LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

12.1 新税制を考える前に私たち国民の全てに求められる覚悟

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第12章 環境時代の税制のあり方としくみ

12.1 新税制を考える前に私たち国民の全てに求められる覚悟

 現在の市町村であれ、都道府県であれ、また国家−−−ただし、幾度も述べて来たように、この日本は国ではあっても、いまだに真の国家ではない———であれ、あるいは本書において新たに提案している新しい日本における地域連合体であれ、州であれ、連邦であれ、その規模や役割に違いはあっても、いずれも、自己の「生命・自由・財産」を安全に守ることを主たる目的として集まった人々の「共同体」であることに変わりはない。そしてその時、税制は、人々が各々、その目的を実現させるために、互いに合意してつくり上げてゆく相互に扶助するためのしくみである。そしてそのしくみを背負うことにおいては、個人であれ、企業であれ、あるいは他のいかなる集団であれ違いはなく、またそこでの一人当たりの負担の大きさは、互いに平等でなくてはならない。

 だから、税制のあり方を考えるということは、それがどのような内容から成るものであろうと、また共同体の規模がどのようなものであろうと、そして現在であれ将来であれ、つねにその共同体のあり方やその共同体のめざす姿と形を考えることと一体でなくてはならない。

 そこで本章では、このことを踏まえ、「近代」という時代は既述のとおり、私が推測する限りはすでに終わっているとの前提の下で、これからの環境時代における税制のあり方について考察して行こうと思う。

その場合のあり方とは、税制に求められる理念(理念の定義については4.1節を参照)と、その理念を実現させるための具体的な制度とから成る。

そこで言う求められる理念とは、本書におけるこれまでの論理の展開の仕方からも明らかなように、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」(4.3節)の理解に立った上での指導原理である《エントロピー発生の原理》と《生命の原理》を実現させられる税制であること、ということになる(3.1節、4.2節)。

この理念の上に、それを実現させるための具体的な制度を設けて行かねばならない。

 ただしその制度を設ける際、これまで生きて来て、また今を生きている私たちとしては、上記理念とともに、もう一つ、どうしても念頭に置いておかねばならないことがあると私は考える。それが本節の表題にも挙げている「覚悟」である。

それを考えておかねばならないとするのは、これまで生きて来て、また今を生きている私たちとしては、この国と国の社会を未来世代に託して行かねばならないからである。

それは、本質的に相互扶助制度であるこの税制は、既述したように、それぞれ規模の異なる共同体を永続的に成り立たせるためには、現在生きている私たちの社会の中だけで公平であればそれでいいというものではなく、また現在生きている私たち世代だけが良しとすればいいというものでもなく、まだ見ぬ世代に至るまで、すなわち時代を超えても公平でなくてはならないという倫理的、道義的責任に基づくものである。『自分が生きている今さえよければ、死んだ後はどうなったってかまいやしない、関係ない』、というものでは許されないからだ。

なぜなら、そのように公平であってこそ、その税制は、目先だけではなく、時代を超えて、その共同体に生きる人々をして納得しうる相互扶助制度たり得るし、時代を超えて「人間にとっての基本的諸価値の階層性」「生命主義」も維持されうるようになるからである。

 こうした理由から、私たち、これまで生きて来て、また今を生きている国民すべてには、そのような理念と共に時代を超えた公平性を保てる税制にしておかなくてはならないというところから来る覚悟が求められているのである。

 では、その覚悟とはどのようなものか。

そこに求められる最たるものは、この国が、今日まで、貯めに貯めて来た「負の遺産」の中の最も代表的な一つとも言うべき、超巨額の借金———正確には、中央政府と地方政府を合わせた合計としての政府債務残高———を清算しておくことに対する覚悟である。

なぜなら、この債務は、今日、行政としての対応を迫られている様々な事業の実施を不可能あるいは困難にしているだけではなく、この債務をこのままにして置いたり、ましてやその額を増やすようなことになっては、そのことに何の責任もない今の若者世代やこれから生まれてくる未来世代の人生に返済の負担を押し付け、彼らから彼らの人生に対する希望を奪うことになるからだ。そうでなくとも、その債務残高のほとんどは、とくに今はほとんど物故した先人たちと私たち年配者がつくって来たものなのだ。それも、今を生きる私たち年配世代の大多数が、主権者でありながら、政治に無関心なまま、自国の国家共同体運営とその監視に対する義務を果たさずに、そして各人が、生きて行く上で、あるいは生活をして行く上で、また遠く将来をも見据えて本当に必要な物だから要求するというのではなく、ほとんどは“現在の生活レベルを下げたくはないから”という動機の下、あるいは「あれば便利」、「あれば快適」、さらには「もっと便利がいい」、「もっと快適がいい」という程度の欲求の下で、つくってきた借金だ。

 直接的には、国民から選挙で選ばれ、国民から権力を負託された政治家たちが、その権力をもって官僚をコントロールするという最も重要な使命を全く果たさずに、むしろその権力をあろうことか、中央政府の官僚や地方政府の役人に丸投げして来たことをいいことに、本来は公僕たる彼らが、行政組織の「縦割り」を温存させたまま、自分たちの既得権益を維持あるいは拡大するために、それぞれの府省庁や部・課が国民の上記志向を狡猾に利用しては、狡猾にも「公共」事業と称してでっち上げては、借金状況など全く目もくれずに、国民のお金を使い込むことによって、雪だるま式に増やしてきた借金なのだ。

 つまるところ、その超巨額借金は、政治家たちが国民に代わって公僕たちに指示し、コントロールするという政治家としての最重要な役割の一つを果たさないままできた結果なのだ。

 具体的には、たとえば、国土交通省の官僚のやっている例を挙げれば、無用な道路づくりだ。それも生活道路ではなく、自然を大規模かつ長距離にわたって破壊しては生態系を分断する高速道路や車も通らない山間部に立派すぎるほどの道路を作ることだ。あるいは「縦割り」を維持したまま、つまり林野庁と連携するわけでもなく、上流域の森林を荒れ果てたまま放置しながら、一度豪雨が降れば瞬く間に土砂で埋まって用をなさなくなるダムや堰堤を作ることだ。あるいは、こんな狭い国土なのに、そしてたったの30分やそこら短縮するためだけに、もはや人口高齢化が世界一のスピードで進んで行き、アジア諸国と比較して相対的に経済も低迷して行くことがはっきりしているのに、かけがえのない自然を大規模に破壊して走らせようとするリニア新幹線づくりだ。

 生前、ドイツの良心を代表し、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)大統領だったR.F.ヴァイツゼッカーの言を借りるなら、こうなる。

若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、その後の歴史の中でそうした出来事から生じて来たことに対しては責任があります。われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。我々の義務は誠実さであります。心に刻み続けるということがきわめて重要ななのはなぜか、このことを若い人々が理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人々の助力をしたいと考えるのであります(同大統領演説「荒れ野の40年」岩波ブックレットNo.55 p.35)。”

 世界中、どこでも、借金したら借金した者が返すというのが常識である。

 ともかく、今この国の中央と地方の政府という政府が抱える借金は、合計で何とおよそ1300兆円にもなる(令和2年現在)。このうち、中央政府が1100兆円、地方政府(地方公共団体)がおよそ200兆円である。

この金額がどれだけ途方もない金額であるかを判断するのには、日本国民の内、生産に携わる年齢(通常、15歳〜65歳未満)の国民すべてが1年間生産活動に従事して生み出した財およびサービスの価値を金銭で表わした合計である国内総生産GDP)と比較するのが判りやすい。日本のGDPは近年およそ500兆円台を推移している。したがって1200兆円という借金はこのGDPの実におよそ260%、つまり2.6倍にもなる。

このことは、言い換えれば、この借金を日本国民が返済しようと思ったなら、国民すべてが、2.7年間、文字どおり飲まず喰わずで今まで通りに働き、働いて生み出したお金のすべてを中央政府と地方政府にそっくり納めねば返しきれない額の借金だということだ。

 参考までに言えば、G7、いわゆる先進7カ国の各国が抱える借金の対GDP比は、各国およそ次のようになる。

イタリア160%、アメリカ130%、フランス120%、カナダ115%、イギリス110%、ドイツ70%、日本260%(IMF“WORLD ECONOMIC OUTLOOK DATABASE”(2020年10月))                                                                                                       

 私たち日本国民は、狂気とも言えるこんな額の借金をつくってきてしまったのだ。こんな借金を抱えていながら、国民のほとんどが、日々、一見何事も起っていないかのように振る舞いながら、さらなる便利さ快適さの実現を要求しているのである。否、日本がこんな状況にあることなど、国民の大多数は知らないのであろうし、そして知ろうともしていないのだろう。

そしてこの日本の状況は、たとえば、かつて、グローバリゼーションと新自由主義が世界中に荒れ狂ったときに起ったロシア経済の崩壊とか、アジア金融危機、アルゼンチンの経済破綻でも、あるいはEU内の幾つかの国に起った金融危機とか財政破綻でも、その時抱えた借金の対GDP比は、日本ほどとんでもない値ではなかったのだ。

 具体的に言えば、今、財政破綻金融危機に陥って、EU全体を解体の危機に陥らせているとされるとくにイタリア、スペイン、ポルトガルアイルランドギリシャについて、それらの国々の政府債務残高の対GDP比を見てみるなら次のようになる。いずれもIMFによる2018年現在についての値である。

イタリアは、131.4%。スペインは96.7%。ポルトガルは121.2%。アイルランドは67.1%。ギリシャは191.3%(この数字は2018年9月14日に財務省に確認したもの)。 

 私は、日本のこの借金問題は、もはや、解決に向けて立ち向かうべきか否かという選択の問題ではなく、どうやって解決させるべきかという実行方法の問題になっていると考える。

それは、その問題自身がこの国の存続、将来世代の存続がかかっている問題だからだ。そういう意味では、重要度や緊急度の意味でも、地球温暖化問題や気候変動問題に優るとも劣らない問題なのだ。

そしてこの問題に取り組むことは、後先を考えずに便利さや快適さを追い求め続け、物的豊かさを満喫して来た今を生きる世代、とくに私たち年長者の、将来世代と未来世代に対する義務と責任の果たし方の問題であり、同時に、私たち自身の国家に対する義務の果たし方の問題でもある、と私は考えるのである。

 では、さしあたって私たち現在世代、それもとくにこれまで便利さや快適さを社会に要求し、物的豊かさを満喫して来た今を生きる私たち年長世代の国民は、どうしたらこれほどの巨額の借金を、早急に返済できるようになるのだろうか。

これを考えるに当たって、あるいは覚悟を決めるに当たって、予め知っておいた方がいいと思われることがある。それは、この国がかつて、バブル経済が崩壊(1991年)したとき、一瞬にして失った富の大きさがおよそ1400兆円だったという事実である。その結果この国は、政治家の無策・無責任と相変わらずの官僚依存の甘え体質によって長く低迷状態を続けて来てはいるが、それでも、社会の大混乱は起きず餓死者も出さずにやって来れた、という事実である。

 このことを考えれば、それこそ、関係する国民すべてがそれなりの覚悟を持てば、何とか返済しようとして出来ないことでもない、と判るのである。その上、私たちの愛する子孫の負担を減らしてやり、彼らには希望を持って生きて行ってもらおうと考えればなおさらであろう。

 そこで、では、国を挙げての超巨額借金の返済事業とは、どのような考え方に基づき、どのような手順と方法が考えられるのだろう。

 このようなときには、とくに、より多くの国民に受け入れられるような基本的な考え方を明確にすることが大切だ。それは、何よりも、物事の決め方と手続きに「透明性」と「公正性」が確保され、決められた内容が「公平」であること、あるいは圧倒的多数の人々が「公平感」を持てることだ。

ではその公平はどうやって実現するか。

たとえば次のようにすることであろうと私は考える。

 一つは、既述したように、「今の若者世代やこれから生まれてくる未来世代にはその債務に対する責任はないし、ましてや彼らにはそれを返済する義務もない」を先ず明確にすること。

 一つは、今日、日本国を滅ぼしかねないこの超巨額の借金をこしらえるについて、最も無責任であり、また国と国民に対して最も不忠実だった政治家、この場合はとくに国政レベルの政治家には、とくに国の巨額借金の返済義務を重く課すこと。

それは、そもそも彼ら国政レベルの政治家が、国民から選挙で選ばれ、公式に権力を負託された者として、その使命を国会と内閣NOそれぞれにおいてきちんと果たし、予算(このうちには一般会計と特別会計をも含む)も国権の最高機関としての国会が先ず国会議員の手で主導的に作成し、それを執行機関としての中央政府の閣僚が配下の官僚をきちんとコントロールしながら執行させていたなら、こんな借金がつくられてくるはずは決してなかったからだ。

それに、彼らは、既述して来たように(第2章)、「公約」の不履行を含めて、政治家としての本来の使命をまったくと言っていいほどに果して来ていないのにも拘らず、いわゆる「歳費」を含め、「特典・特権」をも含めて、一般国民の常識からは信じ難い、およそ2億円という額————共産党議員は、これよりもおよそ4500万円少ない————を税金から自動的に手にできる制度だけは国会で設けており、それは文字どおり、国会の権威を悪用した税金泥棒といえる存在だからだ。

 一つは、現在の社会でますます激化する貧富の差を考慮し、貧しい人からは巨額借金の返済の負担を求めないこと。

またその場合、富裕者の間でも所得の大きさによって複数の段階を設けること。

 一つは、資産の大小をも考慮する。その場合も、とくに経済が顕著に世界化(グローバリズム)し、世界中に新自由主義がはびこるようになって以降、急速に広がって来た株や為替、国債等といった金融資産の大小に見合う負担をしてもらうこと。

その理由は、それらはとくに不労所得であって、実際には自分自身は働かず、生産活動はせず、社会にも自然環境にもこれといって貢献せず、ただ日々の「株と為替の値動き」の中で得た所得に過ぎないからである。

そしてこのことは、明治期、大正期そして昭和期までにこしらえた資産については、さしあたって巨額返済義務の対象外とする、ということである。

 一つは、これまで中央政府(旧大蔵省、現財務省)によって税制上の優遇を受けて来たとくに大企業の利益、そのうちでもとくに内部留保をも巨額返済義務の対象とする。なぜなら、利益もそうであるが、それは、労働者を搾取することによって可能となったもので、本来は、労働者に適性に還元されるべきお金であったからだ。

 一つは、過去において、倒産しかけた企業が、「金融破綻を防ぐため」とか「大きすぎて潰せない」といった政府のつくった理由の下に、「公的資金」という名の国民のお金によって救済され、その後巨額の、あるいは史上空前の利益を上げた企業———もちろん銀行等の金融機関、日本航空(株)をも含む———の利益をも巨額返済義務の対象とすること。

なぜなら、その企業は、本来の資本主義の経済下ではあり得ない仕方で、国民のお金で救済されたのだからだ。それだけにその企業は国民に「借り」があるわけで、国難の際には、社会の一構成員として、進んで危機の救済に加わるべきなのだ。

 一つは、法人の所得にも、その大きさによって、巨額返済の対象とすること。

 一つは、政府省庁の官僚と呼ばれる者のうち、とくに「天下り」や「渡り鳥」をして来た、いわゆる「高級」官僚あるいはその歴任者にも、超巨額借金の返済義務を課すこと。

それは、官僚は、憲法でいう公僕でありながら、国民の利益そっちのけにして、自分たちの利益の実現のために、あるいは自分たちの第二の人生をより優雅に過ごすために特的産業界への便宜を図っては、民主主義を無視するだけではなく資本主義をも歪めながら、巨額の不労所得を懐に入れて来たからだ。

 

 以上が、国を挙げての超巨額借金の速やかな返済事業の実施にあたっての「透明性」と「公正性」と「公平性」を確保する基本的な考え方である。

これらの基本的な考え方に基づいて、現在の超巨額借金を、可能な限り、返済するのである。

 なお、以下では、上記の基本的な考え方のうち、国会議員と企業についてのみ、もう少し補足説明をしたいと思う。

 国会の政治家について。

 政治家という立場は、国民からの税金で公の活動ができ、私的生活も維持できているのである。

 そして彼らが受け取る議員報酬その他の特権と特典は、彼らが選挙公約の実現をも含めて、政治家としての使命と役割をきちんと果たしてくれるだろうと信じるがゆえに、国民は、彼らに国民の金を払うことを合意しているのである。

したがって、彼らがその役割・使命・約束を果たさないなら、国民は、たとえ彼らが政治家として当選したとしても、一銭たりとも彼らに払う必要はないし義務もない。もちろん、彼らは一銭たりとも受け取ることさえ許されないし、権利もない。にも拘らず受け取っているとなれば、あるいは受け取れる仕組みだけは設け続けているとなれば、それはもはや詐欺であり、何もしないのに国民の納めたお金を手に入れられるようにしているという観点からは税金泥棒でもある。

そのくらいの理屈は、彼らも百も判っているはずだ。

 この国の国会議員は衆参両院を合わせて定数が722名———ただし、令和元年の今年から参議院では6名増えるようにしたから、728名となる———。

その議員らに、現在、国民の税金から使われるお金の総額は、特典も金銭換算して、毎年、1人当たりおよそ2億円。したがって、総額1456億円となる(2.4節参照)。

そのお金のほとんどは、任期中の毎年、国の借金返済に充てられるべきだろう。

 そうでなくとも、聞くところによると、たとえばスエーデンの国会議員の場合は、一人当たりに支払われる議員報酬は一ヶ月およそ60万円であるという。年間の議員報酬は、一人当たり720万円となる————ただし、秘書を雇う費用は中央政府が出してくれるのだそうだ。ボーナスもあるかもしれないが、それだって日本の国会議員の手にする額555万円と比べたら、比較にもならない額であろう————。

それでスエーデンの国会議員はすべての政治活動をしているのだという。もちろん正確な会計報告も義務づけられている。

そのような報酬の中でも、実際、世界が知っているように、スエーデンは、とくに福祉政策と教育政策そして環境政策の面では世界の模範となる民主政治を実現しているのである。

 自分では自信を持って判断することも新しい制度を設けることもできず、とくに人権に関わる問題では常に本物の先進諸国の真似ばかりしている日本の政治と行政であるが、真似をするのであれば、むしろスエーデン国会議員のこういうところこそ真似るべきなのだ。

 その場合、政党助成金は、もちろん議員会館家賃も議員宿舎家賃も不要だ。というより、議員会館自体、議員宿舎自体が無用なのだ。公設秘書給与も不要だ。弔慰金の支給も不要。選挙地元での慶弔の挨拶とか行事に参列する必要はないからだ。そんなことは本来、政治家がすることではないからだ。公用車や送迎マイクロバスも不要。立法事務費も廃止する。政治家になるということは、すなわち立法することだからだ。

歳費も、年、一人当たり1000万円もあれば十分であろう。そうすれば、総勢728名では、年当たりの総額は72億8000万円で済む。

現在のおよそ20分の一で済み、およそ1400億円は、毎年、浮いてくる。それを借金返済に充てればいいのだ。元々、この借金は、彼らあるいは彼らの先輩たちが、官僚たちがそれぞれの府省庁の組織間の「縦割り」を温存させ続けていることを放置してはこの国を真の国家としないまま、国民から負託された権力を官僚たちに丸投げしては彼らに追随するという、民主主義と国民への裏切り行為を続けてきた結果なのだからだ。

 それに、議員数についても、日本の国土の25倍もあり、人口が3倍もあるアメリカ合衆国の国会議員(上下両院をあわせた連邦議員)の総数は535人で足りていることを考えれば、日本もその割合から行けば、どんなに多くても衆参両院合わせた議員総数は178名で充分ということになる。そういう意味では、小選挙区制度など、これも既述してきた理由によりやめるべきだ(第9章)。

とかく主権を売り渡してまでアメリカに追随し、アメリカの真似をしたがるこの国の国会議員だ。こんなときこそ、多いに真似をすべきではないか。

 そうなれば、72億8000万円が17億8000万円で足りることになる。国民が彼ら国会議員を支えるための負担も、これまでの負担の1.2%となり、実に現在の国民の負担は、99%も減らせることになった上に、1438億円も借金返済に当てられることになる。それによって、この国の最大の危機の一つがかなりの程度、毎年緩和されて行くことになるのだ。

 これまでの巨大な無責任の罪滅ぼしとして、この国の国政政治家としては、これくらいの貢献はしてもいいのではないか、と私は思うのだ。

 もちろんこの金額は、彼らが予算を官僚任せできたがゆえにつくった借金総額から見れば「焼け石に水」ではあるが、それでも、それはそれで、国政政治家としてのこれからこの国に生きて行く若者と子どもたちへの一つの責任の示し方にもなるし、また愛国心の表し方の一例ともなるし、真の意味での「身を切る改革」の実践にもなる、とも私は思う。

 

 次に企業に対してである。

この場合、2種類考えられる。

一つは、内部留保の提出についてである。

もう一つは、かつて「公的資金」という国民のお金によって経営を救済されて、その後、大きな収益を上げ得た場合についてである。

 内部留保というのは、「利益剰余金」と「資本剰余金」と「引当金等」の三つの合計額を言うが、本質的には、働く者(労働者)から搾取した結果可能となったお金である。あるいは政府(官僚)による金融緩和、法人税減税、公的資金という国民のお金が株式市場や金融市場への投入という、やはりどれも、その背後では国民生活が犠牲にされて来た結果可能となったお金である。

 実際、もし労働の対価が賃金として正当に支払われていたなら、日本の人口の圧倒的多数を占める労働者やサラリーマンの生活は真の意味でもっともっと豊かになっていたはずなのだ。家庭での家族関係の問題や教育の問題そして介護や看護の問題等、もっともっとましな状態になっていたはずなのだ。人口減少問題もこれほど深刻にはならなかったとも考えられる。

 だから、国の将来や国民の将来が危うくなっている今こそ、企業、とくに長いこと政府に至れり尽くせりで守られ、優先されて来た大企業は、その「内部留保」を国と将来国民のために差し出すべきなのだ。国会もそれを公式の政策とし、政府を通じて差し出させるべきなのだ。なぜなら、国会に集う政治家は、そもそも主権者である国民から選挙で選ばれた国民の利益代表なのだから。だからこそ国会はすべての権力機構の中で最高の権力を有するのだ。

その国会が企業、とくに大企業の内部留保を、国を救い将来国民の福祉のために差し出させるというのは、搾取の過去を幾分でも償って分配を公平に近づける、あるいは富の再分配を図るという観点からはもちろん、社会正義の観点からも人道上の観点からも、充分に理に叶っていることなのだ。

そもそも、国家の目的は、そしてその国家の代理者として行動する政府の目的は、国民の「生命と自由と財産」の安全を最優先に守ることにあるのだからである。

 そうでなくとも、今、日本も、その内部留保が、使い途のない余剰資金、いわば「死に金」と化しているのである。それは、内部留保を企業はたとえば設備投資に回そうとしないからだ。企業が利益を増やしても投資を増やさないのは、投資して設備を拡充させて商品を生産する力を高めても、その商品が売れる見通しが立たないからだ。

 当然であろう。労働者に労働に見合う正当な賃金が払われなかったなら消費者でもある労働者には購買力が増えるはずはない。購買力が高まらなければ、企業が生産した生産物である商品を買いたくても買えないのだから。

 しかし、企業の生産物が売れない理由はそれだけではない。

もはや人々は、生きて行く上で、あるいは暮らしを営む上で、本当に必要な物、なくてはならない物という物は、今やほとんどの人々は手に入れてしまっているからだ。

だからどうしても買わなくてはならないという物はもうほとんどない。

 そうした観点からも、あるいはそうでなくとも、既述して来たように(1.4節)、もはやどの角度から見ても物を売ってこそ成り立つ「資本主義経済」が通用する時代ではなくなっている。言い換えれば、その資本主義が支配的な経済システムとなって来た「近代」という時代は終わっているのだ。したがって「近代」を延命させることや「資本主義経済」を延命させることに執着すればする程、人類は、「便利で快適な生活」を満喫できるどころか、人類自身の存続の可能性すらますます狭めてしまうことになるのは明らかなのである。

そのことは、たとえば「地球温暖化」「気候変動」の激化による世界的的規模での異常気象の頻発による被害の激化状況を見ても明らかだ。生物の多様性が急速に失われている事実からも明らかだ。

 参考までに調べてみると、2018年度で、企業の内部留保は463兆円、しかもその後も、年々増えているのである。

 

 つぎに、「公的資金」という国民のお金によって経営を救済された企業についてである。

ここで言う企業には、かつてバブル経済が崩壊した際(1990年代初期)、大量の不良債権を抱え、経営が行き詰まり、あるいは破綻して、結局は公的資金という国民の納めたお金が投入されるという、本来の資本主義経済の本質と成り立ちからすればあるまじき理由付けと手段によって救済された企業のすべてが含まれる。また、バブル崩壊とは関係なく、自らの会社経営のずさんさにより経営破綻して「会社更生法」の適用を申請した後、“大きい企業だから、社会への影響が大きいから潰せない”という、これも資本主義の本質と成り立ちに反する理屈の下に、同じく「公的資金」の投入によって救済された企業も含まれる。

これらに含まれる企業の代表例としては、住専(住宅専門会社)があり———ただし、これは今や存在していない?!————、大手都市銀行があり、JAL日本航空)がある。

 「お金を借りたら借りた者が借りた額を返す」というのは世界共通の常識だしモラルである。ましてやその借りたお金で会社が蘇るだけではなく、その後、その企業が史上空前の利益を上げることができたとなれば、なおさらのこと、その利益を会社を蘇らせるに当たって協力してくれた国民に返還するというのは、道義的にも社会正義の観点からも当然の理でもあろう。

そうでなくても、その利益の大部分は労働者からの搾取によるところ大なのだからである。

 

 以上のことを、先ず政府は、該当する企業すべてを対象にして、母国の存続のために、「丁寧に」という情緒的な態度ではなく、「正確に」かつ「論理的に」説明し、該当する立場の人々の理解と協力を呼びかけると共に、これを法制度化するのである。

また、すべての政治家は、自己の選挙地元に帰って、すべての国民に、同じく「丁寧に」という情緒的な態度ではなく、包み隠さずに、幾度でも「正確に」かつ「論理的に」説明し、該当する立場の人々の理解と協力を呼びかけるのである。

 なおその際、政治家として自分を選んでくれた選挙民に対する態度として忘れてならないことは、これまでの自分の国と国民に対する怠慢と無責任に対し、心から国民に許しを乞う謙虚さと、祖国の窮状を救うために、今、何とか協力して貰いたいと心から訴えることのできる誠実さと熱意であろう、と私は考える。

そしてそのためには、自分たち政治家が先頭に立つから、国民も総力を挙げてこの国の財政の危機の克服のために立ち上がろうではないか、と訴えることであろう。

 それができるか否かで、政治家としての本物の愛国心の有無と、国民への忠誠心の有無が試されるのである。