LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

4.1 本書で用いる主要用語の再定義———(その1)

f:id:itetsuo:20210629214634j:plain

 

 現在、私は、拙著「持続可能な未来、こう築く」の中の第11章を公開中ですが、そして前回は11.4節を公開しましたが、今回と次回は、やや突飛な感はぬぐえないかもしれませんが、以下の理由により、これまで未公開なままにしてきた第4章の1節、つまり4.1節の「本書で用いる主要用語の再定義」について公開しようと思います。

 近年、この国では、私たち日本国民にとっての母国語である日本語が非常に軽々しく扱われるようになっています。それも、特にメディアに登場するような人たちの間で目立っています。せっかく先人たちが苦心して創り用いられてきた立派な日本語があるのに、それを用いずに、一体どういうつもりなのか私には判りませんが、やたらと英語もどきカタカナ表現をして見せるのです。そうした表現をした方が格好いいと思うのか、それともその母国語を真正面から用いるのが気がひけるのか、あるいは母国語に劣等意識があるのでしょうか。それとも、いつものように、他者が使うから自分もただそれを真似して使うだけという、自分というものを持たない姿をさらけ出しているだけなのか。なのか。

 例えば、尊敬という言葉をリスペクトと言ってみたり、道徳をモラルと言ったり、驚きをサプライズと言ったり、協力をコラボレーションと言ったり、危険をリスクと言ったり、警報をアラートと言ったり、証拠をエビデンスと言ったり、事実をファクトと言ったり、遺産をレガシーと言ったり、伝説をレジェンドと言ったり、復讐をリベンジと言ったりするのがそれです。また、災害予測をハザードと言ったり、優先順位付けをトリアージと言ったり、動機付けをモチベーションと言ったり、保存館をアーカイブと言ったりするのもそれです。

 あるいはかえって判りにくくなるのに、どうしてそこまで言葉を短縮して表現しなくてはならないのか、それほどまでに時間に追われているのか、と思われてしまうものもあります。発雷、発災、人流、等がそれです。

 そうした行為がどれほど母国語を衰えさせることになるか、またそれがどれほど軽薄な姿に映るか、著名人気分のご本人は気づいてもいない風です。本当に母国語を大切にしている人は、こうした姿は見せないのではないでしょうか。事実、例えば、英語を母国語とする人々で、自国を愛し、誇りに思う人々は、こんな外国語表現をするでしょうか。

 なお、こうした私たち日本国民の、その中でも特に近年の著名人の母国語に対する言語感覚と並んで、私にとってもう一つ極めて憂慮されることは、この日本という国の最高責任者たる首相とその周辺の政治家の言葉に対する認識と理解の余りの低劣さです。情けなく、また悲しいとしか言いようがない様です。残念ながら、このような人物が国際社会での「日本の顔」なのです。

 政治家の用いる言葉は、社会の他のどんな職業の人が語る言葉よりも重く、またこれ以上にない責任を伴うということが、彼らには解ってはいません。

 なぜそれほどに重く、責任があるか。

政治家こそが、その国の国民全ての人々の生命の安全と、自由の実現と、財産の確保の安全に直接影響を与える様々な法律や制度や政策を公式に決定できる権限と権力を、国の主権者である国民から、選挙を通じて付託されているからです。

そしてこうしたことを決めるにも、政治家は、つねに言葉をもって、国民に説明し、了解を得る必要があるのです。権力の行使にはつねに国民の合意が必要なのです。

 したがって、彼らが用いる言葉の意味内容とその言葉による論理は国民にはつねに明確でなくてはなりません。とりわけ政府という執行機関の長としての首相とその首相に任命された閣僚にはその自覚と能力が強く求められるのです。
そうでなかったなら、語る言葉の意味が政治家と国民との間で共有できないからです。それは議論の場である議会においても同様です。意味内容が明確となり、またそれが関係者の間に共有された上で、論理が明快でなかったならで、生産的な議論などできないからです。

 ところが、今の自民党政権の首相と閣僚たちの多くは、小学生に対してさえ恥ずかしい言語感覚です。菅義偉などは、議論の殿堂である国会において、質問には直接答えずに、同じ文言を6回も繰り返す始末です。国語の授業で「質問されたことに対して的確に答えること、そうでなかったらそれは答えたことにはならない」と教えられ、テストでも、それを守らなかったら×と教えられた小学生に、彼は、一国の総理大臣として一体なんと説明するのでしょう。

 たとえそれが国語の能力の欠如、議論ということの無知によるのではなく、意図的なはぐらかしであったとしても、この事実一つとってみただけでも、菅の態度は国民と民主主義と議論を愚弄する態度です。もうそれだけで首相どころか政治家失格と言うべきです。国旗の前でその都度恭しく頭を下げて見せる愛国心が見せかけでなく本物ならば、首相という座を自ら潔く辞するべきでしょう。

 本節では、言葉はあくまでも正確に用いられなくてはならない、意味内容は常に明確でなくてはならないという議論の際の原則を守るために、本拙著で用いている主要言語の意味内容を、著者である私なりに再定義しておこうと思います。

 本拙著では、常にこの再定義に基づく言葉の用い方をしてゆきます。

 

4.1 本書で用いる主要用語の再定義————————(その1)

 人が相手に対して何かを語ろうとするとき、あるいは複数で議論するとき、そこで用いている言葉の中でとくに要となる言葉の定義がなされていなかったり曖昧であったりした場合には、聞き手は、聞き手自身が以前から理解している意味のとおりに解釈してしまいがちなものだ。そうなると、その相手の人(たち)に伝えようとしている当人の意図は相手に正確に伝わらず、むしろすれ違いを起こしたり、ときには誤解すら生んでしまったりする可能性がある。

それでは議論は無意味になるどころか、時間の無駄でさえある。

 そこで私は、本書を書く上で、私にとって要となると考えられる用語について、その意味の正確な共有化を図るために、私なりに「定義」しておこうと思う。

 再定義を試みる用語とは次のものである。

「生命」、「自然」、「生態系」、「近代」、「近代化」、「環境問題」、「環境時代」、「社会」、「国と国家」、「地域」、「公共」、「権力」、「市民」、「新しい市民」、「原理」、「原則」、「理念」、「調和」、「民主主義」、「自由」、「平等」、「友愛」、「生命の多様性」、「生命の共生」、「生命の循環」、「生命主義」、「環境時代の科学」、「環境時代の技術」、「これからの経済」、「経済成長」、「これからの開発」、「進歩」、「便利さ」、「安全保障」

「生命」:外界から取り込んだ水と栄養(物質あるいはエネルギー)をその個体の内部の全域に分配し、その結果生じた廃物と廃熱と余分のエントロピーを外部に捨てるという循環過程を持続させることによってその個体としての全体を維持してゆく熱化学機関としての物質的実在であるだけではなく、性的に相異なる雄と雌という個体の「調和」的合体により、その雌雄の存在期間を超えて行く新たな個体を生み出す能力を持った物質的実在のこと。

「物質代謝」あるいは「新陳代謝」とは、こうしたモノの摂取と排出という全く相反する過程を通してその個体を構成する物質を変化させながら「内」と「外」とを連結させることを言い、「適応」とは、内と外とが互いに調和の関係を保つように維持することを言う。

 なお、その個体の内部と外界が、内部での循環と外界への廃棄ということを通して調和して連結しえているときには「健康」であり、内部に溜まった廃物・廃熱・余分のエントロピーを外界に捨てることが困難になったときには「病気」になり、それらを捨てることができなくなったとき、あるいは外界との関係が遮断あるいは分断されたとき、さらには外界に捨てる場所・空間がなくなったときには、内部の循環も止まり、全体を維持できなくなって「死」を迎えることになる。

 後述の「調和」の定義を参照。

「自然」:その地域に固有の地形・地質・気候等の諸条件の下で、その一部を孤立させると全

体が歪められてしまうという関係でどの部分も互いに連結して全体を構成し、しかもその全体は、一様に太陽エネルギー(太陽熱)を受けながら、水と大気と養分を作動物質として、質も規模も無数に異なった種類の循環をその中に生じさせながら、その過程において多様なあらゆる個々の生命を生かし、最終的にはその循環過程で発生した余分のエントロピーを熱に付随させて宇宙に向かって捨てることで全体のエントロピー量を一定に保っている、それ自体が生命体としてのしくみをもつ熱化学機関のこと。

 この「自然」は、岩石、土壌、河川、海洋という無機環境と、そこを生息場所としている植物、動物、微生物に分けて考えることができる。しかし、この無機環境(非生物的環境)と生物とは密接に結合していて、個々バラバラに切り離しては自然は存立できない関係にあるのである。

 

「生態系」:あるまとまった地域に生育する生物のすべてと、その生物の生育空間を満たす無機環境が形成する、上記の「自然」を構成している部分としての一つの系のこと(只木良也・吉良竜夫編「ヒトと森林」p.25)。そしてそれ自体も、地域固有の熱化学機関である。

 

「近代」:自然は人間の幸福実現のための手段であるとする前提条件の下、自然を細切れにし

て分析し計量化し因果律をもってすれば自然は合理的に認識でき理解できるとする自然観と、自然を人間の都合よいように改変することによって人間はより多くの富が得られ、その富を所有することでより多くの自由が実現でき進歩できるとする価値観と、さらに、人間の経済活動に道徳は無用としながら、企業により多くの利益をもたらしうる人間ほど価値ある人間とする人間観と、世界は右上がりの直線状で果てしなく発展を続けうるという世界観をこしらえては、たとえば人間の真の幸せや豊かさのこと、他生命のこと、環境のこと、資源のこと、伝統文化のことなど二の次、三の次にして、ひたすら「物を作っては売り、売っては儲ける」という形式の経済だけを社会の支配的なしくみとして来た時代のこと

「近代化」:とにかく、より多くの物質的金銭的利益を得ることが人間が豊かになることであるとして、上記の人間中心の自然観、価値観、人間観、世界観等のすべてが確立され、その下であらゆる社会の仕組みや法制度が整えられた中で、「コストをできる限り下げながら物を作っては売り、売っては儲ける」、そして「売ってしまえばおしまい」とする形式の経済とそのシステムが、よりよく発達し、しかもそれが支配的になるように仕向ける動き、あるいは図る動きのこと

「環境問題」:元々は、その内部を「大気と水と養分」が作動物質として遮断されることなく循環的に流れることにより、「自然」を一つの熱化学機関として成り立たせていたその流れが、人間が構築した長大で巨大な構築物によって遮断されたり、自然が本来持っていた物質を分解したり浄化したりする能力を超えた量の物質を人間が自然界に廃棄することによって滞ったり、さらには元々、自然界を構成する生命体にとっては毒物でしかない物質を人間が自然界において用いることによってかつて保たれていた食物循環・物質循環が分断されたりしてしまい、その結果として生じた次のような事態や状態や現象のこと。

 すなわち、地球が一つの連続した生態系もしくは生命体あるいは一つの熱化学機関であることはもはやできなくなり、それがために、人間の経済活動や産業活動によって大気中や海水中や土壌中に排出された廃物(この中には温室効果ガスという気体も含まれる)と廃熱、およびそれらに付随して発生したエントロピーという「汚れ」が地球という熱化学機関の外、つまり宇宙空間にうまく廃棄処理することができなくなり、地球表面上に溜まりに溜まり続け、地球という生命体がもはや健康状態ではいられなくなり、呼吸困難状態・窒息状態に陥ってしまっている状態。

 またその結果として、それまで維持されてきた地球上での全ての自然現象や生命現象あるいは全ての生命を健全に維持する働きが衰え、かつてあったその安定性や再現性や周期性を次々と急速に失わせてしまっている状態。

 これらは全て、特に産業革命以降の、つまり既述の「近代化」の動きに伴って、人間の経済活動や産業活動によって生じた現象なのである。

 具体的な現象としてはたとえば次のようなものがある。

紫外線の強烈化。高温化。一日の中でのめまぐるしい気象変化と気温変動。季節の特徴と季節の区切りの不明確化。生態の北上(北半球)。同一地での気候の干ばつ化・砂漠化。河川や湖沼での渇水。井戸の渇水。これまでは見ることも聞くこともなかった竜巻・突風の頻発化。台風やハリケーンの大規模化と強力化。相異なる地での熱波と寒波の同時発生とその頻発化。同じく大洪水と大干ばつの同時発生とその頻発化。森林や熱帯雨林の消失と砂漠化。草原の砂漠化。氷河・氷山の溶解による消失。海面上昇と国土の消滅とそれによる環境難民の大量発生。凶作・飢餓・飢饉の頻発化。

生物の多様性の消失。またそのことに因る特定生物種の異常発生と絶滅。感染症マラリアデング熱等)の頻発化とその拡大、・・・・。

 

「環境時代」:人類を含む全生命の存続を不可能としてしまう環境問題を引き起こした根本原因としての近代の自然観・世界観・価値観を超えて、さらにはこれらのものの見方の下に発展させてきた大量生産様式を含む経済制度とその中で普及させてきた生活様式をも転換させて、もはや「資本の論理」や「競争の原理」に依るのではなく、また人間中心の「自由」や「民主主義」に依るのでもなく、人間個々人にとっての最高の価値と見られる「幸福」を頂点とする「人間固有の諸価値の階層性」の存在を念頭に置きながら、「エントロピーの原理」と「生命の原理」と「新・人類普遍の原理」を国や社会の主導的原理と定める「生命主義」を実現させることを主たる目標とする時代のこと。

 すなわち、人類史において「近代」という時代が果たしてきた役割と使命が意味を持つ時代は終焉を見たとする「ポスト近代」としての時代のことで、もはや人類中心主義の時代ではなく、人類を含むあらゆる多様な生命が自然界においてその本来の存在意義と役割を果たしながら、共に他生命を尊重しながら生きるべきとする新しい時代のこと。

「社会」:個としての人が、共に住み共に働き、互いに支え合い、自分の必要を等しく満たしながら、互いに人間らしく生きて行けるようになることを目指す人間の一集団のこと。

 ここでの「必要」には、単に経済的なものや物質的なもののみならず、宗教的・精神的・文化的・芸術的なものまで、さまざまなものが含まれる。

「国家と国」:社会を上記のように定義するとき、国家とは、その社会がその社会を構成するあらゆる個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持つことによって統合されている社会のことを言う。

 とくにこの定義を日本国に当てはめようとするときには、「合法的に」と「最高な」と「一個の」という文言に注意を払う必要がある。

つまり、政府組織内あるいは行政組織内の実態が、いわゆる「縦割り」のままであったり、各府省庁間の連絡や意思疎通がなかったり、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者に国の運営上必要な情報が速やかに伝達されなかったり、ましてやその情報が一部の者によって途中で握りつぶされたりするような政府の状態は、国家とは到底言えない。

 なお、国家と中央政府をはっきりと区別することは極めて重要である。それは、国家の目的は国家の成員が彼らの欲望の最大満足を得ることができるような条件を創り出すことであるが、その国家自身は決して行動しないからである。そのため、国家は、その目的に沿って、政策を決定する権限を得た人々———すなわち、選挙で主権者から選ばれた人々、つまり政治家である。官僚ないしは役人ではない———に代わって行動してもらうのである。

この一団の人々をこそ私たちが国家の政府と称するものなのである。

 したがって、政府は国家の代理者に過ぎず、政府そのものが国家なのではない。

政府はあくまでも国家の諸目的を遂行するためにのみ存在するのである。

その政府は、それ自体が最高強制権力なのではなく、ただ、この権力の諸目的を実現する行政の機構に過ぎない。

 このことから、政府のことをクニと呼ぶのは明らかに間違いである。

ついでに言えば、都庁のことをト(都)と呼ぶのも、道庁のことをドウ(道)と呼んだり、府庁のことをフ(府)と呼んだり、県庁のことをケン(県)と呼んだりするのも明らかに間違いだし、市役所のことをシ(市)と呼んだり、町役場のことをチョウ(町)と呼んだり、村役場のことをソン(村)と呼んだりするのも、明らかに間違いである。

 そうした呼び方では、いずれも、行動する代理者を指し示していることにはならないからだ。

「地域」:気候的・地形的・地質的・伝統文化的・歴史的に見て、一つの共通性を持った地

理的範囲のこと

「公共」:辞書的には単に「社会一般」あるいは「おおやけ」と説明されるが(広辞苑)、本書では、人民・住民・国民あるいは市民と呼ばれる政治的主体からなる社会一般のこと、と定義する。

 だから公共とは、明治期に「お上」と呼ばれた「天皇」のことではないし、その後、官庁と呼ばれた中央政府のことでもなければ、ましてやそこに働く官僚のことでもない。また役所と呼ばれた地方政府のことでもなければ、同じくそこに働く役人のことでも決してない。

 したがって、現行日本国憲法第二十九条に言う「公共の福祉」とは、役所や役人にとっての幸福の意味ではなく、人民・住民・国民あるいは市民からなる社会一般にとっての幸福の意味となる。

 このことから、たとえば「公共事業」とは、役所や役人のための事業ではなく、あくまでも上記構成員からなる社会一般の福祉のため、あるいはそれを向上させるための事業のこと、となる。

 なお、「公共性」とは、以上のことから、人民・住民・国民あるいは市民一般にとって役立つという意味を強く持つだけではなく、一人ひとりの個人の誰にでも開かれ、公開されているという意味をも持っているのである(中村雄二郎「公と私についての考察」岩波「世界」1975年6月号)。

 これまでは、「公共機関」と言うと、同じく辞書的には「国や地方自治体が設置する機関、また、電気・ガス・通信・交通など、公共的性格の高い事業を営む機関」と説明されてきたが(同じく広辞苑)、それはきわめて誤解をもたらす説明であることが判る。それらの機関は、日本ではほとんど私企業であり、上記の公共性とは相容れない私的利益の追求を最優先にして来たからだ。

 したがって、これからの「公共機関」の定義とは、「人民・住民・国民あるいは市民一般にとって役立つ事業を行うと同時に、その運営のされ方がその社会の個人の誰にでも開かれ、公開されている機関のこと」、とされるべきであろう。

 なおここで、公共を構成する人々の呼称を整理することをも私は試みる。

それは、この国では、歴史的に、統治者や権力者によって使い分けられて来た言葉の種類が余りにも多いからである。整理の対象とするのは、「大衆」「平民」「庶民」「民衆」「公衆」「公民」「人民」「住民」「国民」そして「市民」である。

 それらは、辞書的には、これまで、次のような意味の人々とされて来た。

大衆とは、納税の義務を含む社会的義務を果たすことを互いに合意した、未組織の一般勤労階級のこと

平民とは、官位のない世間一般の人々のこと

庶民とは、もろもろの民。世間一般の人々。貴族などに対し、なみの人々

民衆とは、世間一般の人民のこと

公衆とは、特定の個人に限定されない社会一般の人々のこと

公民とは、国政に参与する地位における国民のこと

人民とは、国家・社会を構成する人。とくに国家の支配者に対して被支配者のこと

住民とは、その土地に住んでいる人のこと

国民とは、国家の統治権の下にある人民のこと。国家を構成する人間。国籍を保有する者。

市民とは、広く、公共空間の形成に自立的・自発的に参加する人々。

 しかし、環境時代の今後は、公共の構成員としての呼び名はせいぜい国民・住民・人民・市民の4つで十分なのではないかと私は思う。そのうちでもとくに今後ますます重要な社会的存在となって行くと思われるのは「市民」である。それは、政治的に覚醒し、権力者や支配者にはつねに懐疑的に向かい合おうとする主権的人間のことである。

他の大衆・公衆・庶民・民衆・平民・公民という用語はもはや廃語または積極的に死語にすべきではないか、と私は思う。

 なぜなら、上記の意味の辞書的説明からも判るように、その説明を厳密に考えれば考えるほどその意味は曖昧となってしまうからだ。それに、大衆・公衆・庶民・民衆・平民・公民も、結局は国民・住民・人民・市民と同一の人々を指しているに過ぎないからだ。それなのに、敢えてこれほど様々な言い方を存続させてしまうということは、社会の人々を分断しては統治しようとする管理者や統治者にとっては好都合なことかも知れないが、協働し、連帯し、団結することで日々の生活の平和と安定を図り、不安や悩みを乗り切ってゆこうとする私たち国民一般の目からすれば、そのような多種類の言葉をもって人々を区別してしまうこと自体が、公共の構成員である私たち一人ひとりが、国民の間に自ら区別または差別を持ち込んで、分断を助長してしまうことになりかねないからだ。

 

「権力」:他者をおさえつけ支配する力のこと。

そして、略して政権と呼ばれる政治権力とは、国の統治機関を動かす権力のこと。

より詳しく言うと、「社会集団内で、その集団の決定した意思への服従を強制することができる、排他的な正統性を認められた権力のこと」(広辞苑第六版)。

では、その一般の、他者をおさえつけ支配する力としての権力は何に根拠を持ち、何に拠って正統性を持つか。とくに政治権力は何に根拠を持つか。

 これは近代政治学政治学の根本原理として教えていることであり、それは統治され支配される人々の同意である(H.J.ラスキ「国家」p.9 岩波現代叢書)。

 ここに、「人々の合意」あるいは「人々によって合意されている」とは、権力行使の度に人々の合意を取り付けるということは現実的ではないので、この意味は、結局のところ、その者が掲げる公約が選挙で人々に支持されて選ばれた人々の代表が国権の最高機関である国会にて民主的に合議し議決して成立し定まった法律に基づかねばならない、ということを意味する。

 このことは逆に言えば、権力を行使することに人々が同意していない者(例えば官吏任用試験をパスしただけの役人)が行使する権力については、人々は服従する義務はないし、ましてやその者が恣意的に行使する権力、臨機の命令に依る権力行使についてはなおさらである。「行政指導」や「通達」はその好例だ。「要請」も同様だ。

 したがって、たとえば中央政府(の官僚)から発せられるこの種の臨機の命令や不明瞭な決定や指示には都道府県庁ないしは市町村役場の役人はそれに服従する義務は無いし、国民もそのような恣意的かつ臨機の権力の行使には服従する義務はないのである。

 

 権力の行使の根拠と正統性は、いずれも国民の権利を擁護しようとする考え方に基づくものであり、その考え方は「法の支配」にも通じる。

権力とその行使は、つねに人々の同意に依るものであり、公布され定まった法に拠らねばならない、とする考え方である。

 なお法律とは、社会の全ての人々に、例外なしに等しく、その行動を、その人の生死を制する力によって強制的に規制する決まりのことであることを考えると、法をつくることは最大の権力行使なのだ。

だから立法権は国家の最高権となるのである。しかし立法権は、ある特定の目的のために———たとえば選挙時、立候補者が有権者と交わした公約の実行・実現のために———行動する信託的権力に過ぎない。

有権者は立候補者に対して、その立候補者が掲げる公約を支持し、それを実現してもらいたいから、それを実現するために必要な権力をその候補者に信託または負託するのである。だから、政治家になったその者は、自らが掲げた公約を実現するためにのみ、有権者に信託されたその権力を行使しなくてはならない。

 つまり、国民は、無条件あるいは白紙で、権力を託しているわけではないし、ましてやその行使を容認しているわけでもなあい。

 また、このことから判るように、立法権を信託された者が、その権力を他者(例えば執行機関の官僚ないしは役人)に委譲することも放任することもできないし、主権者である有権者はそれを許してはいないのである。

 したがってもし有権者あるいは国民に公約していなかった事柄について立法したり、ましてや国民が反対している事柄について立法したりすることは、民主主義に完全に反する行為であるため、そんな権力を行使した者は、直ちに、あるいはいつでも、必然的に、有権者から負託された権力は国民によって、弁明無用で、剥奪されねばならないのである (ジョン・ロックp.151)。

 ただしここで特に注意しなくてはならないことがある。

人々は、その権力に服従するのも、単に服従せんがために服従するのではない。人々はその権力の作用によって、人々の目的、つまり自分たちの生命・自由・財産の安全な保護が達せられると信じるがゆえに、権力の行使あるいは支配に服従するのである(H.J.ラスキ「国家」p.2)。

 

「市民」:下記に定義する「自由」と「平等」そして「友愛」の精神をわが物とし、社会的義

務と責任を負うことを自ら同意した、権力に対してつねに懐疑的な、政治的に覚醒した人びとのこと。あるいは、自分たちの国と自分たちがどのように統治されるべきかについて発言権を持っていると自覚する政治的存在のこと(K.V.ウオルフレン「なぜ愛せないか」p.347)。

 したがってそれは、例えば、単に「◯◯市の住民」という意味ではない。

人それぞれが個人として、また人間として生きて行ける社会や国を作ってゆく上で、決定的に重要な概念である。

「新しい市民」:既述の環境時代において、二種類の指導原理を我が物とした、上記の意味での市民のことを言う。

「原理」:「社会」あるいは「自然」(共に、先に定義)の中を貫いてそれらを成り立たせて

いる、人智・人力を超えた理(ことわり)であり掟であり法則のこと。

あるいは、あらゆる現象と矛盾のないことを言い表していて、真なることを証明する必要のない命題のこと。

したがって、原理とは、人間の都合によっては変えることのできないもの

「原則」:「社会」と人間にのみ当てはまるもので、社会をよりよく、かつ円滑に成り立た

せるために、人間が、時には原理に基づき、また時には経験に基づき、意識的につくった掟であり規則であり作法のこと

人間がつくったものであるから、不都合ならばいつでも変えることはできるもの

「理念」:現実を評価する基準(物差し)であり、現実をある高みにまで高めるための目標

ともなるもの。したがって、ものごとに着手するとき、その進め方や打つべき手あるいは向うべき方向が判らなくなったり見失ったりしたときや、考えるべき方向が判らなくなったりしたときなどには、いつでもそこに戻って行くことによってその不明に対して答えを示唆してくれ、進み行くべき方向を再確認させてくれる羅針盤ともなるもの

「調和」: たとえば白と黒、表と裏、内と外、賛成と反対、上と下、北と南、右と左、天と地、連続と不連続、アナログとデジタル、肉体と精神、生と死、勉強と遊び、仕事と余暇、形式と内容、分解と合成、部分と全体、主体と客体、創造と模倣、時間と空間、偶然と必然、損と得、量と質、権利と義務、自由と平等、自由と規律、自由と拘束、自由と計画、個と全体、私と公、豊かさと貧しさ、善と悪、美しさと醜さ、歓びと悲しみ、愛と憎しみ、傲慢と卑屈、支配と服従服従と抵抗、圧政と隷従、自発と追随、多様性と共生、共生と循環、循環と多様性、見えるものと見えないもの、変えるべきものと変えてはならないもの、理系と文系、本物と偽物、真実と嘘、国民と政府、市民と国家、自由主義立憲主義、民主制と官僚制、愛国心国家主義唯物論と唯心論(観念論)、納税と徴税、グローバル(世界化)とローカル(地域化)、中央と地方、集中と分散、都市と農村、農業と工業、生産と消費、競争と共存、資本主義と社会主義、文明と文化、等々といったように、自然や社会や人間に関わる概念には、互いに相反する意味を持ちながら、それでいて切り離せない関係にあるものが無数にあるものである。

 その両者の間のありようは、意味は相反し、相対立し、相矛盾し合う関係にありながらも、よくよく考えると、相手を排除したり否定したりする関係となっているのではなく、むしろ、一方が他方の存在条件あるいは成立条件となっていて、一方がなくなれば他方も存在することも、あるいはその意味を保つことも出来なくなるという関係にあることが判る。すなわちその関係は不可分なのだ。また、状況や見方が変われば、一方がいつでも他方になり得るという関係にあることも判る。

 たとえば、白は、黒があるからこそ白としての意味を持ち、黒は、白があるからこそ黒としての意味を持つのであって、もしどちらかがなくなってしまったり、あるいはどちらかが存在していなかったなら、もう一方もなくなってしまうし、存在し得なかった。またたとえば、「悪」はいけないものだ、あってはならないものだとしてそれをすべてこの世の中からなくそうとしたら、そして仮になくなってしまったなら、そのとき、同時に、善も、「善」そのものも、その意味も失ってしまうのだ。

 そういう意味で、両者の関係は、互いに他方を内包している関係にある。

また、同じく両者の間では、ある緊張状態がつねに存在する、あるいは緊張状態をつねに強いられる。状況次第では、いつでも一方が他方になりうるからだ。

その緊張状態とは、時に、「牽制の状態」、「葛藤の状態」、「闘争の状態」、「危機を意識した状態」、言い換えれば、「そこに新たな創造や発展が生まれる可能性を秘めた状態」といった形で現れる。

 ただし、ここでとくに気を付けなくてはならないことは、上記のような対からなる2つの概念は、ちょうど弦で結ばれた弓の両端に位置する概念のようなもので、人の目には見えない両概念を緊張を持って結ぶその弦の上には、あるいはその両極に位置する両者の概念の間には、互いに他方の概念の意味を、程度は違いながらも内に持つ無限の数の状態が存在するということだ。

この意味は、たとえば、「白と黒」の対を取り上げたとき、完全な白と完全な黒との間には、白でも、限りなく黒に近い白もあれば、黒でも、限りなく白に近い黒もあるということである。

 このように調和とは、二つの対概念あるいは事物・状態の関係のありようが、「互いに独立あるいは自立」と「対等あるいは平等」を保ちながらも、「双方が、互いに他方の存在条件あるいは成立条件」となり、緊張を維持しながら、相手を排除したり否定したりするのではなく、むしろ、互いに補完し合いながら存在して、そこに新たな創造あるいは発展を生む可能性を秘めた2つの関係のありようのこと、と定義することができるのである。

 だから調和とは、よく言われるような、単なる「二項対立」「二律背反」の関係あるいは状態のことではない。「対立の構図」の中で、どちらか一方を選ぶというようなことでもない。また、単なる「中和」「融和」「中庸」「中道」の状態でもない。単に「バランス」「均衡」「釣り合い」をとった状態でもない。どっち付かずの「中途半端」な状態でもないし、単に「足して2で割る」というような折衷的なものでもない。互いにゴチャ混ぜにして「曖昧」にすることでもないし、物事を最終的に「玉虫色」にしてしまったり、「喧嘩両成敗」と正邪を曖昧にしてしまったりすることでもない。「折り合いを付ける」といった妥協することでもないし、「いいとこ取りする」ことでももちろんなければ、「馴れ合う」ことでもない。

 だから、この調和の関係にある一組から、単に二者択一的に一方を選択するというのでは両者の意味・本質を本当に考慮していることにはならない。

 たとえば、「経済か環境か」、「開発か環境か」、「景観保護か地域振興か」、「保護貿易自由貿易か」、「中央集権か地方分権か」、「資本主義か共産主義か」、「農業か工業か」、「大きい政府か小さい政府か」、「民営か国営か」、「憲法改正か改正反対か」といった問題とか、あるいはまた集団と個人との関係における「関係優先か個人優先か」とか、教育面における「画一教育か個別教育か」、「自由か規律か」、「体罰は是か否か」とか、医療面において、苦しむ癌患者に対していのちを止めることは「殺人か安楽死か」といったような課題に直面した際、単純に一方のみを選択するというのでは、目の前の状況の問題の本質を見据えたことにもならなければ根本から解決することにも結びつかない。それは両者を生かし、両者の事情を汲み取り、それを一段高い次元で統一させて解決を図る見方・方法ではないからである。

そしてこのことはとくにこの国の国会を含む議会においてとくに強く求められる。

互いに相手の意見に真摯に耳を傾けることで新たな発見、新たな成長があり得るし、それによって双方が発展し、その結果、それまでの考えから一歩も二歩も進んだ自分になり集団となりうるからだ。議論をする意義は正にそこにある。相手を尊重せずに、反対することや賛成することを前提にし、ただ互いに主張し合うというのは、議論でも話し合いでもない。そのような場は、たとえ歩み寄りが見えたかに見えても、結果的には、むしろ対立を深め、問題の根本解決を先送りしただけにしかならない。

 議論する場合には、ちょうど社会の圧倒的多数の人は、まったく健康な人と、不幸にも瀕死の重体あるいは危篤状態にある人の間のどこかの状態にあるのと同じで、議論する両者の主張の間には無数の「状態」あるいは「場合」があり得ることを考慮していなくてはならない。

 とはいえ、現実には、一組のうちのいずれか一方を、あるいはその両極間のどこかに位置するどれかを最終的には選択しなくてはならなくなる。

しかしその場合も、選ぶ過程において、選択から漏れてしまわざるをえない「状態」あるいは「場合」に対してもどれだけ思いを寄せたか、その程度によって、たとえ選んだ結果が見た目には同じように見えても、その選択に至る過程を見守る周囲の見方は異なり、結果、その後の全体の推移の仕方は、大いに異なったものとなってしまうのである。

 世によく問われる「バランス感覚」とは、このように、二極の存在を念頭におきながら、しかも、その間にも無数の選択肢があることを弁えながら、そのうちのどれかを選択できる判断力のこと、を言うのではないか。

 なお、調和という考え方を人間の社会の事物や世界の事物に適用し、調和の状態を拡大して行くには次のように考えればよいのではないかと思う。

一対となっている2つのAとBの関係において調和を実現させられれば、新たな第3のCとの調和は、先に対の関係にあったAとBのどちらか一方との間で実現させることを考えることで実現できる。

 こうして次々と、あるいは時々刻々、選択の対象として目の前に現れてくる任意の2つのAとB、BとC、そしてCとD、……に着目してそれぞれの間で調和を実現させて行けば、現実の社会あるいは世界を構成している諸要素は、いつしか、自然と、多くのものが互いに調和を達成した状態に近づいて行く、ということが期待できるからである。

 なお、ここで言う調和とは、文字通り「和を調べること」とも読めることからも判るように、聖徳太子が制定した十七条憲法(西暦604年)における「和」あるいは「和の精神」とは明確に違う。

和ないしは和の精神は、その第二条に「忤うことなきを宗とせよ」としていることからも判るように、正邪の区別も判断させず、喧嘩両成敗的な性格を本質とするもので、あくまでも統治者の立場から秩序を保つための呼びかけあるいは戒めと言えるものでしかない。

 それに対してここで私が訴える調和とは、既述のように、対の関係にある両者のありようや両者の意味していること、あるいはそのそれぞれの本質を吟味し、その両者を生かしながらも、一段と高いレベルで統一することを目ざすものである。

 そういう意味で、これからのこの国と国民にとって本当に大切にしなくてはならないものの考え方や生き方とは何かを探る上においては、政治面でも経済面でも社会面でも、そして教育面、福祉面でも、また人権を含む人間相互のあり方に関しても、これまでの上から呼び掛けられた「和」の観点からではなく、ここで定義するような「調和」に依拠した見方と判断の仕方こそが求められているのではないか、と私は考えるのである。