LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

11.7 地域通貨の導入と全国通貨

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11.7 地域通貨の導入と全国通貨

 共同体は、都市であれ、集落であれ、またそれが一体となった地域連合体であれ、それらはいずれも「都市と集落の三原則」を満たさなくてはならない。

 それは、小規模ながらも、というより小規模であるからこそできる、経済的にも、政治的にも自立した、そこの住民自らが自らを責任を持って治める正真正銘の「自治」体である。これまでのような名ばかりの自治体ではない。

 なぜそうした三原則を満たす共同体を目ざすか。

それは、社会であれ、国家であれ、それを構成する主体はつねに人間であるが、その「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」(シューマッハー p.97)からであり、またそのような共同体であってこそ、民主主義は直接民主主義に近づいてよりよく実現されるようになり、地球温暖化生物多様性の消滅の進行を含む環境問題という、今日、人類がその存続の可不可をかけて直面している最大の問題に対しても民主的な話し合いで解決策を見出し、それにみんなで対処してゆくという最も合理的な対処ができるようになり、したがってその地理的範囲では最も抑止に貢献できる人間集団の生き方になるからだ。

なお、その共同体内での経済とはどういうものとなるかということについては、本章の第5節(11.5節)にて具体的に詳述して来たとおりである。

またそこでの税制のあり方については、次章にて明らかにされるだろう。

 そこで本節では、その共同体が経済的に自立できるための条件とは何かということについて考える。言い換えれば、その共同体が経済的に自己完結を成し得ているためには、あるいは自己完結して行けるためには、理論的にも、どのような条件が備わっている必要があるか、ということについて考える。

 私は、その条件の1つが、通貨の自立、つまりその共同体内で用いられて流通する通貨はその共同体独自のものである必要がある、ということであろうと考えるのである。

 たしかに全国に通用する通貨でもよいが、それだと、どうしても共同体の経済的枠組みと外部との境界が曖昧となってしまうだけではなく、共同体内の人々の経済的自立への決意や気概は鈍り、人々のその共同体へのアイデンティティを明確には持ち得なくしてしまうことが予想されるからだ。

 ではその場合、その共同体独自の通貨、すなわち地域通貨とはいかなるものか。

私の考えるそれは、次の3つの条件を満たしたものである。

1つ目は、その地域共同体内でのみ意味を持ち、その共同体内でのみ流通しうる通貨であること。

2つ目は、普段、その地域共同体の全員が使う通貨であること。

3つ目は、地域共同体内の誰もが、いつでも、必要に応じて全国通貨「円」と交換できる通貨であること。

 では、その3条件はどうすれば可能となるだろうか。

私の考える方法は、次のものである。

 まずは、上記の2つ目からゆくと、共同体構成員全員の間で、共同体の外では決して使わないという取り決め(条例)を設けるのである。

 3つ目に対しては、基本的にその地域通貨なるものは、全国通過「円」をそのまま用いるということにするのであるが、ただその場合、その円に、紙幣でも硬貨でも、その地域共同体の全員が了承する「ある固有の印」を付けることによって地域通貨とするのである。

 もちろんその印とは、元々の円の価値や意味を損ねない程度の大きさのものであり形であることと、繰り返しの使用に耐えられるように設けられたものであることが必要となる。

たとえば、その印は点の集合で出来た模様でもいいし、小さな穿孔の集合による形作られたものでもいい。あるいは小さな独特の色の模様でもいい。とにかく住民が納得して、全国通過「円」と識別できるものであれば何でもいいのである。

それを「円」のどこか決まった場所に設けるのである。

 全国通と地域通貨の見た目による違いはそれだけである。その印の有無をもって共同内々の人々は両者を区別して用いるのである。

だから、地域通貨とは言っても、ある特別なものを作るわけではない。

 しかしその印を設定できる資格を与えられるのは、共同体内の、共同体全員の了解を得た特定の機関だけであるとする。

そして、各住民が、あるいは公的機関が必要に応じて地域通貨を全国通貨「円」に交換する場合も、どこでも、いつでも全国通貨の円と交換ができるわけではなく、交換できる場所も決めておくのである。

その場合、「通貨交換所」としてもっとも相応しいのは、その地域内で、その地域内の経済活動を支援するためにのみ営業している銀行であろう。そこで言う「その地域内の経済活動」とは、これまでの資本主義経済にあったような、そしてそれがあったがゆえに経済システムを複雑なものにしてしまったような、投機、すなわちギャンブル活動ではなく、実体経済のみを言う。

その銀行では、つねにある一定量の無印の円を、当該共同体から見れば「外貨」と同様の位置付けで確保しておくのである。

 ただしここで重要なことは、全国通貨円に固有の印のついた地域通貨には「利子」はつかないということである。

それは、利子があることによって豊かなものはより豊かに、貧しいものは生活がより苦しくなってしまうからだ。

 そして上記の1つ目に対しては、その共同体内のすべての人がそれを用いることによって、基本的に、その共同体内でのあらゆる暮らしや産業活動が可能となるように、共同体内でのあらゆる公的および私的な制度を整える、というものである。

 たとえば、住民の日々の暮らしのための物品を買うのに使えるようにする。労働の対価の支払いやサービスの売買に使えるようにする。その共同体内においてのみ意味を持つ「公共」料金、たとえば水道や電気やガスの支払い、そして納税に使えるようにする、等々である———ただし納税については、地方税国税があるために、そこでは、適宜、全国通貨と地域通貨とを使い分ける必要が生じる———。

 こうして、地域通貨には、「お金」本来の働きである物と物、物とサービスの交換手段である決済機能しか持たせないのである。

 なお、ここで言うサービスとは、「物質的生産過程以外で機能する労働」のことを言う(広辞苑第六版)。

 

 では、地域通貨制度を実際にその地域内でスタートさせる際にはどうするか。

そのときには、既にそのとき各住民が財産として所有あるいは保有している無印の円の内のある適当な額だけを、通貨交換所に持って行き、そこで価値としては同等の量の全国通貨である無印の円に交換してもらうのである。そしてそれをもってその後の地域共同体内でのすべての経済活動にて使用するようにするのである。

 こうして、地域共同体内の経済を、地域住民のみんなで主体的、自律的に成り立たせ、維持してゆくのである。

 以上のことから言えることは、どの地域の共同体内でも経済はすべて実体経済となるので、そこではもはや「バブル」は起こりえないということだ。そこではもはや、実体経済の規模をはるかに上回る数字上だけのカネ————いわゆるマネー————が飛び交うということはなくなるからである。だから極端の貧富の差も生じない。

とにかくそこでは、繰り返すが、もはやこれまでのような意味での「市場」「景気」「円安・円高」「株式・債券」「相場」「投資・投資家」「投機・投機家」「先物市場・ヘッジファンド」「金融商品デリバティブ」「タックスヘイブン」「株式の上場」等々の概念はもちろん、これまでのような意味での効率を意味する「経済的」という概念すらも、すべて無意味となり、消滅するのである。

 共同体内にて営業する銀行の業務内容は、上記の共同体内でのすべての経済行為であるところの、住民の労働の対価の支払い、ものの売買、サービスの売買、その共同体内においてのみ意味を持つ「公共」料金、たとえば水道や電気やガスの支払い、そして納税、活動資金の融通と貯蓄等々を支えるものとなる。

 したがって、共同体内では、どこも、これまであったような、本社・本店機能がその地域の外にあるような企業も、あるいはチェーン店も存在し得なくなるのである。

もちろんそこでは、自動販売機もコンビニエンス・ストアも消滅する。というより、それらが存在する意味すらなくなるのである。

 なお、観光客など外部からの来訪者は、その地域に入る際には、煩わしくとも、先ずはその地域内の通貨交換所(銀行)にて、その地域においてのみ使用可能な地域通貨に等価交換してもらってから入るようにする。また出るときには、再度、全国通貨に交換し直してもらう。

 

 では、小規模で分散して成り立つ都市や集落あるいはその連合体である地域連合体という共同体の内部の経済のしくみをこのように地域通貨をもって特徴づけながら内部だけで循環的に自己完結できるようにすることで、果たしてどんな効果が期待できるだろうか。

 思いつくものを挙げてみる。

1つ。

 そこに暮らす人々は、自分たちの協力と協働の成果が、また自分たちの努力の成果が、そのまま共同体内での住民の安定や暮らしやすさに反映されるため、人々はむしろ協力のしがい、努力のしがいを感じるようになり、その共同体は、もはや名ばかりの自治体ではなく、また「お上」依存の自治体ではなく、真の自治体として活気づき、住民相互の信頼感も増し、連帯意識も増し、孤独のまま放置されるような人もいなくなるであろう。

 その地域内で生まれた富あるいは地域の財産は、地域の外には出なくなる。だから、もはや「働いても働いても、我が暮らし楽にはならず」ということはなくなるだろう。むしろ、一人ひとりが、その個性や能力を発揮して働けば働くほど、そこで生まれた富は地域内に蓄積されて行き、豊かになって行くことを実感できるようになるだろう。

 ここでは、外部と交流の持てるのは、物やお金では無い。人と情報・心———手紙、葉書、その他の書簡を含む———と文化のみということになる。

1つ。

そしてそこに暮らす人々の生活は、外部に起る食糧事情、物価事情に左右されないものとなることから、安定し、安心できるものとなる。そしてエネルギー事情にもほとんど左右されないようになる。

1つ。

 各共同体は互いに原則的に自己完結するということだけではなく、そのそれぞれの規模も、言って見れば、健康な大人が、歩いて1日で往復できる規模となるために、物品やエネルギー資源の輸送・運搬の必要性は最小限度に縮小されるようになるために、CO2を含む温室効果ガスの輸送・運搬時に排出される量はこれまでと比べて、極度に減らせる。

 また、その運搬を可能とさせて来た高速道路や一般道路の建設の必要性も極度に減らせる。あるいは既存のそれらをもはや無用となったからということで廃止し撤去して、自然のたとえば森にも戻せるようにもなるだろう。

鉄道も、人と文化を運ぶためだけであったなら、既存のものも大幅に減らせる。

 それらの行為は、CO2の排出量そのものを減らせるし、さらにはそれを吸収しうる森を増やせることであって、そのことの世界人類存続の危機を減らすことへの貢献度には著しいものがあると推測される。とくに今後、世界人類全体にとって存続の危機が叫ばれている地球温暖化は、95%以上の確率をもって温室効果ガス排出に因るとされているからである(IPCCの2014年報告)。

 

 実際、私たち国民あるいは地球人類にとって、今、本当に、それも急いで実現されなくてはならない重要なことは、単なる「雇用」とか「仕事がある」ことではないし、単なる「経済が活性化する」ことでもない。「GDPやGNPの数値が上がる」ことでも決してない。一人でも多くの人々が、互いに信頼し合い、協力し合って、ウソ偽りなく誠実に働くことによって、安心して、安定的に暮らしが成り立つことなのである。つまり、今、本当に実現されなくてはならない重要なことは、誰もが等しく、人間的に生きられること、またそれが永遠に続けられること、なのである。

そのためには、本来の基幹産業である農業や林業を犠牲にしたままでの「貿易立国」「技術立国」などは到底あり得ない。というより、むしろそれは本末転倒した国の姿だ。

 実際、第二次大戦後からWTO世界貿易機関)を中心に世界中に広げられて来たグローバリズム自由貿易への流れはドーハ・ラウンドに来て止まったのである。

そのことは、「モノやサービスを自由に売り買いできる市場を世界に広げれば、経済が大きくなる恩恵で、みんなが豊かになれる」という自由貿易の理想がこのときをもって完全に崩れたことを意味する。

 実際、とくに1970年代以降、新自由主義の経済が世界中に広まる過程で、世界中の多くの国の多くの人々は、豊かになれるどころか、反対に、一握りの数の人々が残りの国民全部の合わせ持つ富に匹敵するほどの富を独占する傾向が強まり、そしてその傾向は激しくなるばかりだった。「トリクルダウン」説がでっち上げでしかなかったことも判明した。

 そして、次の事実も、今、私たちは明確に認識しておく必要がある。

FTA(物品関税の撤廃やサービス貿易の障壁を除く二国間・二地域間での自由貿易協定)、EPAFTAに人・モノ・カネの域内移動の自由化をも盛り込んだ二国間・二地域間自由貿易協定)、そしてTPP(環太平洋経済連携協定)等の、単に物の貿易を活発化させることを主たる目的とする他国間貿易協定も、すでに完全に崩壊してしまった自由貿易の理想を回復してくれるわけではない、つまりそれで人々は豊かになれるわけではないということである。むしろそれをすれば進めれば進める程、格差の拡大、自然環境の破壊、人類存続の可能性の縮小等々の矛盾を深めることにしかならないということを、である。

 むしろそうした「市場を世界に広げれば、みんなが豊かになれる」という発想は、資本主義が支配する社会では、最初から幻想でしかなかったのだ。

そもそもモノにはすべて値段・価格があるとしたこと、モノの質的区別をまったくしなかったこと、値段など付けようもないモノにも価格設定したこと、さらには、儲けることにはとくに道徳は不要としてとにかく利益を上げることを至上としたこと、これらを理念として誕生し、また発展してきた資本主義は、最初から間違っていたのだ。

それに、資源も、エネルギーも、自然も有限な中、「経済」だけが果てしなく、つまり無限に発展しうるなどということもあり得ないことは、少し考えれば、小学生でも判断のつくことだったのだ。