という虚構が重なったからだ。

 したがって、そうなれば、経済現象を研究する学問とされてきた経済学ではあるが、それはいっそう学問ないしは科学の一分野でもなくなるのである。虚構の上に成り立つ経済の仕組みや現象が学問ないしは科学の一分野として成り立つはずはないからである。学問あるいは科学は、つねに、人間の都合や欲とは無関係に普遍的に成り立っている真実あるいは真理の上にこそ成り立つものだからだ。

 

 ここでちょっと「お金」の歴史を振り返ってみよう。

とにかく、「お金」を預けておけば「利子」が付くという、中世ヨーロッパのイタリアではすでに1400年代にはあった話もよくよく考えればおかしな話だ。すなわち「時が富を生む魔術」としての利子のことだ(NHK BS1スペシャル「欲望の経済史〜ルールが変わる時〜特別編」2018.4.8)。利子とは、同じ場所でありながら、「時」を隔てることにより富を生むようにだれかが仕組んだ制度のことだからだ。また同じく、為替とはその逆で、時は同じくしながら、「場所」、とくに国を隔てることによって、利益を生むように、やはり誰かが仕組んだ制度なのである。

 それが近代の資本主義の時代になると、初めはお金の価値を保証するために、金(キン)とはいつでも交換できる紙幣であることを前提にしたまま、「労働」「生産」という実体とは無関係の株券とか証券・債券という紙片が人間の想像の中から創造され、それも、「お金」と同等の価値あるものとされ、売買されるようになった。

 そのうちには、紙幣あるいは貨幣はいつでも金(キン)とも交換できるという考え方も、金の保有量に応じて紙幣や貨幣を発行するという考え方も取り外されてしまい、紙幣も貨幣もその根拠を失うとともに、金そのものが紙幣・貨幣による売買対象商品とさえなってゆく。

 さらに紙幣・貨幣である「お金」をもって買った株券・債券・証券には、これまた当初の「お金」の役割とはまったく無関係な、「分配」という考え方に基づく「配当」という、働かなくとも手にすることのできるお金(不労所得)が付くようになり、それも紙幣・貨幣で支払われるようになった。

 その後は、「為替と株の値動き」が絶えず情報として流されるようになったことからも判るように、為替と株を介して、「お金」を「お金」で買うという事態にまでなり、そして今、世界の経済事情や政治事情のほんの少しの変化を衝いて、コンピュータのネットワークの中で、利ざやを求めて、「お金」と等価とされる単なる数字が実体の規模をはるかに超える規模の「マネー」として超高速で行き来するまでになっているのである。

 ところがそんなことが常時できるのは、それなりの設備や人材を抱えた資本力のある集団だけであって、市井の人間にできることではなかった。

このことが、結果的に、世界中に富の蓄えの格差を加速度的に拡大させてゆくことになった。既述した「空間」の隔たりを利用することで富を生むように仕組んだ制度、いわゆる「為替」制度がそれだ。安い国で買って、高い国で売ることによって儲けるという発想に基づくものであり、国ごとの通貨の価値の違い、つまり為替レートの違いを利用して儲ける、という発想に基づくものなのである。

 本質的で克服できない矛盾と問題点をその経済のあり方の中に元々持っていたと私が考える根拠はそれだけではない。

 これまで述べて来たような意味でのお金というものがあるからこそ「脱税」が可能となった。

それもとくに企業や団体に勤める一般のサラリーマンは「源泉徴収」という形で給料から自動的に税金が徴収されてしまうから誤摩化すことはできないが、そうでない政治家や有名企業や銀行のトップ、芸能人、有名スポーツ選手、弁護士などで、富裕者にはそれを可能とさせた。自国での納税を逃れるために個人情報の秘密を堅く守る銀行や租税回避地タックスヘイブン)に預けて納税を逃れる、というのがその一手法だ。

「買収」や「汚職」も、そして「麻薬の売買」も、「お金」というものがあり、それが社会で幅を利かせているから発想されるのである。「殺人」や「詐欺」や「横領」がなくならないのも同様だ。

絶滅危惧種であろうとかまわずに「密猟」が絶えないのも「お金」万能という発想がそうさせる。

「お金」があるからこそ、人間をしてその欲望を際限なく膨らませ、欲の虜にしてしまう。そしてその欲望が新たな欲望を生む。その新たな欲望がまた新たな抜け道を創らせて行く。

 結局、社会の不平等をつくらせて来たのも、突き詰めれば、すべて「お金」だ。

お金の力が、国民生活のあり方を左右する法律や国民の納めたお金の使途を決める最も重要な社会制度である政治を歪めて来たのだ。そしてそうした歪んだ諸制度を創ってきたのが、それが出来る権力・権限を社会人の中で唯一与えられながら、「お金」の魔力に負けた政治家たちである。彼らこそ、社会から誠実・正直・勤勉を失わせ、国民の道徳観や倫理観を衰えさせ、失わせて来た直接の張本人なのだ。

 こうして、必然的に、富める者はますます富むことになる。他方、そうした抜け道の恩恵に与れない者———それは概して正直者、まっとうに生きる者と言えるが———、その人たちは、相変わらずつましい生活を強いられる。その結果、格差はますます拡大することになる。

資本主義が弱肉強食の体制といわれる所以である。

 要するに形はどうであれ、今日、世界中に次々と生じさせている解決困難あるいは克服不可能な矛盾は、そのほとんどが「お金」がもたらしたものであると私は断じるのである。本来、「お金」そのものは物や労働とはまったく異質なものなのに、そしてその「お金」は、実体ある物や行為と交換するに当たって、ただ、「そうした交換ができる物であると相互に決めましょう」として成立しただけのもので、フィクションに過ぎないものだ。そしてそれは、実体のある物との間に何らの合理的で量的ないしは質的な説明を付けられるものでもなければ、そうした説明の成り立つものでもない。

 なお、不労所得をもたらす株式とか証券や債券も、実体ある物や行為とは全く無関係であるだけではなく、本来のお金ともまったく異質なものだ。そもそも自分は労働には全く参画していないのにも拘らず、それらを所持しているというだけで、他の者と交換しうる「お金」が入ってくるということ自体も、矛盾そのものなのだ。

であるのにも拘らず株式や証券や債券も価値あるものと信じられるようになったのは、それらのものの間にも、「互いに交換できる関係にあると決めましょう」とのルールを誰かがご都合主義的に設けてしまったがためである、と私は考える。

そして昨今は、仮想(ヴァーチャルな)通貨———たとえばビット・コイン———すら創案され、コンピュータ・ネットワーク上で出回るようになっている。そしてそれが全世界をいっそう混乱へと陥れているのである。

 今、世界中で、矛盾が矛盾を生み、ますます解決困難あるいは克服不可能な事態を生んでしまっているのは正にこうした実体のないフィクションがフィクションを生み、それが信じられるようになってきた、というより信じるよりないように仕向けられてきた結果である、と私は考えるのである。

 そしてそれは何もグローバリゼーションとか新自由主義という考え方が生まれたからそうなったということではなく、さらには資本主義という考え方が生まれたからそうなったということでもなく、もっとそれ以前に、「お金」というものが人間社会の中で考え出され用いられるようになった時点で、すでにこうした解決困難な諸問題を生じさせてしまう必然性を人類は抱え込んでしまったのだ、と私は考える。

 

 そもそも、「体を動かして働く」、「物を生産する」という人間の自然に対して働きかける能動的あるいは創造的な行為と、それによって作り出されて来る生産物と、人間が「生きて生活する」、「出産して命をつなぐ」という生存あるいは生命の再生産行為とは、互いに実体のある確かな物どうしで結びつけられていた。

 そしてその限りでは、そこには、何ら本質的で克服できない矛盾とか問題点は生じることはなかった。

ところがそうした行為や生産物や人間の生命活動との間に、それらとは本質的に異質な実態なき「お金」を介在させたことによって、諸矛盾が次々と発生し、またそれが顕在化するようになってきた。そしてその「お金」の「所有」と「交換」を「正当な行為」あるいはそれを「合法」とするようにしてしまったことがその諸矛盾をいっそう拡散させ、またそれを定着させることになってしまった根本原因なのではないか、と私は考えるのである。

 こうして、お金が人々の暮らしや産業のあり方を支配する貨幣経済の社会となった結果、「お金さえあれば何でも手に入れられる、何でもできる」という倒錯した考え方を生み、それがやがては、「そのお金を手に入れるためには手段は選ばぬ」という風潮を生み、さらにそこに既述のように「正直者は馬鹿を見る」といった風潮さえ生み、「とにかくお金を得ること、それもより多く得ること」ということだけが大方の人々の強迫観念となってしまったのである。

 そしてこうした経緯の中で、経済学という学問も誕生して来た。

しかしその経済学については、既述して来たように、元々、それ自体は何の価値もなく実体を持たない「お金」が信じられて、それが支配する経済社会の中で生まれたものであっただけに、本来の「学問」あるいは「科学」として成り立ちうるはずはなかった————経済学は社会科学の範疇に含まれるとされてきたのであるが————。

だからその「経済学」は、人間社会にとって、一時は有効性を見せることはあっても、真の、あるいは永続的な有効性を見せられるはずはなかった。そしてそれも必然だったのだ。

 なぜなら、人間の意思とは無関係に成立していて、しかも無矛盾あるいは完全無欠に成り立っている自然を研究対象とする自然科学とは違って、経済学は、どれも、人間の都合によって、それも一部の人間の欲に基づく都合や意図によってその時々でつくり変えられてしまう仕組みや制度と一体化したフィクションに過ぎない「お金」の動きが研究の主対象となるものだったのだからだ。

 そもそも、マクロ経済学ミクロ経済学という、観る立場、観る対象が異なる経済学が別々にあること自体、ご都合主義的と言える。

 

 以上、遠い貨幣の歴史を概観してきたが、そこで、次には、では一体何のために人間はお金など考え出したのか、と問うてみる必要があるように私は思うのである。

 実はその問いの必要性を思いついたのは、私がそれまで20数年間務めたゼネコンでのサラリーマン生活を、退職まで後8年を残して止め、直ちに農業に転向し、以来20年余、自分で米や野菜を栽培して生活してきた結果のことである。

 人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか。そして、そもそもお金は経済社会の中で、本当に必要なものなのだろうか。そして、そこでいう「経済」とはどういうことを言うのであろうか、と。

 たしかに、私の周辺でも、農業についてみるならば、現実の生活に見合う現金収入が安定的に得られないために、せっかく志した営農の道を途中で断念して去って行く人々、とくに若者がいたし、今もいる。そうした状況を指して人々はよく、“この国では、農業では喰っては行けない”という言い方をする。そして農業に対するそうした見方は、この国では、もはやすっかり定着してしまった観がある。

 しかし、そこで私は思ったのである。そのような言い方を、そういうものだとしてただ聞き流してしまっていていいのだろうか、と。「現金収入が続かない」ということが農業が成り立たない本質的な理由なのだろうか、と。

 私は、この国は決定的な矛盾をそのままに放置している、と思った。「喰う物」をつくっていながら農業者が喰ってはいけないままにしているからだ。「なぜ喰って行けないのか」、と問うべきではないか、と。

 私は、20年間余の農業生活の中で、“そうではないのではないか”、と考えるようになった。そして今やそのことに確信を持っている。

本質的な理由は別のところにある。「現金」とか「お金」あるいは「農業」そのものにではなく、「制度」や「しくみ」にこそあるのだ、と。

つまり、農業を取り巻く社会の経済制度を含む諸制度が農業という産業に適合するようには備わっていないがために、言い換えれば、農業で持続的に生きてゆくことを可能とするようなまともな農業と経済のシステムとはなっていないがためだ。それはもはや農業者個人の努力でどうこうなる問題ではない。問題はそのレベルをはるかに超えたところにこそある、ということを意味する。そこにこそ、「喰う物をつくっていながら、喰っては行けない」状態を生み出させてしまう本質的な理由があるのだ。それがゆえに、せっかく農業を志して、一生懸命作物の育て方を学び、より質の高い喰い物を消費者に届けようとしても、その生活を持続できなくさせてしまうのである。

 「お金」という金属片あるいは紙片が一人ひとりの人間に、あるいはその集団である社会に、その社会を成り立たせている自然に、結果として、あるいは総体として何をもたらすかということについては概略的にではあるが既に検討してきたとおりである(7.4節)。

そして少なくともその段階でおぼろげながら見えて来た結論は、直接それを喰って生きられるわけではないお金に拘らねば生きてはいけない経済のしくみとは、明らかにどこか間違っている、ということであった。

 その「どこか間違っている」とする根拠は、次のように考えることによっても明確になる。

 それは、「生物としてのヒトが生きる」とは、そしてまた、生物としてのヒトではなく、その「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみることによって、である。なぜなら、それは、人間として生きる上で、またその人間の共同体である社会を営む上でつねに付いて回る根本的な命題だからである。

 ただしここでの着目点は、あくまでも「生きるとはどういうことか」ということであって、「生きる意義」とか「生きる目的」についてではない。

 そこで先ず「生物としてのヒトが生きる」とはどういうことか、ということについて考えてみる。

それは、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、適当な時に適当な場所で排泄し、適当な場所で朝食の準備をしてはそれを摂り、しばらくは自分としてしたいことをしたい場所でする。それからまた適当な場所で昼食の準備をしてはそれを摂り、食べた後には再び自分としてしたいことをしたい場所でして時間を過ごす。

夕刻になれば、また夕食の支度をし、それを食しては、その後の時間をその日一日の疲れを癒すために使う。そして床に就く。

 これを、季節が変わっても、毎日毎日、一年間、もし家族がいれば家族と共に、太陽の循環運行に合わせて繰り返す。

 それを、翌年も、またその翌年も、そしてその人が生きている限り、同じことを同じように繰り返して過ごしてゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加わると、このことを実現させる行為が、ある時期から生じ、そして、子どもの成長過程に応じて、それに割くべき時間は変動する。

しかし基本的には同じことを同じように繰り返しながら過ごすことになる。

そしてその際、子どもは、上記行為を親から見て聞いて学びながら過ごし、成長して行くことになる。

 これが、ごく大雑把に見た「生物としてのヒトが生きる」ということであろうと私は考える。

 では、今度は、生物としてのヒトではなく、「ヒトが人間として生きる」とはどういうことか、ということについてである。

ただし、ここで言う「人間」とは、社会という集団あるいは共同体を自分の意思に基づいて取り結び、その中で「自由」と「愛」の主体として生きる存在であるということを前提とする。

 それは、ある決まった場所に住居を構え、その季節にあった衣類をまといながら、毎日、規則正しく東の空から上ってくる太陽とともに起き、決まった場所で排泄し、決まった場所で顔を洗い歯を磨き、決まった場所で、その人がその日活動できるだけのエネルギーを与えてくれる喰いものを喰える準備をしてはそれを摂り、その後は食べた食器を洗い片付ける。その間、掃除や洗濯があればそれをして、洗った物を天日に干す。

 その後、しばらくは自分としてしなくてはならないこと、あるいはしたいことをしては、その過程で自己の「自由」を歓び、自分が自分のためだけではなく他者のためにも役立つことをすることを通じて、またその中で他者のことを思い、人間としての存在をも確かめる。

 また、自分の選んださまざまな職種での仕事において、自分を磨くと同時に他者の役にも立ちたいと望んでは、そのために自分をより発達させ、より全的な存在へと高まろうとする。

 それからまた昼食の準備をしてはそれを摂り、その後は朝食後と同じように過ごす。

夕刻にはまた、朝食時、昼食時と同様のことを繰り返す。

 その日の残った時間は、その日一日の疲れを癒しながら、人を思い、社会を思い、自分の将来を思い、そして床に就く。

 これを、毎日毎日、太陽の循環に合わせて、もし家族がいれば家族と共に、季節が変わる中で、一年間、繰り返してゆく。

 一年間繰り返したなら、それを翌年も、またその翌年も、やはり太陽の循環に合わせて、命ある限り、繰り返してゆく。

 なお、ここに、子どもを生んで育てるということが加われば、このことを実現させるための行為が、ある時期から生じる。その割く時間も割き方も、子どもの成長過程に応じて変動する。でも、親も周辺も、そのことを通じて、その子の成長とともに成長し、変化して行くのである。

 以上が、概念的にではあるが、ヒトとして、あるいは人間として、生きるとはどういうことかということの中身であろう、と私は考える。

 つまり、このことから判ることは、こうした生活が社会の一人ひとりに等しく、かつつねに実現されていれば、あるいは実現できる社会的しくみが備わっておれば、それで、人は人間として生きていかれる、ということである。

 しかし、残念ながら、現実社会では、このような暮らしをすることをますます多くの人に難しくしている。

それは、結局は、既述して来たように、「お金」がそうさせているのだ、と私は考える。

つまり、元々人間が考え出し生み出したお金が、結局のところ人間を、あるいはその集団である人間社会を住みづらくさせ、あるいはその中の個々の人間をして生きることさえ困難にさせてしまっているのだ。

 

 ところがその「お金」がすべてにわたって決定的にものを言う経済システムが資本主義なのである。そこでは、既述のように、全てのものは「お金」あるいは「貨幣」によって評価され、カネにならないものはたとえ人間であろうとも無用・無益と見なされてしまう。資本主義の中核とされる企業にあっては、利益をもたらせない者は不要とされ、取っ替えられ、利益をもたらす者だけが評価されるのである。その上、もたらす利益の大きさによって「出世」の度合いも決まる。

 その結果として、資本主義の社会では、人間関係が主として利害打算の関係と化してしまい、人間が本来持っていた他者を思うやさしさとか他者のために役立とうとする献身さ、あるいは誠実であろう、正直であろうとする本質面を次々と喪失させてしまっているのである。

いわゆる人間の疎外化と呼ばれる現象を誘発しているのだ。

ここに疎外とは、「人間が自己のつくり出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況」を言う(広辞苑第六版)。

 疎外化、それは、概略的にいえば、社会的人間に生じている、互いに内的関連性を持った次の三つからなる現象である。

1つは人間の一面化あるいは断片化。1つは人間の孤立化。そしてもう1つは人間の心の空洞化あるいは空疎化である(真下真一著作集 第1巻 青木書店p.118〜133)。

 今、文字どおり近代文明の先駆者であるアメリカやフランスを中心に生じ、ますます勢力を拡大しているかに見えるポピュリズムという名の民主主義の危機的現象も、結局は、資本主義がもたらした人間疎外の1つのあり方なのだと私は考える。

それは、グローバルな資本が国境を越えて暴走し、資本主義体制すらそれを制御もできなくなったカジノ化した資本主義によって、これまで社会の中間層を形成してきた人々の多くが拡大する格差の中で中間層ではいられなくなり、ある者は職を失い、そして困窮し、家を失い、家庭を失い、そのため、“自分たちは社会から受け入れられてはいない”という怒り、“自分たちには居場所がない”という不安がその人たちにもたらした現象だからだ。

 その人たちの多くは、口々に“仕事がないのは移民や難民を受け入れたせいだ”と叫んでいる。

 要するにここでも「お金」なのだ。「お金があれば生活できる」という意識が前提にある。

その「お金」が、人間に疎外をもたらし、その結果、個々の人間をして、持って生まれたはずの美徳を捨てさせてしまい、あるいは忘れさせてしまい、その結果、人類が、自然状態から脱して、互いの生命と自由と財産を安全に守ろうとして発展させて来たはずの社会という共同体そのものを、またその共同体の理念である自由と民主主義を、崩壊の危機にまで落とし入れているのだ。

 ここまで考えて来て私がたどり着いたのが、先の問い、すなわち「人は本当にお金がなければ生きては行けないのだろうか」だった。その問いは、もはや、今日の社会にあっては万人に当てはまる根本的な問いと言えるのではないか、と私は思う。そして、そこから出て来るもう一つの問いは、では「お金に支配されなくても人が人間として生きて行ける経済システムというものはあり得るのか」、「あり得るとすれば、それは具体的にはどのようなものなのか」だった。

 私はそれを何とかして明らかにしたいと思った。いえ、そうしなくてはならない、と強く思った。ただしその際、経済とは何かということをもう一度根本から問い直してみなくてはならない、とも思った。

 その場合、私にとって自明だったのは、人が人間らしく持続的に生きて行ける経済とそのシステムとは、生態系に対しても、したがって地球の自然環境に対しても、必要以上に負荷をかけない経済でありシステムでなくてはならない、ということだった。

なぜなら、人が人間らしく生き続けられるためには、生態系がきちんと機能し、したがって人類を生かしてくれている地球の自然環境も持続的にその機能を維持されるものでなくてはならないからである。それは《エントロピー発生の原理》が、《生命の原理》が教えているところである。

 ではその「新しい経済とそのシステム」とは具体的にはどういうものか。

それについては、私は次節以下で具体的に描き出して行くつもりである。