LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.6 多様な職種と「真の」公共事業

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11.6 多様な職種と「真の」公共事業

 今、経済が低迷し、あるいは行き詰まっている多くの国々では、人々は「雇用の創出あるいは拡大」を求めている。そしてそのことだけが強調され、叫ばれているように私には見える。

 一般に、「働く」あるいは「仕事をする」という言い方で表現される「労働をする」とは、精神労働であれ肉体労働であれ、その区別とは関係なく、果たして人間にとってどんな意味を持っているのだろうか。そして人が「労働」するのは「お金をもらう」ためだけなのだろうか。もしそうだとしたなら、お金をもらって、そのお金を何に使い、何をしよう、あるいは何を満たそうというのだろう。

 今、仕事がなく、少しでも早く現金収入を求めている人にとっては、「とにかく、仕事があるだけでも助かる」という心境なのであろうが、「雇用の創出あるいは拡大」を求めるにしても、「仕事」を求めるにしても、「人が労働(仕事)をする意味とその労働(仕事)の役割」についてはもう少し考えられていいのではないだろうか。

 私は、日々、農作業をしながら、このことも考えさせられていた。

 以下は、E・F・シューマッハー著「スモール イズ ビューティフル」(講談社学術文庫)に拠る—————。

 富の基本的な源泉が人間の労働である、という点については、誰しも異論はないところであろう。

ところが、現代の多くの人々は、経済学者も含めて、「労働」や「仕事」を「必要悪」ぐらいにしか考えていない。

雇い主の観念からは、労働は所詮1つのコストにすぎず、これについては、例えばオートメーションを取り入れて、理想的にはゼロにしたいところである。

労働者の観点からは、労働は「非効用」である。つまり人の欲望を満たしうるものではない、とされる。むしろ働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。

したがって、雇い主の立場からすれば、理想は雇い人なしで生産することであるし、雇い人の立場からすれば、働かないで所得を得ることである(同上書p.70)。

 このような態度が理論と実践(生産現場あるいは労働の現場)に及ぼす影響は甚大である。

仕事についての理想が仕事を逃れることであるとすれば、「仕事を減らせる」ならどんな方法でもよいことになる。

 オートメーションは、人間の労働を最小限に減らせる例である。ここでの仕事を減らせる方法は分業である。それも、人類が大昔から行って来たような通常の分業ではなく、一つの完結した生産工程を分割して、完成品を高速度で生産できるようにする分業である。この分業では、個々の労働者は、そのための訓練もほとんど要らないし、しかもまったく無意味な、あるいは頭を使わない手足の動作だけを繰り返せばよいのである。

 しかし、雇い主が、仕事というものを、労働者にとって無意味で退屈で、イヤになるような、ないしは神経をすり減らすだけのものにすることは、犯罪すれすれのことをしていることなのだ。なぜなら、そうした状態を長く続かせることは、労働者その人の精神を病ませることになるし、また、労働者のそれを和らげられないままそこから抜け出せないような状態にしたら、その人を死へと突き落としかねず、そうなったら、遺された家族には計り知れない悲しみや苦しみを与える結果となりかねないからだ。

 同じように、労働者が、働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることだと考えることは、人生の基本的な真理を正しく理解していないことを示している。その真理とは、仕事と余暇とは互いに相補って、生という人間の誕生から死へと至る一つの過程をつくっているのであって、二つを切り離してしまうと仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまうということである(p.71。なお、これについては4.1節にて、私の提案する「調和」の定義をも参照されたい)。

 人間性は主に仕事を通じて培われる、とはよく言われる。

その意味はこういうことである。

———仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。仕事は人間の自由意志を正しい方向に向けさせ、人間の中に潜む野獣を手なずけて、よい道を歩ませる。仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上させる上で最良の舞台となる。

仕事というものの性質が正しく把握され、実行されるならば、仕事と人間の高尚な能力との関係は食物と身体との関係と同じになるだろう。

 人間は仕事がまったく見つからないと絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではない。いま述べたような、規律正しい仕事だけがもっている、人間を豊かにし、活力を与える要素が失われてしまうからである(p.72)。

希望を持てることは、人間が生きてゆく上で、是非とも必要なことなのである。

 以上がシューマッハーに拠る「人が労働(仕事)をする意味とその労働(仕事)の役割」についてであるが、「経済」の定義を確認した場合と同様に、やはりここでも、「お金」という物は、そこにはあらわな形ではどこにも現れて来てはいないということにはとくに注意する必要がある。

それは、人間が労働するということの深い意味は、そして労働の本来意味するところは、貨幣経済社会であろうとなかろうと、あるいは資本主義社会であろうと社会主義の社会であろうと関係ないことだということである。

 現代のほとんどの経済学者たちが、そして彼らに影響を受けた私たち一般社会の人々も、そして政治家たちも、雇用ということ、そしてひたすらそれのみに拘るということは、雇用されればお金がもらえる、そうすればそのお金で生活できるようになる、あるいはそのお金で欲望を満たすことができるようになる、ということが、そしてそのことだけが、各々に暗黙のうちに理解されているからなのであろう。そしてその場合、「生活できる」あるいは「欲望を満たせる」の意味は、実は「消費できる」ということと同じ意味なのである。

 実際、私たちが「生活水準」を測る場合、多く消費する人が、消費の少ない人よりは「豊かである」という前提に立っていることはそのことを物語る。しかし、よくよく考えれば判るように、その消費の仕方と豊かさの関係も、消費支出に占める食料費と住居費の割合が少ない人ほど「豊かである」と見直されるべきなのだ(暉峻淑子「豊かさとは何か」岩波新書p.96)。

ところが現代のさまざまな経済学も、依然として、消費が経済活動の唯一の目的であると考えているのである。

 そしてその消費を際限なく拡大できるように生産することが経済が発展することである、として来た。GDP国内総生産)、GNP(国民総生産)という概念はそれを測るために生まれたのである。そのGDPという数値を上げるために、陸・海・空を通じて資源を世界中からかき集め、生産力を果てしなく伸ばしながら商品を生産し、関税障壁という垣根の高さをできるだけ低くしながら、同じく陸・海・空を通じてその商品を世界中に流通させてきた。

 その結果生んでしまったのが地球の温暖化と気候変動の激化という現象であり、世界規模での貧富の格差とその拡大という現象であり、各地でのテロを含む紛争ないしは迫害の拡大という現象であった。そしてその結果生じたのが難民の急増という現象であり、その人々の受け入れをめぐって生じたのが受け入れ国側での国内と国家間での対立と分断と、それに因るポピュリズムの台頭という悪循環の現象なのである。

 経済の成長を促進し、豊かさを際限なく実現しようと追求して来た結果が、人類が生きて行くことさえできないこうした連鎖的事態を生むことになろうとは、何という皮肉、何という矛盾であろう!

 だから、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツGDPについて指摘するのである。

————GDPはそのように、環境汚染も資源の乱用も考慮には入れてないし、富の分配の仕方も社会の持続性ということも考慮してはいない、問題だらけの数値なのだ。したがってその数値をもって「経済の成長」を考えるのは間違いだ。経済における成長ということについては、もっと本質的なことを考えなくてはいけない、と。

 私は、しかし、人類が、歴史の中で、豊かさを望み、それを実現しようとしたこと自体には過ちはなかったと思う。そうではなく、求める豊かさにも、大きくは物質的豊かさと精神的豊かさの二種類があること、その両者をバランスさせながら実現させて行かないと真の豊かさを実現したことにはならないだけではなく、かえって解決困難な様々の難題を生むことになるということに気付かなかったそのことこそが人類の大きな過ちだった、と考える。

 そのことに気付こうとしなかった分岐点はデカルトにまで遡る。彼は「近代」というその後資本主義が支配的となる時代の思想や価値観を確立する上で、文字どおり決定的な役割を果たした。

彼はつねに世界を「個」としての自分を中心に捉えながら、ガリレオと同じような宗教裁判にかけられるのを避けるために、科学的認識方法を世に提唱する上で、感覚的なものや精神的なもの、あるいは命を議論の対象とすることは避け、物理的な実態のみを扱うと宣言したのだ(槌田敦エントロピー現代書館p.74)。自然を、あるいは物事を、その中での現象相互の関係を絶ち、「要素」に分解して分析的に解明すればそのものを理解できる、とする手法は彼の提案によるものだ。

 ではこうしたことを教訓とするときこれからの時代において求めるべき豊かさとは何か。

結論を先に述べれば、私は、多様性こそ豊かさに通じ、また安定性を保障してくれる、と考える。

たとえば「生物の多様性」がそうだ。それは、生態系としての耐性と安定性、自然としての耐性と安定性を保障してくれる原理だ(4.1節の定義参照)。人間社会においてもそうだ。様々な個性や様々な能力が積極的に育まれ保障される社会ほど豊かだし、その社会は内外からの様々な働きかけや撹乱に対して適応性があるし耐性があるから安定してもいる。

そしてそのことは労働や仕事のあり方についてもまったく同様に当てはまる。

 ところがこの国は、中央政府自身がそうした真理とはまったく逆行する教育行政、つまり同じようなものの考え方をし、同じような価値観を持ち、同じように振る舞う人間ばかりを大量生産し続けて来たし、今もそうしている(10.1節)————そしてその教育行政は、自らの政権には正統性のないことを知って、国民に恐怖を抱いた明治薩長政権からのものであり、それが組織の記憶として文部省そして文科省へと脈々と受け継がれて来ているのだ、と私は思う————。その結果、今やこの国は、国民の大多数が「この国が豊か」とは心からは感じられない国になっているし、むしろ、この国の豊かさの実態とは、ひとたび社会的弱者になるや、ただの幻になってしまう豊かさであり、だから、誰もがそうならないようにと強迫観念に囚われているのだ。

 労働あるいは仕事こそが、本来、人間生活を豊かにし、人間を幸せにするためにあり、その労働のあり方あるいは仕事の質こそが、生活のあり方を左右し、人間の生き方に大きな影響を与えるものなのだ(暉峻淑子「豊かさとは何か」岩波新書 p.109)。

そしてその場合、人は皆、個性も能力も本来多様であることを考えるなら、労働あるいは仕事の種類が多様であればあるほど、より多くの人は、より自分に合った労働あるいは仕事を選択できることになる。

 そこで言う労働のあり方あるいは仕事とは、少なくとも、機械に使われるだけの労働あるいは仕事ではない。全体工程の中のごく一部を、歯車のように、そして果てしなく同じ動作の繰り返しによる労働でもない。労働力を単なる商品と考えるようなシステムの中でこき使われ、効率を上げるために追い立てられ続ける労働でもない。自分が手がけた製品が社会に出回ったとき、それが誰が関わった製品なのか見向きもされないような関わり方をする労働でもない。作り手の思いも無用とし、使ってくれる人の状況を思いやることも無用とする労働でもない。製品化する過程で関わっておきながら、それが壊れたり故障したりしたとき、自分でも手も足も出ず、全取っ替えするか捨てるしかないつくり方に関わるような労働でもない。

 そうではなく、既述のように、その仕事に従事し労働することによって、その人の創造力を含むさまざまな能力を最大限に引き出すような仕事。活力を与え、やりがいを感じさせ、誇りを抱かせ、その人をして邪悪な道に走らせず、よい道を歩ませるような仕事。一つの仕事を他の人たちと共にすることを通じて、自己中心的な態度はよくないと気付かせるような仕事。そして、それに従事することによって、社会に、まっとうな生活に必要な財とサービスをつくり出すような仕事(シューマッハーp.71〜72)。

 こうした質の仕事あるいは労働は、現行の大量生産システムあるいは巨大システムの中の仕事あるいは労働とは対極を成すことは明らかであろう。

それだけにそれは、必然的に、これまでの大量生産システムや巨大システムを否定することになり、より多くの人間の手で生産するあり方を要求するようになる。

 こういうことを言うと、すぐに、次のような反論や反駁が、とくに現行経済システムの中で莫大な利益を上げている大企業や既得権を享受している階層から来るだろう。

“では、これまでの企業や産業はどうやって経営を成り立たせて行ったらいいのか”、と。

 でも、ここは、読者の皆さんにはよく考えてみていただきたい。そしてこのことは決して忘れないでいていただきたい。

それは、既述して来たような特性を本質として持つ資本主義経済を発展させて行くことだけ、そしてその中では化石資源を湯水のごとく消費しながら、たとえ雇用を拡大させても、労働者を全生産システムの中の単なる一歯車として安くこき使うあり方だけを続けて行ったなら、必然的にこの地球も人間自身も駄目にし、早晩、私たちは、そして私たちの子孫は、生活してゆくどころか生きてゆくことさえできなくなるということを、である。

 つまり、これからの仕事あるいは労働のあり方とは、ただとにかく誰にであろうと、作った「商品」を売りさばけばそれでよしとするものではなく、誰のためにそれをつくるのか、誰のためのサービスを用意するのかをつねに明確にしながら、それを適正規模で生産し、生産した物を最短距離で流通させ、互いに適正規模の消費をしながら、人間としての満足を極大化しうるようなあり方、ということになる。

 当然ながらそうした仕事あるいは労働のあり方は、生態系のあり方や自然の本来のあり方とも「調和」するだろうし、したがってエントロピーの発生を極小にし、「生命の原理」の実現に近づくものともなるはずである。すなわち指導原理を実現する仕事あるいは労働のあり方になる。そしてその仕事あるいは労働のあり方は、いま私たち人類が直面している最大の課題である地球温暖化あるいは気候変動と、生物多様性の消滅の進行という事態をゆっくりではあるが緩和させ、やがては近代の産業革命前の地球の状態へと回復させてくれるのではないか、と期待するのである。

 そこで、以上のことを考慮すると、地域連合体を想定したとき、そこでは、具体的に、次のような職種が考えられるのである。

 

表−11.1 例としての地域連合体社会で想定される職の種類

 

国内

での職

生活の支援・補助・助成

各種産物・手作り物品の運搬・分配

農産物、水産物、畜産物、農機具、中小機械類、工具・道具類、住民・観光客の南麓内部での移動時での輸送や運搬

エネルギー供給

電気・飲料水・ガス・湯の住民各戸への供給。資源の再利用のための分別と資源化

保育・教育

職業訓練

保育園、小学校、中学校、高校、大学、介護、看護等の各種学校。各種職業訓練校。自然環境(生態系)再生指導員養成。

各種店舗

・各種事務所

各種商店(八百屋、魚屋、金物屋、菓子屋、呉服屋・洋品店、飲食店、趣味・手芸・絵画・彫刻等の美術展、楽器店・民芸品店)。

預金、金融、税務、会計等の事務所

各種災害救助

と警備

地震・火災・暴風雨・水難・雪崩・山岳遭難救助。森林警備・自然保護と警備。環境警備(有害廃棄物不法投棄等)。

公務(議会、役所)

地域生態系の再生・復元の全体計画と実施(地元森林の再生をも含む)。温室効果ガス排出を抑える住民全体の新生活様式の立案と実施(自動車がなくても生活でき、自然エネルギーだけで住民の暮らしが成立する地域内自己完結小規模集落社会の実現に向けて)。子どもたちに“生きる力”を付ける地域教育の計画と実施。人口増を実現させる教育を含めた綜合計画の立案と実行。電気・水道・ガス・湯の地域内自給自足を実現する計画の立案と実施(家庭ゴミの焼却に因る発電とその熱で沸かした湯の各戸への配給。家畜の糞尿の醗酵によるメタンガス生成とその利用。地域の河川を利用した小水力発電の集合)。暮らしと農産物生産と生態系再生の一体化計画の立案と実施(生活排水と屎尿の有効活用。)。住民の保険・医療・介護の体制づくりとその実施、等々。

教養・娯楽

音楽・詩・絵画・書・工芸・陶芸・郷土芸能・演劇・芝居・等

物づくり

道具づくり

農機具・金物・刃物・工作機器・医療機器・大工道具、等々

生活必需品づくり

住まい。衣料品。家具。食器・灯り等の生活調度品。各種食品加工(味噌、醤油・豆腐・酒・ワイン・ビール・乳製品等)。紙。織物。染め物。塗り物。炭。薬。化粧品・革製品。ワラ縄等。

民家の移築。福祉機器。公共施設(文化施設を含む)。商店の木看板。工芸品・陶芸品等々

燃料施設、エネルギー施設づくり

風車(風力発電装置と施設)。水車(水力発電装置と施設)。バイオガス生成装置と施設。生活排水と屎尿の合併自家処理槽。植物からの油(食用油、灯油、燃料油)生成装置と施設。炭焼き窯。焼き物用の窯、等。

農業

米。野菜。小麦。大麦。大豆。ソバ。果物。綿花。桑。薬草等々。

林業

植林(とくに広葉樹)。混交林の育成。下草刈り。枝打ち。間伐。伐採。木材の搬出。木材の皮むき。木材の乾燥。製材。炭焼き。

水産業

渓流魚の養殖。清流魚の育成。回遊魚の養殖。鯉、ナマズ、ドジョウ、タニシ類の養殖。

畜産業

養鶏。養豚。酪農。養蚕。山羊、羊、兎の飼育等。

真の公共事業への参画

社会福祉事業への参画

住民の日常の健康管理。悩み事相談。保険・医療・介護。検査・治療・手術。高齢者・身障者・精神障害者・難病患者への対応。

移住者・移民・難民(政治的紛争からの難民、気候難民をも含む)への自立できるための対応。

人材育成事業、研究活動の参画

三種の指導原理を理解しながら、当地の自然・歴史・文化を教え、当地域社会と国と世界に貢献できる人材の育成。

温暖化防止と地元生態系(生物多様性)の再生事業への参画

森林:混交林とするための植林。間伐。下草刈り。枝打ち。伐採。搬出。法面でコンクリート被覆をはがし、植物による法面崩壊防止強化。大規模林道と森林地帯を通る高速道路の廃止と森林への復元(自然循環を回復するため)。

農地:土着菌と落葉と堆肥による土壌の肥沃化と土壌浄化。

耕作放棄地の再生と有効活用。

河川:コンクリートでできたダム・堰堤・砂防ダムの解体と撤去。コンクリート三面護岸の解体と撤去と自然護岸の構築。

河川の清掃。湖沼の浚渫、等。既存の道路の幅員縮小と透水性道路への改修。既存の橋の補強と補修。

対外的

な職

もてなし

観光業

民宿、旅館、ペンション、ホテル、特産品店、工芸品店等の観光客相手の商売では、 “人はなぜ旅をするのか”の理解の下に、土地の文化と人情と風景を心に焼き付けてもらえる “最高のおもてなしを!”

外国からの来訪者を迎える一般家庭でも(ホームステイ)、先ずは開いた心と人情で、日本の田舎の家庭料理とありのままの暮らしを知ってもらい体験してもらう。

 

 この表中の職の種類はほんの一例に過ぎないものである。

要するに、共同体の中の一人ひとりは、その個性、能力、特技等々に応じて、自由に職を選べるし、さらには自由に職を創り出し、それに就くことも出来る。あるいは、いくつかを組み合わせてそれを自分の職とすることも出来る。そこには「合理化」とか「リストラ」という発想もなければ、利益を上げなくてはならないといった強迫観念も圧力もない。人間関係から来るストレスもない。なぜならそこには、いずれも小規模であるからというよりは、他者を押しのけなくては自分が生き残れないという「競争」がないからだ。一人ひとりの能力・適性・個性に基づき、一人ひとりの自由な自己決定に基づいて職種が選択でき、労働と奉仕がなされて行く場だからだ。

 このように共同体内での職は多様である。生活様式も多様となる。そしてそれを、みんなが当たり前に、互いに認め合うのである。

 ところで、この表中にある「真の公共事業」の意味、そして「公共事業」の前に「真の」が冠せられている理由は以下のとおりである。

 これまで、とくに政府省庁の官僚が進めて来た「公共」が冠せられた事業は、国民のためというよりは、むしろ公僕であるはずの官僚ないしは役人が彼ら自身の利益と都合のために設けて来た事業である。自分たちの組織を可能な限り拡大させ、それを存続させ、既得権益を維持し、「天下り」先を拡大させ、確保するためのものでしかなかった。

そういう意味で、公共事業とは呼んでも、本質は決して本来の「公共」のための事業ではなかった(「公共」の定義は第4章を参照)。

 そしてその事業は、やればやるほど、自然を壊し、気候変動を加速化させて人類と他生物の存亡を脅かしながら、国民には便益をもたらすというよりは、それ以上に、中央政府と地方政府の債務残高を果てしなく増大させ、その結果として国民健康保険料を上げさせ、大学の授業料を上げさせ、消費税を上げざるを得ない状況を作るだけの事業でしかなかった。

つまり、これまでの公共事業とは国民の生存可能性を狭めるだけの事業でしかなかった。

 しかしここで言う公共事業はそれとは正反対の性格を持つ事業である。「新しい経済」という概念に基づく、三種の指導原理に導かれる事業だからだ。

 だから、実施すればするほど、自然は蘇り、すなわち生命の多様性・共生・循環は蘇り、同時に人々の暮らしにも本当の意味で持続的な安心感をもたらし、伝統文化をも蘇らせ、誰にも将来への希望と展望を抱かせる事業なのである。

 「真の」が付き、また真の「公共」の意味での「事業」とはそういう意味なのである。

 なお、こうした仕事あるいは労働のあり方が支配的となる社会では、これまでの経済社会がそうであったような、ただ単に自営業かサラリーマンとかいった単純な職業分類などほとんど意味を失う。

一次、二次、三次、あるいは六次産業という分類の仕方も全く意味を失ってしまう。

つまり、これまで流の言い方をすると、一次産業に従事しながら二次産業にも三次産業にも従事することが可能となるからだ。労働者階級とか資本家階級といった、あるいは支配階級といった階級的呼称もなくなるし、階級社会そのものが消滅する。

資本の論理とか、支配・被支配の関係によって社会が成り立つのではなくなり、人々の生き方や考え方は、根本的には、すべて「民主主義」、さらに発展させた「生命主義」に基づいて、実践されて行くようになる。

 ついでに言えば、この社会では、「特許」という考え方も言葉も消滅する。排他的に特定の技術を独占して、それでもって巨利を上げるという発想そのものが新しい経済の理念にそぐわないからである。「資格」という考え方も、もはや意味を失うのである。だから「検定」という言葉も意味を失う。だから「名刺」も無意味化する。

検定試験を受けて資格を取ってそれを肩書きにするということなどしなくとも、小規模の地域連合体内部では、人々の間に、真の信頼性や評価は、ごまかしようもなく、自動的に定着するからである。

 なお、これらの事業に参画できるのは、いずれもその共同体内の住民であり、国外からの難民を含む移民の個人である。国内の他地域あるいは他の共同体に籍を置く住民や、他地域や他州に本社・本部を置く企業や団体は、基本的に参画できない。

 それは、その事業そのものが、原則的に共同体内部の人々が自分たちのために自分たちで計画・企画したものであり、また、その事業に参画して支払われる報酬も、すべてその共同体内に暮らす人々の納める税金によってなる事業であるからだ。したがってその事業によって実現される富も、当然その共同体の全構成員のものとなるのである。

 なおその場合、次のことはとくに重要となる。

 それは、先の「真の公共事業」の内容を企画する主体はつねに住民あるいは「新しい市民」だということである。

したがってその場合、行政職員あるいは「公務」員は、今度こそ、文字通りの真の「全体の奉仕者」に徹する。もちろんそのように役人を民意に忠実にコントロールできる政治家をも、私たち住民・国民が新しい選挙制度を通じて、主権者の責任において育てて行くのである。

そこでは、役人自らが住民の要望に基づき、現場にて、住民とともに自ら体を動かし、公共事業の目的達成のための縁の下の力持ちとなる。

もちろんそこでは、かつて、中央府省庁から、都道府県庁へ、そして市町村役場へと縦につながって上層や中央の言いなりになって来た「タテ割り」という隷属関係もすべて無意味になるし、「官官接待」などといった人間関係を卑屈と傲慢で成り立たせる悪弊も、すべて、無意味となる。

 その際、中央政府は、首相と閣僚の無能と無責任と無知ゆえに、これまで官僚たちが手中に収めて来たさまざまな公式非公式の権力と権限は、そのほとんどが地方政府に委譲・移管され、文字通り国の全土ないしは全体に直接かかわる、真に国民益につながる事業だけを行う国家の代理機関となるため、小さな連邦政府になる(第8章)。もちろんそこでは、官僚の「天下り」など、言葉そのものも消滅する。

そうした政府を実現させる使命を担うのは、「新しい選挙制度」(第9章)によって誕生して来た、民主主義を体得し主権者に忠誠を誓った新しい政治家たちである。

 なお、各共同体内でのこうした多様な職種を成り立たせ、循環経済を稼働させるのに必要な財源を自主確保するための税制については後述する(第12章)。