12.4 自決権を持つ地域連合体内の人々の暮らしを支える租税の枠組み
12.4 自決権を持つ地域連合体内の人々の暮らしを支える租税の枠組み
本章では、これまで、私は次のような問題意識を持って、税制というものについて考察して来た。
①そもそも人が他人の所有する金であれ物であれ、その全部または一部を取り上げたり、他人の所有する肉体や精神を使役に駆り出したりするということは、その人の所有する財産権を侵害することである。そしてそれは、日本国憲法第29条に反する行為である。
②ところがこの国では、第29条に続く第30条では、『国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う』と、第29条に矛盾する、個人あるいは集団の財産を剥奪する行為を正当化する内容を明記している。
つまり、そのこと自体、日本国憲法は、憲法内で矛盾を侵しているのだ。
にも拘わらず、同憲法はその論理矛盾を認めてはいない。
③ところで、これまで、この国では、国民の納税に対する大方の心情はというと、ほとんど国民には、“私的財産を剥奪ないしは取り立てられる”あるいは“お金を取り立てられる”という気持ちの方が先に立っていたのではないだろうか。
なぜそういう気持ちにさせられてしまうのか。
そうした気持ちになってしまうのには、既述した、日本国憲法自体が持っている論理矛盾もあるが、最大の理由は、自分たちが納税者として、憲法がいう納税の義務を果たしても、その納めた税金が、納めた人々の福祉のために最優先的に役立てられているという実感を持てないからなのではないか。
④とはいえ、これからの時代において、この国が真に持続可能な国へと自らを変革して歩んで行けるようになるためには、この国を動かす資金の確保に繋がる税の納税・徴税というこの問題は、これまでのような、上から押し付けられたルールのままにしておくわけにはいかないし、このままでいいとも思わない、と私は考える。
それは自分たちの国は自分たちの手で造るという決意と、その国づくりのためのお金も自分たちで出すという決意がどうしても必要となる、と私は考えるからだ。つまり、もう「あなた任せ」にはしない、という主体性がどうしても必要なのだ。
⑤それに、新しい時代には新しい時代に相応しい税制を設けて出発しなくてはならない。
そうしなくては前制度による矛盾をますます深め、人々の納税意欲をますます減退させてしまうからだ。
実際、もはや資本主義が経済についての考え方の主流となってきた近代という時代は終わり、生命を主体とした私の命名する環境時代に突入してしまってもいるのだ。
なぜなら、資本主義経済では、人類は、多様な他生命との間での共生も循環も本質的に不可能だからだ。つまり資本主義経済の下では、人類は間違いなく持続し得ないからだ。
⑥では、誰もが進んで納税しようという気持ちになるためには、どのような税制であることが望ましいか。
そして、どうしたら、一人ひとりがそうした気持ちになりうるか。
⑦そのためには、私たち国民は、一人ひとり、自らにこう問うてみる必要があるのではないか。
“なぜ自分は今、こうして周囲のみんなと一緒に、この場所、この地で、集団で生活しているのか”
“なぜ自分は、一人で、みんなから離れて、すなわち孤立して生活していないのか”
“それは、一人では生活できないからなのか、それとも、自分の知らないうちからみんなと一緒に生活するようになっていたからなのか、それとも、誰かがここに住むことを自分に強制しているからなのか”、等々と。
これらの問いを、一人ひとりが自らに投げかけ、それを深く考えて行くことによって、一人では、どうやっても、生きることはもちろん生活してゆくこともできず、どうしても集団の中の一員として協力し合わなくてはならない。そしてその集団は、ただそこにみんなが集まっているだけという仕方でいる集団、つまり烏合の集団ではなく、そこに集まるすべての人々が、一人ひとり、意志を持って、その生命と自由と財産を安全に守られるようなしくみを持った集団でなくてはならない、ということを今までよりずっと深く理解できるようになるのではないだろうか。
それは、より具体的に言うと、その集団とは、それを構成する一人ひとりは、少なくとも日々の食と住と衣をも確保し得て、その上、「人間」として生きられるために必要な諸制度と諸設備を整えた集団であり、それを構成員のみんなで維持し、また守って行くことを互いに合意した集団でなくてはならない、ということを、である。そういう意味でその集団とは共同体なのだ、と。
そう認識し得たとき初めて、一人ひとりは、自分が生きている場所は共同体なのだと理解できるようになるだけではなく、その共同体への愛も生まれ、またそれだけではなく、自分が生き、自分を人間として生かしてくれるこの共同体のために自分は何をしたらいいのか、あるいは何をすべきなのか、一体何ができるのか、という参画意識も自然と湧き上がってくるようになるのではないか。
そしてそのとき、最終的には、“自分たちの共同体は自分たちで責任を持って運営し維持するしかない”、“自分たちの共同体の運命は自分たちで決めるのだ”という自覚と覚悟も備わってくるのではないだろうか。
そしてこうした自覚と覚悟が備わった時、“そのために必要なら、自分の所有しているものを共同体のために提供しよう”という気持ちになり、行為に結びつくのではないか、と。
そこで言う「自分の所有しているもの」とは、必ずしもお金や物とは限らない。自分の能力であり体力をも含む。
そしてそのとき、私たち国民としての納税という行為や税制度という仕組みに対する捉え方や理解はこれまでとはまったく違ったものになってくるのではないか、と。
⑧しかし、だからと言って「進んで納税したくなる」というところまで行くには、未だ未だ隔たりがあるように思う。
では、どうしたら国民は進んで納税をしようという気持ちになるのだろうか。何が満たされたならば、そんな気持ちになれるのだろうか。
そんな気持ちになれるためには、少なくとも次の条件が満たされる必要があるのではないか
として、私は既述の通り、6つの条件を提示してきた。
その中でも特に第4の条件が満たされることが重要であるとしてきた。
そこでは、「所有」と「行為」に関する税の考え方を明らかにしてきた。
具体的には次のことである。
物品を所有あるいは私有することによる義務としての税の在り方について:
1. 公共的環境材あるいは一次財としての資源(「一次財」については第11章参照)を私的に所有することには、重い義務を伴う。
また、公共的環境材あるいは一次財としての資源を汚染・破壊・消費した後の廃棄にも、重い義務を伴う。
ここに、公共的環境材を汚染したり消費したりするとは、たとえば、有害物質・毒物を河川、沼、湖、海、大気中、土壌中に拡散あるいは滞留させることを言う。あるいは自動車の排ガスによって大気を汚染すること、船舶や航空機を運航させることで河川や海あるいは空を汚染することをも言う。
なお、公共的環境材とは、空気、水、土壌、あるいはそれらを生み出す自然のことであるが、その公共的環境材の中には再生不可能資源も含まれる。
1. 物品の取得あるいは私有については4つの段階に区分する。
具体的には次のように税率を区分する。
人が生物として生きる上での絶対的必需品の取得と私有には無税とする。
人が人間として生活して行く上で基本的に必要な物の取得と私有には低税率とする。
「あれば便利」、「あれば快適」という程度の物品の取得あるいは所有には高税率とする。
「あれば満足」、「あれば自慢できる」という程度の物品の取得あるいは所有には、極めて高い税率とする。
しかし、土地に関してだけは、人が生物として生きて行く上でも、あるいは人が人間として生活して行く上でも、借りるという方法があることを考えれば必ずしも取得あるいは私有する必要はないこと、また、取得し私有するとしても、その場合、家族構成等を考慮した適正規模というものが考えられること等々を考慮して、税率を決めればよい、とする。
1. 自ら額に汗して、あるいは労働(このうちには、肉体労働と頭脳労働を含む)をして得たのではない物品の取得あるいは所有には、高い税率の税が課せられる。
相続する場合も、考え方は同様である。
環境に与える負荷を解消させることを目ざすための税の在り方について:
1.原因を生み出したことに対する義務あるいは責任を負うべき義務。
それを所有あるいは使用することによって、自然あるいは社会に対して何らかの調整・修正・補正・改善等々の必要性を生じさせ、そのためのコスト費用(コスト)を公共として掛けなくてはならなくなってしまった原因をつくってしまった場合。
所得・収益に基づく義務としての税のあり方について:
1.あらゆる所得・収益は、結局のところ、自然が生み出したもの、あるいは万物が協同の下に生み出したものであること、あるいは公共社会の資本(インフラストラクチャー)を用いることによってもたらされたものであることから、その利益・収益の大きさに応じて義務を負う、とする。
1.宗教法人も、収益(布施、献金をも含む)に対してその収益の大きさに応じて税金が課
せられる、とする。
なお、ここで提言する税制における納めるべき「私有財産」とは、現金、固定資産、自己の労働のいずれかを言う。
それは、それらのいずれをもってしても納税できるとすることで、「お金がなければ生きられない」、「現金を持っていなければ生活できない」とする呪縛や強迫観念からすべての人間を解放でき、三種の指導原理に基礎を置く環境時代の経済の理念を実現できるであろうと私は考えるからである。
こうした論理過程に基づいて、私なりに組み立てた租税の概略的な枠組みが次表である。
それぞれの項目についての税率は、既述の原理と原則に照らし合わせて決められるのである。
表−12.1 地域連合体内の租税の枠組み
最上位原理 |
次位原則 |
最上位原理と次位原則を実現させるための社会と生態系に対する社会各構成員の負担原則 |
||||||
負担の根拠 |
税金の使途と租税 |
その中でもとくに 負担の重い品目 |
負担度合いの根拠 |
補記 |
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人類存続のための三種の指導原理 |
都市と集落の三原則 と公平原則 |
直接税 |
環 境 税
応因 ・応責 の原則を適用 |
生態系の再生ないしは復元のために使われる |
取得税 |
・奢侈物品取得 ・投機的取得 ・高級自動車取得 |
奢侈品には重く、生活必需品には軽く。生存不可欠品は無税 |
従来の消費税に代わるもの |
保有税 |
・土地の私的所有 ・化石燃料で走る自動車 |
土地の私的所有は、生態系の連続性を損なう可能性大であるから。 |
従来の固定資産税に代わるもの |
|||||
・過多土地保有 ・偽装農地 |
同上。それに土地は単なる物品とは異なる。全生命の生きる基盤。 |
新設 |
||||||
排出税 |
・重金属 ・土に還り難い廃物 ・石油化学合成物質 |
生態系における物質循環を阻害し、毒物を拡散させてしまうため |
新設 |
|||||
・分解できない自動車と家電製品 |
|
新設 |
||||||
既存の都市と集落を持続可能な都市と集落に再構築するために使われる |
短期使用建築廃棄物税 |
・50年使用未満の住宅やオフィスの取り壊しに伴う廃棄物 |
環境への負荷の総量を減らし、土壌中の循環を促進し、土壌の浄化を図るとともに、都市ごと、集落ごとに自己完結の仕組みを持てるようにするため |
とくに税の優遇策は時限立法に拠る。 |
||||
土壌中の水循環阻害税 |
・土壌中に擁壁または巨大コンクリート構造物を構築した場合 |
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所 得 税
応能 ・応益の原則を適用 |
勤労所得税 |
・「天下り」「渡り鳥」官僚の所得 |
|
新設 |
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団体所得税 |
・社会貢献のない企業 ・宗教法人への布施 |
社会への貢献度、公益度に応じた減税措置あり |
従来の法人税、事業税に代わるもの |
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不労所得税 |
・相続金品、贈与金品 ・土地貸与賃貸料 ・株式や証券等の配当、同売買益 ・土地の増加益 ・駐車場賃貸益等々の不労所得全般 |
人間相互の経済格差を拡大する要因となるため |
従来の相続税、譲渡税に代わるもの |
|||||
|
さらには、上表には書かれていないが、従来の揮発油税(これは、昭和29年から平成20年までは道路整備に当てることを目的とした目的税だったが、平成21年度からは一般財源化された)は排出税に切り替えて廃止する。
また、これは税ではないが、自動車を保有する者が車検(車体検査)を受ける際には、誰もが金融庁に拠って強制的に納めさせられて来たいわゆる自賠責保険(自動車損害賠償責任保険)は廃止する。その根拠は、一言で言えば、もはや時代遅れの制度だからだ。
具体的には、①この制度は、自動車も少なく、道路事情も悪く、また社会全体も貧しく、死亡の伴う自動車事故を起こしても、十分な賠償ができないことが多かった、アジア・太平洋戦争後、間も無くしての昭和30年(1955年)にその骨格ができた制度で、すでに70年近く経過していること。②その当時は、事故を起こしても、損害を補償する民間の保障会社もほとんどなかったが、今や、無制限の賠償額にも対応できる民間の損保会社が各種できてきていること。③交通事故死者数も、昭和45年の16,765人をピークに、その後、傾向としては年々減少し、令和2年には2,784人にまで減ってきていること。④それに、この保険による保険金は最高額が3000万円であって、人を轢き殺したような場合、たとえそれが補助的な保険金の位置付けを持つ制度とはいえ、今や、億単位の賠償額が請求される場合があるのに対応できないこと。⑤そして、自動車を所有できるくらいの経済力のある人であれば、今の時代、民間の任意保険にも加入しうる経済力はあると考えられること。⑥それに、車検費用全体に占める割合は、自動車の種類が異なっても、概ね30%を超えていて、不合理であること、等々である。
極めてざっくりとではあるが、以上のことからも、この自賠責保険制度がもはや時代遅れというだけではなく、目的もわからなくなっており、それに集められた保険料の使途が極めて不透明となっているのである。
その根拠を明らかにするための計算を行う上で、次のような仮定を置く。
①現在、この国には、実際よりやや少なめに見て、二輪車を除いて、8000万台の自動車が走っているとする。
②乗合自動車などの車検は毎年であるし、新車の場合には車検期間が3年と長いが、ここでは、上記の全ての自動車の車検は、2年ごとに受けるとする。
したがって、8000万台の半分の4000万台が毎年車検を受けると同じことになる。
③その場合、車検時に納める自賠責保険料は、一台当たり、平均して3万円とする。
④一方、今や、1年間に起きる自動車事故による死者数は3,000人とする。
昭和45年には、死者数は、統計を取り始めて最大値の16,765人であった。
⑤その死者数に対して、自賠責保険からは、加害者に代わって、被害者あるいはその遺族には、自賠責保険金の最高額である3000万円が、決まって支払われるものとする。
以上の仮定の下に、自賠責保険制度の収支を計算すると、次のような計算式となる。
毎年、この自賠責保険を担当する金融庁に入る自賠責保険料の合計金額(1)は、
4000万台×30000円=1.2×1012円=1兆2000億円・・・・・・・・・(1)
一方、毎年、金融庁から交通事故被害者ないしはその遺族に支払われる保険金の総額(2)は、
3000人×3000万円=9.0×1010円=900億円・・・・・・・・・・・・・・(2)
つまり、交通事故死者数が毎年これよりも減少して行ったなら、少なく見積もっても、毎年、
1兆2000億円−900億円=1兆1100億円・・・・・・・・・・・・・・・(3)
ずつ余り、それが年々累積されてゆくことになる。
ましてや、自動車台数が年々増えれば増えるほど、そして交通事故死者数が減少してゆけばゆくほど、残額は多くなってゆくことになる。
しかし、その累積されていっている金額の明細や使途は、現在のところ、全く不明なのである。そしてこうしたお金が金融庁に蓄えられ続けてゆくことは、金融庁の既得権益を増大させることにしかならないのだ。
そしてこのことを、国会議員も、政府の閣僚も、誰もチェックをしない。
以上の結果より、もはや自賠責保険制度そのものは、即刻廃止すべきなのだ。
とにかく、今、この国の中央政府と地方政府が抱え込んでいる借金(政府債務残高)の合計額の対GDP(国内総生産で、2015年現在、およそ500兆円)比が230%(2.3倍)にも及ぶ国は、世界どこの国を見ても、日本以外にはないのである。
そんな世界最悪の国家の借金は、既述の考え方と方法に基づき、国民として、遅くとも2030年までに返済し切ることが是非とも必要であると私は考えるのである。なぜなら、その頃には、地球温暖化と気候変動に因る、前代未聞の様々な災害が頻発してくるであろうと推測されるが————実際、IPCCは、2020年からの10年間に、世界人類が温暖化阻止のためにどれだけ有効な対策を実際に打てるか、それによって人類が存続できるか否かが決まる、と警告を発してもいるからである————、そのときに、国民が、労働力減少の中で、その事態に総力を挙げて対処できるようになるためには、過去からの財政的負担から解放されている必要がどうしてもある、と考えられるからである。そしてそのことは、将来世代と未来世代から要求されている、と言うより、その借金をこしらえて来た先人を含む現在の私たち大人たちの責任と義務でもあるのである。