LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.5 地域経済のしくみ————————(その1)

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11.5 地域経済のしくみ————————(その1)

 では、経済のグローバル化(世界化)はもはや止め、その経済を国内化させ、さらには地域化させてゆかなくてはならないとした時、あるいは地域化させて行かざるを得ないとなった時、国内化され地域化されたその経済とは一体どのような姿のものとなるのであろうか。あるいはどのような姿のものとならざるを得ないのであろうか。

 なお、以下は、既述した、理念と目的と形を明確に持ち、未来を文字通り持続可能とする、名実ともに本物の国家と言える新しい国家(第8章)を前提に考察を進める。

しかし、その上でも、先ず土台に置かれねばならない考え方とは、先の「経済の新概念」において明らかにされた「環境時代の経済」または「新しい経済」(11.2節参照)となる。

 その「環境時代の経済」とは、もはや、「仕事がある」、「働き口がある」、「賃金がもらえる」、つまり「雇用が確保されている」ということよりも、先ずは誰もが「生きて行けること」、それも、「共同体の一員として積極的に、そして誠実に参加し協力することで、誰もが安心して生きてゆける」ようになることに主眼を置いた経済でなくてはならない、ということである。

言うまでもなくその経済とシステムの根底には「三種の指導原理」がある。そしてその場合も、人間にとっての基本的諸価値の間には階層性が存在しているという私なりの確信に基づき、それの実現をも明確に念頭に置いてゆく(4.3節参照)。

 そこで、本節では、これまで述べて来た「新しい経済」あるいは「環境時代の経済」の考え方を踏まえて、それを形に表わしたならどうなるか、それをできる限り具体的に示してみようと思う。

 そのあり方とは、予め、結論的に一言でいえば、自己完結を可能な限りめざした地域循環型の経済でありシステム、ということになる。

 実はこれは、これからの日本は、どうすることが、あるいはどうなることが国の基幹産業であるはずの農業が持続的に成り立ちうることになるのか、そしてその中で何がどうあることが田畑の生態系も甦り、農業者自身が誇りを持って営農を続けられることになるのか、そしてその農業を土台にして、どうあったら社会全体が回ることになるのかということを、自分で栽培した作物をお客様に買っていただいて生活を成り立たせるという暮らしをしてくる中で、しかもその場合も、さまざまな生き物が見せる行動を観察し、また様々な野菜が示す変化を自分の目と肌で感じとりながら、私の能力の及ぶ限りの考察を繰り返しては行き着いた結果である。

 そういう意味で、本節で提案する「環境時代の経済」または「新しい経済」についての具体的な姿は、決して机上の理論に基づく結果ではない。実践の中で考え、農産物という喰い物の流通の仕方やそれの処理のされ方をつぶさに観察しては着想し、到達した私の帰結である。そしてそれは、これまでの論理的で必然的な帰結でもある。

 なお、ここでは、想定する「地域」としては、現行の行政区域である市町村のどこでもかまわないのであるが、どうせならということで、私が提案する新国家を構成する「地域連合体」を前提としてみる(第8章を参照)。

 

 「新しい経済」では、既述のとおり、人間の意思や都合ではどうにもならない過程が支配的となる産業、あるいは、自然や生命と直接向き合うことになる産業は計画経済のシステムの中で扱うこととして来た。他方、人間の意思や判断、あるいは人間の都合というものをかなりの程度介在させることができたり、また生産や流通を人為的に制御したり管理したりすることが可能な産業は自由経済のシステムの中で扱うとして来た(11.2節)。

 この考え方によると、前者に属する産業は、農業・林業水産業・畜産業となり、後者に属するのが工業・商業・運輸業、通信業・サービス業ということになる。

しかしこのいずれの範疇にも含まれない、あるいは含めることが難しいと考えられる分野もある。医療や介護そして看護といった福祉の分野、そして教育や研究の分野である。その前者は人間生命の維持・継続・再生産と人権の維持という観点から、後者は人材育成・人格陶冶・啓発・未知の分野の開拓という観点から、地域共同体が共同体として安定して存続して行くためには共に不可欠な分野なのである。

 それゆえ、それらの両者の分野は、計画経済システムのあり方や自由経済システムのあり方とは切り離しながらも、別途考察してゆくことにする。具体的には、これらは、共同体内での「真の公共事業」の一環として遂行して行く(11.6節)。

 つまり、従来は、「全産業のうち、農業・林業水産業など直接自然に働きかける産業」を第一次産業と呼び、「全産業のうち、地下資源を取り出す鉱業と、鉱産物・農林水産物などをさらに二次的に加工する工業−−−ただしこの工業の中には、製造業と建設業も含まれる———」を第二次産業と呼び、「商業・運輸通信業・サービス業など、第一次・第二次産業以外のすべての産業」を第三次産業と呼んできたが、ここではもうそうした言い方もしないし、区別もしない。

何故ならば、常に全産業とその存続を考えるからである。

それにそうした従来の区別の仕方では、人間生命の維持・継続・再生産と人権の維持という分野や、人材育成・人格陶冶・啓発・未知の分野の開拓という分野が抜け落ちてしまうからでもある。

そもそも医療・介護・看護の分野も、教育・研究の分野も「第一次・第二次産業以外のすべての産業」としての第三次産業という範疇に括られていいはずのものではないのである。人間そのものにとって、もっとはるかに重要な位置を占めるものだからだ。

 それなのに、こういう分野が法的にも制度的にもきちんと整えられず、明治期の「殖産興業」以来、民法もほとんどそのままで、第二次産業だけが依然として特に重視されてしまうということが当たり前にされてきたところに、この国の発展の仕方の異常さと歪さがあるのだ。

この日本という国は国民の命と尊厳が軽く見られる国、人権意識が遅れた国、男女の権利の平等が未発達な国、多様性を受け入れられない国等々と、国連をはじめ国際社会から今もって見られ続けている大きな原因の一つがここにある、と私は考えるのである。

 また、ここでは、最近よく耳にするようになった、いわゆる「第六次産業」という言い方も考え方ももちろん採らない。 

 ともかく、こうして、「新しい経済」では、一つの地域の経済システムの中に、成立条件と運営のされ方が根本的に異なる産業が混在することになる。とは言っても、それらは互いにバラバラなのではなく、互いに「調和」して共存することになるのである(「調和」の再定義については第4章を参照)。

 

 とにかくこの日本という国は、既に述べて来たことであるが、歴史的に見ても、表向きは資本主義経済の国だとか自由主義経済の国とされては来たが、実態はそのいずれでもなく、かといって計画経済の国でもなく、実質的には、とくに戦後は、政府の各府省庁の官僚による統制経済の国で来た。それも、各府省庁の官僚が互いに勝手に自分たちが監督するとしてその専管範囲を決め、しかもその専管範囲には他の府省庁は踏み込まないということを官僚同士で暗黙のうちに決めては維持して来た統制経済の国なのだ。

そしてそこでは、資源の乏しいこの国では、「加工貿易」を国是として、工業生産力を果てしなく伸ばすことこそが国力を高めることだとして、工業を、それも輸出を最優先する工業を国の主流かつ支配的な産業として来た。

そしてその工業が発展しうるようにと、国中のあらゆる流通と金融と貿易の諸システムは整えられ、またそのための法整備も最優先でなされて来た。

 その結果、他の全産業は、その工業中心の体制に従属させられることになった。

とりわけ、農業や林業や畜産業そして水産業と、教育部門においてそれが顕著だった。

 農業や林業や畜産業そして水産業という産業は、本来、それなくしては国民は生きることさえ出来ないモノを供給してくれる産業であるにも拘らず、したがってそのことを考慮するなら農業や林業や畜産業そして水産業こそが他のどの産業よりもつねに大事にされなくてはならなかったはずなのに工業あるいは工業を中心に設けられたシステムに否応なく従属させられた。特に貿易面においては、工業製品をより多く、より安く輸出出来るようにするために、農・林・畜産・水産の産品はつねにその犠牲にされて来た。

 教育部門もしかりである。

 小中高校という学校教育の場は、本来、その若者が社会に出たとき、一人ひとりが自己を確立し、自信と誇りを持って生き抜いて行ける人格と素養を身につけるべき場であるのに、この国の政府文部省と文科省による教育は違った。

個性は均一であることが良いことだ。能力は抜きん出ている必要はなくほどほどで良い。人権意識や正義感などはむしろ無用。とにかく企業の経営方針に従順で、必要に応じて取っ替え引っ替えしても文句を言わない人間を画一的に、かつ大量に生産することだった。

 こうした状況は、そのまま中央政府の各府省庁間の力関係にも現れているのである。

 こうした産業間の状態は明らかに「互いに調和的に共存する」関係ではない。

そのために、そうした関係から成る各産業に属する人々は、自身の産業に本当の意味では誇りを持てず、また他の産業との共存意識も持てず、ただカネのためだけに働いているとした意識しか持てないで来た。その結果、そのような経済システムの下では、各産業は、自らが生き残ることが精一杯で、互いに支え合うという健全な形態はとり得なかった。

 実際、私の見るところ、日本の農業は、もうずっと以前から、衰退の一途をたどっている。それは単に農業従事者が減っているからとか高齢化しているからという理由からでは決してない。農業に生きがいを見出せないからだ。誇りを持てないからだ。

 そして林業林業で至る所、崩壊寸前となっている。日本の山村は、その大部分が消滅してさえいる。

 しかし、政府のこれまでのやって来たことからすれば、早晩、そうなることは必然であった、と私は思う。

 各産業間は互いに調和的に共存する必要があるとするのはそのためである。

 

 では、成立条件と運営のされ方が根本的に異なる産業分野が一つの地域社会の中で調和して共存する経済システムとはどのようなもので、またそれはどのように構築されるのか

 その答えを見出すために私の辿った思考順序は次のようなものだった。

 なおその際確認しておくべきことは、ここで考えることは、あくまでも「新しい経済」の具体的な姿と形である、ということである。したがって以下に示すものはあくまでもその具体的な一例である、ということである。

実際には、地域ごとに、気候風土や様々な資源や伝統の文化等には違いがあるだろうから、その地域での「新しい経済」の具体的な姿と形は、それらの特性を考慮して、その地域固有のものとして考え出す必要がある。

 そこでここでは、いきなり全産業を考慮した「新しい経済」の具体形を表現するのは困難なために、計画経済に含めるべき産業の代表としての農業と、自由経済に含めるべき産業の代表としての工業のみに着目し、その両者を中心にした「新しい経済」についての具体的な姿と形についてだけを考察してみる。

 その場合、既述して来た農業と工業の本質的な相違を念頭に置いてゆく。

すなわち、農業は、その地の気候、気象、地質、地形、生態系に依存せざるを得ない産業であることから、文化と同様、本質的に地域固有のものとならざるをえない産業である。したがって農業から穫れる産物も地域固有のものとならざるを得ない。

ということは、農業という産業とそれを巡る経済のシステムも地域固有のものとならざるを得ないということである。

 他方、工業はどうか。

工業は、本質的に、材料を含む物質的資源とエネルギー的資源とを外から取り込んで来ては、物質を人手か機械かによって加工しては材料あるいは資材をつくり、それを用いて新たな製品を作るという作業工程を主とする産業である。

その場合、資本主義的経済システムの社会では、企業が投資した金額以上の金額を利益として回収し得ることがその企業が「持続」し、「発展」し、「拡大」しうる絶対条件であった。

しかし、今考えているのは「人間を劣化させ、社会を崩壊させ、自然環境を破壊する性質を本質として持つ資本主義は終った」という前提の下での、環境時代での経済のシステムについてである。そしてそれは、自己完結を可能な限りめざした地域循環型の経済でありシステムについてである。

したがってここでは、これも既述のとおり、「儲け」「利益」というものは少なくとも第一目的とはしない。だから、そこでは、今、世界のどこの国も、外国を含む外部から呼び込もうとしている“投資する”という発想そのものを持たない。したがって、いわゆる投資家とか株主というものも存在しないし、存在し得ない。だから外資、すなわち外国資本というものもあり得ない。これまで当たり前としてきた、何よりも投資家や株主を最優先する企業ないしはそのための経営というもの自体、ここでは考えない。

 そしてその環境時代では、その社会を貫徹する原理とその原理に次ぐ原則を指導原理と指導原則とすることについても、既述(第4章の2〜4節)して来たとおりである。

 ということは、経済とそのシステムを考える上でも、先ずは、その指導原理の観点から「市民の原理」を超えて「生命の原理」が、「人類普遍の原理」を超えて「新・人類普遍の原理」が、そして「エントロピーの原理」から導かれる「人類存続可能条件」が、これまでの近代での価値原理とそれに基づく資本主義経済を止揚する形で実現が図られなくてはならない、ということになる。

 次いで指導原則の観点から、人間が集住する都市や集落に関しても、「小規模かつ分散の原則」と「経済自立の原則」と「政治的に地域自決の原則」が共に実現を図られねばならない、ということにもなる。

 いうまでもなくその「経済自立の原則」でいう経済は、共同体内で自己完結している経済である。それは必然的に循環的な経済でなくてはならない。そうでなくてはその経済はその地域の範囲を超えてしまわざるを得なくなるからだ。

 なお、以上の論理から既に明らかとは思うが、ここで念のために改めて強調しておかねばならないことがある。それは、以上述べてきたことは決して経済の保護主義化とか孤立化というあり方を狙うものではないということである。というより、むしろそうした見方をはるかに超えて、地球環境の蘇生を実現させて人類の永続を可能とさせるためには、《エントロピー発生の原理》に依拠して《生命の原理》を実現させる必要があるからだ、という理由に尽きるのである。

 このことから、工業に用いられる物質的そしてエネルギー的な資源についても、原則的には、すべてその地域の自然生態系が生み出してくれるものに限定されなくてはならない、ということが明確になる。このことは、工業も、その地域の再生可能資源と再生可能エネルギーに依存せざるを得ない、ということである。

 このことから、工業のあり方とその内容は従来とはかなり異なったものとなってくるし、異なったものにならざるを得ないのである。

これまでは、資源やエネルギーの乏しかった日本では、必要とするそれらについては、世界中のどこからでも輸入してきては、工業を成り立たせてきたし、またそれによって、地球全体の自然のメカニズムを壊し、人間が生きてゆくことさえできない環境にもしても来た。

 そこで、特に「先進国」と呼ばれている国に生きる私たち日本国民は、日本が本当に先進国と呼ばれるにふさわしい国であるかどうかはともかく————実は私は、日本は未だ真の「近代」にも至ってはいない、と見るのであるが(1.4節)————、ここで少し冷静に、あるいは理性的になって次の3つの問いを発し、その答えを国民一人ひとりがじっくりと考えてみる必要があるのではないだろうか。

 その1つ。

日常、テレビや新聞や雑誌に、毎日のように、繰り返しコマーシャルに登場してくる物品は、果たして、元々は生物としての私たちヒトが社会で「人間」として生きてゆく上で本当に必要なもの、不可欠なものなのだろうか、と。

 2つ目。

どんなに流行の最先端をゆく物や人の羨む高級な物品を手に入れたところで、そしてその時にはどんなに自己の欲求を満たし得たとしても、その物品は、時が経てば必ず古くなり、旧式にもなるものである。では、そうしたものを手に入れるために、自分の人間性を押し殺してあるいは犠牲にし、あるいは家庭を犠牲にし、他者との人間的な関係をも顧みずに、ひたすら企業に従順に働いてお金を得ることに執着することに、果たしてどれほどの意義があるのだろうか、と。

 3つ目。

果たして、私たちは、衣食住足りた以上のお金を得たところで、また「あれば便利」、「あれば快適」といった程度の代物を手に入れたところで、自身の「人間としての幸福度」は一体どれほど高まるものだろうか、と。

 

 実はこれら3つの問いを、一つにまとめるとこうなるのではないだろうか。

 産業界は、絶えず、彼ら自身が生き延びてゆくために、私たち人類(サピエンス)社会で「人間」として生きてゆく上で本当に必要なもの不可欠なものではない物なのに、それを“あれば便利”、“あれば快適”と喧伝し、さらには手を変え品を変えては“もっと、もっと”とメディアを動員してはそれらをコマーシャルに乗せ、私たちの購買欲を煽ってくるが、その時、私たちは、コマーシャルに流れるその物品を手に入れることに、またそのことに執着することに一体どれほどの価値があるのだろうか。果たしてそのようなものを手に入れて、私たちの「人間としての幸福度」は幾分でも高まるのであろうか。

 むしろ、私たちがそうした「流される」行動に出れば出るほど、私たちが人間として永続的に生きてゆく上で、あるいは私たちの子や孫たちが永続的に生きてゆく上でそれこそ本当になくてはならないもの、大切なものを却って壊し、また失ってしまうことになるのに、と。

 ここで言う「私たちが人間として永続的に生きてゆく上で、あるいは私たちの子や孫たちが永続的に生きてゆく上でそれこそ本当になくてはならないもの」とは、例えば、ゆったりと過ごせる時間。家族誰もが安心して居心地を確認できる家庭。他者との思いやりを持った人間関係。心身ともに健康な体。みんなで助け合い支え合って生きられる社会。私たちヒトを生かしてくれている自然。地球上の全ての生命を支えている食物循環を含む自然循環、等々である(7.4節を参照)。

 実際、人間の歴史を見ても、お金あるいは富を、必要以上に多く手に入れることに拘れば拘るほどに、その人間は概して不幸になって行っているように見える。また、民衆の心を無視して自身の野望の貫徹に執着する権力者の国家を見ても、いっときは威勢がいいようには見えても、結局は、その野望ゆえに、国を乱し、対立を生み、国民を不幸に陥れ、自らも不本意な死を迎えるということにしかならなかったのではないか、と私には見えるのである。

 

 こうしたことを真理として捉えるなら、もはや資本主義ではないし、これからの工業とは、またそこでの生産様式とは、「オートメーション・システムによる画一的大量生産様式」ではなく「大量の人間の協働作業による、多様な種類のものの多様な生産様式」とならざるを得ない。そしてその生産様式を支える技術とは、「等身大ないしは身の丈の技術」とならざるを得ない。それは言い換えれば、その物の中の仕組みがわかる技術、それが壊れた時には人間の手で直せる技術、そしてそれによってできた物を持つ人には作り手の思いを感じさせる技術だ。

そしてそれこそが、私は、その地域の再生可能資源と再生可能エネルギーと調和する工業の形態であると考えるのである。

つまりそこではもはや「ハイテク化」でもなければ「人工頭脳化(AI化)」でもない。

 ただその場合にも、地下資源や金属資源に乏しいこの国の場合には、どうしても地域社会にとって必要な機械や道具あるいは検査機器をつくるために必要となる資源あるいは材料は、外から取り寄せるしかないかもしれない。そしてそれなりの生産システムもどうしても必要となるかもしれない。

 そこで言う「どうしても必要となる資源あるいは材料」とは、たとえば、農業生産や林業水産業に用いる機械や資材、それにとくに医療関係の機械や器具そして検査機器、そして大災害時の被災者救済手段や復興作業のための重機等をつくるための資源ないしは材料、であろう。

しかしその場合でも、外から取り寄せる資源や材料の量と種類、そして機械類はあくまでも限定的でなくてはならず、主力はあくまでも再生可能資源と再生可能エネルギーとによる地域内生産となるのである。

 

 こうしたことから、地域の工業を含む全産業はその地域で得られる再生可能資源および再生可能エネルギーの量と質に大きく左右されることになる。ということは、それだけその地域の生態系を地域で独自にどれだけ活性化させ得るかということに大きく左右されることになる、ということでもある。なぜなら、再生可能資源および再生可能エネルギーは、結局のところ生態系が生み出してくれるものだからだ。

 したがって、その量と質を向上させるには、これまでのように生態系を放置しっ放しにしたり、汚染したり破壊することに無頓着であったりしては無理であって、むしろ地域生態系の全体を計画的に積極的に活性化させ、豊かに蘇らせることが同時並行的に必要となる。そうすることにより、より多様な自然資源を、その生態系からより安定的に、より多く、繰り返し確保できるようになるからだ。

 その際、その生態系を実際に活性化できる産業は、直接的には林業であり農業であり畜産業であり、あるいは水産業となる。そしてそのとき、その林業と農業と畜産業と水産業生態系を活性化するのに用いる機械や道具あるいは資材を提供するのは工業となるのである。

商業やサービス業はその場合、林業・農業・畜産業・水産業と工業との仲介をすることになる。

そしてその際、その生態系を活性化するのに用いる栄養は、林業・農業・畜産業・水産業と当該地域のすべての人々の暮らしの中から出て来る廃物であり排泄物となる。

 施された廃物や排泄物は、大気と水と一緒になって、その地域の生態系という熱化学機関の中を作動物質となって循環する。その循環を円滑にするためには、これまでその循環を遮断していた巨大構造物は撤去されるか、その構造物を作動物質が通過できるような工夫が必要となる———こうした作業も、後述する「真の公共事業」として行われる———。

 こうした努力によって、これまで小規模に分断されていた生態系は互いに循環によって連結して大きな生態系となる。その中で大気と水と栄養が、より大量かつより広範に、しかも安定的に循環するようになる。

 私は、こうした努力の繰り返しによって、気象をも安定性を取り戻させ、これまで気候変動の中で生じるようになった気象の局地化や局時化という現象も次第に解消されて行くようになるのではないか、と推測するのである。なぜなら、大気の動きも、地上の生態系の状態と密接に連動しているはずだからである。

 こうしてそれぞれの地域の自然はさらに互いに連結しながらいっそう広大な自然へと甦り、甦ったその自然は、大気と水と栄養を広域で、遮断されることなく循環することで、主に人類がその経済活動の中で発生させる莫大な量の余分なエントロピーを宇宙へと捨てさせてくれて、地球上のエントロピー量は一定に保たれるようになる。

そしてそのことは、必然的に、温暖化を抑え込み、同時に生物多様性の消滅を進ませないようにしてくれることを意味するのである。

 その結果、地球上の自然は、世界各地域に、人間と他生物が生きて暮らして行く上で必要充分な量の資源(この中には、農産物も林産物も水産物も畜産物もすべて含まれる)を持続的かつ安定的に生み出してくれるようになる————もちろんそこでは、まだ喰える喰い物を大量に捨てる、という文化もなくなる———。

 以上のこれが、槌田敦氏の言う、「自然のなかでの循環と社会の中での循環を、資源と廃物によって循環的に結合させる」(槌田敦「熱学外論」朝倉書店 p.166)ということの本当の意味なのだろう、と私は解釈する。そしてこれにより、人が生きて行く上で必要不可欠な衣食住を満たす資源も、社会を維持して行く上で必要なすべての資源も、持続的に手に入れられるようになるのである。こうして社会のすべての人々の暮らしもすべての産業も、この資源を活用させてもらうことで持続的に存立できるようになるのである。

 以上が、成り立ちにおいて本質的に異なる農業と工業という産業間での、「物質」面に着目した調和の成立のさせ方である。

 しかし、調和を成立させるには、もう一つ、「お金」の面でも考えておかねばならないことがある。

 それは次のようなことである。

 計画経済に属する農業に従事する人たちは、自分の労働を提供することで地域連合体から報酬としての賃金を受け取ることになるが、その賃金は地域通貨の形で受け取るのである(11.7節を参照)。そしてその地域通貨という現金が彼等の生活のすべてを支える所得となる。

 言うまでもないことだが、共同体としての地域連合体が支払う賃金の原資は、すべて、住民からの納税に拠る。ここで納めるべき税とは、住民税、環境税、固定資産税の三種である。

これまでこの国ではずっと納税を義務づけられて来た、例えば「所得税」「法人税」や目的税としての「ガソリン税」あるいは地方税としての「健康保険税」といったものはもはや「環境時代」でのこの「新しい経済」の下では消滅する。

 そしてその納税も、原則として地域通貨に拠るとする。ただし、住民の生活状況や都合により物納あるいは自己の労働を提供することをもって納税とすることもできる、とする。

 計画経済下に働く人々は、地域通貨という形で得た現金をもって自由経済システム下にある工業、商業そしてサービス業から自分の望みの物を買うのである。

 一方、自由経済に属する工業に従事する人々は、その自らの産業に従事することで得る、同じ地域通貨という形での現金をもって所得とする。自由経済下に働く人々はそれをもって自分の必要とする物、欲しい物を買うのである。

 以上が、農業と工業という観点のみから見た、一つの地域社会の中に成立条件と運営のされ方が根本的に異なる二つの経済システムが互いに「調和」し合って存続できるためのあり方、ということになる。

 林業や畜産業そして水産業と工業との「調和」の成り立たせ方についても、これまでの農業と工業の観点のみから見た方法と同様にすればよいのである。

「自然は毎日十分に我々の需要品を生産する。各自が必要量以上のものを取らなければ、世界に貧はないであろう」(「ガンジー聖書」エルベール編 岩波文庫 シューマッハー 「スモール イズ ビューティフル」講談社学術文庫 小島慶三、他訳p.51より転載)とはインドのマハトマ・ガンジーの言葉であるが、これは正に私がここで言う自然と人間とのあるべき関係としての「新しい経済」と重なり合うように思われるのである。

 以下、「地域経済のしくみ」の(その2)に続く。