LIFE LOG(八ヶ岳南麓から風は吹く)

八ヶ岳南麓から風は吹く

大手ゼネコンの研究職を辞めてから23年、山梨県北杜市で農業を営む74歳の発信です/「本題:『持続可能な未来、こう築く』

12.2 環境時代の税制の原理と原則、そして租税の設定の理由

12.2 環境時代の税制の原理と原則、そして租税の設定の理由

 そもそも人が他人の所有する金であれ物であれ、その全部または一部を取り上げたり、他人の所有する肉体や精神を使役に駆り出したりするということは、それ自体が、合法か否かは別にして、権力を行使することである。なぜなら、権力とは、前にも述べたように、「他人を押さえつけ支配する力」のことだからである。そしてこの場合、その権力の行使は日本国憲法が明記する財産権(第29条)を侵していることである。

 そしてこのことに関連させて言うと、たとえ憲法のその次に続く第30条が、『国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う』と明記はしていようと、国家———この場合は「国」ではない———あるいは国家の代理者である中央政府自身ないしは地方公共団体の政府自身が、国民あるいは住民から、彼等の所有物を税として取り立てるということは、その前条の第29条にある財産権を侵すことであり、本質的に他者の所有物を奪っていることに変わりはない。

 したがってこの「徴税」という行為に関しては、日本国憲法自体が矛盾を犯しているのだ。

なぜなら、第29条では“財産権は、これを侵してはならない”と明記しながら、そのすぐ次の第30条では、前条との矛盾を犯すことについて国民をして納得させ得る説明をすることなく、『国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う』と言って、国民各自はその私有財産からその一部を提供しなくてはならないと言っているからだ。

実際、この第30条を根拠に、中央政府も地方政府も、国民の私有財産を剥奪する権力の行使を正当化している。

 私たち国民は、この現行憲法上の矛盾を見過ごしていていいのだろうか。異議を差し挟まなくていいのだろうか。見過ごしているから、あるいは異議を申し立てないから、中央政府(官僚)でも地方政府(役人)でも、当たり前のように、憲法30条のみを盾にして、国民に対して、本来公務員=公僕である彼らには憲法上与えられてはいない権力を行使してくるのではないのか、と私は考えるのである。

 それに、そもそも「財産権」という言葉遣いあるいは表現の仕方は私は相応しくない、あるは正しくはないと考える。

 「権利」という言葉は、たとえば「発言権」、「居住権」、「帰還権」がそうであるように、動詞あるいは行為を示す言葉の後に付されて、元々「・・・する権利」という意味を持つものだ。

ところが財産権はどうか。「財産」は動詞でもないし行為を示す言葉でもない普通名詞だ。そこに権利が付くというのでは意味が通じないのではないか、と思われるからだ。つまりここでは、財産という物そのものよりむしろ「財産を私的に所有する権利」ということに力点を置いて表現したいのであるからだ。

とすれば、やはり「財産権」ではなく、「財産を私的に所有する権利」という意味で「財産所有権」、あるいはそれを略して「所有権」とする方が正しい表現、誰にも理解しやすい表現となるのではないか、と私は考えるのである。

そしてその場合、現行憲法の第29条『財産権は、これを侵してはならない』は、『所有権は、これを侵してはならない』と言い換えられて、これを読む者には「財産を(私的に)所有する権利」は保障されている、と正しく理解されるとともに意味も明確になるのである。

 こうしておいて、次に、その『所有権には義務を伴う』とすれば、財産を私的に所有する者は義務として「納税」しなくてはならないとなって、論理はすっきりするのである。と同時に、先の第29条と第30条との間に見られた憲法条文相互の間での矛盾も解消されるのである。

 参考までに言えば、ドイツ憲法ドイツ連邦共和国基本法の第14条)は「所有権」という表現をしている。

 

 ところで、これまで、この国では、国民の納税に対する大方の心情はというと、ほとんど国民には、“私的財産を剥奪ないしは取り立てられる”あるいは“お金を取り立てられる”という気持ちの方が先に立っていたのではないだろうか。決して積極的に“納税しよう”などという気持ちからではなかったのではないか、と、私自身の思いをも振り返ってみて思う。

そうした思いにさせてしまう最大の理由は、納税しても、「それは自分たちの日々の暮らしに役立てられないで、大企業優遇策や不要不急の「公共」と銘打った大規模事業に使われてしまっているからだ」、という不満だったように思う————もちろんその背景には、政治家の官僚任せという無能・無責任・怠惰・自国民への不忠ゆえの、この国の国家としての政治の貧困と無策がある————。

しかし私は、多くの国民がそうした気持ちにさせられてしまうのには、実はもう1つ理由があるのではないか、と考える。

それは、既述した、日本国憲法自体が持っている論理矛盾である

 憲法とは、後述するように(16.3節)、本来、国民の一人ひとりが、自分自身の主人公として、自分で自分のことを、また母国の政府が国家としてとっている行動と進んでいる方向について、その条文を読むことによって、誰に判断を仰がなくても、自分で正しいか間違っているかを判断して自分の身の処し方を決めることができるようになるための規準ないしは原器なのである。平たく言えば、国民一人ひとりの生きる上での指針となるべきものである———そういう意味でも、憲法は、安倍晋三がいうような「国の理想を表わしたもの」では断じてない。同氏の憲法理解は、根本から間違っている。それはどの先進民主義国でも、国民は常に憲法に照らし合わせて現実の法律のあり方や暮らしを考えていることからも判る。安倍晋三憲法に込めた「理想」は、彼個人の時代錯誤の歴史観に基づくもので、国民一般のものではない。そんな安倍がこの国の現行憲法をしきりに変えたがっているのだ。国民にとって、こんな恐ろしいことはない!———。

 そうした観点に立つとき、国民が憲法に頼ろうと思っても、そこに矛盾を感じるようではとても判断の規準ないしは原器にはなり得ないのである。

 ところが、この国の現行憲法は、納税と徴税という、国民一人ひとりにとっても国家にとってもきわめて重要な、所有権を侵してでも税を取り立てる理由と税を納めなくてはならない理由との間には、既述のとおり、重大な矛盾、齟齬、飛躍を残している。

 しかしこれからの時代において、この国が真に持続可能な国へと自らを変革して歩んで行けるようになるためには、この国を動かす資金の確保に繋がる税の納税・徴税というこの問題は、これまでのような、上から押し付けられたルールのまましておくわけにはいかないし、このままでいいとも思わない、と私は考える。

それは自分たちの国は自分たちの手で造るという決意と、その国づくりのためのお金も自分たちで出すという決意がどうしても必要となる、と私は考えるからだ。つまり、もう「あなた任せ」にはしない、という主体性がどうしても必要なのだ。

 それと言うのもこの国には、目の前に、これまでの政治家たちが怠慢で、無責任で、先を読まない無能さのゆえに招いてしまった幾多の大問題としての、世界一のスピードで進む少子化と高齢化という難題、それに因る労働人口減少に因る国力の衰退という問題、その上さらに、これまで政治家たちが使命を逃れて、この国を真の国家としないまま、予算案づくりも各府省庁の官僚任せにして来た結果累積させて来てしまった、G7の中でもダントツの、途方もないほどの借金(政府債務残高)の問題が現実問題としてあるのだ。

そしてこれらの大問題は、すべて、ポスト近代の、環境時代という新時代を国として生き抜いて行こうとするとき、決定的な足かせになりかねないのである。

 したがって、こうした大問題を早急に解決させるためにも、国民が進んで納税しようという気持ちになる税制とする必要がある、と私は考える。

そしてこの内、超巨額借金問題に対する対処の仕方のついては、前節にて、一つの試案を示して来た。

 とにかく、新しい時代には新しい時代に相応しい税制を設けて出発しなくてはならない。そうしなくては前制度による矛盾をますます深め、人々の納税意欲をますます減退させてしまうからだ。

 ではそのような税制とするにはどうしたらいいか。どうしたらそのような税制になるか。

以下は、それを明らかにするための、これも私なりに考察してきた試案である。

 ここでもその考察に入るには、基本的な問いを発することから始める。

 そもそもなぜ税制度などという制度が必要なのであろうか、と。

なお、これを考える場合、国家というのは大きすぎるし広すぎるので、私の提案する新国家を構成する主体一つであり、最も身近な共同体となるはずの地域連合体について考える。

 そこで、私たちは一人ひとり、こう問うてみる必要があるのではないか。

“なぜ自分は今、こうして周囲のみんなと一緒に、この場所、この地で、集団で生活しているのか”

“なぜ自分は、一人で、みんなから離れて、すなわち孤立して生活していないのか”

“それは、一人では生活できないからなのか、それとも、自分の知らないうちからみんなと一緒に生活するようになっていたからなのか、それとも、誰かがここに住むことを自分に強制しているからなのか”、等々と。

 これらの問いを、一人ひとりが自らに投げかけ、それを深く考えて行くことによって、先ずは、自分が今、ここに、集団で暮らしていることの意味と理由を、今までよりずっと深く理解できるようになるのではないだろうか。

すなわち、一人では、どうやっても、生きることはもちろん生活してゆくこともできず、どうしても集団の中の一員として協力し合わなくてはならない。そしてその集団は、ただそこにみんなが集まっているだけという仕方でいる集団、つまり烏合の集団ではなく、そこに集まるすべての人々が、一人ひとり、意志を持って、その生命と自由と財産を安全に守られるようなしくみを持った集団でなくてはならない、ということをである。

 それは、より具体的に言うと、その集団とは、それを構成する一人ひとりは、少なくとも日々の食と住と衣をも確保し得て、その上、「人間」として生きられるために必要な諸制度と諸設備を整えた集団であり、それを構成員のみんなで維持し、また守って行くことを互いに合意した集団でなくてはならない、ということを、である。そういう意味でその集団とは共同体なのだ、と。

 そう認識し得たとき初めて、一人ひとりは、自分が生きている場所は共同体なのだと理解できるようになるだけではなく、その共同体への愛も生まれ、またそれだけではなく、自分が生き、自分を人間として生かしてくれるこの共同体のために自分は何をしたらいいのか、あるいは何をすべきなのか、一体何ができるのか、という参画意識も自然と湧き上がってくるようになるのではないか。

 そしてそのとき、最終的には、“自分たちの共同体は自分たちで責任を持って運営し維持するしかない”、“自分たちの共同体の運命は自分たちで決めるのだ”という自覚と覚悟も備わってくるのではないだろうか。

 私はこうした自覚と覚悟が備わった時、“この共同体のために自分は何をしたらいいのか、あるいは何をすべきなのか、一体何ができるのか”の意識は、ごく自然と“自分たちの共同体は自分たちで維持するのだ”、“そのために必要なら、自分の所有しているものを共同体のために提供しよう”という気持ちになり、行為に結びつくのではないか、と私は考えるのである。そこで言う「自分の所有しているもの」とは、必ずしもお金や物とは限らない。自分の能力であり体力をも含む。

そしてそのとき、私たち国民としての納税という行為や税制度という仕組みに対する捉え方や理解はこれまでとはまったく違ったものになってくるのではないか、と私は考える。

 しかし、だからと言って「進んで納税したくなる」というところまで行くには、未だ未だ隔たりがあるように思う。

 では、どうしたら国民は進んで納税をしようという気持ちになるのだろうか。何が満たされたならば、そんな気持ちになれるのだろうか。

 次のものが、私の考える、その問いに対する答えです。

それは、こうした条件がこうした優先順位の下に満たされればそれは可能であろうというものである。

 国民がそんな気持ちになりうる税制度であるための第1条件は、とくに国家の庇護がなくても自力で優雅な生活を送ることのできる富裕者や資産家、不労所得者がいるが、そんな彼らから政府が応分の徴税をすること。また、企業、とくに税率面で優遇されて来た大企業に対して、それへの法人税率をせめて一般国民並に上げて徴税すること。

 それは単に税の公平化のためという理由に留まらない。既述のように、資本主義が通用する時代は既に終わっているのだし、企業社会を徐々に終焉へと向わせ、新しい時代の準備をするためである。法人税率を高めると、その企業は外国に逃げ出すというのが法人税率を上げたがらない経済関係省庁の官僚の言い分のようだが、そのような言葉に惑わされることはない。逃げ出すなら逃げ出せばよい。逃げ出した先でも、早晩、「搾取」「格差」が問題となり、「労使間紛争」が起こり、「賃金」を上げざるを得なくなるだろうからだ。

 また宗教法人からも徴税する。

それは、既述のように(6.7節)、現行の宗教法人がたとえば同じ思想・信条の自由、信教の自由、集会・結社・表現の自由が保障された出版社や新聞社などと比べても、特別に大きな社会貢献しているとは見えない。むしろ、やっていることは全く形骸化してさえいる。外部からは密室に近く、とくに高僧と言われる人ほど、時折報道されるように、高潔そうに見えていて、実態は俗人以上に俗っぽい行動をしていることすらままあるのだ。

 したがって、宗教法人に対しても、その活動の種類の如何を問わず、収益に応じて、一般人と同様で同率の税が課せられるべきであろう。それは、いかなる宗教団体も国(家)から特権を受けてはならないとする憲法の立場(第20条第1項)からも当然のことだからだ。

 第2条件は、特に国家からの庇護や支援を必要としている大多数の国民にとっては、自分たちが納めた税金は、他でもない、自分たちの暮らしを良くすることを第一優先に使われていると実感できる税金の使われ方がされていることである。

言い換えれば、とにかく中央政府であれ地方政府であれ、自分たちから徴税した税金は、先ず自分たちの福祉のために使ってくれていると実感できる税制であることである。

そうでなくとも、憲法第29条に違反して他人の財産から徴税した者————政府あるいはその政府の長と役人————は、その税金を、徴税した者の福祉向上のために最大限有効に使わねばならない義務があるはずだし、議会も、そのための政策を立法化しなくてはならないはずなのだからだ。

 第3の条件は、働きたくても病のために、あるいは障害ゆえに働けずに困窮している人たちの生活をも支えていると納税している人たちが実感できるような使われ方をしていることである。

 なおここで、平等と公平とは違う概念であることを明確にしておく。

辞書では、たとえば平等とは、「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」と説明され、公平とは、「かたよらず、えこひいきのないこと」と説明されているが(広辞苑第六版)、しかしこれではその違いは判りづらい。そこでその違いを私なりに説明すると、こうなるように思う。

「平等」とは、たとえば「男女公平」とは言わずに「男女平等」という表現をすることからも判るように、社会ないしはその中の集団を構成しているすべての人々を対象として考えようとする場合に意味を持つ概念であり、そのすべての人々が置かれている条件や保障されている状態が同等であること。とくに「男女平等」とは、男性の場合はとか女性の場合はというのではなく、男性も女性も区別なく、社会またはその集団内で、単に人としてではなく人間として生きて行く上でどうしても欠かせない条件や状態が同等に保障されていることであり、保障された状態のことである。そしてそれは、ただ単に男性も女性も同じ扱いを受けたり、同じ格好をしたりすることではないし、また同じ状態にあることでもない。

 一方、「公平」とは、たとえば「税の平等」とは言わずに「税の公平」という表現をすることからも判るように、その社会を構成しているすべての人々に対してというのではなく、その中を社会的または経済的な各階層あるいは各部類に分けて考えようとする場合に意味を持つ概念であり、その各階層相互、各部類相互の間で、その中の人々が置かれている条件や保障されている状態が同等であること。

つまり「平等」の方が「公平」よりも対象とする人々の範囲が広く、また高次元の概念なのだ。

 そしてとくに「税の公平」とは、その各階層相互の間で、その各階層に属する人々に課せられている条件や負担の度合いが偏らないことであり、また偏らないことが保障された状態のことであろう、と考える。

 したがって税制が公平であるとは、すべての物品に課せられる税率が共通であるということとはもちろん違う。むしろそれは不公平と言うべきだ。

 なぜなら、そのような状態は一見したところ公平であるようには見えるが、それぞれの物品の持つ価値の大きさは、各人が固有に抱える条件や状態によって異なるからである。

具体的には、たとえば、生存に必要な物と、生活(暮らし)に必要な物と、あれば便利で快適でそれに超したことはない程度の物とでは、人が単に生物としてのヒトとして生きて行く上でだけではなく、人間として生きて行く上では、それぞれの物品の価値の大きさは明らかに異なるのである。ましてや、とくに富裕者あるいは超富裕者でなくては手に入れられない超高級物・超高額物・超希少物などは、生物としてのヒトとして生きて行く上でも、人間として生きて行く上でもほとんど無用なもので、それは奢侈の範囲の物でしかない。

 したがってこうした観点に立つとき、富める者に対しても困窮する者に対しても、すべての「物品」の売買に同率で課税する現行の「消費税」は、「不公平」どころか人間としての「生活権」、さらには生物のヒトとしての生存権そのものさえ否定しかねない不平等税制であることが明確になるのである。

したがってその「消費税」は、現行憲法に厳密に照らしたとき、生存権と生活権の区別さえ曖昧になって表現されている条文である第25条にさえ抵触して、違憲の税制ということになる、と私は考える。もちろん、その欠陥を補ようにして考え出されたものと推測される「軽減税率」などというものは、論理的根拠も曖昧で、付け焼き刃的で、姑息な手段で、ただ社会を混乱させるための有害無益な税制としか言いようのないものだ。

それの導入を決めたのは公明党であろうが、そしてそれをもって自分たちの存在意義を強調したかったのであろうが、いかに税制というものをいい加減に考えているか、が判ろうというものだ。

 第4の条件は、税制度全体が判りやすく、そして大多数の納税者にとって個々の課税項目が納得でき、その税率も妥当として受け入れられるものである、ということである。

ここで言う「判りやすい」ということは、先ずは、明確な理念が一本、税制度全体を矛盾なく貫いているということである。「納得できる」とは、税制度の内容全体に、無意味と感じられたり、時代遅れと感じられたり、理不尽と感じられたりする種類の税はなく、共同体を成り立たせる上で本当に必要な種類の税のみから成り立っているということである。

少なくとも現行のような「一読難解、二読誤解、三読不可解」という冗談すら生まれるほどに判りにくい制度(吉田和男「日本の国家予算」講談社p.13)であっては断じてならない。

 そして、第5の条件として、自分たちが納める税金が、どういうところにどのような優先順位の判断の下に使われようとしているのか、それが納税前に全納税者に明確にされていることである。

 最後に、第6の条件として、過去、あるいはせめて前年まで、税金を投じてなされて来た「公共」事業———税金が投入されてなされる事業は、と言うより、公共機関が行う事業はすべて国民・住民の福祉のための「公共」事業である————に関する当初目標の達成度と未達成部分の説明報告が、納税ないしは徴税の前に、国民に判りやすく説明されていること。

 以上が、「どうしたら国民は進んで納税をしようという気持ちになるのだろうか。何が満たされたならば、そんな気持ちになれるのだろうか」という問いに対する私の答えである。

 

 これまで、私は、新しい時代には新しい時代に相応しい税制を設けて出発しなくてはならない、そうでなくても私たちの国日本は「少子化」、「高齢化」、「超巨額政府債務残高」という近未来を縛る大問題を抱えていて、そんな中でも国民が進んで納税しようという気持ちになれる税制へと変革し、その大問題を一刻も早く解決させる必要があるとの理由の下で、私なりに最良と考えられる新税制度の基本的なあり方を明らかにして来た。

 しかし、これらは、税制度が基本的に、そして普遍的に満たさなくてはならない基本的なあり方であって、それは近代にあってもなくてもそのまま通用するものであって、何も環境時代特有の税制度というものではない、と私は考えるのである。

 

 ではこれらの6つの条件を満たしながら、なお環境時代に相応しい税制度とは、どのようなものとなるのであろうか。そしてその場合の税の設定の理由とはどのように説明されるのであろうか。それについて考える。

 それは、先の第4の条件とも関連するが、特に環境時代に相応しい明確な理念が一本、税制度全体を矛盾することなく、またブレルことなく貫いていることであろう。

 この場合の理念とは、「人間にとっての基本的諸価値の階層性」に基づく「三種の指導原理」であり、「都市と集落の三原則」であろう、と私は考えるのである。

 そしてそのことを前提とした場合の税は次の5つの段階から成り、それぞれの税を設定する理由も次のように説明され得るのではないか、と私は考えるのである。

 第一段階として、まずは、人間がヒトという生物として生きて行く上で不可欠な物(生存不可欠品)は無税とする。

 第二段階として、社会に人間として生活して行く上で絶対的に不可欠な物(生活必需品)は最も軽い税率にする。

 第三段階として、生物としても人間として生きて行く上でもほとんど必要のないもので、単に便利さ快適さを満たすだけの物には幾分重い課税をする。

人間として生活して行く上で絶対的に不可欠な物でも、必要以上に多くの量を所有する過多所有に対しても同様とする。

 第四段階は、同じく人間として生きて行く上ではほとんど必要のないもので、あれば自慢できる、あればステータスを味わえるという、いわば奢侈品には、とくに重い税率の課する。

 なお不労所得(相続、投資、投機、賃貸)に対しても、それは働かずに得た利益ゆえに、奢侈品と同等の重い課税をする。

 以上は「所有」に関する税の考え方についてである。

次は、「行為」に関する税の考え方についてである。

 第五段階としては、誰もがそれによって生かされている自然を大規模に汚染したり壊したり、社会から勤勉誠実を消失させて行く可能性の高い物品や施設には、自然破壊あるいは反社会性の観点から、とくに重い税率を課す。

反対に、自然回復への貢献、社会の改善への貢献に対しては、その貢献度に応じて減税する。

 そしてここにさらに、いわゆる応能負担、応益負担、応因負担、応責負担という考え方をも採用する。

つまり能力に応じて負担する、得た利益の大きさに応じて負担する、生じさせた原因の大きさによって負担する、責任の大きさによって負担するといった考え方で、それらをも加味することで、環境時代の税制はより「公平」になるのである。

 いずれにしても、こうして分析し段階分けすれば判るように、現行の「消費税」は何を根拠にした税制なのか全く不明だし、合理性は全くない。

もちろん「軽減税率」など、あるべき税制度として、論外のものだ。

 

 以上が本節での私の提案の要点である。

しかし、今後こうした提案が提案のままで終わらずに、国民のみんながこの税制という国民にとって極めて重要な制度のあり方について関心を持ち、互いに議論を交わして、内容がより多くの国民の納得が得られるように普遍化された上で実際に実現され、法制度化されてゆくというのが本当は最も重要なことなのである。

 しかしそれには、すでに、幾度か強調してきたことであるが、この日本という国が、明治期以来これまでのような、実質的には官僚に支配された国のままとするのではなく、国民から選ばれた国民の代表である政治家によって統治され、官僚や役人はあくまでもそのためにこそ仕えるという形での本物の国家、それも正真正銘の民主主義の実現した国家となることが是が非でも必要なのである。そしてそうならなかったなら、ここで提案してきたような税制は絶対と言っていいほどに実現は無理なのである。否、こうした提言に限らず、誰による、どんな提言も、それが官僚たちの既得権を脅かすような提言であったり、官僚組織つまり府省庁の規模の縮小や消滅をもたらすような提言であったりしたなら、全て実現されないままとなる。彼らの組織を挙げた抵抗に遭うからだ。

 実際、2009年、選挙時の公約が国民の圧倒的な支持を受けて政権を執った民主党の初代首相鳩山由紀夫氏がその公約を実現しようとした時————それは文字通り、国の主権者の総意であるというのに————、当時の外務省と防衛省の官僚たちが鳩山氏に対してどういう態度をとったか、思い出してみるとよい(「『対米従属』という宿痾」鳩山由紀夫孫崎享植草一秀 飛鳥新社 p.82)。

 そこで、既述したことの重複になるが、この日本という国が、口先だけで先進国と言ったり国家という言い方をする前に、先ずは国民から選挙で選ばれた国民の代表である政治家によって統治され、官僚や役人はあくまでもそのためにこそ仕えるという形での本物の国家、それも正真正銘の民主主義の実現した国家となりうるためには、政治家という政治家はどうすべきかを箇条書き的に整理して、私はこの節を終えようと思う。

 とにかくこの国の現行の中央と地方の議会と政府の関係も、議会と政府がやっていることも、私は、近代西欧の政治思想家たちが確立した議会制民主主義とは似ても似つかない、全く自分勝手なやり方、すなわちデタラメに過ぎないと思っている。

 したがって、次のような政治形態に直すべきなのだ。

 国会は国権の最高機関であるとする理由をよく理解した上で、全ての政策や法律は、そして予算も、まずは国会が独自に————ということは執行府である政府提案を待つというのではなく、という意味————国会の政治家同士だけで、必要であれば関係分野の専門家の助言を仰ぎながら、民主的かつ公正に議論して議決し、制定する。

 執行府である政府は、あくまでも国会が制定して公式の政策・法律・予算となったそれを受けて、それの最良で最高効率の執行方法を首相と全閣僚とで検討する。閣議とはそのためにこそあるのであって、全府省庁の官僚のトップである事務次官たちが全員合意の上で出してきた官僚提案を追認するための場であることは金輪際、直ちにやめることである。

そしてその閣議で決定された方法に基づいて、各閣僚は各府省庁の大臣として、配下の全官僚に、その方法に従って最大限速やかに執行するように指示し、またその経過をコントロールする。

 そして首相は、行政上のあらゆる面で、この国の社会を構成する全ての個人または集団に対して合法的に最高な一個の強制的権威を持った存在となる。そしてその時、行政上必要な情報は細大漏らさずに速やかに首相に集まるようにすると同時に、首相が発した指示・命令は速やかに国内の全ての行政組織に速やかに伝達されるように統括する。

 その時もし情報を途中で握りつぶしたり、また閣僚を通して官僚に示された首相の指示・命令を官僚が抵抗したりサボタージュしたなら、その時には憲法に基づいて(第15条第1項)、国民を代表して、その者を直ちに罷免するのである。

 私はこうした議会と政府との関係が出来上がり、政府が議会が決めたこと————それは即ち国民の総意であり意思でもある————を各担当閣僚が大臣として配下の全官僚を統括しながら最大限速やかに執行しては、国民の意思を執行しうるようになった時、この日本という国は、これまでの官僚独裁国を廃して、初めて本物の国家となれた、ということになると考えるのである。

 そしてこの国がこうして本物の国家、それも、常に主権者である国民の意思が政治に反映される民主主義が実現された国家となれるためには、やはりこの国の政治家という政治家は、次のことを徹底的に守るべきだ。それも、選挙に立候補する前に、である。

 それは、まずは、近代西欧において、議会制民主主義を確立した政治思想家たちの著した書を徹底的に勉強すること。

そしてそうした著書を読破することを通して、民主政治を行う上で、政治家として絶対に知って、理解していなくてはならない政治的基本諸概念の意味を正しく理解する。

例えば、そもそも政治とは何か、民主主義とは何か、自由とは何か、議会とは、政府とは、何か。またその違いは何か。国と国家は同じか、違うとすればどう違うか。なぜ国会は国権の最高機関か、また最高機関とは、特に政府や裁判所との関係において、どういうことを意味するのか。選挙は何のためにするのか、その時、公約は何のために掲げるのか。政治家とは、役人とは、その両者の役割と使命の違いは何か。権力とは何か、権力を行使できる根拠は何か。国と中央政府、都と都庁、道と道庁、府と府庁、県と県庁、市と市役所、町と町役場、村と村役場とは、それぞれ何か、またその違いは何か、等々といったことについてである。

 とにかく私たち日本国民は、国際的に著名なジャーナリストであり政治学者の次の言葉には、耳を傾けるべきではないだろうか。

 「民主主義を標榜している先進工業国で、政府が使う金の額とその入手方法が、選挙で選ばれていない官僚たちに拠ってすべて決定されているような国は、日本以外どこにもない」(K.V.ウオルフレン「システム」p.238)。

 日本という国をどういう社会のどういう国にしたいのか、またその国、その社会を実現するための財源をどう捻出するのか、それを考えなくてはならないのはこの国の主権者である私たち国民の一人ひとりだ。誰かに任せておけばいい、という話では決してない。

 一方、この国を国民が望むような国として実現するにはどのような政策が必要なのか、それを決めるのが政治であり、誰からどのような基準に基づいて、どういう税をどれだけ徴収し、それを誰のためにどう使うのか、それを決めるのが政治の中心課題なのだ。

 歴史上、国というものが形成されるようになってから常にあったのが税なのである(三木義一「これからどうする」岩波書店編集部編 p.292)。