LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

4.1 本書で用いる主要用語の再定義———(その2)

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4.1 本書で用いる主要用語の再定義————————(その2)

「民主主義」:

 時代がどのように変わろうとも、民主主義の意味とは次の表現に尽きるし、次の表現のままに誰にも理解され、理解されたその範囲で、自由自在に活用されるべき概念である。

 それは、「“権力は人民に由来し、権力は人民が行使する”という考え方と、その考え方がいつでも、どこでも生かされるように構築された政治形態のこと」

その意味は民主主義と翻訳されたデモクラシーの語源から理解されることである。

デモクラシーの元はギリシャ語のdemokratiaであって、それは、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したものだからである。

 もちろんここに言う「権力」とは、既に明確にして来たとおりで、「他人を押さえつけ支配する力」のことである(広辞苑第六版)。

 政治家が権力を行使できるのも、国という共同体が成立した時点から全権力を掌握している国民から、選挙を通じて選ばれたからだ。それも、無条件に選ばれたわけではない。あくまでもその者が立候補した際に、“自分を当選させてくれたらこれを実現します”と言って掲げた公約を実現してほしいからとして選ばれたのだ。したがって、政治家が政治家となった際に行使できる権力は、自らが掲げた公約を、約束通り、国民の前で実現してみせるために必要な権力なのだ。

国民が合意しているのはそのためだけの権力の行使なのである。

 そもそも立法することは、国民すべてに、無条件に、「他人を押さえつけ支配する力」

を行使することであるから、最高の権力行使ということになるが、しかし、このことから判るように、政治家は、政治家になったからと言って好き勝手に権力を行使できるわけではない。言い換えれば、好き勝手に法律を成立させられるわけではない。

したがって、例えば、選挙時に公約にも掲げなかったことや、ましてや国民の大多数、少なくとも三分の一あるいは過半数が反対している法案を強行可決させるというのは民主主義議会政治に反逆する専制主義者としての行為なのだ。

 尤も、選挙時には問題にならなかったが、その後の社会や国の状況の変化によっては、政治的判断によってどうしても立法しなくてはならないということがままありうるが、その場合も、立法という権力の行使には、国民の合意が、先ず絶対に必要となるのである。

 つまり、権力の行使には、主権者であると同時に、被統治者でもある国民の合意が、常に、そして絶対に必要なのだ。

そしてそれこそが、“権力は人民に由来し、権力は人民が行使する”ということの真の意味なのである。

 いうまでもないことであるが、この民主主義の定義からも判るように、その国が民主主義の国、民主主義が実現されている国であるということは、その国の政治家は常に人民の声・要求に根拠を置いて、国民の代表として政治を行っている国である、ということである。またそれと共に、その国では、ただ任官試験にパスしただけの公務員と呼ばれる、官僚を含む役人一般には、一切の権力は与えられてはいないし、行使することも許されてはいない、ということでもある。

 だから例えば、官僚が、全国には幾万とその分野の専門家や知識人がいるにも拘らず、その中から、自分たちに好都合な答申をしてくれそうな専門家だけを恣意的に委員として、あるいは座長として人選しては「審議会」を設立し、その審議会を自分たちの思うままに仕切っては、「お墨付きを与えられた」として、自分の所属府省庁に利益をもたらす法案を作成しては、それを「縦割り」を前提とする全省庁の事務次官合意の上で閣議決定させるという権力行使は、日本を官僚に独裁させることで、最も非民主主義的な権力行使例と言える。

 したがって、もしそのような権力を、公式非公式に拘らず行使していることを目撃したなら、私たち国民は直ちにその事実を告発し、政治家には“それを速やかに正せ”、と要求すべきなのである。それは主権者としての義務でもある。

 なぜなら、主権者とは、国家の政治のあり方を最終的に決めることのできる権利を有する者のことだからだ。

 

 ところで、では民主主義とは何のために、何を目的として考え出された政治形態なのか。

いろいろな人種から成っている人類、多様な文化をもった民族、多様な欲望を持った人々の存在する中では、一人ひとりは、互いに違う人々、知らない人々の中にあって、他者に恐怖心や猜疑心を抱きやすく、時には万人の万人に対する闘争状態となりがちであるが、民主主義はそうした闘争状態を克服する手段の1つとして考え出されたものである。

 そこでは、どんな相手に対しても、その人が言っていることの正邪を判断する前に、先ずはその人が人間であるとして尊重し得ること、その人が抱えている状況や境遇を理解し共感し得ること、その人が語る意見がたとえ自分とは異なっても、それを語る権利はあるとしてその意見を意見として尊重できることが重要となる。と同時に、自分自身の独自性や才能をも相手に対して明確にしつつ、公共的なことにも参加し、他者と共に集団的な物語を築くことも重要となるのである。

 つまり民主主義とは、思想・信条・信教の自由、男女間・人種間・民族間の平等、強者・弱者の協働、連帯、博愛等々、私たちが普遍的価値とするものの真の意味を理解し、それを受け入れたときにだけ機能するものであって、その意味で民主主義とは倫理の実践のことでもある。

 それだけに民主主義は、他者の境遇や苦しみを理解する人間の側の度量にかかっており、互いに権利は平等なのだということを理解できるか否かにかかっている。

また民主主義はこうしたことができるように人間によって考え出されたものであり、それは手続きや制度を通して既述の普遍的価値を実現しようとする試みでもある。

 民主主義は、その意味で、歴史の中で生み出されてきた、人類による文明の最高の形態なのだ。

 この民主主義を実現し、それを維持するための最高の頼みの綱が国家なのだ。国、ではない。国家と国とは別物として、明確に区別しなくてはならない。

民主国家はきちんと機能すれば社会の気紛れや官僚の気紛れから究極的に市民を守ってくれる。民主国家が市民にそうした保護を与えることができるのは市民が頼りにできる確固たるルール(法)があればこそである。もちろんそのルールを作ることができるのは私たち国民が選んだ政治家だけである。このルールは政治家や官僚を含む国民皆が守らねばならないと同時に、市民の手で修正もできる。

民主国家は、官僚によるのではなく、仲介者としての政治家を通じて運営されている場合のみ民主国家となるのである(K.V.ウオルフレンp.342)。

 科学・技術・信教の自由の時代に生きている私たちではあるが、もし民主主義の価値観が世界で崩壊したなら、かつてない規模の戦争を目撃することになることは確実である。

だからこそ民主主義を守る価値は確実にあるのだ。今のところ、人間がみんなで生き残るための唯一の選択肢なのだから。

 その民主主義を守るためには、先ずは政治家も知識人も、そして私たち国民も、みな、今私たちが置かれている情況を明確に理解することが何よりも大事なこととなる。

政治家や知識人はとくにありのままの世界について考える責任があるし、その中で「可能な選択肢」を提示する責任がある。可能な選択肢を明確にし、「無理のある選択肢」を拒否することなのだ(ジャン=ピエール・ルゴフ)。

 

「自由」:ここで言う自由とは、「何でも自分の好き勝手にできる」という意味のものではない。それでは却って、自分が自分の欲望の奴隷になっているに過ぎない状態だからだ。

 また、自分を抑圧する者や拘束する力から解放された状態を表す狭い意味でのものでもない。むしろその両者を超えて、自分が置かれた現実の状況の中で、次々と自分の目の前に現れてくる事態や出来事に対して、それに対処しなければならないとなったとき、“自分にはこれしか選択肢はない”とか、“これしか選びようがない”と考えてしまうのではなく、先ずは無数の選択肢がそこにはあると考えられる心の柔軟さを持つことであり、また持てることである。そしてそのとき、その無数の選択肢の中から何を選ぶかについては、自分を利するだけではなく他者をも利する選択肢———そこに「調和」の考え方に基づく「博愛」「友愛」の精神が生まれる———を自らの判断で選びとることができ、さらにそれを選択した結果、目の前に現れる状況については、自ら責任を持って引き受けることなのである。

 その意味で、「自由」にはつねに「責任」が伴う。

 

「平等」:人間は、生まれながらにして、つまり裸で生まれて来たその状態において、国籍・肌の色・人種・民族・宗教・信教・性別の違いのみならず、一人ひとりの社会的立場や経済的立場の高低、それに持っている物(お金、財産、資格、肩書き、学歴等)の多寡や格差とは無関係に、みな同じ権利が与えられているということである。

 あるいは一人ひとりは皆、その人を「人間の個人」として見た時、生きる権利においてはもちろん、存在意義においても同等であるし、余人をもっては代え難い価値と尊厳を持っているという点においても同等である、とすることである。

 したがって、平等とは、単に「他者と外見や格好が同じであるべき」とか、「他者と同じことを同じようにすべきである」とかいうことでは断じてない。また「男として皆同じにすべき」とか「女として皆同じにすべき」ということでもない。

それではむしろそれぞれ個性も能力も異なる一人ひとりを、一つの規格あるいは枠に押し込めてしまうことだ。それでは今度は明らかに「自由」に反してしまう。

 そうではない。平等とは、精神の自由を保ちながら、上記の意味を各自が自分の頭で理解し、認識して、それをいつでも、どこででも行動に表せることなのである。

 自らの権利を主張する者は、他人の権利をも重んじなければならない。これも平等の精神から生まれる。自己の自由を主張する者は、他者の自由をも尊重しなくてはならない。これも平等の精神から生まれるのである。

「友愛」:互いにアチラを立てればコチラ立たずの関係にあるように見える自由と平等との間にあって、その両者を愛をもって、あるいは双方の存在価値と尊厳を認めることをもって仲立ちし、両者を調和のうちに成り立たせようとする心のありようのこと。

 それはちょうど、キャッチボールをする二人の間を行き来し、二人を結びつけるボールのような役割をなす、いわば心の媒介者である。

「生命の多様性」:人を含む多様な生物が多様な生き方をしている状態のこと。

 人を含めて生物は、どんな種どんな個体でもその基本的な成り立ちはみな共通である。が、その個性や能力そして作りはそれぞれが皆、わずかずつ異なる。生き方についても、外敵や環境との関係において、数が少なくとも種として生きられる生物もいれば、莫大な数でなくては種を保存できない生物もいる。有機物しか食べられない動物がいれば、無機物を有機物に換えて生きるしかない植物のような生物もいる。

人間についても、見かけは同じように見えても、性格も価値観も皆違う。

 しかし、この生命の多様性が実現され維持されていて初めて、人も他生物も、自然の中の個体としての生命として、あるいは社会の中の個人としての生命として生きられる土台ができる。

その意味で、それぞれの生命は、自分にとってだけではなく他者から見ても、互いに等しく掛け替えのない存在価値を持つのである。

 しかも、こうした生命の多様性がより豊かに保持されていればいるほど、その社会や自然は、内外からの撹乱———その中には攻撃や災害等も含まれる———に遭遇しても、そしてそのとき、たとえある数の生命が傷つき、また死んで犠牲になっても、社会の全体や自然の全体は、それまでの各種・各個体間の平衡を崩される可能性は低く、仮に平衡が部分的に崩されてもすぐに全体としての平衡を回復し得るのである。

 生命の多様性あるいは生物多様性とは、このように、内外からの撹乱に対する抵抗性を増し、生態系としての耐性と安定性、自然としての耐性と安定性、さらには地球上の全生命・全種の安定的存続を保障してくれる原理なのである。

 反対に、人間の経済行為によって、あるいは人間の利己的行為によって、多くの種が絶滅するようになればなるほど、「喰って喰われて」という食物循環の環がいたるところで寸断されてしまい、この「生命の多様性」が保証する生態系や自然の安定性は急速に、それも加速度的に崩れて行くようになる。

「生命の共生」:多様な生命が互いに生かし生かされ合って生きる状態のこと。

 誰が、あるいはどの生物が特別に生存する意義や価値があるというわけではない。どんな命も、生きる自由、生きる資格が、現在と現在に続く後世の自然全体から与えられている。

 このことから、地球上のどんな自然環境あるいは自然資源も、すべての命に、それらがともに生きるための、あるいはそれらが個体として生きられるための共有の財産として平等に与えられなくてはならない。

 またそのように多様な生命が互いに生かし生かされ合って初めて、彼等の頂点に君臨しているかに見える人あるいは人類も生き続けて行くことができる一条件が揃うことになる。

 生命の共生とは、このように、多様な生物が共に生きて初めて人も生きられるということを教えてくれる原理なのである。

「生命の循環」:ヒトを含む限りなく多様な生物が、種として共に生き、あるいは同じ生物

種が群としてあるいは個体として共に生き続けられるために、それらを一つの例外もなく互いに結びつけながら多様性と共生を同時に成り立たせてくれている生物全体のありようのこと。

それはちょうど、既述の人間世界における自由と平等の関係における友愛と同じ役割をなす。

 そしてこの循環こそが、自然界で、ヒトだけが特別な存在ではないこと、その一人ひとりはその人をその一部として含む多様な生物種とそれから成る膨大な数の生物群によってつねに支えられているということ、すべての生命は、皆どれも、「生きている」のではなく「生かされている」のだということを根拠づけるものとなっている

原理なのである。

「生命主義」:近代における民主主義を環境時代において止揚した民主主義のこと。

それは、人だけではなく他生物一般をも加えた民主主義ということである。

それだけに、近代の民主主義よりもはるかに高い次元の意識が求められる民主主義である。そこではもはや、人間の趣味や選り好みによる、たとえば、「ゴキブリはイヤ!」とか、「蛇や毛虫はイヤ!」などとは言っていられない民主主義である。

したがってそこでは、もはや、市民中心・人民中心という意味合いを持つ民主主義という表現は正しくはなくなり、生命主義とでも表現するしかなくなるのである。

「環境時代の科学」: 「近代」の科学は、見えるもの・計量できるもののみを対象としてきた。そこでは、フランシス・ベーコンが言ったように、なるほど「知は力なり」だった。その知は悪の力にも善の力にもなり得た。近代の科学は、その知あるいは知性の産物でしかなかった。知性は、事実を事実としてはっきりさせるという力であり、物を客観視した上で理論的に分析する能力であり、価値の問題には関わろうとはしないし、特にその物の価値を判断することは避けた。それだけに近代の科学は、例えば大量人殺し目的であれ、どのような目的にも奉仕してきた。

 近代という時代の科学とは、たとえばその代表格である自然科学をとってみても、それはあくまでも自然を観る無数の見方のうちの一つにすぎなかった。

それなのに、それは、客観的で、中立的で、普遍的な、唯一の正解をもたらすものだ、と科学者にも世間一般にも信じられて来た。

 そこでは、自然の中の多様な相互関連性・相互作用は無視され、一切の外乱が入らないようにして事象を最も単純化させた条件下において、部分を足し合わせればいつでも全体になるという仮説の下に、対象となる自然をバラバラに切断し、時間の経過を無視し、質を無視して、量的関係だけに着目してきた。

しかも近代の科学は、「資源は無限」、「空間は無限」という仮定を前提として、己の限界を知ろうともせず突き進んで来た。科学者も、その一人ひとりは、自分も、自分の遠い祖先も、またこれからの遠い未来の子孫も、いま向き合っているその大いなる自然に生かされて来たこと、生かされて行くことをも忘れて関心の赴くままに突き進んで来た。

 しかし、ポスト近代としての環境時代の科学とは、近代の科学とは明確に違う。

そこでは、自然あるいは生命一般は見えるモノと見えないモノとの統一物として存在していること、さらには、見ているもの着目している部分はあくまでも自然・社会・人間から成る全体の一部であり、その部分は全体とつねに統一されていることを明確に意識しながら、その対象とする部分を、全体との関係においてつねに動的に、つまり時間的変化を考慮する中で、分析と綜合を一体不可分にして、生き生きとした姿のままに、法則として認識しようとする、人間の自然とのよりよい共存の姿を求める行為となる。

 つまりこれからの環境時代の科学とは、単なる知性の産物あるいは科学者の単なる知的好奇心の産物としての科学ではなく、また軍需を含む産業界からの要請に基づく科学でもなく、その成果が自然と社会と人間に対して適用されたなら自然と社会と人類の遠い将来にわたってどういう結果がもたらされうるかを、その成果の限界を誰よりもよく判っている当の科学者自らが判断すると同時に、その成果を世に出すべきか否かを遠い人類の利益と大義の観点から厳正中立に審議するための第三者機関が設立され、その機関の下で公にされるべきか葬り去られるべきかの審判が下されるしくみを持った科学である。

 たとえばクローン(コピー生物)についてみたとき、それが人間であれ他動物であれ、自分の親が誰なのか判らない苦しみ、自分を愛してくれる者がいない辛さ一つ想像してみただけでも、その成果の適用の反人間的・反感情動物的な意味が判断できるのである。

 それは、核の抑止力の上に立った東西冷戦や核拡散防止条約の有名無実化に見るように、原爆や水爆、生物兵器化学兵器が一旦つくられてしまえば、消滅させることはほとんど不可能となるのに似ている。「覆水、盆に返らず」でもある。

 そしてそのことは、科学が技術以上に「諸刃の剣」であることを示しているのである。

 

「環境時代の技術」:これまでの近代の技術とは、近代の科学に支えられながらも、生産者の立場が優先され、生産者が作り出した製品を利用する立場の人をあくまでも「消費する者」と位置付けた上で、「生産性・効率性・コスト削減」を最優先する考え方の下に、そして「画一品を規格化しては大量生産」するという考えの下に、さらには、その製品は人が人間として生きてゆく上で本当に必要な物か否かということなど全く考慮することなく、捨てられた後には自然や環境はどうなるのかということなど一切考慮することなく、またその製品が生態系に撒かれたなら生態系はどうなるかということも一切考慮することなく、「とにかく商品として売ってしまえばおしまい」という考え方の下に、消費者には、「もっと便利に、もっと快適に、もっと豊かに」とその心理を煽り立てて消費行動を促しては、それを満たすために、地中深くから化石エネルギー資源や鉱物資源を掘り出して大量に浪費し、廃棄させる技術だった。そしてその結果、生じたのが既述の「環境問題」だった。

 環境時代の技術はそうした人類の死活に関わる環境問題を引き起こした技術と明確に異なる。というよりそのような技術のあり方とは正反対に、いたるところで遮断され、また分断された自然を、統合された自然へと再生し、修復し、復元することをつねに念頭に置きながら、先に定義された科学の諸結果を、特定の物の生産現場において意識的に適用する技術である。そしてそれは、「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男著作集 第1巻 勁草書房 p.139)とする旧来の技術の概念をも「環境時代」という新しい概念の中で止揚するものである。

 それは言い換えれば、究極的には、人間社会と自然を連結した一つの熱化学機関として蘇らせながら、地球表面上に溜まりに溜まった廃物と廃熱を処理し、地球そのものを最大の熱化学機関として蘇らせると同時に、その廃物と廃熱に付随して生じて地球上に溜まりに溜まった余分のエントロピーを宇宙に捨てられるようにする技術である。

 だからその技術は、人間の身の丈のスケールをはるかに超える巨大技術や宇宙「開発」技術でもなければ、同じく人間の身の丈のスケールをはるかに下回るマイクロテクノロジーでもナノテクノロジー(ナノとは1ミリメートルの100万分の1)でもない。どこか一部でも故障すれば全取っ替えしなくてはならないような、資源の大量浪費を不可避とする技術でもない。

むしろそれは、人間の誰もが持っている掛け替えのない体の一部の機関である「頭」を良く働かせ、「手」「指先」を器用に働かせ、「労働の歓び」「達成感」をもたらす技術である。それはむしろ、この国のかつての「匠」の「技(わざ)」、ドイツの「マイスター」の「技」に近い。そしてそれは、人間を全的な人間として成長させ、持続的な幸福をもたらすための手段ともなる技術である。

 もちろん、原爆や水爆、そして化学兵器生物兵器のように、ひとたびつくられ使用されたなら地球上の生物を死滅させかねないものであるはずもない。

 そしてそれは、詰まるところ、私たちが生まれ住んでいるこの地球は、この広大無辺な宇宙の中で、現在判っている限り唯一無二の奇跡の惑星、水の惑星であり、私たちが気軽に裸でも生きられる星は宇宙広しといえどもここしかない、ここでしか私たちは命を未来へと繋いでゆくことはできないという認識に立った技術である。

現代版「ノアの方舟」と思われる「宇宙開発」や「宇宙ステーション」などという発想はほとんど無意味、というより宇宙空間を廃物と廃熱で汚して有害だし、そのようなものに期待を抱かせるのは罪でさえある、と私は考える。

「これからの経済」:次に示す4種類の行為ないしは過程と、それら4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のことを言う。

 すなわち、①人間の共同体そのものを存続させるための、人の再生あるいは再生産にかかわる行為ないしは過程、②共同体の存続そのものを可能とさせる一次財の再生あるいは再生産のための自然の再生・修復・復元にかかわる行為ないしは過程、③共同体での生活の基礎をなす物質的二次財の生産に供する資源としての一次財を自然(生態系)から持続的に利用させてもらうための行為ないしは過程、④物質的二次財の生産・流通・分配・消費・廃棄あるいはその再利用に関わる行為ないしは過程と、それら4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間との社会関係と、同じく4種類の行為・過程を通じて形成される人間と人間社会の自然(生態系)に対する一方的な従属関係の総体のこと。

 なお、「近代」の経済とは、一般に、次のように定義されてきた。

 「人間の共同生活の基礎をなす財・サービスの生産・分配・消費の行為・過程、

ならびにそれを通して形成される人と人との社会関係の総体。」(広辞苑第六版)。

「経済成長」:これからの時代の経済成長とは、次の数式で表された結果のことを言う。

(上記に再定義された経済の活動によって、今年実現された個々の人間としての、あるいはその人間集団である社会としての、さらには国としての成熟度)−(同じく上記に再定義された経済の活動によって、昨年実現された個々の人間としての、あるいはその人間集団である社会としての、さらには国としての成熟度)

 ここに言う「成熟度」には、金銭の流れの「量」のみならず、経済活動によるその国の人々の幸福度や豊かさ感の増減の度合いや、男女間の権利の平等性の達成度や、自由や民主主義の達成度といったものが数値的に変換されたものも含まれる。また、経済活動による、その国の自然環境の汚染や破壊の進展度もマイナスの数値として含まれる。

 これまで「経済成長」という概念はGDP国内総生産)という指標を用いて表現されてきた。

ところがそのGDPには、金銭の流れを生む人間のすべての行為が含まれてしまっていたのだ。だからそこでは、例えば、環境を汚染する人間の経済活動も含まれていたし、資源を乱用する行為も含まれていた。例えば、まだ十分に使えるビルや構造物をあえて解体しては作り変えるといった行為がそれだ。それに、富の公正な分配ということも考慮しない経済活動も含まれていたし、社会の持続性ということも考慮しない経済活動も含まれてしまっていた。その反面、そうした経済活動によって、その国の人間の幸福度や豊かさ感がどれだけ増減したかとか、あるいは男女間の権利の平等性はどれだけ達成されたかとか、世界が普遍的価値と認める「自由や民主主義」はどれだけ達成されたかといったことが数値的に変換されて計量されるということはなかった。

 要するに、GDPとして計量されるのはあくまでも金銭の流れの「量」のみであって、しかもそこでは、そうした金銭の流れが起こる過程で、人間にとって、あるいは世界の人類にとってかけがえのないものの何がその国ではどれだけの量が失われたか、また、再生不能な自然や資源の何がどれだけその国では失われたか、という「人間にとっての価値」や「人類全体にとっての価値」の消失ということについては、一切考慮されるものではなかった。

 しかしそのことは、近代という時代を支配してきた経済のあり方が前述の定義で表現されるものであったこと、またその経済の成長を促してきたのが、これも既述した特性を本質に持つ「知性」に依る科学であったことを考えれば必然でさえあった。

 そしてそれだけに、近代の定義による経済の「成長」は、個々の人間にも、またその人間の集合体である社会にも、またその人間や社会を生かしてくれ、成り立たせてきてくれた自然に対しても、解決も克服も不能な難問を生じさせ、その結果、人間も社会も自然をも生き続けてはいけない「持続不可能な事態」を生じさせてしまったのも、また必然ではあった。

 つまり、このことから証明されるように、経済を成長させればさせるほど人類の存続の可能性を狭めてしまう近代の「経済成長」の概念は根本的に間違っていたと言えるし、そこには根本的な矛盾があった、ということだ。

 こうした事情から、「経済」という概念を前述した環境時代の経済の概念に止揚させると共に、「経済成長」の概念も、ここで再定義するものへと止揚させる必要があるのである。

 その「経済成長」とは、言わば、新たに定義された持続可能な「経済」の下での、人間としての、あるいは人間集団である社会としての、さらには国としての、量と質の両面を足し合わせた全体としての成熟度とでも言えるものだ。

 

「これからの開発」:つぎの2つを統合した、人間の自然と文化に対して働きかける行為のことである。

 1つは、着手しようとする対象を、自然界での食物循環を含む広義の物質循環が、これまでの資本主義に基づく経済活動によって分断されあるいは遮断されて縮小させられてきた生態系として捉えながらも、そこだけに着目するのではなく、その対象と周囲との関係を動的に、つまり時間の経過をも具体的に考慮しながら、人間の労働を通じて、互いに積極的に連結させて、常により広域の生態系へと拡大するよう、事業を進めること。

 たとえばその対象が開発が求められる土地ならば、その場合、その土地を単なる生産手段あるいは資本主義的価値を増やす手段としてだけ見るのではなく、地域固有の生命の多様性と共生と循環を担う生態系の一部として見直し、着目する土地とそれの周囲の土地との間での生態学的連続性をも積極的に促進する、ということである。

 1つは、旧時代の経済至上主義あるいは市場経済によって消滅させられあるいは埋もれさせられてしまった文化に光を当て、必要に応じて甦らせながら、そこの人々がそこの自然の中で培って来た伝統の文化と、その文化に込められて来た人々の智慧を学び、それらを積極的に活かし、またそれを洗練させて行くこと。

 この二種類の、人間の労働あるいは自然と文化への働きかけを統合する行為のことを、「これからの開発」とするのである。

 この意味で、ここで定義する「これからの開発」は、少なくとも従来の次の3つの「開発」の概念とは明確に区別される。

一つは、国連が提唱している、いわゆる「持続可能な開発」と訳されている「Sustainable Development」(SDと称する)なる開発。

もう一つは、日本の国法の1つである「都市計画法」の中で言う「開発」あるいは「開発行為」。

そしてもう一つは、市場経済を至上とする世界銀行アジア開発銀行、アフリカ開発銀行などの多国間開発銀行とIMF(国際通貨機関)そして投資家たちが優先する「開発」。

 参考までに、それぞれの中で「開発」は次のように定義されている。

SDでは、「未来の世代が自らの必要を充足しようとする能力を損なわないようにしながら、同時に現在の必要をも満足させられるような開発」。

都市計画法では、「建築物の建築または特定工作物の建設の用に供する目的で行う土地の区画形質の変更」(第四条12項)。

 市場経済至上主義者の開発とは、どのようなものであれ、一応は、「敢えてその物には希少性があるかのようにしては、それを、より価値ある商品として売りさばいては、利益の極大化を画策する行為」と定義できる。

 SDの定義は、余りにも抽象的すぎて、現実の諸問題に適用するには不向きであり、むしろほとんど無力と思われる。

 都市計画法での開発とは、一見して誰もが判るように、結局は、単に土地の区画を変え、土地をいじることでしかない。

 この都市計画法の「開発」の定義には、土地は人間がその上で生かされている土台であるという意識も全く見られなければ、土地を生態系の一部と見る視点も全くない。むしろ土地は人間の都合でどうにでもなるという傲慢な態度そのものが現れている。

 実際、この「開発」の定義に基づく人間の経済行為が政府の建設省あるいはその後継である国土交通省の官僚による許認可に因って、この国の世界に誇る美しい自然がどれほど傷め付けられ壊されて来たことか。そしてこの「開発」の定義こそ、田中角栄の「日本列島改造論」という土建国家構築構想の実現を可能ならしめ、日本を土建国家とすると共に、日本中の大都市・中小都市を、歴史と文化を掻き消し、どこもかしこも、「調和」させようもないスクラップ・アンド・ビルドの建築群から成る、金太郎飴的な、無機的で殺風景の空間とさせて来てしまった。

 またその結果として、日本の大都市に生きる国民の大多数は、今や、時間の大きな流れの中での自分の立ち位置を見失い、自分たちの心の拠り所をも失い、精神的に根無し草になってしまっているのである。

 

「進歩」:現実の暮らしあるいは経済活動の中で、時々刻々現れてくる無限の選択肢を前に

して、より多くの物事の相互関係について、その「調和」の実現を意識して選択できるようになってゆくこと。

 あるいは、自然と社会における物事をより広範囲の「調和」の実現に向けて自己そのものを支配しうる能力が高まって行くこと。

 あるいは他者の利益と幸福のために、先に定義済みの「自由」を欲しいままに使いこなせる人間になって行くこと。

「便利さ」:ある物事の目的を達成あるいは実現するために、もしもそれがなかったなら、最初から最後まで自分で考え、自分の手足を動かして対処しなくてはならないものを、あるいは自ら注意を払い続けなくてはならないことを、あるいは達成可能な範囲を広げたいと思うことについて、その目的を果たす全行程あるいはその一部を、他の機械あるいはシステムに代行してもらえることであり、また、その時に味わう気分のことであり、その気分の度合いのこと。

 

「安全保障」:これからの「環境時代」における「安全保障」とは、従来の「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」という意味の安全保障に加えて、「環境問題」の悪化に因って生じる自国の国土と国民の生命と暮らしの安全に対する安全保障をも意味するものとする。

 なお、ここに「環境問題」の悪化に因って生じる自国の国土と国民の生命と暮らしの安全に対する安全保障とは、例えば、地球温暖化・気候変動あるいは生物多様性の消滅に因って生じた自然大災害に対する安全保障をいう。その自然大災害の中には、干ばつや冷害や特定昆虫の異常大量発生あるいは巨大化台風被害による食糧危機、国民が免疫を持っていない新型ウイルスによるパンデミックの危機をも含む。

 なぜ安全保障の概念をこのように改めるかというと、「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」を意味するとされ、国家間でもそのように理解されて来たこれまでの安全保障の概念だけではこれからはとても不十分だからである。

と言うより、「環境問題」の悪化に因る国土と国民の生命に対する安全保障の方が、当初の意味での「外部からの侵略に対して、国家および国民の安全を保障すること」よりもはるかに身近で切実な問題となってきているからだ。

 なお、この場合、上記両者の安全保障を可能ならしめうるか否かの鍵を握るのが、この日本という国が本物の国家となり得ているか、ということだ。

その意味は、国土と国民にまさかの事態が生じたとき、国土と国民の安全を速やかに、かつ確実に守れる統治の体制が整えられているか否か、ということであり、言い換えると、この日本という国が本物の首相と本物の閣僚からなら本物の政府を持った本物の国家となり得ているか、ということでもある。

 それはさらに言い換えれば次のようになる。

 本来公僕である官僚・役人をコントロールするのが主要な役割でもある国民から選ばれた政治家たちが、もはや官僚への依存体質を止め、明治期以来、官僚たちが築いてきた政府の行政組織の「縦割り」を速やかに廃止し、外郭団体を含む全政府組織を風通しの良い組織に改め、国の統治上重要な全ての情報が、途中で握りつぶされたり滞ったりすることなく、合法的に最高な一個の強制的権威を持つ者にまで最速で届く体制を整えることなのである。